君がいない地上 磯田光一『殉教の美学』について

 

殉教の美学―磯田光一評論集 (1971年)

殉教の美学―磯田光一評論集 (1971年)

 

 

 磯田光一を読むのは単に秋山駿がその死を惜しんでいたのと、『鹿鳴館の系譜』という題名が何年もずっと気になっていたのと、名前の通りが良いなあ、顏が格好いいな、というぐらいである(馬鹿である)。私が本というか、人を読み始めるきっかけはいつもその程度で、読む必然性は(清水博子でそうだったように)後からついてくるのだが、読み始めにはもちろん全然立ち上がってこない。だから読むのに苦労するわけだが、三島由紀夫論である『殉教の美学』は、私が三島由紀夫のまともな読者でないことを差し引いても、九割五分は面白くない。私が読んだのは、結果的には三島の死のあとに刊行された1971年の再増補版であるが(小沢書店から出た作品集で読んだ)たぶん旧版であれば投げ出していたと思う。新版に収録された、三島の死を受けて書かれた「『豊穣の海』論」と「太陽神と鉄の悪意」という二編は、たぶん磯田がまったく意図しない、どころかおそらくは磯田自身が嫌悪した私小説的なプロセスを以て、異様な輝きを放っている。というか、ここにしか本書の価値はない、とすら思う。
 後述するが、磯田は1970年の三島の死を以て、突如として三島と同じ「戦後」の立場を生きることになった。しかも、三島のようなヒロイックな殉教的行為なくして、突然に「荒野」へと置かれた。死のうとして死に損なった三島のようなものだ。しかも、その三島の死は、人に馬鹿げている、とあらかじめ謗られるのを前提したような、複数の先読みを包含した行為であり、批判にしろ擁護にしろ、その批評を嘲笑するに等しい行為だった。少なくとも磯田にはそう聞こえた。

 三島氏の死はすべての批評を相対化しつくしてしまっている。それはいうなればあらゆる批評を峻拒する行為、あるいは批評そのものが否応なしに批評されてしまうという性格そのものである。
 三島氏の文学と思想とを貫くもの、それは美的生死への渇きと、地上のすべてを空無化しようという、すさまじい悪意のようなものである。
(「太陽神と鉄の悪意――三島由紀夫の死」『磯田光一作品集1』p.134)

 三島が不可能な理想を、不可能と理解しながらそれに殉じて死ぬ「殉教の美学」を小説の中で繰り返し実践し、最後には殆ど「すさまじい悪意」に似た嘲弄を以て、現実において実践する姿を目の当たりにさせられたとき、さあ、お前はどう読む、と突き付けられたような気がしたに違いない。
 おそらく、磯田の生きた批評はこの地点から始まった。再出発を強いられた、というのが正確だろう。『殉教の美学』の増補部分、すなわち「『豊穣の海』論」と「太陽神と鉄の悪意」にあるのは、三島を批評することの困難だ。1970年以前の磯田は、三島への敬意はあっただろうが、基本的にその論は明快で、容易く批評している、と言っていい。どの作品の評も、最後に行き着くのは「日本人のこころ」か「思想の相対性」か「殉教の美学」である。たぶんこれは私が経時的に作家を読んで順々に感想を書いていくのが好きだから猶更そう思うのだろうが、磯田の三島批評は硬直している。三島の著作を時間をかけて読んだのであれば、当然三島のほうにも作家的な変質があるだろうし、いくら著作としてまとめるにしても、磯田のほうにも何がしかの飛躍があるのが普通だろう。
 ところが磯田はそうは書かなかった。むしろ、単一の「美学」のみを書くに留まった。三島がどれだけ新しい作品を書こうが、あくまで静的なモデルに沿って読んでいた。一つのパターンに落とし込んで、その正しさを繰り返し自分で証明しているだけのようなものだ。職業的批評家だから、あるいは三島由紀夫をジャーナリスティックに論評している以上、そのモデルに固執することは仕方がない、という言い方は可能である。しかしこれは、(あくまで磯田から読んだ三島、の範囲に限って判断するならば)三島自身の「白」に代表される「理想」のディティールが、単一の光であって、その具体的な細部を検討されないのとおそらく並列の事態であると思う。
 遠過ぎる理想は細部が見えない。裏返せば、細部から理想とするその対象が別の方法で読み直される、ということは、遠い理想においてはあり得ないのである。

