書くことの清廉 ――清水博子『vanity』について

 

vanity

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  これまでの清水の小説の総決算である。総決算とは一個の終焉であり、本来であれば、そこからまた歩き始める出発点である。したがって、清水は、この『vanity』から別の小説へ歩き始めるはずだった、と書くべきである。しかし、清水博子が自殺者らしいということを差し引いても、そうとはとても思えない。
 『街の座標』と『ぐずべり』の下北沢・北海道の風土描写、『ドゥードゥル』の戯画性、『処方箋』の時間感覚と恋愛小説の筆致、『カギ』の風俗小説(自分がいま生きている風俗の記録、という意味で)の手法と、これまでの小説の技法が『vanity』には集積されている。実際には清水はこの小説のあとも、中短編を何本か文芸誌に掲載している。したがって『vanity』を遺作と呼ぶべきかは厳密には難しい。
 それでもこれは、清水博子の遺作である、と言い切りたい。

 清水博子の最高傑作は『亜寒帯』である。これは揺るぎない。技法的には『vanity』が優れていても、清水博子にとってもっとも重要な問は、小説を書くことに難儀する自分はどのようにして小説になるのか、というその一点だったのではないか、とあらためて思う。
 それは私小説の問題だ。ここまで長々書いていてあまりに今更だが、清水博子の本質は私小説作家だった。
 たとえば『街の座標』で自分を語るその自意識の俗悪さに舌打ちするのも、たとえば『カギ』が、「よく考えるのを躊躇してきた日々のつまらない出来事が、文字にする過程でなにかべつのものに変化してくれればとあわく期待」する妹の俗悪さを描き出すのも、根を同じくする私小説作家の自嘲だ。自分はどうすれば小説になるのか、の自分を、小説を書く自分、にそのまま置き換えただけである。
 自分は面白い、と少しでも自分を許せるのであれば、人はフィクションを書き続けられる。
 『vanity』の関西弁に倣えば、そこは「おもろい」人間の領域である。
 清水に限らず、私小説作家の風景描写は輝く。むかし南木佳士という私小説作家(と厳密に呼べるかは、これまた『vanity』を遺作と呼んでいいのかどうかと同じぐらい判断に悩むが)を集中的に読んでいたことがあったが、私小説作家は内面や日常の出来事や自分の俗悪さ(道徳的な、あるいはみみっちさに対する自己反省と同義だろう)ではなくて、風景描写で輝く。これは論理ではなく、単に観察だ。しかし、自分というのは本質的に面白みのない人間であり、自分の時間とは「日々のつまらない出来事」だというのが、私小説作家の自己認識なのではないか。そのとき、自分や自分の属する時間や出来事と離れた風景が、瞳の中で輝くのは、ごく自然な生理だろう。自分について書くほどに、風景は自分から遠ざかる。故に眩しい。
 私小説の欲望のひとつは、自分を書くことで、自分より遠い光を視ることではないか。

 物語としての小説は「空き巣」と「火事」から始まる。後者は『処方箋』の終盤を飾る挿話である。この冒頭の、「百七十箇月」という精密な時間のカウントも、『処方箋』からの流れを受けたものだ。

 画子は鶴巻町の自室で空き巣に遭った。その後、隣室がペットの小鳥を燻製にする小火をだし、窓際で寝ていた画子も燻製になりかけた。身をよせる場所がない、と米国に留学中の恋人に相談すると、かっこちゃんほんならうちつこたらええやん、とすすめられた。いきがかりじょう百七十箇月間つづけた独居を離れ、恋人の生まれ育った家で婚約者候補として遇されることになった。(p.1)

 画子は、かくこ、と読む。書く子、ではない。たぶん清水自身、書くべきは風景の描写である、という認識が、描写を排した『カギ』からあったのではないか。書く題材が神戸の山の手のマダムの『vanity』なのだから、ここで風景描写を捨ててしまえば、行き着くのは『カギ』の世界だ。清水がvanityを批判し続けるのは、世俗への嫌悪というよりは、実際には自分のなかに根付く、書くことに伴うvanityへの攻撃意識だったのではないか。世俗を批判することほど世俗的でくだらないものはないし、実際清水の世俗批判は、大して面白くないのである。誰にでも攻撃できるものを攻撃しているだけ、という気がする。私にはここまで清水がvanityへの敵意を燃やし続ける理由がわからなかった。根拠はなにもなく、妄想に等しいが、仮に清水がただ自分のvanityを憎んでいたのであれば、頭の中の説明に、筋が通りはする。

 おたくを使わせてもらってなにをすればいいの、と問うと、行儀みならいでもしといたら、と恋人はのんびり云う。(p.4)

