少女小説の敵意 清水博子『ドゥードゥル』について

 

ドゥードゥル

ドゥードゥル

 

  題名はいたずら書きの意だが、字を一個の絵と見なせば、それは戯画とも読めるかもしれない。収録された二篇に共通するのは、『街の座標』にも漂う通俗への敵意である。「女子供の好む俗事を毛嫌いするのが知性の常道だと信じ、憎悪をあからさまにする女」(p.39)という収録作『空言』の由の描写が、そのまま本書に当てはまる。それは読み書きに潜む凡庸な自己愛への怒り、あるいは凡庸な男女生活への嫌悪にも繋がる。『空言』は夫婦の、『ドゥードゥル』は結婚の戯画でもある。
 そして何より、小説がしばしば嫌でも辿らなければならない、物語という通俗に対する拒絶がある。そう考えると、清水博子におけるあまりにも迂遠な描写とは、「執拗に重ねられる細部が、労働ではなく遊戯を連想させ」る(『街の座標』)よりは、むしろ労働の回避そのものに見えてくる。卑俗としての物語を出来る限り遅延させるための、いじましい努力として、清水博子の描写はある。
 凡庸な読み書きへの嫌悪には、一方で書くことへのまっさらな誇り、信仰心に近い敬意が潜んでいる。したがって、清水博子の描写は迂遠な時間稼ぎであると同時に、書くことへの信仰告白でもある。もっとも細部を書く楽しみに耽溺している描写が後者ならば、単に言葉を長々しく言い換えているだけの不要な描写も含まれていて、そこに『ドゥードゥル』という本の短所はある。しかし、この清水博子の世俗への敵意、そして書くことへの純粋な憧れは、おそらく生前の本人が考えていたよりずっと、少女小説的なひたむきさに溢れている。その意味で、『ドゥードゥル』は敵意と攻撃性に満ちた、少女小説のネガである。
 
 併録作『空言』はアパート住みの主婦が、夫の長期出張に際して受ける嫌がらせについての中編である。出張から一時帰宅した夫の下着をベランダに干していると、自分の下着を残して全て盗まれてしまう。そのことをアパートの管理人である由に打ち明けるが、彼女が笑ってとりなそうとしない場面から小説は始まる。
 どうやら風俗に勤めているらしい隣の女子学生が、下着泥棒の候補のひとりである。別のやり取りのうち、由の皮肉に苛立った縫子は、「由のふくみ笑いが癪に障り、すると由の息がどことなく腥く感じられてきて、縫子の語彙ではそれを精液の臭いとしかいいあらわしようが」(p.16)ない。『街の座標』に通底する言葉=表現の悪意のような不潔さは、「夜会の女の巻髪みたいなパン」(p.37)や、爪切のなかに溜まる「三か月分の爪」(p.21)のように、『空言』においても発揮される。
 もうひとつ、『街の座標』で発せられた、ある場所のリアルはどうすればより本物らしく書けるのか、という問は、『空言』においてはもののものらしさ、という形式で再度問われる。たとえば、夫からその日の献立についてローマ字入力のメールで送れ、と命じられた縫子の苦労である。もとはかな打ちだったのが、海外との通信で文字化けしてはいけないから、という面倒な命令がついてくる。

 妻の筆力では<miburi>は書けぬとあきらめたか、せめてその日に食べたものを書いて送るよう指示してきた。夫に従おうとすればなにを口にしても厭な舌触りがあり、tofuの u のへこみにやわらかく舌先をさしこみ、kanzume の角々をかみ砕いていたのでは、便りに書くための餌を咀嚼しているようでやりきれず、活字に日常を侵蝕されるといったごたいそうな状況は身にあまり、まっとうな食生活をとりもどすべく、けなげに料理本を繰るようになったのだが、現実の献立のとりとめのなさみすぼらしさにくらべ、料理本の目次のほうが断然書きごたえがあり、しかし時間軸を意識せずに丸写ししたのでは、いきおい幹線道路のレストランのポリエチレン加工メニュウのごとき平面的で散漫な献立になってしまうので、さらなる手段として、夫の本棚の小説から食事の描写を探しては献立を剽窃するようになり、(……)すでにだれかが書いた言葉をただ夫のためだけに慣れないローマ字綴りで入力しなおす無償奉仕が馬鹿馬鹿しくなってきて、(……)(p.29)

