可能性を聴く(創作合評と読書会について)

 二年ぐらい読書会と創作合評を足し合わせたイベントをやっている。プログラムを先にまとめておくと、
①近年、出来ればその年の文学賞受賞作を課題作として読んでもらう。
②読みながら、あるいは読んだ後に小説を書いてもらう。小説を最後に書いてから間が空いている場合は、課題作を参考に書くことを薦める。
③書いた小説を提出してもらい、互いに感想を書き合う。
④読書会、および創作合評で課題図書や自他の作品について話し合う。司会が合評記録をPCで作成する。
 したがって、小説を提出した参加者はそれなりの質が担保された現代小説を読む経験と、他参加者からの感想、および合評の声の記録を得ることが出来る。目的は参加者全員の可能性を引き出すこと。そんな会だ。

 創作合評というのは普通には通じない言葉で、参加者が自分の書いた小説の感想を会の参加者から対面で受け取るイベントである。これは私が昔加入していた文芸サークルで定期的に開催されていたことで、文化祭とか折々に発行する部誌への投稿作を吟味するのだった。たぶん全国の文芸サークルや同人でも同じことをやっているだろう。
 ただこの創作合評というのが何かと苛烈になりがちで、それが苦痛で小説はもう書かないと言った人もいる。他人事のような書き方をしているが、私も意図せずして同じことをした相手がいるに違いないし、絶対に他人の人格や才能を否定するようなことを口にしていたと思う。
 自分でも嫌な話だが、他人の作品を否定するのは気持ちよかった記憶がある。否定は快楽だ。ただでさえ若いとなるとこうでなければ全部だめだ式の極端な思考に陥りやすくて、そこに否定の快楽が結びつくと制御が利かなくなる。
 何故そうなるのか。
 していたに違いない身でこんなことを書くのも酷いが、そういった快楽を伴う悪行は、基本的には誰かが止めない限り加速する。際限なくそれを繰り返し、沈黙を強い、抑圧する。こういう事態を防ぐには抑止力が必要なのだが、それで一番上に立った人間が否定の方角に走るのであれば、単に首を挿げ替えただけの話である。

