記憶への歩調 木村紅美『月食の日』について

 

月食の日

月食の日

 

  小説の描写とはどういうものだろう。大袈裟な問い方になるけれど、素朴に考えるなら、描写とは次の書き出しのようなものだ。

 有山隆の暮らすアパートの外壁は、卵色、という呼びかたの似合う淡い黄色をしているらしい。
「このアパート、卵色、って感じだよ」
 と隆に教えたのは、以前、交際していた路子だ。
「美味しそうな色。角のケーキ屋で売ってるレモンのムースにも似てる」
(七頁)

 有山隆は盲人である。アパートの壁が卵色だと保障してくれるのは、かつての交際相手が「教えた」言葉だけだ。これは人が小説に触れるときの条件に近似している。「有山隆の暮らすアパートの外壁は、卵色、という呼びかたの似合う淡い黄色をしている」と「教え」られる限りにおいてのみ、アパートの外壁は卵色だ。そこを、一人称や二人称ならともかく三人称でひっくり返すことにはさほどの面白みはなくて、卵色、と書かれれば卵色でしかない。だから、小説のこの書き出しは、小説の描写とはどういうものかを端的に表している。格好つけた書き方をすれば、それは「教え」である。
 教えには、教えられる側の許可が存在している。アパートの外壁は卵色かどうかなんてわかりはしないじゃないか、と読む側が拒んでしまえば、もうそこで言葉は止まる。小説は、書く側が教え、読む側が教えられるという、ひとつの黙契のもとで成立する。信頼出来ない語り手、という概念について私は何の知識を持ち合わせていないが、あれも「この書き手の言葉を信じるな」という教えと、それを受け入れる側の許容があるはずだ。
 傑作『花束』に続く『月食の日』は、小説の描写とは何か、を問い直す場面から始まっている。盲人を主人公にするというアイデアがどこから湧いたのかは、まだ資料を集めていないから知りようがない。小説の制作順は必ずしも発表順とは一致しないし、むしろ文芸誌に掲載された本作は原稿の受取から掲載までそれなりの時間を要した、と推測するほうが自然だろう。とりわけ、『月食の日』まで異様な速度で作品を発表し続けた木村においては、作品の書かれた順番を正確に同定することは困難だ。ただ、『風化する女』でれい子さんのロッカーの描写で胸を衝き、『島の夜』で島の風景を鮮やかに描き出した木村紅美という作家が、『花束』というあるシーズンの技術の結実を越えて、今いちど自分のなかで描写とは何か、を問い直した作品として『月食の日』を定めることは可能とは思う。

 盲目ということで余計な警戒心を持たれないせいもあるのか、隆には女友だちがやけに多い。
(七頁)

 盲目は、必然的に「教え」を多く受ける条件だ。作中にも、女友だちからの複数の「教え」の場面が挿入される。教えの場面が先にあり、そこで「警戒心」が霧散する場面は、後々の人妻とのやり取りにある。思えば、木村紅美のヒロインたちは、教えられる場面を然程持ち合わせてこなかった。「卵色」に相当する、世界を規定する「教え」の場面である。予備校寮を舞台にした『花束』では、肝心の授業の風景は徹底的に避けられる。『島の夜』のヒロインがトシミさんから性的な教えを受ける場面には、自分が実際にその技術を振るうのだという実感は伴わない。
 『花束』のような傑作を書き上げた後の木村紅美がどういう心境にあったかはわからない。ただ、傑作の先に、教えを受ける場面が中核を成す小説が続くことは、何かしらしっくりとくるものはある。あるいは『花束』の、とりわけエピローグにおいてひとつの完成に至った描写を、別方向に発展させる枝葉の動きが『月食の日』にはある。それが、どういう花を結ぶかは、先々の小説を読めなければわからない。
 ただ、徹底的に語り手の眼の力を消す、言葉だけの世界に生きるとはどういうことかを問い直した『月食の日』は、木村においてひとつの転換点という気がしてならない。月食の「食」に相当する暗闇のなかで、新たに見えてくるものは何か、という模索の手つきがある。
 完成度からすれば確実に併録作の『たそがれ刻はにぎやかに』のほうが上だし、派遣労働者認知症の老女、という社会で苦悶に喘ぐ人々を主人公に設定するのには、『風化する女』でれい子さんに注いだ眼差しに近いものを感じはする。まもなく失われるであろう空間の重みを、その場所の記憶の描写をもって保存する手腕は、『花束』のエピローグから受け継ぎ、発展させたものだろう。
 『月食の日』という本において、併録作は『花束』と同じ方向へ、表題作は別の方向へ歩く作品だと、まずは単純に整理出来る。
 もしくはこうは言い換えられないだろうか。『花束』のエピローグは空間にまつわる記憶の重みを描き出しているけれど、裏返せば、記憶なくして空間は鮮やかに物語られない。『花束』の結末で写真が意味を持つのは、管理人夫人が映っているからではなく、同時に去ろうとする元寮生たちと、彼女たちの花束が被写体になっているからだ。空間の描写は、単にたとえば「卵色」ということを列挙する、ということではないはずだ。以前の交際相手が「卵色」と教えてくれた、というミクロな物語なくしては、その描写は精彩を欠く。順序が逆転するが、「角のケーキ屋で売ってるレモンのムース」を思い出せるからこそ、「卵色」には意義がある(あるいは単に卵色と書くだけでは素っ気なくて、つい「レモンのムース」を続きに書いてしまう)。
 そのとき、空間を着色する記憶、挿話は、物語に近似していないか。あるいは、物語の前提なくして空間を書くことは難しいだろうか。

