書くことの不潔 ――清水博子『街の座標』について

 清水博子は1968年に生まれ、2013年に逝去した小説家です。1997年、この記事で取り上げた『街の座標』で第21回すばる文学賞を受賞、その後『処方箋』で2001年に野間文芸新人賞を受賞していますが(他の候補作は佐川光晴吉田修一)計6冊の単行本を上梓した後、45歳という若さで亡くなりました。前々から興味のあった作家で、作品を読み進めていくうちに感想がまとまれば薄い本にでもするかもしれませんが、とりあえずはここに載せておきます。

街の座標 (集英社文庫)

街の座標 (集英社文庫)

 『街の座標』は第一に優れた散歩小説であり、第二に言葉の不潔をめぐる物語である。言葉の不潔とは、自らに何かがあるように語ることの不潔であり、自分から生理が如く産み落とされるものへの嫌悪である。それを厭う感覚とは通俗の拒否であり、通俗を拒むまさにその通俗への嫌悪でもある、とまずは要約出来る。
 小説は卒論が書けず留年した女子大生の「わたし」が、卒論の題材である(しかし実際には、一冊しか読んだことのない作家なのだが)中年の女流作家Iと同じ下北沢に棲んでいることに気付き、彼女が作中で描いた「S区S街」を思い出しながら実際の街を歩いていく場面から始まる。もっとも、「下北沢と呼ばれる界隈に下北沢という番地はなく、北沢と代沢と台田が合体すると下北沢という商業地」になるわけで、「座標」で描けるような正確な区域があるわけではない。また、作中に書かれた公園や映画館は、たとえ実際に住んだところで「世界のどこにでも存在しうる、通俗的なのにけして手の届かない場所」という感想を消してはこない。現実と、書かれた世界の間を歩くような、「千鳥足の散歩」が始まる。
 むず痒い。今その地点を歩いているはずなのに、いつまでたっても「S区S街」には辿り着けない。そこは言葉の世界、他人の眼の内側でしかないから当たり前だけれども、聖域に対するような「畏れ」が産まれてくる。それを克服しようと小説の言葉を引き写したところで、「いま栖んでいるこの街とすでに書かれたその街との溝を際立たせ」るばかりであり、「下北沢との間にたゆたう水域」に溺れるばかりだ。
 自分はこの街を歩いている。小説家が書いたような何でもない食べ物屋は「新宿から南へ下る小田急線をY軸、吉祥寺へゆらゆらと延びる井の頭線をX軸」の上の、確かな一地点として座標軸で表せはするが、私の眼では見尽せていない何かがある。それは、ある場所を言葉で書くうえでなにか漏れ落ちるものがあるのではないかという躓きの感触に近いだろうし、書いても書いてもその場所の本当の息遣いには近付けない、という禁欲に近い呆然がある。それ故に、『街の座標』は優れた散歩小説である。不潔といやらしさにおいてまったく肌色が異なるけれども、たとえばこんな部分に、須賀敦子の散歩随筆を思い出してしまう。

 真夜中に悪戯心をおこして区民会館の最上階へ探検にいったことがある。廊下には蛍光灯の消えた希薄な暗闇があるだけで、これでは幽霊も寄りつかない、とむくれていたら、警備員に誰何された。下北沢は高層の建物や広い道路がなく、入り組んだ路地のどこにでも一日中ひとのけはいがあり、陽光さえ人工的で、明暗のめりはりがない。絵になりにくい景色だとおもう。歩道に面した軒に降りやまない雨の雫のようにぶら下がった洋服は、新品もあればひとの袖をとおったのもあり、高いにしろ安いにしろ基準の曖昧な値段が付いている。おなじ商品でも都心でみるのとは質感がちがい、下北沢の衣服はどれもこれもよじれたりすれたりしてひやかし客にまで媚を売っている。(p.9)

 細部を書き尽せていない、というのは奇妙な感覚だ。小説の、物語であれば、話を作るうえで当然必要な挿話はある。しかし描写においては、書いても書き尽せていない、と読む側が気にすることは滅多になくて、書く側のむず痒さでしかない。自分は書けていない、という信仰に似た自分の内側からの声でしかないはずだ。文章が下手だ、と指摘するのはともかく、描写が乏しい、は難しい。文体への信仰とでもいうのか、言葉へのこだわりがある人間の文体は、当然の如く精緻である(須賀敦子に次いで挙げるなら、たとえば中井久夫)。祈りで美し過ぎるのであれば、偏執である。当然のように、わたしは言葉が書けない。
 書くことのコストが大き過ぎるし、踏襲出来る過去の自分もないのである。
 たとえば、歯科医院で、問診票を書き込む場面である。

 治療上の質問を書き入れる番外欄の、その細い罫線で囲われた枠内の白さが黒眼に沁み、どんよりとまどろみが降りる。(……)なんでもいい、はったりでもお追従でもいいから、不格好な楕円以外のものを書きたいはずなのに、文章がどうにも浮かんでこない。あたまのなかの基礎的な部分がじんわりと甘くしびれている。(……)道化の自身ならいつでも捏造できるという余裕があっての白紙と、法螺さえ吹けぬ結果の白紙とでは、紙の白さがちがっていた。(……)白い紙に鉛筆の芯を押し当て文字のかたちに黒い微粒子を残していくことと、黒く蝕まれた部分を金属の尖端で削り取って白い歯を掘りあてていくことは、本質的におなじではなかろうか(……)(p.20)

 この小説では、書くこととは不潔な感染巣を削り取り、「白い歯を掘りあてていくこと」になる。

 同好会の会報になにか載せないかと誘われ、書きたいことなんかない、と断ると、旅行もしてなさそうだものね、と憐れまれた。旅行の感想をわざわざ作文にしてひとに読ませるなんて卑しいじゃない、と悪態をつきそうになるのを堪えて、ほかのひとはなにを書いているのかと訊ねると、だれそれは外国で貧乏旅行をした話で、だれそれは爬虫類のペットの話、最近観た映画とか、好きな音楽のこと、とつぎつぎ並べられ、だれもかれもどうしてそんなに書きたいことがあるのかと胸が悪くなった。文章が書けないという事態に陥って気づいたのだが、これまで書きたいことなどなにもなかったし、これからもないのだろう。(p.23)

 それらはある種の感染のようなものでしかないし、新聞の読者投書欄は「気色の悪いもの」なのだ。そこには削り取る言葉はない。ただ会報になにか載せないか、と誘われたとき、人が反射的に書くものでしかない。なにかを掘り進めるのではなく、ただ周囲に漂うものを手当たり次第に掴んで書くような行為は、卑しい世俗なのだ。わたしにとって、正しい水準で「書きたいことなんかない」し、さらに「あったとしても」果たして自分が「掘りあてて」いけるかはわからないから、「たとえあったとしても綴れない」。自分には書きたいものがないと、「自分の感受性」を信じず、ただその眩い空無を前にしたからこそ、何故か産まれてくる言葉がある。私は清水博子の小説家以前の年月を知らないが、索漠とした時間は、あっただろう。
 小説を書けない、という小説が書けるのは小説家の特権である。そのような声を漏らすこと自体、なにか甘ったるい陶酔のような気がしてくる。小説家以前では、知るか、で終わって当然であるし、またそのような小説が面白いかというと、少なくとも私は傑作を知らずにいる。私=清水博子が本当に書けなかったのは、卒論ではなくて小説だったのかもしれない。あるいは、小説を卒業するための、告別の言葉である。人はそんなに簡単に小説を卒業できず、「留年のリュウは留まるじゃなくて流れるの流」とあるように、無意識にでも流年を繰り返していく場合が多いだろうけれど。
 そうした嫌悪がありながら、一方でこの小説は「外国で貧乏旅行をした話」と相違ない、五年目の女子大生の、モラトリアムについて書かれた文章でしかない。これが作者自身の私小説かは分からないが、ともかく自分語りであるのには違いない。世俗を厭うことには、必ずその世俗を拒む己への嫌悪が付きまとう。

 小説のわたしには、生理への嫌悪がある。女性作家は生理と出産があるからずるい、と野蛮なことを口にした年上の人間を知っているが、自分の身体の一部が、不潔な排泄物として流出していく行為に、わたしが自分語りに、引いては言葉で書く、ということ自体に抱く不潔さの根がある。
 もちろん生理には痛みがある。それ以上に不潔なのだ。小説家Iと飲み会で会えるかもしれない、と急ぎで出かける準備をするとき、「内腿を経血でこすって」いるのに気付く(p.71)。消臭効果のある生理用品が切れている。「小説家は音感は悪くても鼻は利くかもしれないとあらたな懸念が生じ」てくる。便や尿と同じように、自分の内側から出てくる、不潔で、臭い立つ排泄物なのである。糞便や尿が初めての人間の生産物である、というのは今更だけれども、生理には別の重みがある。経血は後から垂れ落ちるものであり、単なる消化の残骸などではなく人の肉体の断片そのものであり、翻って身体の不浄を恐怖させるものである。生理への嫌悪は、文字という、後から、人の内より切り離されて書かれるものの不潔さに通じてくる。

 図書館のような一見無機的でそのじつ強靭な欲望が渦巻いている空間では、ひとりよがりにやさぐれた思考は行き場を失って暴走しがちだ。こんな埒もない妄想にかかっている場合ではない、なにしろ卒論を書かなくてはならないのだからと正気をとりもどし、本を開く。(……)こんどこそ小説のはじまりがはじまるはずと頁を広げると、縮れた黒い毛が一本滑り落ちた。どこのだれとも知れぬ他人の躰の、どの箇所に生えていたかもわからぬ毛根に蜜色の脂をつけた抜け毛に総毛立ち、すぐさま小口に指をかけると、ざらりと音がして、こんどはひとつかみもの毛の束が素足の膝にこぼれた。立ち上がって毛を払い、おそるおそる紙の端をつまむと、偶数の頁が奇数の頁から浮いた瞬間、針山の詰めもののような毬状に固まった毛玉がリノリウムの床に転がり、頁にはまっさらな白紙があらわれた。読まれることを拒絶した文字たちが、頁をめくるはしから毛と化して抜け落ちているのだった。(p.100)

 ここには壊れた論理がある。経血は不潔であり、後から自分の内側より生産されるものである。言葉は、後から、自分の内側より生産されるものである。故に言葉は不潔である。経血と文字を不潔さで繋ぐのは性毛であり、図書館は欲望の空間として見定められる。文字が読まれることを拒絶しているのではなく、そもそもわたしが文字の不潔さから読むことを拒んでいる。だから私はIの小説を一冊しか読んでいないし、またそれも読むというより書き写すというほうが相応しい。私は小説を読むのが嫌になったとき、しばしばわたしと同じように小説を書き写していたが、あれは読むことの回避だったのだろう。
 『街の座標』には、「いったん散歩を怠るとずるずるべったり十日も入浴しないていたらくで、外出もしなければ本も読まず、厚く温く汚れていく皮膚の繭」や、チョコレートの「黒い粘液」で汚れる鞄や、中華料理屋で出される「灰色でべちょべちょしたものと卵の炒めもの」といった不潔な描写が連続する。それはわたしにとって、まず何よりも言葉が不潔だからである。言葉の不潔の嫌悪、そしてそれ故に芽生えてくる、書き進めた先の「白」への信心じみた憧れこそが、『街の座標』を司る力学である。【了】

可能性を聴く(創作合評と読書会について)

 二年ぐらい読書会と創作合評を足し合わせたイベントをやっている。プログラムを先にまとめておくと、
①近年、出来ればその年の文学賞受賞作を課題作として読んでもらう。
②読みながら、あるいは読んだ後に小説を書いてもらう。小説を最後に書いてから間が空いている場合は、課題作を参考に書くことを薦める。
③書いた小説を提出してもらい、互いに感想を書き合う。
④読書会、および創作合評で課題図書や自他の作品について話し合う。司会が合評記録をPCで作成する。
 したがって、小説を提出した参加者はそれなりの質が担保された現代小説を読む経験と、他参加者からの感想、および合評の声の記録を得ることが出来る。目的は参加者全員の可能性を引き出すこと。そんな会だ。

 創作合評というのは普通には通じない言葉で、参加者が自分の書いた小説の感想を会の参加者から対面で受け取るイベントである。これは私が昔加入していた文芸サークルで定期的に開催されていたことで、文化祭とか折々に発行する部誌への投稿作を吟味するのだった。たぶん全国の文芸サークルや同人でも同じことをやっているだろう。
 ただこの創作合評というのが何かと苛烈になりがちで、それが苦痛で小説はもう書かないと言った人もいる。他人事のような書き方をしているが、私も意図せずして同じことをした相手がいるに違いないし、絶対に他人の人格や才能を否定するようなことを口にしていたと思う。
 自分でも嫌な話だが、他人の作品を否定するのは気持ちよかった記憶がある。否定は快楽だ。ただでさえ若いとなるとこうでなければ全部だめだ式の極端な思考に陥りやすくて、そこに否定の快楽が結びつくと制御が利かなくなる。
 何故そうなるのか。
 していたに違いない身でこんなことを書くのも酷いが、そういった快楽を伴う悪行は、基本的には誰かが止めない限り加速する。際限なくそれを繰り返し、沈黙を強い、抑圧する。こういう事態を防ぐには抑止力が必要なのだが、それで一番上に立った人間が否定の方角に走るのであれば、単に首を挿げ替えただけの話である。

 つまり、創作合評には参加者全員にとっての天井がなくてはならない。結果的にそうなったのだが、創作合評と現代小説の読書会を組み合わせた催しを始めて、文学賞受賞作がその天井となった。
 作品は現代小説の、それも非公募の文学賞受賞作に絞った。理由はいくつかある。
 ①流通上、だれもが手に入れやすい。
 本に金を払う余裕がなければ、図書館で入手することも出来る。
 ②誰が見ても自分の小説よりはよく出来ている、と自然に思える。
 少なくともその可能性は高い。まずこの認識がなくてはそこから学びようがない。
 ③選者の好みが反映されづらい。
 非公募の、それも文学系の賞に限っているという偏りはあるが、そのなかでも複数の選択肢がある。大雑把に現代小説を読む、というのではどこから手をつければいいかわからず、結果的には選者の好みを反映したものにしかならない。私はかなり保守的な好みなので、そんなことをすると毎回古風な小説を読む羽目になる。今年の読売文学賞のように、文学賞といってもエンタメ出身の作家の作品が受賞することもある。
 ④文学賞の受賞作は、安心しやすい選択肢である。
 それだけでなんとなく真っ当な、コースから外れていないという安心感がある。そんなもの文芸の発想じゃないと言われればその通りだろうが、人とやるイベントなのだ。安心感は大事である。「現代文学はこんなものか」という手触りを、少なくとも得た気になることが出来る。これは今後同じような現代小説を読む上で不安感を減じるだろう。居た環境が特殊だったのだろうけど、読書好きの学生はおおむね古典好きで、現代小説に対してはある種軽蔑に似た感情すら持っている者もいた。それは、もったいない。
 ⑤課題図書の話は他の読書好きにもしやすい。
 ともかく文芸の世界に限れば有名作なのである。これは会が終わった後に、同じような現代小説を読む人間とのコミュニケーションに役立つ。大事なのは会だけでなく会が終わったあとである。
 あるいは、「最近面白かった本はありましたか」という、意外と困る質問にも答えやすい。
 ⑥適度な長さである。
 おおむね200-300ページぐらいが多いはずである。古典的で異常な例外に小島信夫の『別れる理由』があるが、それは課題図書のリストから外せばいい。あまりに長いとなると分けて読むことになるだろうが、最初から五回も六回も出席が必要になりそうな回というのは参入しにくく、退出しづらい。学問の場を私はまともに知らないので、そういう修練なら話は別なんだろうけれども、日常の会のレベルでは不必要な息苦しさを産む。
 ⑦適度にケチをつけられる、参加者全員がだいたい理解出来る内容である。
 文学賞を獲得した小説でも人によって面白い面白くないがあるのは当たり前で、その面白くなかった理由を自ら分析し(自分ならああするこうする)、出来ればすぐ実作で試し(これは創作合評に出せばいい)、さらに他の参加者と集団で吟味してみる。ある人間の違和感がその作品の批判として仮に正当でなくとも、別の聞き手の心にぐっと沁みることはあるわけで、それもまた小説の糧になる。
 読書会というと、たとえばプルーストのような、一人ではなかなか読み通せないものを読み合わす試み、というイメージが個人的にはあるのだが、大作家というのは死んでいても批判しづらい。面白くないとなかなか言い出せない空気がある。素直にわからないと言ってしまえばいいのだが、読み解く努力を怠っている、素養がない、センスがないと思われやしないか、とつい不安に思ってしまう人がいる(私はもう今更自分の素養やセンスがなくてもどうでもいいのでわからないというが)。そういう恐れは文学賞受賞作にはあまりない。ある場合は司会が積極的に解消すべきであって、「わからない」を禁句としてはいけない。まず司会にわからないところがあってよい。
 文学賞という天井は十分高いが高すぎても途方にくれるだけだ。新人賞はある種の人々に激情、端的には嫉妬を誘発させてまともに読めなかったりするので、これも選ばない。「なぜこんな小説が選ばれて自分は選ばれないのか」という感情は、冷静な分析に転じる可能性はあるが、決して高くないし、時間を要する。

