再建のための一章 木村紅美『まっぷたつの先生』について

 

まっぷたつの先生

まっぷたつの先生

 

  二〇一二年の『夜の隅のアトリエ』で浮上してきた木村文学の新たな問題は、倫理と罪悪だった。それが震災と関連するかは難しいところだが、私は「放射線」がそれとなく言及されている場面に触れて、サバイバーズ・ギルトに類するものがあったんじゃないかと妄想を書いた。
 そのときは、作者本人のなかで、倫理と震災の接点を明白に書くことが出来なかったのかもしれない。本書『まっぷたつの先生』は、そのふたつは強固に結び付けられている。「あの蒲鉾はね、よく知り合いに贈るんだけど、あれは、三陸を支援することで、仙台で教えてたころの罪ほろぼしをしたい一心で」(二七四頁)とあるように、その役目は、序盤から登場する、三陸の蒲鉾が果たしている。
 『夜の隅のアトリエ』以降、木村文学の主人公たちに共通するのは、彼らが特大の罪悪感を抱くことだ。
 『夜の隅のアトリエ』の女は二人の男を見殺しにした後ろめたさで永久の流浪を続けるし、『雪子さんの足音』の薫は女性との交際が困難になる。『まっぷたつの先生』の沙世も、二十年前に自分が教職に専念出来ず、教室で暴力を振るった記憶を後悔し続けている。女性派遣社員、不倫といったモチーフはいつも通りに使われるが、中村沙世の不倫において、相手の妻の精神疾患をめぐる、何気ないこの記述は見逃せない。

「妻が……、ヒデコが、心を病んでしまってね」
 塚本さんからそう告げられたのは、最後にふたりで行ったドライヴの帰りみちだった。
(……)それまで、沙世も会ったことのあるひとり息子の青はともかく、彼が妻について話題にしたことはなかった。空気のように感じていたのが、ふいに、ヒデコ、という名前で重みを持った。
(一八五頁) 

 まさしく木村文学は、「妻について話題にしたことはなかった」のである。木村文学のヒロインたちは頻繁に不倫するが、単行本化された小説で、浮気をされる相手=妻の側について触れた、その「重み」を感じた小説は、初めてのはずだ。塚本さんと別れたあと、大学浪人中の「ひとり息子」青を、「さびしさを埋めるため」(二二九頁)自分の部屋に上げて「甘やかす」挿話が絡む。抱かれる空想の程度はあるけれど、性的関係は結ばない。沙世は己の「さびしさ」を自覚して青を突き放すし、相手の男も「彼女の人生を狂わせてしまったのだろうか」と死に際に後悔する。
 『夜の隅のアトリエ』という亀裂以降の木村文学は、このような倫理と罪悪のフィールドに立っている。
 その亀裂を踏み越える前の木村文学で、果たして男が最後に後悔したとは思えないのである。亀裂以降、ヒロインたちの感情がしばしば暴発することも見逃せない。制御不可能な感情が溢れ出たとき、彼女たちは罪過を犯し、そのことを悔い続ける。『雪子さんの足音』の小野田さんが薫に性交を迫って失敗したとき、映画版の描写を重ねるなら、自身が父親から振るわれた性的暴力の光景が重なったはずである。抑えていた感情が滲み出るまでには、抑圧と隠蔽が前提としてある。

「あれ? ……光のページェント
 志保美がうたた寝から目ざめると、すでに夜だ。車の両窓は、小さな星がびっしりと宿ってみえる黄金色に輝く木立ちで埋め尽くされている。まばたきして見渡した。
(……)志保美は煌めくページェントを瞳に映しながら、瞳の奥に、ついさっきまで車窓に海のように広がってみえた、荒れたすすき野原をよみがえらせた。薄赤い夕陽を受けてささめき揺れていた。国道沿いに、四階や五階まで津波が達しベランダの硝子戸が割れたまま、取り壊されないで残っているぼろぼろのアパートがあった。カラスが巣を作ったようで、室内に出入りしていた。
 新しい家を建てる高台を作るための工事が始まり、クレーン車が土を盛りあげている光景も見た。まだまだすすき野原のほうが果てしなくつづき、志保美は、むかしここは街だったといくら自分に強く言い聞かせ、津波に呑まれるまえの景色を思い描こうとしても、どうしても、初めからすすき野原だったようにしか考えられなかった。
 街があったと信じたくなかった。
(二四五頁) 

