『トリオ』(2016)

(2016年の長野まゆみ『冥途あり』の読書会+合評会の際に書いた短編です。)

冥途あり

冥途あり

 

 

 物語修復人だった父は、自分の仕事をカウンセリングと勘違いされるのをひどく嫌がり、カウンセラーのことはインチキ商売と呼んでいた。どうにもならない現実に対して慰めが必要な人間が存在し、それに対し言葉で苦痛を緩和する専門職が存在することは、インチキどころか、自然な事態だろう。ただ、父はカウンセリングがとにかく嫌いで、テレビでその手の番組が始まると、不愉快そうに顔をしかめ、チャンネルを変えてしまう。
 いいか、あれは嘘の仕事だ。お前達はあんなインチキみたいな仕事はするなよ。
 姉は大学を卒業したのち葬儀屋に、ぼくは市民病院の麻酔科に務めることになった。全ての痛みを経験し終えた人間を送り出す仕事と、痛み自体をなかったことにする仕事だ。

 

 ぼくたち姉弟は、職人気質を気取り、どんぶり勘定で、むらっ気が激しい父のことを信頼していなかった。説教好きの父が何かにつけて人生訓を授けたがるのも、高校生と中学生になったぼくたちには、なかなか気分の悪い時間だった。子供の目にもパッとしない、色あせた人生を送っているこの男が、胸を鶏のように前面に押し出し、何があっても自信と誇りを持ち続けること、不平不満を述べないこと、嘘を述べないこと、常に独創的であるべきだということ等々を、どうしてそうも誇らしげに教え諭せるのか、疑問でしょうがなかった。
 ぼくは小説を書き、姉は絵を描いたが、それを仕事にする気はなかった。姉の結婚とぼくの卒業が重なったので、趣味は趣味として、三月の里帰りで、姉弟共有のクローゼットの奥へ、それぞれの十数年の生産物を詰め込んだきり封印してしまった。他人の夢が大好きで、自分の人生で賭け事をする勇気のない父親には、それがたいそう不満らしかった。
 もちろん、父とぼくらは、あまり仲が良くなかった。三人とも出不精で、ぼくたちは欝々と築五十年の木造建築で煮詰まらなくてはならなかった。空き部屋が多いのは、本来ここに住むべきもう一人がさっさと父親に見切りをつけてしまったのもあるし、見栄っ張りの父が、とにかく職人商売は部屋だ、心を落ち着けるための瞑想部屋、道具を手入れする部屋、客を招き入れる仕事部屋が絶対に必要だと言い張り、耐震性や利便性を度外視し、無意味に部屋が多く、老朽化も酷く、買い手のつきそうにない空虚な家屋を己の終の住処と見極めたせいもある。青竹のような、空の空間ばかり目立つ、変に広々として落ち着かない家が、僕と姉の青春の場であり、父の子育ての場でもあり、母の他愛ない不倫の舞台でもある。
 要約してしまえばありふれた家である。要約してしまえば、何事もそうかもしれない。

 

 父はよく家出をした。姉との喧嘩で言い負かされると、「誰が育てたと思っている!」なんて、古風な捨て台詞を吐き捨てる。そっぽを向いていた姉は知らなかっただろうが、そんなときの父の唇はむず痒そうにひん曲がっていて、本当はこんなつまらないこと言いたいわけじゃないんだよ、となんだか言い訳じみていた。そんなとき、父は履き潰した自分の靴ではなく、自分より足の大きな息子の靴を拝借していくのだった。普段から靴を出しておけばいいのに、毎回不慮の事態に直面したとでもいうように、頭を軽くぽりぽりとかいて、玄関で見守っているぼくに、へらっと軽く笑い、中学生用の真っ白い運動靴を両手に携え、裸足で玄関を出ていくのだ。
 別にぼくは困らなかった。父の持ち出しを見越して、姉は新しい靴を買わせるときも、絶対に前のサイズを残させるようにした。雨で濡れて帰ってくると、ぼくは姉からまず布巾を手渡され、新顔のほうから水滴を吸い取る。自分用のタオルケットは、それを終えてからだ。極力丁寧に靴を履くようになったのも、物持ちのよくない父が反面教師だったのかもしれない。家出のときの靴がみっともなかったら、さすがに可哀想だとも思っていた。
 都合のいい家出先などあるわけもない父は、電車で三駅離れた、別の市の中心駅から、夜の十時が最終便の市営バスに乗り継ぎ、湖そばの温泉施設へ逃げ籠っていた。帰ってきていいことがあるわけでもないので、放置だった。母に喧嘩で言い任されていたときから、ずっと同じ逃げ場所だった。駄目な人だけど、ヤケになって博打を打たないのは、ちょっとはマシかもね。まだ幼い姉に、母は沢庵を勢い良く切りながら笑っていたという。ダメナヒトなんだなあ、と三歳の姉は生物の種名を耳にしたような気分だった。ダメナヒトだから、仕方ないよと、八歳の姉は、父の突然の癇癪に危うく泣き出しそうになった五歳のぼくに、そっと静かに耳打ちした。齢四十にして、家族全員からダメナヒトと認定されていた父は、思い返せば、正直ちょっと可哀想だ。そう思われて、余計にだめになったんじゃないか。僕も姉も母も、できれば父にはダメナヒトで居て欲しいと、いささか暗い願望があったのかもしれない。どうしてそんなひどいことを願えたのか、不思議で仕方ない。

 

 家族の約束は破っても、客との約束は絶対に守った。いくら職人だ、芸術家だと家族に大口を叩いたところで、食い扶持を保証してくれるのは結局客と、長い修復人生活で理解していたわけだ。表に出ない業種だけに、とにかく口コミが生命線。ひとり幻滅させれば、十人百人の客が死ぬ、そういう仕事なんだと酔っ払った折に絶叫していたのも、決して誇張ではなかったのだろう。インターネットで自分達の職場の名前で検索したら、すぐ評判が聞こえてくるのにげんなりした、と最近も姉弟で互いに溜息をつきあった。棺のなかに、故人の愛用していた腕時計を納棺させてもらえませんでした。星ひとつです。愛犬を残してやるのは可哀想だから一緒に燃やさせてあげたかったのに、絶対に許可してもらえませんでした。星ひとつです。姉が読み上げるスマートフォン越しの言葉は、他人事に聞こえなかった。痛みを取り切れていないから星ひとつ。術後に起こされたから星ひとつ。そんなに故人が不憫なら、棺に同席して天国まで付き添ってあげればいいのに、と口走る弟を、姉は丸めた新聞で叩いた。尊敬出来る父親でなかったから、星ひとつ。妻に逃げられたから、星ひとつ。
 
