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物語の基礎

 続きを思いつかない、と聞く。こういうシーン、こういう結論を書きたい、そんな最初の計画はあるけれど、肝心のそこ以外は何をどう書けばいいかわからない、という。

 小説の初手については既に書いたが、それ以降をどう展開するか、という話ではない。小説を長く書く技術については、これはコンディションの変動を前提に、いろんな気分に応じて書き継げるようなフックを小説の中に用意しておくと便利だ、と書いた。やっぱりこれも、続きをどう考えればいいのか、という話ではない。

離婚しました (角川文庫)

離婚しました (角川文庫)

 

 

 先週片岡義男という小説家を紹介した。自作に小説論を差し挟むことがよくあって、たまたま『離婚しました』という短編集の、「愛の基礎としての会話」がそれだった。小説家の主人公が、海岸沿いの高台で、こんな話をヒロインから持ちかけられる。

 

「短編を書く予定がある、とあなたは言っていなかったかしら」

「書くよ」

「どんなストーリーなの」

「まだなにもきめていない」

「材料はすべて、虚空に漂っているのね」

 笑いながら彼女は空を指さした。柔らかい金髪が風にあおられ、陽ざしをからめ取って金色に輝いた。

「材料はどこにでもある」

 話を連続させるために、ひとまず僕はそう言った。

「さきほどの土産物売り場の女性を主人公にして、あなたはストーリーを作ることが出来ますか」

片岡義男「愛の基礎としての会話」)

 

 二人はついさっき食事を取ったホテルで、「目もとおよび口もとを無防備に虚ろにさせて、ひとりつくねんと椅子にすわって」いる、売店の若い女性を見たのだった。確信はないが、この女性を登場させたときは、特に伏線を貼る意図もなかったのではないか。「まだなにもきめていない」うちから、書き始めたのではないか。とりあえずで書き始めたところでちょっと詰まり、顎を指でつまんでいるうちに、そうだ、「話を連続させるために、ひとまず」前文のこの女性を話題にすればいいじゃないかと、ひらめいたのではないか。

 

「出来る」

「どんなふうに?」

「彼女はこの土地の人なんだよ。そしてこの土地には、ずっと以前から続いているさまざまな人間関係があって、彼女もその人間関係の網の目のなかに捕獲されている。ホテルの売店へ仕事に来ている時間は、人間関係の網の目からしばし脱出する時間なのだ。だから、はた目には虚ろで退屈そうに見えても、本当は充実している。現実を離れ、ひとりで夢想することの出来る時間なのだから」

「人間関係とは、恋人や友人たち、両親、仕事の同僚、親類縁者、その他いろいろね」

「そしてそのような人たちとの関係が、彼女をこの場所に引き止める役を果たしている」

ストーリーが始まったときと終わったときでは、主人公の身の上に、なにかひとつでいいから、決定的な変化が起きていなくてはいけないわ

「それはストーリーというものすべてにあてはまる大原則だね。彼女に変化をもたらすきっかけを、どこかに見つけなくてはいけない」

(同上)

 

 物語とは「変化」である。文学であろうがエンタメであろうが、物語はまず変化である。変化に対置するなら「描写」で、たとえば「人間関係」や「この場所」のディティールを、あるいは彼女の内面や思想を延々と書き続けるだけでは、それは変化にならない。ならないし、おそらく途中で詰まる。このまえ人と話していて、そういう描写が可能なのは、せいぜい十五枚から二十枚が限界なんじゃないか、という結論に落ち着いた。たしかに、二人の関係描写に徹する二次創作なんかは、書き手が特定の描写によっぽどこだわる場合を除いては、このあたりの枚数に落ち着きがちな気がする。

 

 物語は描写より面倒で、変化を描くには「変化前」と「変化後」の両方が必要だからだ。ひとつの状態だけでは、描写にしかならない。そのような小説もあるが、長く書くには相当な描写の技術を要する。物語という便利な装置を使わないという意味では、けっこうなパワープレイとすらいえるかもしれない。

 すくなくとも長く書きたいなら、面倒くさくても「描写」よりは「物語」のほうが便利だ。続きを思いつかないというのは、そもそも書き切ってしまっている場合、今現在の手持ちの材料ではこれ以上書けない場合、というのも含まれる。物語ではなくて描写を書いているだけなら、たぶんそういうことだろう。

 こういうシーンを書きたい、という場合は、そこを「変化」の瞬間にするといい。最初に持ってくると後は興味の持てない続きを嫌々書くしかないし、最後であれば終わってしまう。途中の、それも物語としてはいちばん大事な変化の瞬間に持ってこれたら、前後両方書けてお得だ。その展開へ持ち込めるよう道筋を立てればいいわけだから、何の目印もないよりは遥かに歩きやすいはずだ。前半部の道のりをしっかり歩いてしまえば、後半はそこで積み重ねた要素を再利用して、終わりまでさらりと歩き切れるはずだ。

