薔薇の蒔き直し 木村紅美『春待ち海岸カルナヴァル』について

 

春待ち海岸カルナヴァル

春待ち海岸カルナヴァル

 

  海辺の宿を木村紅美が舞台に選んだのは、単行本化された小説では二冊目だ。一冊目の『島の夜』は、その後の木村文学の輝きを思い起こせば習作に近い。木村紅美が家族を主題としたのも、『島の夜』の父、そして『イギリス海岸』の姉妹以来だろう。『島の夜』が父との再会から物語が始まるのに対し、『春待ち海岸カルナヴァル』の幕を開けるのは父の死だ。あるいは、初期から木村がそれとなく触れている異界、『島の夜』以来の再登場となる男性同性愛者、『風化する女』を彷彿とさせる、死者の置き残していった靴など、そこかしこに懐かしい断片が「カルナヴァル」のパレードのように列挙される。
 結論から書くなら、『春待ち海岸カルナヴァル』は『島の夜』と『イギリス海岸』という、初期木村作品の救済としてある。紫麻が救われるまでの物語は、『風化する女』のれい子さんはどうすれば救われるか、という問いに等しいと思う。書名の「春」は第一には紫麻が新たに踏み出し始める恋愛のことだろうが、『イギリス海岸』までの初期作品を種子に見立てれば、「春待ち」はその蒔き直しにも等しい。もっとも、ヒロインの紫麻が想い人の部屋の扉に食事を運び続けたり、未払いの宿泊料金を肩代わりするのは、『雪子さんの足音』を想わせる。
 『春待ち海岸カルナヴァル』は、初期作品のセルフカバーベストであり、同時に先々の小説への種子を蒔いた物語でもあると思う。
 小説は、幼少期に父からニューオーリンズの「ジャズ葬」について聞かされる場面から始まる。「あの町では、ミュージシャンが亡くなると、ジャズ葬、ってので送るのさ。この歌をみんなで演奏しながら、にぎやかに踊り歩く」その光景を想像した紫麻の感想は、こう続く。

 カラフルな列は海辺からはるか雲のうえまで、淡い金色をしたゆるやかな光の坂道を渡って続いており、雲のうえにも、やはり、あらゆる楽器を持った人たちがいるのだった。そこらじゅうにお祭りみたいな音楽が鳴り響いている。
 だれかが死ぬのは、ひどく悲しいことであるはずなのに、父が語るそのお葬式のようすは、紫麻にはとても楽しげに感じられた。――沢山、待ってくれている人がいるのなら、死ぬのは、さびしくないのかもしれない。
(八頁) 

 この死の風景は、木村の小説においては特異なものだと思う。
 たとえば『見知らぬ人へ、おめでとう』で、爆撃される結婚式場のイメージで描かれた死は、もはや誰ひとり生存しない、さびしさすらない静寂の風景であり、「待ってくれている人」がいる場所ではない。木村が書き続けてきた彼岸は、『風化する女』がそうであるように、絶対に超えられない淵を隔てたものだ。『クリスマスの音楽会』(『イギリス海岸』収録)の彼岸もそうだろう。異界への想像を許すようになったのは単行本として六冊目の『見知らぬ人へ、おめでとう』からだが、ついに「待ってくれている人」を隔絶の向こうに想定したことも、ひとつの雪解けに読めるだろう。
 物語は父の死と葬儀から始まり、「トランペットとギターの合奏」が鳴り響く紫麻の誕生日に終わる。
 紫麻は木村文学に度々登場してきた、内気で地味な独身のヒロインだ。「男とちゃんとつきあったことがあるのは一回だけ」で、「二十代のころに蒲鉾工場の同僚に言い寄られ、一年半ほどデート」はしたものの、関係は続かなかった。六年前に「かなり年上で妻子持ちの陶芸家」に想いを寄せたが、「追い詰めたようなメール攻撃」(一四八頁)を繰り返した苦い記憶がある。

 あの夏の初め、帰京した陶芸家の携帯に毎日のように送りつけた文面がよみがえった。
〈少しは返事をください、気がおかしくなってしまいそうです〉
〈早く返事を〉
〈読んでいますよ、というたった一言だけでもいいです〉
(九十二頁) 

 『風化する女』のれい子さんが、明らかに遊ばれている男相手に「れい子です。」と同じ題名のメールを送り続けていたのを思い出してしまう。れい子さんは自殺者ではないが、孤独死を迎えた。鳥取の家族とは折り合いが悪く、社内にも友人はいなかった。誰もれい子さんの密かな恋を知りはしなかった。『春待ち海岸カルナヴァル』において、紫麻が救済されるのは第一に(第五章で茅野さんからのメールを受け取れずに落ち込む紫麻が、「励ましてくれる人がほしい」と願う通り)恋心を打ち明けられる友人が出来たからであり、第二にサプライズの誕生日会を開いてくれる母と妹、そしてホテルの常連客たちがいるからだ。
 六年前の片恋の傷を抱えつつ、茅野さんへの微妙な接近を繰り返すこの小説は、最初は恋愛小説のようにも見える。ただし、紫麻を救うのは、恋愛の成功ではない。ラブホテルを手掛ける建築家の茅野さんは、「バレエシューズ専門の靴職人のお母さんに、女手ひとつで育てられた」「おととしお母さんが亡くなるまで、ずーっと二人きりで暮らして」いた「四十過ぎても独身」(一五二頁)の男であり、はっきり「他のどんな素敵な女の子より、お母さんを好きでたまらない」「マザコン」と評されている(姪っ子のミルクと妖精にまつわる幻想を、「この春から小六ですか。それなら、いつまでも、妖精だなんて、そんな迷信を信じてはいけませんよ」と「少し怒っているように」「早口で」退けるのは、おそらくは早めに大人にならなくてはならなかった、ということなのだろう)。小説は、紫麻が告白の手紙を送ったのち、茅野さんからの宅配便を受け取る場面で終わる。

 紫麻はめまいがした。ふるえる指でリボンをといたら、つややかなベルベットで拵えられた深紅の薔薇が一本入っている。針金の茎には深緑のベルベットが巻きつけられ、葉っぱも精巧に造られている。情熱的な愛、という花言葉が浮かんだ。添えられた手紙をひらいた。あのおみまいへの返事で見慣れた角張った字が飛び込んでくる。
〈お気持ちはうれしいのですけれど、まだまだ、私は自分のことだけで一杯です。とりあえず、むかし母が作ったお花をお贈りします。気に入って頂けたら幸いです。次の予約は、来月の、八、九、二泊で〉
 紫麻はほろ苦いような笑いをこらえ、さっそく花瓶に挿した。いつかほんとうの紅い薔薇をもらうことはあるだろうか。ドアの向こうから、だれかが自分を呼ぶ声が聞こえてくる。今日のカルナヴァルは笑い声に満ちてにぎやかだ。トランペットとギターの合奏も始まった。陽が翳り、暗くなってきた部屋で、ベルベットの薔薇はしずかにうつむいていた。
(二二〇頁) 