 職人に心の準備が必要といって、顧客が来る一時間前には仕事部屋で待機していたが、どれだけ早く来られても対応出来る、と立派に見せたいようだった。そういう父の小心は、けっこう好きだった。仕事が仕事なだけに神経質な客も多かったが、父の変に几帳面なところには安心させられていたようだ。ぼくが朱塗りの盆で二人分の湯呑を運び入れるたび、礼儀正しいお子さんだ、お父さんの教育が行き届いているんだな、と父はよく褒められた。得意顔の父は、客の目の前でぼくに茶を運んでくるよう命じたが、礼儀を教えてくれたのは当然姉だった。高校から飲食店でアルバイトをしていた姉からは、こういうことは早いうちに学んでおいたほうがいいと、接客業のノウハウを教え込まれた。姉にはオモチャにされていたわけだが、ぼくは立派なウェイターのつもりだったし、教えの内容はしっかりしていた。
 ホテルの三十六階の、スカイレストランのウェイターは、密談に耽る客の傍まで暗殺者のように静かに忍び寄り、急所に正確無比な一撃を与えるように、湯呑を素早く置くと、一礼のみで何事もなかったように引き返すべきである。と、牛丼屋勤務だった姉に教え込まれた通りに、僕は茶を運んだ。「暗殺?」帰還した途端に姉に問われ、「暗殺!」と答えた。一流ホテルのウェイターなら、格好も立派でなきゃいけない。タイピンとカフスボタンが欲しいとねだると、姉は日暮里の繊維街で獅子の彫刻された金色のアンティークボタンを見つけて来て、接待用のぼくのポロシャツに縫い付けてくれた。全くカフスではないが、ぼくらの間では、それなりにカフスだった。ネクタイピンについては、我が家にはそもそもネクタイがなかったのだから、流石に無茶な要求だった。父にはそれすら誇るべき事柄らしく、お父さんは、他人に頭を下げて物を売らなくていいんだ、無様な正装もしなくていい、職人だからな、と僕の部屋に突然やってきては、無暗に足音を立てて仕事部屋へ戻るのだった。
 でも、ぼくは父の施術が不満で、いきなり殴りかかって来た若いチンピラに、父が平身低頭で許しを乞うていたのを、四歳のときに目撃してしまっている。ついでに四歳のぼくが身をもって知ったのは、どんな乱暴な客も、子供の覗き見には耐えられないということだ。怯えた視線に気づくと、彼らは子供時代の辛い記憶を掘り起こされたでもいうように、突如として沈鬱な表情になり、言い訳じみた言葉の出来損ないを口ごもると、千円札をスローモーションじみた動作で父の手に叩き付け、威圧的な足音で駆け去っていくのだった。しかし、二階の窓から見下ろせば、玄関から先の歩き方は、妙にとぼとぼと、しょぼくれていた。
「きっと悪い人じゃないんだろうね」銃弾を回避するみたいに、しゃがみ込んで窓を覗き込んでいる父に話しかけると、先程のしおらしい態度はどこへやら、急に血相を変えて怒鳴った。「悪い奴になりきれないから、悪いんだ」
 納得はしたが、興味は「おやつ!」という間の抜けた呼び声へすぐさま移り変わった。三時を三十分遅れたおやつは、メロンソーダときなこドーナツだった。僕のおやつなのに、何故か父も泣きそうな顔で、背中をきゅっと哀れに縮めて、台所まで降りてきた。「二つ目はない」姉は事実を告げた。「穴がある」父はぼくの皿から勝手にドーナツを取り上げて、中心の空洞を、それこそ穴が空くほど凝視し続けた。「やめて!」姉の再三の懇願にもかかわらず、父が前歯で生地を撫ぜたところへ、ぼくが短い両足へタックルした。予想外の反抗に、父は上体のバランスを失い、後ろのソファへ頭からひっくり返った。
 同時に放り投げれたドーナツはぼくの頭に乗り、姉は「ソファが壊れたらどうするの!」と、父を叱った。今のぼくはきっと天使みたいだぞ、と手に取ったドーナツからは、きな粉の粒がきらきらと落ちてきた。前歯の痕が、薄く凹んで残っていた。父は普段通りの自分の右頬を撫で、暴漢に詰め寄られたときみたいな、怯えた視線でぼくを見つめた。
「息子が、俺を、俺の息子が、俺を、いじめる」薬物中毒者のように回らぬ呂律で、父はいきなりまくし立てた。「おい、どうなってるんだ、俺の息子が、俺を、いじめるぞ、お姉ちゃんよ、お前の弟は、どうなってるんだ」僕と姉は、素知らぬ調子で、顔を見合わせた。あまりに可哀想になってきたぼくは、きなこドーナツを四分の一、時計の十五分だけあげようとした。「いらねえよ!」両手で施しを払いのけられたぼくは、十五分と残りの三十分を口にいれ、ソーダで流し込んだ。父親は更に機嫌を悪くし、半分残ったソーダのグラスを突然握りしめた。ぼくが思わず目を閉じると、父親は律儀に水色ストライプのストローで最後の一滴まで飲み干し、「出かける!」と宣言した。「出かけて」と姉が薦めた。このメロンソーダは甘過ぎる、とぼくは思っていた。父の噛みしめたストローの先端部が、舌先にちょっと塩辛かった。加齢臭みたいなもの、加齢唾液だな、今日の晩御飯はカレーがいいな、とぼんやりと考えた十五分後に、少し窮屈な靴で、姉とカレーの材料を買いに行った。

 

 父は同業者の評判を気にしていて、自分の常連客だった中年女性が、隣町の若い男の職人に鞍替えしたときには、その場に居ない職人を夕食の席で口悪しく罵り続けた。あいつの仕事は雑だ、店を小奇麗にして金稼ぎのことばかりで、肝心の腕前がついていってない。
「だめだ、こんなことばかり言ってたら客が逃げる」と、父は口を塞ぎさえすれば悪口が止まるかのように、油の滴る唐揚げで頬を膨らませた。それでも言葉の勢いが止まらないのか、「おい、このから揚げ熱いぞ!」と意味不明な文句をつけた。姉は当然無視して、小鍋から箸でつまみ上げた熱々の唐揚げを、ぼくと父のあいだの大皿に追加した。「おい、何を笑ってる」と父は皿の端から白米に唐揚げを運んでいたぼくを睨み付け、「客がいなかったらお前このから揚げ明日から食えないんだぞ!」と長台詞で怒鳴り、大皿を自分のほうへ引き寄せた。ぼくがむくれていると、彼は持ち上げた唐揚げを、わざとぼくの目線の高さまで持ち上げて、にやにや笑いながら口に放り込んだ。「俺の金だからな!」恩着せがましく言い放つと同時に、姉が手早く食器棚から緑の小皿を取り出し、十数個のから揚げを乗せた。「これが私のお金」姉が僕のところへ皿を置くと、父はさっきの息子みたいなふくれっ面で、やけっぱちにから揚げを食べまくると、「熱いぞ!」と吠えた。「揚げ物だもの」鍋底の最後の一個をつまみ上げると、姉は玉入れのように自分の口へ放った。唯一猫舌の父は、悔しそうにキッチンペーパーの油滴を睨んでいた。
 で、猫には嫌われた。動物嫌いの姉には食べ物の匂いが染みついているのか、布団叩きで何度も追い払われ、ホースで水をぶちまけられたりしても、負けずにしつこくじゃれついた。そんな夏の日は、ぼくも水のアーチに飛び込んで、びしょびしょにシャツを濡らした。布団叩きを握らされて、ぼくはシャツと干された夏用の軽い掛布団を叩き続けた。皿洗いを終えると、姉は炭酸水入りのタンブラーを携え、腰掛けた縁側からぼくを監視していた。黒猫が寄って来ると、足蹴のポーズや、手で払いのけたりして追い払った。ふいに二階の窓が開き、「猫だ」と誰かが嬉しそうに笑った途端、それまで人懐こかった猫が、急に高く首を上げ、フシュウフシュウと獰猛に鳴いた。「おいで!」書斎の出窓から手を伸ばした父の手を、猫は食いちぎらんばかりに不機嫌に睨み付け、尻尾を蠍のように逆立ててた。「やめてよ!」ぼくが叫んだのは、猫をからかっているのか、本気で二階まで飛ぶと信じているのか判別し難い父の言動を止めたかっただけではなく、万が一猫が軽やかに跳躍して、父のあの骨ばった手を噛み千切りでもしたら、とてつもなく哀しくなると予感していたからだった。姉がタンブラーを手に取ると、氷が鈴のように高く鳴った。猫は我に返ったようにきょとんとし、尻尾を垂らして姉の足元へすり寄って来た。姉は頭上に突き出た両手に狙いを定め、足元の石を放り投げた。石は不自然な軌道を描き、僕の頭に落ちた。「痛い!」非難したぼくを、猫も姉も、なんだか別世界の人間に出くわしたような、不思議そうな顔で見ていた。
「なんで懐かない!」父が首を突き出して怒鳴った。「猫もダメナヒトは解る」そう呟くと、姉は足を黒猫に突き出した。ついに観念したのか、黒猫は庭の右手から、柵の奥の林へ逃げ込んでしまった。ああーっ、と至極残念そうな父の声に我慢ならず、ぼくは布団をうるさく叩いた。姉は、蹴り伸ばしたままの自分の裸足に、じいっと眼の焦点を据えていた。手つかずの炭酸水に左手の人差し指を浸し、同じ姿勢を保ち続ける姉の姿は、なんでもない場所を凝視している猫を思い起こさせた。ぼくが布団を叩き終えると、父もガシャンと鳴らして窓を閉じた。黒猫が戻って来て、今度は出窓の下で少しは愛想を振りまいてくれるのではないかというぼくの希望は、姉の隣で何十分待ち続けても、けっして適わなかった。空中に差し出された両手の残像が、白い布団の布地に焼き付いているような気がして、ぼくは何度も自分の瞼を擦った。三十分後に、姉がタンブラー一杯の炭酸水を、台所のシンクに捨てた。