 1970年以降の磯田は、(もちろん労作であったには違いないから達成感はあっただろうが)そうして理解したつもりになっていた三島からの手痛い、それも実人生を賭けてまでの反撃に遭った。お前は『殉教の美学』を容易に語ることは出来ただろうが、ではそれを実人生でぶつけられたときに、果たして同じ言葉で語れるか。不可能なるものを遠点に置き、不可能だと理解しながらそのために死して喜ぶのが「殉教」であるとすれば、磯田は、突然に、それも「死」のような劇的な結末なくして、突如として三島の死という不可能なものを突き付けられたのである。「殉教の美学」については、たとえば『盗賊』の評が典型的である。

 彼らは「愛」の幻影に殉じることのむなしさを知らないではない。しかし「生」を意味づける原理を欠いたことの索漠たる人生が、幻影に比べてどれだけの価値を誇り得るというのか。無意味な混沌の中にたたずむよりは、自ら築いた生活原理のために殉じ、「死」を通じて「生」の意味を確認した方が、まだしも意味があると言えるのではないか。しかも『盗賊』の幻影が、外からの所与の「幻影」でなく、現実の対極に自ら築いた「幻影」であるという点に注目する必要がある。……『林房雄論』の言葉をかりて言えば「純潔を誇示する者の徹底的な否定、外界と内心のすべての敵に対するほとんど自己破壊的な否定、青空と雲とによる地上の否定」にほかならぬ。
(「殉教の美学」同p.25)

 絶対的な理想を遠点に置きながら、その理想がもはや虚しいことは理解している。しかし、理想なき現実が、果たして幻影としての理想より生きる価値のある場なのか。第一には空しさのために、第二には「地上」を否定する抗議のために、第三にはおそらく現実からそれ以上理想が穢されぬように、三島の登場人物たちは「殉死」へ向かう。その死は「自己破壊的な否定」だが、『憂国』の麗子のように「狂ほしい幸福」が潜んでいる。それを「強靭な知性によって対象化するところ」が「三島の本質的な独創」であると、磯田は読んだ。つまり磯田からすれば、三島は殉死の「狂ほしい幸福」を理解しながら、それを否定し得る足腰の人物であった。

 安田與重郎を評して、「自分の人生と思想をドラマにしてしまうことが、いかに恐しく、また戦慄的で、また魅惑的であるか」と語る三島は、一方、生活の芸術化の旋律的な甘美さ(彼はそれを戦時下に味わったはずである)に心をひかれつつも、それを否定すること(太宰治への嫌悪はここに通じる)に、自己の文学の基礎を置いたのである。
(「殉教の美学」同p.53)

 これは、結果的には誤読だった。磯田の読みが甘かったのだと批判をしたいのではない。文学者の予言が当たった外れたと、あれこれ言うのは私は好かない。ただ、実際には「人生と思想」を「殉死」のドラマに変換させてしまった三島に、なぜ磯田が「知性によって対象化する」ベクトルを読んだのかは想像したくなる。たぶん、磯田にとっては、三島由紀夫こそが「現実の対極に自ら築いた」「幻影」すなわち理想の存在に等しかった。戦後ヒューマニズムを嫌悪した(「人間の解放をめざす近代リアリズム」に三島の言葉を借りて「社長になりたいといふ欲求」を読む磯田の嫌悪は、今日にもよくある事態だろう。私には、なんとなく気にくわない、との差異が掴めない嫌い方である)磯田にとって、それを「退屈」とし否定出来た三島は、理想の「太陽神」に近い存在だった。殉死者はいつかは「愛」の幻影によって破滅するかもしれないが、しかし、その「愛」の故に生き延びる時間があるだろう。磯田は、三島という「太陽」の言葉から現実を読み返すことで、耐え難い現実を幾分か明るいものに変えられたのではないか。
 その読みが、いかに真摯であろうが本質的には愚かしい「殉死」を「対象化」し、遠い距離で描いていたはずの三島自身によって、完全に破壊された。
 私は三島の『喜びの琴』を読んでいない。だから、磯田が『喜びの琴』の片桐を評して、「既成の反共知識のりこになっている片桐にとって現実の動向は、すべて彼の信じる図式によって意味づけられたものでしかない。(……)しかし、ここで注意すべきは、片桐が軽薄であるにもかかわらず、外から歌えられた思想を信じ、そしてそれを生き、彼なりの生の充足を味わっている」といって、その「思想」を教えた松村について触れていないのが、どこまで正しいのかはわからない。しかし一般に、思想への信仰と、それを教える師への敬意は、分かち難いのではないか。でなければ、松村に裏切られた片桐が、どうしてその「思想」まで「打ち砕かれる」のか説明がつかない。

 