 茅野さんは母の喪に「おととし」から服し続け、遺品のバレエシューズを周囲に配り続けているような男だ。建築事務所の経営も苦しい。だから「まだまだ」「自分のことだけで一杯」なのだが、それにしたって「母が作ったお花をお贈りします」は告白相手の、それも誕生日に、あまりに手酷い返礼だろう。残虐でないのなら、鈍感だ。
 ただし、「いつかほんとうの紅い薔薇をもらうことはあるだろうか」というのは、きっと否定のための問ではない。それまでの紫麻なら、堪え切れずに「追い詰めたようなメール攻撃」か、泣くぐらいはしただろう。「ほろ苦いような笑い」が浮かび上がりかける、その心情は明確には書き込まれてはいないけれど、こんな男を、という自分への苦笑だったのかもしれない。「笑い声に満ちたにぎやか」なホテルの一室で、寂寥感は増すだろう。
 それでも、この花瓶に挿された「ベルベットの薔薇」には、不思議な明るさがある。来月の二泊の予約に、「しずか」な希望を持つことは出来る。たぶんこのときの紫麻にとっては、恋愛の成就ではなく、その希望を抱けること自体が救いなのだ。それは、『島の夜』の小百合さんを苛むのが、恋愛の困難よりも、むしろ恋愛への欲望を持ちながら、達成のための希望を持てない困難であったのと、正確な対照を成している。

 ふり返ると、ごみ袋が目に入る。
〈割れもの注意〉
 さっきのせめぎあった感覚がよみがえると、そのまま、ほんとうに瓶に入れるくらい、小さくなってしまいたくなった。純平くんを、たいして気に入っているわけでもないのに、瞬間的とはいえ、まるで嫉妬したみたいに腹立たしくなったのも恥ずかしい。
 純平くんを、たいして気に入っているわけでもないのに、瞬間的とはいえ、まるで嫉妬したみたいに腹立たしくなったのも恥ずかしい。
 肩に触れる茅野さんの指と、耳もとでささやかれるなぐさめの言葉を思い浮かべようとして、かき消した。――なんだか、いまの自分には、だれかに好かれたいなどと望む価値さえないように感じられる。
(八十四頁)

 『春待ち海岸カルナヴァル』の恋愛をめぐる認識は、驚くほど社会的だ。そこにはスクールカーストの日陰者のような、切ない躊躇いがある。
 年下の純平くんが妹の杏里に好意を寄せていたのを聞き知った直後、表面的にはその労働態度について、実質的には茅野さんからメールが来ない現状への苛立ちも相まって言い争う場面のあとに続くこの文章は、木村文学における恋愛の困難さは、容姿や経験の乏しさだけではなく、「価値」にも起因することを示唆する。『島の夜』の小百合さんは自身の経験の乏しさから新たな恋愛に踏み込めないが、実際に一歩踏み出すために必要なのは、トシミさんと波子による後押しだろう。『ボリビアのオキナワ生まれ』が描くのは、在日外国人というマイノリティ、すなわち「価値」の保証が難しいマナさんの恋愛の困難だ。『雪子さんの足音』の小野田さんが薫に近付けるのは、雪子さんの支援があるからだ。「好かれたい」と希望するには、相応の「価値」が必要になる。木村文学の幽霊じみた女性社員たちが、社内の誰かに恋の希望を持ち続けることは、きっと不可能だろう。
 紫麻がこうなったのは、陶芸家への恋が失敗に終わった傷もあるだろうが、自分よりはるかに男に好かれる妹の杏里の存在もあっただろう。最初に紫麻が選ばれる者と選ばれない者の隔絶を実感したのは、高校生のとき、杏里が富田先生から『痴人の愛』を贈られる場面だったと思う。

「紫麻ちゃん、これ、きっと好きでしょう」
「ぜったい、気に入ると思ってね……」
 紫麻が本好きと知ると、いつも、東京の大きな書店で選んだ本をおみやげに持ってきてくれるようになった。心をひらいてくれたのだと感じられ、あたたかな気持ちになった。杏里は本などまるで読まないのに、あるとき、なぜだか『痴人の愛』を贈られた。
「手紙が入っててさ、ヒロインが私と似てるから、あげます、って書いてあったんだけど、こんなこまかい字読む気しないよぉ。姉さんにあげるわ」
 と言ってそっけなく突き出された赤っぽい文庫本を、紫麻は、杏里の代わりに読み始めた。自分は本しか貰ったことがない。先生が、杏里には手紙もあげた、というのは、驚きだった。
(二十四頁) 

 小説のセクシュアルな描写に動揺した紫麻は、「サラリーマンと少女に自分と杏里の姿を重ねているのかと考えたら、気味がわるく」なり、「近くの浜辺」に『痴人の愛』を埋めてしまう。富田先生から贈られた本の冊数は、きっと紫麻のほうがはるかに多かったに違いない。紫麻が十五年以上経った今でも、埋めた場所に近付くと「深呼吸して気づかなかった」ふりをせざるを得ないのは、心の奥底に埋め立てるしかなかった傷の記憶だからだろう。これは二重の傷だ。それは第一に、手紙と本の取り合わせに露出した欲望の生々しさであり、そして杏里が「そっけなく」あるいは、あっけなく、贈り物を突き出してきたときの痛みにもあるのだろう。それはあくまで杏里が「妖艶な美少女」により近かったからに過ぎないのかもしれないが、選ばれる者と選ばれない者の差異を、これほど痛ましく実感させられたときはなかったはずだ。八章の母との会話や、あるいは紫麻が普段から「パパ」「ママ」と呼び慕い続けている様子からも、姉妹への愛情差を感じていたとは考えにくい。
 富田先生から、久々の宿泊予約があったときも、杏里は「どんな人だっけ」とまるで記憶していない。「紫麻には、先生は自分よりも杏里を気に入っていたように思えるのに、予約が入ったことを伝えると、彼女は先生のことを無情にもすっかり忘れていた」とあるが、そんなものだろう。富田先生にではなくて、紫麻に「無情」なのだ。自分が慕っていた人のことを「そっけなく」忘れられる、そのことを無情だと言い立てているのだと思う。『痴人の愛』を贈ってくれた話を口にしかけて、「やめた。うつむくと息が詰まって、光の躍る沖合いへさらわれていきたく」なるのだから、傷はなお深い。

 ふと、ひょっとして、だれか素敵な人と知りあえたりしないだろうか、と思った。先生といい、陶芸家といい、どうして自分はかんたんにはふり向いてくれなさそうな人にばかり好意を抱いてしまうのだろうかと、紫麻は心のなかで、溜息をつく。
 たまには自分を好きになってくれる人を好きになりたい。でも、そういう人を自分が好きになれるとは、限らない。
(四十二頁)

 紫麻の独白は、私は読んでいて意外だった。紫麻が富田先生を恋慕していたのがまるで分からなかったからだ。だから、これは鈍感な人間の読みではあるけれど、紫麻が「好意」に気付いたのは、むしろ妹が「そっけなく」本を渡してきたときだったのではないか。社会的な恋愛、に寄り過ぎた見方だろうが、選ばれなかった己を自覚したときに、後追いのように、「あたたかな気持ち」ではない、最初から失恋した恋心が生まれたんじゃないか。
 失恋は、選ばれる者との隔たりを、もっとも強烈に体験させる出来事だ。茅野さんとの最初の出会いの場面は、注意深く読まなければならない。

