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小説を長く書く技術

 小説を長く書くというのは、第一に枚数を長く書くことであり、第二に長い期間をかけて書くということだ。そのためには、どのような小説の技術が有用だろうか、という話。

 枚数を長く書けることと、長い期間をかけて書けるということは、根っこの意味はおそらくほぼ同じである。気分が変わっても書ける、いつでも書き継げるということだ。

 

 最近小説を書き始めた知人が、「一晩寝ずに一気に書くことは出来るけれど、一日置いてしまうともう書けない」と語っていた。彼女の小説を全て読んだわけではないけれど、作品のパターンは片想いの相手に抱く妄執とか、ひとつの感情を根にしたバリエーションが多かった記憶がある。枚数は十五枚から二十枚程度で、それでも一晩で書き終えるには相当な体力を要しそうな、極めて粘りの強い文体だった。風景描写や内面描写を、とにかく細かく子細に書き綴る文体である。

 それが、だめという話では勿論ない。勿論その人には書きたい小説があり(あるいはそう書けば楽だという、身体に馴染んだ方法論があり)だからそういう小説を書いた。それを批判するつもりなど、毛頭無い。しかし、一日置いてしまうともう書けないのであれば、二日以上書くことは絶対に出来ない。一晩で小説を書き切るには、まとまった時間と、相当な体力を必要とするだろう。

 先週紹介した高橋一清の本に、こんな描写がある。

 

 月曜日から金曜日まで会社で必死で働く。そして金曜日の夜に、牛肉のステーキでもすっぽん鍋でも、とにかく精のつくものをしこたま摂取する。その夜はひたすら寝る。土曜日の朝、目覚める。それから机にへばりついて、くたばるまで書く。日曜の朝が来ても書き続ける。夜まで書き続けて寝る。そして、月曜日の仕事に備える。

高橋和清『あなたも作家になれる』)

 

 描写は好きだけど、採用はしたくない方法だ。休み欲しいじゃん。土日だし。平日からチマチマ書き続けたほうが、絶対いい。期限に追い詰められて折角の休日を潰すなんて、まっぴらである。

 お前はそういう甘ったれだからダメなんだ! と問い詰められたら笑ってやり過ごすしかないけれど、休日を大いに削ってまで小説に苦労するのは、なにより小説に良い影響をもたらさない気がする。「休日まで使って、こんなに頑張ったのに」とか、「小説に生活が縛られている」なんて、陰気な想いが文章にこもる。書く気が失せる。書きたくないのに書こうとすると、精神に無理が来る。破綻を遅延させるだけの能力は、果たして「忍耐力」なのか。

 

 しんどいなら小説なんてやめろよ、と誰かが言うかもしれない。

 しかし、物凄く書きたいわけでもないのに、書かないということ自体が何だかむず痒くてたまらないし、大切な務めをサボっているような気がする、なんて、実生活に微塵も役立ちそうにない義務感に支配されてしまう人がいる。技術の巧拙を問わずに、けっこういる。「小説書かなきゃ、でもやる気出ない」という思考は、そもそもまったく意味不明である。あなたが小説を書かないからって、だから何だというのか。たぶん何でもない。にもかかわらず小説を書かないとまずいと感じてしまうというのは、これはもう仕方ない。出来る限り、書き通せる方法を考えるしかない。

 

 一日置けば書けなくなるとは、同じ気分のままでなくては書けないということだ。ひとつの場面、ひとつの主題や流れを書き続けるには、たしかに同じ気分を保つべきだろう。気分の転調による場面の断絶は、なにより書いている自分が気になる。

 しかし、同じ気分を長期に保ち続けるのは、よっぽど恵まれた環境でもない限り不可能である。書く前に気分を整える儀式を設けるのも手だろうが、ともかく忍耐力の問題ではない。

 作品とは「必然的に精神と活気と気分との動揺性、変わりやすさに抗する企て」と語ったのは、ヴァレリーである。「抗する」は強面な言葉だが、気分の動揺にも、柔軟に対応出来るよう、あらかじめ小説のなかに対策を練り込んでおく。忍耐力ではなく、技術だ。

