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書く人のための読書合評会一案:小説は勉強可能か?

 ちょっと古い心理学の本で読んだ話。

 

 スピーチが苦手で悩んでいる人間に、「うまい人はどのようにスピーチをしていましたか?」と訊ねると、「さあ」とか「よく分からないけれど、とにかくうまい」とか、「とても自分にはできない。うらやましい」などと、とにかく具体的にどこがどううまいのか、はっきりしない場合が多いという。逆にスピーチが巧みな人間は、他人のスピーチの巧拙を、具体的に詳しく報告できることが多い。スピーチが巧みな人間ほど、他人のスピーチに対する関心が高く、「この話は今度自分も取り入れてみよう」「ここはもっとうまい表現があるのではないか」と、常に自分が実践した場合を念頭に置きつつ、重要な点に自然と注意を向けている。スピーチがうまくできない人の多くは、「自分にはできるはずがない」と頭から思い込んでいるために、他人のスピーチを聴いても技術の肝心を抽出しづらい。

 

 他者の実践は、自分の実践に比べれば客観的に理解しやすい。自分の行動だけに着目していたのでは見えにくいところを、他者の行動が示してくれることも少なくない。こんなふうに、他人の行動を観察し、それを自分の行動にフィードバックすることを心理学用語で「モデリング学習」というらしい(昔の本だから、今がどうかは知らない)。

 モデリング学習を有効活用出来る人の特徴は、次の四点に整理される。

 

 ①他者の行動に関心が高く、それを吸収しようという気持ちが強い。

 ②他者の行動を想起したり予測したりすることが多い。

 ➂他者の行動に接して、重要なポイントに注意が向く。

 ④他者の行動を自分の行動に変換することが多い。

 

 小説の能力にも通じそうだ。②は登場人物を動かすのに、➂は描写の取捨選択に役立つだろう。④に関しては、若かりし頃に特定作家に傾倒して影響を受けたとか、あるあるエピソードである。言い古されてきた「読まねば書けない」が①で、より柔らかい言い方をするなら「書きたい人は、当然他人の書きぶりが気になる」というところか。

 何故②がモデリング学習に必要なのか? 曰く、自分の経験は重要と思えば自然に記憶され、必要なときに引き出せる。それに比べると、他者の行動は所詮他人事なのだから、いささか記憶されにくい。したがって他者の行動は、想起や予期の反復でこそ確実な記憶になるわけで、そうした習慣の有無こそが、モデリング学習の効率を左右することになる……らしい(見終えた他人の行動に、「予期」はちょっぴり食い違う気もするが)。

 

 自作と他作の正確な比較は極めて難しい。たとえば優れた書き手の小説と自分の小説がどう違うのか、具体的に説明出来る人は稀だろう。あるいは自作と活字になった小説を比べて、「なんでこれが……」とヒネた思いを一度も抱いたことのない人は、飛びきりの善人である。

 自分のことは、他人のようには客観的に理解しにくい。とりわけ自分が苦手と思い込んでいる課題だと、なおさら巧みな他人との比較は難しい。「とても自分にはできない。うらやましい」である。そこで提案されるのが、自分と他人の比較ではなく、他人と他人の比較である。たとえば、電話対応が苦手で、そのたびに吃音や恐怖感に苛まれていた女性が、電話対応が上手な人と苦手な人を観察比較することで急速に軽減していった、という例示がある。「こうすればいいんだ」というプラスモデル、「こういうことをしてはダメなんだ」というマイナスモデルを比較することで、より明瞭に浮き出すものがあるのだろう。

 

  それで、小説の話である。それも、勉強の話。

  小説をめぐる巨大な誤謬のひとつに、小説は「勉強できない」というものがある。「生半可な勉強ではいけない、経験がなくてはならない」という。人生経験もないのに何で立派な小説が書けるかと最初に一発かまし、だからまずは時間を置いてみてはどうか、と語調を柔らかくするやり口が多い。しかし、小説家の伝記なり日記なりを二三冊読めば、特異な経験に恵まれ続けた作家など極めて少数であることは、すぐに理解出来るはずだ。恋愛小説を書く人が、そのたび大恋愛を繰り返しているようでは、さすがに身が持たないだろう(田辺聖子の『しんこ細工の猿や雉』に、恋愛経験がまったくないにもかかわらず恋愛小説を書けるのか、と自問するくだりがある)。小説の言葉は外国語であり、小説の約束事やシステムは小説からしか学び得ない。私小説だって、私小説の流儀に沿って書かれているはずだろう。

