時間への治癒 清水博子『処方箋』について

 

処方箋 (集英社文庫)

処方箋 (集英社文庫)

 

  患者であったかは知らない。インターネットにはそれらしきことは書いてあるが、どうも作者自身がそれを明らかにしたわけではなさそうだし、清水博子のヒロインたちからすれば、そんな告白は即座に書き物に箔を付けようとする卑俗な意識を連想させるだろう。病気の告白自体が私小説的で、裏返せば病は物語には親和性がある。偶然必然を問わず、症状は何らかの因子の積み重ねの末に、けれど突如として発現する(物語がしばしば突然の訪問者を要としながら、一方で注意深くその予感、あるいは伏線を敷くのと似ている)。たとえばそれが死病なら礼儀正しく物語は終わり、慢性疾患であれば病む日々の静かに上下する波を書き、一過的であれば何でもない日常に帰って、病のころの風景を思い出す。だから病気の小説は書きやすい。どのような形であれ終わりが見えるか、あるいは終わりがない日常を小説の土台として保障してくれるからだ。
 だから、病について書かれた清水博子の『処方箋』という小説は、それだけで私には驚きだった。『街の座標』『ドゥードゥル』に通底するのは世俗=物語の拒否だ。一方で『処方箋』が書くのは実にありふれた物語である。ある男が友人の「おねえさん」の精神科通いに頼まれて付き添う、それが終われば今度は男の恋人が鬱病になり、その友人のように看護に苦労させられる。けれども一方で病は徐々に鎮まっていって、最後には明らかな治癒で終わる。ここまで清水博子の作品について書くうえで、私は小説の終わりについては触れてこなかった。それはいずれもまともな終わりを結んでいないからだ。しかし『処方箋』は違う。そこには治癒が用意されている。清水博子の小説が突如として立った、ひとつの転換点である。
 あるいは『処方箋』は、清水博子自体の治癒過程を描いたものとして読めると思う。小説の序盤、「おねえさん」に付き添う段階においては、小説の言葉は落ち着いていない(それでも従来の清水博子からすればだいぶ地に足が着いたほうだが)。時間が乱れ、主人公の立ち位置は曖昧で、片山と沖村はごっちゃになる。それでも、『空言』のように単なる言葉の空転はない(この題名は空笑という症状を連想させる)。彼女の鬱病と看護を描く中盤以降になると、小説は急に言葉を丸くし、病院の周辺を歩いて風景を眺めるぐらいの余裕を手にしつつ、最後はわずかに「おねえさん」との日々の言葉へと揺り返す。病を題材にしている以上、物語らしい物語の軌跡を辿るのは当たり前に近いけれども、この言葉の不安定から安定へ、という流れ自体が、『処方箋』の文体上の物語として読めるだろう。
 『処方箋』において、実は処方箋の存在は前半に少し出たあとは、ほとんど物語上の要素として登場してこない。唯一こだわるのはここぐらいである。

 往路で行き暮れそうになるといっても逃げ口上にしかならないのでそれ以上駄弁を弄さず、寸胴鍋で煮える鶏のスープの湯気を浴びながらひたすら皿のものを食べた。彼女が<処方せん>とひらがなで印刷されているところを指し、処方しよう、か、処方しない、という意味と読みちがえる患者がいるのではないか、とまくしたてるせいで、いつもなら舌鼓をうつはずの料理も金属の味がする。烏賊とセロリの炒めものをつまんだだけで食慾が萎え、最後に注目する予定だった肉味噌をのせた麺までたどりつけなかった。彼女は不自然に話題を変えるより疑念を露骨にあらわすほうがいっそいさぎよいと判断してか、<患者名>の欄の女はだれで、<保険医療機関の所在地及び名称>の欄の病院はどういうところで、<保険医氏名>の欄の医者とはどういう関係なの、と詮索してきた。(p.10)

