書くことの不潔 ――清水博子『街の座標』について

 清水博子は1968年に生まれ、2013年に逝去した小説家です。1997年、この記事で取り上げた『街の座標』で第21回すばる文学賞を受賞、その後『処方箋』で2001年に野間文芸新人賞を受賞していますが(他の候補作は佐川光晴吉田修一)計6冊の単行本を上梓した後、45歳という若さで亡くなりました。前々から興味のあった作家で、作品を読み進めていくうちに感想がまとまれば薄い本にでもするかもしれませんが、とりあえずはここに載せておきます。

街の座標 (集英社文庫)

街の座標 (集英社文庫)

 『街の座標』は第一に優れた散歩小説であり、第二に言葉の不潔をめぐる物語である。言葉の不潔とは、自らに何かがあるように語ることの不潔であり、自分から生理が如く産み落とされるものへの嫌悪である。それを厭う感覚とは通俗の拒否であり、通俗を拒むまさにその通俗への嫌悪でもある、とまずは要約出来る。
 小説は卒論が書けず留年した女子大生の「わたし」が、卒論の題材である(しかし実際には、一冊しか読んだことのない作家なのだが)中年の女流作家Iと同じ下北沢に棲んでいることに気付き、彼女が作中で描いた「S区S街」を思い出しながら実際の街を歩いていく場面から始まる。もっとも、「下北沢と呼ばれる界隈に下北沢という番地はなく、北沢と代沢と台田が合体すると下北沢という商業地」になるわけで、「座標」で描けるような正確な区域があるわけではない。また、作中に書かれた公園や映画館は、たとえ実際に住んだところで「世界のどこにでも存在しうる、通俗的なのにけして手の届かない場所」という感想を消してはこない。現実と、書かれた世界の間を歩くような、「千鳥足の散歩」が始まる。
 むず痒い。今その地点を歩いているはずなのに、いつまでたっても「S区S街」には辿り着けない。そこは言葉の世界、他人の眼の内側でしかないから当たり前だけれども、聖域に対するような「畏れ」が産まれてくる。それを克服しようと小説の言葉を引き写したところで、「いま栖んでいるこの街とすでに書かれたその街との溝を際立たせ」るばかりであり、「下北沢との間にたゆたう水域」に溺れるばかりだ。
 自分はこの街を歩いている。小説家が書いたような何でもない食べ物屋は「新宿から南へ下る小田急線をY軸、吉祥寺へゆらゆらと延びる井の頭線をX軸」の上の、確かな一地点として座標軸で表せはするが、私の眼では見尽せていない何かがある。それは、ある場所を言葉で書くうえでなにか漏れ落ちるものがあるのではないかという躓きの感触に近いだろうし、書いても書いてもその場所の本当の息遣いには近付けない、という禁欲に近い呆然がある。それ故に、『街の座標』は優れた散歩小説である。不潔といやらしさにおいてまったく肌色が異なるけれども、たとえばこんな部分に、須賀敦子の散歩随筆を思い出してしまう。

 真夜中に悪戯心をおこして区民会館の最上階へ探検にいったことがある。廊下には蛍光灯の消えた希薄な暗闇があるだけで、これでは幽霊も寄りつかない、とむくれていたら、警備員に誰何された。下北沢は高層の建物や広い道路がなく、入り組んだ路地のどこにでも一日中ひとのけはいがあり、陽光さえ人工的で、明暗のめりはりがない。絵になりにくい景色だとおもう。歩道に面した軒に降りやまない雨の雫のようにぶら下がった洋服は、新品もあればひとの袖をとおったのもあり、高いにしろ安いにしろ基準の曖昧な値段が付いている。おなじ商品でも都心でみるのとは質感がちがい、下北沢の衣服はどれもこれもよじれたりすれたりしてひやかし客にまで媚を売っている。(p.9)

 細部を書き尽せていない、というのは奇妙な感覚だ。小説の、物語であれば、話を作るうえで当然必要な挿話はある。しかし描写においては、書いても書き尽せていない、と読む側が気にすることは滅多になくて、書く側のむず痒さでしかない。自分は書けていない、という信仰に似た自分の内側からの声でしかないはずだ。文章が下手だ、と指摘するのはともかく、描写が乏しい、は難しい。文体への信仰とでもいうのか、言葉へのこだわりがある人間の文体は、当然の如く精緻である(須賀敦子に次いで挙げるなら、たとえば中井久夫)。祈りで美し過ぎるのであれば、偏執である。当然のように、わたしは言葉が書けない。
 書くことのコストが大き過ぎるし、踏襲出来る過去の自分もないのである。
 たとえば、歯科医院で、問診票を書き込む場面である。

 治療上の質問を書き入れる番外欄の、その細い罫線で囲われた枠内の白さが黒眼に沁み、どんよりとまどろみが降りる。(……)なんでもいい、はったりでもお追従でもいいから、不格好な楕円以外のものを書きたいはずなのに、文章がどうにも浮かんでこない。あたまのなかの基礎的な部分がじんわりと甘くしびれている。(……)道化の自身ならいつでも捏造できるという余裕があっての白紙と、法螺さえ吹けぬ結果の白紙とでは、紙の白さがちがっていた。(……)白い紙に鉛筆の芯を押し当て文字のかたちに黒い微粒子を残していくことと、黒く蝕まれた部分を金属の尖端で削り取って白い歯を掘りあてていくことは、本質的におなじではなかろうか(……)(p.20)