 変化は一点だけでなく、複数の証拠で説明したほうがいい。誰かひとりが「きみ変わったね」というだけでは説得力も弱いけれども、複数人から同じことを告げられたら、誰しもそんな気になってしまうだろう。直接言葉で説明されなくとも、たとえば主人公から複数の他人に対する態度や行動に、それぞれ目につく変化があったりすれば、「この人は変わったんだなあ」と、自然と読み手に納得してもらえそうだ。

 

「そのようなきっかけもまた、人間関係のなかにあるのかしら」

「そうだね」

「あそこで波乗りをしている女性たちは?」

「使えるよ。十分に使える」

(……)

「土産物売り場の彼女と、いま波乗りをしている女性たちは、友人どうしなのさ。暇なときには集まり、親しくいろんな話をしている。売場の彼女が固定された存在なら、波乗りの女性たちはもっと自由な存在なのだね。そして彼女たちの自由さに触発されて、あるとき突然、彼女は行動を起こす」

「どんなふうに?」

「ホテルのすぐ外には海がある。その海は世界じゅうでひとつにつながっている。海が持っているそのような力に引っぱりだされるようにして、たとえば彼女は、日本列島のいちばん南西の端にある島へいってしまう

(同上)

 

 「海が持っているそのような力」とは、ちょっとなんのことかわからない。しかしとにかく「島へいってしまう」らしい。「賛成よ」と、彼女がいう。私も、賛成する。

 場所の移動は、お手軽で、しかも変化を招きやすい。すくなくとも書き手の気分はちょっとすっきりする。殺風景な自室とか、見慣れた教室とかで無理やり描写する要素を探し出さなくてもすむ。公園とか、電車に乗って花見にいくとか、その程度の移動でもかまわないだろう。読み手だって気分も変わるわけで、続きに困ったら、ちょっと散歩してみるのもいい。できれば、変化の起こりやすそうな場所がいい。誰か今日の気分に変化を与えてくれる人が来るんじゃないかと、勝手に期待出来る場所なんか、よりいいだろう。 

 実際、この「愛の基礎としての会話」という短編小説でも、主人公たちは「海沿いの国道」から「ホテル」へタクシーで移動し、その「人の気配のない正面玄関」から「中庭の通路をへてカフェ・テラス」で食事を取り、さらに「売店」と「土産物屋」の前を通りがかり、「中庭」に出て、「プールのまわりを一周」し、また「国道」へ出て、「海岸から砂の斜面をあがった」「スロープの頂上」に立って、ようやくこの会話なのである。よく歩く。

 そういえば、散歩が趣味の小説家は、わりに多い気がする。永井荷風は有名だけれど、つい今しがた知ったばかりなのだと国木田独歩島崎藤村徳富蘆花もそうらしい。

 

 物語を展開させる手段として、正反対の人物同士を対置させるのは定番のやり口である。そこの駆け引きに、ドラマが生まれる。たとえば、「こんな風に物事を見ている」という自分の感性を書きたい。であれば、その感性の正しさ――とまではいわずとも、存在感を際立たせるには、それとまったく逆の物の見方をしている登場人物を出してみるのがいい。

 小説家は、「固定された存在」と「自由な存在」を対置している。彼女が場所を移動する前には、最初に「引き止める役」が必要だ。それがないなら、どうして最初から動かないのか、という話になる。気分として面倒くさい。それも正しい答えなのは間違いないけれど、それだけでは読み手を納得させづらいのだろう。「そんなに今の状況が気に食わないなら、どうして今すぐ行動しないの」と、思わず愚痴ってしまった相手にそんな面倒な質問をぶつけられて、「めんどうくさいから」だけで済ませる勇気は、なかなか持ちにくい。「そうしたいのはやまやまなんだけれど、そうさせてくれない他人の事情があってね」が、無難だ。

 

 小説の登場人物は、自分からはなかなか動きにくい。この登場人物がどう動くのか、と予測するには、「こういう状況下で、どんな風に反応したのか」という事実の蓄積なしには、とても難しい。そして、なにか特別な反応を要する状況は、人に持ち込んできてもらったほうが早い。状況を動かしてくれる「自由な存在」は、いてもらえると便利だ。

 「自由な存在」を巧みに利用してきた作家といえば、田辺聖子が思い浮かぶ。たとえば傑作『言い寄る』の冒頭は「友人の美々が「あいての男」から金を巻き上げる交渉に、私もついていってくれ、というから、ついていくことにした」。「美々はちょっとぽってりした肉づきの、色の白い女で、でも脚はすらりといい格好をしている。すこしお人好しの気があるので、私はほっとけな」く、そして「いつも結婚にあこがれてるから二十一、二の娘とちっともかわら」ず、「子供っぽさ」の塊で、「顔を泣き腫らして「あいての男」をとっちめるというと、これはついていかなくてはしようがない」と、私を簡単に自分の事情へ巻き込んでしまう女性だ。あるいは芥川賞受賞作『感傷旅行』のヒロイン「有依子」は、「ずいぶん、数々の恋愛(もしくは男)を経てきており、ぼくらのなかまではマトモに扱うものもないくらい」自由奔放で、しかも冒頭、「八月のおわりのある真夜中」にいきなり電話をかけてくる。「ぼくはろくすっぽ聞いてもいず、就寝中であると哀願」するけれど、「いいから、いいから……」とこちらの意向を完全に無視して自分の事情に巻き込んでくる。「ぼく」にはいい迷惑でも、書く側にとっては、とってもありがたい存在だろう。