(先生?)
 いそいそとテーブルへ向かうと、紫麻は、すでにとなりの席に座っている中年男を見た途端、そう呼びそうになった。
 身長はかなり高いが、撫で肩、丸っこい黒ぶち眼鏡も髪型も、よく泊まりに来ていたころの先生と似ている。もしや親類かと疑ったけれど、手前に置かれたプレートには「茅野 久 様」と書かれている。他人の空似だ。
(……)
「初めまして」
 動揺を隠し微笑みかけると、すぐさま、はにかむように会釈された。
(四十四頁) 

 茅野さんを最初に富田先生と見間違えるこの場面は、物語の結末を正確に予告している。『春待ち海岸カルナヴァル』は、高校生の紫麻が選ばれなかった恋愛を、十八年後にもう一度やり直す物語である。同時にそれは、『イギリス海岸』までの初期木村作品の断片を再登場させる意味でも、やり直しの物語である。小説の結末は、失恋だろうか。富田先生が杏里を選び紫麻を選ばなかったとき、それを証し立てるのは谷崎潤一郎の「赤」の本だ。茅野さんが贈る「紅」の薔薇は、死した実母への想いが色濃く香り立っている。しかし、造花であっても、薔薇は薔薇だ。いつかほんとうの紅い薔薇をもらうことはあるだろうか、とささやく声は、たとえ痛みにさびしくかすれていたとしても、ほのかな希望の問だろう、と今は思う。

革命への片恋 稲葉真弓『ホテル・ザンビア』について

 

ホテル・ザンビア

ホテル・ザンビア

 

 小説家としての初期の遍歴がよくわからない。一九七三年、二十三歳で婦人公論新人賞を『蒼い影の痛みを』で受賞したものの単行本化はせず、一九八〇年に寺田博が編集長だったものの掲載誌ごと一度きりで終了する作品賞を『ホテル・ザンビア』で受賞しようやく初の単行本化、さらに二冊目までは一九九一年の『琥珀の街』と十年の隔たりがあり、九十二年に傑作『エンドレス・ワルツ』が書かれる。『蒼い影の痛みを』は同人誌『作家』に掲載されたものらしく、本書の『みんな月へ…』と『夏の腕』も同誌の八〇年の作品を収録したものだそうだから、そこからまた九十一年まで同人に書き継いでいたのかもしれない。『蒼い影の痛みを』から『ホテル・ザンビア』までは詩に注力していて、ふらっと小説を書きたくなったらしい。九十一年も似た心の満ち引きがあったのだろうか。
 作品そっちのけで自分の話をするのも品位がないが、稲葉真弓を最初に読んだのは古本屋で見つけた『エンドレス・ワルツ』で、単に男女が身を持ち崩すだけの話にしか読めなかったのに、その描写の異様な煌めきにびっくりしてしまった。今でも書いている作家だと知って驚き、『半島へ』を読んだが、『エンドレス・ワルツ』と同じ作家の作品として線で結ぶには、二十一年後の小説だから当然といえばそうなのだが、難しかった。仕事の事情で、今年三つの街を引っ越す羽目になった。最初の街の図書館は稲葉真弓に冷淡で、『海松』と『半島へ』だけでそのときの稲葉真弓は終わってしまった。『月兎耳の家』が出版されたのを知ったのもごく最近のことだし、稲葉真弓倉田悠子である意味も、『エンドレス・ワルツ』と同じ年に産まれた人間にはわかりにくいものがある。いずれにせよ稲葉真弓について言えるのは、彼女が作家として驚異的な息の長さを晩年まで保ち続けた、ということだ。
 それで本書が小説としてどうかというと、『みんな月へ…』はさすがにちょっと古びているように思う。私には多少面白いけれど、他人には勧めにくい。『夏の腕』は傑作とまで言わずとも、佳品として読み継がれる価値はあると思う。だから、手に取る機会がまず滅多にないとは思うが、『ホテル・ザンビア』を見かけたらぜひ『夏の腕』を読んでほしい。「半島の光も風景も、のびやかで飽きるということがなかった」(二一九頁)という、稲葉真弓の生まれた愛知県、その渥美半島の明暗の、「のびやかで飽きるということ」がない描写の鮮やかさだけでも目に入れておいてほしい。
 ただし、表題作『ホテル・ザンビア』は題材の古さはあるにせよ、現代小説に通じる「女」の挑戦はあると思う。それは、最後に書く。

 本書に収録された三篇の小説には、ひとつの単純な共通点がある。それは、病む者たちが、いずれも過去の時間に囚われているということだ。『ホテル・ザンビア』の美麻子は佐伯との記憶を、佐伯は学生運動の記憶を、『みんな月へ…』の「私」は父との記憶を反芻し続ける。
 もっとも分かりやすく症状が表出しているのは、『夏の腕』の祖母だ。

 (……)祖母の病的な驕慢さを知らないものはいない。かつてその町のほとんどの土地を祖母の父は持っていたという。栄華の時代を気ままに過ごした祖母にとっては、戦後のほうが幻だったに違いないのだ。祖母はまだ、遠い栄華の時間の延長線から、自分自身を切離すことができないまま生きていた。没落を物理的には享楽していたとしても、誇りにおいてそれを信じてはいなかった。父も母も、私でさえも「大奥さま」と呼ぶ街の人々の敬いの言葉の底に、小気味よい侮りが潜んでいるのに気づいていた。それを知らなかったのは、ただ一人祖母だけだった。戦後が始まった日から、祖母もこの家も、人々の視線の中でいびつに歪んで映っていたのに、祖母は眼前の現実を絶えず追払おうとしていたのだ。
 祖母は君臨だけを愛した。過去のすべてがもはや姿を失ったはかない夢だというのに、いつでも玉座を忘れなかった。無効になった土地の証文と、古めかしく黄ばんだ系図だけで生きられる人だった。
(二〇五頁) 

 小説に流行する病は、それは「もはや姿を失った」過去から「自分自身を切離す」ことが出来ず、「眼前の現実を絶えず」否認するものだ、と要約出来る。『ホテル・ザンビア』の学生運動で「燃え尽きてやってきた一人の男」佐伯と最初に対面した美麻子は、「存在そのものを恥じているようなところ」を感受する。佐伯が恥じる存在とは、否認すべき「眼前の現実」をだらしなく許容し、のうのうと生きている現在の自分だ。

  学生運動の嵐にもみくちゃにされた日々が夢のように思われる。あれは果して自分の意志だったのかどうか。
(……)"闘いとは持続することだ。情熱とは狂気のエネルギーのことだ"と書いた佐伯の友人の自称詩人は、詩を捨てて役人になった。そして彼は、子供や妻や、日常のつつましい風景を細々と書いている。彼等の会話から、抵抗への熱意もなくなり、会話そのものが風俗となった。あるとすれば、悲哀だけだ。
 佐伯の周りで、終ったという実感もなく何かが始まり、それは何の抵抗感もなく肉体を包み溶解させる。それはまた、見えない不快な壁でもあった。
 何が終わったのか、何を奪ったのか、はたして奪ったものはあったのか。否、力の限りと信じたものが、確かに力の限りあったのかどうか。燃えつきたのはいったい何なのか。
 とにかく大学を卒業すること。その生活の隅々に、曖昧で不快な悲哀が漂い、佐伯はそんな自分と、平穏な周囲を軽蔑した。軽蔑にはどこか、自分自身を安心させるものがあった。拉致されないで平穏な生活に舞い戻った己への懲罰のようでもあった。軽蔑の中に見える風景は、別の世界だった。佐伯は自分が、意味もなく肥った豚になったような気がした。その豚はこれまで"幻想の砦"という餌を食べていたのだ。飢えの中で食べる餌は甘く、悲愴なほど心を満した。肥る必要はなかったのだ。それが今、不必要に肥っている、どこでどう転換が行われたのかも見当がつかない。
(三十四-三十五頁)

