なんでもない会話

 今回は会話についてだけれども、まずは先週紹介した平田オリザを再び参照してみる。

 

 引っ越しでも、法事でも、とにかく人の出入りが比較的自由な時間を見つければいい。パブリックな空間についても、たとえば火事の見物という状況設定なら、見知らぬ他人同士でも会話が始まるかもしれない。会話の必然性が保たれる。

 登場人物を決めるうえで重要なのは、その人物構成がいかにバラエティに富んでいるかだ。これは、各登場人物が持っている情報量の差にかかっている。情報量の差を、さまざまな人間関係の網の目のなかに仕込んでおくことが、あとで戯曲を書く際に力となる。人は、お互いがすでに知っている事柄については話さない。話をするのは、お互いがお互いの情報を交換するためであり、そこから観客にとっても物語を理解するための有効な情報が生まれてくる。情報量に差がなければ、情報の交換は行われない。いま舞台に立っている登場人物が誰も情報を持っていなければ、誰もその事柄について語ることはできない。逆に全員が情報を共有していれば、その情報はいつまでたっても舞台上では語られない。外部の登場人物を決定する場合には、内部の人々との関わりと情報量の差異を念頭に置かなければならない。(平田オリザ『演劇入門』)

 

演劇入門 (講談社現代新書)

演劇入門 (講談社現代新書)

 

 

 平田オリザの全会話がそうやって作られているわけではないだろうけど、情報量に差がある人間同士の会話は、たしかに書きやすい。「書く際に力となる」というこの力は、「必然性」によって与えられた推進力ということだろう。小説においても、論理的な必然性というのか、「これがこうなるから、ここはこうすべきだ」という筋道を頭のなかで立てられると途端に書き易くなる。書いたことがない以上は単なる想像だけれど、会話がかなりの割合を占める以上、戯曲の書き易さとはそのまま台詞の書き易さであり、したがって台詞の必然性がそのまま戯曲の書き易さ、作り易さに結び付くのだろう。

 小説においては、この必然性、「この小説はこういう小説だから、したがってこんな風に書くのが適切である」という(意識下・無意識下の)論理は、たとえば文体≒雰囲気、上記にあるような人物構成=人間関係、キャラクターの設定≒性格等々で、決定されていく。ある程度書いてみなければ、その小説がどういう小説なのかは決めづらい。前もって決め過ぎると、これはこれで退屈だ。小説は、やはり最初がいちばん大変だと思う。

 

 会話はどう書けばいいのだろう、という話である。

 「情報交換」は書き易い。相互の立場が決まっていれば、交わす言葉も自然と決まる。あるいは、「君はもう覚えていないかもしれないけれど、こんなことがあったね」というように、回想を自然に導き入れるための前口上も、目的がはっきりしている以上は書き易い。

 困るのは、なんでもない会話だ。

 二人の登場人物を同じ空間に配置した以上は、黙らせ続けるわけにはいかない。沈黙の描写は、難しいし。とにかく話を始めようとするけれど、何を書くべきか思い悩む。

 なんでもない会話は、必然性に乏しいからなんでもない会話である。

 それでなぜ書きたくなるのか、と自分に問い返してみたとき、ある程度ぴったり来るのは「間が持たない」という事態だ。偶然居合わせてしまった二人の、その片側が自分として、なにか話さないと空気が持たない。「あんなきれいなものがある」と指差して描写出来るものがあればいいが、そんな風に息の詰まりかねない空間は、大体は双方にとって見慣れた、今更新しい発見のないような場所である。なんでもない会話の作り方は、その人の普段の生活を反映しているようで、書きながらちょっと気が重い。

 

 書いている途中は、なんでもない会話としか思えないやり取りがある。けれど、最後まで書き終えてから読み返すと、何気ない会話に鮮烈な意味がこもっていたりもする。あるいは、なんでもない会話こそが、二人の距離感の指標となることがある。その距離感こそが主題として、小説の動力として設定されることもある。たとえば、恋愛や友愛をめぐる小説がそうだろう。「なんでもない会話」に書き慣れるということは、したがって恋愛とか、友愛についての小説の書き方にも繋がるかもしれない。

 そのための話題を見つけるのも大変だが、文章の間も持たせなくてはいけない。田辺聖子のように、よっぽど会話の巧みな書き手なら別だろうけれど、会話の合間合間になんらかの描写を差し挟みたくなる。ここで、「語彙力」とか「観察力」につまずく。相手のちょっとした動作を差し挟むには観察力が(何度も何度も微笑ませるわけにはいかないから)、「言った」という語を連発しないためには(私はなんとなく躊躇われる)語彙力が要求される。類語辞典で「言う」を引かねばならなかった経験のある人は、私以外にもいるはずである。

