淵を渡る祝福 木村紅美『見知らぬ人へ、おめでとう』について

 

見知らぬ人へ、おめでとう

見知らぬ人へ、おめでとう

 

  木村紅美の小説の基調音は別れであり、『風化する女』から水辺はいつも告別の場所である。『花束』の海沿いの崖は現実から遊離出来る場であり、小説はそこから故郷を後にする。別れは第一には恋愛の別れであり、第二には死の別れであり、第三は疎遠の別れである。他愛ない疎遠の別れが、死別に等しい絶対性を帯びる瞬間を書いた最初の作が『海行き』であり、単行本なら『イギリス海岸』に相当する。
 表紙には、隅田川に架かる橋が描かれている。思えば木村紅美の小説には水辺はあったが、「橋」がなかった。それは、木村紅美において別れは絶対的であり、再会の余地に乏しいことと無関係ではないのかもしれない。『ソフトクリーム日和』のように、再会はむしろ過去との差異を、そして静かな幻滅や再度の別れを予感させる出来事でしかない。通じ合う可能性がない、とも言える。
 『見知らぬ人へ、おめでとう』は、『月食の日』より明瞭に、木村紅美のひとつの転換点を示している。「橋」の出現である。表題作は堕胎の罪悪感を主題にした小説だが、木村は、死者の彼岸から此岸を見返すことで主人公を罪の意識から救い上げている。これは、『風化する女』で海を前にして、れい子さんとの絶対的な断絶を実感した瞬間とは真逆である。『見知らぬ人へ、おめでとう』が木村紅美の作品群において特異なのは、別れの絶対性、思考や想像力の及ばない水辺、断崖を前に足を止めるのではなく、いわば「橋」を渡るように、別れの先へ眼を凝らした点にある。この橋は、『黒うさぎたちのソウル』で、奄美大島の古謡の世界や、沖縄で戦死した女の「ソウル」と呼応する場面に続いている。
 死者の彼岸から生者の此岸を見返す身振りは、次の水上バスでの描写で簡明に説明されている。

 水上バスがエンジン音を轟かせ桟橋からはなれると、心のなかで口笛を吹きながらプルタブをあけた。地上は暑いけれど、水上は風が吹き抜けて涼しい。レインボーブリッジに背中を向けビールを飲み始めた。左側には高層ビル、右側には工場が建ちならんでいる。やがて波を立て走り始めた。一つめの勝鬨橋が迫ってきて、見あげると笑いそうになり、首をすくめた。浅草に着くまで、橋を十いくつかくぐり抜ける。吸い込まれる瞬間が好きだ。ひんやりと薄暗くなって、エンジン音が橋げたにこだまし、昆虫と化してもぐりこんでゆくみたいだ。接近してくるのを、いつしか心持ちにしている。
 (……)陽ざしをはね返しぎらつく中央大橋と、佃島にそびえる硝子細工みたいな高層ビル群を水上から見あげているうち、灯子はだんだん、地上は現世で、水上バスで現世からゆっくり引き離されていくみたいに感じだした。
(十六、十七頁) 

 小説はこのあと逝去した祖母をめぐる回想へと、現在から「引き離されて」いく。眼を惹くのは、「昆虫と化してもぐりこんでゆく」という人ならざるものへの視点の転換だ。「地上は現世」なら、水上は現世ならざる場所である。現世から引き離された、人ならざるものの眼で地上を見返すこの動作は、『花束』冒頭の水原あおいが、海底の骨の目線から地上の自分の孤独を思い返し、密かに心を慰める身振りに似ている。
 そもそも『見知らぬ人へ、おめでとう』の飯島灯子が「突然、思いたって半休」を取ったのは、「地上」の「きらいでたまらない」「制服」を支給される会社で、「雲」を眺めているときだ。どうにもならない現実を主題にした本書の収録作は、それまでの木村紅美の小説と比べても、鮮やかな「雲」の描写が目を惹く。この「雲」を眺める目線は現実逃避であり、田舎への嫌悪、東京への憧憬も入り混じった『花束』の目線とさほど変わらない。ただし、『見知らぬ人へ、おめでとう』の飯島灯子のこの目線は、やがてはもう一人の主人公であり、経済的問題から第二子を堕胎した原田未央の心を救い上げる。灯を点すから、灯子なのだろう。

 「(……)ひと晩じゅう、考えちゃったんです。寝られなくなっちゃった。産める機能を持っているのに、産まないでいるのって、もしかして、生まれてくるかもしれない子どもを殺してるのと、同じことなんですかね?」
(……)
 ――孕んだことさえないらしい女が、自分と同じことを考えている。
「……殺しているって、産まないことが、ですか?」
 おもむろに向きなおると、声を低め訊き返した。イイジマさんはまばたきし、何度もうなずいた。
「うん。……特にね、おばあちゃんやおじいちゃんといっしょにいる子どもを見かけると、揺さぶられる、っていうか。私は、このさき、両親を、おばあちゃんにもおじいちゃんにも、してあげられないかもしれないわけじゃないですか。それって、孫を最初から殺してるのと、同じことなのかな、って思って」
「そうね。殺してるって、言えるかもね。それなら、避妊だって、人殺しだよね」
 またコーヒーを啜ると、自分にも言い聞かせるようにつぶやいた。
「そうかもね」
 反発されそうな気がしていたが、受け止められた。二人とも殺人者だ、と言い聞かせたら、未央は胸のうちが凪いだ。自分は孕んだことのない女と同じだ。それなら罪は犯していない。
(八十一、八十二頁) 

 この解釈は、現実と可能性の世界を等価と読むときにしかあり得ない。可能性の世界とは、現実から遊離した、頭の中の異界だろう。可能性の世界に渡って、そこから現実を見返せば、孕んだ子の堕胎と、孕むかもしれない子を孕まないことは等価の過ちになる。
 これは、現世ならざる水の上へ船で渡り、そこから地を見返す眼差しとパラレルである。あるいは、百人が集う結婚式場に、こんな夢を視る目線と。

 もしもいま、真上からジェット機や爆弾が落ちてきたとしたら、きっと、みんな、逃げまどう余裕もなく、会場ごと一気に燃え尽きるだろう。焼け跡には、骨と歯と溶けなかったアクセサリーと携帯だけが重なりあって散らばる。――だれのものかなんて、まるっきり、区別がつかなくなるだろう。
(九十頁) 

 人々が等しく焼死体と化し、「だれ」の区別もつかなくなった場所は、凄惨ではある。けれどそこには、個体の苦しみ、煩わしい現世から解き放たれた静けさがある。これは『花束』で水原あおいが水死体として分解された、海底の静けさでもある。焼け焦げた後に、「骨と歯と溶けなかったアクセサリーと携帯」を眺め直せるのは、まさしく「骨」の目線だろうから。ただし、木村紅美の小説には、「雲」を見上げる逃避の視線があるにしても、いつも空想で「死体」になるか、あるいは「船」で渡る、通過の手続きが必要になる。ごく素朴に、それが逃避でしかないことは、他ならぬ主人公たちがいちばん痛切に理解している。逃避は束の間の慰めかもしれない。しかしその微細な救いこそが、日常を辛うじて生き延びさせてくれるのも事実だ。
 『見知らぬ人へ、おめでとう』の「だれ」の区別もつかぬ焦土は、膣から産み落とされる以前、羊/水の世界、にも繋がっている。

 すでにかなり迫り出しているはずのおなかは、たくしあげられたスカートのふくらみと、耳に挿されているのと同じ、象牙色の百合が主役のブーケに上手く隠されている。いまたしかにその向こうに息づいているはずの、出来なかったかもしれない赤ちゃんと、殺されたのではなく生まれたくなかったのかもしれない赤ちゃんに向かって、未央はもういちど、さっきよりはっきりした声で呼びかけた。
「おめでとう」
(九十四頁) 

 大学時代、飯島灯子は一度だけ会ったことのある原田未央に「ついこないだも、お母さんと電話してて、つまんなことでケンカになってさぁ。うっかり、私はいっそ、この世に生まれてきたくなんてなかったんだよ、って怒鳴っちゃった。どうして、私なんか産んだんだよ、って」「私はもう、しかたなく生まれちゃったけれど、おなかのなかにいるときにさ、あなたは生まれたいですか、生まれたくないですか、って訊かれていたとしたら、たぶん、きっぱり、生まれたくありません、って答えたと思うんだよね」(六十五、六十六頁)と語っていた。
 原田未央は「はあ、と気の抜けた返事」をするばかりだが、原田未央の救いはこの再会から喚起された回想に萌芽しているし、より語を絞るなら「生まれたいですか、生まれたくないですか、って訊かれていたとしたら」の「したら」の仮定法にある。実際にはもちろん「おなかのなか」に問い合わせなど出来なくて、あくまで想像の橋を渡っているに過ぎない。二十歳で飯島灯子が渡ったその橋を、理屈からすれば「子どもっぽい」(六十五頁)だけの話法を心に想い起こしたとき、原田未央は子どもが「生まれたくなかった」可能性に歩み寄ることが出来る。胚芽はものを考えられないから、これは単なる心の慰めに過ぎない。けれど、堕胎を殺人の罪過と見なしてしまったとき、自ら赦しを与えられる、確かな論理でもある。
 二十歳ならば、誰でも心中に呟くような他愛ない言葉だ。だからここに奇跡があるとすれば、言葉の内容ではなくて、はるか過去の言葉を現在という時間にまで汲み上げられた、その回想の力だろうと思う。併録作の『野いちごを煮る』もまた、交わるようですれ違うだけだった同郷人の、何気ない野いちごの挿話から「明日目ざめたら、突然、ぜんぶが宝石みたいにきらめく野いちごの花束に変わっているところを思い描いた」(百六十一頁)とき、断絶していたはずの人に「電話」を鳴らし、「声」で繋がり合う物語だ。自分のなかに埋もれていた記憶が、平凡な再会によって掘り起こされたとき、たとえ幻のような一瞬の光であっても、日々にわずかな慰めをもたらすのであれば、それは祝福と呼んでもいいのかもしれない。
 他ならぬ自分の羊水に浮遊していた「生まれたくなかったのかもしれない赤ちゃん」に向けて、「おめでとう」と祝福することは、何を含意するだろうか。それは単に「希望のまま、生まれないままでいれて、おめでとう」という、心の慰撫を交えた、斜に構えた祝福だけではないと思う。まだ胚芽でしかないもの、未だ個の芽生えていない胎児と、かつて自分が孕んでいた者とに「だれ」の区別をつけないということだ。新婦の胎芽と、自分から離した胎芽とを、ともに人になろうとする可能性の萌芽として等しく読まなければ、この祝福はあり得ない。羊水という水辺に向かって、新婦に妊娠された子に、「妊娠しておめでとう」と祝福し、そしてたまたま別の腹に在るだけで、もしかすると自分が孕んでいたかもしれない子として「生まれずにいておめでとう」と同時に片側で祝福するとき、同時に地上では、新婦であるエリーに、そして未央自身もおそらくは意識せずに、他ならぬ自分を救った自分への祝福を唱えている。だからこの水中の「見知らぬ人」への「おめでとう」は、同時に地上への二人の女の祝福も兼ねた、四重の祝福だろうと思う。
 表題作は、最後の一文で飯島灯子と原田未央を「似たもの同士」(百頁)と評している。何気ないけれど、木村紅美の小説でここまで語り手=作者が前にせり出してくる瞬間を、私はこれ以前の作で知らない。堕胎した原田未央が、妊娠しないままの飯島灯子、結婚式の服装もまともに整えられない彼女とを「似たもの同士」として縫い合わせるには、可能性の世界に渡らなければあり得ない。
 堕胎と孕まないことには、本来絶対的な断絶がある。少なくとも、『見知らぬ人へ、おめでとう』以前では、間違いなく海ぐらいの深い淵があったはずだ。けれど、原田未央が飯島灯子の苦悶を自分のそれと縫い合わせ、二十歳なら誰でも心中で呟くような他愛ない言葉を現在にまで汲み上げたとき、たとえ堕胎の告白がなくとも、ふたりは「似たもの同士」になれる。そのささやかな形容こそが、『風化する女』から別れの淵の水深を測り続けた手が綴る、最高の「おめでとう」のはずなのだ。だって小説は、誰よりもまず、作者にとって「見知らぬ人」の物語なのだから。