 読書会と創作合評を組み合わせるメリットは、読むリハビリである。それは書くリハビリよりも先に行うべきだ。
 多くの人間は最後に小説を書いてから時間が空いている。書く人はしばしば小説を書いたほうがいい、とは思っているが目標や区切りとなる締切を設定出来ない。これはごく自然なことで怠惰ではない。書くことは面倒であるし、しかも何故か「小説は書かないより書いたほうがいい」という(よくよく考えると)理解不能な信念が産まれやすい。
 おかしな話だが、間延びした焦燥が発生する。だから、書くきっかけとしての締め切りには需要がある。
 こういう状態に陥ると、そもそも小説を読めなくなっていることが多い。たぶん大多数の人間は小説を読んだからこそ書いたので、再び書き始めるには読み始めたほうがいい。これは人が話していたことの引用だが、小説の勘所というか、小説の文章を書くうえでの身体的な感覚というのはやはりある。
 「ああ、こうやって小説は書くんだよな」と、思い出してもらわなくてはならない。
 まずは短編を書いてもらったほうがいい。間を置いてから小説を書き始めようとすると短編が精いっぱいであって、感覚を取り戻してくれば自然に長くなる。逆に長くなりそうで作品提出の締め切りに間に合わない、というのは良い徴候であって、会に出すためだけに発展の可能性を潰すべきではない。書き終わらない、というのであれば次回もしくは次々回にもまた参加して、そのときに完成していれば読ませてください、というぐらいでいいと思う。第一稿を手直ししたものを次の会で見せてもらうのもいい。

 最初は課題図書を読んでから書いてもらうようにしていたが、今は読みながら書いてもらうようにしている。実際に自分が小説を書くプロセスと重ね合わせると、そのほうが自然だと感じる。私はスポーツとはまったく縁がないけれど、何十年分の試合のビデオを全部見てから練習するということはなくて、練習しながら、映像を見ながら、の同時進行なんじゃないか。
 何も書くことが思い付かなければ、ともかく課題図書の物語や題材を転用してもらう。舞台、登場人物の設定、書き出しの一文など。二百枚、三百枚の小説を三十枚に自分で書き直してみる、というぐらいの試みもいい(途中から必ず原作とは違うところが出てくる)。
 読書会と創作合評を合わせる利点は、書きあぐねたときに参考に出来る手本があることである。

 場所は大きな本屋のそばを選ぶ。前は高田馬場で、今は池袋でやっている。会が終わって、次の課題図書を決めたときに、帰りにすぐ買えるからである。文学賞の受賞作が置いていない、ということはあまりない。
 時間は、課題図書については二時間、参加者の提出作については一時間を最低限は想定する。読書会、創作合評、の順番で行う。会に来たばかりの人間はしばしば緊張していて、まず人前で発言すること、小説について話すこと、人の発言を聞くことに慣れてもらわなくてはならない。したがって、その場に作者がいない小説、つまりは安全に語りやすいものの話から始める。別にアカデミックな場でもなんでもないので、明らかな誤読があったとしても私は無視するか、「それはこれにこう書いているから、こうかもしれない」とやんわり訂正するに留める。「絶対に違う、こうである」と司会が強烈に否定してしまうと、その人が次に発言してくれる可能性はぐっと下がる。
 課題図書と提出作を読んで感想を書いてもらう期間は、一週間とかなり切り詰めてある。完璧な感想を書く必要はないし、わからなければそれは会で互いに話せばいい。まず読んで、その時点で言葉に出来るものを書いてもらう、ぐらいのものである。小説を書く時間は三週間から四週間、としている。

 会の目的は可能性を拓くことである。
 第一には参加者自身の可能性であり、第二には作品の発展可能性である。司会をやる上で必ずそれは心がける。作品批評をするときに作者の人格とか人生の否定をしてはいけない、というのは簡単に過去は変えようがないからであって、そういう批評は端的に書き手の発展、改変の可能性を潰している。またこの小説はまったく駄目だ、と言い捨てるだけでもその先に何も起こりようがない。この小説のこういう部分にもっと発展出来る可能性があるのではないか、と具体的に言及すれば、少なくとも次の指標にはなる。
 これは司会だけではなくて参加者全員に考えてほしい。書くことは挫折の連続だ。これ以上発展しようがないとしか思えないものに僅かな道筋を拓いていく試みである(私は文芸に思考の関心が寄っているのでそう思うが、別に文芸じゃなくてもそうだろう)。したがって、他者の可能性を読み、その発展を促すことは、ほかならぬ自分の可能性を読むことに通ずるだろう。また私の経験する限りでは、他作を全否定する人間は、確かにラディカルであるということの美しさ、格好良さはあるかもしれないが、どこかで完全な自己否定に転ずる危険さがある。あるいはそうならないために(創作の領域、あるいはそうでない領域において)常に犠牲者を必要とする。
 大事なのはあくまで部分的な否定と部分的な肯定だ。その両輪なくして可能性は動かない。

 いささかコントロールし過ぎかもしれないが、私は参加者の発言には合いの手を入れる。
 合いの手、というのは人は小説の感想を語る最中にしばしば言葉を詰まらせるからだ。感想には明確に言語化出来る部分と、体感の域に留まっている部分に分かれる。前者は、もしかすると誰にでも語れるものかもしれない。
 後者を言葉の次元に持ち上げてくることが大事で、そこに可能性がある。
 その沈黙のところに、「今ここまで話してきたことをまとめると、こういうことでしょうか」と差し挟む。単なる同語反復でかまわない。喉の詰まり、舌の硬直が和らぐまで時間を置く。もちろん話し方は性急であってはならない。
 ゆったりと、柔らかく、相手の凝りをほぐすように話すべきだ。
 即座に結論を引き出そうとしては、かえって緊張を悪化させる。
 あるいは、ポジティブに、建設的に、達成可能に聞こえるように、意図して言葉を整え直すこともある。強烈な否定のうちにも肯定に通じる道筋がある。その可能性を読むよう努める。この作品はまったく駄目だ、というのを本人の前で突き付ける人がいるならば、まずはどこがだめなのか、と否定の部分を明確化しなくてはならない。解決可能な課題を取り出さなくてはならない。そういうラディカルな意見は、未完の感想と見なす。そこからまず可能性を汲み取るべきは司会であって、うまく語ること、建設的に語ること、を参加者に求めるのは過剰要求だ。

 ずっと昔、東北出身の女の子が、方言の文体で雪が降ったときの様子を描写しただけの短編を提出したことがあった。私は好きな小説だったが、参加者のひとりが「方言はずるい」と言い出したことがあった。
 ずるいって何だよ、と思いながらとりあえず聞いてみる。
「ずるいとはどういう意味?」
「……ずるいんです」
 それ以上の言葉が思い付かないようで、私はその発言はさっさと流すことにした。要は「お前は分かっちゃいない」という態度で黙殺した(私もわかっていないのに)。でも本当は、こんな風に言葉を挟むべきだったと思う。
「ずるいというのはどういう意味かまだよくわからないから一緒に探っていきたいんだけれども、ずるいというのはともかくなにか違和感があって、この小説にはその違和感を解消してくれるだけの何かがまだない。たとえばそのずるいというのは、小説自体に中身がないように思えるのを、方言、という特異なものでごまかしたように見える、ということだろうか。裏返せば、この小説は現時点で方言による語りの習作、描写、というところに留まるから、さらにそれで物語が書けるかどうか試したほうがいい、という風に言えるかもしれない」
 ここまで来るともう捏造の域に近いかもしれない。私は常に無難な結論を取る性質であるから、穏当に可能性を残すように話を読み替えてしまうところがある。おそらくこの人の「ずるい」には、方言とか共通語とか、そういった言語の制度への自論、感覚としてのこだわりがあったのだろうが、まだそれを明晰に言語化出来る段階ではなかったのだと思う。なので、ひとまず発言者を部分的に納得させつつ、書き手の今後の達成可能な課題を提示する。たとえ現時点で達成不可能な要求がなされたりとしても、それを達成可能な形に整形するのは司会の仕事だと思う。
 細かいところだが大事なのは「まだ」である。「まだ」は未来の達成を示唆する。

 「この登場人物のこういう話を書いてみたらどうだろう」という提案も私はよくする(これは参加者として)。その方言の小説の細部は覚えていないけれども、たしか小学生の女の子が雪の降る日曜の昼、一人で留守番をしている、だったように思う。書き手が「ここからどう書けばいいかわからない」と言えば、「たとえばこの小学生の主人公は普段からよく留守番をしているのか。そこから家庭環境がどういうものか書き込むことが出来るし、雪にこれだけ着眼するのであれば、主人公に雪と関連する印象的な記憶があっていい。それから、このまま部屋から動かないのであれば物語の始まりようがないから、親が忘れ物をしたから駅まで持ってきてほしいとか、だれか友達が誘いに来たとか、そういう第三者からの呼びかけがあればいいかもしれない」ぐらいは答える。
 無難に書きやすいのは現在より過去であり、能動より受動である。小説の出だしからいきなりハイスピードな展開を求めるのは書く側の過大要求であって、そういう幸運が来ないのであればまずは地道に歩き始めるしかない。読み返して、あまりに小説が動き出すのが遅いのであれば、削るか順番を変えればいい。
 司会がこんな部分を書いたらどうだろうか、という選択肢を複数並べれば、いちばん気の向いた課題には取り掛かりやすい。自分自身のセオリーの確認にもなるだろう。それは自分が同じ停滞に陥ったときの、記憶の道標になる。

 参加者の発言は合評記録に残す。出来れば使うスペースにはモニターやPC(後者はなければ持ち込み)が欲しくて、参加者の発言がリアルタイムに整えられていくのを発言者本人に確認してもらったほうがいい。ホワイトボードへの記載とか、録音とかも試したことがあるが、前者は写真を撮ってもなにがなんだか思い出せないし、後者は長過ぎて聞いていられないし、ノイズも多すぎる。出来る限り、合評記録はまとまった文章ファイル形式で残すべきだと思う。
 ここまでの例であれば、まず最初の「ずるい」は次のように書く。出来るだけ、明るい促しの文体で記録する。
●方言による文体、という試みがある。現段階では習作で、描写の域にだけ留まっている。同じ文体で物語を書けるかどうか、今後試していってもいいのでは。
 という具合に。
 議論の途中でこの人が重要な発言をしたのであれば、同じところに記載を続ける。参加者は、前の人間と同じことを言っていいのか、と気にしがちである。最初からいきなり新奇な発言をするのは難しい。エンジンを温めるように、水泳の前の準備体操のように、ありふれた発言だって必要である。なので、同じことを言ってもそれは感想には違いないんだからとにかく言ってしまいましょう、複数がそう思っているという事実も大事だから、という。
 安心させるために、たとえ同じことの反復でも目の前で記録する。
 記録は建設的な発言を中心に行うべきだ。強い否定は、私は意図して外す。人に傷を与えるほどの発言はわざわざ記録にしなくても心に焼き付くし、そんなものを文章にしてまで反復させる必要は断じてない。合評記録は、まだまだこの小説は発展させていけるんじゃないか、と書き手に信じさせる可能性の護符であってほしい。

 参加者には一人で感想を述べてもらっている。まずは、いちばん緊張していそうな人から話してもらうようにしている。そういう人が、絞り出すようにして発する言葉を丁寧に聴取することが、会の空気を決定付ける。喋りたくて仕方がない、とにかく聞いてほしい、という熱がある人は後回しで、言葉の温度が冷えるまで待ってもらう(こういう熱心な人が居てくれることは間違いなく有難い)。
 本当はこういうことはないほうがいいが、司会が特定参加者に陰性感情を有している場合は、最後に順番を回すことを勧める。陰性感情は時間を置けば必ず改善してくるものであって、初手からいきなり衝突する必要はない。
 読みながら思い出した本があれば、ぜひ参加者に話してもらったほうがいい。したがって、事前に読みながら思い出す本があれば記録しておいてください、と説明する。こういう技法がこの小説にもある、というのでもいいが、奥さんが死ぬ小説だからこれを思い出した、程度でいい。読書会は人と出会う場であるし、新しい本と出会う場でもある。別に強く薦めてもらう必要はなくて、さっと会の途中に名前を出してもらう程度でいい。本の名前を知っておくだけでも読む可能性に繋がる。合評記録の最後には話題に出た本の名前を記録しておく。
 無関係な話でも、小説の糧になりそうであれば続けてもらう。このあたりは司会の好みが大いに反映されそうであるが、以前、少年犯罪が要素として登場する小説を課題図書にしたとき、少年刑務所の技官として勤め始めた、という参加者が仕事の話をしてくれたことがあって、その記憶が濃く焼き付いている。今すぐ役に立つ話でなくとも、記憶の渦に放り込んでおけば、いつか小説を書くときに立ち昇ってくるかもしれない。また、そういう話を出来るゆとりが会にあるのは、良い徴候だろうと思う。

 書く人にとって最大の幸福は書き続けられることだ。それは、おそらく単独の力でなし得ることではない。
 ここに書いたのはあくまで現時点での方法論なので、今後も発見に応じて適宜改定していくつもりです。もし興味が湧いたのでしたら、このブログのなかにも会の告知記事がありますので、ぜひ一度気軽に覗いてみてください。
 また、どなたか同じような会を開いてくれるのであれば、ぜひ呼んでいただけると嬉しいです。行きます。

8.11 東山彰良『僕が殺した人と僕を殺した人』読書会+創作合評のお知らせ

 文学賞受賞作の読書会、および出席者の中短編の創作合評(第三回)を開催します。
 課題図書について話し合いながら、自作の感想をもらいましょう、というコンセプトのイベントです。自作の感想については、①他参加者(最低3人)による感想、②合評記録をファイルでお送りします(後日例示します)。

 

 対象層としては、
「現代小説がどういったものか読んでみたい」
「自分の小説の感想が欲しい」
「すでに書いた小説の、手直ししたものを読んでほしい」
「長らく小説を書いてこなかったが、再び書き始めるきっかけが欲しい」
「自分ではなかなか書く気になれないから、締切が欲しい」
「とにかく小説を読み書きする人と話したい」
 という方を想定しています。

 

 予定は8月11日(土)の昼から、場所は池袋を予定しています。
 課題図書は2017年織田作之助賞、および2018年読売文学賞受賞作、東山彰良『僕が殺した人と僕を殺した人』(文藝春秋・1700円/電子版1300円)です。

僕が殺した人と僕を殺した人

僕が殺した人と僕を殺した人

 

 
 参加表明の締切は7月1日(日)です。novelgathering4096@gmail.comまで参加希望の旨御連絡ください。
 それ以降参加したくなった等々のお問い合わせについても、まずはこちらによろしくお願いします。
 ご連絡いただいたメールアドレスに、freemlメーリングリストを用いて連絡します。
 書いていただいた小説や、課題図書・他作への感想についても、メーリングリストアップローダーに提出します。
 
 参加者については、事前に
①7/8(日)までに課題図書の感想
②8/5(日)までに中・短編小説(下限10枚~上限100枚、それ以上は要相談)
③8/10(金)までに他作への感想
 を提出していただきます。他作への感想については、特に枚数下限はありません。
 
 作品の条件は、
①課題図書を読みながら、または読み終わった後に書かれた小説
②3か月以内にひとまず完成していて、課題図書を読み終わった後に手直しされた小説
 のいずれかとします。また、前回の会で提出されたものと同内容の小説も、②の条件を満たしていれば問題ありません。なお、ジャンルは文芸・エンタメ問いません。
 継続的にリライトして中編を完成させていきたい、という方の連続参加もお待ちしております。連作短編の一部でも、単独で完成されたものとして読めれば構いません。
 ただし、二次創作、未完の小説についてはお控えください。②で提出枚数が100枚を超えることがあらかじめ分かっている場合につきましては、novelgathering4096@gmail.comまで参加表明時に作品をお送りください。

 

 主宰としては、最後に小説を書いてから間が開いている、という方は課題図書を参考にしながら短編をリハビリ感覚で書くのをお勧めします(課題図書の設定、書き出し、文章表現を取り入れるなど)。
 また、書いている途中で「これは長く書けそうだ」と感じた場合は、無理に短編の枠に収めることなく、次回、次々回に正しく完成された形で提出することを推奨します。

 

 合評会は、端的に感想の言い合いであり、書き手の可能性の発展を促す場だと考えます。
 具体的には、「この人はこういうところが優れている、持ち味である」「ここはこうしたらもっと面白く書けるんじゃないか」「こうすればもっと長く書けるんじゃないか」というところに主軸を置きます。「こういう小説を参考にしたらもっとよく書けるのではないか」というのもその一環です。「この作品を読みながらこんな本を思い出した」ということがあれば、ぜひ当日お話いただければと思います。
 他人の可能性を見出す力は、ほかならぬ自分の可能性を信じる力に通ずる、というのが私見です。

 また、合評時はレンタルスペースのモニターを用い、リアルタイムに合評の記録を付けていきます。この合評記録については、後日ファイルでお送りします。課題図書の読書会は2時間、各提出作の合評時間は概ね1時間を予定しています。
 
 書いた作品をどう使うかについては、当然書いた人間の自由です。
 どこかに投稿するなり、文フリ等の原稿の下地にするなり、公募に出すなり、自由です。

 参加費については、レンタルスペースの場所代÷人数分を予定しています(概ね500~1000円以内に収まりそうです)。定員は現時点ではありませんが、募集人数が予想以上に多かった場合は抽選とします。
 スペースを借りる関係上、予定が付かなくなった場合は会の一週間前までにご連絡いただけると助かります。

 

 学生・社会人問わず大歓迎です。
 インターネットから参加者を募っていますので、仮名・筆名での参加でも問題ありません。
 私と2人、最低3人は出席予定です。よろしくお願いします。

