彼岸行きの切符 木村紅美『風化する女』について

 

風化する女

風化する女

 

 かつて文學界新人賞の受賞作が、ラテン語表紙の本で売り出されたときがあった。かつてといっても、この『風化する女』は2007年刊行だから、それほど昔の話でもないのだが、あらためて手に取ると懐かしい気持ちになる。この水色のラテン語は"Vinum novum in utres novos mittendum est."で、私に読めるわけもないのだが、遊び紙には「新しい葡萄酒は新しい革袋に詰めなければならない」と訳文が記されてある。マタイ福音書の引用らしいが、未だに文学界新人賞といえばこれ、というぐらい表紙の印象は強く残っている。実際には、この表紙で刊行された本の数は多くない(そもそも本になりにくい賞ではあるが)。検索する限りでは、この『風化する女』がシリーズの走りで、これと赤染晶子『うつら・うつら』が2007年、寺坂小迪湖水地方』と円城塔オブ・ザ・ベースボール』と藤野可織『いやしい鳥』が2008年、谷崎由依舞い落ちる村』と田山朔美『霊降ろし』が2009年で、それ以降はもう使われていない。このストイックな体裁では、さすがに本の売り上げが出なかったのかもしれない。あくまで当時の記憶頼りだけれど、いくつかの受賞作には、ちょっと不似合いという気もする。私が無学なのに過ぎないけれど、中身がまるで分からない、読めもしないラテン語の表紙で、純文学の新人賞受賞作……となると、手に取るのを躊躇うか、通り過ぎるのが普通だろう。一方で、選ばれた作品と著者を眺めてみると、これでいいのだ、という送る側の自信を感じさせもするし、そのうちの少なからぬ数が今現在も文学の最前線で書き継いでいることを思えば、やはり堂々たるセレクトだとも思う。
 そんな気合の入ったラテン語表紙シリーズの、最初を飾ったのがこの木村紅美『風化する女』である。中身は、思いのほか軽い小説だ。文体がまずライトだし、内容も見慣れた感があるかもしれない。三時間ぐらいで読み切れてしまう本ではある。
 私のような凡庸な感性なら、フォーカスを柔らかくごまかした女性の背中の写真を表紙に選ぶのだろう。実際には、そんなストイックな外見が、よく似合う作品である。

 「れい子さんは、一人ぼっちで死んでいった。」(p.7)

 これが書き出しだから、『風化する女』はこのれい子さんという人の痕跡を追い続ける小説なのだと、自然に予想がつく。れい子さんは「私」と同じ会社の同僚で、「四十三歳で結婚はして」おらず、「入社して二十年経っても、一般事務職のまま」で、「昼ごはんは、長いこと一人で食べ続けていた」。そんな孤独な人が突然死するのだから、後に続くのは葬儀と、遺品整理と、思いもがけない一面の発見と決まっているし、事実その通りに進む。この小説が輝いているのは、そんな嫌でも感傷を引き起こす舞台上での、感情との距離の取り方だ。感情へのストイックさ、と言い換えてもいい。れい子さんの死を知らされた私が、流涙に至るまでの距離は、冒頭から案外に遠い。

 れい子さんが死んだのを、本気で悲しむ人なんて、会社にはたぶん一人もいやしない。周辺の人たちの仕事にもきっとたいした差し障りはないだろう。代役はすぐに補充されるはずだ。それも彼女よりずっと若くて、肌がぴちぴちとして、愛想よく笑う代役が。
(……)
 あとでれい子さんの配属されていた課をのぞきに行ったら、彼女の机の上には、すでに菊やりんどうの花束が飾られていた。その周りの人たちは、もしかしたら悲しみを内にひめてはいるのかもしれないけれど、それを特に表情に出すことはなく、平然としていた。急に人員が一人減ったからといってむちゃくちゃ忙しくなるわけでもなさそうで、ほかの課と変わらないリズムで、電話を取ったり伝票を切ったりしていた。トイレでもロッカールームでも、彼女の死はちっとも話題に上らなかった。
 社内でのれい子さんの存在感の薄さを私はつくづくと思い知らされ、では彼女の死を悲しむ人は、いったいどこにいるのだろう、と考えた。悲しむ人がいて、その人に、彼女の死はきちんと伝わっているだろうか。はたして、一人でも本気で悲しむ人は、いるだろうかと考え続けていたら、寝るまえにようやく、涙がひとつぶ転がり出た。
(p.8-9)