記憶への歩調 木村紅美『月食の日』について

 

月食の日

月食の日

 

  小説の描写とはどういうものだろう。大袈裟な問い方になるけれど、素朴に考えるなら、描写とは次の書き出しのようなものだ。

 有山隆の暮らすアパートの外壁は、卵色、という呼びかたの似合う淡い黄色をしているらしい。
「このアパート、卵色、って感じだよ」
 と隆に教えたのは、以前、交際していた路子だ。
「美味しそうな色。角のケーキ屋で売ってるレモンのムースにも似てる」
(七頁)

 有山隆は盲人である。アパートの壁が卵色だと保障してくれるのは、かつての交際相手が「教えた」言葉だけだ。これは人が小説に触れるときの条件に近似している。「有山隆の暮らすアパートの外壁は、卵色、という呼びかたの似合う淡い黄色をしている」と「教え」られる限りにおいてのみ、アパートの外壁は卵色だ。そこを、一人称や二人称ならともかく三人称でひっくり返すことにはさほどの面白みはなくて、卵色、と書かれれば卵色でしかない。だから、小説のこの書き出しは、小説の描写とはどういうものかを端的に表している。格好つけた書き方をすれば、それは「教え」である。
 教えには、教えられる側の許可が存在している。アパートの外壁は卵色かどうかなんてわかりはしないじゃないか、と読む側が拒んでしまえば、もうそこで言葉は止まる。小説は、書く側が教え、読む側が教えられるという、ひとつの黙契のもとで成立する。信頼出来ない語り手、という概念について私は何の知識を持ち合わせていないが、あれも「この書き手の言葉を信じるな」という教えと、それを受け入れる側の許容があるはずだ。
 傑作『花束』に続く『月食の日』は、小説の描写とは何か、を問い直す場面から始まっている。盲人を主人公にするというアイデアがどこから湧いたのかは、まだ資料を集めていないから知りようがない。小説の制作順は必ずしも発表順とは一致しないし、むしろ文芸誌に掲載された本作は原稿の受取から掲載までそれなりの時間を要した、と推測するほうが自然だろう。とりわけ、『月食の日』まで異様な速度で作品を発表し続けた木村においては、作品の書かれた順番を正確に同定することは困難だ。ただ、『風化する女』でれい子さんのロッカーの描写で胸を衝き、『島の夜』で島の風景を鮮やかに描き出した木村紅美という作家が、『花束』というあるシーズンの技術の結実を越えて、今いちど自分のなかで描写とは何か、を問い直した作品として『月食の日』を定めることは可能とは思う。

 盲目ということで余計な警戒心を持たれないせいもあるのか、隆には女友だちがやけに多い。
(七頁)

 盲目は、必然的に「教え」を多く受ける条件だ。作中にも、女友だちからの複数の「教え」の場面が挿入される。教えの場面が先にあり、そこで「警戒心」が霧散する場面は、後々の人妻とのやり取りにある。思えば、木村紅美のヒロインたちは、教えられる場面を然程持ち合わせてこなかった。「卵色」に相当する、世界を規定する「教え」の場面である。予備校寮を舞台にした『花束』では、肝心の授業の風景は徹底的に避けられる。『島の夜』のヒロインがトシミさんから性的な教えを受ける場面には、自分が実際にその技術を振るうのだという実感は伴わない。
 『花束』のような傑作を書き上げた後の木村紅美がどういう心境にあったかはわからない。ただ、傑作の先に、教えを受ける場面が中核を成す小説が続くことは、何かしらしっくりとくるものはある。あるいは『花束』の、とりわけエピローグにおいてひとつの完成に至った描写を、別方向に発展させる枝葉の動きが『月食の日』にはある。それが、どういう花を結ぶかは、先々の小説を読めなければわからない。
 ただ、徹底的に語り手の眼の力を消す、言葉だけの世界に生きるとはどういうことかを問い直した『月食の日』は、木村においてひとつの転換点という気がしてならない。月食の「食」に相当する暗闇のなかで、新たに見えてくるものは何か、という模索の手つきがある。
 完成度からすれば確実に併録作の『たそがれ刻はにぎやかに』のほうが上だし、派遣労働者認知症の老女、という社会で苦悶に喘ぐ人々を主人公に設定するのには、『風化する女』でれい子さんに注いだ眼差しに近いものを感じはする。まもなく失われるであろう空間の重みを、その場所の記憶の描写をもって保存する手腕は、『花束』のエピローグから受け継ぎ、発展させたものだろう。
 『月食の日』という本において、併録作は『花束』と同じ方向へ、表題作は別の方向へ歩く作品だと、まずは単純に整理出来る。
 もしくはこうは言い換えられないだろうか。『花束』のエピローグは空間にまつわる記憶の重みを描き出しているけれど、裏返せば、記憶なくして空間は鮮やかに物語られない。『花束』の結末で写真が意味を持つのは、管理人夫人が映っているからではなく、同時に去ろうとする元寮生たちと、彼女たちの花束が被写体になっているからだ。空間の描写は、単にたとえば「卵色」ということを列挙する、ということではないはずだ。以前の交際相手が「卵色」と教えてくれた、というミクロな物語なくしては、その描写は精彩を欠く。順序が逆転するが、「角のケーキ屋で売ってるレモンのムース」を思い出せるからこそ、「卵色」には意義がある(あるいは単に卵色と書くだけでは素っ気なくて、つい「レモンのムース」を続きに書いてしまう)。
 そのとき、空間を着色する記憶、挿話は、物語に近似していないか。あるいは、物語の前提なくして空間を書くことは難しいだろうか。

 清水博子という作家がいた。彼女は空間描写に偏愛を示し、一方で物語は通俗的なものとして排斥していた。だからこそ清水は、物語の前提なく空間を描写し、それが作品になり得る「短歌」を嫌悪した。清水が本格的に物語を書き始めるのは、おおむね『処方箋』からだ。読み手が今居合わせていない空間を書くことは、言葉の想起の力を最大限に引き出す場面だろう。『処方箋』以前の清水は、物語なくして風景を描くにはどうすればいいかを模索し、挫折し、「物語」と「時間」の処方を受けなければならなかった。『月食の日』は、おそらく小説自身も知らずして、同じ問に触れている。
 『月食の日』は、それまで別れを基底音にしていた木村の小説と比較すれば、明らかに物語の失われた小説である。別れの小説は、乱暴な言い方をすれば、確実に物語を形成する。出会いから別れまでの経緯を書くことは、たとえば発病から死までを書く程度には手堅い。粗筋は、盲人の男が昔の知り合いの家に食事を食べに行くだけの話、と要約出来なくもない。有山隆も、彼に触れた人々も、物語らしい変化を被ることはない。
 ただし木村は、清水と異なり、空間の描写に「教え」のエピソードを刻印した。そして「教え」を受けるのは、盲人の有山隆であり、そして読む側の私たちだ。むしろ、教えの場面を持ち出すことは、作中人物と読む側の立場を重ね合わせる、自然な導入だろう。物語に優先して空間を描くには、相応の理由が要る。少なくとも必要とする作家はいる。木村紅美はその側の作家だし、清水博子もまたそうだった。だから清水には「処方」が必要だった。清水が適切な処方、つまり空間の描写を執拗に続ける理由を初めて得られた傑作こそが、『亜寒帯』だった。
 盲人が、ああ誰かに教えられたな、と空間のいちいちに記憶を反響させることは、何ら不自然ではない。その微細な物語の積み重ねが、別れのような、あるいは作中に持ち込まれながら、あえて描写を回避される阪神大震災のような、巨大なプロセスを圧倒する。それが人間なんだ、なんて大袈裟な身振りを木村紅美の小説はしない(だから本当はこういう文章も似つかわしくない)。ただ、木村紅美の小説がしばしば他者との別れを描き、そしてそれがモラトリアムや停滞からの一歩と重ねられてきた、基調として青春小説の書法を採用していたことを鑑みるなら、『月食の日』は間違いなく『花束』から別の枝葉へ芽吹くための一歩、に位置付けられるべき小説だ。そもそも、『花束』が他ならぬ卒業の小説なのだから。