 「六甲の山ン中」の「恋人の母親であるマダム」に「行儀」を習う、それが小説の物語だ。もちろんその「行儀」とはvanityそのものなのだから、実際に清水博子=画子は耐えられるわけもないし、そこに『カギ』より洗練された精神的嫌がらせの描写が滑り込んでくる。
 行儀を習うとは、異文化との衝突であるし、小説の王道だろう。
 『vanity』とは、清水博子がそのまま小説の「行儀」を勉強する小説でもある。かなり失礼な物言いなのは承知なうえで、『vanity』以前の清水は、たとえ描写が得意でも、描写と物語の混合物としての「小説」はやはり苦手だったのではないか、と結論するしかない。印象的なエピソードの羅列があろうが、たとえば『カギ』の日記の日付のように、定まった時間形式にはめ込まれていようが、物語を内に孕む小説は、それだけではうまくいきにくい。『vanity』は違う。これは、ごく率直に、ウェルメイドな小説である。私には確信は持てないが、谷崎潤一郎に「行儀」を教わった結果かもしれない。

 うちに帰ってきて部屋の温度がちょうどいいっていいわね、とマダムが云えば、タイマーですから、と画子は応じ、夕食のあとゆっくりお茶を飲むなんてなかなかないの、と云われれば、給湯器ですから、と応じる。マダムは笑わない。あたぁしが雨戸を開けなくても朝日が入るっていいわね、とマダムがつぶやけば、雨戸の開け閉てのうるさい娘として否認されたことになる。(p.11)

 「あたぁしが雨戸を開けなくても朝日が入るっていいわね」が「否認」になるのは単に嫌味なのだが、清水博子のヒロインたちがしばしば躓くのは、これに代表されるような意味の多義性である。『ドゥードゥル』や『処方箋』の主人公たちが妄想に苛まれるのは、ひとつの言葉や出来事から際限なく意味が拡張するからである。このマダムの「否認」は、清水博子のヒロインにとっては、もっとも相性の悪い物言いだろう(もっとも清水には限らないだろうが)。
 だから小説は、最初から清水博子=画子が、「マダム」の曖昧な物言いに挫折することを運命付けている。
 『vanity』は清水が歩いてきた小説の回想であり、総決算である。したがって、『vanity』に登場する歯科治療の場面も、『街の座標』のそれに重ね合わせて読まずにはいられない。後者の歯科治療は、「白い紙に鉛筆の芯を押し当て文字のかたちに黒い微粒子を残していくことと、黒く蝕まれた部分を金属の尖端で削り取って白い歯を掘りあてていくことは、本質的におなじ」とされた。清水が歩いてきたのは、変則的ではあるが、私小説の道程だ。「蝕まれた」不浄な部分が削り取られ、「白い歯」に変じていくとは、「日々のつまらない出来事が、文字にする過程でなにかべつのものに変化」していく過程と同一だろう。

 疼痛は虫歯のせいではなかった。すでに神経を抜きかぶせものをしてある奥歯の根が膿んでいたため、かぶせものをはずし根の治療をし、最終的には型をとりあらたにかぶせものをする、と慎一郎の親友の義弟である院長が、画子の歯茎のレントゲン撮影写真をかかげながら説明した。(……)いったんかぶせものをはずし根に薬を注入しないかぎり痛みはおさまらないと宣告された。
 (……)いやおうなく金属のドリルが入ってきて回転をはじめた。画子は自身の口腔が粘膜の天幕がはられた空洞であることを感知した。するどい痛みはないが、熱い圧覚があった。自覚しえない箇所にあたえられる刺激に画子は朦朧とした。(p.92-93)

 同じ歯でも病変部位が違う。『街の座標』は「虫歯」だが、『vanity』の歯はすでに「神経」を抜いてあって、それでもなお溜まる「奥歯の根」の膿瘍である。歯科治療が探索的に書くことであり、清水において書くことが私小説を書くことならば、本来「神経」が感じる「痛み」とは、端的に書き難い自分、目を覆いたくなるようなvanityに直面させられる苦痛だろう。しかし、画子には最早「するどい痛み」を感じる神経が無い。自分をあたかも他人のように語る詐術を、たとえば麻酔と喩えていい。物語の麻酔のなかで、他人について記しているつもりになって、思いがけない自分の「自覚しえない箇所」を研削するのも、小説の日常風景だろう。最初は痛む。しかし、麻酔に慣れればそれは「熱い圧覚」へと成り下がる。
 清水は常に鋭さを求めていた。
 清水が厭うのは鈍麻した神経であり、鈍麻した自意識であり、鈍麻した物語なのだ。だから清水の小説はいつも知覚過敏であり、自己反省に苛まれ、物語とは別の現実を選ぶ。
 どんなに愚鈍な現実であろうが、そこには小説にはない「するどい痛み」があるからだ。
 