 

 つまり、気分が変わっても書けるようにすべきである。今はこの展開を書きたい気分じゃないというときに、ではここの続きを書こうと、最初から逃げられる部分を用意しておくということだ。再びヴァレリーの言葉を引くなら、

 「多くの仕事を同時にする必要があること。それは最高能率を上げる、――一方が他方を利しながら、しかも各々はいっそう己れを失わず、いっそう純粋となる。なぜなら、多くの場所が待っているから、浮かび来る種々の観念を、それぞれいっそう適切な場所に送ることになるだろうから」(『文学論』)

 というところか。この逃げられる部分というのは、たとえば主人公の問題Aとは別の問題Bであり、主人公が登場人物Aとは違う感情を抱く登場人物Bであり、主人公の属する組織Aとは別の組織Bであり、場所Aとは別の場所Bであり、主題Aとは別の主題Bである。たとえば家庭内の話が片方の極なら、大学の話を別の極に配置するとか。自分が昔うまくいった題材を再利用するのも、別の題材と組み合わせるならありだろう。

 

 ただし、そこで逃げ道に回想を選ぶのはまずい。「現在」に対して「過去」を用意しても、それでは根っこが変わらない。余計に煮詰まりそうである。あくまで同じ現在のうちに、二つの小説の流れがある、ぐらいのほうが無難だろう。書き詰まるたびに過去に飛んでしまうと、技術の拙さだけではなく、何よりその煮詰まりがバレるのがまずい。気分気分に応じた受け皿を用意する、別の流れを複数織り込んでおいたほうが、私は気持ちよく書ける。

 

 ところで、つい最近芥川賞を獲得した滝口悠生『死んでいない者』は、他ならぬ滝口が「より長いものを書くのが目標だった」とはっきり打ち明けているだけあって、気分の受け皿を大量に用意した小説である。ひとつの親族内に様々に違った人間を配置することでの受け皿と、さらに親族外という受け皿――葬儀小説なんだけど、その故人の親族ではなくて幼馴染にもフォーカスがあたる――を用意することで、たくさんの逃げ道を作っている。回想は多いが、飛ぶと同時に小説の流れ自体がギアチェンジしていることが多い。回想自体が、それまでの読み手の気分をガラリと一転させる役目を果たしている。だから、回想が多くとも煮詰まらないどころか、むしろ軽やかな回想なのだ。

 それに反して、多くの書き手の「回想」は、同じ小説の道筋へスポットライトをわずかに違った位置から当て直すため、だけに使われているような気がする。そんな小手先のごまかしでは書き手のしんどさは解消されないし、読み手の気分も鬱屈する。

 

 もう一冊だけ紹介しておきたい。劇作家、平田オリザの『演劇入門』である。シナリオ論だが、小説を書くうえでも有用な技術を伝えている。

 平田は、「戯曲を書くにあたって第一に決めなければならないことは、場所の設定である」という。「優れた場所を選ぶことさえできれば、書けたも同然と言っていい。場所の設定に関しては、「戯曲を書きやすい空間設定」を考えていく。人と人が出会って、話して、しかもその話が面白くなる場所だ」。

 

  親子四人の登場人物が茶の間で話をする。自然状態では、そこでの会話は、とりとめのないものに終始する。観客が知りたいと思うこと、劇作家が観客に伝えたいと思っている情報はなにひとつ解らない。

  演劇において極端にプライベートな空間では、物語は進展しにくい。一方、道路や広場といったパブリックな空間では、ただ人々はその場所を通り過ぎるだけだから、会話自体が成り立ちにくくなる。ここを舞台にする芝居も、なかなか難しい。私が一幕ものの舞台として選ぶのは、どうしても半公的、セミパブリックな場所となる。セミパブリックな空間とは、物語を構成する主要人物の一群、そのいわば「内部」の人々に対して、「外部」の人々が出入り自由であることが前提となる。

 

 変化のない「内部」を、ネチネチ書き続けるのはしんどい。煮詰まる。小説なら別の場所に出かけていけばいいけれど、演劇はそう気軽には出歩けないのかもしれない。

 しかし、「プライベートな空間でも演劇は可能なのだ」と平田は続ける。

 