 佐伯の「学生運動」への想いは複雑だ。整理しなくてはならない。それは第一に、「自分の意志だったのかどうか」正確に思い返せない不安であり、第二に終わりの実感を持てない未燃焼の感触であり、第三に何事もなく「平穏」が始まることへの不気味さであり、第四に運動の目標そのものが「幻想」であったのではないかという後方視の疑いである。『夏の腕』の祖母は、過去の栄華を「はかない夢」とは思わないだろう。だから「自分自身」を「遠い栄華の時間の延長線」に位置付けることが出来る。佐伯の病型は、さらに複雑な症状を呈している。佐伯は「眼前の現実」を否認してはいるが、一方で学生運動という過去もまた、「はかない夢」としか思えない。「時間の延長線」において、(それこそ「大奥さま」を演じる祖母が、未だに女中・静子を雇い続けるように)実現困難な運動を継続する素振りを演じることも出来なければ、「現実」の自分への「恥」から免れることも出来ない。旧家の祖母は、静子という手頃な虐待の相手を見出してのうのうと生き続けることは出来るが、故郷を捨てた佐伯にはそのような選択はあり得ない。
 重要なのは、この恥ずべき現実の延長線が、生殖すなわち「系図」と結びついていることである。それは「役人」が最初に書くのが「子供や妻」であるのにも示唆されているが、より決定的なのは、学生運動時代の恋人と再会する次の場面だ。

 そして佐伯は思った。そっくりの女と結婚し子供を持ち、希望も後悔もなく生きている未来を。それは決してやってはこない未来のように思われ、思いがけずたやすく手に入れることのできる未来のようでもある。佐伯はふと、こうして女と何年も向きあっているような気がした。ささやかな家庭を持つ夫婦のように。佐伯はいつの間にか幻影に向って微笑みかけていた。
 大学を卒業した佐伯は、希望通りの町の高校に採用された。故郷へ帰る気は毛頭なく、東京にいたいとも思わなかった。佐伯は自分が、すでに余生を送るともいうべき場所を探していることに気づいていた。祭りも、あらゆる裏切りも終っていた。闘いというべきものに出会うことはもうないだろう。希望などないのだから、失望もあるはずがなかった。どんな場所であろうと生活になじみ、生活はまた、場所にふさわしく消化されてゆくだろう。
(三十九頁) 

 結局祖母が我儘を通せるのは「土地」と「系図」(=家系の力)を手にしているからだという事実は、故郷を捨て、女と結ばれない佐伯が自殺するという結末においては見逃せない。長々と引用するわけにはいかないが、本書で最も魅力的な部分が町や海や画廊の描写であり、「土地」の力こそ小説を輝かせていることも考えないわけにはいかない。父母との確執、あるいは祖母から孫娘への溺愛が重大な小説の推進力となる表題作以外の二作を鑑みれば、『ホテル・ザンビア』は、過去という幻への偏執をめぐる物語ではあるが、土地と系図についての小説でもある。

 いったい佐伯は、町とどういう関わりあいをしていたのだろう。美麻子は、佐伯が町に死をみていることを知っていたし、それが佐伯の気に入っていることもわかってはいたが、あの町のどの部分がそれほどまでに佐伯の心を魅きつけているのか、知ることはできなかった。
 美麻子は佐伯の生まれた町に着き、一目見ただけで理由がわかったような気がした。山と川に囲まれた小さな町は、美麻子の住む町とそっくりだった。眠りのなかに漂う町、活気を失ってすでに久しい町。
「ひとつが去れば必ず何かが始まっている。しかし、同じことなんだ。同じことを繰り返し、同じような場所をぐるぐると回っているだけなんだ」と佐伯は言ったことがあった。
「そして、同じようなものだと気づかないで逃げる。同じところを逃げ回る。このめめしさはいったいどこからくるんだろうか。そして新鮮さとは、どういうことなんだろうか」
(四十八頁) 

 佐伯と死別した美麻子が、現在の夫婦生活に対して「もう熱心にはなれない自分への罪悪感」(十一頁)を覚えるとき、それは佐伯が己の存在に抱く「恥」に近似している。束の間の鎮痛剤じみた変化の後に、結局は「同じような場所をぐるぐると回っているだけ」と気づく事態を、おそらく「けだるさ」(同頁)あるいは倦怠と呼べるのだろう。
 美麻子が罪悪感を感じるのは、夫ではなく「自分」に対してである。恥とは、もっとこうあるべきだった、という「自分への罪悪感」とも読み解ける。佐伯への片恋が終わった後の「日曜日」に美麻子が覚える「軽い傷み」の感触と、学生運動後の空無に佐伯が抱く「恥」とは、同じ自分への罪悪感で結ばれている。だからこそ、美麻子は夢のなかで、遠い佐伯の「恥」に触れ合っている。強引な字の解き方ではあるけれど、「情事」(六十頁)から、情の交わり、と言い換えてもいいだろう。別の言い方をするなら、異界の佐伯との「情事」を描いた『ホテル・ザンビア』の幻想が、単なるご都合主義ではなく、ある種の切迫感とリアリティを伴っているのは、この「罪悪感」で二人を結び、かつ学生運動と佐伯への片恋を、同じ「情熱」の次元で読み解いているからだ。

 佐伯は、かつての仲間の一人で、佐伯の恋人だった女子学生の言ったことが忘れられない。
「あれは、私にとっては通りすがりの男とのセックスと同じよ。行きがかり上の情熱ね」
 佐伯はそれを聞いて大声で笑った。哄笑しながら、いったい何に向って笑っているのかわからなくなった。女はこれだからイヤだ、と軽口を叩くつもりが、凶暴な笑いに変り、いつまでも笑い留めることができなかった。女は困ったように笑っていた。うしろめたく小さく笑っていた。それがさらに佐伯の笑いを煽り立てるのだった。
(三十六頁)

 この学生運動評への佐伯の「凶暴な笑い」は重要だ。学生運動を「通りすがりの男とのセックスと同じ」と評されたとき、佐伯は「哄笑」するばかりで、何の反論も出来ない。出来ないとするのがこの小説だ。学生運動に従事する「熱心」と、美麻子が佐伯を恋慕する「熱心」とは、厳密に区別が出来ない。美麻子が佐伯を想う心はまさに「行きがかり上の情熱」でしかないが、次の説明は、そのまま佐伯に当てはまらないか。