 清水博子という作家がいた。彼女は空間描写に偏愛を示し、一方で物語は通俗的なものとして排斥していた。だからこそ清水は、物語の前提なく空間を描写し、それが作品になり得る「短歌」を嫌悪した。清水が本格的に物語を書き始めるのは、おおむね『処方箋』からだ。読み手が今居合わせていない空間を書くことは、言葉の想起の力を最大限に引き出す場面だろう。『処方箋』以前の清水は、物語なくして風景を描くにはどうすればいいかを模索し、挫折し、「物語」と「時間」の処方を受けなければならなかった。『月食の日』は、おそらく小説自身も知らずして、同じ問に触れている。
 『月食の日』は、それまで別れを基底音にしていた木村の小説と比較すれば、明らかに物語の失われた小説である。別れの小説は、乱暴な言い方をすれば、確実に物語を形成する。出会いから別れまでの経緯を書くことは、たとえば発病から死までを書く程度には手堅い。粗筋は、盲人の男が昔の知り合いの家に食事を食べに行くだけの話、と要約出来なくもない。有山隆も、彼に触れた人々も、物語らしい変化を被ることはない。
 ただし木村は、清水と異なり、空間の描写に「教え」のエピソードを刻印した。そして「教え」を受けるのは、盲人の有山隆であり、そして読む側の私たちだ。むしろ、教えの場面を持ち出すことは、作中人物と読む側の立場を重ね合わせる、自然な導入だろう。物語に優先して空間を描くには、相応の理由が要る。少なくとも必要とする作家はいる。木村紅美はその側の作家だし、清水博子もまたそうだった。だから清水には「処方」が必要だった。清水が適切な処方、つまり空間の描写を執拗に続ける理由を初めて得られた傑作こそが、『亜寒帯』だった。
 盲人が、ああ誰かに教えられたな、と空間のいちいちに記憶を反響させることは、何ら不自然ではない。その微細な物語の積み重ねが、別れのような、あるいは作中に持ち込まれながら、あえて描写を回避される阪神大震災のような、巨大なプロセスを圧倒する。それが人間なんだ、なんて大袈裟な身振りを木村紅美の小説はしない(だから本当はこういう文章も似つかわしくない)。ただ、木村紅美の小説がしばしば他者との別れを描き、そしてそれがモラトリアムや停滞からの一歩と重ねられてきた、基調として青春小説の書法を採用していたことを鑑みるなら、『月食の日』は間違いなく『花束』から別の枝葉へ芽吹くための一歩、に位置付けられるべき小説だ。そもそも、『花束』が他ならぬ卒業の小説なのだから。

