未完のワルツ 稲葉真弓『エンドレス・ワルツ』について

 

エンドレス・ワルツ

エンドレス・ワルツ

 

  本の再読が苦手だ。ゲームも追加要素なしに二週目が出来ない。初読ですべてが読めていることなど当然なく、こうやって短い感想をつけるために読み返して、そこでようやく基本的で、かつ重要な事実に気付くことも多い。
 稲葉真弓の『エンドレス・ワルツ』はこれで三度読んでいる。どれも、再読ではない。
 最初は十代の半ばに、次は二十代の前半に、三度目は二十代の後半。最初の『エンドレス・ワルツ』は大阪上本町の古本屋で買ったはずだ。十八世紀の恋愛小説と、昭和の小説が好きだった。カオルと「私」の殺し合いに似た愛し方が、なんだかフランスの古典小説のようでするすると読めた。
 いちばん印象に残ったのは、たぶんカオルが発する時間とか存在といった単語のほうだった。あとは、アナントン・アルトーの名前。
 二冊目の『エンドレス・ワルツ』は新宿のブックオフの、三百円均一の棚で見つけた。それを読んでから、図書館で『半島へ』と『海松』を借り、住んでいる場所の図書館の蔵書の貧しさに失望しながら、あるはずもない稲葉真弓の名を古本屋の棚に探し続けた。私がいちばん読み書きを熱心にしていたのはこのころだから、もっと記憶に残っていていいはずなのだが、内容はまるで覚えていない。幻の交差点でワルツを踊る場面は記憶に残っていたけれど、これは読んだ人間なら全員覚えている箇所だろう。カオルがボリス・ヴィアンを愛読しているくだりで、同じようにこの作家がお気に入りの知人がいたのだが、二度目の読書では、どうも覚えられなかったようだ。
 三冊目の『エンドレス・ワルツ』は、引っ越し先の神戸の図書館で借りて読んだ。地元の図書館はまたしても蔵書が貧相だったから、仕方なく神戸市立図書館に出向いて借りる羽目になった。二度の『エンドレス・ワルツ』は、いずれにせよ凄い作家だ、という記憶を刻んだ。偶然の近接もあった。二度目に出会い直した稲葉真弓の大学の講座を、たまたま友人が受講する予定だった。膵臓癌で逝去する年のことだった。
 友達の友達ならぬ友達の先生なのだが、でも稲葉真弓のことは読み通したい、そのときからずっと思っていた。
 三度目の『エンドレス・ワルツ』はあまり面白くなかった。話を安っぽいとも思うようになっていた。でも、だからこそ、良い読書だった。

 作家をどこから読み始めるかは難しい。
 私は清水博子や木村紅美の小説を最初から順々に読んでいったが、だからこそ読み落とすものはあったに違いない。私には長年なぜ『エンドレス・ワルツ』の作者が『半島へ』を書いたのかまるで分からなかった。『エンドレス・ワルツ』は観念と情念の世界にあり、『半島へ』は生活と平穏の世界にある。それは当時住んでいた町の図書館に、『エンドレス・ワルツ』の次の著書が『海松』しかなかったからそういう疑問を抱く羽目になったに過ぎないし、また『エンドレス・ワルツ』も石鹸やタオルの扱い方に生活風景の名手らしい細やかさが光ってはいるのだが、しかし『琥珀の町』から期待して次作を読んだ人には、やはりなぜこの小説が生起したのか分からなかったのではないか。
 時代遅れ、という主題はある。私が死を選ぶのはカオルの死が第一だろうが、第二は時代についていけないからでもある。時代遅れという主題は、学生運動後の時代に馴染めない男が最後には死を選ぶ『ホテル・ザンビア』や、過去の栄華をいつまでも忘れられない『夏の腕』でも繰り返されてきた。
 薬物中毒の女性がヒロインとして登場するのは、十年以上の中編『みんな月へ…』以来である。カオルのような痩せぎすの不良少年であれば、『琥珀の町』の『澪の行方』だろう。でも、この二作は稲葉真弓の小説にしては失敗作に近い。『ホテル・ザンビア』なら観念的な表題作よりも半島の夏を描いた『夏の腕』のほうが精彩に富んでいるし、『琥珀の町』なら表題作か、構造の切断が目立つとはいえ『バラの彷徨』と『火鉢を抱く』を取るべきだ。
 故人なのをいいことにひどいことを書くが、稲葉真弓の男女関係って小説になるんだろうか?
 稲葉真弓がポルノ小説を書いていたのは確かだけど、『ホテル・ザンビア』はなんで佐伯のような男に夢中になるのかまるでわからないし、田舎に鬱屈する女子高生と、学生運動に鬱屈した男教師という組み合わせは、けっこう安っぽい。『バラの彷徨』と『火鉢を抱く』の男の趣味は抜群に良いけれど、文芸小説というより女性向けエロ漫画のノベライズみたいだ。私は女性向けエロ漫画がけっこう好きなので、この二作の性愛小説としてのパートは面白く読んだけど、でも文芸小説としては余分だろう。
 稲葉真弓の書く性欲は健康的だ。だからこそ問題の気配がない。
 たとえ『ホテル・ザンビア』で男から男を渡り歩いていても、『バラの彷徨』で姉の死を穴埋めするように男と交際しても、『火鉢を抱く』で顔も知らない階上の男の足音に自慰に勤しんでも、何故か健全な印象を受ける。『みんな月へ…』では妻子持ちの男との不倫に後ろ暗い気配が漂っていたが、『エンドレス・ワルツ』の不倫にはそんな気配はまるでない。稲葉真弓の小説は、女性の性欲に関しては、海のように大らかだ。だからこそ稲葉真弓は今再読されていい作家だとちょっと思う。女性の性欲というより、男性に向ける性欲が禁忌に近いのは、昔も今も然程変わらないのだし。 
 性欲に問題を感じ取る気質なら、たとえば初潮と生理が問題になったはずだ。単に稲葉のそんな小説を知らないだけだろうが、でも初潮がひとつの喪失になるような小説世界を稲葉が書いたら、たぶん私は首を傾げる(文章ひとつひとつを取り出すと実に説得力がある作家なので、言い伏せられる気もするが)。私が初潮の文学で好きなのは津村節子の傑作『茜色の戦記』だが、稲葉の小説では「茜色」の破局というか、これで何かを失ってしまう、という喪失感はまるで問題にならない。年回りで近そうな『夏の腕』で問われるのは「死」の不安であり、罪悪感の問題だ。
 シティ・ガールの小説、なんて書くと流石に失礼か。でも、読んでいて心が落ち着くのは、そういう大らかさがあるからだ。他人の孤独や性欲に、とやかく口を出すつもりはない。でも人の孤独と性欲を、ほんの少しだけ垣間見てみたい。自分と近いか、まったく違うか、確かめたい。
 東京の小説だ。