 

 父の起床は遅かったが、寝る時間も早かった。布団に入ってから、子供部屋で少しでも物音が立つと、大いに怒り狂って「誰のおかげで飯を食えてる!」と怒鳴ったが、中学、高校と姉が進学するにつれて、父の収入が家計を占める割合は減っていった。
 父は遊びを知らない人間だったが、休みの日は競馬場に行きたがった。東京競馬場の入場料だけを払い、自分もいっぱしの遊び人のようなつもりで、ハンチング帽のつばを左の親指と人差し指でつまみ、右手でパックのたこ焼きにつまようじを刺しながら、一列に並んだ立派な競走馬を凝視していた。最初の連れ合いは妻で、二人目は姉で、三人目はぼくで、四人目はいなかった。決して風体は悪くなかったし、誘いさえすれば近所の同年代の女もついてきてくれただろうが、おそらく、同年代というのが気に食わなかったのだ。父は昭和の年号を嫌い、息子は昭和七十何生まれだとか平気で口にして、相手に微苦笑を催させるのだった。「昭和が嫌いなら、西暦で答えればいいのに」ちょうど愛読書が世界史の教科書だったころに、余計なことをいったぼくを、父はガツンと一喝した。
「千年二千年単位の年号なんて、何の役に立つか!」
 たしかに、二千以上積み重なってしまった一年一年の重みなど、比較してしまえばどれほどのものか。一個人の生死と結び付けた日本の年号というのも、そこに限れば悪くない発想だ。父の平成嫌いは、だがもちろん市役所の書類には通用しなかった。若い女の職員には叱られたくない、生年月日の昭和を丸く囲むのも気に食わないといって、嫌がるぼくに無理やり代筆をさせた。通りがかりの、それこそ若い女性職員が、「ご本人ですか!」と剣呑な声で斬りかかって来た。「彼が父親です」舌先を軽く出しながら、父は悠々と答えた。


 父は客の殆ど入らなくなった晩年に、チラシ広告を作ろうかと本気で悩んでいた。自分から客を呼び込むのはみっともないし、さりとてこのままでは子供たちに金をたからなくてはならない。駆け出し麻酔科医のぼくにも、僕の学費を相当に負担してくれた姉にも、父を支援できる余裕は無かった。父の職業は国家的には無職と認定されており、無職にふさわしい年金しか用意されていなかった。そもそも父は、国に守られるという発想が心底気に食わないらしく、とにかく誰の世話にもなりたくないらしかった。勝手に死なれるのも参るので、僕と姉は、なけなしの金を、なんとかして父に渡さねばならなかった。直に渡すのは論外、口座に振り込んでも第六感で勘付かれる、帰省して密かに和室や寝室に金を落とすと、「金を落とすな!」と叱ってくる。ネコババを嫌うのは、正義感というより、他人に媚びへつらいたくなかったようだ。飯の種には程遠く、見飽きた客ばかりの枯れた商売を、それでも父は、唯一人生で身を捧げた職として誇りにしていた。廃業は、最後までしなかった。
「この年になってようやく物語が解るようになってきた」烏賊の塩辛とえび満月を交互につまみながら、父が嬉しそうにぼくに語ったときには、余命の終わりまで三か月を切っていた。いい仕事だったのだろうな、と感動したぼくは、老衰した麻酔科の医局長が、先に自分が寝込んでしまいそうなほど眠た気に瞼を擦り、麻酔の目盛りを震えの止まらぬ指でいじっているのを見守りながら、頼むから早く辞めてくれ、と願ってきたのを忘れていた。麻酔と金儲けが趣味の人間を一線から退かせるのも気の毒な話だったが、仮に失敗すれば誰がどう責任を引き受るのかと、上級医や経営陣は戦々恐々としていた。姉の職場でも、大ベテランの老葬儀屋が、棺を閉める手の揺れを止められずにいたところへ、「どちらが死人か解りませんね」と、眼鏡をかけた故人の娘が、冗談とは受け取りづらい言い方をした。老人の顔は紅く腫れ、それまで身勝手に動き続けていた指先が、急にぴたりと止まった。気まずい沈黙のなかで、静まった右手の四指を左手で包みながら、「すぐ死にますよ」と小声で呟いた。年を取れば身体が狂う。神経が狂えば指先も狂う。いつかの帰省から、正月料理の皿を受け止める父の手の、その震えを見逃せなくなった。遺伝子も狂う。遺伝子が狂えば異常細胞も増え、圧倒的多数だったはずの正常細胞を駆逐し、頭から爪先まで、大血管から毛細血管の先端部まで、ずれた細胞で覆い尽くしてしまう。「遺伝子異常は陽性です」血液内科医が家族三人に宣告する。「予後は、残念ながら、非常に悪いでしょう」「遺伝子」反唱した姉に、慌てて血液内科医が注釈した。「遺伝子といってもお子さんに遺伝するものではありません。お父様の血液細胞に、遺伝子の狂いが生じているんです。狂った細胞が、別の細胞を巻き込みながら狂いを増していく。次第に修復も追い付かなくなり、身体が最終的に破綻する。化学療法に可能なのは破綻までの時間を引き延ばすだけです。根治的な治療ではなく、病気との付き合い方を考えるのが、この病気では自然です」「病気でしょう。病気なんかと、付き合えるんですか」灰色の薄いメモ用紙に、医師は英字の連なりを綴った。流麗な筆跡の病名は、短い内科での研修生活では見覚えのないものだった。ぼくの当惑を察した血液内科医が、「私どもでも滅多に見ない病気です」と説明して、病名を正確な発音で読んだ。「病気と付き合うって、病気なんかと、付き合えるんですか」父の声は、まるで会話を継続するためだけに、天気の話題を持ち出すような調子だった。研修医時代に、何度も同席した癌の告知場面を、ぼくは必死に思い起こそうとしていた。患者の顔も、家族の顔も、病名も、何も思い出せなかった。悲しいぐらい、他人事だった。ただ、上級医達が「病気と付き合う」と口にするたび、舌先に味わっていた奇妙なざらつきだけは、明確に思い出すことが出来た。ぼくより年下の血液内科医は、少しだけ間を置いてから、「付き合えます」と、神託を述べ告げるような厳粛な声で、はっきりと、回答した。
 受付でぼくが診察費を払うと、父は「なんで告知に金が要るんだ」と不思議がった。誰も幸せにならない告知に、何故金を払わなきゃいけないのか。ぼくだって、教えて欲しかった。姉の青いアウディの後部座席に乗り込むと、助手席から次の難問が飛んできた。「遺伝子って何だ」生物の基礎知識を忘却し切っていたからでも、麻酔ばかりの毎日だったからでもなく、どう答えれば自分達にいちばん正しいのか、全く思い付けなかった。父は来週から入院し、化学療法を開始する。「付き合う、病気と、付き合う、病気と」車が一般道へ出ると、父はお気に入りの歌詞みたいに、楽し気にその言葉を繰り返した。「付き合う、病気と付き合うんだってなあ、不思議だな、付き合う、付き合う」父の舌が弾むたび、姉はアクセルを踏んだ。僕たち家族は、とてつもない速度の車に閉じ込められていた。高速道路の下に差し掛かったところで、交通整備中の警察官がホイッスルを吹いた。「馬鹿野郎!」顔面蒼白の姉が急ブレーキをかけるその前から、父はただ前方を見据えて怒鳴っていた。