 

しんこ細工の猿や雉 (文春文庫)

しんこ細工の猿や雉 (文春文庫)

 

 

 なので、小説は「小説の勉強」で絶対に上手くなる。優れた小説が書ける。当然そうでなければならないし、でなければ「才能」とか「経験」とか「精神」とか、気持ちよく説教する側にだけ有用な、そして限りなく無意味な観念に騙されるだけである。

 

 どのように勉強すべきかということで、グループ学習の一案。

 自作と他作の比較が困難なら、他作と他作の比較が必要だ。かつ、その二作に明瞭な技術の差があればコツの把握に役立つだろうし、自分の行動にも反映させやすい。ということで、プロの小説一作と、自作と他作(出来れば最低二作)があればいい。他人の小説をマイナスモデルと呼ぶのは失礼だけど、自作も他人のマイナスモデルになるのである。

 読書会と、小説の合評会を足しただけだ。参加者には課題の小説を読んでもらったうえで、「読んだからこそ書ける」小説を書いてもらう。枚数は二十枚から五十枚ぐらい、気軽に新しいことを試せる短編サイズのほうがいいだろう(枚数を読むコストが跳ね上がると、他人を呼びづらくなってしまう)。読んだからこそ書ける小説とは、作中要素を転用したものだ。技法や文体(語りの構造、時空間の操作)、語彙(単語リストを作るのも面白い)や小道具、粗筋・主題、などなど。その小説の方法を自分で試してみれば、小説自体への理解も深まるだろうし、自分とその小説との距離もうっすら感知出来るだろう。その距離を、出席者に「課題作とどう違うのか?」という問いで分析・言語化してもらうのも面白い。作品は、自作含めて二作は欲しい。プロと非プロ、非プロと非プロ同士で比較して見えるものもあるだろう。出来上がった作品は、短編の賞にでも、ローカルな文学賞にでも応募すればいいだろう。他人と締切を共有すれば、いやでも書く。書けば書けてしまうのだから、締切は儲けものだ。

 読む小説はどう選ぶべきだろう。その月の文芸誌のいちばん長い小説とか、文学賞受賞作リストを読みたい順に上から並べ、下から順に読んでいくとか、グループの力を活用するなら普段の自分ひとりでは読めそうにない小説をこそ積極的に選んだほうが、お得ではある。

 

 プロの小説は面白くないと、小説を書いている人は(嫉妬もわずかに混じって)尚更考えがちだが、本当に面白いかどうかは別として、私は勧めない。プロの小説よりあなたの小説が面白いのだとしたら、あなたの小説が活字化されないのはとてつもない不条理である。ジャンルが悪いのか社会が編集者が悪いのか、別にそれはどうでもいいのだが、他人の否定は結局慢性的な他責か、あるいは破壊的な自責に行き着くだけだ。プロの小説は前提として「面白い」と思ったほうがいい。なんて反感を買って当たり前の意見だが、精神衛生のための小技である。個々の作品がつまらなくても当然いいけれど、前提とするのはまずい。

 最初から「どうせつまらない」と前提して読み始めてしまうと、その小説を面白くしている肝心の種を見逃してしまう。面白く読めない以上当然なのだが、勉強して生かすべきはまさにその部分だったりする。どうしても、本当にどうしても譲れないなら別として、私はプロの小説は肯定すべきだと常々思っている。「どうしても」の一基準として、「この小説は面白い!」と心から感動している人に、たとえ嘘でも「面白いですよね!」と同調出来ない、なんてのはどうか。面白いと思えば面白く読めてしまうのは私がチョロイからだが、金を払って読んだ小説が面白く読めないのは、私は負けた気がしてしまう。小説でなく批評を書きたいなら話は変わるかもしれないが、それでも活字化された批評はプラスモデルとして読んだ方が、得だろう。どんな作品からも、学び取れるものがあるはずだ。