 この調子でだらだら書いていくと、本編の中身にはあんまり踏み込めなさそうだ。でも周辺について書きたくなる小説なのだ。
 あとがきで稲葉真弓が記しているように、私もまた「鈴木いづみについてなにも知らな」いし、「阿部薫の音を聞いたことも」ない。
 本書に書かれているらしい強烈な愛というのが私にはよくわからないけれど、稲葉もよく分からなかったんじゃないだろうか?
 阿部薫鈴木いづみのエピソードがどの程度史実に基づいているかは関連書を当たらなければ不明だが、激しい恋愛模様というより、カオルの強烈な幼児性と純真さ、DVばかりが目につく。ただし「私」は男の暴力に屈するのではなく、時に友人の部屋に逃げ込みがら、対等な存在で在り続けようとする。でも結局「私」は薫の暴力をライブで吹かれたラブ・ソングひとつで許す。そんなアホな、と目が点になる。三度目で初めての体験だ。
 カオルは子供にだけは暴力を振るわなかったようだが、結局勝手に別の女のもとへ逃げ出し、前後不覚状態になって帰還し、暴力を再開する。
 そして身勝手に薬物中毒で死ぬ。救急医は迷惑しただろう。
 そして女も後を追うように死ぬ。これが史実らしいのだから、安っぽさは仕方がない。むしろ安っぽくなければ嘘だろう。
 だが稲葉真弓の小説に漂う大らかさ、優しさは、このキッチュさと紙一重でもあると思う。後書きを参照するに、どうもこの小説を書くよう勧めたのは河出書房新社の太田美穂さんだったようだ。「ある日突然、鈴木いづみ阿部薫に関するたくさんの資料を届けてくれた」そうだし。この人は全然情報がないのだが、稲葉真弓の作品を長年担当していたようだし、去年時点で遠藤周作全日記の出版に漕ぎつけている(いつか稲葉真弓について書いてほしい)。「この作品は、想念の中で始まり想念の中で完結する小説ばかり書いていた私に、資料を基に取材するという未知の体験を与えてくれた」ともある。稲葉真弓の不良少年やドラッグ中毒を題材にした小説は失敗作ばかりだったから、太田美穂さんの勧めは、見事な届け物だった。
 「彼らの凄絶な関係や死に方が強烈に印象に残ったことだけは確か」としつつも、「なによりも心を捕らえたのは、阿部薫死後の鈴木いづみの姿」だとある通り、小説ももっぱらカオルの死後が面白い。「白」と「ワルツ」の主題は最後まで生煮えだし、カオルの「走り続けること、その速度だけが問題だ」という言葉の意味もまるで分からなかったんじゃないか。小説は一九八六年二月の雪の日に始まり、同日に終わるワルツめいた循環構造を採用しているが、「白」については冒頭に「これはなんだろう。掴みたくても見えないのだ。カオルの熱さをいつも掴もうとして結局掴み切れなかったように」と正直に告白してある。
 いつもの稲葉なら「白」も「ワルツ」も雪も、もっとことことに煮込んである。でも、その不十分さが、小説の魅力に近い。
 カオルの書き方は阿部薫にどの程度まで夢を見るかだろうが、稲葉の書きぶりは、成行で結婚して、妻と一応呼ぶべき人に暴力を振るうドラッグ・ジャンキーの不良少年程度でしかない。サックス・プレイヤーとしての華やかな活躍も、まるで記録していない。最後までダメなジャズマンである。
 本書が阿部薫の親族から訴えられたのは、思いの他作品が有名になったのも金銭関係もあっただろうが、確かに頷けるものがある。
 稲葉は男の伝説なんてまるで興味がなかったはずだ。そこがいい。だから本書で輝くのは、「私」がグループ・サウンズの男の子たちを追う姿であり、カオルへの愛を証明するため己の足指を切り落とす壮絶な挿話であり、粘着質なDV夫の追跡から逃げ続ける姿であり、そのくせ彼の死で虚脱する不可解な姿なのだ。『エンドレス・ワルツ』は短く完成された佳作のようで、普段の稲葉に比較すれば、史実の殻の表面を、つるりと滑っていくのに近い。
 「走り続けること、その速度だけが問題だ」という言葉通り、小説は時に立ち止まって地盤を掘り下げることなく、ひたすらに走り続けている。
 その未完こそが完成だというような逆転は、稲葉真弓という職人的作家の筆致を踏まえたとき、異質な光を放っている。