双眼鏡日和 稲葉真弓『琥珀の町』について

 

琥珀の町

琥珀の町

 

  この一年に三つの町を引っ越した。ふたつ前に暮らしていた町は、職場の前に公営住宅があって、夜は各階の白い光が煌々と並んでいた。店という店もない、病院と市役所といくつかの公共施設があるだけの駅前の町で、懐かしく思い出せるのは、毎週昼飯を食いに通っていた近所の居酒屋と、あの公営住宅の光ぐらいだ。暗いマンションの部屋から、双眼鏡で雨の東京の窓を眺める場面を読んで、その光を思い出した。

 窓の中には様々な光景があふれていた。深夜というのに煌々と天井灯を点した事務所で机に向かって仕事をしている人、台所に立って洗い物をしている女、音もなく道を横切る猫、あるいは途方にくれたようにタクシーを待っている男、狭いアパートの部屋一杯を占めたトレーニングマシーンを、黙々と操っている若者など、いずれも見られていることなんて少しも気づかないまま明かりにさらされ、無防備な表情を見せていた。明晰なレンズの向こうには顔も声も知らない他人の静かな時間が満ちていて、切り取られたような静けさと生の気配とが、雨の膜を通して心に染み込んでくる。次々と目の中をよぎっていく夥しい数の人々や生活の匂いを、私は息を殺して見詰めていた。
(二十一頁) 

 短編集の巻頭を飾る『バラの彷徨』は、一九八九年、学習研究社の文芸誌『季刊フェミナ』の創刊号に掲載された。女性に応募を限るフェミナ賞という文学賞の結果も発表されていたらしく、受賞者は井上荒野江國香織、選者は大庭みな子・瀬戸内寂聴田辺聖子だったという。まだ日本の家庭にインターネットがない時代だ。息を殺して他人の窓を眺める「私」は、両親にすでに先立たれ、恋人とも別れ、唯一の親類であった姉も自殺したばかりの孤独な境遇にある。ありふれた、「ふと微笑まずにはいられなくなるような」風景が、「昔見た映画の忘れがたいシーン」のような印象を帯びる。
 事務所やマンション、アパートといったビルディングの窓に、無数の知らない誰かの人生が凝縮されている。団地を見上げるたび、一粒一粒の光の中に住む人がいることに、不思議な気持ちになったのを思い出す。「窓」は、複数人の、相応の重みのある歴史を、平たく切り出した断面でもある。この「窓」は、二〇一九年の今なら、インターネットに置き換わっているかもしれない。たとえばツイッターは無限大にも等しい人間の呟きの集合体だが、その発言者ひとりひとりに固有の人生と過去があることには、なんだかすこしどきどきする。
 この凝縮の動作は、マンションの管理人を主人公にした『眠る船』でも繰り返される。『眠る船』では、実際に住人たちの人生の一幕が短く書かれ、いずれも独立した短編のような手堅さと鮮烈さを有する一方で、その語りは、管理人の語りが脈絡なく差し挟まれたとき、その日常の物憂い倦怠感に衝突して砕けるように立ち消えていく。日常の倦怠は、本書の約十年前に出版されたデビュー作『ホテル・ザンビア』同様に、本書でも重要な主題だ。
 それは『眠る船』を結ぶ次の文章にもっとも顕著である。

 一日が終わる。
 今日も一日、何も起きなかった。彼はノロノロと管理人室の小窓を閉め、カーテンを引いた。外の風の音に混じって、妻が見ているテレビから、甲高い矯声が弾けていた。もう一度あとで、ゴミ置場のはみ出したゴミの整理をしなくてはならないだろう。それから今日一日の管理日誌を書くのだ。彼には何ひとつ変わりばえのしない、退屈な日誌だった。
(百十四頁) 

