小説の初手

 最初が難しい。

 最初さえ乗り切ってしまえば、そこまで書いたものを踏み台に出来る。途中からは楽なのになあ、と首を傾げた経験は多くの人にあるはずだ。その途中に達するまでが大変で、だから小説を新しく書くのは気が進まない。

 より多く、より楽に書こうとするために、序盤の攻略法を考えてみるのはどうだろう。

 最初の最初は、書き出しである。現代日本文學体系の『現代名作集(二)』が手近なところにあったので、戯曲を除いた短編全二十五作の書き出しを比べ分けてみる。

現代日本文学大系〈92〉現代名作集 (1973年)

現代日本文学大系〈92〉現代名作集 (1973年)

 

 

 第一は、「移動」の書き出しだ。

 

 私は街に出て花を買うと、妻の墓を訪れようと思った。

原民喜『夏の花』)

 

 ミケネの遺跡はアテネへ行く街道から少し入ったところにあった。

(小川国夫『アポロンの島』)

 

 杉が深いので、昇りつめたこの石段の上から街は見渡せない。

竹西寛子『ありてなければ』) 

 

 横浜の港には、雨雲が低く垂れこめていた。

 風はなく、目に捕えがたいほどの七月の霖雨が、海にも街にも煙っていた。風景はやわらかく滲み、スーラ―の絵であった。

 ソ連航路のモジャイスキー号は、白い巨きな船腹に朝の雨をしめらせて、ゆったりと南桟橋に入っていく。

瀬戸内晴美『夏の終り』)

 

 原民起は街に出て、小川国夫はアネネへ行く街道から少し入り、竹西寛子は石段を昇る。今月の文學界で巻頭を飾っている熊谷達也『オーバーホール』は、最初に「ようやくボディが戻って来た」。先月の同誌に掲載されていた山崎ナオコーラ『美しい距離』も、まずは「星が動いている」。このあともひたすら「移動」の文章が連なる。瀬戸内晴美のは三文目で船が「入っていく」けれど、まず一文目で「垂れ」ている。小説を読む側も、書き出しの動きに合わせて、一緒に小説の内部へ入っていく。書き手もまた、今から書くぞ、と無意識に自分をそこへ後押ししているのかも。

 

 中学生のとき、僕は何人かの外人教師に英会話を習った。その一人は女性で、ミス・ダニエルズと云った。彼女が初めて教場に姿を見せたとき、僕ら新入学の一年坊主共はたいへんな婆さんが現れたと思った。

小沼丹『汽船――ミス・ダニエルズの追想』)

 

 回想は、意識の移動である。意識が現在から過去へ遡るその動きが、読み手が小説に入り込む動きと重なり合う。たとえば伊藤整火の鳥』の書き出しは「子供の泣き声が耳に入って目が覚めた」だが、目覚めも眠りから覚醒へ、意識が移動するわけだ。小沼丹の第一文は回想=意識の移動であり、第三文はミス・ダニエルズが教場へ「現れた」ことで、これも移動である。

 

 小説の書き出しは、小説の続きを自然と書きたくなるようなものが便利だろう。どうせ動くなら、続きを書きたくなるような行先を考えてみるのも手だ。

 伊藤整の『青春』は、まず「その日の夜、信彦は、細谷教授の宅での会合に久しぶりに出ていた」。出ていった先には、「中央の机で細谷教授は額に落ちかかる長髪に煩わされながら、イギリスの寺院建築の大きな写真帳をめくっていた。藤山と武光がそのまわりに肘をついてのぞき込んでいた」。三人の人物がいれば、自然と会話が始まる。平田オリザの「セミパブリックな場所」も参考になるかも。

 

 「なぜお前ごときが語るのか」という問は、小説を書く気を挫かせる。「なぜ私はこんなものを書いているのだろう」と自問してしまうと、まず失敗である。その問いを回避するには、語るに値する人物だ、といちばん最初に紹介してしまうのがいい。

