辞書の焼き方――高橋弘希『送り火』について

 

送り火

送り火

 

 予感がない小説である。深さの欠如ではなく、深さの拒否がある。
 要約するならば、高橋の小説においては深さ、あるいは「形而上学」(保坂和志『こことよそ』)への拒絶があり、書かれる言葉は常に今ここにある現実のもの、たとえ幻想でも心情のフォルムのようなものを描き出す。言い換えれば、高橋弘希はここにないもの、現在に潜む現在とは別の何か、を書こうとはしない。それは小説が冒険をしない、という意味ではなく、「ここ」に近視的に焦点を絞り貫くのが高橋弘希の視学である。しかし細部の描写を弄ぶような、そういう「形而上学」的な真似はない。高橋の小説においては厳密に時間という現実が流れていて、「この小説にはいわゆる時間は流れない」とか「時間の法則の外にある」とかいう「形而上学」(『こことよそ』)は拒否されているからだ。あるいはかつて清水博子が『街の座標』で書いたこんな戯れである――「執拗に重ねられる細部が、労働ではなく遊戯を連想させ」「時間の拘束のない気儘さがはてしなく広がる空間」。
 もちろん『送り火』においても予感は書かれているように見える。しかしそれは、漠然とした名付け辛い予感ではなく、不安とか恐怖心とか、明白な感情へ落とし込まれる現実のものだ。少なくとも言語化出来ない予感ではない。たとえば、水田に鴉の残骸を吊るされていて、その理由がわからずにいると、突然知らない老婆が主人公に話しかけてくる場面である。

 老婆は歩の近くまで来ると、手にした杖で鴉の屍骸を差して、
「あれだっきゃからす××ぐり××でかがしッコがわ××てな××だきゃ。」
 訛りが強く、殆ど言葉を理解できない。歩は稔と同じ半笑いを浮かべるばかりだった。すると老婆は話すことを止めた。その皺だらけの皮膚の中に収まる、妙に瑞々しい眼球で、こちらをじっと見詰めていた。歩は気味の悪さを覚え、老婆を無視して自転車を走らせた。(p.68)

 ここで歩が感じるのは明白に「気味の悪さ」である。恐怖、と言ってもいいだろう。野間文芸新人賞を受賞した『日曜日の人々』において描かれる終盤の幻想も、結局のところは死の恐怖によるものであって、死の観念ではない。小説の結末を結ぶ藁人形の炎上についても、「三人のうちの最初の一人の人間を、手始めに焼き殺しているようにしか見えない」と、稔の暴走、という現実から来る想定に過ぎない。それは「もしかしたらなにかがあるかもしれない」という「もしかしたら」「なにか」の二重に曖昧な予感ではなくて、単なる想定、「もしかしたら人が死んだかもしれない」である。
 この老婆の言葉が訛りが強くて殆ど理解出来ないのであれば、なにか早口に喋ったがまったく聞き取れなかった、ぐらいの描写で流してもいい。が、高橋はそうはしなくて、聞き取れる範囲の言葉の欠片についてはひとまず書くのである。高橋の小説においては、しばしば描写の緻密さが取り上げられるが、精緻というよりは羅列的である、と言っていいと思う。たとえば、舞台となる集落を描く場面である。

 蕪の花の向こうに、集落一帯を一望にできた。前方に標高五百ほどの黒い山が聳え、その山裾を南西に向かって河が流れる。銭湯からの帰路に、父と眺めた河だ。その河辺に、五十世帯余りが点在している。山間に溜まる朝霧の中に、瓦屋根の民家、三角屋根の銭湯、トタン屋根の燃料店、半壊した納屋、ブールシートを被せた小屋、骨組みだけのビニルハウス、用途不明の煙突、杉にボルトを打った電信柱、廃校になった学校の校舎などが、朧気に浮かぶ。霧の中から鶏鳴が響く。(p.9)