6.23 高橋弘希『日曜日の人々』読書会+創作合評会のお知らせ

「課題図書を読んだ後に書かれた小説」をテーマに、中短編の創作合評を開催します。
 課題図書を読んだあとに自分の小説を書いて、読み合って、自作の感想をもらいましょう、というコンセプトのイベントです。
 予定は6月23日(土)の昼から、場所は池袋を予定しています。
 課題図書は2017年の野間文芸新人賞受賞作、高橋弘希『日曜日の人々』(講談社・1400円)です。

日曜日の人々

日曜日の人々

 

 
 参加表明の締切は5月20日(日)です。novelgathering4096@gmail.comに、御連絡ください。それ以降参加したくなった等々のお問い合わせについても、まずはこちらによろしくお願いします。
 ご連絡いただいたメールアドレスに、freemlメーリングリストを用いて連絡します。書いていただいた小説や、課題図書・他作への感想についても、メーリングリストアップローダーに提出します。
 
 参加者については、事前に
①5/27(日)までに課題図書の感想
②6/17(日)までに中・短編小説(下限10枚~上限100枚、それ以上は要相談)
③6/22(金)までに他作への感想
 を提出していただきます。他作への感想については、特に枚数下限はありません。
 提出作品数が多い場合は、感想を書いていただく作品を割り振ります。
 
 提出作品については、枚数上限を100枚、下限10枚とします。
 作品の条件は、「課題図書を読んだ後に書かれたもの」「完成された小説」の二点です。したがって、その小説から得られた何がしかを込めて書かれた小説、たとえばその小説の技法・文体・設定を転用したもの、たとえばその小説の二次創作が該当しますが、「後」でさえあれば、どのような小説でも構いません。
 また、「課題図書を読んで書き直した小説」も可とします。前回と同内容の小説のリライトも含みます。継続的にリライトして中編を完成させていきたい、という方の連続参加も問題ありません。
 連作短編の一部でも、「完成された小説」であれば構いません。
 別ジャンルの二次創作、未完の小説についてはお控えください。
 枚数上限を大幅に超えそうな場合も、novelgathering4096@gmail.comまでご相談ください。

 第一回目松浦理英子『最愛の子ども』を課題図書としています。その際の私の短編を作品例として掲載しますので、気になるようでしたらご参照ください。やや文芸寄りのサンプルですが、ミステリ、エンタメの作品もお待ちしております(前回もミステリの作品を提出していただいた方がいます)。

 合評会は、端的に、感想の言い合いです。
 この小説と課題図書はどう違うか、この小説で躓いている点を、課題図書であればどのように処理しているだろうかに着目することもあれば、課題図書を離れて話し合うこともあるでしょう。
 
 書いた作品をどう使うかについては、当然書いた人間の自由です。どこかに投稿するなり、文フリ等の原稿の下地にするなり、連作短編として公募に出すなり、好きに使っていただければと思います。

 参加費については、レンタルスペースの場所代÷人数分を予定しています(概ね500~1000円以内に収まりそうです)。定員は現時点ではありませんが、募集人数が予想以上に多かった場合は抽選とします。
 スペースを借りる関係上、予定が付かなくなった場合は会の一週間前までにご連絡いただけると助かります。

 学生・社会人問わず大歓迎です。インターネットから参加者を募っていますので、仮名・筆名での参加でも問題ありません。
 私と2人、最低3人は出席予定です。よろしくお願いします。

『十年の金色』(松浦理英子『最愛の子ども』読書合評会提出作)

『十年の金色』

 

 彼女が死んだことを聞かされたのは、六月の終わりだった。私たちは、まあ、そうかなあ、というぐらいの平易な気持ちでそれを受け止め、葬式の日を手帳に書き込んだ。言わずもがな、死んでから何を思い返しても遅いので、私たちは斎場で互いに再会したところで、雪野瑞枝の思い出話をしようとはしなかった。
 ただ、雪野と在学中に交際していて、卒業後もわざわざ東京の大学まで追いかけていって同棲した春川葉子のことは気にして、あの子居た? と互いにひそひそ声で話し合ったが、あれだけ雪野に入れ込んでいた、というより単純に付き合っていたにもかかわらず、彼女は会場に姿を見せることはなかった。
 自分たちの上司と同じぐらいの年齢でしかない、まだ中年の看護師の母が、瑞穂の棺の隣で番人のように厳めしい顔つきをして立っていた。私たちは、春川と雪野が交際していることを知るや否や、怒りを持ち出す対象も見つからず、なぜか職員室に猛抗議に来たことを覚えていたから、たぶん彼女が、ゆめゆめ葬儀には来るな、と釘を刺したに違いない、と話し合っていた。それどころか、働き出してすぐに見つかった、質の悪い乳癌で入院していた婦人科の病室についても、きっと彼女は入室を許さなかっただろう。働き出してからも彼女は母親からひっきりなしに電話を受けていて、うちの甘えん坊にも困ったもんだよ、とあの雲のように掴みどころのない声で私たちに愚痴っていた。彼女の喉を通せば、どんなに卑小でみっともない話も、古い絵本の挿話みたいに、現実離れして聞こえるのだった。
 正直に告白すると、たぶん私たちは、その声を独占している春川に嫉妬をしていたかもしれない。雪野は素晴らしい声をしていたけれど、人とあまり話すこともなく、ただ春川がそばにいたときや、教室で先生から意見を求められたときだけ、ゆるやかに言葉を発した。だから、私たちはみんな彼女を変わり者に思っていたし、真面目さがあまり余って、他人の嫌な仕事ばかり引き受けてしまう春川が彼女の世話を焼いていたのも、同じような面倒事の一環だと見なす振りをしていた。
 でも、たとえば図書室の隅、埃をかぶった世界文学全集の棚の前で、雪野が春川に微笑みながらなにかを囁くとき、ふたりで机をひっつけて、おそろしく近い距離で弁当を食べ合っているのを見たとき、体育の授業が終わったあとに、雪野がこしょこしょと肌着だけの春川をくすぐって遊んでいるとき、確かに羨望を覚えるのだった。あれは何だったんだろうね、と交差点の信号が青くなるのを待ちながら、私たちは死人そっちのけで話し合った。
 もしかすると、私たちも、春川みたいな意味で雪野が好きだったんだろうか?
 まさか。でも、確かにあの子、誰からも愛されていたもん、私たちのうちにも、確かに彼女を愛した人が居たのかもしれない。でも、あの時期の恋愛なんて、漫画みたいなもんじゃない? 誰も覚えていないだろうけど、私たち、あの二人がわかりやすく距離を詰めたり遠ざけたりするのを見るたび、勝手なロマンスを作り上げてそれに浸っていたんだよ、まるで食い物にするみたいに。
 本当にそうだろうか、と道玄坂を渋谷駅に向けて歩いていた私たちのひとりが、口を開く。
 私たちは、変わり映えのしない女子高生活に、まるで夢物語のような異質な恋愛が巻き起こったことを遠目で観察するような気持ちでいたに違いなかったけれど、本当は、彼女たちの編み上げる金色のロマンスのなかに、自分たちの存在が一滴でも入り混じることを望んでいたんじゃないだろうか。それがどういう気持ちかはわからないけれど、と彼女は秘密を約束するみたいにそっと声を潜めて、交差橋の下に目線を落としていた。夏への準備のように、湿度を少しずつ失った、からりとした風が吹いて、私たちは黙った。

 工場や港に接していないような、誰の航路でもないような海辺に寝転がって暮らしたい、と瑞枝があの夢見るような声で囁いて、そうね、私もついていこうかな、と春川が何でもないことのように答えた日のことを、私たちは甘い記憶として胸に残している。それから数年して、私たちの数人は東京を出て海に近い場所に暮らしたが、瑞枝が憧れるような、誰のものでもない海はあまりなかった。日本の海水浴場はどこもさびれていていいね、と私たちの一人が瑞枝に電話をしたとき、風と波音に混じってそんな言葉が聞こえてきた。
 まさか瑞枝、本当に海の傍で暮らしてるの? ふふふ、と彼女の突拍子のない行動に驚く私たちに、瑞枝が教室と同じように笑う。彼女の笑い方は控えめだけど、まるで私たちの憧れを最初から見抜いていますよ、とばかりに意地悪い響きがして、いつも秘密を暴かれたような気分になる。本当に海のそばじゃないけど、すぐ海に行けるところに居る、それが東京なんだといって、私たちのそれぞれは不思議な気持ちになる。
 東京って、そんなに海近いっけ? 江の島、鎌倉を海に数えるならね、とさらりと答える瑞枝の後ろで、聞いたことのある誰かの笑い声がする。誰かといるの? うん、友達と。でも、それが本当に春川なのかは、私たちに知る術はない。教室にいたときから、彼女は恋人、という名前を嫌がった。私と春川はとても仲のいい友達なんだよ、と当の相手を隣にして柔らかく発語するとき、思わず春川の唇の動きを見ずにはいられなかった。そうだね、私たちは、すごく仲のいい友達、といつもと変わらない硬い声で、彼女が答える。
 じゃあ、私たちと春川とは、どう違う友達なの? 彼女のあまりにゆったりとした、ほとんど鷹揚とした余裕に苛立ったひとりが、ついそう問いかけたことがある。何にも違わない、と瑞枝は音楽室の窓に背を預けながら答える。隣の吹奏楽部の部室で、誰かがフルートとクラリネットの二重奏の練習をしている。私は春川とは、すごく仲のいい友達だから、もしかするとあなたともそうなるかもしれない。彼女は弾けもしないピアノの蓋を開け、黒鍵と白鍵を気まぐれに押していく。すごく残酷、と侮辱されたように、私たちのひとりが答える。彼女は首をゆったりと傾げて、ううん、と溜息にもならないような、ゆるい息を吐く。

 瑞枝とのことを思い出すとき、私たちはいつも時間がぐちゃぐちゃになってしまう。こんなこともあった、あんなこともあった。印象には残るけれど些末な話ばかり、記憶の行列の先頭に出てきて、瑞枝と本当に何があったのか正しく思い出させてくれない。だから、私たちは瑞枝のことをちゃんとした物語として話すことは出来ないのだろう。だからこそ、私たちは瑞枝が死んでから、こうやって思い出を語り始めている。
 死んでから始まる言葉なんて手遅れだ。だとして、でも、私たちに他にどんな語り方があっただろう。
 私たちのうちで、春川と瑞枝のように親しい女友達と巡り合ったものはいない。あれだけ彼女たちの恋愛に興味を持った私たちなのに、それを自分で演じることには何の興味も湧かないのだった。男性同士ならともかく、女性同士は社会はまだ理解のあるほうだ(私たちは結局当事者ではないから、実際のところはわからないけれど)。時々私たちは、移動教室の時間に、女友達の敵を演じて笑い合うことがあった。A.男と付き合ったことがないなんて、もったいないよね。B.きっと一緒に居れば、男のことも好きになるんじゃないかなって。C.女性同士、子どもが居ないまま老いていくなんて寂しくない? D.一時の気の迷いでは?
 実際にそうした、一種の模範といっていいぐらい棘の突き出た言葉を聞いたことは、社会に出てからもない。私たちが化学ノートを小脇に挟みながら導き出した反論はこうだ。A.男と付き合ったことがないなんてもったいないですね。B.そうやって女のことが好きになったんですよ。C.子どもを産む苦労を想像したことがありますか? D.気の迷いで結婚をする男女だってたくさんいますよ。敵たちの顔は、時に私たちに嫌われていた禿げ頭の体育教師でもあったし、会話の合わない祖母たちでもあった。陰険レズ野郎、と私たちのうち看護師となった女は、病棟から病棟を回診で歩くときに、研修医の男たちが陰気な女医を罵って笑うのを聞いたこともある。本当にそんな単純な言葉がこの世にあるのか、と変に感心してしまったのだった。
 罵倒のための言葉は、品位はなくとも、目的がはっきりしているだけ、美しく響いてしまうことがある。
 春川は口が悪かった。というより、すべてを白か黒かで割り切るのだった。彼女は瑞枝の意見も、自分と合わなかったら、それはまったく間違い、と断言する。いい? それ、全部、おかしいから。あんた、間違ってるから、全部、何もかも。瑞枝は苦笑しながら、春川の手を自分のほうに寄せようと触れて、春川に振り払われる。東京の大学まで追いかけてくるなんて、まるで駆け落ちだよ、瑞枝が体育の着替え中に冗談めかして笑うと、春川は真顔で矢継ぎ早に否定を重ねていくのだった。私たちは目を伏せ、やり取りが聞こえないような振りを演じながら、耳の記憶に出来るだけその会話を残そうと努める。ねえ、ただの冗談だよ、そんなに怒らないで、だって春川は、たまたま私と近くの大学に行くだけなんだもんね。違う。おかしいよ、瑞枝、全部、間違ってる。いつもぼんやり反響するような瑞枝の口調に比べれば、春川の言葉は短剣だ。
 私たちの努力は無意味に終わる。化粧品や香水、若木の香りが入り混じる教室の中で、二人の言い争いは次第に声量を潜めていき、やがて私たちの誰にも聞き取れなくなる。ただ、きっと十数年後も同じように吹いているに違いない風だけが永遠に室内へ吹き込んできて、私たち、彼女たちの湿った肌を、撫でている。

 数学の入試問題のような、あらかじめ適切な答えが想定されているような問を教室移動や、友達の家で紅茶を飲み合うときに投げかけあうときは、私たちは決して瑞枝と春川の耳には入らないようにしていた。瑞枝なら、そんなこと本気で言う人いるかなあ、とやんわりと私たちを否定するだろうし、春川は、馬鹿、と切り捨てて終わりだろう。私たちはずっと後に、瑞枝から、そういう言葉はもう聞き慣れているんだよ、と携帯電話越しに告げられて、なんだか複雑な気持ちになったことがある。近場で見たから理解している、というひとつの傲慢を暴かれたような気がしたし、同時に、なにを偉ぶって、という反発も生まれた。
 そんな自分たちの感情を、驚きはしない。瑞枝は、理解を示す言葉も聞き慣れていたに違いない。

 女子高と言えど、瑞枝と春川の関係は広く受け入れられていたわけではない。教師たちはあからさまに関係から目を反らしていたし、気持ち悪い、と端的に厭う同級生たちも居た。たまたま同じクラスだった私たちがまだ好意的に受け止めていただけで、実際、瑞枝が春川に休み時間の教室でもたれかかるところなんかを目にすると、私たちは親の情事でも見るような気まずさを覚えずには居られなかった。
 何がだめだったんだろうね、と葬式帰りの私たちは、渋谷駅へと続く坂を下りながら話し合う。人が人を愛する動作なんか世の中に溢れているのに、どうして二人の繋がりは見ていてぞっとしたのだろう、と。趣味の悪い社会人と口づける同級生も、父母の妙にいやらしい距離の近しさも、あれぐらい怖くて魅惑的なものはなかった。瑞枝の手は桃のようなうっすらした産毛がわずかに生えていて、蝶の脚のように細やかに動いて春川をくすぐる。春川は不愉快そうに椅子に座ったまま黙っているが、肩や腕の線はわずかに震えている。そんな単なるからかいが、私たちにはどんな性愛の行為より卑猥に思えて、目を伏せたくなった。同性が同性を愛するとき、愛情と友愛が溶け合う瞬間へ、私たちは聖なるものにでも相対するときのように、本当は畏敬の気持ちを抱いていたのではないか。それを、砂糖菓子のようなロマンスでごまかしていただけなのではないか、と理屈っぽい私たちのひとりは言葉に出さず思う。
 果たして、高校時代の春川と瑞枝はセックスをしていただろうかと、雑居ビル八階の古臭い、くすんだ喫茶室で、ジャム付きの紅茶を飲みながら、私たちのひとりが切り出す。ううん、それはない、とバターの脂っこ過ぎるフィナンシェやカヌラをかじって、私たちは一斉に否定する。自分の手の表裏を眺めて、瑞枝の長細い、それでいて肉のやわらかに乗った手のことを思い出す。学校で禁止されていた香水でも使っていたのか、瑞枝の指先からは桜の香りがした。血色の良い、時に舌のように肉肉しい桃色になる指だった。
 中年の男女たちがばか騒ぎする喫茶店のなかで、私たちはその香りについて、物語を紡ぎ合う。
 春川と瑞枝は互いの家に遊びに行くことはなかった。瑞枝の母が職員室に怒鳴り込んで以来、互いの両親からは厳重に監視されていた。春川の父はフィールディングスを研究していた大学教員で、娘の性嗜好については比較的よく受容出来ていたものの、それでも相手の親がお怒りなのだから、という主張を崩すことはなかった。二人とも別々の予備校に通っていたから、放課後であっても、互いに共有できる時間というのは存外少なかった。なんとなく電話は好かなかった。私たちが知っているのは、二人が互いの全存在を常に感じ合おうとする関係は破綻する、と考察していたことだ。瑞枝の母に携帯電話を取り上げられる以前から、彼女は春川の電話番号を知らなかった。最初に切り出したのは春川で、お互いにずっと連絡していると疲れるから、と教室での話の最中に短く言い切って、そうだねえ、と瑞枝が柔らかく答えた。
 そうだそうだ、思い出したよ、と私たちのひとりが宝物でも見つけたように声を弾ませる。あれはねえ、誰かに大学生の彼氏が出来て、一日中通信で話し合うことを要求されてしんどいんだ、とちょっと自慢気に、でも芯から疲れ果てたような声音で打ち明けてきたときのことだ。高校大学と複数の男を渡り歩いて、最後には外資系の清潔なスポーツマン青年との結婚式を、ゴールデンウィークの中日に用意してきた彼女の悪口で盛り上がり、何人かがおかわりに頼んだ苺の紅茶が運ばれてきたところで、物語は再開する。
 たぶん、歌を書いた扇子かなにかに香を付けて、恋人に送って自分を思い出す頼りにしてほしい、という歌物語の一場面を古典の授業で取り上げた日から、瑞枝の手から濃い桜の香りがするようになった。数日をしてから、私たちは春川の手からもうっすらと同じ匂いがするのに気付いて密かに目を交わし合った。花の香りが似合う人間は貴重だ。授業中に二人の手を交互に見ながら、私たちは夢想する。あんた本当馬鹿、と嫌がる春川の両手に、瑞枝がぽとぽとと香水の滴を垂らし、その手を擦り合わせる。女友達だって互いにお揃いものを付けたりするじゃない、と葉桜並木の下で瑞枝が冗談のように言う。やだ、こんなの付けてたら、予備校で変に思われるよ。春川の抗議を無視して、瑞枝は早足で先に信号を渡ってしまう。手洗い場で入念に洗い流そうとするが、皮膚に染み付いた花の香りは簡単には取れない。なんだか良い香りするわね、とポテトサラダの芋を潰している最中の母親に問われた春川は、教室で馬鹿な同級生が香水をこぼして、生活指導の先生がやってくるわ、何人かの制服には直接かかって、教室中が砂糖漬けのさくらんぼみたいな香りで息が出来なくなりそうになる、といった嘘の話をでっちあげる。風呂場で膝を抱えながら、布団の中で身体を横に倒しながら、指と指の間に残る香りを、時々すうっと嗅いでみる。
 春川はきっと、こういう儀式を好まなかっただろう。彼女が何度も匂いを確認するのを承知で、わざと意地悪で振りかけたようなものだ。きつく叱られたのか、それとも飽きたのか、瑞枝の手からは元通りの石鹸の香りだけがするようになった。ただ、冷房のために着用を許された制服のカーディガンにだけは、夏の終わりまでずっと、あの砂糖漬けの芳香が染み付いていて、私たちの胸をどきりとさせた。
 瑞枝、入院中けっこう臭かったよね、とあくまで事実を告げる調子で私たちのひとりが思い出す。乳房を飛び出し、皮膚を内側から食い破った瑞枝の癌は、肉の膿み腐る臭いを個室に垂れ流していた。見舞いに行った私たちは、ごめんねえ、と全然申し訳なさそうな声で謝る瑞枝に、看護師に軟膏を塗ってもらうからという理由で追い出された。気の利いた見舞いの品も考えられず、とりあえず百貨店で適当に買った水羊羹や生ういろうの紙袋を手に持ちながら、私たちは醜く膨れ上がった瑞枝の乳房が、春川以外の女の手に優しく抱き止められる姿を想像して、妙に理不尽な怒りを覚えた。軟膏が染みるのか、扉越しに瑞枝の細い鳴き声が聞こえてきた。瑞枝本人に反して、品のある張り方をしていた乳房の片割れが、無神経な包帯できつく圧迫される姿を想像すると、まるで私たちのほうが、長年連れ添った恋人の浮気を目撃してしまったような気分だった。その頃はもう瑞枝が海辺の家に引っ越したとき、つまりは春川と別れた後だというのに。
 水饅頭なんてもらっても食べる体力がない、と瑞枝は甘ったるい笑顔で私たちに暗に命令した。そのとき陰気な婦人科病棟に来ていた私たちは互いに顔を見合わせ、ため息を付き、片方は瑞枝の背中を後ろから押して、もう片方は透明な水饅頭を口へ運ぶ役目を引き受けた。ふふふ、ふふふ、と瑞枝はくすぐられているみたいに柔らかく声を震わせる。軟膏の匂いは、教室で密かに嗅いだ、石鹸のようなあの体臭に似ていた。