 これは、人が小説を書くときに突き当たる障壁である。この壁は、さらに「夫」のように面倒な存在へ見せるという条件によって、更に厄介さを増す。どうせ書くなら、自分にしか書けないものを書きたい。清水博子はそんな欲望を嘲弄するだろうが、しかし清水の笑いはしばしば自嘲である。自分の自分らしさを証し立てるのは、生きてきた歴史(自分史という言葉を清水はさもしいと非難するだろう)であり、生活であり、<miburi>である。しかし普段意識しない<miburi>は、ローマ字のように遠い書き物の言葉、小説の文体に慣れていなければいきなり書けるものではないし、多少書いてきたつもりでも、かな打ちのようにごく自然に馴染んでいる肉体感覚と、書く言葉にはやはり隔たりがある。
 だから、まずは羅列的な「もの」の描写に頼るしかない。そしてまた人に読ませるのであれば、出来れば不潔は避けたい。いい格好がしたい。したがって、書き始めた人の小説の描写は、ともすれば「ひとりで迎えた誕生日のコースとして、大びらめ、雌の七面鳥、食用あざみの牛骨髄添え……」(p.29)というような、きらびやかな羅列になりかねない。実際に、清水の小説はそういう虚飾=vanityを免れない場面が多々ある。裏返してみれば、清水の不潔さは、こうしたvanityへの純真な自己嫌悪でもある。
 あるいは、小説の勉強とはしばしば「慣れないローマ字綴りで入力しなおす無償奉仕」のようなものだ。『街の座標』の私が小説に近付くためにまず行ったのは、小説の複写だった。卒論が書けないとは清水=私の照れ隠しのようなもので、小説論がしばしばその人の私小説になりかねないように、実際には小説が書けないと同義だと思うのだが、いくら読まなければ書けないとか創作はオリジナルの無限のコピーだ云々いったところで、ではいつ書けるのか、に答えてくれる人は誰もいない。私が小説だと思ったから小説なんだと、秋山駿なら「狂気」と呼んだであろう地盤に立つ他ない。
 もうひとつ『空言』において着目すべきは、インターネットに書かれた文字の、不滅とも思えるような厄介な寿命である。98年『すばる』に掲載された小説であるが、この時点で清水は「通信回線上にはレシピがうんざりするほどあって、食事日記を公開する恥知らずも少なくない」(p.29)という。cookpadの前形態というのか、縫子のような主婦たちが野放図にインターネットにばらまいていた生活記録に清水が感じたのもまた、「大びらめ、雌の七面鳥、食欲あざみの牛骨髄添え」というvanityだったろう。その虚飾と自己愛なくして、どうして公開などという恥知らずな行為が出来るのか。しかも、インターネットの文字には厳密な死、少なくとも物質的な終わりは存在しないように思えてくる。

 三か月分のやりとりが一瞬にして消えてしまった顛末を嘆かれた由は、紙の手紙ならば短冊に破く感触を味わいながら捨てたり、小春日和の庭で焼いて紙の焦げるにおいを鼻腔に感じるといった儀式めいた行為を経て、物質として消滅させることで記憶を一段落させるのが可能だけれど、電子の場合は受け取った時点で内容など忘れてしまわなければやってられない(……)(p.32)