 それは、あまりにも清廉過ぎやしないか。
 自殺者に対して、清廉、という形容をするのは生きている人間の傲慢だ。こんな才能があったはずだとか、こんな作品が書けたはずだという夢想も、私は同様に好かない。単なる後出しである。だがそれでも、物語を拒み、優れた私小説作家に発展できたはずの清水が、途中でその生を断念しなければならなかったのは、この「するどい痛み」と「熱い圧覚」を敏感に区別出来てしまう才覚の故ではなかったか、とつい思ってしまう。「かぶせものをはずし根の治療をし、最終的には型をとりあらたにかぶせものをする」とは、ある人には治癒として聞こえ、ある人には膿瘍と「熱い圧覚」の反復するという、不治の事態に聞こえる。
 『街の座標』を読み終えた時点で、私は清水博子がどうやら自殺者らしいと知っていた。清水が『ドゥードゥル』で世俗としての物語を批判し続ける態度を見て、だから彼女は書けなくなったのだ、と安易に考えた。しかし『処方箋』以降の清水は、むしろその物語に順応していった。「行儀」を見習った、と言ってもいい。その清水が『vanity』を実質的な遺作として命を絶たねばならなかったのは、作品が文芸誌の誌面に掲載されなかったのも間違いなくあっただろうが、それ以上に、鋭さへの欲望が作用したのではないか。
 自殺は、見ている側が嫌になるぐらい、鋭い変化だろう。
 自殺は単に病気だ、と結論するのが良識だが、その思い切りの良さには、一種の清廉さがある。あってしまう(あってほしくない)。人は、自分で馬鹿馬鹿しいと思っていてもなお、自殺者へ自然に清さを見出してしまう。あるいは、こんな描写である。

 画子の生まれた白いコンクリートの街に陰翳はない。不潔にまみれたくてもまみれようがない。ことに夏は団地に陽が反射し、どこもかしこも眼が痛くなるほどまばゆい。光がまんべんなくゆきわたるひろくたいらな路面では、痴漢がときどきあらわれ、交通事故が多発し、屋上から飛び降りた人間が屍となる。有機物と化した自殺者は腐敗するまえにほうむられ、人格のありようは保留される。ひととしてどう生きるかなどという大事は問われぬまま、白い壁にへだてられた時たちが刻まれていく。(p.75)

 「光がまんべんなくゆきわたるひろくたいらな路面」は、絶対的に鋭い陽で「眼」を突き刺す。死の側に属するその眩い地点は、しかし「人格」に代表される生の不潔にまみれることもなく、「ひととしてどう生きるか」と立派な「大事」を押し付けてくることもなく、ただ静かな「時」を与えてくれる。
 清水はこのときおそらく、鈍重な「不潔」と鋭い「陽」の境界地点に立っていた。微細な因子の積み重ねが、清水を平等に、どちらの位置にも運ばせたと思うのは、終わりからの後読みに過ぎない。

 画子にはなにもない。かっこちゃんは虚無だ、と元恋人が云ったとおり、三十二歳になってもなにもないのがいまや取り柄なのだ。もし虚無などと断定されれば眉間に皺をよせ唇をとがらせ反論した二十代が終わってほんとうによかった。(p.97)

 人は、口では自分は「虚無」のように言っていても、内実ではさしてそうは思わないはずだ。虚無だと思える自分は、少なくともその瀬戸際で何がしか中身のある人物のように感じるはずだし、私はそれをつまらない意地っ張りとは考えない。しかし、清水はたぶん、本当に「なにもない」と、ただ清廉に考えていた。
 「虚無などと断定されれば眉間に皺をよせ唇をとがらせ反論」するのは、正直にそう考えられてしまう人にだけ許される特権だ。「なにもない」と他人に突き付けられて、そうかもしれない、と弱気な笑いを装い、本当になにもないな、と自分で思いながら、しかし相手に合わせてやるつもりで、どこかにそうではない自分の余裕を見出すのが、卑怯であろうが、自然な心の動作だろう。間違いなく、それでいいはずなのだ。
 書くことの不潔から出発した清水は、たぶん書くことの清廉を夢見ていた。そんなものはあり得ない。だから清水の夢は、どこか少女小説じみている。だから清く、だから「光がまんべんなくゆきわたるひろくたいらな路面」のように、底知れない。清水博子に今もってその小説を読む価値があるとすれば、不潔な言葉の世界に広がる、夢の清さ、そして底を覗くことが躊躇われるような、その眩い鋭さなのだろう。【了】