薔薇の蒔き直し 木村紅美『春待ち海岸カルナヴァル』について

 

春待ち海岸カルナヴァル

春待ち海岸カルナヴァル

 

  海辺の宿を木村紅美が舞台に選んだのは、単行本化された小説では二冊目だ。一冊目の『島の夜』は、その後の木村文学の輝きを思い起こせば習作に近い。木村紅美が家族を主題としたのも、『島の夜』の父、そして『イギリス海岸』の姉妹以来だろう。『島の夜』が父との再会から物語が始まるのに対し、『春待ち海岸カルナヴァル』の幕を開けるのは父の死だ。あるいは、初期から木村がそれとなく触れている異界、『島の夜』以来の再登場となる男性同性愛者、『風化する女』を彷彿とさせる、死者の置き残していった靴など、そこかしこに懐かしい断片が「カルナヴァル」のパレードのように列挙される。
 結論から書くなら、『春待ち海岸カルナヴァル』は『島の夜』と『イギリス海岸』という、初期木村作品の救済としてある。紫麻が救われるまでの物語は、『風化する女』のれい子さんはどうすれば救われるか、という問いに等しいと思う。書名の「春」は第一には紫麻が新たに踏み出し始める恋愛のことだろうが、『イギリス海岸』までの初期作品を種子に見立てれば、「春待ち」はその蒔き直しにも等しい。もっとも、ヒロインの紫麻が想い人の部屋の扉に食事を運び続けたり、未払いの宿泊料金を肩代わりするのは、『雪子さんの足音』を想わせる。
 『春待ち海岸カルナヴァル』は、初期作品のセルフカバーベストであり、同時に先々の小説への種子を蒔いた物語でもあると思う。
 小説は、幼少期に父からニューオーリンズの「ジャズ葬」について聞かされる場面から始まる。「あの町では、ミュージシャンが亡くなると、ジャズ葬、ってので送るのさ。この歌をみんなで演奏しながら、にぎやかに踊り歩く」その光景を想像した紫麻の感想は、こう続く。

 カラフルな列は海辺からはるか雲のうえまで、淡い金色をしたゆるやかな光の坂道を渡って続いており、雲のうえにも、やはり、あらゆる楽器を持った人たちがいるのだった。そこらじゅうにお祭りみたいな音楽が鳴り響いている。
 だれかが死ぬのは、ひどく悲しいことであるはずなのに、父が語るそのお葬式のようすは、紫麻にはとても楽しげに感じられた。――沢山、待ってくれている人がいるのなら、死ぬのは、さびしくないのかもしれない。
(八頁) 

 この死の風景は、木村の小説においては特異なものだと思う。
 たとえば『見知らぬ人へ、おめでとう』で、爆撃される結婚式場のイメージで描かれた死は、もはや誰ひとり生存しない、さびしさすらない静寂の風景であり、「待ってくれている人」がいる場所ではない。木村が書き続けてきた彼岸は、『風化する女』がそうであるように、絶対に超えられない淵を隔てたものだ。『クリスマスの音楽会』(『イギリス海岸』収録)の彼岸もそうだろう。異界への想像を許すようになったのは単行本として六冊目の『見知らぬ人へ、おめでとう』からだが、ついに「待ってくれている人」を隔絶の向こうに想定したことも、ひとつの雪解けに読めるだろう。
 物語は父の死と葬儀から始まり、「トランペットとギターの合奏」が鳴り響く紫麻の誕生日に終わる。
 紫麻は木村文学に度々登場してきた、内気で地味な独身のヒロインだ。「男とちゃんとつきあったことがあるのは一回だけ」で、「二十代のころに蒲鉾工場の同僚に言い寄られ、一年半ほどデート」はしたものの、関係は続かなかった。六年前に「かなり年上で妻子持ちの陶芸家」に想いを寄せたが、「追い詰めたようなメール攻撃」(一四八頁)を繰り返した苦い記憶がある。