 しかし、「語彙を身につける」とか、「普段から周囲を観察する」では、当座の解決策にならない。他に文章の間を持たせるやり方がないものか。

 

 それでたまたま中沢けいの『海を感じる時』を読んでいたけれど、これはまさしく「なんでもない会話」を見事に処理した小説である。恋愛小説でもある。

 たとえばこんなところ。

 

「俺たち、二年になるんだよなあ」

 海辺はゴミの山になっている。捨てられたもの、打ち上げられたもの、かろうじて砂が美しさを保っている場所に腰をおろし、洋は目を細めて、セブンスターをふかす。

「俺ね、なんだかんだ言っても、女とつき合ったっていえるのあんたしかいないよ」

 さっきから、波が、空になったシャンプーのビンをころがしている。ビンは波に引かれたと思うと、すぐにまた打ち上げられる。

「東京には、きれいな人がいるでしょう」

「いても、相手にならない」

「してくれないんじゃないの」

「その通り」

 どこから来たのか、二、三人とつれだった子供たちが、足もとをぬらしながら、歩いていく私たちの姿を見つけて、なにかひそひそとしゃべっていたかと思うと、よくわからない言葉で、大きな声ではやしてた。

「いいねえ、あんな頃さ。俺なんかも浜で東京からきたアベックを、やいやい、からかったよ」

 こんな時は、やさしい目をきまってする。だから、私は洋を信じてしまう。いたずら坊主の中には、水を含み砂まみれの運動グツを竹ざおにひっかけて、肩にかついでいるのもいた。帽子を横にかぶっているのもいる。丸い頭の向こうで海が、きらきら光る。

「子供、好きね」

「ああ、ちっちゃいのがね。俺、あんな連中ならすぐ友だちになれるよ」

 洋はあおむけになって、目を閉じた。額で短い前髪がゆれている。それをホッとした気持ちでながめた。もう少年とはいえない。二年の時間は洋を青年と呼ぶに、十分ふさわしいものにしていた。

中沢けい『海を感じる時』)

 

 二人の会話だけでは聞いている側も煮詰まるが、そこに「二、三人とつれだった子供たち」が、あるいは「波」が動きを与えてくれる。動いているものには、自然と目がいくだろうから、自然な描写である。こんな風に動きのある空間で話させれば、なんでもない会話でも、ぱっと目を風景に転じることが出来る。それが、会話を持たせる話題にもなる。

 実際に自分が誰かと話すときを思い返して、自分たち以外にまったく動きのない空間で話し合うことを想像すると、それだけで気持ちが重くなる。できれば、近くに誰かが歩いているとか、風なり波なり、何らかの自然の動きがあって、風景に時々刻々と変化のある場のほうが、私は話しやすい。室内で向かい合うより、散歩で隣り合うほうが会話は楽だ。途中で見つけたものを指差しながら、互いに感想を言い合うような会話だと、さらに気楽だ。

 もう一例引いてみる。

 

「待った」

「ううん、ちょっとね」

 ひょろ長くのびた手足を、器用に動かして、少し狭いテーブルとイスの間に入ってくる。近づいてきたウェイトレスに「ブルーマウンテン」と注文してから、カバンを自分のわきに置いた。気づかずにいたが、顔にたくさんのにきびの跡がある。私は、にきび面は好きではなかったが、好きになれそうだ。あらためて高野さんを、細かくながめてみる。不思議な翳りを映す目、少しひくく大きめの鼻、しわのないぴっとはった唇。

 ウェイトレスが、ブルーマウンテンを運んできたのをきっかけに、

「話って何」と高野さんがきりだす。

「………………」

 思ったより切口上なのに、とまどってしまった。

「今日のことなんだけれど」

「ああ」

「私ね」

 うつむきかげんになり、声が自然に小さくなってしまう。勇気をつけるために目の前にあったコーヒーをひと口飲む。

「俺、初めてだったんだ」

 高野さんの声もボソボソしたものだった。FM放送が六時を告げる。リクエストアワーがはじまった。「横浜市の○○子さんから××さんへ」アナウンサーがカードを読みあげ、軽快なリズムといっしょに、岩崎宏美が、