 この小説では、書くこととは不潔な感染巣を削り取り、「白い歯を掘りあてていくこと」になる。

 同好会の会報になにか載せないかと誘われ、書きたいことなんかない、と断ると、旅行もしてなさそうだものね、と憐れまれた。旅行の感想をわざわざ作文にしてひとに読ませるなんて卑しいじゃない、と悪態をつきそうになるのを堪えて、ほかのひとはなにを書いているのかと訊ねると、だれそれは外国で貧乏旅行をした話で、だれそれは爬虫類のペットの話、最近観た映画とか、好きな音楽のこと、とつぎつぎ並べられ、だれもかれもどうしてそんなに書きたいことがあるのかと胸が悪くなった。文章が書けないという事態に陥って気づいたのだが、これまで書きたいことなどなにもなかったし、これからもないのだろう。(p.23)

 それらはある種の感染のようなものでしかないし、新聞の読者投書欄は「気色の悪いもの」なのだ。そこには削り取る言葉はない。ただ会報になにか載せないか、と誘われたとき、人が反射的に書くものでしかない。なにかを掘り進めるのではなく、ただ周囲に漂うものを手当たり次第に掴んで書くような行為は、卑しい世俗なのだ。わたしにとって、正しい水準で「書きたいことなんかない」し、さらに「あったとしても」果たして自分が「掘りあてて」いけるかはわからないから、「たとえあったとしても綴れない」。自分には書きたいものがないと、「自分の感受性」を信じず、ただその眩い空無を前にしたからこそ、何故か産まれてくる言葉がある。私は清水博子の小説家以前の年月を知らないが、索漠とした時間は、あっただろう。
 小説を書けない、という小説が書けるのは小説家の特権である。そのような声を漏らすこと自体、なにか甘ったるい陶酔のような気がしてくる。小説家以前では、知るか、で終わって当然であるし、またそのような小説が面白いかというと、少なくとも私は傑作を知らずにいる。私=清水博子が本当に書けなかったのは、卒論ではなくて小説だったのかもしれない。あるいは、小説を卒業するための、告別の言葉である。人はそんなに簡単に小説を卒業できず、「留年のリュウは留まるじゃなくて流れるの流」とあるように、無意識にでも流年を繰り返していく場合が多いだろうけれど。
 そうした嫌悪がありながら、一方でこの小説は「外国で貧乏旅行をした話」と相違ない、五年目の女子大生の、モラトリアムについて書かれた文章でしかない。これが作者自身の私小説かは分からないが、ともかく自分語りであるのには違いない。世俗を厭うことには、必ずその世俗を拒む己への嫌悪が付きまとう。

 小説のわたしには、生理への嫌悪がある。女性作家は生理と出産があるからずるい、と野蛮なことを口にした年上の人間を知っているが、自分の身体の一部が、不潔な排泄物として流出していく行為に、わたしが自分語りに、引いては言葉で書く、ということ自体に抱く不潔さの根がある。
 もちろん生理には痛みがある。それ以上に不潔なのだ。小説家Iと飲み会で会えるかもしれない、と急ぎで出かける準備をするとき、「内腿を経血でこすって」いるのに気付く(p.71)。消臭効果のある生理用品が切れている。「小説家は音感は悪くても鼻は利くかもしれないとあらたな懸念が生じ」てくる。便や尿と同じように、自分の内側から出てくる、不潔で、臭い立つ排泄物なのである。糞便や尿が初めての人間の生産物である、というのは今更だけれども、生理には別の重みがある。経血は後から垂れ落ちるものであり、単なる消化の残骸などではなく人の肉体の断片そのものであり、翻って身体の不浄を恐怖させるものである。生理への嫌悪は、文字という、後から、人の内より切り離されて書かれるものの不潔さに通じてくる。

 図書館のような一見無機的でそのじつ強靭な欲望が渦巻いている空間では、ひとりよがりにやさぐれた思考は行き場を失って暴走しがちだ。こんな埒もない妄想にかかっている場合ではない、なにしろ卒論を書かなくてはならないのだからと正気をとりもどし、本を開く。(……)こんどこそ小説のはじまりがはじまるはずと頁を広げると、縮れた黒い毛が一本滑り落ちた。どこのだれとも知れぬ他人の躰の、どの箇所に生えていたかもわからぬ毛根に蜜色の脂をつけた抜け毛に総毛立ち、すぐさま小口に指をかけると、ざらりと音がして、こんどはひとつかみもの毛の束が素足の膝にこぼれた。立ち上がって毛を払い、おそるおそる紙の端をつまむと、偶数の頁が奇数の頁から浮いた瞬間、針山の詰めもののような毬状に固まった毛玉がリノリウムの床に転がり、頁にはまっさらな白紙があらわれた。読まれることを拒絶した文字たちが、頁をめくるはしから毛と化して抜け落ちているのだった。(p.100)

 ここには壊れた論理がある。経血は不潔であり、後から自分の内側より生産されるものである。言葉は、後から、自分の内側より生産されるものである。故に言葉は不潔である。経血と文字を不潔さで繋ぐのは性毛であり、図書館は欲望の空間として見定められる。文字が読まれることを拒絶しているのではなく、そもそもわたしが文字の不潔さから読むことを拒んでいる。だから私はIの小説を一冊しか読んでいないし、またそれも読むというより書き写すというほうが相応しい。私は小説を読むのが嫌になったとき、しばしばわたしと同じように小説を書き写していたが、あれは読むことの回避だったのだろう。
 『街の座標』には、「いったん散歩を怠るとずるずるべったり十日も入浴しないていたらくで、外出もしなければ本も読まず、厚く温く汚れていく皮膚の繭」や、チョコレートの「黒い粘液」で汚れる鞄や、中華料理屋で出される「灰色でべちょべちょしたものと卵の炒めもの」といった不潔な描写が連続する。それはわたしにとって、まず何よりも言葉が不潔だからである。言葉の不潔の嫌悪、そしてそれ故に芽生えてくる、書き進めた先の「白」への信心じみた憧れこそが、『街の座標』を司る力学である。【了】