 

言い寄る (講談社文庫)

言い寄る (講談社文庫)

 

 

 

 片岡義男に戻ろう。

 

「そしてその島で自由な日々を送るのだけれど、やがてすこしずつ人との関係が生まれていく。島に出来たばかりのリゾート・ホテルの土産物売り場で、パート・タイムの仕事をしはじめる。男性の恋人が出来る。女性の友人を何人か作る。人間関係の網の目が広がっていく。ここにいるときと、基本的な構図はまったくおなじ生活をするようになるのだけれど、彼女の目は虚ろではなく、なぜだか生き生きとしている。彼女はひとつの変化をくぐり抜けた。そのことを象徴するような出来事や場面をひとつ描いて、そのストーリーは終わる」

「面白そう。読んでみたいわ」

(同上)

 

 わたしは複数で変化を描くほうが長く書けるので好きだけれども、禁欲的にひとつに振り絞って書くのも確かにいい。ただ、これは片岡義男という短編作家が直面した枚数制限の問題だ、という気もする。以前の生活と構図はまったく同じなのに、けれど「目は虚ろではなく、なぜだか生き生きとしている」という。構図が同じなら、余計にその変化は際立つだろう(手元にないので省略するが、大塚英志『ストーリーメーカー』もこの変化の強調法を紹介している。物語を作り考えるうえでは、非常に有用な一冊だ)。とどめを刺すように、「象徴するような出来事や場面をひとつ描」いてしまえば、小説はさっぱりと終わるだろう。

 

「彼女にとって、なにが決定的な変化になるのか、それを考えなくてはいけない」

「もっとも大事な部分ね」

「きみの直観では、それはなにだと思うかい」

「恋人でしょう」

 と彼女が言った。

 彼女の直観は、おそろしいほどの高率で的中する。

(同上)

 

 決定的な変化をもたらすのは、べつに恋人でなくてもいいのだが、物よりは人のほうがいい。物は喋ってくれないが、人は違う。会話が出来て、たとえば「あなたは変わった」と愚直に説明してくれるかもしれないし、すくなくともひとりで黙って物を凝視して、内面の描写をたらたらと続けるよりは、誰かと何かをしたほうが、よっぽど書き手の気分も良いだろう。困ったときに偶然会ったりして、何か変化を引き起こしてくれるかもしれない、と期待してもいいだろう。少なくとも、同じものが何度も事件を起こすよりかは、ずっと自然だ。

 それから、物の描写よりは、会話のほうが続けるにはまだ楽だ。会話を続ける技術については、既に書いた。同じ『離婚しました』に収録された短編「膝までブルースにつかって」は実質会話だけの小説だが、そのロケーションは「イタリー料理の店」。会話が詰まり気味になったら、「七番目の前菜がふたりのテーブルに届いた。前菜が一種類ずつ、小さな皿でテンポ良く出て来るのが、この店の特長だった」なんて描写を差し挟めばいいわけで、会話はとにかく場所取りが肝心なのだと、個人的には思っている。

 

「恋人だろうね。とすると、彼女が持っている潜在的な能力とともに、恋人のほうも相当に問題だ。物語がはじまったときの彼女が持っている恋人とは、基本的にまったく異なった恋人でないことには、物語を成立させるほどの変化をもたらし得ない」(同上)

 変化を強調するには、変化の前後が出来る限り正反対のほうがいいのだろう。だから、

「はじめの恋人は、男なんだ。男性であるが故に、世界はいつまでたっても開けず、閉鎖系なのだ。ところが、列島の南西の端にある島で彼女が手に入れるのは、女性の恋人だとしよう。女性であるが故に、どちらの女性にとっても、開放系の世界がそこに生まれる」(同上)

 

 開放系とか閉鎖系とかはちょっとなにを言っているのかわからないけれど、恋人の性別が男女別々なら、たしかに変化は際立ちそうだ。

 片岡義男はその続きに、「なんらかの根源的な変化が、直撃すればいい。そうすれば」「たちまち面白い物語の主人公になることが出来る」と、ごく簡潔に物語の作り方を説明している。物語が書きたいなら、今現在描写している状況から、別の状況へ移動出来るような「直撃」が必要になる。手持ちの材料で書き切れることは既に書いた、という可能性もある。むろんその風景や関係で発掘しきれていないものもたくさんあるのだろうど、それを再発見するには時間が必要になる。物語とは基本的に変化であって、その変化は自発的にではなく、しばしば他人が運んできてくれる、受身や偶然の形をとるものが多い。少なくとも、最初の一歩はそういう場合が多いじゃなかろうか。

 それぐらいの怠惰な幸運は、そこまで書くのに苦労しているんだから、ちょっとぐらいは許されてかまわないと思う。実際、片岡義男の小説なんか、昔の知り合いによく逢うのだ。