作家読みと時間読み(2018文学フリマ告知)

 11月25日の文学フリマ「キ-8」で、清水博子という2013年に45歳で早逝した作家を主題にした本と、2018年の文学賞レビューを同人誌で出します。
 前者は著作六作の感想、清水博子小論、清水博子を読んだあとに書いた小説です。
 後者は熱海凌さんとの共著で、著作八作の感想と、それらを読んだあとに書いた小説が収録してあります。
 
清水博子を読む』76頁(頒布価格:300円)
デザイン:泉尾春(文芸同人『みのまわり』主宰)

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清水博子を読む〕

1.『街の座標』書くことの不潔
2.『ドゥードゥル』少女小説の敵意
3.『処方箋』時間への治癒
4.『ぐずべり』白黒結晶
5.『カギ』検索としての風景
6.『vanity』書くことの清廉

清水博子を書く〕
7.ブック・ガールの臨界点(清水博子小論)

清水博子から書く〕
8.バースデイの転居(小説)

 

『私的文藝年鑑』121頁(頒布価格:500円)
デザイン:コンドウフミヒロ

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〔書評〕
1.石井遊佳百年泥』(芥川龍之介賞
記憶への躊躇/小説書きの下には〇〇が埋まっている
2.若竹千佐子『おらおらでひとりいぐも』(芥川龍之介賞
八年の一日/おらおらで、さ。
3.保坂和志『こことよそ』(川端康成文学賞
喜ばしい唐突/私的な論理を積み立てる愉しみの小説というサブタイプ
4.古谷田奈月『無限の玄』(三島由紀夫賞
難しい父の処分/魂の引き継ぎ:コペンハーゲン紀行

5.松家仁之『光の犬』( 河合隼雄物語賞 

光の追跡/遡行ーー関係がうまれる瞬間の手ざわりを拾いあつめること 

6.高橋弘希送り火』(芥川龍之介賞
辞書の焼き方/言語世界のクィアな支配者
7.星野智幸『焔』(谷崎潤一郎賞
焔としての描写/メタ論理の追跡者
8.山尾悠子『飛ぶ孔雀』(泉鏡花文学賞
燃焼としての時間/消退・ノスタルジア相転移

〔実作〕
8.その夏の炎症(小説。私が書いています)
9.言語の自律性を利用した余白についての考察(批評。熱海さんが書いています)

 
 引越しの多い仕事なので、部屋に本を溜め込めない。集中的に本を読む時期はあるが、そこを過ぎてしまえば間が空いてしまうことも少なくない。未読の本が溜まると憂鬱になってくるし、部屋の足の踏み場がなくなって困るので、意識してそうしているのもある。人はどうやって次の本を選ぶのか。これは本好きには失笑されて当然の問いで、本屋を歩いて興味を惹いたものは売り場から消える前に早々に確保する、そうすれば自然と溜まって選べるようになる、と答えられるかもしれない。
 ランダムに本との巡り合わせを楽しむ無順序の読書があれば、順番を決めた読み方もある。それで、作家読みと時間読みの話である。

 作家読みは読んで字の如しで、ひとりの作家をデビュー作から順番に読んでいくやり方だ。余程マイナーな作家でなければ(今回取り上げる清水博子ぐらいまでなら)県内取り寄せサービスも含めて市内の図書館で著作は揃うだろうし、古い作家なら古本がインターネットで叩き売られていることも多い。あまりに入手難易度が高い作家ならそもそも名を知る可能性が低い。どんな作家も三冊か四冊読んでいるうちに作者の像や物語のようなものが固まってくる。本と人を同列に語るのは安易な擬人法だろうけど、作者の姿や性格が見えてくる気がする。そして小説は意外と(本人の意識無意識にかかわらず)論理的に書かれているので、ああこの人のこの小説がこうなっているのは、前の小説のこんなところを受けてだな、と流れが読めてくるし、じゃあその次はこんな風に書かれるんじゃないか、と勝手な予想も出来る。
 これが非常に楽しくて、私は読むなら基本的に作家読みである。
 とはいえどのレベルまで読むか、という問題がある。どの程度まで文献を集めるか、とも言える。当然文芸誌に掲載されただけで単行本化されない作品は少なからずあって、しかもそこに作者について考えるうえで大事なものが紛れ込んでいたりする。では全集を読むべきか。インタビューやエッセイはどうするのか。私は、まずは単行本を読んでいくだけでいいかな、と思っている(今後全集が作られる作家も少なくなる気はするし)。全集は分厚すぎて読み切る以前に持ち運ぶのに苦労するし、一冊一冊の達成感がない(私は軟弱な読み手なので、その達成感は非常に大事だと思っている)。まず単行本を読んだあとで、隙間の未単行本化作品や、インタビュー、エッセイに目を通していく、という流れになる。この読み方は、今回の清水博子についての本を作ろうとした過程そのままである。
 作家読みの面白いところは、最初はなんで読んでいるのかわからなくても、次第にその作家を読んだのが必然であったように思えてくるところだ。作家の問題と、自分の問題に共有可能な部分が見つけられる、とも言える。今回読んだ清水博子も、最初はなんでこんな人を読み始めたのかと困ったが、あとから自分の問題に引き付けて、なるほどなあ、という気がしてしまった。
 
