書く人と読む人

 小説を書く人は、たしかに小説を読む人である。ところがこの二重性が、小説を読むときにまずく作用することがある。

 書く人間にとって、小説を読むことは勿論楽しみであっていいけれど、それが書く助けになればもっと得だ。その小説が面白く読めれば、あとは、どうして面白いかを丹念に追跡すればいい。問題はつまらない小説で、それを「面白くない小説だ」と切り捨てるのは、私はあまり得でない、と思う。たとえばそのつまらない小説が活字になって、あなたの小説が活字にならないのは何故なのか。書く人にのみ可能な、辛い問である。

 

 たとえば、かつて面白く読めた作品や、誰もが価値を保証する古典を持ち出してきて、いかにその小説がつまらないかを指摘し続けるのは、私は避けたい。もちろん小説の書き方は「こう書けばいい」と「こう書いてはいけない」の挟み打ちであって、ある程度は後者の勉強にもなるのだろうが、だとしても小説を書く上で本当に強いのは前者だろう。「こう書いてはいけない」という勉強ばかり積み重ねると、「面白くないわけではないのだけど……」と言葉を濁される小説を量産することになる。言われた側は混乱する。活字になった小説を読み、この部分のこの書き方はまずい、こんな有様でどうして自分より面白く読まれるのかと、嫌な嫉妬に苦しむことになる。何のことはない。「こう書いてはいけない」よりも、「こう書けばいい」という知識=技術のほうが、小説にはよりプラスに作用する。減点も加点もない小説よりは、減点はあるけれども、それを覆い拭うだけの加点がある小説のほうが、もちろん印象としては残りやすいだろう。粗探しは、加点の技法から意識を反らしてしまう。

 

 小説を他作から勉強するならば、まず自分より面白い小説だと念じて読んではどうだろうと、前に書いた。「何故自分よりこの小説のほうが面白いのか」と問いかけてみる。そこでの発見は、必ず自作に役立つはずだ。文章が自分より巧みなら、何故巧みなのかを一語一語に着目しながらゆっくり読んでみる。速度を変えて、繰り返し読むのも面白い。会話や回想をどう処理するのかなど、目下の疑問点のみに絞って、飛び飛びに読んでいくのも楽しい。「自分より面白い、かないっこない」で思考を止めるのではなく(「自分には適わないから別のやり方を見つけよう」というのも、立派であるけれども、所詮は諦念だ)「何故自分より面白いのか」へ持ち込んでみる。自分が苦手な要素を思い起し、その角度から読み直してみれば、どんな小説にも新たな発見があるものだ(たとえば、三人以上の会話が苦手な人は、それなりにいるはずである)。新たな技術の発見は、新たな小説を書く意欲に必ずなる。「自分がやってみたらどうなるだろうか」という気になる。実際に自分で試してみて、それで相手の作品がいかに適切に技術を使っているか、痛感させられることもある。初めて理解出来る面白さもある。

 

 読む人に留まるなら、作品をどれだけ批判しようが本人の自由だ。とりわけ、評価されるなり、売れるなりした小説を大上段に切り捨てるのは、はっきりと快楽が伴う。だいたい、毒舌はカッコいい。書く人のような泥臭さは、そこにはない。

 しかし、他作への酷評は、何より自分の意識に跳ね返る。自分の塩辛い言葉は、他人より自分のほうが覚えていたりする。小説を書くハードルを上げてしまうと、完成に難渋する。無論毒舌をかましながら、優れた小説を何作も書き続けた作家はいくらでもいるから、勿論これは私自身の感想に過ぎない。

 そして、「この小説は私の小説より面白い」と認めることは難しい。そう自分に言い聞かせようとして、なぜか「自分の小説はつまらない」と勝手に書き換えてしまう人がいておかしくない。「自分の小説は面白い。しかしこの小説は、そんな自分の小説より更に面白いらしい」と、ドンと構えていればそれで済む話なのではないかと、正論を吐く気には、ちょっとなれない。ただし、嫉妬が創作の原動力になるという説は、私には信じづらい。生産的に働くようにと、そう容易く制御出来るのだろうか。嫉妬は疲れる。無駄に疲れると、小説の邪魔になる。

 

 現代小説を批判するのに、古典を持ち出す人がいる。古典を読んでいない書き手が多過ぎるから、現代小説はだめなんだと、平気で言う人がいる。それしきの基礎教養もなしに、文学史の知識ひとつなしに、何が小説なのかと。

 現代小説をけなすのに、古典ほど都合の良いものはない。古典は、時間を隔ててなお読まれているというだけで、既に高い価値が保証されている。実際、文章も巧みだろう。けれども、古典は現代小説ではない。古典には現代を書けない。その弱点を覆い隠すために、哲学でも思想でも、とにかく時代に左右されそうにないものを持ち込む必要が生じる。最近読んだ、とにかく古典を盾に現代小説をやっつけ続けていた、或る女流作家の本は、現代小説の書き手は幼稚だ、人間として成熟出来ていない、と書いていた。三十年前の、故人の文章だ。