 

 父は競馬場で金を賭けずに、心で賭けた。自分の見定めた馬が一等賞になると、ぼくを抱き寄せてまで喜んだ。引き裂かれた外れ馬券が歓声の影で桜のように散り、眼下の芝生までそよ風で運ばれていくのを、ぼくは父の胸元から眺めていた。垂直に昇っていた煙草の煙が、無数の声と共に僕たちの頭上で霧散していった。姉は、父がぼくを競馬に引き込むのではないか、本当は金も払っているのではないかと戦々恐々で、自分も同行すると言い出したが、父は許可するどころか、「俺が休みなら、お前は働け」とまで言い放った。手形の残る頬が、試合結果で青にもに赤にも色付いた。
「これはスポーツ新聞という」
 父は売店で取り上げた一部を、わざわざ指差して説明した。
「言ってみろ。スポーツ新聞だ」「スポーツ新聞」「そうだ。スポーツ新聞だ」
 ぼくは小学二年生で、我が家は新聞を購読していなかった。配達員がどれだけ定期購読の特典をちらつかせようが、姉は容赦なく断った。もうテレビがある、と珍しく姉と父の意見は共通していた。原色のブルーインクで強調された見出しを、漢字の読めなかったぼくは、ただただ格好いいと思った。「これひとつ包んでください」妙に慇懃な父に、おばさん店員は怪訝な顔つきだった。席に戻った僕たちは、姉の作ってくれたシュウマイ弁当を食べた。弁当箱はどちらもステンレス製の同サイズだったが、ぼくには黄色のプラスチック容器がオマケされていた。蓋を開けると、祖父母の送ってくれたサクランボが詰めてある。
 未読のスポーツ新聞をナプキンのように膝元に敷いていた父は、「それくれ」と頼んだ。「新聞」ぼくは答えた。喫煙者みたいに息を吐きながら、父は芝生の光を見ていた。癌恐怖症の父は根っからの禁煙者だったが、そのときの父は、周囲から漂う煙の香りを、ひっそりした鼻息で深々と嗅いでいた。「じゃあいい」競馬場にはスポーツ新聞、という思い込みのファッションに過ぎないのに。ぼくは四つのさくらんぼを食べ、二個の種を容器に残し、二個の種を噛み砕いた。歯が駄目になるといって、姉に注意されていた実験を、ぼくはついに達成したのだった。杏仁に似てるんじゃないかという味と食感の予想は大外れで、ただ砂粒を噛みしめるような苦みだけが口内に広がった。眉をしかめたぼくを、父はおかしそうに笑った。だが、残り四つのさくらんぼから二つ親指で握り、左の握り拳の、親指と人差し指の輪の上に置こうとすると、父は「いい!」と意固地に断った。さくらんぼを二つ残すと、ぼくは父の膝元で銀色のバットを振りかぶっている野球選手と、芝生とスタンド席のあいだの、何もない眩しい空間を凝視している父の横顔ばかりを、交互に見続けていた。レース開始のアナウンスが入ると、栗毛白毛の見事な馬たちが、一斉に横へ並んだ。「どれに賭けたの」父がどの一頭を指差したのかは、距離の遠さではっきりしなかった。ぼくも、確かな名前を聞こうとはしなかった。レースが開始してからも、父は指先で自分の馬を追い続けた。
 
 出発点と帰着点が同じ経路は、結局は似たり寄ったりなのだろうか。最終地点から振り返れば、突然死んだが、緩慢に死に続けたか程度の差が無いのか。他人はそれでよくとも、自分の父親はそうであって欲しくなかった。だが、特別な事件は何も思い出せない。妻に不貞を働かれた以上は、あらゆる事件と無縁な人間でもあった。それが、本人の意思だったのか。
 父が死んだ日、ぼくは病棟の廊下で喪主のスピーチを必死で考えていたが、父の人生は説明のしようがなかった。そもそも、つい一時間前に死亡確認された六十八歳の男が、果たして本当に自分の父親なのか、これから物語ろうとする時間は本当に父の生きた人生なのか、疑問が止まることはなかった。疑い問う意味もなかった。告別式は身内、すなわち一族で生き残り、かつ父と縁を絶っていなかった子供二人だけで執り行われた。
 土地を売り払うべきか、ぼくたちは座敷の遺影の前で議論した。僕は賛成で、姉も賛成だった。「ちょっと……」近所の僧侶が読経を一時中断し、小声で咎めてきたが、同一方向に重ね揃えたはずの声を、ぼくたちは抗議のように段々と大きくしていった。口のひん曲がった遺影がいかにもダメナヒトで、ぼくはこの情けない葬式に慰められていた。父からは、死後の写真の全処分を言いつけられていた。「俺が死んで、写真が残るのは、理不尽だ」僕は賛成し、姉は反対した。そんな面倒な作業どちらもやってる余裕ない、と痛いところを突いてきた。「もう死んでるし」確かに。死人との約束を守るなんて、ただの自己満足だ。自己満足だから美しい、というのは嘘っぱちである。家を売り払う具体的条件を決定し、ぼくらはついにその話題へ差し掛かった。
「ちょっと!」忍耐の限界に達した僧侶が、木魚を腹立たしそうに殴った。気の毒ではあるが、姉は葬儀屋だし、ぼくだって医者だ。そんな二人に真剣な葬儀を求めるほうが難しい。死ぬ、死ぬ、人は死ぬ、本当に人は死ぬ、経を読もうが子を産もうが嫁に逃げられようが、人は死ぬぞ、おい、わかってんのかアンタ、死ぬんだよ人は。
「ちょっと待ってもらえますか」舌先まで滴りかけた言葉を努めて封じ、ぼくは礼儀正しく頼んだ。まだ議論も始まっていないうちから、姉は額を手で押さえて唸っていた。
 どこから忍び込んできたのか、引き戸の前を黒猫が通りがかった。「ちょっと!」次に声を上げたのは姉だった。黒猫は唖然とするぼくらを無視して、座敷の中央を占領した。尻尾を隆々とおっ立たせ、歯を剥き出しにして唸った先は、遺影だった。「死んでるよ」ぼくの説明も聞かず、猫は父の顔面へ突進した。遺影は倒れ、僧侶は叫び、蝋燭は転げ落ちた。畳を焦がし、薄く燃え広がり続ける炎を、ぼくたちは消そうとしなかった。どうせ壊す家なら、解体に手間をかけなくても、自然に燃えてしまえばいいじゃないか。土地は残り、僕らが売る。相続税を支払い、残りは半分に分ける。それで万事解決、とぼくが計画している最中に、脱ぎ被された僧衣が鎮火の役目を果たしてしまっていた。「えーっ」不服そうなぼくに、中年の僧侶は「はあ?」と心情を素直に言い表し、姉はまた唸った。当の黒猫は、姉の隣、深緑の座布団の上で悠々と丸まっていた。参列客が増えるわけでもないのに、僧侶が勝手に配置したのだ。死んだのを忘れた父が、ふらっと出戻ってくるとすれば、きっとそこに座った。
「この猫は何ですか?」僧侶の刺々しい質問に、姉は「猫です」と答えた。
 正解!
 