  ただその場合には、観客に必要な情報を導き出し得る外部の人間の存在が、どうしても要求されてくる。セミパブリックな空間があるならば、セミパブリックな時間もあるはずだ。プライベートな空間でも、外部の人間が出入り自由な背景、状況を創り出せばいいわけだ。引っ越しでも、法事でも、とにかく人の出入りが比較的自由な時間を見つければいい。パブリックな空間についても、たとえば火事の見物という状況設定なら、見知らぬ他人同士でも会話が始まるかもしれない。会話の必然性が保たれる。

  セミパブリックな空間と時間を設定したら、次に内部の人間が抱える問題を考える。古今東西の名作と呼ばれる戯曲は、必ずその冒頭に、内部の登場人物たちの問題が自然な形で提起されている。残念なことに、もっとも重要な事件を作品の後半部分に持ってくる芝居が多い。演劇の構造をまったく理解せず、テレビのトレンディドラマのように、刺激的な事件の連続によって観る者を惹きつけようとする感覚なのだろう。冒頭に問題提起がうまく成されれば、あとは登場人物たちの右往左往を丹念に描いていけばいい。

  登場人物を決めるうえで重要なのは、その人物構成がいかにバラエティに富んでいるかだ。これは、各登場人物が持っている情報量の差にかかっている。情報量の差を、さまざまな人間関係の網の目のなかに仕込んでおくことが、あとで戯曲を書く際に力となる。人は、お互いがすでに知っている事柄については離さない。話をするのは、お互いがお互いの情報を交換するためであり、そこから観客にとっても物語を理解するための有効な情報が生まれてくる。情報量に差がなければ、情報の交換は行われない。いま舞台に立っている登場人物が誰も情報を持っていなければ、誰もその事柄について語ることはできない。逆に全員が情報を共有していれば、その情報はいつまでたっても舞台上では語られない。外部の登場人物を決定する場合には、内部の人々との関わりと情報量の差異を念頭に置かなければならない。

平田オリザ『演劇入門』)

 

 さて、文學界三月号の滝口悠生受賞インタビューに、こんなやり取りがある。

 

 ――「死んでいない者」の舞台となる川沿いの土地は、どこか想定されている場所があるんですか。 

 滝口:これはかなり具体的に、ある場所があります。ただこの作品に関しては、そこをあまりはっきりさせない方がいいと思ったんです。……「死んでない者」には人がたくさん出てきて、人物によって土地のとらえ方の濃度が全然違う。故人の子供や故人の友人はっちゃんはあの土地についてかなり詳しいでしょうが、孫や曾孫にとってはほとんど縁のない場所です。長く住んでいる人たちを基準にして地名を入れてしまうと、語りがその人たちに寄り過ぎてしまうから、今回は具体的にどこなのかはボヤッとさせた方がいいかなという判断です。

(『滝口悠生インタビュー ライブのように小説を書きたい』)

 

 「寄り過ぎて」はいけない。煮詰まってはいけないのだ。そうすると、別の逃げ道に進路を変えられなくなる。『死んでいない者』における葬儀とはまさにセミパブリックな空間であり、だからこそ故人の幼馴染や近所の住人といった親族外の他者が参入出来る。そうした他者に視点を転じることで、その他者をこそ新たな逃げ道とすることで、この小説は長く書き続けることに成功したわけだ。

 感情の受け皿を複数用意出来れば、あとはその時々の感情に合わせて書き継いでいけばいい。題材をひとつに絞るよりは、はるかに気楽に書けるはずだ。小説を書くたび煮詰まったり緊張することを繰り返していれば、そのうち小説を書き始める前から気が重くなり、最終的には書けなくなる。長く書く準備とは、そうした気の重さに対する「忍耐力」を培うことでは断じて無く、いつどんなときでも書き継げるような、複数の選択が可能な広い空間を、あらかじめ小説に用意するということなのだろう。

 

ヴァレリー全集 8 作家論

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死んでいない者

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演劇入門 (講談社現代新書)

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文學界2016年3月号

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