 空間を描くことがそこに蓄積された物語を書くことと同義なら、その物語は人間関係の束とも言い換えられるはずだ。
 木村における物語の大半は、人と人の遭遇で形成される。だから、空間を描くことはその空間に染み付いた記憶を、すなわち関係性を書くことにほぼ等しい。この地点において、描写、物語、関係性はひとつに結ばれる。関係性なくして物語は成立しないし、物語なくして空間を描写する意義は存在しない。木村は別れを頻繁に書く作家だったことを思い返すなら、『月食の日』は空間を先に書いているようで、実際には関係性から出発している小説だろうと思う。「卵色」には「路子」がまとわりつく。だから、小説は他愛ない人間関係の網を書いているようで、不思議な空間の広がりを感じさせている。実際には「卵色」の「アパートの外壁」から始まる空間描写は狭苦しさすらあるはずだ。けれど、関係の網の広さがそれを感じさせない。
 小説は物語としては完結していない。むしろ、完結しない物語こそが、たとえ月食の日であろうが何でもなく終わるのが人生だ、と読むのは、もちろん勝手が過ぎる。木村紅美の小説は人生に触れているけれど、その瞬間を、たとえば人生の手触り、などと安易な言葉で要約するには躊躇われてしまう。それだけの重みが、空間の描写に、関係の束に宿されている。たとえば、この先に続く傑作、『ボリビアのオキナワ生まれ』がそうだ。
 『月食の日』が、盲人の感覚のモードとはどういうものか、という描写を主題にしているのは確かだ。だから、小説は最後まで盲人の感覚にこだわりつづけるし、最後は「彼は自分や佳代が住んでいるのとは地続きでありながら違う世界に存在しているのだ、という思い」(十七頁)を、「風向き」(八十五頁)の挿話で反復するだけだ。「観測していた他のだれにも思いもがけない方法」で「月食を共有」するのには独特な色気はあるけれど、それでも「恋人同士」と取られるのは「かんちがい」に過ぎない。詩織が隆と不倫関係に陥ることは今後もたぶんなくて、これからも夫の浮気を疑い続けながら、夫婦生活を反復するのかもしれない。木村紅美において、この漫然とした反復は新鮮だ。別れにしろ出会いにしろ、木村紅美が描いてきたのはいつも一回的な挿話だから。「日」という短い時間もまた、木村の小説においては同様に特異だろう。
 併録作『たそがれ刻はにぎやかに』の主題もまた、反復である。顕は変わり映えしない日雇い労働に打ちのめされ続け、くららはアパートメントの生活が打ち崩されるときに死を願い、オリーブオイルは定期的に配達される。そもそも認知症という疾患自体が、新規の情報が定着困難となり、過去の記憶を地盤にする他なくなる、反復の病だろう。反復は、常に変化し続ける物語とは対極の位置にある。くららがそこから脱するには死しかないが、自殺は失敗する。顕もくららも、「人知れず死にたくなる」という希望は同一だろうが、『たそがれ刻はにぎやかに』という小説は、そんな綺麗な物語のエンドを許そうとはしない。ただ、漫然と重苦しい日々の延長を予感させるだけだ。そのピリオドの打ち辛い時間こそ、木村の新しい場面展開だろう。
 ただし、後に書かれた『見知らぬ人へ、おめでとう』を読む限り、むしろ木村が『月食の日』で主題としたのは盲人の感覚ではなく、過去の「教え」の場面を幾度となく喚起する記憶の力、その現在に蘇生される瞬間の鮮やかさ、という気もする。『見知らぬ人へ、おめでとう』で小説の核となるのは、平凡な過去の回想が、思いがけず心の慰めや救いになる場面だから。感覚が絶えず記憶を折り返すのが、この小説の盲人だろう。小説が記憶を思い出すとき、時間はいつも、現在にいるのか、過去にいるのか、曖昧な流れ方をする。だから、文体にはふらつきに似た浮遊感がある。『月食の日』の浮遊感は、視覚の失われた空間を読み手が歩き続けるふらつきと、言葉にぶつかるたびに「教え」の過去へ連れ戻される、二重のふらつきから成り立っている。
 小説が感覚と記憶の交わる場を進むとき、そこには現在=感覚から過去=記憶への歩みの転換があるのかもしれない。出来れば『月食の日』は『見知らぬ人へ、おめでとう』と、そしてたとえば『イギリス海岸』と併せて読んでほしい。美しい記憶が強固な現在=現実のまえに崩れ落ちる、すなわち幻滅の瞬間を描き続ける『イギリス海岸』と、他愛ない記憶が現在に喚起されたとき、それが心の救いとなる『見知らぬ人へ、おめでとう』との淵を繋ぎ合わせる橋として、『月食の日』を読むことは可能だろうから。

水生するさびしさ 木村紅美『花束』について

 

花束

花束

 

  作家のすべては処女作にあるという説があるけれど、発言者が誰にしろ言い過ぎで、たしかにデビュー作から最新作まで繋がる水脈は、作家読みをしていると頻繁に見出せはするけれども、書き生きるあいだで、もちろんそれ以外の水流も流れ込んでくる。最初は書き手もよく掴めずにいたものが、続く作品で鮮明な意味を見せることもある。そういう小説が、たぶんしばしば傑作になる。作家の、ひとつのシーズンの決算とも言い換えられる。
 『花束』はそういう小説だ。東京の大学受験予備校の、まもなく取り壊される女子寮が舞台だから、題名が最初に意味するのはその寮生の女子たちだろう。第二の意味は、気取りすぎだけれど、『風化する女』から『イギリス海岸』までの三冊のなかに書き綴られた花、小説における技法や、木村紅美という作家のこだわりが、そのまま集まった『花束』でもある。小説に限らず、あらゆる創作の発展は蒐集と統合の連続だ。ぶらつきながら歩いていく、目についたものをひたすら自分のなかに取り込んでいく作業が最初にあって、それから集めた花を束ねる統合の作業がある。
 もしこれから木村紅美を読む人がいれば、『風化する女』のあとには、ぜひ『花束』を読んでほしい。それから『島の夜』と『イギリス海岸』を読んで、『花束』で結ばれた花が、最初に自生していた裸のかたちを、確かめてほしい。
 小説は、こんな文章から始まる。

 高一の夏休み、東京から私の家へやって来た大学生の杉浦さんは、海に向かってタバコの煙を吐き出しては溜息まじりにくり返していた。
「ここはさびしいなあ」
 杉浦さんは恋人と別れたばかりで、傷心から立ち直るために出た旅の途中だった。
「きっと、日本一さびしい場所だよ」
(七頁) 

 木村紅美はさびしさの作家だ。選ばれないさびしさ、別れのさびしさを書いている。失恋と別れが『イギリス海岸』で主題として繰り返されるのは、それがさびしさにおいて通底するからだ。孤独とは、すこしずれる。選ばれないことには孤独が付き纏うが、もう二度と再会しない人間と別れたあとも、また人は誰かと結ばれ合う。そこには孤独はないけれど、さびしさはある。木村紅美が書くのは、人のあいだにあって、それでも強烈に感じずにはいられない寂寥感だ。『風化する女』は、存在はたしかに認知されているけれど、誰かに選ばれはしない「女」のさびしい「風化」を書いている。
 木村紅美の女たちはいつも失恋するか、利用されている。失恋はたしかにたびしさの極致だろう。けれど『花束』では、さびしさの主題は、微妙に色合いを変えて咲いている。北海道の故郷を離れ、東京に困惑する永原あおいのさびしさ、兄への思慕に囚われ続けている吉川咲のさびしさ、高校時代からの恋人と簡単に別れてしまえる貴島礼奈のさびしさ、きっとどこかで好きだったのかもしれない同性に突然去られた松本多英のさびしさ、誰かと誰かが交わったかと思えば、かつての関係などなかったように振舞えてしまうさびしさ、これだけ濃厚な感情が集い重なる空間が、ひっそりと取り壊されていくであろうさびしさ。さびしさは、異性にも、同性にも、時間にも、場所にも根を伸ばしている。
 さびしさを種子に物語と関係性が花開いていく構図は、『イギリス海岸』の響きを受け継いでいる。正統な進化形でもある。
 人はいつかはさびしさに訓練され、順応していく。『風化する女』のれい子さんだって、結局はローカルな歌手に弄ばれる自分を、おそらくは諦観半分に受け容れていたはずだ。あるいは、本作と同じく「東京」という文化の着こなしを主題にした『海行き』で、映画監督志望の男が夢を諦め、友人との別れを前にして、誰ひとり二度と出会わないであろうさびしさを口にしないように。『イギリス海岸』の梢が、清彦の記憶から一歩踏み出すように。
 『風化する女』以前に書かれた『島の夜』の小百合さんが、いつまでも異性との性交を夢見ているのとは対照的である。『花束』は、社会に運ばれる以前の少女たちが、さびしさと衝突する物語でもある。貴島礼奈は初恋の相手に、吉川咲は兄に、松本多英は同性への思慕をはじめて自覚した相手に、永原あおいは故郷に、それぞれさびしさを突き付けられる。小説の序盤を飾る永原あおいの空想は、さびしさの原風景でもある。

 絶壁に佇んでいると、たびたび、彼の仕草や声がよみがえり、気分がざわざわと落ち着かなくなっている。すると私はきまって崖っぷちまで歩み出て、腹ばいになる。前髪を潮風で巻きあげられながら、はるか下に広がる海をのぞきこみ、目をつぶって『The Sugiura Selection』を聴く。
 そうして、魚たちに肉や内臓を食い荒らされ、白骨と化した死体が、だれにも見つからないまま海の底に静かに積み重なっている光景を空想していると、ふしぎと、少しずつ、落ち着いてくるのだった。
(十頁) 