 女同士の付き合いというのは、ただでさえ勝手な推測を生むものだったから、まして瑞枝と春川は様々な人に余計な妄想をかきたてた。二人は現実の教室に居るのに、まるで幽霊のような目撃報告があちこちから聞こえてきた。瑞枝と春川、昨日の日曜、水族館に一緒に居るところを見かけたよ。二人で白百合の花束を買っていたけど、あんなもの何に使うんだろう。二人とも、決して美形ではなくて、どちらかといえば輪郭の曖昧な、ぼやっとした顔なのも作用した。デート情報の噂が流れるたび、私たちは興奮して、本人たちが席を外した教室でその細かな動作や表情について、さも自分が見てきたかのように話し合った。稀に居合わせても、もの言いたげな春川はともかく、瑞枝は進んで訂正しようとはしなかった。さあ、もしかすると、いたかもね、といたずらっぽく、甘ったるく笑うだけだった。
 それどころか、後になって春川は困ったように私たちに打ち明けた、瑞枝はそういう噂が流れだすと、本当のことにしてみるのも楽しいかもしれない、といって春川を外出に誘い出した。本当に使い道のない黒薔薇の造花を探しに行ったり、鉱石屋で群青や緑の石を握り締めたり、イギリスの童話作家の伝記映画を映画館で一緒に見に行って、終わった後のロビーで互いにオレンジピールの香水を吹きかけ合ったり、積極的に嘘を本当にしたがるのだった。他人の期待には添ってあげなきゃ、と全然遠慮も気遣いもない声で春川に囁きかけるのが、ありありと聞こえてくる。
 そんな彼女を、春川は困りながらも、それなりに芯の部分で愛していたに違いない、と私たちは物語る。瑞枝と別れ、大学を出てからの春川の足跡について私たちが知るのは、ごくごくありふれた現実のプロフィールでしかない。三年後に、職場の素朴で誠実な、肩幅のがっちりした、たぶんラグビーをやっていた色黒の男と結婚し、一年以内に双子の姉妹を産む。義母との折り合いは良くも悪くもなく、それから三年間、育児休暇を取得している、と。これは私たちが直接対面したり電話で話を聞いたのではなくて、facebookで検索して発見した事実に過ぎない。
 私たちが高校時代に夢見ていた永遠の恋人の片割れは、今は東京都世田谷区池尻の、それなりに家庭の収入がなければ入れない八階建てのマンションに住み、子供の幼稚園を探すのに苦労して復職がなかなか進まず、地域の小児医療の手薄さに悩みながらも、一週間に一度、父親に子を任せて、新宿や池袋の、そこそこの質の紅茶が大量に飲める喫茶店に長居しながら白水社国書刊行会から発刊された、こじゃれた翻訳小説を読むのを数少ない楽しみにしている。高校時代の面影がわずかに滲む最後の部分の記述だけを、私たちは繰り返し、何度も読む。実際に会えば、彼女は雛菊の刺繍がされたニットのセーターを着て、柑橘か桜の香水をほんのわずかだけ手から香らせて、何、それ、全然、おかしいと鉄を断ち切るような口調で、私たちを否定するかもしれない。
 でも私たちは三十路手前の春川を知らない。二十二歳から、彼女はずっと、私たちに会うことを拒んでいる。完璧な拒否ではない。同窓会のはがきにはちゃんと否で返事をするし、LINEで誘えば家の都合が付いたらね、と穏やかな否定で答える。でもそれは、放置や忘却ではない、当時の春川らしくない、社交の礼節が伴った否定だ。私たちはその返事を受け取るたびに、教室に居たときの十七歳、私たちのロマンスの中の彼女よりも、ずっと遠い距離を視る。
 私たちは、時に紅茶をすすり、時に煙草をくわえながら、瑞枝と別れてからの春川について語り続ける。
 彼女にとって、瑞枝との出会いは後悔すべきものだったんだろうか? そうであってほしくない、という希望をこめて、私たちは答える。瑞枝が新しいイラストレーター崩れの恋人と住む、鎌倉の、潮風の吹き付ける築三十年のアパートの階段で、決然と彼女を見上げて。あるいは、高田馬場の私立大学の、ガラス張りの学生会館のロビーでたまたま出会い、気づかうような素振りを見せる春川に苛立つように、わざと隣のベンチに腰掛けて、こう告げる。
 うぬぼれないで。私、あなたと交際していたこと、全然後悔していない、これっぽっちも、まったく。
 私たちはありありと、彼女のその口調を想像できる。まだ社会で棘を抜き去られていない、言葉の鋭さを。

 でもそれは妄想だよ、と私たちのひとりがチャイの茶碗を両手で抱えたまま、いつまでも飲みもせずに口を出す。
 その発言を打ち消すように、私たちは互いの家庭生活や職場について話し始める。ある者は幸福な結婚をし、ある者は社会的な義務としてのみ結婚を捉えた男と結ばれた結果、義両親と彼のあらゆる無理解に苦しめられている。ある者は女性であるが故に職場で不公平な扱いを受けたと強く感じ、ある者は適応障害の診断で数年休職して実家の世話になっていて、ある者はそのした余計な波とも無縁に、無難に労働を続けている。時に声を潜め、時に声をやわらかく張り、それぞれの人生の、ありふれた瞬間について語り合う。高校生のときは同じ教室に詰め込まれているのに、どうして何気ない偶然がこれほど先々の色合いを変えていくのだろうかと、私たちはただ不思議に思っている。
 薄い夏の喪服に身を包み、東京のあちらこちらへ離散していく自分たちを、黒揚羽の群れのようだと思う。
 私たちのうち、これからおそらく贅沢な文化になるだろう出産を成し遂げた者は、自分の娘に将来同性を愛した過去を知られる可能性について考えて、傲慢とは理解している溜息をつく。また集会では誰にも話さなかったが、本当は大学時代から同性の恋人と同じ下北沢のアパートに住んでいる者は、百貨店の地下でエビチリを買いながら、無言で聞いていたロマンスの異様な甘ったるさについて思い返して、今度はもう誘われても絶対にあの集まりには行かない、と決意する。乳がん検診で精密検査の必要ありと告げられていた者は、浴室の鏡の前で自分の乳房をさわりながら、静かに鼻を近づけてみる。高校生の弟が同性と交際していることが発覚し、母が学校側に報告して何とか対策を取ってもらうべきではないかと深刻に思案している家へ帰る者は、おそらく生涯春川のことを許さないであろう、棺の横の老女の、岩のように鬱血した顏の無表情を、記憶のなかで反芻する。もし私が、と練馬のマンションで生後八か月の娘を抱き上げた私たちのひとりが、娘に同性愛者であることを告げられた時、果たして自分はそれを受容出来るだろうか、と自問する。その相手を、憎まずにいられるだろうか。溜息が重なるうちに、葬儀の日は終わる。
 
 死んでから思い出す記憶なんて、まるで死者を美化するための備品のようだ、と私は唇を静かに噛む。渋谷東急地下でエビチリと、同居人の好きな韓国式の巻きずしを2パック買って、京王井の頭線に乗り込む。彼女は今日は夜勤だから、料理の出来ない私がデリで買う決まりになっている。下北沢、明大前、永福町と吉祥寺に向けて通り過ぎていく駅の名前を頭のなかで読み上げながら、私はその集まりでは明かさなかった、病室での本当のロマンスを思い返す。
 高校一年生の瑞枝にからかい半分に、使われていなかった焼却炉の裏で何かの拍子に口づけをされて、その弾みで自分から告白をして、誰にも感づかれないような秘密の交際をしていた。高校二年生になって、彼女から別に好きな人が出来た、と打ち明けられた時には、相手への憎しみや嫉妬を通り越した、悲しみとはただ意地で名付けたくないような、どこにも行き場のない感情が発生したのを覚えている。瑞枝は春川に、私のことを前の恋人だと紹介した。春川は瑞枝の気遣いの無さ、それから自分の知らない交際関係に驚愕していたが、すぐに私たちは打ち解けて、瑞枝の悪口で盛り上がるようになった。彼女のわがままや移り気への助言もした。そんな受容が出来たのは、そうした立ち位置でも瑞枝に関われることを、単純に幸福だと思ったからだ。それに、三人で遊びに行けば、恋人同士ではなく友達同士の遊びなのだという物語も、嘘から本当へと様変わりしていく。教室での噂を受けて、水族館に三人で行った日の帰り、瑞枝が、まるでふうちゃんは私たちの娘みたいだね、と冗談めかして口にしたとき、春川は鮫の水槽の前で瑞枝の頬を打った。謝罪を決して言葉にしなかった、すももの様に薄く腫れた頬の赤い美しさを、覚えている。
 春川とまともに連絡を交わしていたのは、たぶん会のなかでは私だけだったに違いない。だから、瑞枝がかなり悪い乳癌で入院していることを知ったとき、真っ先に彼女に連絡した。余計なお世話だとは思ったが、それがあのとき、水族館で瑞枝の頬を打ってくれた春川への義理の返し方だと、勝手な心の決算をつけていた。彼女は、怖い、と言った。今更会いに行くのは怖いよと、素直に感情を打ち明けてくれた春川は、高校の時から全然変わっていなかった。
 頭の中では、別に瑞枝と会ったところで今の生活に変わりなんか無いって分かってる。自分がレズビアンでないことに気付いて、彼女との生活を美しい思い出にして、なりの清潔な男と結婚した自分のことを、裏切者のように思う必要なんてまったくないことも。でもそれは理屈であって感情じゃない、と春川は柔らかな声で、自分の胸元に手を当てながら喫茶店で語る。わかったよ、と私は申し訳ない気持ちで答える。あの金色のロマンスの、最後の結末を春川につけてほしいと、そんな不埒な欲望が自分にあったのだとしたら、と自問する。それは、純粋な暴力だろう。
 春川は短剣で一語一語切り裂くような話し方をやめて、言葉の間に息を多く挟み込む、ゆったりとした口調に変わっていた。それは瑞枝の影響というよりは、彼女が大学を出てから学び取った、ひとつの技術に違いなかった。
 病院の狭苦しいエレベーターには、老若男女の見舞客が乗り込んでくる。まるで葬式の先取りをしているような陰鬱で薄暗い顔の人々と、祭りの準備でもしにくいかのような華やかな人々が混じり合う空間の、その複雑な体臭に耐えながら、私はすでに聞いていた瑞枝の乳房の臭いについて考えている。焼却炉の裏で、指定のカーディガン越しにおふざけを装って瑞枝の胸に手を当てた時、私のは小ぶりで形が良いんだよ、となぜか自慢げに言われたのを思い出す。あのころの自分と、何にも変わらない黄土色と桃色が入り混じる手を見返して、六階で降りた。
 そこから話すことは、あまりない。
 やせ細った春川に、東急の地下で買った箱入りのプラリネを手渡したとき、確かに皮膚が膿む臭いを嗅いだ。軟膏の香りで大分和らげられてはいたが、注意深く意識すると、確かに鼻先に香ってくるのだ。常日頃から乳房を持て余している人間はたまったものではないだろうと同情したが、むしろ瑞枝はあっけらかんと、乳癌に気付いてはいたが民間療法に頼った自分の愚かさと、長期生存への諦めと、今の彼女に対する愚痴を矢継ぎ早に語った。教室の連中は誰も気づいていないようだったが、本当の春川は、瑞枝と入れ替わったように早く言葉を刻む喋り方に変わっていた。自由とそれなりの我儘を貫くためには、それだけの言葉の変化が必要だったのだと、私は思っている。彼女は病室にガラスの茶器を持ち込んでいたから、私たちは夏向けのアソートギフトから、パインナップルの欠片が乗ったのや、梅酒とハチミツのガナッシュを口に放り込み、味の薄い紅茶を飲んで時間を潰した。教室の連中は相変わらず自分たちのロマンスに酔っ払っているようだというと、彼女はこちら側に足を踏み出す勇気がない人にとっては、ああやって物語を編むぐらいしか欲望のはけ口がないのよ、と意地悪く笑った。陽が暮れて、百貨店のタイムサービスの時間が近付いていた。私が別れを切り出して、瑞枝がまた好きなときに来てよ、と軽く手を振ったとき、病室の扉が開いた。
 張り詰めた顔に浮かべた、彼女のあの精いっぱいの笑顔を、私は一生忘れないだろうと思う。彼女は挨拶もせず、名前を呼ぶこともせず、なんといっていいのかわからないままに、包帯の巻かれた乳房にそっと鼻を近付けた。病室の扉越しに、二人分の小さな足音が、はしゃぎながら遠ざかっていくのが聞こえた。その後を、男の靴音が追っていく。オレンジの紙袋から取り出した、少女趣味のピンクの小瓶が、線のかっちりした群青色のブラウスに全く似合わない。膿んでるところは沁みるからね、とまるで昨日まで時間を共にしていた人のような口調で、瑞枝が注意する。
 それもそうだね、と女は柔らかな声で答えて、浮遊する金色の光へ、季節外れの香水を一吹きした。【了】

 

松浦理英子『最愛の子ども』および、自作『十年の金色』について
 読書合評会で課題図書に選んだ、松浦理英子『最愛の子ども』を読んだあとに書かれた小説です。

 『最愛の子ども』は、日夏・真汐・空穂という三人の女学生の同性愛的および疑似家族の関係についての物語です。三人はクラスの女生徒「私たち」によって「父」「母」「子」という疑似家族に目され、物語が進むにつれて曖昧な三角関係に陥っていきます。終盤において同性愛的関係は空穂の母に露呈し、その相手である日夏が学校を退学させられます。彼女は同級生の父親の助言を受け、留学のためイギリスに旅立ち、残された真汐と空穂、そして「私たち」に見送られます。大学入試の結果を待ちながら、真汐が日夏と共に「最愛の子ども」である空穂と再会する日を想う場面で小説は終わります。
 この小説の特徴は、語り手を日夏・真汐・空穂といった主人公格の視点でもなく、三人称でもなく、あくまでその関係の変化を周りで見ている「私たち」に置いているところにもあります。「私たち」は当事者でなく、ただ三人の人前に見せる姿から何があったのか推測し、「ロマンス」を語ります。
 作品の、特に前半部は「私たち」が「私たちのファミリー」に寄せる性的空想から成ります。もっとも空想といえど、彼女たちは主人公から話の一部始終を聞いているので、決して現実から大きく離れているわけではなそさうです。また、「私たち」は時に、クラスメイトである日夏・真汐・空穂の「私」の視点を借り、一人称で物語を紡いでいきます。この人称の移り変わり、あるいは曖昧な「私たち」という一人称複数形が、不思議に柔らかな文体を生んでいるのが特徴です。
 私はもともと分析が得意ではないのでその程度しか書けないのですが、個人的に読んでいて面白かったのは「私たち」の性的妄想の緻密さや、女子高生たちのそれとない日常描写でした。同性愛や疑似家族を要素としては含んでいますが、普通の女子高生小説としてもかなり面白い小説です。ぜひ読んでみてください。