「あなた お願いよ

席を立たないで

息がかかるほど そばにいてほしい

あなたが好きなんです

………………」

 澄んだ高い声で、歌いだす。なじみのあるメロディーの底に心が沈んでいく。歌謡曲と同じような恋人たちが、学校の中で量産されては消えていく。だれもいない女の子は、うらやましそうに、並んで歩く二人をながめていた。私は、そんな連中を軽蔑していた。「安易な恋愛なんて無意味よ」そうクラスメートの前で宣言した自分が、いったい高野さんに何を言えばいいのかわからなかった。

「高野さん、私ね、前から……」

 さめたコーヒーの水面に丸い輪の波ができてる。額のあたりに視線を感じている。何かを言わなければならない。大きく息を飲みこんで一気に、声をだしてしまった。

 しかし、それはかすれた小さな声であった。

「前から好きだったんです」

 口の中で苦味を感じた。

中沢けい『海を感じる時』)

 

 人が喫茶店で話すのは、間が持たないときにコーヒーを飲む便利な動作を差し挟めるからかもしれない。ラジオが聞こえたら、そちらに意識を飛ばすことも出来る。一歩間違えれば煮詰まりかねない会話をこなすには、うってつけの場所だろう。告白にも、適した場所らしい。煮詰まった場所では、たしかに「前から好きだったんです」なんて切り出しようがなさそうだし。

 セブンスターである必要はないけれど、煙草も間を持たせやすい。たばこを取り出し、ライターをつけ、煙を吐き、最後には足ですり潰せる。これだけ動作を秘めた道具だからついつい頼ってしまうと、そう語っていたのはたしか桐野夏生である。

 

 最初この文章は、「言う」という動詞はどうすれば避けられるのか、という方法を列挙してみるつもりだった。たとえば上の引用文なら、「言った」ではなく、「声が自然に小さくなってしまう」とか「大きく息を飲みこんで一気に、声をだしてしまった」とか「かすれた小さな声であった」と書けばいい。それはそうだけれど、こういう描写はどう思い付けばいいのかというと、語彙力とか、観察力に帰着してしまいそうだ。

 ひとつ気付いたのは、「言った」ではなくて「いった」と平仮名表記にすると、途端につるりと読めてしまう。「いった」は平仮名、「言った」は漢字とそれだけの違いだけれど、平仮名の重複は気にならない。同じ平仮名を短い間隔で繰り返すことは別に不自然でもなんでもないわけで、それでさらりと読み流せてしまうのだろう。田辺聖子は「いった」の連発を好むが、「言った」ではなく「いった」なのが案外大事なのかもしれない。意外だったのは夏目漱石『門』で、同じ連発でも「云った」は予想外にぎこちなくなってしまう。「言った」は更に字面が複雑だから、繰り返すには余計向かない。

 

 けれども、『海を感じる時』を読んでいるうちに、そもそも「誰某が言った」とか、相手や自分のささやかな動作の描写をいちいち繰り返さなければならないような、そういう「間の持たない空間」に会話を持ち込んでくること自体が不自然なのだろう、と思い始めた。

 もちろん、冒頭に引いたような情報交換の会話では話が変わる。たとえばこの会話には、間を持たせる必要がそもそもない。それだけ、互いが互いに意識注意を払っている。

 

 足もとから、すでに初冬の空気が冷々と登ってくる。

「あんた、いつだった」

 意外な問いかけに、少し意味がわからず、きょとんとした。

「あれだよ」

「十月の十五日」

「ふうん、あぶないのかなあ」

「あぶなくないわ」

「どうして」

「あたし、少し周期が長いから、もう二、三日したら、今月のになるわ」

「あの前はあぶないんじゃないの」

「次の予定の十九日前から十二日前がいけないのよ」

「俺、かんけいないなんて思ってたから、保健の授業なんて忘れちゃってたよ」

「確かだと思うわ、昨日、教科書を見直しておいたから」

中沢けい『海を感じる時』)

 

 会話の舞台は二人が所属する新聞部の部室で、二人以外の描写となると「体育館でバレーボールを練習するかけ声が「ファイトオー」と尾をひき、どこか哀調をおびていた」のと、「葉の散ったイチョウの梢」ぐらいである。でも、この会話はそういう静かな場所のほうがいいのだろう。互いにとって重大な会話だから、間を持たせる必要などないし、意識を散らせる描写などかえって邪魔だ。相手の知りたいことを手早く察し、手短に説明せねばならない。間を持たせなくてはならない、なんでもない会話は動きのある場所で、間を持たせる必要などなく、自然と意識を集中させられる会話なら静かな場所で――とまとめてはみたけれど、日常生活に照らし返せば、ごくごく当たり前という気もする。