 時間読みは、作家読みと対置するから面倒な言い方になっているのだが、要は「その年の文学賞」とか「ある文学賞の作品全部」とか、あるカテゴリーの時系列に沿って作品を読んでいくやり方だ。文芸なら野間新人文芸賞受賞作を第一回から全部読んでいくとか(私は伊藤整文学賞が好きなので是非最初から読んでみたい)2018年の文学賞受賞作を全部読んでいくとか、そういう読みである。これは、ひとりの作家を底まで読んでいく、垂直の読書とは反対に、広く浅く読んでいくやり方だろう。本当は小説家の作品は作家読みでなければ理解出来ない場合が少なくなくて、どう考えても読みは浅くなるしかない。
 とはいえ、たとえば2018年の文学賞受賞作Aで登場してきたモチーフが、たまたま別の受賞作Bで登場してきたりすれば、単なる偶然の一致でしかなくても、何か意味があるような気がしてくる。2018年の受賞作で例示するなら、高橋弘希送り火』(芥川賞)と、星野智幸『焔』(谷崎潤一郎賞)と、山尾悠子『飛ぶ孔雀』(泉鏡花文学賞)に収録された『不燃性について』という三作は、いずれも「火」をモチーフにしている。高橋-星野-山尾の火の取り扱いはもちろん三者三様で、この違いを読むのが楽しい。私は政治的状況と小説の関連を読むのは不得意だが、「火」と2018年の状況を結び付けて読むことも可能なのだろう。

 作家読みは深くとも狭い。合う合わないはあるが、やはり広く浅く読む流れがもう片側になければ、新しい作家に出会うこともない。なかなか手を出し辛い大作であっても、文学賞というくくりで読んでいるのだから仕方ないか、と渋々読み始めることも出来る(でも大作は取り掛かりさえしてしまえば面白く読めてしまう場合が多い)。たとえば私は保坂和志の良い読者ではないけれど、2018年川端康成文学賞を受賞した『こことよそ』は素晴らしい短編だったし、河合速雄物語賞を受賞した松家仁之『光の犬』は、手を出すには勇気が要る長編だが、傑作だ。それから2018年上半期芥川賞を受賞した石井遊佳百年泥』も間違いなく佳品(文学賞読みをしなければまず手に取らなかったと思う)なので、この三作は出来れば他の人にも読んでほしい。
 あとは、本を読む人との話題が増える。「最近読んでる清水博子という作家が良いんですよ」「磯田光一って批評家を読んでいるんですが」で話を始めるのは絶望的に難しいが(私ならこれを振られた瞬間に硬直する)「この前泉鏡花文学賞を獲った山尾悠子の飛ぶ孔雀が良かったんですよ」ならマシである(ベストではないが)。
 単なる箔付けに過ぎないといえばそうかもしれないが、文学賞は要はその年の文芸のベストアルバムである。
 1996年に発売されたシングルのB面の曲の話よりは、2018年のベストアルバムの一曲のほうが遥かに話は弾みやすいだろう。
 
 前置きが長くなったが、今週末の文学フリマで、作家読みと時間読みを本にしたものを同人誌で1冊ずつ出す。

 前者は『清水博子を読む』という72頁の本で、清水博子という早逝した女性作家を題材に選んだ。
 1997年『街の座標』ですばる文学賞を受賞してデビュー、『処方箋』で野間文芸新人賞を受賞、芥川賞の候補になるが二度落選、著作を6冊出すも2013年に45歳の若さで逝去した。野間文芸新人賞というと文学賞では若手の有望作家に与えられる賞(芥川賞の前段階のような言い方をされることもあって、確かに今年芥川賞を受賞した高橋弘希は2017年に野間文芸新人賞を受賞している)で、それなりの評価は間違いなくあった作家だろうが、その死後は急速に存在が忘れられている。近年の作家だから仕方ないが、作家論も文芸誌に掲載された一作のみで(陣野俊史『「書くこと」を書く、その先のこと』すばる2014年2月号)はっきり言ってマイナーである。