 姉との喧嘩に負けた父は、時々ぼくを誘拐した。そうやって少しでも姉の気苦労を増やしたかったわけだが、ぼく自身、姉の過保護にちょっぴり耐えかねて、この誘拐旅行を楽しんでいる節があった。父も、ぼくが参り始めたころを見計らって、都合よく連れ去ってくれるのだ。ある日の行先は、公園だった。父は藤棚の影の下のベンチに横になると、「好きにしてろ」と命令した。命令通り、ぼくは好きなように砂場を転げまわり、母親たちの眉を顰めさせていた。父は日に輝く母たちを、顕微鏡でも覗くように凝視していた。
「結婚するか?」
 掌の砂を払い落とし、影下に帰ったぼくに、父は淡々と問うた。
「どうでもいい」
「いいか」
 父が本当に消えるのは、姉にやり込められたときでも、商売に失敗したときでもない。月始めの三日だけ、あらゆる連絡を断ち、失踪するのだった。姉は何も語らなかったが、父にも相手が居たのだろう。父は子供と彼女を対面させはしなかったし、その相手も、父の煮え切らぬ性格を承知していたに違いない。臆病というより、面倒だったのだろう。
 妻の不貞を発見した父は、憤りもせず、「三日で出てくれ」とだけ頼んだらしい。三日居残った母は、昼にカレーとシチューと豚汁を作り、夕方まで引越の用意をした。母と入れ替わりで姉が学校から帰ってきて、冷めた鍋を温め直すのだった。三日目の夜に、姉は鍋底に繁る青い炎へそうっと指を伸ばした。「こら」と、背後の男が注意した。姉は火を赤く落とすと、食器棚から汁物用の茶碗を取り出した。父は立ち尽くしたまま、蒼白い姉の指先を凝視していた。二歳のぼくは、転落防止用のベルトで椅子に縛られていた。最初の記憶だ。
 四日目の夜に、マザーテレサの微笑が台所に貼り付けられた。わざわざ父が図書館で現代史の資料集を探し出し、印刷した写真をセロファンで貼り付けたのだ。誰のための急ごしらえの護符なのか、父は語ろうとはしなかった。秋、離縁に気付いた祖母が、妙に塩辛い煮物や切干大根を送ってくるようになり、姉が料理を始めたころには、マザーテレサを繋ぎ止めていたテープは劣化し切っていた。顔はゆったりと回り落ち、姉は包丁を握り締めていた。写真はコンロに落下し、姉の手がコンロのつまみに添えられた。「危ない!」と叫んだぼくは、三歳だった。白黒のマザーテレサは、最期まで微笑んで燃え落ちた。
 その日から、姉は父に辛辣な言葉を吐き捨てるようになった。祖父母が送ってきた、石塊のように堅い大根や人参を無言で刻み続けた。情念が込もっているわけでもない、ただただまな板に刃の突き当たる単純な衝突音が、ぼくは無性に怖かった。姉が料理に取り掛かるたび泣き喚くと、今度は首元が涙と汗で蒸れ、たまらなくむず痒かった。姉は包丁を左に握り締めたまま、右手の二本指ぼくの顎を挙上し、「痒そう」と呟いた。ベビーパウダーを押し当てる指先は、沸騰したばかりの薬缶のように熱かった。
 中学一生の姉は英語を、年少組のぼくは日本語を勉強した。姉はクッキーアソートの包装紙の裏に、アルファベットのAと、平仮名のあを併記した。「あ」人差し指をメトロノームのように振りながら、姉はその字を読んだ。「あ」と真似たぼくに、続けて姉が「エイ」と指差して読んだ。「エイ」と真似たぼくに、姉は口をつぐんだ。アルファベットのIと、平仮名のい、が隣り合わせになる。「アイ」と彼女が読み、ぼくも「アイ」と倣った。姉は「アイ」と繰り返すばかりで、いつまでも「い」に進もうとはしなかった。
 平成の後に死にたいという父の願いは、余命からして尺足らずだった。年号にこだわりのないぼくたちが、生きながら平成の最後を通り過ぎるのは、なんだかアンフェアだった。「どうして昭和、平成なんていうの」姉の知らないことをぼくが知っているはずもなかったが、苦し紛れに電話台のメモ帳を千切り、「昭和」「平成」と縦に並べた。試みに家族三人の名を川の字で連ねたかったが、ぼくらは全員別々の寝室をあてがわれていた。「昭和、平成、昭和、平成」筋道だった答えを思いつけぬまま、ぼくは二つの名前を繰り返した。「とりあえず、平和だ。和だし、平らかだし」その場しのぎの答えだったが、姉は心から納得したように、ぽん、と右の拳で左の掌を叩いた。懐かしい動作を、ぼくも真似た。ガッテン。
 晩年の父は、健康番組を好んで視た。人生も最終局面なら、もうすこし価値のある番組に時間を費やせばよさそうなものを、父は黙然と、教会のイコンを取り囲む信徒のように、真剣極まる様で善玉悪玉コレステロールの模式図を熟視しているのだった。隣で体育座りをしたぼくに、父は「見るか」と訊ねた。「見てる」と答えた僕に、「そうじゃなくて……」とリモコンに手を伸ばしたまま、父は黙った。特売品のサーモンが、切り刻まれている。姉が三歳の僕の前で握り締めていた包丁は、いまでも台所の主役だった。四つ足で硬直した父の背に、座ろうと思えば、きっと座れた。鼻糞色の悪玉コレステロールが、プラスチックのように透明な冠動脈にへばりつき、血流を滞らせ始める。ガッテン。父は死ぬ。最終的には僕も姉も死ぬわけだが、今年中に終わるのは父だけだ。油の栓が突如として吹き飛ぶと、今度は細かな紅色の血栓が、あっという間に動脈の中身を埋め尽くしてしまう。銀縁眼鏡の老人が、胸を押さえて和室の畳に崩れ落ちる。この俳優は、父より何歳年下なのだろうか。
 父は長い溜息をつきながら、頭を落とした。「動脈硬化心筋梗塞のリスクになります」老年内科の大学教授が、厳粛な声音で語り掛けてきた。顔のてかりと、勿体ぶった両手のジェスチャーが、不愉快でしょうがなかった。「脳卒中心筋梗塞、大動脈瘤の、リスクに、なります」息を吐き終えると、父は突然「うーっ」と唸った。ぼくは、リモコンを蹴り飛ばした。買い替えてまもないプラズマテレビの、ボード下に滑り込んだ。父は腹立たし気にますます唸り、僕は欠伸を噛み殺すふりをした。ゴールイン、ガッテン。人生は長い。

 