 そういう古典の使い方は、私は好かない。むろん事実として、古典がその現代小説より優れている点は幾らもあるだろう。しかし、だからといって現代小説から得られる技法が、古典から得られるとは限らない。前者の技法の源が後者にあるのだから、後者だけ読めばいいという主張も、ちょっとよく解らない。後生の人間が別の小説を書き継いできた以上、何らかの変質が生じているほうが自然である。前者の技法が、後者に比べて「間違っている」と、誰が断言出来るのか。小説を現在に書く以上、すべての小説は現代小説だし、読み手が生きているのは現在だ。「現代の読み手があまりに無学無知だから、こんな小説を有難がるんだ」なんて考えは、少なくとも現在の読者に読んでもらいたいなら、ちょっとお勧め出来ない。そういう蔑みは、必ずばれる。だいたい、蔑む相手に読んでくれとは、流石に虫が良すぎる。

 

 残忍な事実がある。古典を読まなかった人間が、古典を読み通した人間より遥かに面白い小説を書くことはあり得るのだ。後者の勉学が、小説を書く上では無意味だった、とは、一概には言い切れない。役立つ場合も勿論ある。ただ、面白い小説を書く人間は、相応に面白い小説を書く努力をしてきたはずだ。そういう人に対して、「あなたは古典を読んでいない、だからだめだ」というのは、私にはピンと来ない。 

 

 耐え難いほど「下手」な文章に出会ったら?

 

 「grazie」女の声は実に感じのいいしゃがれた声だった。そんな声があろうとは思いも及ばないような声だった。私も思わず自分で「グラーチェ」と声にだして言いそうになるような感じのいいしゃがれた声だった。私は女の煙草に火をつけようとした。しかし私の肩ごしに老人が炎のたっぷりしたライターを差しだしていた。私は首をかしげて煙草に火をつける女の顔をまじまじと眺めた。その顔は実に感じのいい顔だった。いくらか長すぎる鼻と灰緑色の静かな眼が、実に感じのいい表情をつくっていた。火をつけてから、女が伏せていた眼を私の方にあげたとき、その眼が重い疲労を浮かべていたことに私はすぐ気がついたけれども、それでもその灰緑色の眼は静かで、疲労の重さはかえって女をいっそう静かな安らかさのなかに沈ませるためにあるようだった。女はコーヒーを静かに口に近づけていた。私は女がコーヒーを飲むのを見ていたわけではなかったのに、女の眼の色が少しずつ生きいきとしはじめ、その生きいきした眼の輝きは、実に感じのいいやさしさを持っているのに気づかずにはいられなかった。私は女の方を 見ていった。

「あなたはこの町の方ですか」

 女は私に答えた。「私はこの町にいたことはあるの。でもずっと前のことよ。今ちょうど、この町に帰ってきたところってわけなのよ」

 女にこんな風の答え方をさせたのは、私のきき方があまりにぶしつけである証拠だった。

辻邦生『見知らぬ町にて』)

 

 辻邦生という作家は好きだけれど、最初期のこの文章は、何度読んでも素敵には思えない。他人の文章を下手と断じれる資格など微塵もないが、苦手な文章だ。自分ならこう書き換えるのになあ、と不遜なことを考えてしまう部分は、たくさんある。

 しかし、ではいざ自分が小説を書くときに、この文章に使われている語彙を自然と使えるかどうかは、話が別である。解らない言葉は一語もない。「肩ごし」とか、「伏せていた眼」とか、「ぶしつけ」とか、極々見慣れた、ありふれた表現だろう。けれど、自分がいざ書いたとき、こんな単語を自在に使いこなせるかどうかは、正直自信がない。

 どんなに「下手」としか思えない文章にも、必ず自分が無意識には使えない、しかもありふれて使い古された、それだけ便利な語彙があるはずだ。英語でもパッシブな語彙とアクティブな語彙があって、意味はわかって「知っている」言葉と、「知っていて使える」言葉は別なのだ。注意すべきは「灰緑色」なんて物珍しい言葉ではなく、実際に自分が書くのに使えそうな「肩ごし」とか「伏せていた眼」とか「ぶしつけ」なのである。こういう基本的な語彙表現に意識を払うと、「ああ、あそこの部分はこの表現を使えばよかったのか」なんて思い出されてくる。目線を落としたり俯いたりせずに、目を伏せればよかったのか、とか。「こうすればよかった!」という感情は、けっこう楽しい。あとは、こっそり書き直すだけだ。それが記憶にも繋がる。