 木村紅美の小説世界において、海はいつも別れの場所だ。だから、という接続詞が正確かはわからない。ただ「絶壁」は、東京に消えていった杉浦さんとの別れを自覚せずにはいられない土地ではある。別れは、『風化する女』や『海行き』や『イギリス海岸』のいくつかの短編がそうであったように、心にその人の像を刻み込む。「彼の仕草や声」は、その人を前にすればそれほど幻惑的に巻き上がってくることではない(それは、続く『吉川咲 夏』の、あまりにもあっけない「杉浦さん」の描写を読めばわかる)。「絶壁」の縁にまで「歩み出」て、「白骨と化した死体」になる自分を想像することが、「ふしぎと」「落ち着」きを与えてくれる。なぜ落ち着くのか、小説内には明白な記載はない。ただ、本来目にすることのできない自分の「死体」を空想し、「だれにも見つから」ずに「海の底」に沈むとき、孤独はむしろ救いになる。別れの孤独は気持ちを乱すけれど、個別の誰かではなく地上との別れであれば、もはやそれに心を乱されることもない。『風化する女』のれい子さんも、きっとそう生きようとしていた。
 けれどそんな完全な別れはあり得ない。どれだけ幽霊になりたくても、生者は地上を生きるしかない。だから、「海の底」は「空想」でしかない。
 『吉川咲 夏』の冒頭は、美大志望の咲が「小五のとき、初めて県のコンクールで最優秀賞をもらった水彩画」の話から始まる。「大きなコップにシュワシュワと満たされたハチミツ色の液体のなかに、街がひとつ閉じこめられている」という画材は、死別した兄の「街ぜんたいがね、大きな、大きなコップに入ったシトロンプレッセの底に沈んでいるみたいなんだ」というパリの描写に由来している。檸檬水を意味するフランス語は、兄のバンドの名称でもあり、そして別れの海の名でもある。「祭りの灯りのとぎれた先にあるのは、冥界だ」という五十六頁の何気ない文章は、木村紅美において「崖っぷち」の先に何があるのかを、そっと呟いている。『風化する女』の岸壁、『クリスマスの音楽会』の浜辺の先には、冥界が続いていたはずだ。

 ネグリジェに着がえて電気を消し、ドアを閉めるとき、もういちど、隙間から、女の子たちの笑いさざめく声が、無数の花びらみたいにこぼれてきて追いかけてくるような錯覚に、一瞬、陥った。じっと耳を澄ますと、洗面室やトイレや、廊下の隅々からも聞こえてくる気がする。
(一九七頁) 

 エピローグは素晴らしい。寮生たちの消えた建物のなかで、声と花が結ばれる。「……い、い、いらないよォォォッ」(二十四頁)や「やだ、アレ、始まっちゃってるゥ。どーしよォー」「キャッキャッキャッキャッ」(三十二頁)といった、それまでの木村紅美の小説と比較してバタ臭い語調も、生の「声」として録音されたものだと分かる。乱れた声の記憶を、端正に整えることなく、そのまま束ねることが、この小説においては正しいのだろう。
 多英たちから贈られた花束がポプリとして保存されるように、記憶もまた管理人夫人のなかで「大切にしまって」「何回でも思い出して」いられるものだろう。寮は破壊されても、その記憶は生き続けている。小説は「海の底」から始まり、「湯船」で終わる。上京前の水原あおいが、二度と出会えないかもしれない、けれど名前も言葉も強烈に残った相手の残像から「海の底」へ運ばれるのと、管理人夫人が浅い「湯船」で、少なからず名の記憶を失った「何百人もの女の子たちの喋り声」を思い出すのは、正確な対比だ。小説は、永原あおいがいくつもの別れを積み重ねて、やがては「湯船」にたどり着く未来を予感させる。別れへの順応と、その記憶を慈しめる身のこなしを、あるいは加齢と呼べるのかもしれない。
 ただし、幸福な結末の前後には、夫からのやんわりとした性交の拒絶がある。

「でも、たまには一緒にゆったりと入ってみない?」
 上目遣いをしてみると、夫は夫人ではなく花束のほうを向いて苺ミルクを食べ始めている。夫人は内心、溜息をついてまたうつむき、すでにいい具合につぶれた苺を、スプーンを握る指にいっそう力をこめ、押しつぶした。うす赤い果汁が飛び散る。
「一回ぐらい、ここで」
 急に喉が渇いて、二人きりだし、とはつづけられなかった。
「……いや、おれはやっぱりシャワーで充分だ」
 そっけなく首を横に振り、夫はさっさと苺ミルクを食べ終わると、厨房へ入り後片づけを始めた。夫人はつぶしすぎた苺にハチミツを回しかけ牛乳を注ぐと、肩をすくめ花束に向かって小さく笑いかけて、なるべくのんびりと食べた。
(一九一頁)

 夫は性交の意志にもちろん気付いているし、だからこそ拒絶のさびしさがある。それを、「肩をすくめ」て受け流すのは、長年の夫婦生活で培われた順応の動作なのだろう。この微笑の意味は難しい。二十二歳で結婚し、「いっぺんも子供を産」まず、「夫以外の男は知らない」ままに、月経を終えた五十歳の女が、花束のような少女たちに何を思うのか。たぶんそれは、貴島礼奈が水原あおいのクッキーの無作法な食べ方に、「ひらりとつま」む模範を示す場面の、「彼女は学習しなくちゃならない」(一〇五頁)という心の動きとは、きっと違うはずだ。学習し、習慣と化してしまった動作で和らげようとしたさびしさが、未だ社会に出る前の女たちのように予想外に深く染み透ってしまう自分の心を振り返ったときに、ふと洩れた微笑だろうと思う。

海岸の遠近法 木村紅美『イギリス海岸』について

 

イギリス海岸―イーハトーヴ短篇集 (ダ・ヴィンチブックス)

イギリス海岸―イーハトーヴ短篇集 (ダ・ヴィンチブックス)

 

  木村紅美において、海は別れの場所だ。たとえば『風化する女』で、語り手は海を望む夢の砂丘と、北海道の埠頭とで二度れい子さんと別れる。『海行き』は大学時代の友人と別れる話だし、『島の夜』でトシミさんから告白を断られるのも夜の海だ。だから、『イギリス海岸』というこの本は、題名からして、すでに別れの短編集である。表題作がいちばん面白いかというと難しいが、それでもやはり、この題名を書名に選ぶべきなのだろう。
 二種類の離別がある。第一は死者や失踪者のような、どうあがいても永遠に会いようがない相手との別れだ。第二は会おうと決めればいつでも会えるし、再会の約束さえ結ぶけれども、もう二度と出会わないことを互いに確信する別れだ。前者は離別だが、後者は疎遠である。死のような離別と、インターネットが発達した時代の疎遠では、本来その重さは異なる。『イギリス海岸』においても、出会いと別れにはしばしばインターネットが付き纏ってくる。けれど木村紅美は、たとえば『海行き』がそうであるように、いつでも言葉や音声で繋がり合えるはずの相手との疎遠が、絶対的な離別としか思えない瞬間を書いている。このとき、再会の約束は、むしろ離別を意味している。
 たとえば『ソフトクリーム日和』の、「いつのまにか音信の途絶えていったさまざまな友だち」との別れだ。

 あたしは、高校を卒業するとすぐに上京して、二十歳過ぎまでアルバイトで生計を立てつつ、売れないロックバンドなどやっていた。
 ひろみちゃんは卒業後は、地元で一年浪人したあと、東京にある女子大学に合格し、
〈私も上京することになったよ。〉
 とハガキで知らせてくれたのを、おぼえている。
 そのころのあたしは、住所不定、数週間おきに、彼氏をはじめとする音楽仲間の家を転々とする生活を送っており、居場所は、双子の姉の翠以外、だれにも教えていなかった。
 翠は、あたしには無断で、上京したことをひろみちゃんに教えた。そして実家あてに送られてきたハガキを、アパートまで転送してくれたのだ。
〈東京で遊べるのを楽しみにしてるよ~!!〉
 ひろみちゃんの新しい住まいは吉祥寺で、あたしの暮らす高円寺とは、電車で十分ほどしかはなれていなかったけれど、あたしはなぜだが、彼女とあらためて連絡を取る気にはなれなくて、返事は出さなかった。
(『イギリス海岸』一〇〇頁) 

 盛岡に帰郷した「あたし」は、恋人を連れていった小岩井農場で、ソフトクリームを売る「ひろみちゃん」と再会する。

 どう考えても、農場でソフトクリームなんて売っているのは、アルバイトにすぎないだろうから、
(定職には、ついてない、っていうワケか)
 また、心のなかで、つぶやいた。
「あ、あたしはね、もう、ずっと東京に」
 居つづけていて、などと説明しかけて、列が詰まっているのに気づき、
「今夜、よかったら、ウチに電話してッ」
 そう叫ぶと、アツシのもとへソフトクリームを持ち帰った。
(一〇八頁) 

 『ソフトクリーム日和』では、ハガキ、電話、メールといった通信手段の差異が明確に書き分けられている。「あたし」は恋人からのメールをひっきりなしに気にするが、咄嗟にひろみちゃんに呼びかける連絡手段は実家への「電話」である。ハガキは無視できても、電話には会話を強制する力がある。

 ベッドに寝そべり携帯電話のメールを打っていると、家の電話の子機を持って、翠が部屋に入ってきた。
「お友だちから電話だよ。高校のときいっしょだった武田さん」
「エッ」
 まさか、ほんとうに、ひろみちゃんが家に電話をかけてくるとは、あまり思っていなかったので、びっくりした。
(一一二頁) 

 「電話して」とは第一に社交辞令だし、第二はあたしが未だに「はかなげな雰囲気をただよわせた美少女だった」高校時代のひろみちゃんを引きずっている証でもある。ひろみちゃんは東京での銀行員生活に疲れ、肥え太っている。なし崩しに、嫌っていた家業を継ぐつもりらしい。

 よくよく、話をしているうちに、ひろみちゃんの働いていた銀行と、あたしの働きつづけている会社とは、二駅ちがいで、通勤路もかぶっていたことがわかった。
 もしかしたら、同じ電車で、あるいは、乗り換えする駅のホームや街の雑踏のなかで、知らないあいだに、すれちがったことがあるのかもしれなかった。
 だけど東京では気づかない。
 あまりに人が多すぎ、気づくわけがない。
(一一八頁) 

 たぶん携帯電話越しの距離は、「知らないあいだに」「すれちが」うぐらいの近さにありながら、「気づかない」世界なのだ。それは、たとえば幽霊に似ている。木村紅美の幽霊は、いつも「すれちがう」ほどの距離にいながら、だれにも「気づかれない」世界を彷徨っている(『風化する女』のれい子さんが、職場の誰からも関心を集めていなかったように)。掌の電子機器からほんの数語を書き送れば再び繋がり合うけれど、その数語が億劫だという「疎遠」は、別れに近い。相手を幽霊にする視線といってもいい。薄情といえばそうかもしれない。自分のその薄情さを覆い隠すように、会う気もしない約束を取り結び、言い訳のようにアドレスを交換し合うのは、現実的な別れ方ではある。だからこそ、そうして別れた相手から、距離を潰す「電話」が来たとき、人は「あたし」のように、「なぜだか」「暗く」なるのではないか。幽霊に触れられるような不気味さを、感じてしまうのではないか。
 『ソフトクリーム日和』は簡単な約束で終わる。短い文章だが、絶対的な別れの響きがある。