 この場面には清水博子の特質がよく出ている。第一は「疑念」である。清水博子の登場人物たちはしばしば疑念に囚われる。『街の座標』の女子大生は、二人の男と小説家Iの関係を勝手に妄想して疑念に駆られるし、『ドゥードゥル』の二篇はいずれも謎めいた登場人物たちへの疑惑に苛まれ続ける。『処方箋』の彼女が主人公の男を詰問するこの場面は、清水博子における「疑念」に際限がないことを表している。
 根拠の乏しい疑念は空言に等しいが、その人のなかでは切迫するリアリティを有している。
 「処方せん」には「処方しよう」「処方しない」という意味の揺れがある、というのは単なる言葉遊びである以上に、文脈の規定を超えた意味の拡張がある。ひとつの言葉の意味が頭の中で際限なく広がるように、ひとつの事実から読み取れる可能性が際限なく拡張するとき、妄想は悪化する。
 患者からすれば、処方箋は診断書よりはるかに日常的であり、より細やかに病状の推移を反映するものだろう。今の薬では症状が抑えきれないようですから、次の外来まで薬を増やしましょう。ずいぶん調子が良いみたいですから、薬を減らしてみましょう。そんな説明と共に、列記される薬が増減する。
 自覚症状を、仮に体感における病とするなら、『処方箋』は言葉における病である。実際に、処方箋を読むことは、その人の病自体を読むことに等しいのは、作中に書かれている通りである。患者さんが自分の既往を認識し切れていなくて、お薬手帳から病気を整理する場面はままある。言葉における病と書いたとき、『ドゥードゥル』が言葉に患う人々をこそ描いていたのをつい思い出してしまう(もっとも『処方箋』ではそうした自家中毒と煩悶はなりを潜めている)。第一に妄想的な意味の拡張、第二に病について書かれた言葉、そんなダブルミーニングにおいて、『処方箋』という題名は実に小説の本質をよく捉えている。

 小説の物語を安定して書くうえで大切なもののひとつは、時間意識だろう。
 時間が回想や予知(後者は妄想とも言えるだろう)でまっすぐ流れていかない場合、物語は安定してこない。だからたぶん、物語にてこずる人は、物語の時間をいきなり来週に飛ばしたりすれば、それなりに話が進む(私の経験に過ぎないが)。たとえば季節、学年、年齢の意識はしばしば小説の大枠を安定化させるし、場面描写においては時計やカレンダーが活きてくる(小説の場面はだいたい登場人物同士のやり取りと、時間を刻む背景の動きから成立している)。老いを意識した小説が存外小説として安定化しやすかったり、あるいは他ならぬ清水博子が『カギ』でそうしたように、日記も物語の構築には役立つ(日付の記載があるからだ)。病は時間を意識させる。こんなに通っているのに良くならないなんて、いつまで入院すればいいんだろう、案外退院まであっけなかった、等々。もしくは『家庭医学事典』の鬱病の項を開き、治癒までの「平均六か月」という時間が過ぎてなお、癒えぬ病に感じる憂鬱、である(p.102)。
 清水博子が、特に『ドゥードゥル』においてほとんど物語らしい物語を立ち上げられなかったのは、通俗への嫌悪もあるだろうが、技術的には時間の不安定もあるように思う(それはおねえさんに付添う「からくり」を説明する場面において顕著である)。『処方箋』に目立つのは、この時間の意識である。冒頭からすぐ「附添いをはじめて一か月が経ち」(p.7)あるいは「春先の一回め」(p.28)から「四回め」(p.32)が描かれる。ごく何気ない部分であるが、この「郊外寄りの医院」の描写にも目がいく。

 把手を引くと患者の靴があり、その数から待ち時間を推し測る。スリッパも待合室のソファも会計台の室内のすべてのものが鉛色で統一されていて、窓がないため時間の感覚が曖昧になる。(p.40)

 裏返せば「郊外寄りの医院」に入るまでは、時間の感覚は正確に保たれている(何を今更そんなばかなことを、という話だが、本当にそれまでの清水博子の小説には「曖昧」な時間感覚しかないのである)。片山への電子通信での報告や、あるいはそもそも、週末ごとの附添いといった繰り返される習慣も、小説を安定化させる。余談ながら(本来感想とはこういう部分を取り上げるべきだとは思うが)2001年に『すばる』へ掲載された小説であるにもかかわらず、清水の「電子通信」への嗅覚は鋭い。たとえばこんな描写は今読んでも白眉だろう。私の先輩は、「清水博子は電子通信の怖さに気付いてやめられたが、僕らはそれからずっとやめられなかったんだね」と溜息混じりに笑っていた。