 十八歳の時、まぎれもなく美麻子は恋をしていた。それまでのどの恋とも似ていない。初めての片恋だ。正確に恋が始まったのは、佐伯がその町の高校に赴任してきた十七歳の春だった。感情の動きを常に文学的に捕える性癖を持っていた美麻子は、佐伯を一目見た時に、何のためらないもなく佐伯と自分とを"運命"という言葉で結び付けてしまった。自分の感情の激しさと移ろいやすさを持て余していたその頃の美麻子にとって、恋は退屈しのぎの戯れでしかなかったのだが、佐伯に恋し始めた途端に、自分の新しい恋が悲壮ともいえる熱っぽさを備えていることに気づいた。美麻子のそれまでの恋人は、ほとんどが年の差のある男たちで、美麻子の恋をさらりと受け流し、愛してもいないくせに愛するふりだけはうまい術にたけていた。当の美麻子自身が無邪気に"恋はゲームだ"と豪語しているところがあったので、どの恋も醒めればあとくされもなく、どこにも危険な熱意は存在しなかった。もともと、早く町を出ることばかり考えていた美麻子にとって、当座の退屈がしのげければそれでよかったし、年の差のある恋人たちは肉親のような愛し方をしたので、関り方に生臭いものが生じることもなく、さらりと乾いた形のままで終ることが多かった。美麻子にはそれが不満だった。美麻子は激情ともいえる関り方を欲していたのだ。それがいつも恋に裏切られてしまう。
 美麻子の恋心を、炎ではなくボヤだと言ったのは、最後の恋人だった画家だった。
(二十五-二十六頁) 

 「炎」と「ボヤ」を厳密に区別することは難しい。それは「通りすがりの男とのセックス」と、「学生運動」の情熱との差異を区別する程度には難しい。「詩人」が語ったような、「持続」の有無では鑑別出来ないだろう。過去の佐伯の熱情がどういったものかは、他ならぬ本人が記憶に蓋をしているから、作中の記載ではわからない。ただし、そこには「悲壮ともいえる熱っぽさ」を宿っていたのではないか。それは「炎」だったのか、それとも「ボヤ」程度でしかない、単なる「行きがかり上の情熱」だったのか。いずれにせよ、それは「炎」だと言い返すことも、確かに「ボヤ」だと同調することも出来ないから、佐伯は痙攣するように「凶暴な笑い」を繰り返すしかないのである。
 見逃せないのは、ここで「女」もまた「うしろめたく」笑っている、ということだ。これは女が「もう熱心にはなれない自分への罪悪感」を覚えたから後ろめたいのではなく、佐伯が予想外に「哄笑」したから罪悪感を覚えるのである。もし最初から自分に罪悪感を覚えているのなら、そもそも女はこんな台詞を恋人相手に口にすることはないはずだ。
 美麻子の「最後の恋人だった画家」は、「オマエさんはボヤを火事だといって大騒ぎをしている」と言い残して去る。「女」が佐伯に投じた言葉は、この「画家」の語彙を借りるなら、佐伯の「火事」を「ボヤ」と縮めて表現したようなものだ。当の佐伯自身すら、もはやそれが「火事」か「ボヤ」か思い出すことが出来ない。忘却は自己欺瞞に近いだろうが、正確な記憶は罪悪感を心の限界から溢れさせるだろうから、やむを得ない防御策だろう。 
 その「哄笑」する他ない自己欺瞞に、佐伯の「爛れた」「傷口」(三十四頁)に触れたとき、女は罪悪感を覚える。

「あなたは卑怯よ。こんなに愛しているのに。あなたこそ魂のない情婦。あたしの恋人はそんなのじゃない。でもあたしには、その恋人の心が見えないの。でもあたしには、その恋人の心が見えないの。どこまで行ってもあたしと恋人は出あわない。近づいたと思うと遠ざかり、情熱だけが病気のようにあたしの中にはびこってゆくの。(……)」
「それを世間では片恋という。不毛の情熱だ」
(四十六頁) 

 美麻子が佐伯に片恋するように、佐伯もまた運動に片恋している。「同じようなものだと気づかないで逃げる。同じところを逃げ回る」動作を、佐伯が「めめしい」と評したのを思い出さなくてはならない。
 恋愛と運動を同じ情熱の次元で読み書くことは、小説では適切な技法かもしれないが、現実には倫理の問題があるだろう。確かに恋愛のために死ぬ者は、革命のために死ぬ者のように、情熱の死者であることには変わりない。しかし、そこから遡って、恋愛と革命とを同じ情熱の範疇で語ることには、些か無理がある。片恋に挫折する美麻子は、結局、佐伯のように自死を選ぶのではなく、倦怠はあれど平凡で幸福な日常にたどり着いているからだ。
 少なくともそこに無理がある、と感じなければ、この小説の切迫した筆致はあり得ない。だから、これは自分でも辟易するほど乱暴な読みではあるが、この「女」の「うしろめた」さとは、私は他ならぬ稲葉真弓自身の「罪悪感」だったと思う。しかし一方で、小説内のどこにも書いていないことだが、革命を仮に男の仕事に見定めるなら、それを「めめしい」恋愛の次元と同列に置くことは、一九八〇年においては、ひとつの定型への挑戦だったのではないか(発想としてはマッチポンプ式の読みだが)。「闘いの女神のように見えた女子学生の多くは、鎧を脱ぎ捨て、かわりに生殖用の衣装をまとい屈託なく佐伯の前から去っていった」(三十五頁)と小説が記すとき、同じように「屈託なく」「去っていった」はずの男子学生への言及は消えている。佐伯は心中で「彼女たちとそれを見送る自分とをせせら笑」うが、ここで男だけが革命の担い手であるように見なすのは、事実の読みとしては間違いだろう。しかし、『みんな月へ…』の女たちが揃って煙草に火を点け、『ホテル・ザンビア』の冒頭が次に引く美麻子の喫煙描写から始まることを思えば、やはり革命への情熱を「片恋」と並列して書くのには、理由がある気がしてならない。

美麻子は目ざめてから、ベッドに半身をもたげて裸の腕を顎にあてがい煙草を喫う。風邪をひくと必ず気管支炎を併発する体には煙草は禁物だったが、この寝起きの癖はどうしても止めることができない。頬をくぼませて煙草を喫い、煙を長く吐出す。その煙い方を、夫の信吾は男のようだと言っていた。ただ、指が細くて長いので、美麻子には煙草がよく似合う。煙を吐出す時の瞳を細める癖や灰を落す指の仕種に、三十年以上生きた女の、けだるい甘さが漂う。煙草をくわえながら鏡に向っている時、ふと美麻子は鏡の中に三十数年目の女の実在感を見出すことがある。
(十頁)

 この描写は何気ない。だが、夫が「男のようだ」と評する煙い方こそが、「鏡」を介して「女の実在」の証に転じるとき、それは男の革命への熱意が、女の「片恋」のように読み替えられる動作と、決して遠い距離にあるものではないと思う。

黒い字の音楽 木村紅美『黒うさぎたちのソウル』について

 

黒うさぎたちのソウル

黒うさぎたちのソウル

 