 ふいに、ひろみちゃんは、これから街なかで帰省中のあたしを見かけたとしても、気づかないふりをするんじゃないか、という予感がした。
 あたしは、どうするかわからない。ひょっとしたら……。
(……)
 次に会うのは、いったい、いつなのか、わからないけれど、
「今度は、ほんとにおいしいソフトクリーム、食べに行こうね」
 約束して、あたしたちは別れた。
(一二四頁)

 近いようで遠い幽霊が一方の極ならば、遠いはずのものを異様に近く感じてしまう瞬間が、『イギリス海岸』のもう一極である。携帯電話越しにいつでも会えるはずの他人が、幽霊のように果てしなく遠い存在になることもあれば、初めて目にした風景が、故郷のように感じることもある。
 その奇妙な瞬間がもっとも鮮やかに書かれたのが、書き下ろしの『クリスマスの音楽会』だ。
 話の筋はあっけない。『イギリス海岸』で恋人の前から突然失踪した清彦は、「野垂れ死にしたい」という衝動に突き動かされ、ヨーロッパを彷徨っている。アイルランドで出会った「ヨーコさん」という日本人の旅行客の言葉を頼りに、浄土ヶ浜を訪れる、それだけの話だ。ヨーコさんは、「服装が若々しく、ガール、というふうにも見え」るし、「両目の下のクマの濃さと頬のやつれ具合からして、オールドミスらしくも」見える。
 「ダブリンからゴールウェイまで来る途中の景色」が、故郷の岩手、花岡と重なり合ったという。

 バスに揺られているあいだ、ずっと時差ボケの影響でウトウトしていて、ふと目がさめ、窓の外を見ると、いつでも淡い緑の丘が広がっているのを、
(まるでふるさとに帰ってきたみたいだ)
 なんて、感じつづけていたのだという。
「成田から飛行機を乗り継いで、十四時間もかけてたどり着いた国だったていうのに。……とてもそんなに遠く離れた場所なんだって気がしなくて。ふしぎね。……なにせ、ボケているせいで、私はとんでもない回り道をして岩手に帰ってきただけなんじゃないか、とも思ったりして」
(一六五頁) 

 彼女と関係の進展があるわけでもない。そこから観光地までの道を共にしただけで、翌朝起きたときには、もう別の場所へ旅立ってしまっている。置手紙もなければ、住所や電話番号の交換もなかった。教えてもらったはずの漢字の表記も、すっかり忘れてしまった。だから、ヨーコさんと再会することは、きっともうない。それでも、「彼女は、ヨーコさん、としておれの記憶のなかに存在している」(一七一頁)。ただ旅先で出会っただけの同郷人なのに、その記憶は、いつまでも色濃く残り続けている。もしかすると、無言で置き捨てた『イギリス海岸』の恋人よりも。

 そこは、たしかに、浄土ヶ浜、と名づけられるだけあって、この世ではないような、しかし、
「世界の果てっぽいの」
 とヨーコさんが言っていたのも納得がいくような景色だった。
(……)
 突然、だれかの手のひらから、水面に灰が撒かれている光景が、脳裏に浮かんだ。その灰とは、おれなのだった。
 初めてやって来たこの場所を、おれはひとめで、たぶん、とても深く愛した。
(一八一頁)

 たぶん短編としての勘所はここなのだろう。海を前に、その彼方の彼岸に思いを巡らせる構図は、『風化する女』の結末に似ている。
 でもこれは『風化する女』の先に書かれた小説だ。だから本当に大事なのは、その次に続く場面だ。

 やがて、遊歩道の向こうから、ひと組のカップルが歩いてくるのに気づいた。
 濃い緑色をした上等そうなコートのうえから、さらに、ミルク色のショールをふんわりと巻いた女は、ヒールのないブーツを履いており、となりの夫らしい男にしきりといたわられながら歩いてくる。
「こんにちは」
 すれちがいざま、男のほうからあいさつしてきて、
「……こんにちは」
 ぶっきらぼうに返すと、女も、
「こんにちは」
 つぶやくように言い、一瞬、口もとをほころぼさせておれを見て、またうつむき、二人は歩き去っていった。
(……)
 緑のコートの女は、むかしおれがつきあっていた恋人と瓜二つの顔立ちをしていたのだけれど、そういえば彼女は、
「私には、ソックリの双子の姉がいるのよ」
 と、いつも話していたことを思い出したのだ。
 しかも、姉のほうは、岩手に住みつづけているのだと。
 おれは、そちらとは会ったことがない。
 もしかしたら、いますれちがったのは、双子の姉のほうだったのかもしれないし、あるいは、世のなかには、同じ顔をした人間は三人いる、なんていうから、双子外の、もうあと一人なのかもしれない、とも思った。
 ――どちらにしろ、おれにとっては、見知らぬ他人だ。
(一八三頁) 

 おれにとっては「見知らぬ他人」だが、それでも「恋人」の残影がふいに心に滲むぐらいには、その「ひと組のカップル」は心を突き刺していった。この「濃い緑色をした上等そうなコート」の女が、恋人の双子の姉はわからないけれど、「見知らぬ他人」であることには変わりない。「双子」という関係は、まったく異なる二人を、同じ人物のように感じさせてしまう。姉と妹は、アイルランドと岩手の田舎ぐらいは違うはずだ。
 似た偶然は、『イギリス海岸』でも繰り返されている。『イギリス海岸』の梢が、自分を捨てた清彦を忘れられないのは、「ふだんは、タクシーの運転手をやっているというおじさん」が修学旅行で彼に教えてくれたという、ある挿話の記憶からだ。

 「夏の夜にはね、天の川がきれいに川の水に映るんだってさ。ちょうど、イギリス海岸、と名づけられた辺りに立つと、空に広がっている天の川と、水に映った天の川が、地平線のところでつながって見える……川のほとりをずっと、ユラユラ揺れる星明りをながめながら歩いて行けるんだってさ」
(……)あたしはその川に映って揺れる星の話をキヨヒコから聞くのが好きで、何度、お願いしくり返し聞かせてもらったか、わからない。
(五十一頁) 

 彼女がその記憶から解かれるのは、「イギリス海岸」への旅で出会った「タクシー運転手のおじさん」を、清彦が出会った「おじさん」と同一人物ではないかと思い始めた瞬間からである。天の川が映るのも、「川の流れ自体、賢治が生きていたころとは、かなり位置が変わってしま」ってもうない、と聞かされたとき、初めて梢は、「記憶のなかのキヨヒコの影が、ようやく薄れはじめ、遠くなっていく」のを感じる。それが、本当に清彦の出会った「タクシー運転手」かどうかは分からない。海岸の「濃い緑色をした上等そうなコート」の女と同じぐらいには、きっと遠い誰かなのだろう。
 それでも、人が生きるうえで、何気ない遠くの他人が、異様な近しさをもって心のなかで迫ってくる瞬間はある。そして近いはずの誰かが、死者のように遠くなることもある。『イギリス海岸』という短編集を貫く主題は、人生のこの不思議な遠近にあると思う。

遠い自分の空葬 上田岳弘『ニムロッド』について

 

第160回芥川賞受賞 ニムロッド

第160回芥川賞受賞 ニムロッド

 

 帯が内容を語り尽している。「ドライで軽妙な展開の底につねに虚無への想像力が働く」という阿部公彦のコメントから「ドライ」「軽妙」「虚無」の三語を、さらに田中和生の言葉から「抒情性」を抜き出して、さらに作家志望の男と堕胎経験のある女、という登場人物の内実を知らされたら、ある程度年齢のいった人なら大体のトーンや話の方向性は想像がつきそうなものだ。「僕たちは、個であることをやめ、全能になって世界に溶ける」という引用句と堕胎を重ね合わせれば、ああ、全てが計算された完全な未来に、たとえば先天性疾患が判明した胎児の堕胎が失敗として対置されるのだろう、というところまで予想は進んでしまう。マニアックな固有名詞は極力避けられ、誰もがアクセス可能なwikipediaの記事が頻繁に引かれる。「軽妙」で「虚無」に満ちた時代に生きる、ノイローゼ気味の男と女は、最終的には問題の解決策を見出すことなく失踪するしかない。そのような使い古された強固な形式こそ、ビットコインという新奇な題材の語りには必要だった。上田岳弘がこれまで繰り返してきた、過剰の果てに破局に至る寓話、もしくは与太話は、本作では作家志望の世に出ない作中作という、ひっそりした形式で語られていて、そこに客観的な距離を見出すことも可能なのだろう。作家本人の最高到達点からは少し力の抜けた、良い意味で芥川賞らしい、穏健で、ウェルメイドな小説である、と要約出来るかもしれない。
 ただ、こんなことは読めば明らかな話だ。小説は全般に感傷的だが、次に引くニムロッドの言葉は、挫折した作家志望者の発想として生々しい。

 これから書くものは賞に応募しない。誰かに読ませようと思って書かない。名古屋で会ったとき、ニムロッドはそう言っていた。一つの小説が世の中に存在するためだけに行われる、シンプルな行為。今はそういうことにしか興味を持てない心境なのだ、と。その文章が評価を受けて「芸術としての価値」を纏うことも、誰かを感動させて「読者の魂を救う」ことも、そうした可能性は予め捨て去られている。ただそこにごろりと文章がある。
(七五頁)