 

 自作『十年の金色』について。春川と雪野という二人の女子高生の同性愛的関係を「私たち」が期待し、その「物語」を勝手に編む、という筋は『最愛の子ども』と変わりません。一方で、「私たち」の勝手な脚色にうんざりしている「私」こと「ふうちゃん」が最終盤に登場します。
 『最愛の子ども』は(乱暴に書けば、なんだかコンテンツめいた)百合妄想を戯画的に描いている節があるので、それよりは直截的に「うんざり」しています。「ふうちゃん」は雪野とかつて交際していた同級生ですが、彼女を「娘」に見立てようとする雪野を、春川は平手で打ち拒みます。三角関係は成立しませんが、雪野は彼女を都合のいいおもちゃにしている節があるので、けっこう性格が悪いです。
 『最愛の子ども』は高校時代についてのみ書かれているので、『十年の金色』はその先の大学、社会人時代について書いています。日夏たちは高校時代に別れを迎えますが、春川と雪野は大学時代に恋愛関係を終え、春川は成人してから男性と結婚し、雪野は引き続き別の女性と交際を続けています。
 最後まで「私たち」の「ロマンス」として終わる『最愛の子ども』に対して(ただし日夏たちの一人称が「私たち」から独立して立ち上がる瞬間が複数回あるので、章名にある通りロマンスは「混淆」し、しばしば「途絶」するのですが)「ふうちゃん」は「ロマンス」として「私たち」に語られなかった場面について語ります。つまり、「ロマンス」の外側でこの短編は終わります。
 「こちら側に足を踏み出す勇気がない人にとっては、ああやって物語を編むぐらいしか欲望のはけ口がない」という雪野の台詞は、(記憶の限りではおそらく)松浦理恵子の『奇貨』から来たものです。

奇貨 (新潮文庫)

奇貨 (新潮文庫)

 

 

 でもこれは自作を後で読み返して気付いた違いであって、書いているときからそんなに意識しているわけではありません。「この百合妄想する私たちって怖いな」とか、「娘って関係やばくない?」とか、「同性愛の関係は一時かもしれないし、ずっと続くかもしれない」とか、それぐらいの気持ちで書いていました。

5.12 松浦理英子『最愛の子ども』読書会+短編合評会のお知らせ

【概要】
 読書会と、短編の合評会を開催します。
 第一部が課題図書の読書会で、第二部が参加者の小説の合評会です。
 予定は5月12日(土)の昼から、場所は池袋を予定しています。
 課題図書は2017年泉鏡花文学賞受賞作、松浦理英子『最愛の子ども』(文藝春秋)です。購入するなり借りるなり、各自入手して、当日はご持参ください。

最愛の子ども

最愛の子ども

 

 

 参加者については、事前に
 ①「課題図書を読んだ後に書かれた」小説(枚数上限50枚、下限なし)
 ②提出された作品の感想(字数下限なし)
 を提出していただきます。

 提出された作品数が多い場合には、感想を書いていただく作品を割り振ります。
 それぞれ締め切りは、①5/5, ②5/11を予定しています。
 小説は書いて出したほうが得と思われますが、都合が付かなければ、課題図書および他作の感想のみでもOKです。

 小説については、枚数上限を50枚とします。下限はありません。
 小説の条件は、「課題図書を読んだ後に書かれたもの」という一点のみです。したがって、その小説から得られた何がしかを込めて書かれた小説、たとえばその小説の技法・文体・設定を転用したもの、たとえばその小説の二次創作であれば嬉しいですが、「後」でさえあれば、どのような小説でも構いません。
 ただし、別ジャンルの二次創作などはお控えください。

 合評会は、端的に、感想の言い合いです。
 この小説と課題図書はどう違うか、この小説で躓いている点を、課題図書であればどのように処理しているだろうか、に着目することもあれば、課題図書を離れて話し合うこともあるでしょう。

 同様の会を2年前に長野まゆみ『冥途より』で行ったので、私の短編をサンプルとして置いておきます。
 書いた作品をどう使うかについては、当然ですが、書いた人間の自由です。
 どこかに投稿するなり、ネットに上げるなり、文フリ等の原稿の下地にするなり、好きに使っていただければと思います。

 参加費は、レンタルスペースが必要になった場合は場所代÷人数分。人数が少なければ不要、を予定しています。
 定員は現時点ではありませんが、募集人数が予想以上に多かった場合は(ないとは思いますが)抽選とします。
 これを書いている人間の顔見知りでも、そうでなくても、学生でも社会人でも主婦でも大歓迎です。
 私と、+2人は出席予定です。
 
【参加方法】
 novelgathering4096@gmail.comに、3月末までに参加意思がある旨の御連絡をください。
 それ以降参加したくなった、およびお問い合わせについても、こちらにご連絡いただければと思います。
 ご連絡いただいたメールアドレスに、freemlメーリングリストを用いて連絡します。
 書いていただいた小説や、課題図書・他作への感想についても、メーリングリストアップローダーに提出します。
 ①ハンドルネーム(私の知人なら氏名でも可)②小説を提出するかどうか、について記載いただければ幸いです。
 
 あとからやっぱり都合が付いて、小説が出せるようになった、出せなくなった、という場合は、連絡をいただければ大丈夫です。枚数上限を越えそう、という場合についても、ご相談ください。

 

【余談】
 小説を書いて読もう、というコンセプトそのままのイベントです。ついでに、自作の感想をもらいましょう。

 もともと私が文芸サークルに居たときに何回かやった会で、そのときは長野まゆみ『冥途あり』や、滝口悠生『死んでいない者』、宮内悠介『半地下』(『カブールの園』所収)といった文芸小説を課題作にしていました。
 ひとまずは今回やってみて、手ごたえが悪くなければ継続します。松浦理英子『最愛の子ども』を選んだのは2017年泉鏡花文学賞受賞作だったからで、今後続けるのであれば、同様に文学賞を受賞した小説を課題にする予定です。
 文芸寄りではありますが、誰が読んでも読めそうな小説、をひとつの選定基準とします。
 たとえば小川洋子角田光代川上弘美よしもとばなな
 ちなみに去年の泉鏡花文学賞受賞作は、川上弘美『大きな鳥にさらわれないよう』です。

 作品の感想については、後に残る形として、文章の形でまず送るのが良いと判断しています。以前にやった際はコメントの提出はしなかったのですが、本当にぎりぎりの直前まで読まない、ということになりかけたのもあります。
 また、感想を受け取る側についても、あとで思い返すのには声ではなく文章記録のほうが良い、というところです。

 なお、どうしても対面する以上、私と顔見知りでない人間は参加しづらいかもしれませんが、個人的には、そういう方にこそぜひ来ていただければ、と思います(実名を明かす必要はありません。HNで呼び合うのはちょっと恥ずかしいかもしれませんが)。一緒に読んだり、書いたりしていければ、と思います。

 そんなわけで、よろしくお願いします。

『トリオ』(2016)

(2016年の長野まゆみ『冥途あり』の読書会+合評会の際に書いた短編です。)

冥途あり

冥途あり

 

 

 物語修復人だった父は、自分の仕事をカウンセリングと勘違いされるのをひどく嫌がり、カウンセラーのことはインチキ商売と呼んでいた。どうにもならない現実に対して慰めが必要な人間が存在し、それに対し言葉で苦痛を緩和する専門職が存在することは、インチキどころか、自然な事態だろう。ただ、父はカウンセリングがとにかく嫌いで、テレビでその手の番組が始まると、不愉快そうに顔をしかめ、チャンネルを変えてしまう。
 いいか、あれは嘘の仕事だ。お前達はあんなインチキみたいな仕事はするなよ。
 姉は大学を卒業したのち葬儀屋に、ぼくは市民病院の麻酔科に務めることになった。全ての痛みを経験し終えた人間を送り出す仕事と、痛み自体をなかったことにする仕事だ。

 

 ぼくたち姉弟は、職人気質を気取り、どんぶり勘定で、むらっ気が激しい父のことを信頼していなかった。説教好きの父が何かにつけて人生訓を授けたがるのも、高校生と中学生になったぼくたちには、なかなか気分の悪い時間だった。子供の目にもパッとしない、色あせた人生を送っているこの男が、胸を鶏のように前面に押し出し、何があっても自信と誇りを持ち続けること、不平不満を述べないこと、嘘を述べないこと、常に独創的であるべきだということ等々を、どうしてそうも誇らしげに教え諭せるのか、疑問でしょうがなかった。
 ぼくは小説を書き、姉は絵を描いたが、それを仕事にする気はなかった。姉の結婚とぼくの卒業が重なったので、趣味は趣味として、三月の里帰りで、姉弟共有のクローゼットの奥へ、それぞれの十数年の生産物を詰め込んだきり封印してしまった。他人の夢が大好きで、自分の人生で賭け事をする勇気のない父親には、それがたいそう不満らしかった。
 もちろん、父とぼくらは、あまり仲が良くなかった。三人とも出不精で、ぼくたちは欝々と築五十年の木造建築で煮詰まらなくてはならなかった。空き部屋が多いのは、本来ここに住むべきもう一人がさっさと父親に見切りをつけてしまったのもあるし、見栄っ張りの父が、とにかく職人商売は部屋だ、心を落ち着けるための瞑想部屋、道具を手入れする部屋、客を招き入れる仕事部屋が絶対に必要だと言い張り、耐震性や利便性を度外視し、無意味に部屋が多く、老朽化も酷く、買い手のつきそうにない空虚な家屋を己の終の住処と見極めたせいもある。青竹のような、空の空間ばかり目立つ、変に広々として落ち着かない家が、僕と姉の青春の場であり、父の子育ての場でもあり、母の他愛ない不倫の舞台でもある。
 要約してしまえばありふれた家である。要約してしまえば、何事もそうかもしれない。

 

 父はよく家出をした。姉との喧嘩で言い負かされると、「誰が育てたと思っている!」なんて、古風な捨て台詞を吐き捨てる。そっぽを向いていた姉は知らなかっただろうが、そんなときの父の唇はむず痒そうにひん曲がっていて、本当はこんなつまらないこと言いたいわけじゃないんだよ、となんだか言い訳じみていた。そんなとき、父は履き潰した自分の靴ではなく、自分より足の大きな息子の靴を拝借していくのだった。普段から靴を出しておけばいいのに、毎回不慮の事態に直面したとでもいうように、頭を軽くぽりぽりとかいて、玄関で見守っているぼくに、へらっと軽く笑い、中学生用の真っ白い運動靴を両手に携え、裸足で玄関を出ていくのだ。
 別にぼくは困らなかった。父の持ち出しを見越して、姉は新しい靴を買わせるときも、絶対に前のサイズを残させるようにした。雨で濡れて帰ってくると、ぼくは姉からまず布巾を手渡され、新顔のほうから水滴を吸い取る。自分用のタオルケットは、それを終えてからだ。極力丁寧に靴を履くようになったのも、物持ちのよくない父が反面教師だったのかもしれない。家出のときの靴がみっともなかったら、さすがに可哀想だとも思っていた。
 都合のいい家出先などあるわけもない父は、電車で三駅離れた、別の市の中心駅から、夜の十時が最終便の市営バスに乗り継ぎ、湖そばの温泉施設へ逃げ籠っていた。帰ってきていいことがあるわけでもないので、放置だった。母に喧嘩で言い任されていたときから、ずっと同じ逃げ場所だった。駄目な人だけど、ヤケになって博打を打たないのは、ちょっとはマシかもね。まだ幼い姉に、母は沢庵を勢い良く切りながら笑っていたという。ダメナヒトなんだなあ、と三歳の姉は生物の種名を耳にしたような気分だった。ダメナヒトだから、仕方ないよと、八歳の姉は、父の突然の癇癪に危うく泣き出しそうになった五歳のぼくに、そっと静かに耳打ちした。齢四十にして、家族全員からダメナヒトと認定されていた父は、思い返せば、正直ちょっと可哀想だ。そう思われて、余計にだめになったんじゃないか。僕も姉も母も、できれば父にはダメナヒトで居て欲しいと、いささか暗い願望があったのかもしれない。どうしてそんなひどいことを願えたのか、不思議で仕方ない。

 

 家族の約束は破っても、客との約束は絶対に守った。いくら職人だ、芸術家だと家族に大口を叩いたところで、食い扶持を保証してくれるのは結局客と、長い修復人生活で理解していたわけだ。表に出ない業種だけに、とにかく口コミが生命線。ひとり幻滅させれば、十人百人の客が死ぬ、そういう仕事なんだと酔っ払った折に絶叫していたのも、決して誇張ではなかったのだろう。インターネットで自分達の職場の名前で検索したら、すぐ評判が聞こえてくるのにげんなりした、と最近も姉弟で互いに溜息をつきあった。棺のなかに、故人の愛用していた腕時計を納棺させてもらえませんでした。星ひとつです。愛犬を残してやるのは可哀想だから一緒に燃やさせてあげたかったのに、絶対に許可してもらえませんでした。星ひとつです。姉が読み上げるスマートフォン越しの言葉は、他人事に聞こえなかった。痛みを取り切れていないから星ひとつ。術後に起こされたから星ひとつ。そんなに故人が不憫なら、棺に同席して天国まで付き添ってあげればいいのに、と口走る弟を、姉は丸めた新聞で叩いた。尊敬出来る父親でなかったから、星ひとつ。妻に逃げられたから、星ひとつ。
 
 職人に心の準備が必要といって、顧客が来る一時間前には仕事部屋で待機していたが、どれだけ早く来られても対応出来る、と立派に見せたいようだった。そういう父の小心は、けっこう好きだった。仕事が仕事なだけに神経質な客も多かったが、父の変に几帳面なところには安心させられていたようだ。ぼくが朱塗りの盆で二人分の湯呑を運び入れるたび、礼儀正しいお子さんだ、お父さんの教育が行き届いているんだな、と父はよく褒められた。得意顔の父は、客の目の前でぼくに茶を運んでくるよう命じたが、礼儀を教えてくれたのは当然姉だった。高校から飲食店でアルバイトをしていた姉からは、こういうことは早いうちに学んでおいたほうがいいと、接客業のノウハウを教え込まれた。姉にはオモチャにされていたわけだが、ぼくは立派なウェイターのつもりだったし、教えの内容はしっかりしていた。
 ホテルの三十六階の、スカイレストランのウェイターは、密談に耽る客の傍まで暗殺者のように静かに忍び寄り、急所に正確無比な一撃を与えるように、湯呑を素早く置くと、一礼のみで何事もなかったように引き返すべきである。と、牛丼屋勤務だった姉に教え込まれた通りに、僕は茶を運んだ。「暗殺?」帰還した途端に姉に問われ、「暗殺!」と答えた。一流ホテルのウェイターなら、格好も立派でなきゃいけない。タイピンとカフスボタンが欲しいとねだると、姉は日暮里の繊維街で獅子の彫刻された金色のアンティークボタンを見つけて来て、接待用のぼくのポロシャツに縫い付けてくれた。全くカフスではないが、ぼくらの間では、それなりにカフスだった。ネクタイピンについては、我が家にはそもそもネクタイがなかったのだから、流石に無茶な要求だった。父にはそれすら誇るべき事柄らしく、お父さんは、他人に頭を下げて物を売らなくていいんだ、無様な正装もしなくていい、職人だからな、と僕の部屋に突然やってきては、無暗に足音を立てて仕事部屋へ戻るのだった。
 でも、ぼくは父の施術が不満で、いきなり殴りかかって来た若いチンピラに、父が平身低頭で許しを乞うていたのを、四歳のときに目撃してしまっている。ついでに四歳のぼくが身をもって知ったのは、どんな乱暴な客も、子供の覗き見には耐えられないということだ。怯えた視線に気づくと、彼らは子供時代の辛い記憶を掘り起こされたでもいうように、突如として沈鬱な表情になり、言い訳じみた言葉の出来損ないを口ごもると、千円札をスローモーションじみた動作で父の手に叩き付け、威圧的な足音で駆け去っていくのだった。しかし、二階の窓から見下ろせば、玄関から先の歩き方は、妙にとぼとぼと、しょぼくれていた。
「きっと悪い人じゃないんだろうね」銃弾を回避するみたいに、しゃがみ込んで窓を覗き込んでいる父に話しかけると、先程のしおらしい態度はどこへやら、急に血相を変えて怒鳴った。「悪い奴になりきれないから、悪いんだ」
 納得はしたが、興味は「おやつ!」という間の抜けた呼び声へすぐさま移り変わった。三時を三十分遅れたおやつは、メロンソーダときなこドーナツだった。僕のおやつなのに、何故か父も泣きそうな顔で、背中をきゅっと哀れに縮めて、台所まで降りてきた。「二つ目はない」姉は事実を告げた。「穴がある」父はぼくの皿から勝手にドーナツを取り上げて、中心の空洞を、それこそ穴が空くほど凝視し続けた。「やめて!」姉の再三の懇願にもかかわらず、父が前歯で生地を撫ぜたところへ、ぼくが短い両足へタックルした。予想外の反抗に、父は上体のバランスを失い、後ろのソファへ頭からひっくり返った。
 同時に放り投げれたドーナツはぼくの頭に乗り、姉は「ソファが壊れたらどうするの!」と、父を叱った。今のぼくはきっと天使みたいだぞ、と手に取ったドーナツからは、きな粉の粒がきらきらと落ちてきた。前歯の痕が、薄く凹んで残っていた。父は普段通りの自分の右頬を撫で、暴漢に詰め寄られたときみたいな、怯えた視線でぼくを見つめた。
「息子が、俺を、俺の息子が、俺を、いじめる」薬物中毒者のように回らぬ呂律で、父はいきなりまくし立てた。「おい、どうなってるんだ、俺の息子が、俺を、いじめるぞ、お姉ちゃんよ、お前の弟は、どうなってるんだ」僕と姉は、素知らぬ調子で、顔を見合わせた。あまりに可哀想になってきたぼくは、きなこドーナツを四分の一、時計の十五分だけあげようとした。「いらねえよ!」両手で施しを払いのけられたぼくは、十五分と残りの三十分を口にいれ、ソーダで流し込んだ。父親は更に機嫌を悪くし、半分残ったソーダのグラスを突然握りしめた。ぼくが思わず目を閉じると、父親は律儀に水色ストライプのストローで最後の一滴まで飲み干し、「出かける!」と宣言した。「出かけて」と姉が薦めた。このメロンソーダは甘過ぎる、とぼくは思っていた。父の噛みしめたストローの先端部が、舌先にちょっと塩辛かった。加齢臭みたいなもの、加齢唾液だな、今日の晩御飯はカレーがいいな、とぼんやりと考えた十五分後に、少し窮屈な靴で、姉とカレーの材料を買いに行った。