 「島」の小説は難しい。木村紅美は水に重きを置く作家だろうから、川や岬に、あるいは島へ行き着くのは必然だと思う。とはいえ、沖縄の小説は簡単ではなさそうだ。沖縄を書くとき、オキナワが置かれた抑圧を無視するのはひとつの欺瞞か、観光小説みたいなものだろう。だからといって、その抑圧を書くことは、小説を分かりやすくし過ぎてしまうように思われる節がないか。
 「オキナワ」と同じぐらい、嫌味な言い方をされてきたものに「ヒロシマ」と「ナガサキ」があると思う。林京子の『長い時間をかけた人間の経験』を読んだとき、この人が原爆作家としてひとくくりにされるのは間違いだ、と思った記憶がある(「ナガサキ」というか原爆の主題にあまり興味がない私でも、地を這う蟻の描写に感動した。『祭りの場』はずいぶん昔に読んだきりだけど)。どう考えたって「オキナワ」とか「ナガサキ」が題材だから取り組むべき問題が容易に見つかっていいとか、そんな話がまかり通るのはおかしい。そんなので小説が書けたら誰も苦労していないはずだ。
 木村紅美がオキナワを書いた『黒うさぎたちのソウル』は、小説としてまず緻密だ。非常に冷たい書き方だけれど、私はナガサキと同じくらい、オキナワに冷淡だと思う。それでもX-JAPANの「スレイヴ」と、複数の隷属とが重なり合う表題作の精巧さは、やっぱりマイスターらしい木村紅美の小説だと感動するし、どんな政治的パンフレットよりまず心情的に「問題」の存在を実感してしまう。
 隷属とは、第一に女の男への隷属であり、第二に日本と米国によるオキナワへの二重の抑圧だ(ただし、作中では奄美大島への沖縄と鹿児島の二重の抑圧の歴史が併記されている)。
 だから、『黒うさぎたちのソウル』とは「スレイヴ」の小説であり、オキナワの小説であると同時に女の小説だ。木村はこれまでも性差と社会制度に抑圧され、隷属させられる女を描いてきた。『野いちごを煮る』の女性-派遣社員はその典型だろう。だから、「スレイヴ」の女を書き続けることが、(本人が島好きなのはあるだろうけど)「オキナワ」への橋を渡るのは必然だと思う。
 もっとも、木村の書く女の隷属は、会社内での男女差別という社会的条件だけでなく、恋の「スレイヴ」であることにも起因する。『風化する女』のれい子さんが男たちの「スレイヴ」になるのが、会社と恋愛の二重の隷属によるのは、賛辞だけれど、残忍なぐらい冷静だ。木村紅美の女たちが恋の「スレイヴ」となるのは、おそらくはまず、ファン心理に近い。

 SUGIZOは、あたしたちが二人とも大好きだったビジュアル系ロックバンド、LUNA SEAのメンバーだ。バンドが終幕してからはソロ活動をしている。
 最近は茶髪にしていることが多いけれど、紅い髪だったころが好きだ。恋しい人の生首にキスをしながら惨殺されるビアズリーサロメみたいにあでやかに化粧して、再上等の葡萄酒の滴りを思わせる髪をダイナミックにふり乱し、エレクトリックギターを、ときにはヴァイオリンを弾く。顔は女の人のようだけれど、黒革のぴったりした衣裳に包まれたよくしなる身体は、適度な筋肉がついていて、男らしい。
 抱かれたら、どんなにか気持ちよいことだろう。夜ごと空想に耽ってしまう。紅い髪と、あたしのゆるいウェーブのかかった栗色の髪が、肩のうえで混じりあう。互いの汗ばんだ肌に貼りつく。溶けそうに思えるくらい愛撫しあう。あたしは、彼になら何をされてもよいし、何でもしてあげたかった。
(九頁)

 たとえば『風化する女』のれい子さんは、男が歌わなければ、果たして彼に弄ばれたのだろうか。
 このSUGIZOへの憧憬を書いた文章は、木村紅美の女たちが「スレイヴ」に至る道程が正確に描かれている。彼女たちはまず「髪をダイナミックにふり乱し、エレクトリックギターを、ときにはヴァイオリンを弾く」パフォーマンスに魅了され、続けてその演奏する「よくしなる身体」に目を転じ、「彼になら何をされてもよい」と誓いを立てる。
 思い返せば、木村紅美の女たちはいつもパフォーマンスを演じる者との恋に苛まれる。先んじて男のパフォーマンスに魅了された女が、その「身体」を「空想」し、やがてその人格に裏切られる。それが、彼女たちの定期航路だといっていい(『島の夜』の小百合さんも、まず父の「身体」に「抱かれたら、どんなにか気持ちよいことだろう」と「空想に耽っ」たはずである)。制作された映画がどうしようもない『海行き』は例外的だが、だからこそ男女の恋愛は成立しない。麻利の「無職」で暴力的な「元彼」であり、ストーカーと化した佐山先輩について、「軽音の元部長で、粘っこいハイトーンが魅力的なヴォーカリストだった。作詞作曲もこなし、悲壮な片想いや無理心中をテーマにしたオリジナル曲を演奏するビジュアル系バンドを組んでいた」から描写が始まるのは、実に自然な成り行きだ。「粘っこいハイトーン」がなければ、きっと「魅力」を覚え、「とつぜん理由もなく殴ったり蹴ったり、ひんぱんに暴力をふるわれるように」なることもなかったはずなのだから。
 男の演奏がしばしば木村文学での恋愛の端緒となることを鑑みれば、『黒うさぎたちのソウル』は単行本化された小説のなかでも特異な位置を占めている。
 作品の中核を成す演奏は、佐山先輩やSUGIZOや敬太といった男ではなく、女の昇奈保子が引き受ける。男との恋愛から、女との友愛へ、では安直な読みだろう。小説のラストナンバーを奏でるのが、「美しく化粧してフリルだらけの衣装を着た男の子たち」であり、女たちがその「内側から輝いている」肌を凝視しているのを見逃すわけにはいかない。それでも、同じ音楽のもとに集った二人の女が、再会と共に新たな友愛を結び直す『見知らぬ人へ、おめでとう』を思い返したとき、『黒うさぎたちのソウル』に連続するものを読まずにはいられない。そしてこの文脈で読む限り、「音楽雑誌」の「コスプレした人たちの写真」において、「黒うさぎの耳つきカチューシャをはめ」た昇奈保子と「恋人同士のごとく寄り添」う「SUGIZOそっくりの切れ長の目をした美形」の十六歳が、「彼氏」ではなく「男装した女の人」なのは必然だ。そもそもSUGIZOからして、「あでやかに化粧」した「ビアズリーサロメ」なのだから。
 男を装う女、そして「女の人」に見紛う男という二つの扮装が許されるのは、性差から一時解放される世界でもある。木村紅美の小説は、もちろんそこで永遠に夢の中に浸るわけではないし、友愛から同性愛へ移行するわけでもない。『黒うさぎたちのソウル』では、「スレイヴ」同然に抑圧され、性的暴力を振るわれる女たちが繰り返し描かれるのだから。現実に性差と抑圧があるからこそ、
 その現実を束の間だけ忘れられる「サロメ」の、あるいは「フリルだらけの衣装を着た男の子たち」の演奏が光輝くのだろう。

 

 「ソウル」について触れなくてはならない。昇奈保子の唄が「ソウル」を感じさせる場面は複数あるが、もっとも重要なのは体育館でふたつの島唄を歌う場面だ。
 最初の『かんつめ節』は、「身売りされて一生働かなきゃならなかった」「奴隷」の女=かんつめが、「となりの村の男と、身分ちがいの恋に落ち」「嫉妬した主人と奥さん」の虐めに耐えかねて首を吊る唄だ。「フクロウやコオロギが啼く森の夜の奥深く、ガジュマルかアダンか、木の枝からぶら下がって死んでいるかんつめに取り憑かれてゆく」と「むかしの島」へ想像で渡るとき、取り憑くという動詞に、まさに「ソウル」=霊魂にそっと目をやっていた過去作品を思い出しはするが、だとしても、性別と身分の二重の抑圧を受けるかんつめに木村が辿り着くのは、『野いちごを煮る』を思い返せば予想の範囲は出ない。むしろ重要なのは、続く『塩道長浜』だ。