 あの夏の初め、帰京した陶芸家の携帯に毎日のように送りつけた文面がよみがえった。
〈少しは返事をください、気がおかしくなってしまいそうです〉
〈早く返事を〉
〈読んでいますよ、というたった一言だけでもいいです〉
(九十二頁) 

 『風化する女』のれい子さんが、明らかに遊ばれている男相手に「れい子です。」と同じ題名のメールを送り続けていたのを思い出してしまう。れい子さんは自殺者ではないが、孤独死を迎えた。鳥取の家族とは折り合いが悪く、社内にも友人はいなかった。誰もれい子さんの密かな恋を知りはしなかった。『春待ち海岸カルナヴァル』において、紫麻が救済されるのは第一に(第五章で茅野さんからのメールを受け取れずに落ち込む紫麻が、「励ましてくれる人がほしい」と願う通り)恋心を打ち明けられる友人が出来たからであり、第二にサプライズの誕生日会を開いてくれる母と妹、そしてホテルの常連客たちがいるからだ。
 六年前の片恋の傷を抱えつつ、茅野さんへの微妙な接近を繰り返すこの小説は、最初は恋愛小説のようにも見える。ただし、紫麻を救うのは、恋愛の成功ではない。ラブホテルを手掛ける建築家の茅野さんは、「バレエシューズ専門の靴職人のお母さんに、女手ひとつで育てられた」「おととしお母さんが亡くなるまで、ずーっと二人きりで暮らして」いた「四十過ぎても独身」(一五二頁)の男であり、はっきり「他のどんな素敵な女の子より、お母さんを好きでたまらない」「マザコン」と評されている(姪っ子のミルクと妖精にまつわる幻想を、「この春から小六ですか。それなら、いつまでも、妖精だなんて、そんな迷信を信じてはいけませんよ」と「少し怒っているように」「早口で」退けるのは、おそらくは早めに大人にならなくてはならなかった、ということなのだろう)。小説は、紫麻が告白の手紙を送ったのち、茅野さんからの宅配便を受け取る場面で終わる。

 紫麻はめまいがした。ふるえる指でリボンをといたら、つややかなベルベットで拵えられた深紅の薔薇が一本入っている。針金の茎には深緑のベルベットが巻きつけられ、葉っぱも精巧に造られている。情熱的な愛、という花言葉が浮かんだ。添えられた手紙をひらいた。あのおみまいへの返事で見慣れた角張った字が飛び込んでくる。
〈お気持ちはうれしいのですけれど、まだまだ、私は自分のことだけで一杯です。とりあえず、むかし母が作ったお花をお贈りします。気に入って頂けたら幸いです。次の予約は、来月の、八、九、二泊で〉
 紫麻はほろ苦いような笑いをこらえ、さっそく花瓶に挿した。いつかほんとうの紅い薔薇をもらうことはあるだろうか。ドアの向こうから、だれかが自分を呼ぶ声が聞こえてくる。今日のカルナヴァルは笑い声に満ちてにぎやかだ。トランペットとギターの合奏も始まった。陽が翳り、暗くなってきた部屋で、ベルベットの薔薇はしずかにうつむいていた。
(二二〇頁) 

 茅野さんは母の喪に「おととし」から服し続け、遺品のバレエシューズを周囲に配り続けているような男だ。建築事務所の経営も苦しい。だから「まだまだ」「自分のことだけで一杯」なのだが、それにしたって「母が作ったお花をお贈りします」は告白相手の、それも誕生日に、あまりに手酷い返礼だろう。残虐でないのなら、鈍感だ。
 ただし、「いつかほんとうの紅い薔薇をもらうことはあるだろうか」というのは、きっと否定のための問ではない。それまでの紫麻なら、堪え切れずに「追い詰めたようなメール攻撃」か、泣くぐらいはしただろう。「ほろ苦いような笑い」が浮かび上がりかける、その心情は明確には書き込まれてはいないけれど、こんな男を、という自分への苦笑だったのかもしれない。「笑い声に満ちたにぎやか」なホテルの一室で、寂寥感は増すだろう。
 それでも、この花瓶に挿された「ベルベットの薔薇」には、不思議な明るさがある。来月の二泊の予約に、「しずか」な希望を持つことは出来る。たぶんこのときの紫麻にとっては、恋愛の成就ではなく、その希望を抱けること自体が救いなのだ。それは、『島の夜』の小百合さんを苛むのが、恋愛の困難よりも、むしろ恋愛への欲望を持ちながら、達成のための希望を持てない困難であったのと、正確な対照を成している。