 空間を描くことがそこに蓄積された物語を書くことと同義なら、その物語は人間関係の束とも言い換えられるはずだ。
 木村における物語の大半は、人と人の遭遇で形成される。だから、空間を描くことはその空間に染み付いた記憶を、すなわち関係性を書くことにほぼ等しい。この地点において、描写、物語、関係性はひとつに結ばれる。関係性なくして物語は成立しないし、物語なくして空間を描写する意義は存在しない。木村は別れを頻繁に書く作家だったことを思い返すなら、『月食の日』は空間を先に書いているようで、実際には関係性から出発している小説だろうと思う。「卵色」には「路子」がまとわりつく。だから、小説は他愛ない人間関係の網を書いているようで、不思議な空間の広がりを感じさせている。実際には「卵色」の「アパートの外壁」から始まる空間描写は狭苦しさすらあるはずだ。けれど、関係の網の広さがそれを感じさせない。
 小説は物語としては完結していない。むしろ、完結しない物語こそが、たとえ月食の日であろうが何でもなく終わるのが人生だ、と読むのは、もちろん勝手が過ぎる。木村紅美の小説は人生に触れているけれど、その瞬間を、たとえば人生の手触り、などと安易な言葉で要約するには躊躇われてしまう。それだけの重みが、空間の描写に、関係の束に宿されている。たとえば、この先に続く傑作、『ボリビアのオキナワ生まれ』がそうだ。
 『月食の日』が、盲人の感覚のモードとはどういうものか、という描写を主題にしているのは確かだ。だから、小説は最後まで盲人の感覚にこだわりつづけるし、最後は「彼は自分や佳代が住んでいるのとは地続きでありながら違う世界に存在しているのだ、という思い」(十七頁)を、「風向き」(八十五頁)の挿話で反復するだけだ。「観測していた他のだれにも思いもがけない方法」で「月食を共有」するのには独特な色気はあるけれど、それでも「恋人同士」と取られるのは「かんちがい」に過ぎない。詩織が隆と不倫関係に陥ることは今後もたぶんなくて、これからも夫の浮気を疑い続けながら、夫婦生活を反復するのかもしれない。木村紅美において、この漫然とした反復は新鮮だ。別れにしろ出会いにしろ、木村紅美が描いてきたのはいつも一回的な挿話だから。「日」という短い時間もまた、木村の小説においては同様に特異だろう。
 併録作『たそがれ刻はにぎやかに』の主題もまた、反復である。顕は変わり映えしない日雇い労働に打ちのめされ続け、くららはアパートメントの生活が打ち崩されるときに死を願い、オリーブオイルは定期的に配達される。そもそも認知症という疾患自体が、新規の情報が定着困難となり、過去の記憶を地盤にする他なくなる、反復の病だろう。反復は、常に変化し続ける物語とは対極の位置にある。くららがそこから脱するには死しかないが、自殺は失敗する。顕もくららも、「人知れず死にたくなる」という希望は同一だろうが、『たそがれ刻はにぎやかに』という小説は、そんな綺麗な物語のエンドを許そうとはしない。ただ、漫然と重苦しい日々の延長を予感させるだけだ。そのピリオドの打ち辛い時間こそ、木村の新しい場面展開だろう。
 ただし、後に書かれた『見知らぬ人へ、おめでとう』を読む限り、むしろ木村が『月食の日』で主題としたのは盲人の感覚ではなく、過去の「教え」の場面を幾度となく喚起する記憶の力、その現在に蘇生される瞬間の鮮やかさ、という気もする。『見知らぬ人へ、おめでとう』で小説の核となるのは、平凡な過去の回想が、思いがけず心の慰めや救いになる場面だから。感覚が絶えず記憶を折り返すのが、この小説の盲人だろう。小説が記憶を思い出すとき、時間はいつも、現在にいるのか、過去にいるのか、曖昧な流れ方をする。だから、文体にはふらつきに似た浮遊感がある。『月食の日』の浮遊感は、視覚の失われた空間を読み手が歩き続けるふらつきと、言葉にぶつかるたびに「教え」の過去へ連れ戻される、二重のふらつきから成り立っている。
 小説が感覚と記憶の交わる場を進むとき、そこには現在=感覚から過去=記憶への歩みの転換があるのかもしれない。出来れば『月食の日』は『見知らぬ人へ、おめでとう』と、そしてたとえば『イギリス海岸』と併せて読んでほしい。美しい記憶が強固な現在=現実のまえに崩れ落ちる、すなわち幻滅の瞬間を描き続ける『イギリス海岸』と、他愛ない記憶が現在に喚起されたとき、それが心の救いとなる『見知らぬ人へ、おめでとう』との淵を繋ぎ合わせる橋として、『月食の日』を読むことは可能だろうから。