 それぞれの部屋に固有の住人がいるように、それぞれの人生に固有の風景がある。だが他人の部屋が扉の一枚で絶対に侵入出来ないよう隔てられているように、人が人の物語を容易く読むことは出来ない。ただ顔の羅列があるだけだ。『琥珀の街』は、それぞれの窓に、時に「微笑」を浮かべ、時に「退屈」を感じる。人生の固有の風景、決して他に換え難いはずの瞬間も、他人からすればなんでもない「退屈」の時にしか映らないことは、ままある話だろう。とりわけ稲葉真弓が書くような日常の風景は、その人が「退屈」だと信じ切っているような瞬間にこそ、面白みがあったりする。
 他人の生活を、その部屋の窓から覗き見ることは、何故だか面白いのである。それが面白いのだと、小説は語る。同時にその退屈さを物語っている。双眼鏡、に引っ掛けるわけではないけれど、この短編集には双つの眼差しがある。面白くも、退屈もあるという。小説を読み書きする人、まして日常の風景を書く人であれば、前者を支持するのが普通だろう。でも、稲葉は、その退屈さもちゃんと書いている。どこか、中庸だ。
 判断保留というのではなくて、面白さと退屈さの両方を目視している。そういう、懐の広さ、明るさが、この本にはある。
 窓に見えるのはあくまで生活の断片に過ぎない。ところがその断片だけを与えられたとき、他人が独特な風貌をもって立ち上がってくる。断片には不思議な力がある。早合点といえばそうかもしれない。でも、たとえば人が普段見せない微笑を一瞬だけ零したとすれば、それは特異な印象を与える。
 例示が難しいけれど、断片をいくら積み重ねても、それは全体とは違う力を持っている。本書でとりわけ魅力的なのは、この断片と、気配の書き方だ。


 そもそも『バラの彷徨』が、断片を集める物語である。理由も分からず自殺した「私」の姉は、生前「毎夜、見知らぬ女のところへ自由に電話できる」「会員制クラブ」で「ローズ・サハラ」を名乗っていた。声帯を切除した末期癌の老人からの電話に、姉は「無邪気なお喋り」を聞かせ続け、老人はそれを録音する。「私」は彼からテープを受け取り、「夜」ごとにその声の断片を聴く。お喋りの内容は、たとえばこんな調子だ。

 今日、クラブの仕事で変な人に会ったわ。彼は何時間もかけて私の写真を撮っていったわ。耳や足やお腹や唇やなんかをね。彼はこう言ったわ。世の中にはいろんなものを集めたがる人がいるけど僕は女の体の部分しか好きになれないって。これまでに何人もの女の体を写し、日曜日、それをばらばらにして並べては、一日中眺めているんですって。それから私達、写したばかりのビデオを見たの。臍や耳や唇ばかり一時間もね。そのあと別のビデオも見たわ。一面の波、波ばかり。時間とともに少しずつ色を変えていく波を、なにもしないで男の人と二人きりで眺めるのはとても変なものよ。彼は知らない女と、黙って、そんな類のビデオを見ている時が一番幸福なんですって。でも私は、その男の人と別れた後、なぜか、彼を変人だと思えなくなっていたわ。
(三十四頁) 

 「幸福」を共有するから「変人」と思えない。「臍や耳や唇」は「女の体」の断片に過ぎないし、「波」もまた海の一部でしかないけれど、そこには人を釘付けにするものがある。「臍や耳や唇」の断片には、別の女の気配が漂い始める。この挿話のあとに、砂漠の薔薇の解説が続く。

 会話のきっかけはもう思い出せないが、姉は、褐色の砂のバラを知っているかと尋ね、私は知らないと答えた。すると姉は砂漠を移動する砂丘について話し始めた。
砂丘の下には必ず地下水が流れているのよ。そのバラは、地下水に含まれている水酸化鉄が固まってできた砂色の結晶なの。砂丘が動いていった後、広い砂の世界にひっそりと残されていくのね」
 砂丘は、刻々と風に運ばれて砂漠をさまよう。砂嵐が起これば砂丘は大きく移動するが、風の穏やかな地方ではゆっくりと位置を変える。その、目には見えない移動の年月の間に、砂に沁み出した成分が熱に固められて結晶になるのだという。かつてあった砂漠が視界から消えた後、まるで砂丘の落とし子のように褐色の石の花が点々と残されるのだ、と姉は言った。
(三十六頁) 