 

 ひとのいう(たいへんな女)と同棲して、一年あまり、その間に、何度逃げようと思ったか知れない。

田中英光『野狐』)

 

 ――もうずっと以前から、わたしは左右のからだの不均衡感に悩まされていました。

(大原富枝『ストマイつんぼ』)

 

 ひどく疲れていた。

辻邦生『見知らぬ町にて』)

 

 第二は、「紹介」の書き出しである。

 ふつうの女ではない、「たいへんな」話なら、してもいいだろう。大原富枝は「不均衡感に悩まされ」、辻邦生は「ひどく疲れて」いる。どちらもしんどいのだから、その理由を気休めに語ることは、許されるだろう。

 知らないことは、必然的に好奇心を呼び起こす。自分と遠く離れた状況・場所・人物にこそ、より強い興味を抱ける読み手のほうが、普通だろう。その舞台、その主役が、読んでいる当人から出来る限り離れていることを、まず最初に主張する。

 

 文明元年の二月半ばである。

神西清『雪の宿り』)

 

 成田弥門は東北某藩の昔家老だった家から成田家へ養子に行ったので、養父の成田信哉は白髪の老人であるが、流石に武士の育ち、腰こそ少し曲ったように思われても胸をぐっと張り、茶の間の欄間に乃木希典の手紙を表装してかけてあるのを見ても、いかにも乃木大将と親交があったらしい謹厳な風貌の持主だった。

今日出海天皇の帽子』)

 

 とうとう千秋楽の日が来てしまった。

(北原武夫『魔に憑かれて』)

 

 中京といっても、姉小路から御池にかけて、それも堀川の東一帯の地域は、京都市内でも、一般の旅行者からは「閉ざされた一郭」である。

(澤野久雄『夜の河』)

 

 澤野久雄の「堀川の東一帯の地域」は「閉ざされた」特別な「一郭」で、観光地じゃない京都の話を今からします、という。北原武夫のは、千秋楽という状況の紹介であるばかりでなく、「来て」もいる。移動の書き出しだ。

 仕事を紹介するのもいい。最初に紹介するなら、変わった仕事のほうが興味を引くだろう。

 

 ロベール・カン氏は著名な音楽批評家である。

(なだいなだ『帽子を……』)

 

 三造さんと半三さんの二人は村ではちょっと外に類例のないほど好い仲間だ。年は二人とも五十過ぎ、半さんの方が三つか四つ年弱だ。名前は半三に三造で、耳に好く似て響くが、顔形はまるで違う。半さんは痩形で、顔は三角に近い。見る人に依っては秋の野原で頻繁に出くわすかまきりの面を思い起す。唇はうすく、眼は神経質で油断はない。前身はこの辺の草競馬の騎手だったが、今では舌三寸を元手に犬や鉄砲或はその他のブローカーをやったり、金や女出入に口を聞いて話を纏め、その礼で暮しを建てている。だから他人の感情の動きも機敏に掴み、それに釣り合ったそつのない行動も出来、必要なら本人の前で世辞追従を云うことも辞しはしない。

きだみのる『猟師と兎と賭と』)

 

 主役の性格から語る手もある。「私/この人はこういう変わった人間だから、今から話をさせてもらってもいいだろう」という、紹介の書き出しである。ただ、これはきっと過去に何かあったに違いない、あるいは現在に何かとんでもないことを引き起こしてくれるに違いない、と他ならぬ書き手自身に期待させる自己紹介でなくてはならない。冒頭から特別な感性を語るということは、けっこう難しい。状況や職業のほうが、まだ手軽ではある。

 

 林晶子は、老若男女の中で、女の子――三歳から十歳くらいまでの女の子ほどきらいなものはなかった。晶子が普通に結婚し、子供を産んでいれば、ちょうどその時期の子供がいることになる。それがもし女の子であったとしたら、自分はどうしていただろう、と彼女はよく考えることがあった。