 これは創作の気鬱である。「そんな衝動を持っているのは、きっと僕だけじゃない。それは、誰もが心の奥底に抱えている根源的な衝動に違いない。そんな衝動がきっと空っぽな世界を支えているんだ。僕よりずっと才能のある芸術家だって、それが空っぽだと知っていて、だからこそ、そのことを表現せざるを得なかった。表現するだけの気力が尽きてしまったら、あとは死ぬしかなくなるものな。未熟なロックスターが二十七歳で自殺するように。たくさんの傑作をものした老境の作家が自ら死を選ぶように」(一三一頁)という語りを踏まえれば、(語弊は大いにあるだろうが)「芸術家」として小説家を見る態度だと思う。けれど、こんな考えを本気で信じていれば、小説を書くなんてちんまりした作業は出来ない。だから、と接続するのは残酷だけれど、作家を挫折したニムロッドの寓話はたいして面白いファンタジーでもないし、「個であることをやめ、全能になって世界に溶ける」ことへの不安は、鬱病のニムロッドが、先取りしたところで仕方ない未来に不安を抱くこと自体にはリアリティがあるけれども、読んで新鮮な印象はない。
 この小説が面白いのは、題名に反して、興味深い登場人物が「ニムロッド」でないことだ。『ニムロッド』でもっとも目を惹く登場人物は、小説に失敗したニムロッドでなければ、出産に失敗する田久保紀子でもない。それは、一見すれば観察者でしかない「ぼく」である。

 もっと日常的なこと、例えば職場でのストレスや、これまでの異性関係、家族のこと、そういったものを話すことの方が現実に即して、真実味があって、ニュースで起こっている動きは自分には関与しようのない、興味をもってその渦中にいるかのように話すのは、薄ら寒いこと。終わらない日常に耐えるのが、現代人として正しい生き方であり、態度である。それがなんとなくコンセンサスだったような気がするが、それがそうでもなくなってきたように感じる。そういった大きなものの渦中に確かに僕たちはダイレクトに含まれていて、当事者として語らなければならないような気がしてきている。二○一一年の東日本大震災以降だろうか、いやもっと大きな流れ、インターネットの発展とかもあるだろうか、こんな風に今考えてることを、ワードかなんかで文字にして、Ctrl+C&Ctrl+Vでインターネットのどこかに貼り付ければこの思考すらすぐに、世界中で共有が可能になる。僕の思考なんて誰も興味ないかもしれないけど、わずかな現象が静かに連鎖していって、大きな変調を起こすことだってあるかもしれない。僕の思考を見た人が、かすかな影響を受けて書いたものに影響を受けて書いたものを見てその人が――つまりは、バタフライ効果
 片手で操作するiPhone8にYahoo! のトップニュースが表示されている。世界の不幸は誰かのせいではなくて、わずかなりとも確かに僕のせいなのだ。別のニュースではイスラム国で少女が売られていると伝えてくる。

(九〇頁) 

 小説はあたかも「終わらない日常」を書いているように見える。少なくとも、世界を「空っぽ」(一三一頁)と言い切るニムロッドや、「正直言って何のために稼いでいるのか、全然わかんない。なんだか自分の人生じゃないみたい」(一〇一頁)と語る田久保紀子は、そのような「虚無」を生きているし、とりわけ田久保紀子の堕胎をめぐる問題は、言ってしまえば「現実に即し」「真実味が」ある「家族のこと」の範疇を出てこない。「大きなものの渦中」とは、「今考えてること」なのだから、現在の「大きなものの渦中」にある体感である。「予想されうる未来は今と同じか、あるいはそれ以上に人間を縛る」(一三二頁)というニムロッドの寓話は、2018年でなくて、1988年にも書けたイメージだろう。「ダイレクト」に自分が巻き込まれたものの体感について語ることと、「予想されうる未来」の不安を語ることは、似ているようで、実際には大きな隔たりがある。ニムロッドは常に自分の創作の問題に苛まれているし、田久保紀子もそうだ。結局のところ、「日常的なこと」を「現実に即して」「真実味」をもって語るということは、「終わらない日常」の「虚無」を細々と綴り続ける羽目になるのかもしれない(これは、たぶん昔から繰り返されてきた問題で、むしろフィクションより私小説作家においてその状況の打破が目指されたのではないか)。小説が書けないという事態、とりわけその不安に焦点を当てた小説で、私は成功作を知らない。不安は停滞する。不安になる対象から目が離せず、そこから一歩も動けないという状況の固着が、不安だろう。だからニムロッドの訴えも寓話も、常に同じ地点に停滞しているようで、物語を前向きに進める推進力にはなっていない。物語と描写はもちろん違う。ニムロッドや田久保紀子の「虚無」は、あくまで描写の対象に留まる。
 小説を前進させるのは、もっぱら「ぼく」のビットコイン採掘だ。「Ctrl+C&Ctrl+Vでインターネットのどこかに貼り付ければこの思考すらすぐに、世界中で共有が可能になる」「僕の思考なんて誰も興味ないかもしれないけど、わずかな現象が静かに連鎖していって、大きな変調を起こすことだってあるかもしれない」というぼくの発想は、「金庫」に文章を閉じ込めるほかないニムロッドとは真逆である。
 『ニムロッド』は不思議な転位を来した小説だ。これは妄想の域を出ないけれども、小説の最初の構図は、ニムロッドと田久保紀子という、失敗した男女を双極の立場に置こうとしていたのではないか。けれど、小説が最終的に至るのは、二〇一八年以降を生きるぼくと、「終わらない日常」を生きるニムロッドと田久保紀子とが、分裂する地点だ。もちろんニムロッドの寓話の最初の離陸点は、naverまとめという、無記名のインターネットのテキストだ。ニムロッドは、そこから聖書へ逆行する。ぼくが選ぶのはwikipediaだ。「なんでもWikipediaで調べるのが癖になっているのがよくないのかもしれない。どのみちそこにたいていのことは書いてあるんだから、わざわざ僕の脳内に残しておく必要はないだろうと思ってしまう。27クラブのことも、サリンジャーの作品や人間性も、Wikipediaにしっかり書かれてあって、誰かが覚えてくれている」(七七頁)とある通り、ぼくは三十八歳という年齢にもかかわらず(これは作者が一九七九年生まれなのと無関係ではないはずだ)非現実的なほど物知らずな人間で、「カート・コベイン」や「NIRVANA」の名前も、「涅槃」の意味も知らない(十九頁)。でもそんなぼくでも、「Wikipediaの関連情報」を読めば、「航空特攻兵器 桜花」の「発案者」の顛末を知り、それについて感想を語ることが出来る。小説として書くことが出来る、とも言い換えられる。
 『ニムロッド』という小説は「ぼく」の一人称の語りだが、これは「ぼく」がニムロッドと田久保紀子という、「終わらない日常」を生きた二人が去った後に新たに書き始めた小説である、ともいえる。ついに小説家たり得なかったニムロッドの意思が、naverまとめという無記名のテキストから離陸する精神と共に、「ぼく」に継承される物語でもある。技法的には、小説はwikipediaやLINEといった、今現在の私たちの日常には本来ごくありふれているものを、抵抗なく書き切ったところに達成がある。wikipediaのような無記名のテキストから、平然と小説が離陸してもいい、という模範としても読める。きっとニムロッドは、自分の小説にwikipediaやLINEは持ち込めなかったはずだ。継承は、同時に葬送でもある。だから『ニムロッド』は、作家たり得なかった三十九歳の「ぼく」を、飛行機を媒体に、遠く葬り去る小説でもあるのだろう。

昏さへのテレスコープ 木村紅美『島の夜』について

 

島の夜

島の夜

 

 人が人を想う感情の昏さ、不気味さについて書かれた小説である。
 小説は、母と折り合いの悪い「私」こと「波子」が、離婚した父の経営する「沖縄の離島のひとつ」の「民宿」を訪れ、帰るまでの短い日々を描いている。父と再会するのは十八年間ぶり。離婚の原因は浮気で、ホステスの仕事で酔うたびに、母は決まって彼の悪口をわめきたてる。

 母の父にたいする悪口はいつも同じだった。彼の女好きと放浪好きがいかにひどかったかを、自分がいかにそれで傷つけられたかを、声が嗄れるまで語りつづけるのだった。いつも、一方的に、被害者みたいな顔をして。
 (……)
 父をののしっているときの母の顔は、みにくくて、大きらいだった。
 しかし母がいつも最低と言う、その最低の男を母はたしかに好きになって、私が生まれたわけなのだ。いつからか、私はそれがふしぎでしかたなくなった。
 どうして母は、いまとなってはののしってばかりいる父のことを、好きになったのだろう。好きだったはずなのに、なぜいまとなっては、ののしってばかりいるのだろう、と。
(十一頁~十二頁)

 小説は、「好きになった」という情愛の根源を、見極めようとする地点から始まる。愛情が増悪に転換する不思議に触れて、後から思い返せば完全な間違いとしか思えないような恋愛がなぜ生まれるのか、その昏さ、烈しさを覗こうとする物語として、小説は動き出す。最初から結論が出ている小説でもある。恋愛は昏い。底知れぬ、「夜」の感情として見定められている。それが早々に明かされるのが、次の場面だ。

「みんな、ちょっとだけ静かにして」
 父が言うと、みんな静まり返った。すると濃い青い闇のなかで、聴こえてくるのは、打ち寄せる波の音だけになった。私は一瞬、大勢でならんで仰向けになっていることを、忘れてしまった。星空と海だけの世界に、独りぼっちで、放り出されたような気分になった。
(……)
「むかしはこの浜辺に、若い男女があつまって、三線を弾いたり、うたったりしながら、夜ふけまで遊んだんだ。そうしてみんな、何度か恋したなかで、結婚の相手を決めて、代々、子孫ができていったんだよ。いまではすたれてしまった風習だけどね」
「ロマンチックですね」
 トシミさんのとなりに寝ている、今夜私と相部屋になる彼女は、父の言葉に溜息をついた。私はなぜか身ぶるいがした。
 ござから起き上がると、みんなで波打ち際まで歩いた。夜の海はすてきだけど、こわい。
 まっ暗すぎて、気をゆるめると呑み込まれてしまいそうだ。足をひたすと、つめたい。
(八頁~十一頁)