 

 父は同業者の評判を気にしていて、自分の常連客だった中年女性が、隣町の若い男の職人に鞍替えしたときには、その場に居ない職人を夕食の席で口悪しく罵り続けた。あいつの仕事は雑だ、店を小奇麗にして金稼ぎのことばかりで、肝心の腕前がついていってない。
「だめだ、こんなことばかり言ってたら客が逃げる」と、父は口を塞ぎさえすれば悪口が止まるかのように、油の滴る唐揚げで頬を膨らませた。それでも言葉の勢いが止まらないのか、「おい、このから揚げ熱いぞ!」と意味不明な文句をつけた。姉は当然無視して、小鍋から箸でつまみ上げた熱々の唐揚げを、ぼくと父のあいだの大皿に追加した。「おい、何を笑ってる」と父は皿の端から白米に唐揚げを運んでいたぼくを睨み付け、「客がいなかったらお前このから揚げ明日から食えないんだぞ!」と長台詞で怒鳴り、大皿を自分のほうへ引き寄せた。ぼくがむくれていると、彼は持ち上げた唐揚げを、わざとぼくの目線の高さまで持ち上げて、にやにや笑いながら口に放り込んだ。「俺の金だからな!」恩着せがましく言い放つと同時に、姉が手早く食器棚から緑の小皿を取り出し、十数個のから揚げを乗せた。「これが私のお金」姉が僕のところへ皿を置くと、父はさっきの息子みたいなふくれっ面で、やけっぱちにから揚げを食べまくると、「熱いぞ!」と吠えた。「揚げ物だもの」鍋底の最後の一個をつまみ上げると、姉は玉入れのように自分の口へ放った。唯一猫舌の父は、悔しそうにキッチンペーパーの油滴を睨んでいた。
 で、猫には嫌われた。動物嫌いの姉には食べ物の匂いが染みついているのか、布団叩きで何度も追い払われ、ホースで水をぶちまけられたりしても、負けずにしつこくじゃれついた。そんな夏の日は、ぼくも水のアーチに飛び込んで、びしょびしょにシャツを濡らした。布団叩きを握らされて、ぼくはシャツと干された夏用の軽い掛布団を叩き続けた。皿洗いを終えると、姉は炭酸水入りのタンブラーを携え、腰掛けた縁側からぼくを監視していた。黒猫が寄って来ると、足蹴のポーズや、手で払いのけたりして追い払った。ふいに二階の窓が開き、「猫だ」と誰かが嬉しそうに笑った途端、それまで人懐こかった猫が、急に高く首を上げ、フシュウフシュウと獰猛に鳴いた。「おいで!」書斎の出窓から手を伸ばした父の手を、猫は食いちぎらんばかりに不機嫌に睨み付け、尻尾を蠍のように逆立ててた。「やめてよ!」ぼくが叫んだのは、猫をからかっているのか、本気で二階まで飛ぶと信じているのか判別し難い父の言動を止めたかっただけではなく、万が一猫が軽やかに跳躍して、父のあの骨ばった手を噛み千切りでもしたら、とてつもなく哀しくなると予感していたからだった。姉がタンブラーを手に取ると、氷が鈴のように高く鳴った。猫は我に返ったようにきょとんとし、尻尾を垂らして姉の足元へすり寄って来た。姉は頭上に突き出た両手に狙いを定め、足元の石を放り投げた。石は不自然な軌道を描き、僕の頭に落ちた。「痛い!」非難したぼくを、猫も姉も、なんだか別世界の人間に出くわしたような、不思議そうな顔で見ていた。
「なんで懐かない!」父が首を突き出して怒鳴った。「猫もダメナヒトは解る」そう呟くと、姉は足を黒猫に突き出した。ついに観念したのか、黒猫は庭の右手から、柵の奥の林へ逃げ込んでしまった。ああーっ、と至極残念そうな父の声に我慢ならず、ぼくは布団をうるさく叩いた。姉は、蹴り伸ばしたままの自分の裸足に、じいっと眼の焦点を据えていた。手つかずの炭酸水に左手の人差し指を浸し、同じ姿勢を保ち続ける姉の姿は、なんでもない場所を凝視している猫を思い起こさせた。ぼくが布団を叩き終えると、父もガシャンと鳴らして窓を閉じた。黒猫が戻って来て、今度は出窓の下で少しは愛想を振りまいてくれるのではないかというぼくの希望は、姉の隣で何十分待ち続けても、けっして適わなかった。空中に差し出された両手の残像が、白い布団の布地に焼き付いているような気がして、ぼくは何度も自分の瞼を擦った。三十分後に、姉がタンブラー一杯の炭酸水を、台所のシンクに捨てた。

 

 父の起床は遅かったが、寝る時間も早かった。布団に入ってから、子供部屋で少しでも物音が立つと、大いに怒り狂って「誰のおかげで飯を食えてる!」と怒鳴ったが、中学、高校と姉が進学するにつれて、父の収入が家計を占める割合は減っていった。
 父は遊びを知らない人間だったが、休みの日は競馬場に行きたがった。東京競馬場の入場料だけを払い、自分もいっぱしの遊び人のようなつもりで、ハンチング帽のつばを左の親指と人差し指でつまみ、右手でパックのたこ焼きにつまようじを刺しながら、一列に並んだ立派な競走馬を凝視していた。最初の連れ合いは妻で、二人目は姉で、三人目はぼくで、四人目はいなかった。決して風体は悪くなかったし、誘いさえすれば近所の同年代の女もついてきてくれただろうが、おそらく、同年代というのが気に食わなかったのだ。父は昭和の年号を嫌い、息子は昭和七十何生まれだとか平気で口にして、相手に微苦笑を催させるのだった。「昭和が嫌いなら、西暦で答えればいいのに」ちょうど愛読書が世界史の教科書だったころに、余計なことをいったぼくを、父はガツンと一喝した。
「千年二千年単位の年号なんて、何の役に立つか!」
 たしかに、二千以上積み重なってしまった一年一年の重みなど、比較してしまえばどれほどのものか。一個人の生死と結び付けた日本の年号というのも、そこに限れば悪くない発想だ。父の平成嫌いは、だがもちろん市役所の書類には通用しなかった。若い女の職員には叱られたくない、生年月日の昭和を丸く囲むのも気に食わないといって、嫌がるぼくに無理やり代筆をさせた。通りがかりの、それこそ若い女性職員が、「ご本人ですか!」と剣呑な声で斬りかかって来た。「彼が父親です」舌先を軽く出しながら、父は悠々と答えた。


 父は客の殆ど入らなくなった晩年に、チラシ広告を作ろうかと本気で悩んでいた。自分から客を呼び込むのはみっともないし、さりとてこのままでは子供たちに金をたからなくてはならない。駆け出し麻酔科医のぼくにも、僕の学費を相当に負担してくれた姉にも、父を支援できる余裕は無かった。父の職業は国家的には無職と認定されており、無職にふさわしい年金しか用意されていなかった。そもそも父は、国に守られるという発想が心底気に食わないらしく、とにかく誰の世話にもなりたくないらしかった。勝手に死なれるのも参るので、僕と姉は、なけなしの金を、なんとかして父に渡さねばならなかった。直に渡すのは論外、口座に振り込んでも第六感で勘付かれる、帰省して密かに和室や寝室に金を落とすと、「金を落とすな!」と叱ってくる。ネコババを嫌うのは、正義感というより、他人に媚びへつらいたくなかったようだ。飯の種には程遠く、見飽きた客ばかりの枯れた商売を、それでも父は、唯一人生で身を捧げた職として誇りにしていた。廃業は、最後までしなかった。
「この年になってようやく物語が解るようになってきた」烏賊の塩辛とえび満月を交互につまみながら、父が嬉しそうにぼくに語ったときには、余命の終わりまで三か月を切っていた。いい仕事だったのだろうな、と感動したぼくは、老衰した麻酔科の医局長が、先に自分が寝込んでしまいそうなほど眠た気に瞼を擦り、麻酔の目盛りを震えの止まらぬ指でいじっているのを見守りながら、頼むから早く辞めてくれ、と願ってきたのを忘れていた。麻酔と金儲けが趣味の人間を一線から退かせるのも気の毒な話だったが、仮に失敗すれば誰がどう責任を引き受るのかと、上級医や経営陣は戦々恐々としていた。姉の職場でも、大ベテランの老葬儀屋が、棺を閉める手の揺れを止められずにいたところへ、「どちらが死人か解りませんね」と、眼鏡をかけた故人の娘が、冗談とは受け取りづらい言い方をした。老人の顔は紅く腫れ、それまで身勝手に動き続けていた指先が、急にぴたりと止まった。気まずい沈黙のなかで、静まった右手の四指を左手で包みながら、「すぐ死にますよ」と小声で呟いた。年を取れば身体が狂う。神経が狂えば指先も狂う。いつかの帰省から、正月料理の皿を受け止める父の手の、その震えを見逃せなくなった。遺伝子も狂う。遺伝子が狂えば異常細胞も増え、圧倒的多数だったはずの正常細胞を駆逐し、頭から爪先まで、大血管から毛細血管の先端部まで、ずれた細胞で覆い尽くしてしまう。「遺伝子異常は陽性です」血液内科医が家族三人に宣告する。「予後は、残念ながら、非常に悪いでしょう」「遺伝子」反唱した姉に、慌てて血液内科医が注釈した。「遺伝子といってもお子さんに遺伝するものではありません。お父様の血液細胞に、遺伝子の狂いが生じているんです。狂った細胞が、別の細胞を巻き込みながら狂いを増していく。次第に修復も追い付かなくなり、身体が最終的に破綻する。化学療法に可能なのは破綻までの時間を引き延ばすだけです。根治的な治療ではなく、病気との付き合い方を考えるのが、この病気では自然です」「病気でしょう。病気なんかと、付き合えるんですか」灰色の薄いメモ用紙に、医師は英字の連なりを綴った。流麗な筆跡の病名は、短い内科での研修生活では見覚えのないものだった。ぼくの当惑を察した血液内科医が、「私どもでも滅多に見ない病気です」と説明して、病名を正確な発音で読んだ。「病気と付き合うって、病気なんかと、付き合えるんですか」父の声は、まるで会話を継続するためだけに、天気の話題を持ち出すような調子だった。研修医時代に、何度も同席した癌の告知場面を、ぼくは必死に思い起こそうとしていた。患者の顔も、家族の顔も、病名も、何も思い出せなかった。悲しいぐらい、他人事だった。ただ、上級医達が「病気と付き合う」と口にするたび、舌先に味わっていた奇妙なざらつきだけは、明確に思い出すことが出来た。ぼくより年下の血液内科医は、少しだけ間を置いてから、「付き合えます」と、神託を述べ告げるような厳粛な声で、はっきりと、回答した。
 受付でぼくが診察費を払うと、父は「なんで告知に金が要るんだ」と不思議がった。誰も幸せにならない告知に、何故金を払わなきゃいけないのか。ぼくだって、教えて欲しかった。姉の青いアウディの後部座席に乗り込むと、助手席から次の難問が飛んできた。「遺伝子って何だ」生物の基礎知識を忘却し切っていたからでも、麻酔ばかりの毎日だったからでもなく、どう答えれば自分達にいちばん正しいのか、全く思い付けなかった。父は来週から入院し、化学療法を開始する。「付き合う、病気と、付き合う、病気と」車が一般道へ出ると、父はお気に入りの歌詞みたいに、楽し気にその言葉を繰り返した。「付き合う、病気と付き合うんだってなあ、不思議だな、付き合う、付き合う」父の舌が弾むたび、姉はアクセルを踏んだ。僕たち家族は、とてつもない速度の車に閉じ込められていた。高速道路の下に差し掛かったところで、交通整備中の警察官がホイッスルを吹いた。「馬鹿野郎!」顔面蒼白の姉が急ブレーキをかけるその前から、父はただ前方を見据えて怒鳴っていた。

 

 父は競馬場で金を賭けずに、心で賭けた。自分の見定めた馬が一等賞になると、ぼくを抱き寄せてまで喜んだ。引き裂かれた外れ馬券が歓声の影で桜のように散り、眼下の芝生までそよ風で運ばれていくのを、ぼくは父の胸元から眺めていた。垂直に昇っていた煙草の煙が、無数の声と共に僕たちの頭上で霧散していった。姉は、父がぼくを競馬に引き込むのではないか、本当は金も払っているのではないかと戦々恐々で、自分も同行すると言い出したが、父は許可するどころか、「俺が休みなら、お前は働け」とまで言い放った。手形の残る頬が、試合結果で青にもに赤にも色付いた。
「これはスポーツ新聞という」
 父は売店で取り上げた一部を、わざわざ指差して説明した。
「言ってみろ。スポーツ新聞だ」「スポーツ新聞」「そうだ。スポーツ新聞だ」
 ぼくは小学二年生で、我が家は新聞を購読していなかった。配達員がどれだけ定期購読の特典をちらつかせようが、姉は容赦なく断った。もうテレビがある、と珍しく姉と父の意見は共通していた。原色のブルーインクで強調された見出しを、漢字の読めなかったぼくは、ただただ格好いいと思った。「これひとつ包んでください」妙に慇懃な父に、おばさん店員は怪訝な顔つきだった。席に戻った僕たちは、姉の作ってくれたシュウマイ弁当を食べた。弁当箱はどちらもステンレス製の同サイズだったが、ぼくには黄色のプラスチック容器がオマケされていた。蓋を開けると、祖父母の送ってくれたサクランボが詰めてある。
 未読のスポーツ新聞をナプキンのように膝元に敷いていた父は、「それくれ」と頼んだ。「新聞」ぼくは答えた。喫煙者みたいに息を吐きながら、父は芝生の光を見ていた。癌恐怖症の父は根っからの禁煙者だったが、そのときの父は、周囲から漂う煙の香りを、ひっそりした鼻息で深々と嗅いでいた。「じゃあいい」競馬場にはスポーツ新聞、という思い込みのファッションに過ぎないのに。ぼくは四つのさくらんぼを食べ、二個の種を容器に残し、二個の種を噛み砕いた。歯が駄目になるといって、姉に注意されていた実験を、ぼくはついに達成したのだった。杏仁に似てるんじゃないかという味と食感の予想は大外れで、ただ砂粒を噛みしめるような苦みだけが口内に広がった。眉をしかめたぼくを、父はおかしそうに笑った。だが、残り四つのさくらんぼから二つ親指で握り、左の握り拳の、親指と人差し指の輪の上に置こうとすると、父は「いい!」と意固地に断った。さくらんぼを二つ残すと、ぼくは父の膝元で銀色のバットを振りかぶっている野球選手と、芝生とスタンド席のあいだの、何もない眩しい空間を凝視している父の横顔ばかりを、交互に見続けていた。レース開始のアナウンスが入ると、栗毛白毛の見事な馬たちが、一斉に横へ並んだ。「どれに賭けたの」父がどの一頭を指差したのかは、距離の遠さではっきりしなかった。ぼくも、確かな名前を聞こうとはしなかった。レースが開始してからも、父は指先で自分の馬を追い続けた。
 