 つまり、創作合評には参加者全員にとっての天井がなくてはならない。結果的にそうなったのだが、創作合評と現代小説の読書会を組み合わせた催しを始めて、文学賞受賞作がその天井となった。
 作品は現代小説の、それも非公募の文学賞受賞作に絞った。理由はいくつかある。
 ①流通上、だれもが手に入れやすい。
 本に金を払う余裕がなければ、図書館で入手することも出来る。
 ②誰が見ても自分の小説よりはよく出来ている、と自然に思える。
 少なくともその可能性は高い。まずこの認識がなくてはそこから学びようがない。
 ③選者の好みが反映されづらい。
 非公募の、それも文学系の賞に限っているという偏りはあるが、そのなかでも複数の選択肢がある。大雑把に現代小説を読む、というのではどこから手をつければいいかわからず、結果的には選者の好みを反映したものにしかならない。私はかなり保守的な好みなので、そんなことをすると毎回古風な小説を読む羽目になる。今年の読売文学賞のように、文学賞といってもエンタメ出身の作家の作品が受賞することもある。
 ④文学賞の受賞作は、安心しやすい選択肢である。
 それだけでなんとなく真っ当な、コースから外れていないという安心感がある。そんなもの文芸の発想じゃないと言われればその通りだろうが、人とやるイベントなのだ。安心感は大事である。「現代文学はこんなものか」という手触りを、少なくとも得た気になることが出来る。これは今後同じような現代小説を読む上で不安感を減じるだろう。居た環境が特殊だったのだろうけど、読書好きの学生はおおむね古典好きで、現代小説に対してはある種軽蔑に似た感情すら持っている者もいた。それは、もったいない。
 ⑤課題図書の話は他の読書好きにもしやすい。
 ともかく文芸の世界に限れば有名作なのである。これは会が終わった後に、同じような現代小説を読む人間とのコミュニケーションに役立つ。大事なのは会だけでなく会が終わったあとである。
 あるいは、「最近面白かった本はありましたか」という、意外と困る質問にも答えやすい。
 ⑥適度な長さである。
 おおむね200-300ページぐらいが多いはずである。古典的で異常な例外に小島信夫の『別れる理由』があるが、それは課題図書のリストから外せばいい。あまりに長いとなると分けて読むことになるだろうが、最初から五回も六回も出席が必要になりそうな回というのは参入しにくく、退出しづらい。学問の場を私はまともに知らないので、そういう修練なら話は別なんだろうけれども、日常の会のレベルでは不必要な息苦しさを産む。
 ⑦適度にケチをつけられる、参加者全員がだいたい理解出来る内容である。
 文学賞を獲得した小説でも人によって面白い面白くないがあるのは当たり前で、その面白くなかった理由を自ら分析し(自分ならああするこうする)、出来ればすぐ実作で試し(これは創作合評に出せばいい)、さらに他の参加者と集団で吟味してみる。ある人間の違和感がその作品の批判として仮に正当でなくとも、別の聞き手の心にぐっと沁みることはあるわけで、それもまた小説の糧になる。
 読書会というと、たとえばプルーストのような、一人ではなかなか読み通せないものを読み合わす試み、というイメージが個人的にはあるのだが、大作家というのは死んでいても批判しづらい。面白くないとなかなか言い出せない空気がある。素直にわからないと言ってしまえばいいのだが、読み解く努力を怠っている、素養がない、センスがないと思われやしないか、とつい不安に思ってしまう人がいる(私はもう今更自分の素養やセンスがなくてもどうでもいいのでわからないというが)。そういう恐れは文学賞受賞作にはあまりない。ある場合は司会が積極的に解消すべきであって、「わからない」を禁句としてはいけない。まず司会にわからないところがあってよい。
 文学賞という天井は十分高いが高すぎても途方にくれるだけだ。新人賞はある種の人々に激情、端的には嫉妬を誘発させてまともに読めなかったりするので、これも選ばない。「なぜこんな小説が選ばれて自分は選ばれないのか」という感情は、冷静な分析に転じる可能性はあるが、決して高くないし、時間を要する。

 読書会と創作合評を組み合わせるメリットは、読むリハビリである。それは書くリハビリよりも先に行うべきだ。
 多くの人間は最後に小説を書いてから時間が空いている。書く人はしばしば小説を書いたほうがいい、とは思っているが目標や区切りとなる締切を設定出来ない。これはごく自然なことで怠惰ではない。書くことは面倒であるし、しかも何故か「小説は書かないより書いたほうがいい」という(よくよく考えると)理解不能な信念が産まれやすい。
 おかしな話だが、間延びした焦燥が発生する。だから、書くきっかけとしての締め切りには需要がある。
 こういう状態に陥ると、そもそも小説を読めなくなっていることが多い。たぶん大多数の人間は小説を読んだからこそ書いたので、再び書き始めるには読み始めたほうがいい。これは人が話していたことの引用だが、小説の勘所というか、小説の文章を書くうえでの身体的な感覚というのはやはりある。
 「ああ、こうやって小説は書くんだよな」と、思い出してもらわなくてはならない。
 まずは短編を書いてもらったほうがいい。間を置いてから小説を書き始めようとすると短編が精いっぱいであって、感覚を取り戻してくれば自然に長くなる。逆に長くなりそうで作品提出の締め切りに間に合わない、というのは良い徴候であって、会に出すためだけに発展の可能性を潰すべきではない。書き終わらない、というのであれば次回もしくは次々回にもまた参加して、そのときに完成していれば読ませてください、というぐらいでいいと思う。第一稿を手直ししたものを次の会で見せてもらうのもいい。