 「島の夜」すなわち「恋」の時間は、確かに「ロマンチック」かもしれないが、同時に「こわ」く、「つめた」く、「身ぶるい」するような昏さを秘めている。相手に盲目的に恋するとき、人が恍惚感と同時に味わうのは、何もない夜の空間に、「独りぼっちで、放り出されたような気分」のはずだ。それは、振り向いてくれるとは限らない相手に、一方的に感情を振り向けている、半ば虚しさに似た孤独である。どれだけ勝手であろうが、それは不平等、不公平の感覚に似ている。私がこんなに恋に苦しんでいるのに、あなたはどうして同じぐらい苦しんでくれないのか。他人の感情は、根源的にはわからない。他人より自分の激情のほうが近しく感じずはいられない以上、「一方的に、被害者みたいに」感じさせてしまう、不平等の感覚は必然である。
 結婚が失敗したから「被害」と化したのでもなく、恋愛そのものが「被害」なのだ。私が「ロマンチックですね」という言葉に身ぶるいを覚えるのは、母の言動から、「島の夜」=恋の時間の「昏さ」を聞き知っているからである。恋は昏く、相手の存在と不在、承諾と否認とにかかわらず、孤独である。結論が出ている以上、小説が集中するのは、その昏さの注視である。恋愛の孤独がもっとも際立つのは、片想いのときだ。
 だから、『島の夜』という小説において反復して描かれるのは、片想いの物語である。たとえば民宿に宿泊している小百合さんが、その主役のひとりである。描写は、『風化する女』のれい子さんを彷彿とさせる。

 一人だけ、やや年のいっている女の人がいた。痩せっぽちで、ショートカットとおかっぱのあいだみたいな髪型をして、どこか悲哀を感じさせる大きな目に、黒ぶちの眼鏡をかけている。おとなしそうな人だ。彼女はいちばん最後に、おずおずと荷台に乗りこんだ。私は今夜は彼女と相部屋になる予定で、うまく話がはずむかどうか、どきどきしている。
(七頁)

 突然死したれい子さんが、ハワイへの社内旅行で「わたし」と同室になる予定だったのを思い出さずにはいられない。小百合さんは「東京のアパート」に住む独身で、教育系の出版社で「営業事務」をやっている。家族と疎遠だったれい子さんに対して、小百合さんは「今年の正月に帰省したとき、お母さんがガンになっていることがわかり、お父さんは数年前からアルツハイマーにかかって要介護度4の身だから、二人の面倒をみる」ため、旅のあとは秋田に帰郷しなくてはならない。「落ち着いたら、また東京に出ていきたいなと思ってるけど」とは語るが、「小百合さんの年齢的にも、状況的にも、そんな遠くの実家に帰ったら、もう二度と東京に出てくるのは不可能なんじゃないだろうか」という私の予想は、おそらく正しいのだろう。
 「霊感が強い」と話し、窓辺に幽霊を目視して怯えるのは、たぶん彼女もれい子さんのように、幽霊の立つ岸に近付いているからだ。『風化する女』の、「砂丘」に相当する地帯である。れい子さんが霊子になったのは「生きていたころから死んでいるみたい」に周囲に扱われていたからだが、自由な東京から、すべて息苦しい秋田へ引き戻され閉じ込められる小百合さんもまた、「死」に近付きつつある。
 人はたとえ肉体が生きていても、その存在の自由を認められなければ死んでいるのに等しい。そういう美学が、れい子さんと小百合さんという、ふたりの「幽霊」には宿っている。
 もっとも、小百合さんはまだれい子さんのように死んではいない。だから、「テレビの旅の情報番組に紹介されていた」「私の父に会うために」ひとりでT島に渡ってくることが出来た。

「波ちゃんの年ならまだしも、三十八歳で、いちども経験のない女なんて、これから先、どんな男の人も相手にしてくれるわけがないじゃない。だれだって気味わるがるでしょ」
「そんなの、隠しておけばすむことじゃないですか。経験あるふりをしておけば」
「意識の問題なのよ。私が、意識しすぎているのがいけないの。だから……とりあえず、だれとでもいいから、私はいちど、経験してみたいのね」
 言いにくそうに、声をひそめて、小百合さんは言った。浮かびかけていた涙は引っこみ、こんどは、両手を後ろで組んで、うつむいてしまった。水の中で、私はまた身ぶるいがした。
「だれとでもいいって、たとえば、だれとですか」
(九十六頁)

 このあと「だれとでもいい」といいながら、「できれば、洋介さんと」と羞恥心を交えて答える場面は、見事であると同時にぎょっとする描写で、『風化する女』のれい子さんの洗濯機から、赤と黒のレースのブラジャーとパンツを発見した下りを思い出す。
 「島の空気は、生きてる人の世界のすぐそばに、死んじゃった人の世界があって、その二つが溶けあってる感じがする」(四十七頁)のだという。これは、T島という「島」に限らず、『風化する女』から今作まで、木村紅美の世界を貫く原理だ。生者の世界と死者の世界が隣り合い、溶け合う世界においては、生者はときに容易に死者の世界へ滑り落ちていく。生きながら死んでいるという事態が、まず社会的にあり得るのだから。れい子さんの痕跡を追って、彼女が消えていった彼岸まで旅したのが、『風化する女』の主人公だった。『島の夜』においては、同性の恋人に置き去りにされたトシミさんが、その旅人の役割を担っている。
 「もう関係も終わりかと思いかけていた去年の秋、またいつものように彼の帰りを待ちつづけていたら、死んでしまったらしいというのを、風のうわさで聞」(八十二頁)く。「風のうわさ」の出所は作中で明らかではないし、「ほんとうは、死んでいないような気もする」(八十五頁)。それでも、「でもたぶん死んだと思う」し、「万が一、生きていたとしても、アタシのまえに姿をあらわしてくれないんじゃあ、アタシにとっては、死んでしまったのと同じ」だという。宿帳の名前や、喫茶店のノートの恋人の記載まで切り取って、気が住むまで集めたら、遺骨代わりに燃やして、それでおしまいにするのだと。
 恋愛はともかく、恋情そのものは、こちらを振り向かない幽霊を追い求めるように、一方的だ。相手の肉体を手に触れ、肌の温度を共有して「溶けあってる感じ」を味わうことが先に待っていたとしても、必ず「孤独」の体感が訪れる。恋をすることは、途方もなく昏い恋情のなかで、孤独に立ちすくむようなものだ。『島の夜』という恋愛小説は、そのことを明瞭に物語り続けている。たとえば、こんな風に。

 「居場所っていうのは、けっきょく、外側じゃなくて、心の内側にしか存在しないものなんじゃないかな。究極の居場所は、なんなのかっていうと、きざな言い方をしちゃうと、孤独なのよ」
 さらりとトシミさんは言いきって、私は一瞬、鳥肌が立った。おととい、浜辺で仰向けになったときに味わった、星空と海のあいだに、一人でぽんと放り出されたような感覚がよみがえった。
 その考え方は、すごくさびしくてこわい感じがした。
(五十四頁)

 ただし小説が最後に描くのは、幽霊や振り向かない相手を想い続ける昏さ、さみしさではない。むしろ、孤独、というような「きざな言い方」を粉々にするような、性交の生々しさである。

 二人とも汗みどろで、動物のような声を出し合っているのだ。日ごろ、私がよくふくらませては打ち消す、男の子と恋をする妄想の場面には、汗なんて出てこないのに。
 なんとなく、組んずほぐれつしている彼らの顔を父と母に置き換えてみたら、たちまち、胃のなかのものがこみあげてくるようで、しゃがみこんだ。
 必死で頭をふり、浮かんできた光景を打ち消した。
 初めて、目のあたりにしたからだろうか。男と女が、まさしく、欲望を全開にさせつつ、激しくからみ合っている姿は、グロテスク、としか思えない。
 理解はかんたんに出来るけれど、私が生まれてきたのは、こんなグロテスクな行いの結果なのだ、ということを、実感するのは、とてもむずかしい。
(一五三~一五四頁)

 『風化する女』の幕切れは見事だ。それと比較してしまえば、本作のクロージングはどうしても不格好には見えてしまう。トシミさんへの告白をさらりと済ませる場面は素晴らしいけれど、もちろん私と母の問題は解決しないし、離島旅行だけで踏ん切りをつけられるものでもない。恋情を「まったく、莫迦らしいけれど、そんなふうに、あやふやで、うつろいやすいからこそ、とうとい感情」と頭で設定できても、そこに付帯する「生々し」(一五六頁)く「グロテスク」な面を否認することは出来ない。

 そっと肩に廻される彼の腕の体温を感じ取りながら、私は、自分はほんとうに、目のまえの景ちゃんたちみたいに、トシミさんと、なりたいのか、と考えたら、どうも、ちがうような気もしてきた。わからない。
 ちがうのなら、私の彼にたいする気持ちは、恋ではない、ということになるのだろうか。それもわからない。
 ――あやふやだ。
(一五四頁)

 夜に呑み込まれるように、すべては「あやふや」に溶けていく。

 私はこれからどういう人を好きになるんだろうか、なんてわかるわけがない。近い将来、ほんとうに、さっき見た光景の雪ちゃんみたいに、だれかに脚をやわらかく押し広げられたり、トシミさんの教えてくれたテクニックを試して喜ばせてあげられるように、なるんだろうか。いまはまだ信じられない。
 オカマにふられてしまったばかりの私には、いつか自分にそのような事態が降りかかりそうな予感など、いまはまったく掴めない。
 わかるのは、たしかなのは、いま、月と星は島を見おろしながらかがやきつづけている、ということだ。
(一五八頁)

 つまり「月と星は島を見おろしながらかがやきつづけている」以外のことはわからない。おそらく小説は、その技術力を以てすれば『風化する女』のようなすっきりした終わり方が出来たはずだ。ただ、意識したか否かにかかわらず、小説はそんな「わかる」結末を選び取りはしなかった。「わからない」と言い残しただけの不器用な結末が、けれど個人的には、すごく好きだ。そして「夜」の昏さに「あやふや」に溶かすしかなかった問題は、おそらくは『島の夜』以降の小説で問い直されるのだろう。

難読性について 山尾悠子『夢の棲む街』について

 

夢の棲む街 (ハヤカワ文庫JA)

夢の棲む街 (ハヤカワ文庫JA)

 