 記憶をかき集めるほどに、その集合と父という全体は乖離を増していくようだ。都合のいい歪曲は仕方ないとしても、思い返すほどに自分の内側の父と、本当に生きた父との距離は広がり続けていく。悲しい以前に不思議で、その淵を思うと、ただただ思考が霧散する。
 ぼくは、父の仕事を知らない。物語修復人という、仕事部屋の中央に藤のリクライニングチェアを、サイドテーブルに催眠術の道具に並べて、顧客たちの物語をどう修復していたのか。幼かったぼくは、家の中で小金を稼ぐ父を、魔法使いか錬金術師かと夢見ていた。同時に、習慣の夜歩きも、本当は定期的な空き巣じゃないかと疑っていた。真っ当な実業とは、これっぽっちも思っていなかった。あながち遠い直観でもなかったろう。揚げたてのコロッケで白米を口に運びながら、ぼくは父の行き先をめぐって想像を逞しくしていた。
 姉の帰りは遅く、ぼくは昔から夜型生活だった。子供には相応しくない時間と解り切っていても、夜十一時に食べさせてもらえる竜田揚げや肉豆腐は、どうしようもなく美味しかった。翌朝に、晩の残りを温め直してもらうのもいい。姉は、ぼくを放置せざるをえない時間を埋め合わせるかのように、なるたけ出来立ての夕飯を食べさせようと努力してくれた。いつでも腹ペコのぼくには嬉しかったけど、ちょっぴり気分は重かった。作り置きでも、レンジで温め直すのでも、姉の料理は十二分に美味しいのに。どうせなら、父がご飯を作ってくれればいいのだ。「なんで亭主が飯を作る」そう頼んだぼくに、父は実に不思議そうに問い返した。母は居酒屋勤務だったから、どのみちぼくは夜型民族だったろう。家族四人の生活でも、自分はこの家の重荷なのだろう、と無根拠に確信していたに違いない。
「おいしい?」毎回の質問に、ぼくは必ず「おいしい」と答えた。だっておいしいし、食育の成果で、ぼくには好き嫌いがないのだ。父は違った。芋とか人参とか大根とか、根菜はとにかく貧乏臭い、運が落ちると勝手なことをのまたい、すぐ肉料理を要求した。「お金が足りない」姉の指摘に、父はそれこそスーパーの牛肉みたいに顔を真っ赤にして、両足で憤然と床を叩きながら、「嫌味か!」と怒鳴るのだった。「事実よ」姉が家計簿を開こうとすると、父は急にうろたえて口ごもった。姉の茶褐色の手肌は、ゴボウの皮に似ていた。
 そのわりに、ぼくには貧乏の記憶がない。ぼくは家計を食事内容によってのみ判断し、我が家のエンゲル係数は高かった。大豆食品は多かったが、結局は姉も肉好きで、冬のぼくたちは一週間に二度も同じ鍋を囲んだ。すき焼きの牛肉争奪戦では、「俺の金だ」という父の抗議は完全に無視され、かえって卵を三個も四個も贅沢に割るのを注意されていた。
 父がときどき飯抜きで出かけるのは、稼ぎの悪さを、遅い夕食として突き付けられたくなかったから、だけではなかったと思う。大好きな夜が、待ちきれなかったのだ。姉の目を盗んでぼくを誘拐し、行動範囲の狭い息子ですら歩き慣れた住宅街の道を、縦横斜め、無法図に、そして嬉しそうに歩き続けた。流れる川の暗さに目を細め、回る星の眩さに瞠目し、突然立ち止まっては、ぼくに「ほら」とか「あれ」とか、簡単な言葉でぼくには見えない何かを指差した。きっと路地の隅に枯葉が積み重なっていたとか、果実酒の空瓶が転がっていたとか、そんな他愛ない風景に違いない。違いないが、父にはきっと特別な発見物だった。
 酒も飲めず、つるめる友達もいない父は、勤め人で賑わう居酒屋の赤提灯を、少し恥ずかしそうに通り過ぎていった。終電を見送り、閉じ切った駅のシャッターの前で、背伸びをしていた父の嬉しそうな横顔を、いや、父もそんな時刻まではぼくを連れ回さなかっただろうから、想像と現実の混同に違いないのだが、ぼくは、記憶している。冬には黒の襟巻に厚着を重ね、夏には藍色の作務衣で渡り歩いた夜道の踏み心地を、舗石の黒い輝きを、父は死に際で思い出したのだ。そうで、あって欲しい。でなければ、父は牢屋のような中庭へ小窓が開いたきりの、あの昏々と暗い血液内科の個室で、どうやって夜の時間を潰したのか。
 全身状態が悪化する。寝たきりになる。退院後は車椅子が必要ですね、と血液内科医が手続きを約束する。全部無駄になる。父は院内で死ぬ。根治術なし。抗癌剤で正常細胞と癌細胞を皆殺しにしようと、放射線で病を焼き続けようと、深く埋もれた病根は芽を伸ばし、茎を生やし、食い潰す。摂理だ。受け止める他ない事実だ。時間が解決する。記憶は要約される。入院以来見かけなかった黒猫が、闘病生活の終わった丁度その日に、庭先へ姿を現わす。猫嫌いだったはずの姉が、自分の手から、夕食用のささ身を分け与えている。
「飼うつもり」ぼくが訊く、姉がいう。「まさか!」
 餌の乗った父の手を、この黒猫は容赦なく噛んだ。姉の手から大人しく肉を食むのを眺めながら、人生はうまくいかない、とぼくは四十二歳にあるまじきことを考えた。今のぼくには、それが間違いだと理解出来る。全ての人生が死をもって終わるなら、その場所こそ正しい目的地なのだ。どう生きようが、人生は全て適切に終わる。父も、正しく生き終えたのだ。
 十年後、麻酔に耐えきれず、術中に死亡した肝臓癌の患者を見送ったぼくは、自分が独り身として死ぬ未来を想像し、誰一人とも適切な関係を結ばなかったことを後悔する。二十年後、術後翌日に死亡する、工事現場の三階相当の高さから転落した若い男に麻酔をかけているぼくは、自分の後悔を忘れている。三十年後に医局長に就任した直後、若い同僚が薬物中毒で逮捕され、ぼくは田舎の病院へ飛ばされる。四十年後のぼくは、生きている間に根治可能になると勝手に思い込んでいた悪性リンパ腫で、死亡する。姉は、電車に乗り遅れたでもしたように、間の抜けた顔でぼくの最期を眺めていた。いちばん最後じゃなくて良かった、とぼくは勝手な安心感を抱く。アルファベットを読む声が、遠くから聞こえてきた。

 

 小学生のぼくは、摘んだ野花を砂場に埋めるのが好きだった。紫の小花を千切り尽くし、日光を吸って熱い砂の下に埋めた。内側で拳を握ったり解いたりしたときの、液体とも固体とも定め難い不思議な感触が、気持ちよくてしょうがなかった。ぼくがむしりとった野花が本来ならばいくつもの実を結び、その数だけの生命を産出し得たことを思うと、今現在のぼくはおかしな罪悪感に駆られ、昔のぼくは爽快だった。この手に握り締めた、青紫のオオイヌフグリの花のなかに、何百何万の命が詰め込まれている。無性に興奮したぼくは、砂の深く、出来る限り誰の手足にも掘り返されない深い場所に、花という花を埋め続けた。
「おい、息子」藤棚の影下から、父はヘンテコな呼び方をした。砂上にあぐらをかいていたぼくは、自分のまたぐらへ視線を落とした。父は薄目を開いただけで、それ以上の言葉はかけようとしなかった。次の埋葬分を採り始めた僕の背後を、犬を連れた老婦人が通り過ぎた。花を摘むのに夢中のぼくを、彼女は懐かしむように笑い、麦色の柴犬は軽蔑の眼で見てきた。急に恥ずかしさが湧いたぼくは、草の汁と手汗で濡れた掌の中心に、じっと目を据えていた。夏風が吹き、老婦人は陽向のベンチに座った。柴犬も飛び乗り、父のように仰向けで横たわった。蛇口で洗い流した手は、ほのかに塩素の匂いがした。体育座りで、目の高さがちょうど柴犬と同じになった。夏日の照る真昼に、老婦人は白のチューリップハットを被ったまま、首を垂らし、瞑想でもするみたいにじいっと眼を閉じていた。気分は番犬なのか、柴犬は公園全域を鋭い目つきで監視していたが、眼前のぼくには関心を持ってくれなかった。なんだか悔しくなったぼくは、栗色の両眼のまえで激しく手を振った。柴犬はひょいと首を高く持ち上げるだけで、父は依然として眠り続け、母親たちは他愛ない会話に花を咲かすばりだかった。途端に自分が、この公園で唯一ひとりぼっちだと気付いた。脱力して垂れた両腕を、水滴が細く静かに流れ落ちていった。今度は柴犬だけが、消沈したぼくの眼を見つめていた。舟を漕ぎ始めた老婦人の手から、リードの持ち手が落ちた。どきどきしながら、ぼくは取っ手の輪を拾い上げた。「おい」ぼくの呼び声に、柴犬は首を傾げるだけだった。誘拐は、未遂で終わった。
 二十年後、父が「お前達の孫は期待しない」と明言する。姉は結婚するが、年齢にしては早過ぎる卵巣癌が発見され、子宮を取り去られる。ぼくは何人かの女性と関係を結ぶが、結婚には踏み込めず、麻酔の仕事にのみ熱中する。月に三日だけの相手なんて、どれほど気楽で素敵だろうと勝手な妄想をしていたが、実際にはただの財布男だった。姉が家計を管理していた以上、小遣いの支給にもその都度申請が必要だった父は、財布以前だったに違いない。
 それでも、父の知人を名乗る複数の未知の老女たちが、日に何人も病室を見舞っては、姉や女同士で争うこともせず、あでやかな花束を手渡してきた。「生花は緑膿菌の温床ですよ!」病棟の婦長は断固として花の設置を許さなかったから、ぼくたちも安心出来た。優美な女たちは、姉の手をまるで聖人のように跪いて取ったり、看病の苦労を慰めたり、わざわざ慈愛たっぷりに励ましてくれたりもした。まったく、余計なお世話だった。
 父は女たちに次々辛辣な文句を投げかけていったが、彼女たちは耐え忍ぶように両目を閉じ、輸液で膨れた父の手を順々に取っていった。「やめろ!」父が絶叫すると、彼女たちはますます憐れむように、握り締めた手を自分たちの胸元へ運ぶのだった。ぼくが耐えられずに口を開きかけたところへ、「すみません」と姉が短く言い捨てた。彼女たちは微笑を崩さず、悠然と部屋を出ていった。「おい」残されたアルストロメリアの造花を、父は弱々しく指差した。花を手渡すと、父は両手で引きちぎろうと試みた。息を切らすだけだった。
 病室には果物の籠が増殖し、「果物はいいのか」と父に不思議がらせた。もっともな疑問だが、ぼくには死病の見舞いに花や果物を持ち込む神経も不思議だった。誕生日パーティーじゃないんだぞ、ここは。
 網目の色鮮やかな高級メロンを抱き締めて、姉が「これはケーキ」と決定した。「メロンケーキ」と父が問い、「メロンケーキ」と姉が答えた。「メロンケーキ……メロンケーキ……」ぐったりしつつも、期待に満ちた柔らかな声で、父はのんびりと繰り返した。薬みたいな名前だな、とぼくは思った。点滴バッグからは、ただ透明な液体だけが滴り落ちてくる。「いいね、メロンケーキ」同調こそしたが、ぼくには完成図がまったく思い浮かばなかった。