河野多恵子『幼児狩り』)

 

 私は、かつて肉親の死に会うたびに、ぬきがたいひとつの感情に悩まされてきた。羞恥である。私には、死は一種の恥だとしか、思われなかった。私はこれまでに、二人の姉を死によって、二人の兄を生きながらにしてうしなったが、彼等の死、および不幸は、ことごとく羞恥の種であった。

三浦哲郎『恥の譜』)

 

 マリアが父親の遺伝をうけたとしても、又母親の遺伝をうけたにしても、どこかに気違い的なところを持っていていい訳なのである。つまりふた親の悪い、変なところが遺伝したのである。

森茉莉『気違ひマリア』)

 

 河野多恵子三浦哲郎も、どうしてそんな感性を獲得するに至ったのか、と問いたくなる。二人とも、きっかけとなったその過去のエピソードを、その先でちゃんと回想してある。回想に相応しい、それだけ特別な感性だと作者が信じられたのだ。森茉莉の「気違い」も、それを遺伝させた両親の「気違い」ぶりへと、話は自然に進んでいる。

 

 凡庸な私が、出しゃばって話したいのではない。そうではなくて、私以外の他人が話しかけてきたから、仕方なく対応したのである、という体もある。

 

 ある日あなたは、もう決心はついたかとたずねた。

倉橋由美子パルタイ』)

 

「のう、泰彦はんや、ええが、犬死はするでねえぞ。侍は犬死するものでねえすけの。チョウスウのため死んだどで、どもならねすけの」

 八十三歳になる祖母の於雪はこう言った。祖母はきちんと坐っている。仕方がないから、孫の網代泰彦もきちんと坐っている。

丸谷才一『秘密』) 

 

 仄聞するところによると、ある老詩人が長い歳月をかけて執筆している日記は嘘の日記だそうである。

小山清『落穂拾い』)

 

 姉がまったく危篤に陥ってから七日ほど経ったとき、彼女は仰臥している胸のあたりに半紙を私に支えさせ、力無い手で毛筆を持ってそれに、

「枕もとの白い箱におかあさんのユビワがはいっている」

 と大儀そうに書いた。 

(由起しげ子『指環の話』)

 

 房州に那古船形という土地があるそうだが、私はまだ地図をだしてみたことがないので解らない。そこに「崖の観音」とよばれる場所があって、海に面して展けた崖のきわにちいさな観音堂があり、その近くのささやかな墓地に正藤そめの墓があった、と祖母は私に語った。

(芝木好子『湯葉』)

 

 受身の書き出しである。いずれも、言葉を押し付けられている。

 主役の性格が練り固まっていない序盤から、登場人物を自発的に動かすことは難しい。だから、まず他人に動いてもらい、その反応から性格を計算することで、(性格とは、具体的には「こういった事態にどう反応したか」という事実の積み重ねと、そこから推測出来る反応、ぐらいの意味だろう)ようやっと自分で動けるようになる。たとえばノートに登場人物の性格を書き記していく作業が、どこまで小説の役に立つのか私には想像しづらい。実際の対応を見せてもらわなければ、本当の性格は把握しづらいのではないか。小説の後書きで、「最初はこういう性格のつもりだったけれど、書き進めるうちにどんどん変わっていった」なんてちょっぴり嬉しそうに語っているのを、多くの人は聞いたことがあるはずだ。 

 もうひとつ、そもそも小説は、能動的に読めるのだろうか。たとえば携帯電話の充電が切れてしまって、仕方なく鞄の小説で時間を潰す。眠れないけれど、画面の光は余計に眠りから遠ざけてしまうから、仕方なく小説を読む。読んでしまえば勿論面白くて、最初から面白さ目当てに進んで読み始めたかのような気になるけれども、本当のところ、読書の大半は受動的なのかもしれない。携帯電話だって、「さあ今からいじろう」というのでなく、習慣として自動化された場合がそれなりにあるんじゃないか。受身の書き出しは、これからいよいよ読まされるぞ、という読み手の体感にこそ沿うているかもしれない。