 最初は課題図書を読んでから書いてもらうようにしていたが、今は読みながら書いてもらうようにしている。実際に自分が小説を書くプロセスと重ね合わせると、そのほうが自然だと感じる。私はスポーツとはまったく縁がないけれど、何十年分の試合のビデオを全部見てから練習するということはなくて、練習しながら、映像を見ながら、の同時進行なんじゃないか。
 何も書くことが思い付かなければ、ともかく課題図書の物語や題材を転用してもらう。舞台、登場人物の設定、書き出しの一文など。二百枚、三百枚の小説を三十枚に自分で書き直してみる、というぐらいの試みもいい(途中から必ず原作とは違うところが出てくる)。
 読書会と創作合評を合わせる利点は、書きあぐねたときに参考に出来る手本があることである。

 場所は大きな本屋のそばを選ぶ。前は高田馬場で、今は池袋でやっている。会が終わって、次の課題図書を決めたときに、帰りにすぐ買えるからである。文学賞の受賞作が置いていない、ということはあまりない。
 時間は、課題図書については二時間、参加者の提出作については一時間を最低限は想定する。読書会、創作合評、の順番で行う。会に来たばかりの人間はしばしば緊張していて、まず人前で発言すること、小説について話すこと、人の発言を聞くことに慣れてもらわなくてはならない。したがって、その場に作者がいない小説、つまりは安全に語りやすいものの話から始める。別にアカデミックな場でもなんでもないので、明らかな誤読があったとしても私は無視するか、「それはこれにこう書いているから、こうかもしれない」とやんわり訂正するに留める。「絶対に違う、こうである」と司会が強烈に否定してしまうと、その人が次に発言してくれる可能性はぐっと下がる。
 課題図書と提出作を読んで感想を書いてもらう期間は、一週間とかなり切り詰めてある。完璧な感想を書く必要はないし、わからなければそれは会で互いに話せばいい。まず読んで、その時点で言葉に出来るものを書いてもらう、ぐらいのものである。小説を書く時間は三週間から四週間、としている。

 会の目的は可能性を拓くことである。
 第一には参加者自身の可能性であり、第二には作品の発展可能性である。司会をやる上で必ずそれは心がける。作品批評をするときに作者の人格とか人生の否定をしてはいけない、というのは簡単に過去は変えようがないからであって、そういう批評は端的に書き手の発展、改変の可能性を潰している。またこの小説はまったく駄目だ、と言い捨てるだけでもその先に何も起こりようがない。この小説のこういう部分にもっと発展出来る可能性があるのではないか、と具体的に言及すれば、少なくとも次の指標にはなる。
 これは司会だけではなくて参加者全員に考えてほしい。書くことは挫折の連続だ。これ以上発展しようがないとしか思えないものに僅かな道筋を拓いていく試みである(私は文芸に思考の関心が寄っているのでそう思うが、別に文芸じゃなくてもそうだろう)。したがって、他者の可能性を読み、その発展を促すことは、ほかならぬ自分の可能性を読むことに通ずるだろう。また私の経験する限りでは、他作を全否定する人間は、確かにラディカルであるということの美しさ、格好良さはあるかもしれないが、どこかで完全な自己否定に転ずる危険さがある。あるいはそうならないために(創作の領域、あるいはそうでない領域において)常に犠牲者を必要とする。
 大事なのはあくまで部分的な否定と部分的な肯定だ。その両輪なくして可能性は動かない。

 いささかコントロールし過ぎかもしれないが、私は参加者の発言には合いの手を入れる。
 合いの手、というのは人は小説の感想を語る最中にしばしば言葉を詰まらせるからだ。感想には明確に言語化出来る部分と、体感の域に留まっている部分に分かれる。前者は、もしかすると誰にでも語れるものかもしれない。
 後者を言葉の次元に持ち上げてくることが大事で、そこに可能性がある。
 その沈黙のところに、「今ここまで話してきたことをまとめると、こういうことでしょうか」と差し挟む。単なる同語反復でかまわない。喉の詰まり、舌の硬直が和らぐまで時間を置く。もちろん話し方は性急であってはならない。
 ゆったりと、柔らかく、相手の凝りをほぐすように話すべきだ。
 即座に結論を引き出そうとしては、かえって緊張を悪化させる。
 あるいは、ポジティブに、建設的に、達成可能に聞こえるように、意図して言葉を整え直すこともある。強烈な否定のうちにも肯定に通じる道筋がある。その可能性を読むよう努める。この作品はまったく駄目だ、というのを本人の前で突き付ける人がいるならば、まずはどこがだめなのか、と否定の部分を明確化しなくてはならない。解決可能な課題を取り出さなくてはならない。そういうラディカルな意見は、未完の感想と見なす。そこからまず可能性を汲み取るべきは司会であって、うまく語ること、建設的に語ること、を参加者に求めるのは過剰要求だ。