 出発点と帰着点が同じ経路は、結局は似たり寄ったりなのだろうか。最終地点から振り返れば、突然死んだが、緩慢に死に続けたか程度の差が無いのか。他人はそれでよくとも、自分の父親はそうであって欲しくなかった。だが、特別な事件は何も思い出せない。妻に不貞を働かれた以上は、あらゆる事件と無縁な人間でもあった。それが、本人の意思だったのか。
 父が死んだ日、ぼくは病棟の廊下で喪主のスピーチを必死で考えていたが、父の人生は説明のしようがなかった。そもそも、つい一時間前に死亡確認された六十八歳の男が、果たして本当に自分の父親なのか、これから物語ろうとする時間は本当に父の生きた人生なのか、疑問が止まることはなかった。疑い問う意味もなかった。告別式は身内、すなわち一族で生き残り、かつ父と縁を絶っていなかった子供二人だけで執り行われた。
 土地を売り払うべきか、ぼくたちは座敷の遺影の前で議論した。僕は賛成で、姉も賛成だった。「ちょっと……」近所の僧侶が読経を一時中断し、小声で咎めてきたが、同一方向に重ね揃えたはずの声を、ぼくたちは抗議のように段々と大きくしていった。口のひん曲がった遺影がいかにもダメナヒトで、ぼくはこの情けない葬式に慰められていた。父からは、死後の写真の全処分を言いつけられていた。「俺が死んで、写真が残るのは、理不尽だ」僕は賛成し、姉は反対した。そんな面倒な作業どちらもやってる余裕ない、と痛いところを突いてきた。「もう死んでるし」確かに。死人との約束を守るなんて、ただの自己満足だ。自己満足だから美しい、というのは嘘っぱちである。家を売り払う具体的条件を決定し、ぼくらはついにその話題へ差し掛かった。
「ちょっと!」忍耐の限界に達した僧侶が、木魚を腹立たしそうに殴った。気の毒ではあるが、姉は葬儀屋だし、ぼくだって医者だ。そんな二人に真剣な葬儀を求めるほうが難しい。死ぬ、死ぬ、人は死ぬ、本当に人は死ぬ、経を読もうが子を産もうが嫁に逃げられようが、人は死ぬぞ、おい、わかってんのかアンタ、死ぬんだよ人は。
「ちょっと待ってもらえますか」舌先まで滴りかけた言葉を努めて封じ、ぼくは礼儀正しく頼んだ。まだ議論も始まっていないうちから、姉は額を手で押さえて唸っていた。
 どこから忍び込んできたのか、引き戸の前を黒猫が通りがかった。「ちょっと!」次に声を上げたのは姉だった。黒猫は唖然とするぼくらを無視して、座敷の中央を占領した。尻尾を隆々とおっ立たせ、歯を剥き出しにして唸った先は、遺影だった。「死んでるよ」ぼくの説明も聞かず、猫は父の顔面へ突進した。遺影は倒れ、僧侶は叫び、蝋燭は転げ落ちた。畳を焦がし、薄く燃え広がり続ける炎を、ぼくたちは消そうとしなかった。どうせ壊す家なら、解体に手間をかけなくても、自然に燃えてしまえばいいじゃないか。土地は残り、僕らが売る。相続税を支払い、残りは半分に分ける。それで万事解決、とぼくが計画している最中に、脱ぎ被された僧衣が鎮火の役目を果たしてしまっていた。「えーっ」不服そうなぼくに、中年の僧侶は「はあ?」と心情を素直に言い表し、姉はまた唸った。当の黒猫は、姉の隣、深緑の座布団の上で悠々と丸まっていた。参列客が増えるわけでもないのに、僧侶が勝手に配置したのだ。死んだのを忘れた父が、ふらっと出戻ってくるとすれば、きっとそこに座った。
「この猫は何ですか?」僧侶の刺々しい質問に、姉は「猫です」と答えた。
 正解!
 
 姉との喧嘩に負けた父は、時々ぼくを誘拐した。そうやって少しでも姉の気苦労を増やしたかったわけだが、ぼく自身、姉の過保護にちょっぴり耐えかねて、この誘拐旅行を楽しんでいる節があった。父も、ぼくが参り始めたころを見計らって、都合よく連れ去ってくれるのだ。ある日の行先は、公園だった。父は藤棚の影の下のベンチに横になると、「好きにしてろ」と命令した。命令通り、ぼくは好きなように砂場を転げまわり、母親たちの眉を顰めさせていた。父は日に輝く母たちを、顕微鏡でも覗くように凝視していた。
「結婚するか?」
 掌の砂を払い落とし、影下に帰ったぼくに、父は淡々と問うた。
「どうでもいい」
「いいか」
 父が本当に消えるのは、姉にやり込められたときでも、商売に失敗したときでもない。月始めの三日だけ、あらゆる連絡を断ち、失踪するのだった。姉は何も語らなかったが、父にも相手が居たのだろう。父は子供と彼女を対面させはしなかったし、その相手も、父の煮え切らぬ性格を承知していたに違いない。臆病というより、面倒だったのだろう。
 妻の不貞を発見した父は、憤りもせず、「三日で出てくれ」とだけ頼んだらしい。三日居残った母は、昼にカレーとシチューと豚汁を作り、夕方まで引越の用意をした。母と入れ替わりで姉が学校から帰ってきて、冷めた鍋を温め直すのだった。三日目の夜に、姉は鍋底に繁る青い炎へそうっと指を伸ばした。「こら」と、背後の男が注意した。姉は火を赤く落とすと、食器棚から汁物用の茶碗を取り出した。父は立ち尽くしたまま、蒼白い姉の指先を凝視していた。二歳のぼくは、転落防止用のベルトで椅子に縛られていた。最初の記憶だ。
 四日目の夜に、マザーテレサの微笑が台所に貼り付けられた。わざわざ父が図書館で現代史の資料集を探し出し、印刷した写真をセロファンで貼り付けたのだ。誰のための急ごしらえの護符なのか、父は語ろうとはしなかった。秋、離縁に気付いた祖母が、妙に塩辛い煮物や切干大根を送ってくるようになり、姉が料理を始めたころには、マザーテレサを繋ぎ止めていたテープは劣化し切っていた。顔はゆったりと回り落ち、姉は包丁を握り締めていた。写真はコンロに落下し、姉の手がコンロのつまみに添えられた。「危ない!」と叫んだぼくは、三歳だった。白黒のマザーテレサは、最期まで微笑んで燃え落ちた。
 その日から、姉は父に辛辣な言葉を吐き捨てるようになった。祖父母が送ってきた、石塊のように堅い大根や人参を無言で刻み続けた。情念が込もっているわけでもない、ただただまな板に刃の突き当たる単純な衝突音が、ぼくは無性に怖かった。姉が料理に取り掛かるたび泣き喚くと、今度は首元が涙と汗で蒸れ、たまらなくむず痒かった。姉は包丁を左に握り締めたまま、右手の二本指ぼくの顎を挙上し、「痒そう」と呟いた。ベビーパウダーを押し当てる指先は、沸騰したばかりの薬缶のように熱かった。
 中学一生の姉は英語を、年少組のぼくは日本語を勉強した。姉はクッキーアソートの包装紙の裏に、アルファベットのAと、平仮名のあを併記した。「あ」人差し指をメトロノームのように振りながら、姉はその字を読んだ。「あ」と真似たぼくに、続けて姉が「エイ」と指差して読んだ。「エイ」と真似たぼくに、姉は口をつぐんだ。アルファベットのIと、平仮名のい、が隣り合わせになる。「アイ」と彼女が読み、ぼくも「アイ」と倣った。姉は「アイ」と繰り返すばかりで、いつまでも「い」に進もうとはしなかった。
 平成の後に死にたいという父の願いは、余命からして尺足らずだった。年号にこだわりのないぼくたちが、生きながら平成の最後を通り過ぎるのは、なんだかアンフェアだった。「どうして昭和、平成なんていうの」姉の知らないことをぼくが知っているはずもなかったが、苦し紛れに電話台のメモ帳を千切り、「昭和」「平成」と縦に並べた。試みに家族三人の名を川の字で連ねたかったが、ぼくらは全員別々の寝室をあてがわれていた。「昭和、平成、昭和、平成」筋道だった答えを思いつけぬまま、ぼくは二つの名前を繰り返した。「とりあえず、平和だ。和だし、平らかだし」その場しのぎの答えだったが、姉は心から納得したように、ぽん、と右の拳で左の掌を叩いた。懐かしい動作を、ぼくも真似た。ガッテン。
 晩年の父は、健康番組を好んで視た。人生も最終局面なら、もうすこし価値のある番組に時間を費やせばよさそうなものを、父は黙然と、教会のイコンを取り囲む信徒のように、真剣極まる様で善玉悪玉コレステロールの模式図を熟視しているのだった。隣で体育座りをしたぼくに、父は「見るか」と訊ねた。「見てる」と答えた僕に、「そうじゃなくて……」とリモコンに手を伸ばしたまま、父は黙った。特売品のサーモンが、切り刻まれている。姉が三歳の僕の前で握り締めていた包丁は、いまでも台所の主役だった。四つ足で硬直した父の背に、座ろうと思えば、きっと座れた。鼻糞色の悪玉コレステロールが、プラスチックのように透明な冠動脈にへばりつき、血流を滞らせ始める。ガッテン。父は死ぬ。最終的には僕も姉も死ぬわけだが、今年中に終わるのは父だけだ。油の栓が突如として吹き飛ぶと、今度は細かな紅色の血栓が、あっという間に動脈の中身を埋め尽くしてしまう。銀縁眼鏡の老人が、胸を押さえて和室の畳に崩れ落ちる。この俳優は、父より何歳年下なのだろうか。
 父は長い溜息をつきながら、頭を落とした。「動脈硬化心筋梗塞のリスクになります」老年内科の大学教授が、厳粛な声音で語り掛けてきた。顔のてかりと、勿体ぶった両手のジェスチャーが、不愉快でしょうがなかった。「脳卒中心筋梗塞、大動脈瘤の、リスクに、なります」息を吐き終えると、父は突然「うーっ」と唸った。ぼくは、リモコンを蹴り飛ばした。買い替えてまもないプラズマテレビの、ボード下に滑り込んだ。父は腹立たし気にますます唸り、僕は欠伸を噛み殺すふりをした。ゴールイン、ガッテン。人生は長い。

 

 記憶をかき集めるほどに、その集合と父という全体は乖離を増していくようだ。都合のいい歪曲は仕方ないとしても、思い返すほどに自分の内側の父と、本当に生きた父との距離は広がり続けていく。悲しい以前に不思議で、その淵を思うと、ただただ思考が霧散する。
 ぼくは、父の仕事を知らない。物語修復人という、仕事部屋の中央に藤のリクライニングチェアを、サイドテーブルに催眠術の道具に並べて、顧客たちの物語をどう修復していたのか。幼かったぼくは、家の中で小金を稼ぐ父を、魔法使いか錬金術師かと夢見ていた。同時に、習慣の夜歩きも、本当は定期的な空き巣じゃないかと疑っていた。真っ当な実業とは、これっぽっちも思っていなかった。あながち遠い直観でもなかったろう。揚げたてのコロッケで白米を口に運びながら、ぼくは父の行き先をめぐって想像を逞しくしていた。
 姉の帰りは遅く、ぼくは昔から夜型生活だった。子供には相応しくない時間と解り切っていても、夜十一時に食べさせてもらえる竜田揚げや肉豆腐は、どうしようもなく美味しかった。翌朝に、晩の残りを温め直してもらうのもいい。姉は、ぼくを放置せざるをえない時間を埋め合わせるかのように、なるたけ出来立ての夕飯を食べさせようと努力してくれた。いつでも腹ペコのぼくには嬉しかったけど、ちょっぴり気分は重かった。作り置きでも、レンジで温め直すのでも、姉の料理は十二分に美味しいのに。どうせなら、父がご飯を作ってくれればいいのだ。「なんで亭主が飯を作る」そう頼んだぼくに、父は実に不思議そうに問い返した。母は居酒屋勤務だったから、どのみちぼくは夜型民族だったろう。家族四人の生活でも、自分はこの家の重荷なのだろう、と無根拠に確信していたに違いない。
「おいしい?」毎回の質問に、ぼくは必ず「おいしい」と答えた。だっておいしいし、食育の成果で、ぼくには好き嫌いがないのだ。父は違った。芋とか人参とか大根とか、根菜はとにかく貧乏臭い、運が落ちると勝手なことをのまたい、すぐ肉料理を要求した。「お金が足りない」姉の指摘に、父はそれこそスーパーの牛肉みたいに顔を真っ赤にして、両足で憤然と床を叩きながら、「嫌味か!」と怒鳴るのだった。「事実よ」姉が家計簿を開こうとすると、父は急にうろたえて口ごもった。姉の茶褐色の手肌は、ゴボウの皮に似ていた。
 そのわりに、ぼくには貧乏の記憶がない。ぼくは家計を食事内容によってのみ判断し、我が家のエンゲル係数は高かった。大豆食品は多かったが、結局は姉も肉好きで、冬のぼくたちは一週間に二度も同じ鍋を囲んだ。すき焼きの牛肉争奪戦では、「俺の金だ」という父の抗議は完全に無視され、かえって卵を三個も四個も贅沢に割るのを注意されていた。
 父がときどき飯抜きで出かけるのは、稼ぎの悪さを、遅い夕食として突き付けられたくなかったから、だけではなかったと思う。大好きな夜が、待ちきれなかったのだ。姉の目を盗んでぼくを誘拐し、行動範囲の狭い息子ですら歩き慣れた住宅街の道を、縦横斜め、無法図に、そして嬉しそうに歩き続けた。流れる川の暗さに目を細め、回る星の眩さに瞠目し、突然立ち止まっては、ぼくに「ほら」とか「あれ」とか、簡単な言葉でぼくには見えない何かを指差した。きっと路地の隅に枯葉が積み重なっていたとか、果実酒の空瓶が転がっていたとか、そんな他愛ない風景に違いない。違いないが、父にはきっと特別な発見物だった。
 酒も飲めず、つるめる友達もいない父は、勤め人で賑わう居酒屋の赤提灯を、少し恥ずかしそうに通り過ぎていった。終電を見送り、閉じ切った駅のシャッターの前で、背伸びをしていた父の嬉しそうな横顔を、いや、父もそんな時刻まではぼくを連れ回さなかっただろうから、想像と現実の混同に違いないのだが、ぼくは、記憶している。冬には黒の襟巻に厚着を重ね、夏には藍色の作務衣で渡り歩いた夜道の踏み心地を、舗石の黒い輝きを、父は死に際で思い出したのだ。そうで、あって欲しい。でなければ、父は牢屋のような中庭へ小窓が開いたきりの、あの昏々と暗い血液内科の個室で、どうやって夜の時間を潰したのか。
 全身状態が悪化する。寝たきりになる。退院後は車椅子が必要ですね、と血液内科医が手続きを約束する。全部無駄になる。父は院内で死ぬ。根治術なし。抗癌剤で正常細胞と癌細胞を皆殺しにしようと、放射線で病を焼き続けようと、深く埋もれた病根は芽を伸ばし、茎を生やし、食い潰す。摂理だ。受け止める他ない事実だ。時間が解決する。記憶は要約される。入院以来見かけなかった黒猫が、闘病生活の終わった丁度その日に、庭先へ姿を現わす。猫嫌いだったはずの姉が、自分の手から、夕食用のささ身を分け与えている。
「飼うつもり」ぼくが訊く、姉がいう。「まさか!」
 餌の乗った父の手を、この黒猫は容赦なく噛んだ。姉の手から大人しく肉を食むのを眺めながら、人生はうまくいかない、とぼくは四十二歳にあるまじきことを考えた。今のぼくには、それが間違いだと理解出来る。全ての人生が死をもって終わるなら、その場所こそ正しい目的地なのだ。どう生きようが、人生は全て適切に終わる。父も、正しく生き終えたのだ。
 十年後、麻酔に耐えきれず、術中に死亡した肝臓癌の患者を見送ったぼくは、自分が独り身として死ぬ未来を想像し、誰一人とも適切な関係を結ばなかったことを後悔する。二十年後、術後翌日に死亡する、工事現場の三階相当の高さから転落した若い男に麻酔をかけているぼくは、自分の後悔を忘れている。三十年後に医局長に就任した直後、若い同僚が薬物中毒で逮捕され、ぼくは田舎の病院へ飛ばされる。四十年後のぼくは、生きている間に根治可能になると勝手に思い込んでいた悪性リンパ腫で、死亡する。姉は、電車に乗り遅れたでもしたように、間の抜けた顔でぼくの最期を眺めていた。いちばん最後じゃなくて良かった、とぼくは勝手な安心感を抱く。アルファベットを読む声が、遠くから聞こえてきた。

 