 さりげない場面だが、高橋の描法が凝縮された文章である。朝霧のなかにあっても、杉に打ち込まれたボルトまでが明瞭に見えてくる。むしろ霧は、余計な風景を掻き消し、単純な物体だけを「浮か」ばせる舞台装置として求められている。あるいは、納屋の農具を列挙する下りである。

 納屋は、前庭を挟んで、自宅の斜向かいにあった。木造二階建てで、赤トタンの屋根に、黒ずんだ杉板の壁面、同じく黒ずんだ杉の支柱――、ある土曜の午後、母に誘われてこの納屋に入った。納屋には実に様々な形の農具が、乱雑に収納されていた。鍬や鍬や臼くらいなら歩にも分かるが、日本の竿竹が連結したものや、木製の自在箒のようなものなど、名称も用途も全く不明な農具も多くあった。母は信州の田舎育ちで、また母の実家も農家だったので、殆どの農具について知っていた。歩の矢継ぎ早な質問に、それは唐竿で、そっちは八反ずり、母はいくらか得意げに答えていった。(p.52)

 小説の言葉を借りるなら、「矢継ぎ早」に、名前を列挙していく場面である。この農具たちは後半の嗜虐の場面に再登場してくるので伏線の側面もあるが、高橋の描写は、ごく素朴に、ものの列挙によって世界のリアリティを担保している。高橋の文体においては、現実を現実らしく繋ぎ止めてくれるのは常に具体的なものであり、ものとは名前である。
 『日曜日の人々』にしろ本作にしろ、高橋の小説の登場人物は、みな小説のために用意されたような人々に見えてくる。あまりに物語らし過ぎるのである。『日曜日の人々』であれば拒食症で病んだ少女、義兄の性的暴行で妊娠し自殺する従姉、流されてばかりの文学部の留年生。『送り火』であれば東京からの転校生、残虐性を発揮するクラスの大将、虐めに弱気な微笑を浮かべることしか出来ずにいながら、復讐の計画を練り上げる少年。『日曜日の人々』は最終的には前向きな青春小説であり、『送り火』もまた自身の欺瞞について思い知らされるという意味では、シンプルで苦い青春小説である。しかし、これらの成長、言い換えれば倫理的問いかけについて、こう書いてあるからこうなんだ、という以上のものは私には見つけられない。
 あるいは、高橋の試みには、こういった使い古された物語をどう切迫して生き直すか、という問がある。倫理的な問いそのものではなくて、倫理的な問いが可能になる状況そのものを真新しく書き直せるか、というところに試みの焦点がある。世界において最早あり得るかわからない「青春」の物語を、しかし出来る限り確かな世界で生き演じようとするとき、高橋の世界においては「もの」の確かさが命綱として降りてくる。具体的なディティールが地盤となる。それは『日曜日の人々』における拒食症であり、『送り火』における村や祭事の描写である。そしてこの世界においてもっとも揺るぎ難いものとは、現実の水準においては死であり、言葉の水準においては名詞である。
 高橋の小説においては、当たり前だが、書かれたことが全てなのだ。書かれていないことをほのめかす、予感の描法は拒まれる。言葉だけが小説の現実なのであり、小説の登場人物たちにとっても、言葉は現実からかけ離れたものではなく、現実そのものである。たとえば「雀色の風」という夕暮れの風に対する自分の体感と、「雀色時」という夕暮れを意味する言葉が何の障害もなく結ばれる。

 その風に"雀色の風"と名前を付けてみる。すると風にいくらか親しみを覚えた。雀色の風というのは、歩の体感にぴったりくる。その言葉が辞書に載っていてもいい気がした。勉強の合間、何気なく国語辞典を引いてみると"雀色時"という単語を見つけた。夕暮れ時のことを指すという。その言葉がいつの時代に生まれたのかは知らないが、逢ったこともない話したこともない昔の人が、夕暮れ時の色を見て、自分と同じようなことを感じ、自分と同じように言葉にしたことが不思議だった。(p.76)