 ずっと昔、東北出身の女の子が、方言の文体で雪が降ったときの様子を描写しただけの短編を提出したことがあった。私は好きな小説だったが、参加者のひとりが「方言はずるい」と言い出したことがあった。
 ずるいって何だよ、と思いながらとりあえず聞いてみる。
「ずるいとはどういう意味?」
「……ずるいんです」
 それ以上の言葉が思い付かないようで、私はその発言はさっさと流すことにした。要は「お前は分かっちゃいない」という態度で黙殺した(私もわかっていないのに)。でも本当は、こんな風に言葉を挟むべきだったと思う。
「ずるいというのはどういう意味かまだよくわからないから一緒に探っていきたいんだけれども、ずるいというのはともかくなにか違和感があって、この小説にはその違和感を解消してくれるだけの何かがまだない。たとえばそのずるいというのは、小説自体に中身がないように思えるのを、方言、という特異なものでごまかしたように見える、ということだろうか。裏返せば、この小説は現時点で方言による語りの習作、描写、というところに留まるから、さらにそれで物語が書けるかどうか試したほうがいい、という風に言えるかもしれない」
 ここまで来るともう捏造の域に近いかもしれない。私は常に無難な結論を取る性質であるから、穏当に可能性を残すように話を読み替えてしまうところがある。おそらくこの人の「ずるい」には、方言とか共通語とか、そういった言語の制度への自論、感覚としてのこだわりがあったのだろうが、まだそれを明晰に言語化出来る段階ではなかったのだと思う。なので、ひとまず発言者を部分的に納得させつつ、書き手の今後の達成可能な課題を提示する。たとえ現時点で達成不可能な要求がなされたりとしても、それを達成可能な形に整形するのは司会の仕事だと思う。
 細かいところだが大事なのは「まだ」である。「まだ」は未来の達成を示唆する。

 「この登場人物のこういう話を書いてみたらどうだろう」という提案も私はよくする(これは参加者として)。その方言の小説の細部は覚えていないけれども、たしか小学生の女の子が雪の降る日曜の昼、一人で留守番をしている、だったように思う。書き手が「ここからどう書けばいいかわからない」と言えば、「たとえばこの小学生の主人公は普段からよく留守番をしているのか。そこから家庭環境がどういうものか書き込むことが出来るし、雪にこれだけ着眼するのであれば、主人公に雪と関連する印象的な記憶があっていい。それから、このまま部屋から動かないのであれば物語の始まりようがないから、親が忘れ物をしたから駅まで持ってきてほしいとか、だれか友達が誘いに来たとか、そういう第三者からの呼びかけがあればいいかもしれない」ぐらいは答える。
 無難に書きやすいのは現在より過去であり、能動より受動である。小説の出だしからいきなりハイスピードな展開を求めるのは書く側の過大要求であって、そういう幸運が来ないのであればまずは地道に歩き始めるしかない。読み返して、あまりに小説が動き出すのが遅いのであれば、削るか順番を変えればいい。
 司会がこんな部分を書いたらどうだろうか、という選択肢を複数並べれば、いちばん気の向いた課題には取り掛かりやすい。自分自身のセオリーの確認にもなるだろう。それは自分が同じ停滞に陥ったときの、記憶の道標になる。

