淵を渡る祝福 木村紅美『見知らぬ人へ、おめでとう』について

 

見知らぬ人へ、おめでとう

見知らぬ人へ、おめでとう

 

  木村紅美の小説の基調音は別れであり、『風化する女』から水辺はいつも告別の場所である。『花束』の海沿いの崖は現実から遊離出来る場であり、小説はそこから故郷を後にする。別れは第一には恋愛の別れであり、第二には死の別れであり、第三は疎遠の別れである。他愛ない疎遠の別れが、死別に等しい絶対性を帯びる瞬間を書いた最初の作が『海行き』であり、単行本なら『イギリス海岸』に相当する。
 表紙には、隅田川に架かる橋が描かれている。思えば木村紅美の小説には水辺はあったが、「橋」がなかった。それは、木村紅美において別れは絶対的であり、再会の余地に乏しいことと無関係ではないのかもしれない。『ソフトクリーム日和』のように、再会はむしろ過去との差異を、そして静かな幻滅や再度の別れを予感させる出来事でしかない。通じ合う可能性がない、とも言える。
 『見知らぬ人へ、おめでとう』は、『月食の日』より明瞭に、木村紅美のひとつの転換点を示している。「橋」の出現である。表題作は堕胎の罪悪感を主題にした小説だが、木村は、死者の彼岸から此岸を見返すことで主人公を罪の意識から救い上げている。これは、『風化する女』で海を前にして、れい子さんとの絶対的な断絶を実感した瞬間とは真逆である。『見知らぬ人へ、おめでとう』が木村紅美の作品群において特異なのは、別れの絶対性、思考や想像力の及ばない水辺、断崖を前に足を止めるのではなく、いわば「橋」を渡るように、別れの先へ眼を凝らした点にある。この橋は、『黒うさぎたちのソウル』で、奄美大島の古謡の世界や、沖縄で戦死した女の「ソウル」と呼応する場面に続いている。
 死者の彼岸から生者の此岸を見返す身振りは、次の水上バスでの描写で簡明に説明されている。

 水上バスがエンジン音を轟かせ桟橋からはなれると、心のなかで口笛を吹きながらプルタブをあけた。地上は暑いけれど、水上は風が吹き抜けて涼しい。レインボーブリッジに背中を向けビールを飲み始めた。左側には高層ビル、右側には工場が建ちならんでいる。やがて波を立て走り始めた。一つめの勝鬨橋が迫ってきて、見あげると笑いそうになり、首をすくめた。浅草に着くまで、橋を十いくつかくぐり抜ける。吸い込まれる瞬間が好きだ。ひんやりと薄暗くなって、エンジン音が橋げたにこだまし、昆虫と化してもぐりこんでゆくみたいだ。接近してくるのを、いつしか心持ちにしている。
 (……)陽ざしをはね返しぎらつく中央大橋と、佃島にそびえる硝子細工みたいな高層ビル群を水上から見あげているうち、灯子はだんだん、地上は現世で、水上バスで現世からゆっくり引き離されていくみたいに感じだした。
(十六、十七頁) 

 小説はこのあと逝去した祖母をめぐる回想へと、現在から「引き離されて」いく。眼を惹くのは、「昆虫と化してもぐりこんでゆく」という人ならざるものへの視点の転換だ。「地上は現世」なら、水上は現世ならざる場所である。現世から引き離された、人ならざるものの眼で地上を見返すこの動作は、『花束』冒頭の水原あおいが、海底の骨の目線から地上の自分の孤独を思い返し、密かに心を慰める身振りに似ている。
 そもそも『見知らぬ人へ、おめでとう』の飯島灯子が「突然、思いたって半休」を取ったのは、「地上」の「きらいでたまらない」「制服」を支給される会社で、「雲」を眺めているときだ。どうにもならない現実を主題にした本書の収録作は、それまでの木村紅美の小説と比べても、鮮やかな「雲」の描写が目を惹く。この「雲」を眺める目線は現実逃避であり、田舎への嫌悪、東京への憧憬も入り混じった『花束』の目線とさほど変わらない。ただし、『見知らぬ人へ、おめでとう』の飯島灯子のこの目線は、やがてはもう一人の主人公であり、経済的問題から第二子を堕胎した原田未央の心を救い上げる。灯を点すから、灯子なのだろう。

