花を断つ言葉 ――幸田文『季節のかたみ』

 

季節のかたみ (講談社文庫)

季節のかたみ (講談社文庫)

 

 

 幸田文の『季節のかたみ』に、「壁つち」という随筆がある。書き出しが、まずうまい。
 
 死なせるとか、ころすとか、まことに穏やかならぬことを、これはまた至極おだやかな調子でいっているので、なんのことなのかときき耳をたてたら、壁土づくりの話しをしているのだった。
(「壁つち」)
 
 野呂邦暢なんかもそうで、だいたい抒情的とか評価される書き手こそ案外一流のアルチザンだったりするのだが、なんのことか、誰の話かと「きき耳をたて」ざるを得ない書き出しをしている。どこそこに入っていく、というのは物語の書き出しの一定型であって、それは読み手がまさに小説のなかに入っていくのと登場人物の歩みを重ねられるからなのだが、幸田のこの書き出しもその類だろう。
 で、壁土つくりとはなにか。
 「死なすの殺すのとは、腐らせることなのである。念入りな建物には、壁もまた念入りになるが、そういう時、壁の材料である土は、二年も三年もかけて、いちど十分に腐らせてから使う。その腐らせることを、話していたのである。」どうも「壁つち」の「職人さんたち」の話らしい。

 
 しかし、それにしても、土をころすとは、どういうことなのかとおもった。ものを爛熟させることは、寝かす、寝かせるなどという、やさしい言葉も使うのだから、それを殺すと荒々しくいうのには、それ相応のなにかがあるのだろうと察した。するとその私の気持ちを見抜いたように、なにしろ土は生きているのだから、殺さなければ思うようには使えない。それに土は性根の強いものだから、死なすには相当ほねを折らなければならないのだ、という。
(同上)

 

 「壁つち」のための土は、水をくわえて、何度も何度も職人の足で踏みつけられてこねられる。「子供のどろんこ遊びとおなじで、なんと汚らしく、そして滑稽である」と幸田が思わず笑うと、すかさず職人に切り返される。

 
 遊びなどとはとんでもない、難行だという。鼻のもげそうな悪臭で、口もなにもききたくないほどな、我慢のいる仕事だと、いまただ話すのにさえ顔をしかめる。嗅いだことのない人には、話しても到底わからないが、あの嫌な臭いのなかで、くちゃくちゃ踏んで捏ねるのは、とてもとても、けぶにもおかしいなんてものじゃない――ときびしくいったものの、ちょっと戸惑って考えているふうで、「へんだな、こうして実地の仕事でなく、話だけのことでしゃべってみると、あの作業は、やはりなんだか可笑しいな。話だと、臭いということ自体が、もうおかしさをくすぐるし、しかもそれを足で捏ねる、とくればいかにも滑稽だ」ととうとう自分が笑いだす始末になった。
(同上) 
 
 「が、当人にそう笑われると、今度はこちらが笑え」ない。悪臭、土を踏む触感を想像する。実作業には滑稽味など「毛ほどありはしない」のに、「ただ話できけば、なにかおかしくなるのは、どういうわけだろう。それが実地と話とのちがい、というものだろうか」と、不思議がりつつも、「それはさておき」と話が移る。

 
 では、土が生きている、とはどういうことなのか。土が、本来持っている自分の性質を持ち続けているかぎりは、生きている土なのだという。それなら、土本来の性質とはなにか、といえばそれは、固まる、ということなのだ。(……)念入りな壁をつくろうとする際の壁土としては、土本来の性質のままに固まられたのでは、いい壁にはならない。(……)だからどうしても、性来の固まる性質を一度くさらせ、殺して、いわば癖抜きをするのである。
 (……)そのものの形態の、そのもの本来の性質も、ともに消し去ってしまうのが死というものだが、この場合は、本来の固まるという性質だけを消して、土そのものの形は残る。しかし、本来の性質をもっている土を、生きている土と考えるのだから、その性質を消そうとする時、それはまさに、死なす、というほかないのである。こちらの意志や力を敢えて加えて、死なせるのである。
(同上)

 