 れい子さん、という名前はダブルミーニングである。第一には零子、「代役」がすぐに補充されるような、いてもいなくても変わらない人という意味。第二には、霊子、最初からすでに「生きていたころから死んでいるみたい」(p.71)という、幽霊の含意がある。「れい子さんは、一人ぼっちで死んでいった。」とは不思議な書き出しで、シンプルに書くなら、一人ぼっちで死んだ、でいい。突然死なら、猶更そのほうが自然だ。でもそうではなくて、死んでいった、と書く。れい子さんは、零子さん、霊子さんとして最初から葬られていて、たまたまそこに死が重なったに過ぎない。誰もれい子さんの死を悲しまないのは、物語の始まる前段階で、無同然の人として葬られていたからだ。
 死んだではなく、死んでいった。この冒頭には、「目立たない部分に凝る、ってのが好きなのよね」(p.47)という、作中の台詞を思い返さずにはいられない。
 れい子さんが霊子なのは、明確に意識されて書かれている。そうでなければ、この場面の説明がつかない。

 帰りに、ジャスミン茶を買うため十三階で降りると、ちょうど女子トイレからだれか出てくるのが見えた。知らない会社の制服を着ている。私がエレベーターから出てくるのに気づくと、すうっと、トイレの横の非常階段のドアの向うへ消えていった。足音が遠ざかる。
 長い髪を後ろで束ねた痩せっぽちの人で、れい子さんと似ていた。
(p.55)

 不在と死の区別は厳密につかない。そんな文章を昔読んだことがあるけれど、それは修辞とか観念の問題であって、やっぱり不在と死は根が違う。
 重なる枝葉もある。だから「いつか私が死ぬときまで、れい子さんはきっと、私の中に住みついて離れない」(p.71)とか、あたかも存命しているかのように、生き生きと回想を語ることも出来る。「おれがもしどこかで死んだら、死んだことは、絶対に桃ちゃんに知ってほしい。でも、桃ちゃんがどこかで死んだとして、死んだことは、知らされたくないかもしれない。どこにいてもいいから、きっと生き続けてるはずだって、思いたいかもしれない」(p.53-54)と私の恋人が話すように、死と不在の区別を付けないことは、ひとつの慰めでもある。それでも、不在と死は、失踪者と自殺者ぐらい違う。今度引っ越すからもう会えないというのと、明日自分は死ぬからもう会えないとでは、言葉の重みが変わってくる(併録作の『海行き』は、本作とは対照的に、単に距離が離れるだけの別離が、死別のような絶対的な断絶に近付くときを描いている)。

 「私」がいう「本気で悲しむ」とは、この不在と区別の付かないれい子さんの死を、死として受け止めてくれる人がいるだろうか、という意味だ。
 私の涙は「ひとつぶ」に過ぎない。他ならぬ私もまた、不在の域を超えた死の生々しさを実感出来ていない。それが悲しい。死が悲しいのではなくて、不在としてしかれい子さんの消滅を悲しめない、死を死として悲しめないのが悲しい。それが「ひとつぶ」の涙だ。れい子さんと私は、所詮、たかだか半年、会話を交わした仲に過ぎない。私はれい子さんの秘密を生前に知ることはなかったし、その関係もおそらくは退社で立ち消えていた程度のものだ。にもかかわらず、わたしの「ひとつぶ」は切実である。
 なぜなのか。それは、私もまた、「れい子さん」の立ち位置にいるからだ。現実の状況としては、「一年まえに、結婚することが周囲に知られて以来、もともと私とは相性が合わなかった熊谷さんだけではなく、より若い女の子を課に取り入れたいともくろむ男の上司も、仕事とは関係のないところで、何かといやみを言ってきたり、冷たい態度を取るようになり、私はすこしおかしく」(P.16)なっていた。
 告別式の夜、私はれい子さんを夢に見る。