 ふり返ると、ごみ袋が目に入る。
〈割れもの注意〉
 さっきのせめぎあった感覚がよみがえると、そのまま、ほんとうに瓶に入れるくらい、小さくなってしまいたくなった。純平くんを、たいして気に入っているわけでもないのに、瞬間的とはいえ、まるで嫉妬したみたいに腹立たしくなったのも恥ずかしい。
 純平くんを、たいして気に入っているわけでもないのに、瞬間的とはいえ、まるで嫉妬したみたいに腹立たしくなったのも恥ずかしい。
 肩に触れる茅野さんの指と、耳もとでささやかれるなぐさめの言葉を思い浮かべようとして、かき消した。――なんだか、いまの自分には、だれかに好かれたいなどと望む価値さえないように感じられる。
(八十四頁)

 『春待ち海岸カルナヴァル』の恋愛をめぐる認識は、驚くほど社会的だ。そこにはスクールカーストの日陰者のような、切ない躊躇いがある。
 年下の純平くんが妹の杏里に好意を寄せていたのを聞き知った直後、表面的にはその労働態度について、実質的には茅野さんからメールが来ない現状への苛立ちも相まって言い争う場面のあとに続くこの文章は、木村文学における恋愛の困難さは、容姿や経験の乏しさだけではなく、「価値」にも起因することを示唆する。『島の夜』の小百合さんは自身の経験の乏しさから新たな恋愛に踏み込めないが、実際に一歩踏み出すために必要なのは、トシミさんと波子による後押しだろう。『ボリビアのオキナワ生まれ』が描くのは、在日外国人というマイノリティ、すなわち「価値」の保証が難しいマナさんの恋愛の困難だ。『雪子さんの足音』の小野田さんが薫に近付けるのは、雪子さんの支援があるからだ。「好かれたい」と希望するには、相応の「価値」が必要になる。木村文学の幽霊じみた女性社員たちが、社内の誰かに恋の希望を持ち続けることは、きっと不可能だろう。
 紫麻がこうなったのは、陶芸家への恋が失敗に終わった傷もあるだろうが、自分よりはるかに男に好かれる妹の杏里の存在もあっただろう。最初に紫麻が選ばれる者と選ばれない者の隔絶を実感したのは、高校生のとき、杏里が富田先生から『痴人の愛』を贈られる場面だったと思う。

「紫麻ちゃん、これ、きっと好きでしょう」
「ぜったい、気に入ると思ってね……」
 紫麻が本好きと知ると、いつも、東京の大きな書店で選んだ本をおみやげに持ってきてくれるようになった。心をひらいてくれたのだと感じられ、あたたかな気持ちになった。杏里は本などまるで読まないのに、あるとき、なぜだか『痴人の愛』を贈られた。
「手紙が入っててさ、ヒロインが私と似てるから、あげます、って書いてあったんだけど、こんなこまかい字読む気しないよぉ。姉さんにあげるわ」
 と言ってそっけなく突き出された赤っぽい文庫本を、紫麻は、杏里の代わりに読み始めた。自分は本しか貰ったことがない。先生が、杏里には手紙もあげた、というのは、驚きだった。
(二十四頁) 