 「(……)どこかの島の唄にね、言い寄ってきた男を、女がこらしめようとして、足に馬の手綱を結びつけたら、馬が走り出して。彼はボロ切れのようになって死んでしまった、っていうのがあるよ」
 (……)あたしは頭を打ち砕かれ血まみれになった男の死体が波打ち際に横たわっている光景を思い描いた。恨めしそうな表情を浮かべた目玉が黒ずんだ眼窩から転がり出ている。やがてちいさな蟹たちがわらわらと群がってきて、屍肉を食い荒らすのだろう。ふるえあがりながら、口角が上がり、凍りついた気持ちとは裏腹に笑いそうになった。 (……)
「ストーカーだったのかな。よっぽどしつこくて、女が殺されそうなほどの身の危険を感じてたなら、正当防衛っていうか、しかたないかもしれないね。(……)いつか小学生の女の子を暴行した奴らもさ、吊るしあげられるっていうか、それくらいの目に遭えばいいのにね」
「そうよ」
(六十一頁)

 オバァから『塩道長浜』を教えられる上記の場面は佐山先輩と別れたあとだから、麻利が「ストーカー」を持ち出すのは彼が理由だろう。ここでは「ストーカー」と米兵による小学生女子への「暴行」は同列に書かれるし、さらに「暴行」には戦中の「ヤマトの男」から「沖縄の女」への「ひどいこと」が折り重ねられる。これは「スレイヴ」が二重の意味を織り込まれるのと、技法として似ている。奈保子の唄を聴き終えた敬太は、ビリー・ホリデイの『ストレンジフルーツ』を思い出したという。

「ストレンジ……何、それ」
「リンチに遭った黒人が、木から吊るされて死んでる光景を唄った曲だよ。ジャズっていうかブルースっていうか、ソウルミュージックっていうか。おれの姉貴の彼氏がプロのバンドマンなんだけど、そっち系の音楽のマニアで教えてくれたんだ」
「黒人かぁ。奄美の人ってね、むかし、薩摩の代官に、砂糖を作るための家畜だなんて言われてたんだよ。牛とか馬みたいにこき使われて、売買もされて。そんな苦しみや悲しみから生まれた唄が多いの。案外、似てるかもね」
(……)
「(……)今日の唄は、ソウルを感じたよ」
(六十八頁)

 『黒うさぎたちのソウル』で繰り返されるのは、ひとつの概念やモチーフに、時間や人を越えた、複数の意味と記憶を折り重ね続ける作業だ。歴史、と言い換えてもいいのかもしれない。
 単語の意味を決定するのは文脈だが、幾筋もの文脈が束ねられることで、たとえば「スレイヴ」や「ソウル」といった何気ない語に(ただし、それらは明確な意図をもって、奴隷や魂とは表記されない)この小説固有の意味が花開いてくる。奈保子の『塩満長浜』を聴いた麻利は、「あちこち破れかけたみすぼらしい着物の内側で股間を焼け爛れさせ、ぶら下がって死んでいる女の姿」を幻視する。これは引き裂かれた「ストーカー」ではなく、「オバァのとなりの家に住んでいた親切なお姉さん」が、「日本兵」に暴行され、「股間に銃剣を突っ込まれた死体」となった、という語りに由来する。これも、『塩満長浜』という島唄に、ストーカー=佐山先輩という男から女への抑圧、そしてアメリカと日本の二重の抑圧(米兵と日本兵の暴行)が束ねられたが故の情景だ。もちろん「股間に銃剣を突っ込まれた」とは、性-暴力の傷の徴だろう。
 これは、単に小説的な飛躍だろうか。そうではないことは、慎重に読み進めれば分かる。他ならぬ作者が沖縄について語るどんな言葉よりも、この小説は明晰に「オキナワ」を物語っている(私はそういう小説家が好きで仕方がない)。ストーカーと、二国の兵士の暴行と、黒人奴隷とが一曲の島唄に束ねられるということは、同時に作家が、こうした暴力と抑圧を同じ次元から見続けることを意味しているはずだと思う。だから、『野いちごを煮る』の女性派遣社員と、『黒うさぎたちのソウル』の時と場所は異なれど、抑圧においては在り方を共にする女たち(と、本来は出来ない束ね方を可能にするのが、小説の力だろう)は、連続している。『塩満長浜』の幻視の下りを、もう一度引こう。

 あちこち破れかけたみすぼらしい着物の内側で股間を焼け爛れさせ、ぶら下がって死んでいる女の姿が、脳裏いっぱい、まざまざと映し出されたのだ。血が痩せた小麦色の腿を伝い、裾をどす黒く染め、木の根元に流れ落ちては吸い取られる。
(七十二頁)

 血は赤ではなく、「黒」なのだ。それは銃剣をねじ込まれた沖縄の女の「黒」であり、リンチに遭った奴隷の皮膚の「黒」であり、奄美の「スレイブ」の歴史とも繋がる黒糖の「黒」(五十三頁)であり、麻利を拉致しようとする佐山先輩の車の窓の「黒」であり、抑圧の纏う色だ。同時に「出っ歯のブス」と陰口を叩かれる奈保子がインターネットの仲間と被るカチューシャの「黒」であり、佐山先輩から逃れた麻利が、自分を救ってくれた奈保子のライブに貸す「自慢のヴィヴィアン・ウェストウッドのロッキンホースバレリーナシューズ」は、色の明示はされていなくても、「黒」に違いないはずだ。それは、抵抗の纏う色でもある。そういえば、と接続するのは白々しいけれど、小説はいつも黒字で書かれるはずだ、と最後に余計な補記をしておきたい。

淵を渡る祝福 木村紅美『見知らぬ人へ、おめでとう』について

 

見知らぬ人へ、おめでとう

見知らぬ人へ、おめでとう

 

  木村紅美の小説の基調音は別れであり、『風化する女』から水辺はいつも告別の場所である。『花束』の海沿いの崖は現実から遊離出来る場であり、小説はそこから故郷を後にする。別れは第一には恋愛の別れであり、第二には死の別れであり、第三は疎遠の別れである。他愛ない疎遠の別れが、死別に等しい絶対性を帯びる瞬間を書いた最初の作が『海行き』であり、単行本なら『イギリス海岸』に相当する。
 表紙には、隅田川に架かる橋が描かれている。思えば木村紅美の小説には水辺はあったが、「橋」がなかった。それは、木村紅美において別れは絶対的であり、再会の余地に乏しいことと無関係ではないのかもしれない。『ソフトクリーム日和』のように、再会はむしろ過去との差異を、そして静かな幻滅や再度の別れを予感させる出来事でしかない。通じ合う可能性がない、とも言える。
 『見知らぬ人へ、おめでとう』は、『月食の日』より明瞭に、木村紅美のひとつの転換点を示している。「橋」の出現である。表題作は堕胎の罪悪感を主題にした小説だが、木村は、死者の彼岸から此岸を見返すことで主人公を罪の意識から救い上げている。これは、『風化する女』で海を前にして、れい子さんとの絶対的な断絶を実感した瞬間とは真逆である。『見知らぬ人へ、おめでとう』が木村紅美の作品群において特異なのは、別れの絶対性、思考や想像力の及ばない水辺、断崖を前に足を止めるのではなく、いわば「橋」を渡るように、別れの先へ眼を凝らした点にある。この橋は、『黒うさぎたちのソウル』で、奄美大島の古謡の世界や、沖縄で戦死した女の「ソウル」と呼応する場面に続いている。
 死者の彼岸から生者の此岸を見返す身振りは、次の水上バスでの描写で簡明に説明されている。