 本書はもともと、二〇一五年に創刊された文芸誌『アンデル』に、一年間連載された小説だ。震災から四年が経過し、「光のページェント」はとうに輝きを取り戻している。それでも「すすき野原」という、大地のかさぶたは残存している。街の姿をそこに思い描けば、その悲惨さが余震として自分の心を揺らす。だから「街があったと信じたく」ない。けれども、「心のなかで手を合わせ」祈らずにはいられないとき、志保美はその震えを感知している(余談だが、本書はこれまでの木村文学と比較しても「星」が印象に残る小説だ。木村が度々書いてきたのは雲だが、被災地の星を見たのだろうか)。『夜の隅のアトリエ』以降、木村のヒロインたちが繰り返す特徴的な身振りである。「信じられない」のではなく「信じたくない」というとき、そこには事実への心理的な否認がある。だが頭ではそこに「街」があったのはとうに理解しているから、祈りの心情が自然と滲み出てくる。言葉の上での抑圧と、そこから漏れ出る心情とを同時に描いたこの文体は、三人称のようで常に一人称的な特性を十二分に活かしたものだと思う。
 もうひとつの特徴は忘却だ。『まっぷたつの先生』の女たちは、複数の場面で過去を思い出せなくなる。

 過去はいまさら建てなおせない。明け方、小鳥のさえずりを聴きながら、起きあがったら生まれ変わったようにいい人になろうと、なにかのために署名しようと決意したはずだった。なにかは、子どもだったような、いまは律子の胸のうちで、ぼんやりとかすんでいた。思い出せないまま、おなかがすいて、悔やんでいたことすらまた忘れていった。
(一五六頁)

 『夜の隅のアトリエ』の特異な文体は、結末において特に顕著だが、女がまさしく自分の「悔やんでいたこと」を忘れたように振舞う、抑圧としての忘却から成り立っている。作中の「放射能」が「隠蔽」されたように、小説は震災後の出版物という事実を隠蔽する。より直截的に震災を主題にしている『まっぷたつの先生』でも、忘却の身振りは繰り返される。それは、二〇一六年に出版された本書を読む私たちが、震災という忘れ難い事実をなかったことのように隠蔽している事態と、そっくり重なるだろう。傷の直視は耐え難く、しかし隠蔽=忘却された傷は日常のなかで何度も浮かび上がってくる。『夜の隅のアトリエ』と『まっぷたつの先生』は、この罪悪感と抑圧=忘却という繰り返す浮沈を、物語の原動力としている。
 
 「まっぷたつ」とは、生徒からの評価がまっぷたつなのと、地のまっぷたつ=震災とのダブルミーニングだろう。ある人と震災文学の話をしていた。なぜ震災文学をリアリズムで書いた小説に傑作が思い当たらないのだろうと自分の不勉強を棚に上げて訊いたとき、リアリズムで書くにはあまりに巨大な現実だったのではないか、という答えで納得したのがつい先日だ。しかし、木村紅美の描写力をもってすれば、津波直後の瓦礫と荒野を書くことは出来たはずだし、行動家である木村が瓦礫を直接見なかったはずがないのだ、ところが私は、そうした木村の小説を知らない。
 小説が震災を書こうとするとき、それは必ず余震の形式を取る。死者がこの世に言葉を記すことは出来ない。震災について書き得るのは、助かる程度の震災しか被災しなかった者ではある。だが、震災は大地の揺動から津波が続発したように、第二波、第三波、と副次的な余震を生んだ。原発のニュース、次第に明らかになる死者の数、波に洗い流されたあとの荒れ野の写真。生きて震災について書くことは、震災の傍らを書くことにしかなり得ない。それが圧倒的な現実ということだろう。『夜の隅のアトリエ』以降の木村文学は、この書き得ないものを「物語」で書こうとする試みと、それ故の必然的な迂回、と要約出来る。その迂回こそが、震災という傷の深さを体現している、とも言える。
 『まっぷたつの先生』は、震災から復興する東北と、過去の傷から復活する女たちが重なり合う物語だ。震災と個人的な後悔が連続するのを、私は短絡だとは思わない。作者が震災とその余震、それ以降について書こうとしたとき、そこには個人の物語を差し挟まずにはいられなかった。それが小説家としての資質なのだろう。『黒うさぎたちのソウル』における「沖縄」が、何よりまず個人の物語として書くことで島の隷属を心理的に納得させたように。それが、木村文学における「問題」の記法である、とも言える。

 同時に本書においては、過去の木村文学の引用が、(たとえ無意識にせよ)複数含まれていることには注意を要する。不倫や女性派遣社員の事務職もそうだが、猪俣志保美の「ぼろぼろ」の「ローファー」と、正社員である吉井律子の「ギャルソン」の靴との対比には、『風化する女』の靴のくだりを思い出さずにはいられない。そして木村文学が、このあと、選ばれない女をめぐる回想であり、そして『たそがれ刻はにぎやかに』の再演と変奏である『雪子さんの足音』へ歩みを進めることを思うと、『まっぷたつの先生』は、まさしく木村文学そのものの復興の物語ではないかと思う。
 ただしそれは、大地の傷跡の否認などではなく、「荒れたすすき野原」を横目に見るような、静かな歩みなのだろう。