 1998年から20年経った私たちは、実際にはネットの文字もサーバーの終了等々で容易く消えるのを目にしている。多くの書物と同じように、後年において残される文字=文章も何かしらの選別を受けるものだが、しかし「恥知らずな」「料理日記」とまでの毒舌は振るわずとも、「物質」として消滅させ難い、紙とは別の媒体で人間の言葉が野放図に繁殖しているという清水にとっての困惑は、2018年において『空言』を読む私にも、じっとり冷たく垂れ落ちてくる。誰もが何かを書くことが、さながら癌や生活習慣病のように当たり前になった時間においては、単に懐かしい抵抗感かもしれない。私には通俗を嫌悪する理由もないが、しかし思えば、確かに素朴に不思議な事態ではある。小説あるいは小説家に対して、どれだけ斜に構えていようが結局は純真な信仰を持つ者にとっては、どれほど不気味であったかは想像するに余りある。

 『ドゥードゥル』と『空言』の二編に共通するのは、いずれも小説らしい物語を形作ろうとする努力である。どうあれ小説を書き始めるうえで、物語を誘発する装置の威力は大きい。こうして『ドゥードゥル』は創作学科の同級生の結婚式が、『空言』には隣室の距離が近いアパートが選ばれる。なんとかして物語らしい訪問者を招き込み、たとえいやでも物語を始めてもらわなくては小説にならない、そんな苦心である。もっともそれは、清水の通俗の拒否に当たって速やかに瓦解していく。「生まれなければよかったとおもう子が引け目を親の所為にするように、小説が俗事の所為で引け目を感じているのであれば、その小説の生みの親は俗事であるのかもしれず、すると書き手はほんとうの親子関係からはみ出した傍系」(p.99)になってしまうのだが、引け目を感じているのは無論わたし=清水である。
 小説はまず世俗=物語から産まれる。あるいは言葉とはそもそも手垢にまみれた不潔なものであって、そこに清水博子の辞書から引き上げたような単語選択の理由もあるのだろう。本書の作品を、果たして素直に小説と呼んでいいかは難しい。書くことがない索漠、書けない不安を小説の次元に落とし込もうとしていて、読む側としてはかなりの苦労を強いられる。書くことがないという小説で、私は傑作を知らない。もっともそうした作家には、私小説か、あるいは他なる作家の取り込みか、その選択肢の余地はある。
 『ドゥードゥル』の書けない人の描写は白眉である。私小説的である、と断言していい。ヒロインのわたしは「いつまでもいまも小説を書いてるのん」と訊かれれば、「タマ二かクコトガアル」と答える(p.85)。実際のところは、「わたしがものを書く速度は、本を百冊読むあいだに百字書くか書かないか」なので、たとえそれが誇張表現でも、ただ単にアリバイのため、自分はまだ書く人だと言い聞かせるためだけの行為であるとも言える。そんなことは、何よりわたし自身が理解している。だから『ドゥードゥル』の次の場面は哀切である。書けないことが悲しいなど、世間からすれば理解不可能であり、本人ですら馬鹿げていると自嘲するだろうが、しかしそれでも悲しさは際立つのである。

 しょうせつヲかイテルノン、と訊かれたとき、右手の親指にひとさし指と中指の先端を添え、架空のペンをつまむかたちをつくり、手首を細かく震わせて空宙にじぐざぐの線を走らせ、あたかも紙に文字を書くしぐさを見せつけられなかったのだけは、助かった。これまでおなじ質問を投げかけてきたひとの大半は、同時にそのしぐさをしたものだった。いわば書くことへのわたしの矜持は、他人の凡庸なみぶりひとつで爛れさせられる脆さを代償としているのだろう。脆さを温床に延命しているといいかえてもいい。(p.85)

 通俗への軽蔑が片側にありながら、そうした通俗=物語にあっさりと「爛れさせられる」脆さがある。しかし、そのような脆さ無くしては、書くこと自体がそもそも始動出来ない。だから延命なのだ。ここに書かれているのは小説を結婚式から始めずにはいられない、不潔にまみれた言葉から常に歩き出していくしかない苦さである。その意味で『ドゥードゥル』は苦味を孕んだ少女小説であり、書く愚者の戯画である。