 たしか名古屋大の脳外科の名誉教授が言い残していた言葉で、「自分にもできる」と思い込んだ手術映像にこそ自分と相当の力量差があるのだという。「この小説は面白くない」というひとは、「こんな小説は自分でも書ける」と思い込んでいるのかもしれない。では、それこそ実際に自分で書いて試してみればいい。そんなに簡単には、書けないんじゃないか。

 

 次にありがちなのは「現代小説は面白くない」なのだが、これはそもそも読んでいないケースが多い。たくさん読んで、そのどれもに文句を言い続けるなんて、よほどの根性が無ければ不可能である(だいたい、文芸誌のトップに掲載されるとか、文学賞を受賞する小説は、最低限以上は面白いほうが自然だろう)。それに、小説なんて、読んでしまえば大体面白いのだ。読まないから面白くないわけで、またひとりで読むのは確かに精神的コストが高いだろう。だったら、それこそグループ学習を活用してもいいかもしれない。立ち向かうべき小説がそれでも駄作としか読めないなら、学べるところだけさっさと掠め取ればいい。

 余談。持てる者はさらに富む、ではないけれども、プロの小説家が優れた小説を書き続けられる一因は、肯定的な書評を書き続けるのも理由かもしれない。読みどころ、褒めどころを強引にでも探して読んでいくうちに、本当に面白い要素を拾い上げてしまう。ネガティブな書評が載りづらい理由には業界の都合も、一応はあるのかもしれないが(だとしてもどうでもいいことだ)、ポジティブな書評自体に育成装置としての機能があるのかもしれない。

 

 最後におまけ。中井久夫アリアドネからの糸』の名編「創作の生理学」から引用する。本自体も面白いが、小説を書くひとには是非この一篇だけでも読むことをオススメしたい。

 

 ……「文体の獲得」なしには、創作行為という「二河白道」は歩き通し得ない。そして「文体の獲得」に失敗した作家はたかだか通俗作家である。文体の獲得なしに、作家はそれぞれの文化の偉大な伝統に繋がり得ない。「文体」において、伝統とオリジナリティ、創造と熟練、明確な知的常識と意識の閾下の暗いざわめき、努力と快楽、独創と知的公衆の理解可能性とが初めて相会うのである。これらの対概念は相反するものであるが、その双方なくしては読者はそもそも作品を読まないであろう。そして、「文体」とはこれらの「出会いの場」(ミーティング・プレイス)である。

 ……その獲得のためには、人は多くの人と語り、無数の著作を読まなければならない。語り読むだけでなくて、それが文字通り「受肉」するに任せなければならない。そのためには暗誦もあり、文体模倣もある。プルーストのようにパスティーシュから出発した作家もある。

 もちろん優れた作家への傾倒が欠かせない。ほとんどすべての作家の出発期にあって、これらの「受肉行為」が実証されるのは理由のないことでは決してない。おそらく出発期の創作家が目利きの人によって将来を予言されるのは、この「受肉量」の秤量によってである。傾倒は、決してその思想ゆえでなく「言語の肉体」獲得のためでなければならない。そうでなければ、その人はたかだか作家の「取り巻き」に終わるであろう。作家が生きていようと死者であろうと変わりはない。実際、思春期の者を既存作家への傾倒に向かわせる者は決して思想の冷静な吟味によってではない。それは意識としてはその作家のしばしば些細な、しかし思春期の者には決定的な一語、一文、要するに文字通り「捉える一句」としてのキャッチフレーズであるが、その底に働いているのは「文体」の親和性、あるいは思春期の者の「文体」への道程の最初の触媒作用である。

 ……ヴァレリーは「テスト氏との一夜」によって「文体」を獲得したと思われるが、この一種の小説の書き出しとポーの「アルンハイムの地所」との類似性はかなり顕著である。

 

アリアドネからの糸

アリアドネからの糸