黒い字の音楽 木村紅美『黒うさぎたちのソウル』について

 

黒うさぎたちのソウル

黒うさぎたちのソウル

 

 「島」の小説は難しい。木村紅美は水に重きを置く作家だろうから、川や岬に、あるいは島へ行き着くのは必然だと思う。とはいえ、沖縄の小説は簡単ではなさそうだ。沖縄を書くとき、オキナワが置かれた抑圧を無視するのはひとつの欺瞞か、観光小説みたいなものだろう。だからといって、その抑圧を書くことは、小説を分かりやすくし過ぎてしまうように思われる節がないか。
 「オキナワ」と同じぐらい、嫌味な言い方をされてきたものに「ヒロシマ」と「ナガサキ」があると思う。林京子の『長い時間をかけた人間の経験』を読んだとき、この人が原爆作家としてひとくくりにされるのは間違いだ、と思った記憶がある(「ナガサキ」というか原爆の主題にあまり興味がない私でも、地を這う蟻の描写に感動した。『祭りの場』はずいぶん昔に読んだきりだけど)。どう考えたって「オキナワ」とか「ナガサキ」が題材だから取り組むべき問題が容易に見つかっていいとか、そんな話がまかり通るのはおかしい。そんなので小説が書けたら誰も苦労していないはずだ。
 木村紅美がオキナワを書いた『黒うさぎたちのソウル』は、小説としてまず緻密だ。非常に冷たい書き方だけれど、私はナガサキと同じくらい、オキナワに冷淡だと思う。それでもX-JAPANの「スレイヴ」と、複数の隷属とが重なり合う表題作の精巧さは、やっぱりマイスターらしい木村紅美の小説だと感動するし、どんな政治的パンフレットよりまず心情的に「問題」の存在を実感してしまう。
 隷属とは、第一に女の男への隷属であり、第二に日本と米国によるオキナワへの二重の抑圧だ(ただし、作中では奄美大島への沖縄と鹿児島の二重の抑圧の歴史が併記されている)。
 だから、『黒うさぎたちのソウル』とは「スレイヴ」の小説であり、オキナワの小説であると同時に女の小説だ。木村はこれまでも性差と社会制度に抑圧され、隷属させられる女を描いてきた。『野いちごを煮る』の女性-派遣社員はその典型だろう。だから、「スレイヴ」の女を書き続けることが、(本人が島好きなのはあるだろうけど)「オキナワ」への橋を渡るのは必然だと思う。
 もっとも、木村の書く女の隷属は、会社内での男女差別という社会的条件だけでなく、恋の「スレイヴ」であることにも起因する。『風化する女』のれい子さんが男たちの「スレイヴ」になるのが、会社と恋愛の二重の隷属によるのは、賛辞だけれど、残忍なぐらい冷静だ。木村紅美の女たちが恋の「スレイヴ」となるのは、おそらくはまず、ファン心理に近い。

 SUGIZOは、あたしたちが二人とも大好きだったビジュアル系ロックバンド、LUNA SEAのメンバーだ。バンドが終幕してからはソロ活動をしている。
 最近は茶髪にしていることが多いけれど、紅い髪だったころが好きだ。恋しい人の生首にキスをしながら惨殺されるビアズリーサロメみたいにあでやかに化粧して、再上等の葡萄酒の滴りを思わせる髪をダイナミックにふり乱し、エレクトリックギターを、ときにはヴァイオリンを弾く。顔は女の人のようだけれど、黒革のぴったりした衣裳に包まれたよくしなる身体は、適度な筋肉がついていて、男らしい。
 抱かれたら、どんなにか気持ちよいことだろう。夜ごと空想に耽ってしまう。紅い髪と、あたしのゆるいウェーブのかかった栗色の髪が、肩のうえで混じりあう。互いの汗ばんだ肌に貼りつく。溶けそうに思えるくらい愛撫しあう。あたしは、彼になら何をされてもよいし、何でもしてあげたかった。
(九頁)