 参加者の発言は合評記録に残す。出来れば使うスペースにはモニターやPC(後者はなければ持ち込み)が欲しくて、参加者の発言がリアルタイムに整えられていくのを発言者本人に確認してもらったほうがいい。ホワイトボードへの記載とか、録音とかも試したことがあるが、前者は写真を撮ってもなにがなんだか思い出せないし、後者は長過ぎて聞いていられないし、ノイズも多すぎる。出来る限り、合評記録はまとまった文章ファイル形式で残すべきだと思う。
 ここまでの例であれば、まず最初の「ずるい」は次のように書く。出来るだけ、明るい促しの文体で記録する。
●方言による文体、という試みがある。現段階では習作で、描写の域にだけ留まっている。同じ文体で物語を書けるかどうか、今後試していってもいいのでは。
 という具合に。
 議論の途中でこの人が重要な発言をしたのであれば、同じところに記載を続ける。参加者は、前の人間と同じことを言っていいのか、と気にしがちである。最初からいきなり新奇な発言をするのは難しい。エンジンを温めるように、水泳の前の準備体操のように、ありふれた発言だって必要である。なので、同じことを言ってもそれは感想には違いないんだからとにかく言ってしまいましょう、複数がそう思っているという事実も大事だから、という。
 安心させるために、たとえ同じことの反復でも目の前で記録する。
 記録は建設的な発言を中心に行うべきだ。強い否定は、私は意図して外す。人に傷を与えるほどの発言はわざわざ記録にしなくても心に焼き付くし、そんなものを文章にしてまで反復させる必要は断じてない。合評記録は、まだまだこの小説は発展させていけるんじゃないか、と書き手に信じさせる可能性の護符であってほしい。

 参加者には一人で感想を述べてもらっている。まずは、いちばん緊張していそうな人から話してもらうようにしている。そういう人が、絞り出すようにして発する言葉を丁寧に聴取することが、会の空気を決定付ける。喋りたくて仕方がない、とにかく聞いてほしい、という熱がある人は後回しで、言葉の温度が冷えるまで待ってもらう(こういう熱心な人が居てくれることは間違いなく有難い)。
 本当はこういうことはないほうがいいが、司会が特定参加者に陰性感情を有している場合は、最後に順番を回すことを勧める。陰性感情は時間を置けば必ず改善してくるものであって、初手からいきなり衝突する必要はない。
 読みながら思い出した本があれば、ぜひ参加者に話してもらったほうがいい。したがって、事前に読みながら思い出す本があれば記録しておいてください、と説明する。こういう技法がこの小説にもある、というのでもいいが、奥さんが死ぬ小説だからこれを思い出した、程度でいい。読書会は人と出会う場であるし、新しい本と出会う場でもある。別に強く薦めてもらう必要はなくて、さっと会の途中に名前を出してもらう程度でいい。本の名前を知っておくだけでも読む可能性に繋がる。合評記録の最後には話題に出た本の名前を記録しておく。
 無関係な話でも、小説の糧になりそうであれば続けてもらう。このあたりは司会の好みが大いに反映されそうであるが、以前、少年犯罪が要素として登場する小説を課題図書にしたとき、少年刑務所の技官として勤め始めた、という参加者が仕事の話をしてくれたことがあって、その記憶が濃く焼き付いている。今すぐ役に立つ話でなくとも、記憶の渦に放り込んでおけば、いつか小説を書くときに立ち昇ってくるかもしれない。また、そういう話を出来るゆとりが会にあるのは、良い徴候だろうと思う。

 書く人にとって最大の幸福は書き続けられることだ。それは、おそらく単独の力でなし得ることではない。
 ここに書いたのはあくまで現時点での方法論なので、今後も発見に応じて適宜改定していくつもりです。もし興味が湧いたのでしたら、このブログのなかにも会の告知記事がありますので、ぜひ一度気軽に覗いてみてください。
 また、どなたか同じような会を開いてくれるのであれば、ぜひ呼んでいただけると嬉しいです。行きます。