 過去からの時間をその身に含む言葉が、現在の現実と一繋がりになる。感性が一致しているからではなくて、言葉と「体感」という現実が一致しているから不思議なのだ。裏返せば、体感という現実があるからこそ、それが正式な「言葉」として「辞書」に載っていてもいいと思うのである。
 高橋の羅列的な描写は、思い返せば「辞書」の農具の頁を一通り見回すようなものだ。
 この言葉と現実の一致は、すぐ後の場面で繰り返される。

 農夫は両手が泥で汚れているので、二の腕辺りで額の汗を拭うと、その辺はたまに言葉漂ってらはんで、気いつけ、と言う。歩が首を傾げていると、
「塚やら辻やら橋やらに漂ってら言葉さ、耳、傾けたらまいね。そっちら言葉は、人き作用すはんで。」
 歩には意味が分からなかったが、少し考えた後に、
「それは言葉のお化けみたいなものですか?」
 すると農夫は目を丸くした後に、かみの子は賢いねぇ、と笑った。(p.77)

 農夫がここで語っているのは「言葉」そのものだ。だから農夫は語られた外側から突然出てきた「お化け」というアイデアに「目を丸く」している。言葉が現実に漂うとは、言葉は記号であるから、普通なら「お化け」という風に具現化する歩のほうが正しい。しかし、高橋の世界ではそうではなくて、言葉がそのまま現実になっている。たとえば先に引いたような、聞き慣れない方言に困惑する場面とは、言葉がそのまま現実の異物として立ち現れてくる現象である。あるいは、稔が盗んだナイフの所有権は自分にあると歩に主張し、歩が「正当な理由」を以てそれを拒む場面(p.84)を、法、記号、象徴という三つ組から読むことも可能かもしれない(私はやりたくないけど)。
 言葉そのものが現実と同じ重みを持つ場面は、たとえば精神疾患の診断だ。『日曜日の人々』に限らず、障害に苛まれる人々にとって、診断名、つまり病気の「名」は重大な意味を持つ。「メンヘラ」と「患者」を切り分けるのは、診察を受ける行為より、むしろ診断書に書かれる病名である(診察を受けること自体は診断名が無くても可能なのだから)。言葉と現実の重みを同水準に置く高橋が、精神障害という題材に着眼するのは、自然な成り行きだろう。『送り火』においては、「これからおめらのひとりさ、マストンになって貰う」「なんだおめぇ、偉大なる江川マストン先生ば知らんのか」(p.104)という、自分の知らない人間、方言のように異物めいた「名」が、暴力の根拠になるのである。

 

 高橋の小説において、現実と言葉は同じ水準にある。それは小説だから当然そうなのだが、このことをわざわざメタフィクションで書くのではなくて、あくまでフィクションの水準で書くのが高橋の美学であり、それが小説だろうと思う。一方、飛躍ではあるけれども、高橋の小説は言葉に窒息している。気の遠い作業だろうが、「辞書」で調べた言葉を羅列して、それで世界が確からしく書けてしまうのだとしたら、それで描けてしまう現実とは何なのか。それで書き切れない現実が、果たしてないのか。
 『日曜日の人々』と『送り火』は、いずれも小説の安定していた言葉=現実が、死や、あるいは身体の損傷によって破綻する、という終局を迎える。二つの小説の結末には、「意識」を失う動作が共通する。
 言葉と現実が一致する世界と、現実が死や暴力をもって言葉を超える世界が接するとき、小説が呼び起こすのは「骨」である。『日曜日の人々』はヒロインの頭蓋骨骨折をきっかけに主人公は自殺を決意するし、『送り火』では「小指の数センチ下の皮膚がぱっくり裂けており、その傷は白い骨」(p.118)にまで達する。高橋の小説におけるこの「骨」の傷について、『指の骨』から遡って読めば立ち上がる意味があるだろうが、それは今書くべきことではない。【了】

日曜日の人々

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