小説の雰囲気

 こんな雰囲気の小説を書きたい、というイメージはある。
 それを実際の小説に仕立てるには、どうすればよいのか。

 

 穏やかな小説を読んで感動する。

 こんな風に穏やかな小説を、自分も書いてみたいと思う。

 しかしその穏やかな小説とは、どうすれば書けるのだろう、と立ち止まる。小説では、言葉が大きい。切り分けて、場面としよう。穏やかな場面を積み重ねてみる。さらにその穏やかさを際立たせるような激しい場面をぽつりと一滴だけ入れてもいい。そうすれば、穏やかな小説ができるだろう。

 

 雰囲気とは抽象であって、具体ではない。抽象とは、具体的なものをいくつも並べ、それからの共通項として得られたもの、とは辞書の説明であるが、十分な定義である。たとえばある小説の穏やかな「雰囲気」とは、穏やかさを連想させる具体的なもの、最終的に穏やかだったなあと感じられる場面がが何度も立ち現れてくるから、読み終えたあとに、ああ穏やかな小説だった、と結論出来る。
 となると、これも物語と同じく、説得のプロセスである。

 

 横光利一の『春は馬車に乗って』という、有名な短編がある。悲しい小説なので、読んでいない人は今ここで読んで悲しくなってほしい。

日輪・春は馬車に乗って 他八篇 (岩波文庫 緑75-1)

日輪・春は馬車に乗って 他八篇 (岩波文庫 緑75-1)

 

 

 悲しくなってから、ちょっと冷たく考えてみる。『春は馬車に乗って』は、どうして悲しいのか。

 奥さんが死ぬ。それはもちろん、悲しい。しかし、所詮は他人の奥さんである。それも、まったく無関係な人の。そんなご近所の奥さんが死んだとして、ああ可哀想だなあと一瞬は思いつつも、しかしその後は他人の事件として済ますのが、普通だろう。
 でも、たとえば私は『春は馬車に乗って』という小説を読んで、とてつもなく悲しく、さみしい。横光利一がそう、仕向けている。同じように悲しくなってくれ、この悲しさを体験してくれと、説得している。その説得のプロセスは、どこでどう、行われているのか。
 どこでというと、いきなり冒頭である。

 

 海浜の松が凩に鳴り始めた。庭の片隅で一叢の小さなダリヤが縮んでいった。
 彼は妻の寝ている寝台の傍から、泉水の中の鈍い亀の姿を眺めていた。

 

 たった三文だが、これが説得である。
 木枯らしが吹いて、松が鳴る。庭の片隅で、それまで咲いていた小さいダリヤが、なんだか縮んだようにみえる。ダリアは晩秋に咲くらしいが、それもいよいよ過ぎて、冬が近い。亀が鈍いということは、早く動いていた記憶がある、ともいえる。もう少し早く泳いでいたはずの亀が、だんだん鈍くなってきたな、と思う。
 もうすぐうちの奥さんが、死ぬ、と男が予感するには、充分な光景だろう。
 その先の話を知らなくたって、冬を予告する風にしろ、縮みゆくダリアにしろ、亀の動きが鈍いことにしろ、なんとなくさみしく、物悲しい。

 

 庭を見終えた男は、ついで妻と会話を交わすけれど、かみ合わない。「ええ、だって、あたし、もう何も考えないことにしているの」といわれたとき、男は大変いやな気持がしただろう。間髪入れずに、その言葉を否定しただろう。間の描写がない。身体が眉間にしわをよせたり、唇を密かに噛んだりするより早く、言葉が先走った。
 会話もいい。すごくいいが、途中で止まる。妻が、黙ってしまう。
 それで男は、話題をなんとか病から遠ざけようと、風景に目を転じる。

 

 海では午後の波が遠く岩にあたって散っていた。一艘の舟が傾きながら鋭い岬の尖端を廻っていった。渚では逆巻く濃藍色の背景の上で、子供が二人湯気の立った芋を持って紙屑のように坐っていた。

 

 子供が呑気に、芋を手に座っている。午後の波は、いつも通りの波だ。船が岬の尖端を回るのも、自分たちとはまったく無関係である。男は、この海の、悲しさとは絶対無縁なあり様に、とてつもない距離感を覚えたんじゃないか。隣で、うちの奥さんが死のうとしているというのに、波はいつも通りで、しかも別の誰かが、平然と生きている。無関係の人間がぜんぜん悲しく生きていないということ自体に、自分たちの今現在の悲しさが、余計に際立つ、と男は思う。波が散る、船が廻る、子供が渚に坐っている。たった三つで、夫婦の居場所とは違いすぎる光景を、利一は見せつけてきたわけだ。

 