 小学生のぼくは、摘んだ野花を砂場に埋めるのが好きだった。紫の小花を千切り尽くし、日光を吸って熱い砂の下に埋めた。内側で拳を握ったり解いたりしたときの、液体とも固体とも定め難い不思議な感触が、気持ちよくてしょうがなかった。ぼくがむしりとった野花が本来ならばいくつもの実を結び、その数だけの生命を産出し得たことを思うと、今現在のぼくはおかしな罪悪感に駆られ、昔のぼくは爽快だった。この手に握り締めた、青紫のオオイヌフグリの花のなかに、何百何万の命が詰め込まれている。無性に興奮したぼくは、砂の深く、出来る限り誰の手足にも掘り返されない深い場所に、花という花を埋め続けた。
「おい、息子」藤棚の影下から、父はヘンテコな呼び方をした。砂上にあぐらをかいていたぼくは、自分のまたぐらへ視線を落とした。父は薄目を開いただけで、それ以上の言葉はかけようとしなかった。次の埋葬分を採り始めた僕の背後を、犬を連れた老婦人が通り過ぎた。花を摘むのに夢中のぼくを、彼女は懐かしむように笑い、麦色の柴犬は軽蔑の眼で見てきた。急に恥ずかしさが湧いたぼくは、草の汁と手汗で濡れた掌の中心に、じっと目を据えていた。夏風が吹き、老婦人は陽向のベンチに座った。柴犬も飛び乗り、父のように仰向けで横たわった。蛇口で洗い流した手は、ほのかに塩素の匂いがした。体育座りで、目の高さがちょうど柴犬と同じになった。夏日の照る真昼に、老婦人は白のチューリップハットを被ったまま、首を垂らし、瞑想でもするみたいにじいっと眼を閉じていた。気分は番犬なのか、柴犬は公園全域を鋭い目つきで監視していたが、眼前のぼくには関心を持ってくれなかった。なんだか悔しくなったぼくは、栗色の両眼のまえで激しく手を振った。柴犬はひょいと首を高く持ち上げるだけで、父は依然として眠り続け、母親たちは他愛ない会話に花を咲かすばりだかった。途端に自分が、この公園で唯一ひとりぼっちだと気付いた。脱力して垂れた両腕を、水滴が細く静かに流れ落ちていった。今度は柴犬だけが、消沈したぼくの眼を見つめていた。舟を漕ぎ始めた老婦人の手から、リードの持ち手が落ちた。どきどきしながら、ぼくは取っ手の輪を拾い上げた。「おい」ぼくの呼び声に、柴犬は首を傾げるだけだった。誘拐は、未遂で終わった。
 二十年後、父が「お前達の孫は期待しない」と明言する。姉は結婚するが、年齢にしては早過ぎる卵巣癌が発見され、子宮を取り去られる。ぼくは何人かの女性と関係を結ぶが、結婚には踏み込めず、麻酔の仕事にのみ熱中する。月に三日だけの相手なんて、どれほど気楽で素敵だろうと勝手な妄想をしていたが、実際にはただの財布男だった。姉が家計を管理していた以上、小遣いの支給にもその都度申請が必要だった父は、財布以前だったに違いない。
 それでも、父の知人を名乗る複数の未知の老女たちが、日に何人も病室を見舞っては、姉や女同士で争うこともせず、あでやかな花束を手渡してきた。「生花は緑膿菌の温床ですよ!」病棟の婦長は断固として花の設置を許さなかったから、ぼくたちも安心出来た。優美な女たちは、姉の手をまるで聖人のように跪いて取ったり、看病の苦労を慰めたり、わざわざ慈愛たっぷりに励ましてくれたりもした。まったく、余計なお世話だった。
 父は女たちに次々辛辣な文句を投げかけていったが、彼女たちは耐え忍ぶように両目を閉じ、輸液で膨れた父の手を順々に取っていった。「やめろ!」父が絶叫すると、彼女たちはますます憐れむように、握り締めた手を自分たちの胸元へ運ぶのだった。ぼくが耐えられずに口を開きかけたところへ、「すみません」と姉が短く言い捨てた。彼女たちは微笑を崩さず、悠然と部屋を出ていった。「おい」残されたアルストロメリアの造花を、父は弱々しく指差した。花を手渡すと、父は両手で引きちぎろうと試みた。息を切らすだけだった。
 病室には果物の籠が増殖し、「果物はいいのか」と父に不思議がらせた。もっともな疑問だが、ぼくには死病の見舞いに花や果物を持ち込む神経も不思議だった。誕生日パーティーじゃないんだぞ、ここは。
 網目の色鮮やかな高級メロンを抱き締めて、姉が「これはケーキ」と決定した。「メロンケーキ」と父が問い、「メロンケーキ」と姉が答えた。「メロンケーキ……メロンケーキ……」ぐったりしつつも、期待に満ちた柔らかな声で、父はのんびりと繰り返した。薬みたいな名前だな、とぼくは思った。点滴バッグからは、ただ透明な液体だけが滴り落ちてくる。「いいね、メロンケーキ」同調こそしたが、ぼくには完成図がまったく思い浮かばなかった。

 

 東京までは、電車一本。父はぼくらを都内散策に誘ったが、姉が家を出たがらなかった。「外は見飽きた」説得は、ぼくでも難しい。「見飽きない外に行こうよ」姉は右の母趾に爪切りを当てたまま、時間でも止まったように硬直していた。「どこ?」姉の問いに、具体的な行先を知らされていなかったぼくは、まともに答えられなかった。「東京……」割れ爆ぜる音がして、爪の破片が眩く飛んだ。左足で踏むと、足底に痛くて気持ちよかった。「ティッシュ取って」命じられるがままに渡すと、姉は右手に広げたティッシュに左足を乗せ、休符と音符を交互に繰り返すように、正確なリズムで爪切りを続けた。それに合わせて、ぼくは背伸びを繰り返した。両足を切り終えると、四つ折りのティッシュが手渡される。掌には組織の確かな堅さが伝わり、ゴミ箱に放るのが名残惜しくてしょうがなかった。「忘れてる」姉が指差したのは、床上でバナナ型に潰れた最初の一枚だった。片足立ちで見た左の足底に、桃色の曲線が残っている。なんだか嬉しい気持ちで、ぼくは爪を捨てる振りをして、パジャマのズボンにしまった。両手を上げた格好で姉に寝間着を脱がされて、余所行き用のポロシャツを着させられたときも、親指と人差し指で挟み隠した。「楽しみ?」ぼくの上機嫌を勘違いしたのか、姉はちょっぴり羨ましそうだった。「行かない?」「家のことがある」ボタンを閉めてもらいながら、ぼくは家のことを心の中で挙げていった。トイレ掃除、風呂掃除、台所の油汚れ、黒猫を追い払う、掃除機、洗濯機、庭に干す、畳む、箪笥に仕舞い込む、夕食の買い出しと用意、家計簿の記録、それから、ぼくの着替え。「わー」こんなにたくさんの仕事が思い付くことに感動し、思わず両腕を振り上げると、「じっとしてて」と姉が掴み下ろして、最後に両袖のボタンを閉めてくれた。余所行きの格好をしたぼくは、姉を貫くドリルのつもりで、姉の胸元へ頭をぐりぐり押し付けていた。
 エプロンの隙間からする塩素系漂白剤の臭いで、ぼくの回転採掘運動は途中停止になった。姉はぼくを押し退け、パステルカラーに刺繍された、純白のタオルを何枚も何枚も畳み続けた。ぼくは滑らかに動き続ける手つきを眺めながら、積もり続けるこの家のことが、いつかは家自体の大きさをも超え、ぼくら全員を呑みこむ巨大な怪物になってしまうんじゃないかと変な妄想に耽り、指の間の爪を、何度も何度も御守りみたいに握り続けていた。用意の遅い父は、いつまでもぼくを呼んでくれなかった。

 

 父のメロンケーキに関して、姉は手作りに、ぼくは店屋物にこだわった。高級メロンを素人の菓子作りで台無しにするよりは、池袋なり銀座の百貨店で小洒落たメロンケーキを買ったほうがいい。メロンタルトとか、メロンプリンとか、メロンパイでもいい。だいたい、手作りなんて湿っぽいだろう。助手席からの説得を、運転席は完全に無視した。
 わずかな化粧品や手帳と一緒に、病室の巨大マスクメロンまで詰め込まれた藍色のトートバックは、今にも姉の膝下ではちきれてしまいそうだった。メロンの種子が発芽し、茎が分枝し、花を結び、鳴った小粒の実がたちのわるい腫瘍のように果糖を溜め込みながら隆々と膨れ上がり、北海道から都内までトラックで運ばれ、百貨店の青果売場で竹の籠に林檎や葡萄と一緒くたに収納され、上品な女たちの手に渡り、そうしてあの狭苦しい病室から連れ出されているわけだ。ぼくは溜息をつき、週刊誌の目次をめくった。同じ国のどこかでバンドボーカルと女性タレントが不倫しているのに、なんでぼくは他人の贈り物にケチをつけようとしているんだろう。だいたい、姉の得意料理は牛肉の時雨煮とか肉豆腐とか、押しなべて茶色い。表紙が風呂場のタイルみたいにツルツルで、角の異常に鋭い婦人雑誌には、まったくもって無縁の人生だ。北欧のプレートなんて、我が家には一枚もない。
 丸めた週刊誌で自分の太腿を叩いていると、車は見覚えのないY字路を左に進んだ。誕生日パーティーに、初挑戦のケーキを用意するみたいなものだ。意見を通せない自分が情けなかったが、一度もお菓子作りの余裕などなかった姉の人生について、つい考えずにはいられなかった。「どこ?」「近道」一方通行の細い道路を、姉は延々と曲がり続けた。本当は、故意の遠回りなんじゃないか。ぼくは雛菊スカートの襞を観察したり、窓を開閉したり、週刊誌で自分の肩を叩いたりした。「いいね。手作り」姉が微笑む。「いいでしょう」皺の淡く浮かんだ横顔は、記憶のマザーテレサに似ていた。大通りのローソンで、席の交代。
 停車中の車内で、ぼくはローソンの赤玉メロンプリンを、姉はクックパッドを検索していた。三百円しないし、これだってメロンだろ。「どう」アクセルを踏んだぼくに、姉が五年前のスマートフォンを見せてきた。「どうかな」メロンヨーグルトムースケーキ。走り出す。「どう」深緑の断面が美しいメロンパウンドケーキは、レシピ中程で緑色色素を投入していた。色素なんて、そんなにお手軽に手に入るものなのか。「どうかなあ」「どう」メロンでメロンパン風パウンドケーキ。「メロンパンはメロンじゃない!」パウンドケーキ好きのぼくだって、メロンでメロンパンをこしらえられたら怒るぞ。赤信号。「どう」墓石型のスポンジケーキに大量の生クリームを盛り付け、切り刻んだメロンをあられのように振りかけた、単純明快なメロンのショートケーキ。メロンケーキは、やっぱりメロンが主役じゃなきゃ。「それだ!」「なるほど」「なにが」ぼくの疑問には答えることなく、姉はレシピの解説文を音読していった。母の誕生日のために作りました、ティータイムにも是非。メロンが苦手な旦那様のために、頂き物の高級メロンをすり潰してパウンドケーキに、大好評でした。苺のない六月が誕生日の息子のために、苺の次に好きなメロンをたっぷり使ってあげました、最後にチェリーや蜜柑を飾れば完成。姉の舌が「ために」を拾い上げるたび、ぼくは眉を吊り上げた。五キロ走ったところで、額の筋肉が痙攣を始めた。

 

 父のメロンケーキ会には、自宅外泊が必要だった。申請書を手渡された父は「なんで帰るのが外泊なんだ」とふて腐れ、案の定ぼくが代筆することになった。骨髄抑制がかかり、免疫機能の低下した父を、何日も連れ回すことは出来ない。誕生日でもない翌日の昼に、ぼくが父を連れ帰った。姉は前日の夜遅くまで大はしゃぎで製菓器具を買い集め、今朝も早くから大量の卵を割っていた。上機嫌な姉に、とても運転なんて任せられなかった。
 点滴の針を外し、明日の薬を受け取って、ぼくらはエレベーターに乗り込んだ。「葬式みたいだな」一階のボタンを押したぼくに、父はにやりと笑った。「葬式だよ」
「なんで葬式は本人を呼ばないんだ」枯れ枝のように痩せ細った腕を、父は堂々と組んだ。「主役不在だろうが」ぼくは、二階と三階のボタンの間に、指を二本置いていた。エレベーターは三階で停止し、聴診器を首にかけた童顔の医者が、憮然とした顔で入ってきた。ぼくは、研修医を終えてから一度も聴診器を使っていない。医者の後で、ぼくたちは一階に降り立った。「かもね」息子の無意識の言葉に、父は首を傾げた。「何がだ」「うーん」なんだっけ。父は認知機能のテストで満点を叩き出したが、ぼくは正直怪しい。           
 姉のアウディは蒸し暑く、父は「冷房」と命じた。ぼくは従い、車は出発した。近道は要らない。家なんて、既知の道だけで帰れるはずなのだ。ぼくは呆けたように外環を走り続け、赤信号で急停止した。「おーい」遅い呼び声のあとで、列車のように長い鋼鉄のトラックが、延々とぼくの視界を塞いだ。「おい!」と叫んだぼくに、父は平たい声で語りかけた。「人生は長い」車が何台通り過ぎても、信号は青になってくれななかった。ぼくの掌が、ハンドルの中央に伸びる。「人生は長いぞ」父は繰り返し、信号は青になった。足は素早くアクセルを踏み、手は引っ込むのが遅れた。九官鳥みたいなクラクションに、父が口笛を吹いた。前方を見続ける他ないドライバーには、赤面の隠しようがなかった。父は側方を、淡緑色の茶畑を見ていた。「長いといえば、長くなった」なるほど。自分に言い聞かせる呪文みたいなものか。「だったら、良かった」「うん」
 ぼくは、父との会話に飽きつつあった。三十年も親子の関係で過ごしてきて、飽きないほうが不思議だ。水分を失った臍の緒のように、温度の抜け落ちた関係だった。「人生は長い」ぼくがそう口に出したのは、単純な感想としてだった。「だろう」道路は長い直線で、併走してそびえる高速道路が日を遮って薄暗かった。十年後の自分からすれば、今現在の自分は、過去のなかに息づいているわけか。高速道路は右に蛇行し、ぼくは速度を落とした。唐突な白色光に、目を焼かれたのだった。ぼく以外、同じ方向を走る車はなかった。再びアクセルを踏んだときには、父は居眠りを始めていた。あんな狭い病室で、毎日が負け戦だ。それこそが、病気との付き合い方らしい。
 人生の全体に比すればあまりに短い期間のうちに、一気に死への道筋を駆け登らされているわけだ。人生は、適切に重荷を配分しようとはしてくれないみたいだ。ぼくはアクセルを加減して、常に時速四十キロを保つよう試みた。速度計は三十八キロとか、四十二キロとか、標準偏差の範囲内を彷徨い続けた。半世紀生きて、死なない生物のほうが変だろう。膝からずれ落ちた、腐った葡萄のような茶色の手の細胞ひとつひとつに、五十年の遺伝子異常が蓄積されている。ぼくは速度を五十キロに上げ、窓を開けた。果てしなく加速を続けていけば、自分の魂も記憶も車内から放り出されていくのではないかと考えつつも、結局ぼくは法定速度を越えられなかった。時速四十キロの風を、四十年後のぼくが思い返す。

 

 静まり返るぼくたちの家に、父は観光客みたいに目を輝かせていた。空き部屋ばかりの荒れ果てた木造建築は、表面の木材も剥がれ落ち、誰かの一蹴りでペシャンコに押し潰れてしまいそうだった。百年後にでもタイムスリップしたみたいな気分で、自分が学生時代に居着いていた家とは信じられなかった。サザエさんのエンディングの、線描の家が家族の突進でぐにゃぐにゃに折れ曲がる場面を思い返していると、庭の影から黒猫が忍び歩いてきた。顔見知りのはずのぼくたちに、黒猫の一瞥はよそよそしかった。父の差し伸べた手から、黒猫は困惑気味に後ずさりし、ついには身を翻して逃げてしまった。父は無念そうに唸り、ぼくは噛まれなかったことに安心した。どんな感染症のキャリアか、わかったものではない。
 合鍵を回すやいなや、甘い芳香が鼻を打った。互いに顔を見合わせ、おそるおそる居間へ入る。ぼくたちは、姉の満面の笑みに出迎えられた。「見て」普段は焼きそば用の青い大皿に、石窯で焼いたピザ一枚分ぐらいの、巨大なスポンジケーキが積まれていた。「びっくり!」言葉を失ったぼくの感情を、姉は正確に言い当てた。びっくりだし、どうするんだよ、これ。
 古墳型のスポンジケーキは、全面を大量の生クリームで塗り固められていた。乳白色の分厚い表面層に、球体にくり抜いたオレンジ色の果肉が、これでもかとばかり贅沢に散らしてある。ぼくは、精巣捻転の手術を思い出していた。台所は橙色の果汁で汚れに汚れ、銀色のボールには薄力粉と卵黄がべっとり残存し、ねばついたメロンの種子と卵の殻がシンクの底で混ざり合っていた。ぼくは腕を組んで目を閉じ、父は新種の生物でも観察するみたいに、うきうきとこの惨状を眺めていた。「食べよう」ぼくが両手を叩くと、姉は食器を準備しながら、スポンジを膨らませる難しさについて楽し気に語り始めた。
 父は机の外周をぐるぐる回り、三百六十度で巨大ショートケーキを観察すると、「メロンケーキだな」と心底嬉しそうにいった。球体の配置だけは、見事な放射線状だった。ぼくと父が着席すると、姉は円を四つに等分した。「八!」ぼくの叫びは無視され、父は姉の手捌きを嬉しそうに目で追い続けていた。ぼくは頬杖をつき、四分の一メロンケーキを観察した。 スポンジ生地の断面は隙間だらけで、クリーム層との間にも大量のメロンが挟んであった。これはもう、完全なメロンケーキだった。父は呑気な歓声を上げながら、皿を延々と時計方向に回していた。食欲の減退している父は戦力外として、はたして姉に協力するつもりはあるのか。「召し上がれ」姉は自分の取り皿も出さずに、残りのケーキから球体を一個だけ口に放り込んだ。岬の突端部を縦に切ろうとしたが、生地がぐにゃぐにゃに折れ曲がり、綺麗な垂直には断ち切れなかった。悲惨に崩れた一塊を金メッキのフォークに乗せ、父と同時に口へ運んだ。「おいしい?」姉はご機嫌に笑いながら、包丁を縦に握り締めていた。ぼくが言葉に迷っていると、父がむっと眉を顰めた。
「……そのままのほうがうまかったな」
 包丁の切先が、びくりと震えた。
「お前は?」
 不敵な笑みと共に、父はフォークの矛先を向けてきた。薄弱な笑みを浮かべ、フォークを右手で回し始めたぼくを、父はアッハッハと快活に笑い飛ばした。つられてぼくも、そして姉までもが、大声で笑った。調子外れの三重奏みたいに、ぼくらはばらばらに笑った。【了】