 「視界から消えた後」の姉は、「褐色の石の花」のように、その声の断片を「点々」と残していく。それは別に救いでも、慰めでもない。ただ断片があるというだけだ。「なぜ彼女が週のうち何回かを無名の女として過ごすようになったか私にはわからないし、そんなことはどうでもいいのです」と老人が語る通り、物語は最後まで姉の自殺の理由は「どうでもいい」とばかりに書かない。
 老人の台詞はこう続く。
「ただ私は、毎夜彼女のお喋りを聞き、そのお喋りに慰められたということをあなたに伝えたかった」
 何故だろうか。自殺者の知人が親類に会おうとする展開は、小説ではよくある。都合がいいと書けば、そうだろう。ただ、人はそのとき、何を望んで出会おうとするのだろうか。直接的に慰め合いたいわけではない。慰められる傷でないことは、近しい人であれば当然知っているはずだ。
 欲しいのは、その人が自分以外に見せていた断片なのではないか。この人と共に生きていた時間があった、その事実を、その相手の存在を知りたい。
 私はかつての姉のように、老人に頼まれてお喋りを聞かせ続ける。

 老人の部屋がどんな部屋で、彼がどんな服を着て、どんな姿勢をしているのか、私には見当もつかない。しかし、受話器の向こうに姉の声が届いていた時のように、私の声の残像が静かに漂っているのが感じられた。
 私の声……それはどんなふうに彼の耳に届くのだろう。自分の声やとりとめのない会話を反芻しながら、私は日々動いていく砂丘に取り残される砂の結晶のことを思っている。細く複雑な回線を通して、確実に耳底に残る声の結晶……そうであればいい。
(三十八頁)

 なぜ「私」が老人の願いを受け入れたのか、その心理は直接的には書かれていない。
 それでも「私」は「老人がほんのわずかにしろ幸福な気分になれる」話題を探す。たとえ断片であっても、姉の声を届けてくれた感謝なのか。死を前にした老人への憐憫なのか。同じように孤独な人間を、突き放せなかったのか。明記されているのは、自分もまた姉のように「声の結晶」であればいい、という祈りに似た思いだ。声だけの世界で結ばれているとき、「私」は姉に少しでも近付ける気がしたのではないか。もしかすると、生前よりも。
 声を足音に置き換えれば、顔さえ知らない階上の男と、「互いをまさぐっているような」「至福」を感じる『火鉢を抱く』の部屋に近付くだろう。
 『バラの彷徨』と『火鉢を抱く』は双子の短編だ。
 前者は「声」だけで探り合う男との交わりを前半に書き、後半で孝雄(雄という字がよく性格を表している)という健康そのもののような男と関係を結び、「巨大な太陽の光」のもとで性欲を感じる。後者は「肩も腕も筋肉に被われ」ているような肉体的な男と交わりながら、結末は顔も知らない階上の男の夜の「足音」に、密かに性欲を満たす。孝雄と男を取り結ぶのは、室内の観葉植物だ。花屋の息子である孝雄は、「言葉を持たないのに」「危険を伝えあったり、遺伝子を護ったりしながら」「何億年という日々を、お互いに助け合って生きてきた」植物の生態に関心する。ここでの植物とは、「言葉」とは別の世界に繁茂する存在だ。文体の精緻な作家の多くがそうであるように、ここで稲葉は、言葉の届かぬ世界をひとつの極として配置している。『火鉢を抱く』の後半から、プランターの存在はそれを運んできた前半の男と共に掻き消える。
 肉体と実存の世界が片側にあり、言葉と気配の世界がもう片側にある。実は力業が目立つ短編集で、特にこの二作は男を境界点として、別々の小説に分かれるような切断があるのだけれど、結末は健康だ。素晴らしいのは性欲の書き方で、『バラの彷徨』と『火鉢を抱く』はいずれも性欲が小説を結ぶけれど、後者には、ひとりぼっちの夜の自慰であっても「至福」という単語が確かに当てはまるような、不思議な喜ばしさがある。
 おそらくその明るさは、言葉のある世界と、言葉のない世界とを、同時にまなざす眼にあるのだろう。