書きたいものがないとき

 書きたいものがなければどうするか。

 まず厄介なことに、小説を書きたいという漠然とした気持ちと、この題材を書きたい、という具体的な感情は、かみ合わないことが多い。書いてみたい題材があっても実際に言葉にする気力は湧かなかったり、何かしら書きたくとも肝心の題材が無かったりする。しかし、後者はおかしい話で、「書きたい題材などないのに、にもかかわらず何となく書かなくてはいけないという気持ちにせっつかれる」という事態は、小説を書く人特有の、変てこな悩みである。

 

 たまたま、ちくま文庫の井野朋也『新宿駅最後の小さなお店ベルグ』を読んでいた。

 

新宿駅最後の小さなお店ベルク: 個人店が生き残るには? (ちくま文庫)

新宿駅最後の小さなお店ベルク: 個人店が生き残るには? (ちくま文庫)

 

 

 著者は「新宿駅ビル地下のビア&カフェ『ベルグ(BERG)』の経営者・店長」で、競争の激しいそんな場所で長年個人店として生き延び続けられた秘訣はどういうものか、という本。秘訣については読んでもらいたいけれども(面白い本で、なぜか解説は柄谷行人。あと、ここの店のモーニングはたしかに美味しい)、たとえばベルクのメニューは、「自分たちが食べたい」を基準に開発されたのだという。

 

伊丹十三監督の『スーパーの女』という映画のなかで、「従業員が買い物をしないスーパーはダメだ」というセリフが確かありましたが、私たち自身がしょっちゅうベルクを利用します。やはり自分たちの職場ですし、気軽に利用できるのが大きい。何より決定的なのは、出されたものを口にする安心感です。慌ただしいなかでも充実した時間が過ごせ、お腹にももたれないですしね。お客様にも、私たちスタッフのように毎日当たり前のように店にきていただけたら、それこそ願ったりかなったりじゃないですか」

(井野朋也『新宿駅最後の小さなお店ベルク』)

 

 自分が好きなものを作る。自分には快いと、自分の感覚で確かにそう言い切れる品であるなら、それだけ他人にも自信をもって薦められるだろう。それが品物を受け取る人間の安心感にも繋がる。私は壁井ユカコの小説が大好きだけれど、彼女もたしか自作を自分で読み返すのが楽しいと、たしか語っていたのは『キーリ』の後書きだっけ。

 「自分たちが食べたい」を小説に置き換えると、「自分が読みたい」小説だろう。当然、これまでに面白く読めた小説が、そのひとつの基準になるだろう。たとえば作家の加賀乙彦は、「書けなくなったときのオマジナイとして、私にはドストエフスキイトルストイの小説を読みかえす習慣がある」という(『犯罪ノート』)。「『罪と罰』や『悪霊』や『アンナ・カレーニナ』を注意深く読み、作品の構成と主題との関係を学んだ。そのうちある日、何か書けそうな予感をおぼえた」。

 たとえば懐かしい料理を思いだして、自分も似たような味を作ってみようというのは、すごく自然な感情だ。小説を書く人は、少なくとも一作か二作は必ず面白かった小説の経験があるはずで、そこに立ち返れば書きたい意欲というのも自然と湧いてくるのかもしれない。

 ただ、たとえば個人的な経験を描いた小説を、そっくりそのまま真似するわけにはいかない。その人自身の畑で収穫した野菜と、まったく同じものを自分の台所に持ち込むことは出来ない。食材=題材が同じ通りに揃わないなら、せめて同じような味付けや調理法を再現してみよう、となるか。たとえば技法であり、文体であり、描写や会話の具体的な作り方や、エピソードの配置であり、「作品の構成と主題との関係」だろう。

 加賀乙彦によれば、ドストエフキイやトルストイ、それから同様に愛するプルーストも「自伝的な人たち」だという。「彼らの作品においてはいかに広い社会的視野で書かれている作品であろうとも作品の核には牢固とした個人的体験がある。『戦争と平和』や『カラマーゾフの兄弟』や『失われし時をもとめて』は本当の意味の"私小説"なのであり、そこにはある時代に生きた一人の人間のしたたかな証言がある。私も及ばずながら彼らの真似をしたいと念じている」。ドストエフスキイトルストイを「真似る」とは、それは模倣可能な「技法」を真似る以外には有り得ないだろう。あるいは思想を真似るとは、その思想に至るまでの問いの過程を自分で辿ってみせる、ということか。その筋道で別の結論に到達したとしても、むしろ真似るべきは具体的な「過程」だろう――批評家であり、かつ優れた小説家だった中村光夫は、『小説とは何か』で、作家の「思想」を実践なしに真似るよりも、描写や会話といった具体的な部分から模倣を始めた人間のほうが、はるかにその作家から良く学ぶ、と断言している(中村光夫の優れた小説を読む限り、これは信頼に値する教えだ)。