 三島にとって、「美しい夭折」の可能性を与えてくれた戦争は、加害者というよりはやはり「恩寵」と呼ぶにふさわしいものであった。
 (……)自分の世界が閉ざされた特殊世界ということさえ感じられない悲劇的な状況の中においては、必然に貫かれた「美しい夭折」こそ、「自由」のための必須の前提条件でさえあった。戦時下の三島由紀夫は、ちょうど「神」と「来世」によって生死を意味づけることのできた中世人が、その奴隷的境遇にもかかわらず幸福だったのと同じような意味で、ひとつの緊張した充足感の中にいた、と言うことができる。
 (……)三島の不幸は、そして彼の本質的な悲劇は、「生」と「死」とを意味づける原理の崩壊によって、つまり、彼から「美しい夭折」の可能性をうばった「敗戦」によってもたらされたものである。そして、彼を作家たらしたものも、この「不幸」以外の何ものでもなかった。それは「絶対に自殺できない不幸」であり、また世界そのものが意味を喪失して、のっぺらぼうな均質な存在に化してしまった状況の中で、ともかくも「現実の相対性」に耐えてゆかなければならない不幸でもあった。
 (……)三島由紀夫吉本隆明の世代にあっては、「中世」こそが「青春」を意味したのであり、「中世」の崩壊は、そのまま彼らの生と死を意味づける原理の崩壊、言いかえれば「青春」の挫折と喪失とを意味するものであった。
(「殉教の美学」同p.19-21)

 もちろん磯田にとって三島が生死を「意味づける原理」とするのは言い過ぎである。しかし、三島のような作家がいるならまだまだ捨てたもんじゃない、と思っていたのは間違いない。磯田もまた「絶対に自殺できない不幸」を体験した。三島の死に殉死するのは絶対的に馬鹿馬鹿しい。だが、磯田のヒューマニズムへの嫌悪、という土台を支えたのは三島という存在だったのではないか。磯田が三島の死をもって直面したのは「思想の相対性」に再び耐えなければならない事態、「思想」を委ねていたに等しい三島という師の決定的な「自己否定」であった。それは、「恩寵」を失った戦後と、よく似た時間だったのではないか。

 「太陽神と鉄の悪意」にあるのは、1970年以前の明快さの喪失と、困惑と、それでも三島の死を批評しようとする意地である。
 末尾を結ぶ装飾的な弔辞は読むに堪えないが、それも磯田なりの最後の意地である、と言っていい。
 死んでしまえば終わりだ、という極々日常的な発想を、1970年以前の磯田は批判出来ただろう。たぶん1970年以降の磯田には出来ない。それが人間が死ぬということで、私も知っている人間に死なれてから自殺を書くことが出来なくなり、他人の小説に書かれた自殺をよく読めなくなった。そのとき磯田は殉教のない「戦後」へ突然突入させられた。磯田は三島の『林房雄論』を「三島由紀夫の随一」の「私評論」であるという。「半ば他人事のように描かれた思想劇が、自らの内面の課題と密接につながり」「はじめて歴史を生きる自己の個体の問題として問われる」とき、それは評論ではなく私評論となる。
 人は書きたくて私小説を書くのではなく、それを拒否していてもついに書かずには居られない地点へ追い込まれるのが私小説作家ではないか、と私は勝手に考えているが(清水博子がそうであるように)たぶん磯田光一においても、同じような現象があったと思う。優れた私小説を書く条件のひとつは、たぶん告白を嫌うことだ。

 たとえばここに、Aという男がいるとしよう。Aが心のなかに苦しみをもっているとき、B、C、D、Eという他人は、Aの苦しみを他人に聞いてもらう権利があるであろうか。少くとも個人が等しい価値をもつ存在であるかぎり、作家が自分の苦悩の告白をそのまま芸術上の真実の根拠にすることは、所詮は彼のうぬぼれにすぎぬのではないか。
(「戦後的反逆の文学」同p.87)

 私には「太陽神と鉄の悪意」に書かれた内容はほとんど理解出来ない。いや、表面的には多少わかるが、そんなことで人間が死んでたまるか、という気持ちになる。『殉教の美学』の静的な三島像となんとか接続しようとして、失敗してしまっているようにも思う。ただ、「私にとって三島由紀夫氏の存在は、まぎれもなく戦後精神の象徴だったのである」(p.141)といい、「生き残った私は、ある"渇き"をいだきつつ、現世の汚濁のなかで、私自身の道を行くであろう」と書きながら、三島の自死に「幻想から遮断されているがゆえに、何ものかへの渇きを秘め、しかも中途半端な幻想にひたっている人々にたいする、すさまじい呪詛」を読むとき、「恩寵」を失い、「青春」に挫折し、その喪失に「自殺はできない」磯田の、ほかならぬ「私評論」の息吹を感じはする。