 たとえば『風化する女』のれい子さんは、男が歌わなければ、果たして彼に弄ばれたのだろうか。
 このSUGIZOへの憧憬を書いた文章は、木村紅美の女たちが「スレイヴ」に至る道程が正確に描かれている。彼女たちはまず「髪をダイナミックにふり乱し、エレクトリックギターを、ときにはヴァイオリンを弾く」パフォーマンスに魅了され、続けてその演奏する「よくしなる身体」に目を転じ、「彼になら何をされてもよい」と誓いを立てる。
 思い返せば、木村紅美の女たちはいつもパフォーマンスを演じる者との恋に苛まれる。先んじて男のパフォーマンスに魅了された女が、その「身体」を「空想」し、やがてその人格に裏切られる。それが、彼女たちの定期航路だといっていい(『島の夜』の小百合さんも、まず父の「身体」に「抱かれたら、どんなにか気持ちよいことだろう」と「空想に耽っ」たはずである)。制作された映画がどうしようもない『海行き』は例外的だが、だからこそ男女の恋愛は成立しない。麻利の「無職」で暴力的な「元彼」であり、ストーカーと化した佐山先輩について、「軽音の元部長で、粘っこいハイトーンが魅力的なヴォーカリストだった。作詞作曲もこなし、悲壮な片想いや無理心中をテーマにしたオリジナル曲を演奏するビジュアル系バンドを組んでいた」から描写が始まるのは、実に自然な成り行きだ。「粘っこいハイトーン」がなければ、きっと「魅力」を覚え、「とつぜん理由もなく殴ったり蹴ったり、ひんぱんに暴力をふるわれるように」なることもなかったはずなのだから。
 男の演奏がしばしば木村文学での恋愛の端緒となることを鑑みれば、『黒うさぎたちのソウル』は単行本化された小説のなかでも特異な位置を占めている。
 作品の中核を成す演奏は、佐山先輩やSUGIZOや敬太といった男ではなく、女の昇奈保子が引き受ける。男との恋愛から、女との友愛へ、では安直な読みだろう。小説のラストナンバーを奏でるのが、「美しく化粧してフリルだらけの衣装を着た男の子たち」であり、女たちがその「内側から輝いている」肌を凝視しているのを見逃すわけにはいかない。それでも、同じ音楽のもとに集った二人の女が、再会と共に新たな友愛を結び直す『見知らぬ人へ、おめでとう』を思い返したとき、『黒うさぎたちのソウル』に連続するものを読まずにはいられない。そしてこの文脈で読む限り、「音楽雑誌」の「コスプレした人たちの写真」において、「黒うさぎの耳つきカチューシャをはめ」た昇奈保子と「恋人同士のごとく寄り添」う「SUGIZOそっくりの切れ長の目をした美形」の十六歳が、「彼氏」ではなく「男装した女の人」なのは必然だ。そもそもSUGIZOからして、「あでやかに化粧」した「ビアズリーサロメ」なのだから。
 男を装う女、そして「女の人」に見紛う男という二つの扮装が許されるのは、性差から一時解放される世界でもある。木村紅美の小説は、もちろんそこで永遠に夢の中に浸るわけではないし、友愛から同性愛へ移行するわけでもない。『黒うさぎたちのソウル』では、「スレイヴ」同然に抑圧され、性的暴力を振るわれる女たちが繰り返し描かれるのだから。現実に性差と抑圧があるからこそ、
 その現実を束の間だけ忘れられる「サロメ」の、あるいは「フリルだらけの衣装を着た男の子たち」の演奏が光輝くのだろう。

 

 「ソウル」について触れなくてはならない。昇奈保子の唄が「ソウル」を感じさせる場面は複数あるが、もっとも重要なのは体育館でふたつの島唄を歌う場面だ。
 最初の『かんつめ節』は、「身売りされて一生働かなきゃならなかった」「奴隷」の女=かんつめが、「となりの村の男と、身分ちがいの恋に落ち」「嫉妬した主人と奥さん」の虐めに耐えかねて首を吊る唄だ。「フクロウやコオロギが啼く森の夜の奥深く、ガジュマルかアダンか、木の枝からぶら下がって死んでいるかんつめに取り憑かれてゆく」と「むかしの島」へ想像で渡るとき、取り憑くという動詞に、まさに「ソウル」=霊魂にそっと目をやっていた過去作品を思い出しはするが、だとしても、性別と身分の二重の抑圧を受けるかんつめに木村が辿り着くのは、『野いちごを煮る』を思い返せば予想の範囲は出ない。むしろ重要なのは、続く『塩道長浜』だ。

 「(……)どこかの島の唄にね、言い寄ってきた男を、女がこらしめようとして、足に馬の手綱を結びつけたら、馬が走り出して。彼はボロ切れのようになって死んでしまった、っていうのがあるよ」
 (……)あたしは頭を打ち砕かれ血まみれになった男の死体が波打ち際に横たわっている光景を思い描いた。恨めしそうな表情を浮かべた目玉が黒ずんだ眼窩から転がり出ている。やがてちいさな蟹たちがわらわらと群がってきて、屍肉を食い荒らすのだろう。ふるえあがりながら、口角が上がり、凍りついた気持ちとは裏腹に笑いそうになった。 (……)
「ストーカーだったのかな。よっぽどしつこくて、女が殺されそうなほどの身の危険を感じてたなら、正当防衛っていうか、しかたないかもしれないね。(……)いつか小学生の女の子を暴行した奴らもさ、吊るしあげられるっていうか、それくらいの目に遭えばいいのにね」
「そうよ」
(六十一頁)