 そうか、三つか、と思う。
 物語の作り方を考えるとき、三、という数字は便利だ。三という数字に特別な根拠はないが、主人公がある状態Aから別の状態Bへ変化するにも、三つの段階を踏めば納得してもらいやすい。利一も、最初の描写で読み手を悲しくさせるのに三つの足場(木枯らし→ダリア→亀)を、それから最後の描写で悲しみを際立たせるのにも、やっぱり三つの足場(波→舟→芋を手に座る子)を使っている。
 場面の雰囲気作りの一手法として、その雰囲気を連想させるものを、三つ用意してみる。あるいは、なにか描写しなくてはいけない、という必要性に駆られたとき、どれだけ書けばいいのか。
 三つ書けば、とりあえず物足りない、という感じは与えずに済みそうだ。

 

 人物描写は、作者の主観であることはもちろん、何より雰囲気や存在感が必要だ。消したり、ぼかしたりしながら、際立たせるところだけを書く。それはあるときは顔の中の目であったり、耳であったり、手であったりする。
村田喜代子『名文を書かない文章講座』)

名文を書かない文章講座

名文を書かない文章講座

 

 

 村田喜代子の名著である。「描写は選択」と題したくだりだが、風景描写についてもあとで「人物描写と同じ心がけで対象に向かえばいい」と書いてあった。利一の最初の描写でも、庭の芝がどうとか、たんぽぽの根が鮮やかな緑色だとか、それでは悲しい雰囲気はなかなか出てこない。とにかく悲しそうなものを、目の前の庭からかき集めたのである。後ろの描写は、それとはまったく反対に、とにかく悲しさとは無縁のものをかき集めて、主人公に疎外感を味わわせた。読み手のぼくにも。他の人々はなにも悲しくないんだと、たしかに勝手な話ではあるけれども、悲しみが深まって、当然である。
 実際に奥さんを亡くした利一には失礼だが、なかなか、仕組みとしてよくできている。そんな仕組みを作り上げてしまえるぐらいには、自分の悲しみを解って欲しかったのかもしれない。
 
 描写というと身構えてしまうが、抽象的な「雰囲気」から逆算して、それを連想させるような具体的な「もの」を用意する行為だ、ともいえるだろう。読み手をその場面でどんな気持ちにさせたいか、を考えると、描写の対象というのは自然に決まってくるのではないか。描写が好きならともかく、(私みたいに)描写に難儀する人は、まずは雰囲気のための小道具ぐらいに考えてしまうのも手なのだろう。

 

 思想という抽象は、どうか。

 いや、思想とは、なんだ。あることについてこう考える、とまずはその程度でいいだろう。AはBである(べきだ)というそのAは、たとえば人間とか人生とか愛とか死とか、なかなか大きい題材だろう。そんな巨大な題材をどう書けばいいのかについては、今回は無視する。

 

 簡単な例をあげるなら、人間の善性を信じるべきだ、と最終的に読む側に思わせるような小説を、あなたがこれから書こうとする。人間っていうのは案外善人なんだなあ、と読み手に自然と思わせるような、具体的なエピソードを恣意的に選ぶ。となると、これは利一の描写と同じである。
 三回、そういう話を繰り出してみる。
 しかしそれだけでは、お前の都合のいい話ばかり選んでいるじゃないか、と読み手はいう。もともと、人間なんて、そう簡単に信じちゃあいけないよ、と考えている人が、読みながらきっと眉間に皺を寄せる。いや、それ以前に、聡明なあなたなら、これは、なんだかおかしいぞ、と立ち止まるはずである。世の中、必ずしもこんな風にはできていないな、と。書いている途中で、これじゃあまずいよ、とストップをかけた自分をどう納得させるか。正しく批判してきた相手に、どう言い返すか。
 ひとつの選択肢は、正反対の思想を先取りすることである。
 人はそう簡単に信じちゃあいけないよ、という話を、一つだけいれてみる。そういう現実もあるということは、わかっていますよ、という言い訳ともいえるし、いや、それはそうですよね、と説得のための、一歩だけの後退、ともいえる。正反対の思想の人を、小説のなかに登場させてみる。性悪説の人は、きっと性善説の主人公と衝突する。その衝突の過程で、人間はみんな善人だ、という説は、作者の予想しなかった別の思想、別の命題へと、変成していくかもしれない。たぶん、けっこう楽しい。
 異なる考えの登場人物が衝突し、対話していく中で、作者自身も意識していなかったひとつの「思想」が浮き上がっていく。単一の思想や世界観を、同じく単一の(とっても力強い)エピソードで表現する方法もあるが、これには相当な力量がいるし、だいいち長くは書けない。

 

 ちなみにこんな対話の過程を、「思想というある時間」とかっこよく表現した人がいる。時間とは、過程である。異なる考えが衝突する、その過程でこそ生まれた考えをこそ、思想と呼んだ人である。

 それこそが、横光利一であったりするわけだ(ただし、怪文書)。

愛の挨拶・馬車・純粋小説論 (講談社文芸文庫)

愛の挨拶・馬車・純粋小説論 (講談社文芸文庫)