 小説が書けない自分、を小説にしようと苦心する作家だった。書けない小説を、面白く書くのは難しい。小説は書くうえでも意外と没入感が大事で、小説を書けずにいる自分を意識してしまうと、なかなか熱のこもった書き方は出来ない。そこで清水は、本当の題材は小説が書けないという事態なのだが、『街の座標』では卒論、『空言』ではメールをうまく書けない、という問題にずらして書いた。そうした転位の描法が結実したのが、清水の最高傑作『亜寒帯』である(『ぐずべり』所収)。
 このあと清水は、自分は小説を書けずにいるが、そもそもそこまで自分が執心する書くこととは何なのかという問に、『ドゥードゥル』で至った。自分は何のために書いているのか。それは端的に鬱病の問であって、『ドゥードゥル』の「わたし」もまた、鬱病に罹患し、書くことについての問を中断する。その「わたし」の辿った過程さながらに、清水はこのあと書くことについて作中で問うことを封印し、鬱病からの治療過程を『処方箋』で描き、『vanity』というウェルメイドな、素朴に面白い小説を描くに至る。もっとも清水はこのあと「デプレッション」(『台所組』)=鬱病に陥る。晩年の作品はもはや小説としての体を成していない。
 芥川賞落選の怨念や同業者への悪口を小説内に書き始めた清水は、2008年の『台所組』を最後に文学の表舞台から姿を消す。
 大学を卒業して九年就職せず、「デプレッション」に罹患し、『街の座標』で受賞しなければ「ひっそりと死」ぬつもりだった清水は、1997年のすばる文学賞受賞で此岸に立ち返ることが出来た。だがそこから九年経った2006年『vanity』以降の清水は、二度目の「デプレッション」からひっそり彼岸へ消えていった。

 本の内容はブログに書いた六冊の著作の感想と、清水博子の未単行本化のインタビュー、エッセイ、小説まで対象に含めた小論『ブック・ガールの臨界点』そして小説の実作である。ブック・ガールは文学少女の意だ。清水は「ながいこと世間を<虚の栄>としか受け止められ」(『カリマツの家』)ず、他人の通俗ぶりを嫌厭しながら、おそらくは他ならぬ自分の俗っぽさをもっとも強く嫌悪していた。たとえば自己愛や虚の栄=vanityに基づくような、いい加減な読み書きを、自他ともに許せなかった。では、そうしたいい加減でない読み書きとは何なのかを、「デプレッション」になる水準まで徹底的に問い詰めたのが、清水博子の「ブック・ガール」の精神だ、という筋である。ともすれば悪口三昧としか読めないのが清水の小説だが(しかも清水の悪口は面白くない)少しでもその潔癖に近い、清廉で在りたいと願った姿が伝わる小論を目指した。
 たぶん2018年現在、他に読んで書く人が誰もいないからだが、清水博子という作家についてもっとも網羅的に書いた文章となっている。おそらくインタビューやエッセイ、未単行本化作品への言及は既存のテキストにはないのではないか。
 表紙や本文中の写真は、文芸同人『みのまわり』主宰の泉尾春さんに、『街の座標』の舞台である下北沢で撮影してもらった。デザインの美しい本に仕上がったので、ぜひまずは表紙で手に取ってもらえたらと思う。そしてもちろんいちばん嬉しいのは、清水博子を実際に読んでもらうことだ。その機縁となれば幸いである。

 後者は『私的文藝年鑑』という121頁の本である。2018年1月から10月まで、計八作の文学賞受賞作のレビューと、著者二人による実作(批評/小説)を収めた。内容の要約は難しいが、2018年の文学という外部に触れ、またそれに触発されて私的な読み書き=作品論/作品が立ち上がる瞬間を記録したい、というコンセプトで書いた(もともとの発想は日本文藝家協会が毎年出版している文藝年鑑だが)。順番としては『私的文藝年鑑』が先行している。本を読み、結果としてそれが本を書くことになる、という素朴なプロセスを意識して実践した、小さな本である。共著を依頼したのは文芸批評に集中的に取り組んできた熱海凌さんである(単独ではまず完成出来る本ではなかった)。これは『みのまわり』という文芸同人の冊子に参加したときに批評を読ませてもらった縁で、結果としてそれぞれの「みのまわり」の時間についての書物が出来上がった。
 二十代は「文藝」を語るには早過ぎる。一方で、「文藝」という仰々しい字面が許されるのも、この年代に限られる気はする。
 デザインを依頼したコンドウフミヒロ氏は、私的なものを題材のひとつとしている以上、ともすれば小さくまとまりかねない装丁に、ソリッドな力強さを与えてくれた。このデザインと拮抗するだけの言葉を書き綴らなくてはならない、そんな緊張感を密かにもたらしてくれた人物でもある。
 『私的文藝年鑑』についてはPDF/epubでの販売も検討している。文学フリマ以降も、是非広く読んでいただければと思う。