 会社の制服姿のれい子さんが、ただ広い砂丘を歩いている夢だ。青い空と肌色の砂の対比が目にしみる。私は立ちどまってその後ろ姿が遠ざかっていくのを見ている。
 ときどき、丘と丘のあいまに見えなくなったと思ったら、より小さなシルエットとなって、また現れる。見渡すかぎり歩いているのはれい子さんだけで、だんだん、蟻みたいに小さくなって砂の上を動いていくさまを、私はひたすら目で追っている。砂丘が終わる向うには海が広がっていて、そこに彼女は引き寄せられるように歩いていく。
「れい子さーん」
 と私は何度も叫んでみたけれど、声は一面の砂に吸い取られていくばかりで、れい子さんはふり向きもせず、私の足は、まったく動かないのだ。
(p.25)

 大事なのは、私もまたれい子さんと同じ「砂丘」に立っている、ということだ。
 鳥取の「砂丘」は、東京では「十三階のトイレ」に置き換わる。葬儀から帰ると、私の席に、すでに「後任」の女の子が座っている。仕事を全て取り上げられ、「零」になった私は、れい子さんが秘密の休憩場所として教えてくれた「十三階のトイレ」へ向かう。

 便座のふたをした上に座りこみ、水をためるタンクに背中をもたせかけてうとうとするのだとも、れい子さんは教えてくれた。
(……)
 私がいま、突然死んでしまっても、会社での反応は、きっと淡々としたものだろう。ふとそんなことを思った。同時に、それは当たり前すぎるくらい、当たり前のことなんだと気づいた。
 窓の外をゆっくりと旋回するカラスの鳴き声が聞こえる。
 さびしいとも悲しいとも、私は何とも思わない。
(P.26-28)

 夢の砂丘でれい子さんが向かっていた海には、「動かない」私の足では届かない。けれど零になった私がたどり着いた現実のトイレでは、「水をためるタンク」はすぐ背中越しにある。海もまた水をためる窪地だ、ではあまりに乱暴な読みだろうか。だとしても、きっとれい子さんも、自分が零になったとき、「さびしいとも悲しいとも」思わなかったのだ。思えなかった。「当たり前すぎるくらい、当たり前のこと」だと先に理解してしまっていたからだ。

 砂糖もミルクも入れないままのコーヒーを飲みながら、れい子さんはよく、はげましてくれたものだ。そして彼女自身についてはこう語った。
 「四十を超えたら、もう、だめよ。私も二十代半ばぐらいまではねえ、やめたいやめたいって、逃げることばかり考えていたけれど、もう、いまぐらいの年になると、ひらきなおって、多少居心地わるくても、居続けていくしかないな、って思うの。そこそこ安定した会社で、まったく、好きな仕事というわけではないけど、私は頭がいいわけでも、特別な才能や、むずかしい資格をもっているわけでもないから、クビにされない限りは、しがみついていくしかない。仕事がつまらないぶん、楽しみや生きがいは、会社の外に見出して。影の薄いおばさん、でも、いなくなるよりはいるほうがいい。私はそんな存在で、定年まで会社にひそみ続けていようと思ってる。それでいいの」
(p.22)