 小説のセクシュアルな描写に動揺した紫麻は、「サラリーマンと少女に自分と杏里の姿を重ねているのかと考えたら、気味がわるく」なり、「近くの浜辺」に『痴人の愛』を埋めてしまう。富田先生から贈られた本の冊数は、きっと紫麻のほうがはるかに多かったに違いない。紫麻が十五年以上経った今でも、埋めた場所に近付くと「深呼吸して気づかなかった」ふりをせざるを得ないのは、心の奥底に埋め立てるしかなかった傷の記憶だからだろう。これは二重の傷だ。それは第一に、手紙と本の取り合わせに露出した欲望の生々しさであり、そして杏里が「そっけなく」あるいは、あっけなく、贈り物を突き出してきたときの痛みにもあるのだろう。それはあくまで杏里が「妖艶な美少女」により近かったからに過ぎないのかもしれないが、選ばれる者と選ばれない者の差異を、これほど痛ましく実感させられたときはなかったはずだ。八章の母との会話や、あるいは紫麻が普段から「パパ」「ママ」と呼び慕い続けている様子からも、姉妹への愛情差を感じていたとは考えにくい。
 富田先生から、久々の宿泊予約があったときも、杏里は「どんな人だっけ」とまるで記憶していない。「紫麻には、先生は自分よりも杏里を気に入っていたように思えるのに、予約が入ったことを伝えると、彼女は先生のことを無情にもすっかり忘れていた」とあるが、そんなものだろう。富田先生にではなくて、紫麻に「無情」なのだ。自分が慕っていた人のことを「そっけなく」忘れられる、そのことを無情だと言い立てているのだと思う。『痴人の愛』を贈ってくれた話を口にしかけて、「やめた。うつむくと息が詰まって、光の躍る沖合いへさらわれていきたく」なるのだから、傷はなお深い。

 ふと、ひょっとして、だれか素敵な人と知りあえたりしないだろうか、と思った。先生といい、陶芸家といい、どうして自分はかんたんにはふり向いてくれなさそうな人にばかり好意を抱いてしまうのだろうかと、紫麻は心のなかで、溜息をつく。
 たまには自分を好きになってくれる人を好きになりたい。でも、そういう人を自分が好きになれるとは、限らない。
(四十二頁)

 紫麻の独白は、私は読んでいて意外だった。紫麻が富田先生を恋慕していたのがまるで分からなかったからだ。だから、これは鈍感な人間の読みではあるけれど、紫麻が「好意」に気付いたのは、むしろ妹が「そっけなく」本を渡してきたときだったのではないか。社会的な恋愛、に寄り過ぎた見方だろうが、選ばれなかった己を自覚したときに、後追いのように、「あたたかな気持ち」ではない、最初から失恋した恋心が生まれたんじゃないか。
 失恋は、選ばれる者との隔たりを、もっとも強烈に体験させる出来事だ。茅野さんとの最初の出会いの場面は、注意深く読まなければならない。

(先生?)
 いそいそとテーブルへ向かうと、紫麻は、すでにとなりの席に座っている中年男を見た途端、そう呼びそうになった。
 身長はかなり高いが、撫で肩、丸っこい黒ぶち眼鏡も髪型も、よく泊まりに来ていたころの先生と似ている。もしや親類かと疑ったけれど、手前に置かれたプレートには「茅野 久 様」と書かれている。他人の空似だ。
(……)
「初めまして」
 動揺を隠し微笑みかけると、すぐさま、はにかむように会釈された。
(四十四頁) 

 茅野さんを最初に富田先生と見間違えるこの場面は、物語の結末を正確に予告している。『春待ち海岸カルナヴァル』は、高校生の紫麻が選ばれなかった恋愛を、十八年後にもう一度やり直す物語である。同時にそれは、『イギリス海岸』までの初期木村作品の断片を再登場させる意味でも、やり直しの物語である。小説の結末は、失恋だろうか。富田先生が杏里を選び紫麻を選ばなかったとき、それを証し立てるのは谷崎潤一郎の「赤」の本だ。茅野さんが贈る「紅」の薔薇は、死した実母への想いが色濃く香り立っている。しかし、造花であっても、薔薇は薔薇だ。いつかほんとうの紅い薔薇をもらうことはあるだろうか、とささやく声は、たとえ痛みにさびしくかすれていたとしても、ほのかな希望の問だろう、と今は思う。