 

 東京までは、電車一本。父はぼくらを都内散策に誘ったが、姉が家を出たがらなかった。「外は見飽きた」説得は、ぼくでも難しい。「見飽きない外に行こうよ」姉は右の母趾に爪切りを当てたまま、時間でも止まったように硬直していた。「どこ?」姉の問いに、具体的な行先を知らされていなかったぼくは、まともに答えられなかった。「東京……」割れ爆ぜる音がして、爪の破片が眩く飛んだ。左足で踏むと、足底に痛くて気持ちよかった。「ティッシュ取って」命じられるがままに渡すと、姉は右手に広げたティッシュに左足を乗せ、休符と音符を交互に繰り返すように、正確なリズムで爪切りを続けた。それに合わせて、ぼくは背伸びを繰り返した。両足を切り終えると、四つ折りのティッシュが手渡される。掌には組織の確かな堅さが伝わり、ゴミ箱に放るのが名残惜しくてしょうがなかった。「忘れてる」姉が指差したのは、床上でバナナ型に潰れた最初の一枚だった。片足立ちで見た左の足底に、桃色の曲線が残っている。なんだか嬉しい気持ちで、ぼくは爪を捨てる振りをして、パジャマのズボンにしまった。両手を上げた格好で姉に寝間着を脱がされて、余所行き用のポロシャツを着させられたときも、親指と人差し指で挟み隠した。「楽しみ?」ぼくの上機嫌を勘違いしたのか、姉はちょっぴり羨ましそうだった。「行かない?」「家のことがある」ボタンを閉めてもらいながら、ぼくは家のことを心の中で挙げていった。トイレ掃除、風呂掃除、台所の油汚れ、黒猫を追い払う、掃除機、洗濯機、庭に干す、畳む、箪笥に仕舞い込む、夕食の買い出しと用意、家計簿の記録、それから、ぼくの着替え。「わー」こんなにたくさんの仕事が思い付くことに感動し、思わず両腕を振り上げると、「じっとしてて」と姉が掴み下ろして、最後に両袖のボタンを閉めてくれた。余所行きの格好をしたぼくは、姉を貫くドリルのつもりで、姉の胸元へ頭をぐりぐり押し付けていた。
 エプロンの隙間からする塩素系漂白剤の臭いで、ぼくの回転採掘運動は途中停止になった。姉はぼくを押し退け、パステルカラーに刺繍された、純白のタオルを何枚も何枚も畳み続けた。ぼくは滑らかに動き続ける手つきを眺めながら、積もり続けるこの家のことが、いつかは家自体の大きさをも超え、ぼくら全員を呑みこむ巨大な怪物になってしまうんじゃないかと変な妄想に耽り、指の間の爪を、何度も何度も御守りみたいに握り続けていた。用意の遅い父は、いつまでもぼくを呼んでくれなかった。

 

 父のメロンケーキに関して、姉は手作りに、ぼくは店屋物にこだわった。高級メロンを素人の菓子作りで台無しにするよりは、池袋なり銀座の百貨店で小洒落たメロンケーキを買ったほうがいい。メロンタルトとか、メロンプリンとか、メロンパイでもいい。だいたい、手作りなんて湿っぽいだろう。助手席からの説得を、運転席は完全に無視した。
 わずかな化粧品や手帳と一緒に、病室の巨大マスクメロンまで詰め込まれた藍色のトートバックは、今にも姉の膝下ではちきれてしまいそうだった。メロンの種子が発芽し、茎が分枝し、花を結び、鳴った小粒の実がたちのわるい腫瘍のように果糖を溜め込みながら隆々と膨れ上がり、北海道から都内までトラックで運ばれ、百貨店の青果売場で竹の籠に林檎や葡萄と一緒くたに収納され、上品な女たちの手に渡り、そうしてあの狭苦しい病室から連れ出されているわけだ。ぼくは溜息をつき、週刊誌の目次をめくった。同じ国のどこかでバンドボーカルと女性タレントが不倫しているのに、なんでぼくは他人の贈り物にケチをつけようとしているんだろう。だいたい、姉の得意料理は牛肉の時雨煮とか肉豆腐とか、押しなべて茶色い。表紙が風呂場のタイルみたいにツルツルで、角の異常に鋭い婦人雑誌には、まったくもって無縁の人生だ。北欧のプレートなんて、我が家には一枚もない。
 丸めた週刊誌で自分の太腿を叩いていると、車は見覚えのないY字路を左に進んだ。誕生日パーティーに、初挑戦のケーキを用意するみたいなものだ。意見を通せない自分が情けなかったが、一度もお菓子作りの余裕などなかった姉の人生について、つい考えずにはいられなかった。「どこ?」「近道」一方通行の細い道路を、姉は延々と曲がり続けた。本当は、故意の遠回りなんじゃないか。ぼくは雛菊スカートの襞を観察したり、窓を開閉したり、週刊誌で自分の肩を叩いたりした。「いいね。手作り」姉が微笑む。「いいでしょう」皺の淡く浮かんだ横顔は、記憶のマザーテレサに似ていた。大通りのローソンで、席の交代。
 停車中の車内で、ぼくはローソンの赤玉メロンプリンを、姉はクックパッドを検索していた。三百円しないし、これだってメロンだろ。「どう」アクセルを踏んだぼくに、姉が五年前のスマートフォンを見せてきた。「どうかな」メロンヨーグルトムースケーキ。走り出す。「どう」深緑の断面が美しいメロンパウンドケーキは、レシピ中程で緑色色素を投入していた。色素なんて、そんなにお手軽に手に入るものなのか。「どうかなあ」「どう」メロンでメロンパン風パウンドケーキ。「メロンパンはメロンじゃない!」パウンドケーキ好きのぼくだって、メロンでメロンパンをこしらえられたら怒るぞ。赤信号。「どう」墓石型のスポンジケーキに大量の生クリームを盛り付け、切り刻んだメロンをあられのように振りかけた、単純明快なメロンのショートケーキ。メロンケーキは、やっぱりメロンが主役じゃなきゃ。「それだ!」「なるほど」「なにが」ぼくの疑問には答えることなく、姉はレシピの解説文を音読していった。母の誕生日のために作りました、ティータイムにも是非。メロンが苦手な旦那様のために、頂き物の高級メロンをすり潰してパウンドケーキに、大好評でした。苺のない六月が誕生日の息子のために、苺の次に好きなメロンをたっぷり使ってあげました、最後にチェリーや蜜柑を飾れば完成。姉の舌が「ために」を拾い上げるたび、ぼくは眉を吊り上げた。五キロ走ったところで、額の筋肉が痙攣を始めた。