 「(……)ひと晩じゅう、考えちゃったんです。寝られなくなっちゃった。産める機能を持っているのに、産まないでいるのって、もしかして、生まれてくるかもしれない子どもを殺してるのと、同じことなんですかね?」
(……)
 ――孕んだことさえないらしい女が、自分と同じことを考えている。
「……殺しているって、産まないことが、ですか?」
 おもむろに向きなおると、声を低め訊き返した。イイジマさんはまばたきし、何度もうなずいた。
「うん。……特にね、おばあちゃんやおじいちゃんといっしょにいる子どもを見かけると、揺さぶられる、っていうか。私は、このさき、両親を、おばあちゃんにもおじいちゃんにも、してあげられないかもしれないわけじゃないですか。それって、孫を最初から殺してるのと、同じことなのかな、って思って」
「そうね。殺してるって、言えるかもね。それなら、避妊だって、人殺しだよね」
 またコーヒーを啜ると、自分にも言い聞かせるようにつぶやいた。
「そうかもね」
 反発されそうな気がしていたが、受け止められた。二人とも殺人者だ、と言い聞かせたら、未央は胸のうちが凪いだ。自分は孕んだことのない女と同じだ。それなら罪は犯していない。
(八十一、八十二頁) 

 この解釈は、現実と可能性の世界を等価と読むときにしかあり得ない。可能性の世界とは、現実から遊離した、頭の中の異界だろう。可能性の世界に渡って、そこから現実を見返せば、孕んだ子の堕胎と、孕むかもしれない子を孕まないことは等価の過ちになる。
 これは、現世ならざる水の上へ船で渡り、そこから地を見返す眼差しとパラレルである。あるいは、百人が集う結婚式場に、こんな夢を視る目線と。

 もしもいま、真上からジェット機や爆弾が落ちてきたとしたら、きっと、みんな、逃げまどう余裕もなく、会場ごと一気に燃え尽きるだろう。焼け跡には、骨と歯と溶けなかったアクセサリーと携帯だけが重なりあって散らばる。――だれのものかなんて、まるっきり、区別がつかなくなるだろう。
(九十頁) 

 人々が等しく焼死体と化し、「だれ」の区別もつかなくなった場所は、凄惨ではある。けれどそこには、個体の苦しみ、煩わしい現世から解き放たれた静けさがある。これは『花束』で水原あおいが水死体として分解された、海底の静けさでもある。焼け焦げた後に、「骨と歯と溶けなかったアクセサリーと携帯」を眺め直せるのは、まさしく「骨」の目線だろうから。ただし、木村紅美の小説には、「雲」を見上げる逃避の視線があるにしても、いつも空想で「死体」になるか、あるいは「船」で渡る、通過の手続きが必要になる。ごく素朴に、それが逃避でしかないことは、他ならぬ主人公たちがいちばん痛切に理解している。逃避は束の間の慰めかもしれない。しかしその微細な救いこそが、日常を辛うじて生き延びさせてくれるのも事実だ。
 『見知らぬ人へ、おめでとう』の「だれ」の区別もつかぬ焦土は、膣から産み落とされる以前、羊/水の世界、にも繋がっている。

 すでにかなり迫り出しているはずのおなかは、たくしあげられたスカートのふくらみと、耳に挿されているのと同じ、象牙色の百合が主役のブーケに上手く隠されている。いまたしかにその向こうに息づいているはずの、出来なかったかもしれない赤ちゃんと、殺されたのではなく生まれたくなかったのかもしれない赤ちゃんに向かって、未央はもういちど、さっきよりはっきりした声で呼びかけた。
「おめでとう」
(九十四頁) 