 

 「移動」「受身」「紹介」を組み合わせると、こうなる。

 

 ツチモ草木モ 火トモエル

 ハテナキ曠野 フミワケテ

 ススム日ノ丸 鉄カブト

 ……………………

 

 その歌をいつもうたい馴れているので、女たちの合唱の歌声にあわせて口ずさみながら、原田軍曹は歌の文句を思い浮かべていたが、ほんとうをいえば、女たちの歌声は列車の走る轟音とまじり、ただの喚声でしかなかった。

(田村泰司郎『蝗』)

 

 移動する「列車」に乗っている原田「軍曹」は、「女たちの合唱の歌声」を受けて、自然に口ずさんでしまう。憲兵隊の列車だから、もちろん同僚が同乗している。彼らだけで話が進まないなら、「女たち」から物語に絡む者を拾い上げればいい。

 

 残ったのは二つ。単に時間稼ぎ、レトリックの書き出しである。省いても全く問題ないが、読み手と、そして書き手自身が小説に慣れるまでの待ち時間、ともいえる。

 

 それは山鳥の声のせいであったろうか。それとも五月という時節のためであっただろうか――。いやいや、もとをただせばやはり生来の幻想癖の嵩じたものであろうが、この丘の上の家へ住んでから摩耶子は屡々奇妙な失神状態に誘われることがあった。

小山いと子『壁の中の風景』)

 

 物語がはじまる前に、大急ぎで樗牛の「わがそでの記」について触れておこう。「わがそでの記」はソプラノだ。しらべ高い女のこえだ。そして先ず楽器でいえばヴァイオリンだ。

 むかし、僕は改造社の日本文学全集という恐ろしく廉い本で、樗牛の「わがそでの記」を一読している筈であった。――筈であった、とは、読後直ちにその文章には一片の記憶さえ残されなかったことをいうに過ぎぬが、所蔵の本の目次をみると、ちゃんと読み通した証拠として、その題名のうえに赤鉛筆で赤マルが施してある。で、つまり、そのことは、僕という一介の文学青年のあたまのなかをただ素通りして、遂にそれが無縁の文章に終ったということを意味している。が、図らずも十数年を隔てたことしに至り、改めてその一文を読み返さずには居られぬような因縁を僕は持った。

 読者は、ここで、木目田徳子と呼ばれる聊か風変りな女の名を御記憶ありたい。徳子は、女子大の英文科を中途で止めて、或る青年と恋に陥り、しかしそれが終局には望み通りに運ばぬまま自棄半分にシナの上海とかで数年暮らしてきた人間だが、この冬、所謂リバテイ型の復員船におしこめられて、よくまアこれほど赤ん坊のいるものだと感心した程、前後左右、おしめの裂れのぶらさがりが飜える、小便臭い船室での数日間を送ったうえ、やっとの思いで日本へ帰った。

井上友一郎『ハイネの月』)

 

 小山いと子のは、結局は「丘の上の家へ住んでから」が本当の書き出しのようなもので、移動である。あとは、「幻想癖」で「摩耶子」だから、そうか、まやかしか、なんてつまらないことを思うけれど、こういう名前の付け方だって、小説の推進力としては馬鹿にならない。井上友一郎のは、これは手近な本をとりあえず「大急ぎで」小説の材料にしようとしたんじゃないか、なんて邪推もしたくなるが、最終的には木目田徳子が日本に「帰る」わけだから、移動、と一応は分類出来るだろう。

 

 ということで、この二十五作の分類としては、ひとまず「移動」「紹介」「受身」に行き着いた。特別な紹介に値する設定があるのなら、出し惜しみせずそこから書き始めるのがいい。事前準備なしにとりあえず書き始めるなら、移動と受身、を意識してみるといいかも。