 オバァから『塩道長浜』を教えられる上記の場面は佐山先輩と別れたあとだから、麻利が「ストーカー」を持ち出すのは彼が理由だろう。ここでは「ストーカー」と米兵による小学生女子への「暴行」は同列に書かれるし、さらに「暴行」には戦中の「ヤマトの男」から「沖縄の女」への「ひどいこと」が折り重ねられる。これは「スレイヴ」が二重の意味を織り込まれるのと、技法として似ている。奈保子の唄を聴き終えた敬太は、ビリー・ホリデイの『ストレンジフルーツ』を思い出したという。

「ストレンジ……何、それ」
「リンチに遭った黒人が、木から吊るされて死んでる光景を唄った曲だよ。ジャズっていうかブルースっていうか、ソウルミュージックっていうか。おれの姉貴の彼氏がプロのバンドマンなんだけど、そっち系の音楽のマニアで教えてくれたんだ」
「黒人かぁ。奄美の人ってね、むかし、薩摩の代官に、砂糖を作るための家畜だなんて言われてたんだよ。牛とか馬みたいにこき使われて、売買もされて。そんな苦しみや悲しみから生まれた唄が多いの。案外、似てるかもね」
(……)
「(……)今日の唄は、ソウルを感じたよ」
(六十八頁)

 『黒うさぎたちのソウル』で繰り返されるのは、ひとつの概念やモチーフに、時間や人を越えた、複数の意味と記憶を折り重ね続ける作業だ。歴史、と言い換えてもいいのかもしれない。
 単語の意味を決定するのは文脈だが、幾筋もの文脈が束ねられることで、たとえば「スレイヴ」や「ソウル」といった何気ない語に(ただし、それらは明確な意図をもって、奴隷や魂とは表記されない)この小説固有の意味が花開いてくる。奈保子の『塩満長浜』を聴いた麻利は、「あちこち破れかけたみすぼらしい着物の内側で股間を焼け爛れさせ、ぶら下がって死んでいる女の姿」を幻視する。これは引き裂かれた「ストーカー」ではなく、「オバァのとなりの家に住んでいた親切なお姉さん」が、「日本兵」に暴行され、「股間に銃剣を突っ込まれた死体」となった、という語りに由来する。これも、『塩満長浜』という島唄に、ストーカー=佐山先輩という男から女への抑圧、そしてアメリカと日本の二重の抑圧(米兵と日本兵の暴行)が束ねられたが故の情景だ。もちろん「股間に銃剣を突っ込まれた」とは、性-暴力の傷の徴だろう。
 これは、単に小説的な飛躍だろうか。そうではないことは、慎重に読み進めれば分かる。他ならぬ作者が沖縄について語るどんな言葉よりも、この小説は明晰に「オキナワ」を物語っている(私はそういう小説家が好きで仕方がない)。ストーカーと、二国の兵士の暴行と、黒人奴隷とが一曲の島唄に束ねられるということは、同時に作家が、こうした暴力と抑圧を同じ次元から見続けることを意味しているはずだと思う。だから、『野いちごを煮る』の女性派遣社員と、『黒うさぎたちのソウル』の時と場所は異なれど、抑圧においては在り方を共にする女たち(と、本来は出来ない束ね方を可能にするのが、小説の力だろう)は、連続している。『塩満長浜』の幻視の下りを、もう一度引こう。

 あちこち破れかけたみすぼらしい着物の内側で股間を焼け爛れさせ、ぶら下がって死んでいる女の姿が、脳裏いっぱい、まざまざと映し出されたのだ。血が痩せた小麦色の腿を伝い、裾をどす黒く染め、木の根元に流れ落ちては吸い取られる。
(七十二頁)

 血は赤ではなく、「黒」なのだ。それは銃剣をねじ込まれた沖縄の女の「黒」であり、リンチに遭った奴隷の皮膚の「黒」であり、奄美の「スレイブ」の歴史とも繋がる黒糖の「黒」(五十三頁)であり、麻利を拉致しようとする佐山先輩の車の窓の「黒」であり、抑圧の纏う色だ。同時に「出っ歯のブス」と陰口を叩かれる奈保子がインターネットの仲間と被るカチューシャの「黒」であり、佐山先輩から逃れた麻利が、自分を救ってくれた奈保子のライブに貸す「自慢のヴィヴィアン・ウェストウッドのロッキンホースバレリーナシューズ」は、色の明示はされていなくても、「黒」に違いないはずだ。それは、抵抗の纏う色でもある。そういえば、と接続するのは白々しいけれど、小説はいつも黒字で書かれるはずだ、と最後に余計な補記をしておきたい。