 このあと話題は人間の「持って生れた性質」というものに流れていくわけだが、そもそもこの問答は、「実地と話とのちがい、というものだろうか」から始まっている。幸田はその自問の答えをはっきり書いているわけではないが、「実地」が「くさらせ、殺して、いわば癖抜き」された形として、「話」として固まるからこそ、「なにかおかしく」なる。本人にとって陰鬱で真剣な作業ですら、時間を置いて「くさらせ」た末に、誰にでも通じる言葉へと「癖抜き」してしまえば、そこに「滑稽」が生まれる。ここで幸田が「土」の生死を書きながら同時に暴き立てているのは、まさに幸田が「随筆」として書き語ることの、どうしようもない作為、一般化に滲む「滑稽」ともいえる。
 幸田の文章に滲む詩性、幸田の詩学は、おそらくこの「癖抜き」に自覚的であるからこそ成立する。好きな作家のわりに今更気付いたのだが、幸田の文体には強烈な癖がある。後から癖をつけるのではなくて、最初から物事に染み付いた癖を、極力殺さないようにする用心である。たとえば同じ『季節のかたみ』に収録された、「季節の楽しみ」のこんなくだりなど。
 
 洗濯物の乾き具合で、春の到来をたしかめるという奥さんがありました。どんなに転機のいい日でも、冬のうちは乾き方がとろんとしている。春がきざせば、それが力のある乾きになる。ことに純綿物は、糊をしたかのような張りをみせて乾く。
 だから、その日そういう手ざわりで乾けば、暦よりも実地で、自分は自分なりの、確かな春の手ごたえをうけとっているのだといいます。
(「季節のたのしみ」)
 
 幸田文の随筆には、しばしばこうした聞き書きの場面が出てくる。実際にこの発言がどこまで本当にあったのかはちょっと疑わしいが(なんせ近所の主婦から旅行先のタクシー運転手、職人までみんながみんな感性が鋭過ぎるので)ともかく「乾き方がとろんとしている」というくだりが、否応にも目を引く。こんな形容をさらりと出来るのは幸田文ぐらいなものとも思うが、こういう異様な感性の発露を読み手に難なく読ませてしまう仕掛けが、ひとつには聞き書きという形式であり(自分が感じたことを自分の言葉で書く、という体裁と、人の感想を聞き書きする、というのでは真偽はともかく書くほうも読むほうも距離感が変わってくる)ひとつにはその形容の短さだろう。こういう特異な表現が延々と続いてしまえば、とても読めた代物ではない。もちろんそれは幸田も分かっていて、いちばん癖のある、粘つくような表現をさっと一度だけ挿入して、その場面はさっさと終えてしまう。
 
 私は花を片付けるのが好きで、終りの気配を察しると、しおれを見ないうちに始末する。むらがって咲く小菊などは、先に咲いた花から、順につまみ取ってやる。そのほうがかえって、一花一花を惜しむことであり、庇ってやることだと思うのだが、人によっては、枯れるまで置いておくのが、いとおしみ深いという。……私にあうとフリージアなど、元のほうからどんどん花を摘みとられて、しまいにはあの特徴のある花柄の、くねりの突先に小さい花が一つになるから、人がみな、変な恰好だといって笑う。たしかにおかしな形だとはおもうが、清潔で、いい匂いを放つ、あのやさしい白い花がしなびて、うなだれていくのは、私は見るにしのびない。
(「ことしの別れ」)

 

 こんな具合に、潔く花を切る幸田の手つきと、一瞬だけ強烈な形容詞を置き残して場面を終わらせていく筆の運びとは、似た動作のように思える。たとえば布団が「とろん」と乾くとき、冬の日の布団に染み付いた、いちばん深い部分の「癖」を抜き出して、後の部分はさっさと切り落としてしまう。文章の書き方でいえばごくシンプルで自然なものだが、そこには確かに、生のものを「殺す」手の動きがある。話は最初に戻るが、「壁つち」はこんな文章で締めくくられている。随筆にこんな表現は適切かわからないが、掌編にしては比較的長く膨らませてからの、話を断つ一文だ。
 

 ついでながら、ここで話されていた壁土は、富豪の豪華な住宅に使われるものではなく、富まぬ寺の、祈念のために造られる建築物に使用されるものである。この夏、土は捏ねはじめられるという。
(「壁つち」)

 

 生といっていい現実を捏ね、癖を抜き出し、速やかに固めてしまう幸田の言葉が向かう先は、大体の場合は「時代から消えていくもの」への「淋しい」哀悼である。現実について書くとき、人は当然、常に生の現実に遅れて書くしかないのであって、終わったことを言葉に書き直し、文章記録として固める動作には、この「淋しい」感情が付きまとう。現実から何がしかを削ぎ落とすしかない、ぐだぐだと待っていては腐り落ちてしまう。切り落とす言葉には、そんな切迫感があると思う。