 れい子さんの立ち位置も、その希薄過ぎる死も、私には微塵も他人事ではない。むしろ、ただ「背中」ひとつ分の距離しかない、いつ起きるとも知れない出来事だと理解したとき、その「死」は、此岸と彼岸を遠く切り離すものではなくて、切実な事件として立ち上がってくる。直接的な死の悲しみ方とも、間接的な不在の悲しみ方とも違う。自分のあり得た死を幻視するような、彼岸の感触がある。れい子さんの幽霊と見紛うような、「長い髪を後ろで束ねた痩せっぽち」と出会うとき、私もまた、「零」の彼岸に立っている。そして私が恋人と「いっしょにお風呂に」入り、「泡をたっぷり含ませたスポンジで、たがいの体をのんびりとこすりあい、シャワーをかけあ」い、「きみのおっぱいは世界一、なんて昔のスピッツのへんてこな歌」に合わせて「乳首」(p.31-32)を触れられるのと似た場面が、れい子さんにもあったに違いなかった。「勇気をふるいたたせながられい子さんのロッカーをあけてみると、まず目に飛び込んできたのは、内側に貼られた男との写真だった。携帯電話の待ち受けに映っているのと同じバンダナを巻いたひげづらが、えらく陽気な笑顔をしていて、彼に肩を抱かれたれい子さんは、まっ赤な口紅をつけており、ピースサインを出してはしゃいでいる。しっかりとファウンデーションもアイラインも塗っているれい子さんは、まるで水商売の女で、たいした変身ぶりだった」(p.45)という発見から始まり、れい子さんの部屋に「長い髪の毛とちぢれた陰毛」や「ばらの香りがするスイス製のボディローション」や「使用済みのナプキン」を発見する場面は、この混浴の描写を意識したものだろう。

 「たいした変身」の秘密は他愛ない。私が「ひげづら」の男の正体を突き止め、終盤、北海道まで飛んで知ったのは、要するにれい子さんがただローカルな歌手に遊ばれた、それだけの事実だ。歌手は結婚し、妻は妊娠している。私は口紅でれい子さんの写真に「さよなら」と書いて、店のポストに入れてやろうと考える。けれど、「キスマーク」をつけるのも、「さよなら」も、「れい子さんは、そんなことは、やらないような気が」して、「指さきがふるえ出」す。
 「水商売の女」のような写真があったとしても、実際のあけすけな姿を知っているわけではない。れい子さんは、あくまで自分の知るれい子さん、彼女ひとりである。

 
 会社の中では、れい子さんは、生きていたころから死んでいるみたいだった。でも私は忘れられない。
 その肉体は消滅し、だれの持っている思い出さえ、早くも風化しつつあるかもしれないけれど、いつか私が死ぬときまで、れい子さんはきっと、私の中に住みついて離れない。
「さよなら」
 いざ、口紅でそう書こうとすると、指さきがふるえ出した。
(p.71)

 このとき私は、不在の「ひとつぶ」の悲しさを超えて、絶対的な死の悲しみに直面している。『風化する女』は葬送の小説だ。それは、れい子さんの死を死として悲しめなかった私が、ただ悲しいまま悲しめるようになるまでの物語でもある。「彼女の死を悲しむ人は、いったいどこにいるのだろう」という冒頭の問の答えは、他ならぬ私だった。
 美しい構造だ。そして、そうした旅の手続きを踏まない限り、れい子さんの死を悲しむのはただ安直だというストイックな認識が、『風化する女』という弔いの物語を輝かせている。厳粛な表紙は本の売り上げには貢献しなかっただろうけれど、この無地に水色のラテン語だけのデザインが、作品には似つかわしい気もする。
 小説の結末は、れい子さんが夢の中で向かったのと同じ、「海」の場面で終わる。きっと、彼岸に近い風景なのだろう。

夜行はまだ出ないので、そのまま歩いて、海を見に行った。
「夜の海は漁火がきれいですよ」
 と旅館のおばさんは言っていたけれど、真っ暗な海には霧が深く立ちこめていて、首かざりのようだという漁火を見ることはできなかった。灯台から放たれるオレンジの光だけがゆっくりと闇を切りさいていく。
(……)
 霧の向うからは、ときどき、くぐもった汽笛が伝わってくる。目をこらすと、鈍色の船のシルエットが浮かびあがる。
 さむさにマフラーをかきあわせながら、私はまた、彼女もきっとこの景色をながめていたことがあるはずだと思って、れい子さんの存在を感じていた。
(p.72)