 大学時代、飯島灯子は一度だけ会ったことのある原田未央に「ついこないだも、お母さんと電話してて、つまんなことでケンカになってさぁ。うっかり、私はいっそ、この世に生まれてきたくなんてなかったんだよ、って怒鳴っちゃった。どうして、私なんか産んだんだよ、って」「私はもう、しかたなく生まれちゃったけれど、おなかのなかにいるときにさ、あなたは生まれたいですか、生まれたくないですか、って訊かれていたとしたら、たぶん、きっぱり、生まれたくありません、って答えたと思うんだよね」(六十五、六十六頁)と語っていた。
 原田未央は「はあ、と気の抜けた返事」をするばかりだが、原田未央の救いはこの再会から喚起された回想に萌芽しているし、より語を絞るなら「生まれたいですか、生まれたくないですか、って訊かれていたとしたら」の「したら」の仮定法にある。実際にはもちろん「おなかのなか」に問い合わせなど出来なくて、あくまで想像の橋を渡っているに過ぎない。二十歳で飯島灯子が渡ったその橋を、理屈からすれば「子どもっぽい」(六十五頁)だけの話法を心に想い起こしたとき、原田未央は子どもが「生まれたくなかった」可能性に歩み寄ることが出来る。胚芽はものを考えられないから、これは単なる心の慰めに過ぎない。けれど、堕胎を殺人の罪過と見なしてしまったとき、自ら赦しを与えられる、確かな論理でもある。
 二十歳ならば、誰でも心中に呟くような他愛ない言葉だ。だからここに奇跡があるとすれば、言葉の内容ではなくて、はるか過去の言葉を現在という時間にまで汲み上げられた、その回想の力だろうと思う。併録作の『野いちごを煮る』もまた、交わるようですれ違うだけだった同郷人の、何気ない野いちごの挿話から「明日目ざめたら、突然、ぜんぶが宝石みたいにきらめく野いちごの花束に変わっているところを思い描いた」(百六十一頁)とき、断絶していたはずの人に「電話」を鳴らし、「声」で繋がり合う物語だ。自分のなかに埋もれていた記憶が、平凡な再会によって掘り起こされたとき、たとえ幻のような一瞬の光であっても、日々にわずかな慰めをもたらすのであれば、それは祝福と呼んでもいいのかもしれない。
 他ならぬ自分の羊水に浮遊していた「生まれたくなかったのかもしれない赤ちゃん」に向けて、「おめでとう」と祝福することは、何を含意するだろうか。それは単に「希望のまま、生まれないままでいれて、おめでとう」という、心の慰撫を交えた、斜に構えた祝福だけではないと思う。まだ胚芽でしかないもの、未だ個の芽生えていない胎児と、かつて自分が孕んでいた者とに「だれ」の区別をつけないということだ。新婦の胎芽と、自分から離した胎芽とを、ともに人になろうとする可能性の萌芽として等しく読まなければ、この祝福はあり得ない。羊水という水辺に向かって、新婦に妊娠された子に、「妊娠しておめでとう」と祝福し、そしてたまたま別の腹に在るだけで、もしかすると自分が孕んでいたかもしれない子として「生まれずにいておめでとう」と同時に片側で祝福するとき、同時に地上では、新婦であるエリーに、そして未央自身もおそらくは意識せずに、他ならぬ自分を救った自分への祝福を唱えている。だからこの水中の「見知らぬ人」への「おめでとう」は、同時に地上への二人の女の祝福も兼ねた、四重の祝福だろうと思う。
 表題作は、最後の一文で飯島灯子と原田未央を「似たもの同士」(百頁)と評している。何気ないけれど、木村紅美の小説でここまで語り手=作者が前にせり出してくる瞬間を、私はこれ以前の作で知らない。堕胎した原田未央が、妊娠しないままの飯島灯子、結婚式の服装もまともに整えられない彼女とを「似たもの同士」として縫い合わせるには、可能性の世界に渡らなければあり得ない。
 堕胎と孕まないことには、本来絶対的な断絶がある。少なくとも、『見知らぬ人へ、おめでとう』以前では、間違いなく海ぐらいの深い淵があったはずだ。けれど、原田未央が飯島灯子の苦悶を自分のそれと縫い合わせ、二十歳なら誰でも心中で呟くような他愛ない言葉を現在にまで汲み上げたとき、たとえ堕胎の告白がなくとも、ふたりは「似たもの同士」になれる。そのささやかな形容こそが、『風化する女』から別れの淵の水深を測り続けた手が綴る、最高の「おめでとう」のはずなのだ。だって小説は、誰よりもまず、作者にとって「見知らぬ人」の物語なのだから。