 画面に表示される文字列の意味するところはさしさわりなくても、面とむかって言葉を交わしたり電話で話したりするのに比べ、知覚のどことはわからないがある場所に訴えてくる力は強く、たがいの脳のなかを針で探りあうようで、えぐりえぐられる感覚は言葉を重ねるにつれて増し、それは端的にいって快感だった。なにかの片手間にといういいわけでもなければ没頭しそうでおそろしかった。(p.35)

 もっとも次のような発想は、端的に凡庸である。病について言葉で書く人間であれば、誰もが思いつく考えだ。

 先々週電車のなかで過換気症候群になったと白状すると、彼女は、<過呼吸>とか<境界例>とか<アダルト・チルドレン>とか<拒食症>とか<手首自傷症候群>いわゆる<リストカット>、そういうあたらしい言葉が造られるからそれらしい症状をあらわすひとが増える、言葉につられて症状を発する、生きているのを確認するには言葉に置換する過程が必要で、その行為にもっともらしい名前がつけられているから安心してむごい状態に身を置ける、病は気から、という意味ではない、症状が先ではなくて言葉が先にある、名づけられなければ症状はあらわれないかもしれない、と論じた。沖村は(……)実際にそういった病態で苦しんでいる人がいる事実が彼女の自説ですべて結論づけられるわけではないとくつがえしたくなり、(……)(p.39)

 「こころ」の症状が「脳内の物質の塩梅がわるい」(p.123)と書き換えられる風景も、同様にありふれている。
 大事なのはむしろ沖村が「くつがえしたく」なることだ。もっとも清水博子の登場人物たちは大体他人の勢いに押し負かされるので、ここでも案の定沖村は実際には「くつがえし」はしないのだが、言葉への距離が近過ぎる「彼女」ではなく、ごくごく穏健な沖村のほうが主役ということ自体、『ドゥードゥル』以前からの治癒である気もするし、病の当事者でなく観察者を選ぶ距離感についても、同じことが言える。
 後半部分の私小説めいた病の記録は、まさに「症状が先ではなくて言葉が先にある、名づけられなければ症状はあらわれないかもしれない」という凡庸な発想への「くつがえし」としてある。もっとも清水特有の戯画性は混入しているが、実際にはそれは、「苦患を通過して笑いとばせるようになりたいと願っている」(p.67)作者なりのユーモアだろうと思う。ただし清水のユーモアは別に面白くはない。「苦患」を戯画にして「笑いとば」そうとする、それ自体の不穏さこそが重要だろう(『ドゥードゥル』で書き手としての苦しみをそうしようと試みたように)。もっとも、走り出しこそ戯画的な誇張はあるにしても(書くうえでの緊張はやはりあったに違いない)後半は次第に素朴な描写へ移り変わっていく。
 あるいはそこには、病の固有性はどうすれば書けるか、という素朴な問があるように思う。『街の座標』において、下北沢の下北沢らしさはどう書けるか、という問に直面したのと同じ流れだろう。『街の座標』でもっとも輝かしかったのが下北沢の描写であったように、本作もまた、先に引いたようなクリニックや、あるいは病院周辺の資料館、荒川の河川敷の描写が素晴らしい。

 小説の結末において、病は回復に向かう。そのとき彼女は理由の説明もなく沖村との同居を解消し(これは単に元通りというだけだ)いつのまにか、おねえさんに附添い彼女と食事をする日常に戻っている。二人の女性の病に触れた沖村は、自分のどうしようもない「健康」さ(p.126)に思い至る。小説を結ぶ橋の場面は、実は清水博子がキュートでビターな恋愛小説の書き手たり得た証明である。読んでほしい。
 しかし恋愛小説は、きっと『処方箋』以前の清水であれば、凡庸なジャンル小説として遠ざけたに違いない。もっとも彼女は「おおきな橋を渡りきらず来た方向へもど」っていって、最後には沖村という日常を生きる人の、「健康」を突き刺すような言葉で小説を終える。とはいえ、小説全般が、ともすれば幸福な退屈に似た、健康な穏健さに満ちているのは事実である。
 病んだ人は病の前後より、その治癒過程においてこそ傑作を書く。清水博子の『処方箋』は、時間=物語を拒み、際限なく広がり続ける言葉に鬱屈していた「彼女」の、治癒過程のドラマとして読めるだろう。【了】