 『ベルク』に立ち戻って、もう一つ好きなところを弾いておく。

 

 「店が売りにするもの、自慢できるものが増えれば増えるほど、他店に「真似できない」度合いが倍々にふくらみます。

 というのも、実際、どれもこれも手を抜かずに維持するには、相当の覚悟と熟練を要するのです。つまり、時間をかけて熟成される。それが「どこにも真似できない」本当の個性になっていく。私はそれをひそかに「店に魔法」をかけるといっています。

 最初から個性的であろうとすると、ほかと違えばいいと安易に考えそうじゃないですか。何から何まで赤ずくめの店にするとか。天井から壁から食器まですべて赤で統一してしまう。そういう店は確かになかなかありません。一目で個性的です。わかりやすい個性ではありますが、飲食の素人が陥りやすい罠ですね。内装ばかりやたら凝っても飽きのこない個性にはなりづらい。

 (……)内装などは真似しようと思えば真似のできる個性です。別にそれでもいいのですが、それだけではすぐに飽きられてしまいます。

 やはり確かな技術に裏づけられた「売り」や「自慢」を掛け合わせた個性でないと、本物の個性とはいません」(同上)

 

 多作の作家で思い浮かぶのは、片岡義男だ。それも粗製乱造からはまったく程遠い短編作家で、まずタイトルがいい。文章は清潔で、展開はスピーディーで、読み終わった後に気持ちの良い満足感があって、しかも立派な文学だ。とはいえ紹介より読んでもらうほうが遥かに早いので、まずは何故か青空文庫に収録されている短編集を是非読んで欲しい。

 片岡義男のインタビューを読んでみる。

片岡義男さんインタビュー | BOOK SHORTS

 

 ─―片岡先生の作品のタイトルは、例えば、音楽の曲名や誰かの会話の中での一言、レストランのメニューにある品書きなど、様々なところからつけられています。先生の琴線に触れる言葉に基準はあるのでしょうか。

 それはわからない。傾向は無いです。見たり聞いたりした瞬間に「あ、使えるな。」と思います。要するに、言葉そのものは全部自分の外にあって、僕の中にあるのはそれを受け止めるアンテナのような能力なんです。

─―自分の中からひねり出すのではなく、外から飛び込んでくるのですね。他の人なら見逃してしまいそうな言葉を片岡先生はキャッチされています。

 僕は、短編をたくさん書きたいといつも思っているから。タイトルは書くための材料で、材料は自分の外にある。だから掴まなければいけない。掴むためには、いつも書きたいなと思っていることが必要です。常にそう思っていれば引っかかってくる。いつ飛び込んでくるのかはわからないです。

 

 別のインタビューでは「複数の人がいて、その関係が変わっていく。その変わり方こそが小説。そして人と人の間には「もの」がある。「もの」は必ず他者との関係の触媒になるんですよ」と語っていて、たしかに小説、というよりは物語とは単純に「移動」であり、「変化」だろう。最初から最後まで何も変わらない、どこにも動かない小説があるとすれば、それは小説よりは描写に近い。描写が好きな人はそれで勿論構わないだろうけれど、物語を読みたい人には首を傾げられることだろう。何より、読んだ前後で何かが変わるような小説のほうが、読んでいて私はお得な気分がしてしまう。「タイトルを考えるときは同時に物語も作っているから、タイトルが決まったらもう小説はほとんどできているといっていい」と、片岡はいう。

 「こんな小道具を登場させてみたい」という地点から出発するなら、その「もの」を人間同士の関係が変化する、閾の地点に置くのが小説としては効果的なのかもしれない。印象づけようとして最初か最後に置いてしまいがちではあるが、せっかく「書きたい」と欲望させてくれる力があるのだから、途中に置いて、その前後を考えるほうがお得だ(どうやっても短くしか書き終えられない小説よりは、少しでも自然に長く書ける小説を書くほうが、これも経験という意味では得だろう)。人と人との関係が変化する、小説としていちばん極点の位置さえ書き終えてしまえば後は助走ですんなり終えられてしまえるだろうし、その小道具を小説のなかに登場させる手続きは、論理的に考えられる。すくなくとも、内面にこもって、延々と思い悩む必要はない。あとは淡々と言葉を積み重ねていくだけで、この手作業は、もちろん楽しいはずだ。

 

犯罪ノート (潮文庫)

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小説とはなにか

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