 

 父のメロンケーキ会には、自宅外泊が必要だった。申請書を手渡された父は「なんで帰るのが外泊なんだ」とふて腐れ、案の定ぼくが代筆することになった。骨髄抑制がかかり、免疫機能の低下した父を、何日も連れ回すことは出来ない。誕生日でもない翌日の昼に、ぼくが父を連れ帰った。姉は前日の夜遅くまで大はしゃぎで製菓器具を買い集め、今朝も早くから大量の卵を割っていた。上機嫌な姉に、とても運転なんて任せられなかった。
 点滴の針を外し、明日の薬を受け取って、ぼくらはエレベーターに乗り込んだ。「葬式みたいだな」一階のボタンを押したぼくに、父はにやりと笑った。「葬式だよ」
「なんで葬式は本人を呼ばないんだ」枯れ枝のように痩せ細った腕を、父は堂々と組んだ。「主役不在だろうが」ぼくは、二階と三階のボタンの間に、指を二本置いていた。エレベーターは三階で停止し、聴診器を首にかけた童顔の医者が、憮然とした顔で入ってきた。ぼくは、研修医を終えてから一度も聴診器を使っていない。医者の後で、ぼくたちは一階に降り立った。「かもね」息子の無意識の言葉に、父は首を傾げた。「何がだ」「うーん」なんだっけ。父は認知機能のテストで満点を叩き出したが、ぼくは正直怪しい。           
 姉のアウディは蒸し暑く、父は「冷房」と命じた。ぼくは従い、車は出発した。近道は要らない。家なんて、既知の道だけで帰れるはずなのだ。ぼくは呆けたように外環を走り続け、赤信号で急停止した。「おーい」遅い呼び声のあとで、列車のように長い鋼鉄のトラックが、延々とぼくの視界を塞いだ。「おい!」と叫んだぼくに、父は平たい声で語りかけた。「人生は長い」車が何台通り過ぎても、信号は青になってくれななかった。ぼくの掌が、ハンドルの中央に伸びる。「人生は長いぞ」父は繰り返し、信号は青になった。足は素早くアクセルを踏み、手は引っ込むのが遅れた。九官鳥みたいなクラクションに、父が口笛を吹いた。前方を見続ける他ないドライバーには、赤面の隠しようがなかった。父は側方を、淡緑色の茶畑を見ていた。「長いといえば、長くなった」なるほど。自分に言い聞かせる呪文みたいなものか。「だったら、良かった」「うん」
 ぼくは、父との会話に飽きつつあった。三十年も親子の関係で過ごしてきて、飽きないほうが不思議だ。水分を失った臍の緒のように、温度の抜け落ちた関係だった。「人生は長い」ぼくがそう口に出したのは、単純な感想としてだった。「だろう」道路は長い直線で、併走してそびえる高速道路が日を遮って薄暗かった。十年後の自分からすれば、今現在の自分は、過去のなかに息づいているわけか。高速道路は右に蛇行し、ぼくは速度を落とした。唐突な白色光に、目を焼かれたのだった。ぼく以外、同じ方向を走る車はなかった。再びアクセルを踏んだときには、父は居眠りを始めていた。あんな狭い病室で、毎日が負け戦だ。それこそが、病気との付き合い方らしい。
 人生の全体に比すればあまりに短い期間のうちに、一気に死への道筋を駆け登らされているわけだ。人生は、適切に重荷を配分しようとはしてくれないみたいだ。ぼくはアクセルを加減して、常に時速四十キロを保つよう試みた。速度計は三十八キロとか、四十二キロとか、標準偏差の範囲内を彷徨い続けた。半世紀生きて、死なない生物のほうが変だろう。膝からずれ落ちた、腐った葡萄のような茶色の手の細胞ひとつひとつに、五十年の遺伝子異常が蓄積されている。ぼくは速度を五十キロに上げ、窓を開けた。果てしなく加速を続けていけば、自分の魂も記憶も車内から放り出されていくのではないかと考えつつも、結局ぼくは法定速度を越えられなかった。時速四十キロの風を、四十年後のぼくが思い返す。

 

 静まり返るぼくたちの家に、父は観光客みたいに目を輝かせていた。空き部屋ばかりの荒れ果てた木造建築は、表面の木材も剥がれ落ち、誰かの一蹴りでペシャンコに押し潰れてしまいそうだった。百年後にでもタイムスリップしたみたいな気分で、自分が学生時代に居着いていた家とは信じられなかった。サザエさんのエンディングの、線描の家が家族の突進でぐにゃぐにゃに折れ曲がる場面を思い返していると、庭の影から黒猫が忍び歩いてきた。顔見知りのはずのぼくたちに、黒猫の一瞥はよそよそしかった。父の差し伸べた手から、黒猫は困惑気味に後ずさりし、ついには身を翻して逃げてしまった。父は無念そうに唸り、ぼくは噛まれなかったことに安心した。どんな感染症のキャリアか、わかったものではない。
 合鍵を回すやいなや、甘い芳香が鼻を打った。互いに顔を見合わせ、おそるおそる居間へ入る。ぼくたちは、姉の満面の笑みに出迎えられた。「見て」普段は焼きそば用の青い大皿に、石窯で焼いたピザ一枚分ぐらいの、巨大なスポンジケーキが積まれていた。「びっくり!」言葉を失ったぼくの感情を、姉は正確に言い当てた。びっくりだし、どうするんだよ、これ。
 古墳型のスポンジケーキは、全面を大量の生クリームで塗り固められていた。乳白色の分厚い表面層に、球体にくり抜いたオレンジ色の果肉が、これでもかとばかり贅沢に散らしてある。ぼくは、精巣捻転の手術を思い出していた。台所は橙色の果汁で汚れに汚れ、銀色のボールには薄力粉と卵黄がべっとり残存し、ねばついたメロンの種子と卵の殻がシンクの底で混ざり合っていた。ぼくは腕を組んで目を閉じ、父は新種の生物でも観察するみたいに、うきうきとこの惨状を眺めていた。「食べよう」ぼくが両手を叩くと、姉は食器を準備しながら、スポンジを膨らませる難しさについて楽し気に語り始めた。
 父は机の外周をぐるぐる回り、三百六十度で巨大ショートケーキを観察すると、「メロンケーキだな」と心底嬉しそうにいった。球体の配置だけは、見事な放射線状だった。ぼくと父が着席すると、姉は円を四つに等分した。「八!」ぼくの叫びは無視され、父は姉の手捌きを嬉しそうに目で追い続けていた。ぼくは頬杖をつき、四分の一メロンケーキを観察した。 スポンジ生地の断面は隙間だらけで、クリーム層との間にも大量のメロンが挟んであった。これはもう、完全なメロンケーキだった。父は呑気な歓声を上げながら、皿を延々と時計方向に回していた。食欲の減退している父は戦力外として、はたして姉に協力するつもりはあるのか。「召し上がれ」姉は自分の取り皿も出さずに、残りのケーキから球体を一個だけ口に放り込んだ。岬の突端部を縦に切ろうとしたが、生地がぐにゃぐにゃに折れ曲がり、綺麗な垂直には断ち切れなかった。悲惨に崩れた一塊を金メッキのフォークに乗せ、父と同時に口へ運んだ。「おいしい?」姉はご機嫌に笑いながら、包丁を縦に握り締めていた。ぼくが言葉に迷っていると、父がむっと眉を顰めた。
「……そのままのほうがうまかったな」
 包丁の切先が、びくりと震えた。
「お前は?」
 不敵な笑みと共に、父はフォークの矛先を向けてきた。薄弱な笑みを浮かべ、フォークを右手で回し始めたぼくを、父はアッハッハと快活に笑い飛ばした。つられてぼくも、そして姉までもが、大声で笑った。調子外れの三重奏みたいに、ぼくらはばらばらに笑った。【了】