  山尾悠子を読んで驚かされるのは、私たちの世界がいかに山尾悠子的な「幻想」に埋め尽くされたかである。私は山尾を読んだ経験がないので、この既視感は筋違いなのだが、破綻した旅を取り扱っているからカフカっぽいとか、女が妖怪じみて怖いから泉鏡花っぽいとか、無限を題材にしているからボルヘスっぽいとか、そういう既視感ではない。もっと馴染み深いものの記憶である。具体的には、私が十代のころ座敷に寝そべってプレイしていたPS2GCの世界を彷彿とさせてくる。たとえば本書に収録された『遠近法』の「基底と頂上の存在しない円筒型の」「中央部は空洞になっており、空洞を囲む内壁には無数の輪状の回廊があり」「すべて古びて表面の摩滅した濃灰色の石組みで構築されている」塔はFF12の大灯台を思い出させたし、『シメールの領地』の湖に船が閉じ込められようとしている描写など、先の用意されていない海域にプレイヤーの船が進もうとした瞬間にそっくりだ。あるいは『遠近法』の破綻した旅の描写も、『ゼルダの伝説風のタクト』で船が地図最北端の海に進もうとした瞬間ぐるりと最南端へ飛ばされたときを思い出させて、不思議な懐かしさを覚えてしまう。
 だから山尾悠子はもう古いとか、逆に山尾悠子は現在のポピュラーなファンタジーの形態を先取りしていたとか、そういう話をしたいのではない。あるいは『夢の棲む街』や『ファンタジア領』の第一篇を取り上げて、緻密で堅牢な言葉の秩序を築き得る書き手だからこそ、言葉を超えたもの(たとえばその小説世界の破局)を待ち望むのは不思議なことではないとか、そんな無難な話にも興味が持てない。気になるのは、これだけ慣れ親みやすい「ファンタジー」のイメージが羅列され、文章の論理関係も意識して明晰に整えられ、物語も人間関係も単純に抑えられ、偏執的な描写の過剰も回避している山尾悠子の小説が、しかし何故か特異に読みづらいことである。
 山尾悠子の難読性はどこから来て、何を意味するのか。
 もっとも読むのに難儀したのは『ムーンゲイト』だ。たとえば、主人公の男女が住んでいた都から脱出した直後の描写である。
 何でもないこの移動の場面を乗り越えられずに、私は三度読み直す羽目になった。今書き写すだけでも、頭のなかを引っかかれるような苦しさがある。

 川幅が狭まってくるにつれて、両岸の景色は徐々に険しい深山の様相を見せはじめていた。最後の分岐点を過ぎて、月の門へ通じる狭い峡谷へ分け入ったころから、両岸は、切りたった断崖になった。ゆるく蛇行する深い流れをさかのぼるに従って断崖はほとんど垂直に近くなり、光の射しこまない谷底からはるかな高みを見あげると、空は、黒々とした岩壁にはさまれた、細いひと筋の白い帯としか見えなかった。
(『山尾悠子作品集成』九十六頁)

 第一の段落に仕込まれているのは、視線の過剰な方向転換だ。文体は眼の酷使を要求している。第二文は「最後の分岐点を過ぎて、月の門へ通じる狭い峡谷へ分け入った」というから、地図を頼りにしているか、あるいは上から船を見下ろしているその直後に、「両岸」とカメラが船上の視点に寄る。第三文の「ゆるく蛇行する深い流れ」も難所で、ゆるく蛇行するのは辺りを見回す水平方向の目の動きだが、「深い流れ」は水底を覗こうとする垂直下向きの目線である(これは第一文の「川幅が狭まってくる」から「険しい深山」となった「両岸」に、すなわち水平方向・垂直方向に素早くカメラが転換される動作とパラレルだ)。それがいきなり「断崖はほとんど垂直に」と垂直上向きへ百八十度反転し、「光の射しこまない谷底」と再び真上から舟を見下ろす視線に転じたあと(私なら「射しこまない」ではなく「射してこない」だろう)「はるかな高みを」川面から見上げ、両側の「黒々とした岩壁」を視界に入れつつ、ようやく「細いひと筋の白い帯」に辿り着く。散々に眼と頭を振り回されたあとの、「黒」と「白」あるいは「はるかな」と「細い」の強烈なコントラストが、目眩を引き起こす。何気ない文章だが、ここには山尾特有の目眩を引き起こす仕掛けがある。幻惑の文体である。

 昼の間、幽谷の重い静寂を破るものは、流れを漕ぎのぼる船の櫓の音しかない。時おり、鋭い鳴き声を残して、黒い山塊の狭間を白い鳥が翔けのぼる。一瞬後、白い軌跡を追って、矢尻に結んだ麻糸が宙をよぎる。高空の白い点を縫いとめると同時に、伸びきった麻糸は急激にゆるみ、やがてうねうねと落下して、水面に叩きつけられた。
(同頁)

 「重い静寂」につまずいてしまう。第一段落はカメラの方向転換を繰り返すことで、否応なく語の凝視を要求しているが、ここでは感覚の素早い切り替えを要求している。「静寂」は聴覚だが「重い」は皮膚感覚だ。その切り替えの早さにもかかわらず、本作の旅は常にのろのろとしていて、感覚の食い違いが生まれてくる。文章に立ち返れば、「昼」の光(視覚)→「重い」(皮膚の重力感覚)→「静寂」(聴覚)→流れを漕ぎのぼる(櫂の感触、重力感覚)→「櫓の音」(聴覚)と交互に皮膚感覚と聴覚とが呼び覚まされる(第一段落でカメラの垂直/水平方向が交互に転換させられたように)。山尾の小説の登場人物たちは概して世界の理解不能な規則に苛まれているが、山尾の文体もまた異常なまでに厳密で、しかも一見すると馬鹿馬鹿しいが、読み手に異常な拘束力を持つ規則に束縛されている。
 「山塊」から続く「白い鳥」はそれなりの大きさを視界に残すが、「矢尻に結んだ麻糸」に文体のピントが絞られるとき、「高空の白い点」にまで縮小され、直後に矢に結わえた糸の輪郭がくっきり見えるまでに拡大される。ここで眩惑を起こしているのは、『遠近法』の切り替えである。

 夜になると、小さな入り江を見つけて船を漕ぎ入れ、ふたりは狭い岩場に火をたいて野営した。
 黒々と屹立する絶壁の根かたに残された焚火は、深い峡谷を埋めつくした暗闇の膨大な容積に比べて、あまりにも小さく心もとなかった。
(同頁)

 第三の眩惑は無の描写である。山尾が「深い峡谷を埋めつくした暗闇の膨大な容積」と書くとき、私たちはその暗闇、空無を物質のように受け止めなくてはならない。『ムーンゲイト』に関わらず本書の収録作に共通する描写だが、ともかく山尾の文体=眼は空無を空無として通り過ぎることを許さない。それすら厳密に、執拗に言葉として記録する。それが本書の規則である。自分が書くなら確実に省く。その資格もないが、まず「膨大な容積」を肌身に感じさせることが出来ない。山尾には出来る。読み手の視点の方向と遠近、あるいは感覚受容器を高速に切り替えさせる山尾の文体は、端的に、全てを読め、と要求している。あるいは山尾が自分の小説を書きながら読むとき、そこには過剰なまでの感覚の励起があるはずだ。自分の書いている言葉だけでなく、頁の空白にまで眼が焼き付くような、異様な視覚の活用がある。
 印字された言葉=実在物だけでなく、空白=頁の無までをひとつの言葉として読む=書くのは、詩の読み方=書き方だろうと思う。記憶が定かでないけれど、十年ほど前に世界詩人全集のアポリネールだかシュペルヴィエルだかの巻に(私は詩の造詣は皆無なのできっと人物違いだろうが)渦巻状に字が配列されている一篇があって、困った記憶がある。だからというわけではないが、激しく感覚を揺さぶり、世界の空無にまで凝視を要求する山尾の文体は、端的に私の手に余る。難読性とは何か、と大仰な問の身振りをしておきながら、私の感覚器が弱い、ではあまりにチンケだけど。
 
 『ムーンゲイト』の十一行で私が『夢の棲む街』について書きたいことの大半は終わっている。空無が切迫するリアリティを有するのと並行に、言葉にしてしまえば他愛ない「無限」もまた、山尾の小説世界においては強烈な実在感を有している。読んでいて吸い込まれるような感覚は私の勝手な錯覚に過ぎなくとも、抽象的な語彙として、あるいは無や無限を言葉遊びとして弄ぶような作家と、山尾が対極の位置にいるのは間違いない。無や無限がただの知的遊戯でないから、難儀なのだ。無限に向けて旅立つ人々は、たとえば『遠近法』や『シメールの領地』の旅団のように、自死を選ぶほど差し迫った挫折を味わわなくてはならない。
 確信はないが、この二作の苦渋に満ちた旅程は、おそらく山尾が小説を書く労苦と重なっている気がする。
 私はまだ山尾のインタビューやエッセイを読んでいないし、経歴も人物像もまったく知らないのだが、山尾が神話に取材するとき、そこには必然性があると思う。たとえば『遠近法』にはウロボロスというあまりに有り触れたモチーフが呼び込まれているけれど、それは山尾の過剰なまでに研ぎ澄まされた感覚を、正しく鈍化させるものとしてあるはずだ。怪談風の『月蝕』や、寓話じみた『堕天使』は、物語の外枠が先にあって、次に小説の内側が埋め込まれた印象を受ける。『ファンタジア領』第三篇「星男」の夢と現実が交互に入れ替わり、やがて境界線がわからなくなる構成もお馴染みのものだし、『月蝕』の京都の描写は私小説的な馴染み深さがあり、読んでいて落ち着く。私は『月食』がいちばん好きだが、しかし学生時代を過ごした土地など、思えばもっとも安易で生ぬるい舞台ではないか。第四編「邂逅」の「意味なんてものは、どこにもありゃしない」「でももちろん、そんなことはどうだってかまやしないんだ」(二百三十二頁)といった警句めいた台詞や、あるいは『夢の棲む街』で「脚本家」が死した後に「あらゆる言葉を飛び越えて美し」い踊りが立ち現れるさまに私が感じるのは、見慣れたものへの安心感でしかない。
 そのような安全なものを土台に据えねば『夢の棲む街』の収録作は小説たり得なかった。そしてその水脈においてこそ、確かに幻想作家でなければ山尾は小説家たり得なかったのだ、と書き継げば邪推としてもさすがに残忍過ぎる。けれど山尾の難読性 dyslexia がその異様な感覚の励起から必然的に起き得るなら、その幻想のやむを得ない安全さは他ならぬ山尾の難書性 dysgraphia に対応しているはずだと、読み終えた今は思う。

山尾悠子作品集成

山尾悠子作品集成