 水上バスがエンジン音を轟かせ桟橋からはなれると、心のなかで口笛を吹きながらプルタブをあけた。地上は暑いけれど、水上は風が吹き抜けて涼しい。レインボーブリッジに背中を向けビールを飲み始めた。左側には高層ビル、右側には工場が建ちならんでいる。やがて波を立て走り始めた。一つめの勝鬨橋が迫ってきて、見あげると笑いそうになり、首をすくめた。浅草に着くまで、橋を十いくつかくぐり抜ける。吸い込まれる瞬間が好きだ。ひんやりと薄暗くなって、エンジン音が橋げたにこだまし、昆虫と化してもぐりこんでゆくみたいだ。接近してくるのを、いつしか心持ちにしている。
 (……)陽ざしをはね返しぎらつく中央大橋と、佃島にそびえる硝子細工みたいな高層ビル群を水上から見あげているうち、灯子はだんだん、地上は現世で、水上バスで現世からゆっくり引き離されていくみたいに感じだした。
(十六、十七頁) 

 小説はこのあと逝去した祖母をめぐる回想へと、現在から「引き離されて」いく。眼を惹くのは、「昆虫と化してもぐりこんでゆく」という人ならざるものへの視点の転換だ。「地上は現世」なら、水上は現世ならざる場所である。現世から引き離された、人ならざるものの眼で地上を見返すこの動作は、『花束』冒頭の水原あおいが、海底の骨の目線から地上の自分の孤独を思い返し、密かに心を慰める身振りに似ている。
 そもそも『見知らぬ人へ、おめでとう』の飯島灯子が「突然、思いたって半休」を取ったのは、「地上」の「きらいでたまらない」「制服」を支給される会社で、「雲」を眺めているときだ。どうにもならない現実を主題にした本書の収録作は、それまでの木村紅美の小説と比べても、鮮やかな「雲」の描写が目を惹く。この「雲」を眺める目線は現実逃避であり、田舎への嫌悪、東京への憧憬も入り混じった『花束』の目線とさほど変わらない。ただし、『見知らぬ人へ、おめでとう』の飯島灯子のこの目線は、やがてはもう一人の主人公であり、経済的問題から第二子を堕胎した原田未央の心を救い上げる。灯を点すから、灯子なのだろう。

 「(……)ひと晩じゅう、考えちゃったんです。寝られなくなっちゃった。産める機能を持っているのに、産まないでいるのって、もしかして、生まれてくるかもしれない子どもを殺してるのと、同じことなんですかね?」
(……)
 ――孕んだことさえないらしい女が、自分と同じことを考えている。
「……殺しているって、産まないことが、ですか?」
 おもむろに向きなおると、声を低め訊き返した。イイジマさんはまばたきし、何度もうなずいた。
「うん。……特にね、おばあちゃんやおじいちゃんといっしょにいる子どもを見かけると、揺さぶられる、っていうか。私は、このさき、両親を、おばあちゃんにもおじいちゃんにも、してあげられないかもしれないわけじゃないですか。それって、孫を最初から殺してるのと、同じことなのかな、って思って」
「そうね。殺してるって、言えるかもね。それなら、避妊だって、人殺しだよね」
 またコーヒーを啜ると、自分にも言い聞かせるようにつぶやいた。
「そうかもね」
 反発されそうな気がしていたが、受け止められた。二人とも殺人者だ、と言い聞かせたら、未央は胸のうちが凪いだ。自分は孕んだことのない女と同じだ。それなら罪は犯していない。
(八十一、八十二頁) 

 この解釈は、現実と可能性の世界を等価と読むときにしかあり得ない。可能性の世界とは、現実から遊離した、頭の中の異界だろう。可能性の世界に渡って、そこから現実を見返せば、孕んだ子の堕胎と、孕むかもしれない子を孕まないことは等価の過ちになる。
 これは、現世ならざる水の上へ船で渡り、そこから地を見返す眼差しとパラレルである。あるいは、百人が集う結婚式場に、こんな夢を視る目線と。

 もしもいま、真上からジェット機や爆弾が落ちてきたとしたら、きっと、みんな、逃げまどう余裕もなく、会場ごと一気に燃え尽きるだろう。焼け跡には、骨と歯と溶けなかったアクセサリーと携帯だけが重なりあって散らばる。――だれのものかなんて、まるっきり、区別がつかなくなるだろう。
(九十頁) 

 人々が等しく焼死体と化し、「だれ」の区別もつかなくなった場所は、凄惨ではある。けれどそこには、個体の苦しみ、煩わしい現世から解き放たれた静けさがある。これは『花束』で水原あおいが水死体として分解された、海底の静けさでもある。焼け焦げた後に、「骨と歯と溶けなかったアクセサリーと携帯」を眺め直せるのは、まさしく「骨」の目線だろうから。ただし、木村紅美の小説には、「雲」を見上げる逃避の視線があるにしても、いつも空想で「死体」になるか、あるいは「船」で渡る、通過の手続きが必要になる。ごく素朴に、それが逃避でしかないことは、他ならぬ主人公たちがいちばん痛切に理解している。逃避は束の間の慰めかもしれない。しかしその微細な救いこそが、日常を辛うじて生き延びさせてくれるのも事実だ。
 『見知らぬ人へ、おめでとう』の「だれ」の区別もつかぬ焦土は、膣から産み落とされる以前、羊/水の世界、にも繋がっている。

 すでにかなり迫り出しているはずのおなかは、たくしあげられたスカートのふくらみと、耳に挿されているのと同じ、象牙色の百合が主役のブーケに上手く隠されている。いまたしかにその向こうに息づいているはずの、出来なかったかもしれない赤ちゃんと、殺されたのではなく生まれたくなかったのかもしれない赤ちゃんに向かって、未央はもういちど、さっきよりはっきりした声で呼びかけた。
「おめでとう」
(九十四頁) 

 大学時代、飯島灯子は一度だけ会ったことのある原田未央に「ついこないだも、お母さんと電話してて、つまんなことでケンカになってさぁ。うっかり、私はいっそ、この世に生まれてきたくなんてなかったんだよ、って怒鳴っちゃった。どうして、私なんか産んだんだよ、って」「私はもう、しかたなく生まれちゃったけれど、おなかのなかにいるときにさ、あなたは生まれたいですか、生まれたくないですか、って訊かれていたとしたら、たぶん、きっぱり、生まれたくありません、って答えたと思うんだよね」(六十五、六十六頁)と語っていた。
 原田未央は「はあ、と気の抜けた返事」をするばかりだが、原田未央の救いはこの再会から喚起された回想に萌芽しているし、より語を絞るなら「生まれたいですか、生まれたくないですか、って訊かれていたとしたら」の「したら」の仮定法にある。実際にはもちろん「おなかのなか」に問い合わせなど出来なくて、あくまで想像の橋を渡っているに過ぎない。二十歳で飯島灯子が渡ったその橋を、理屈からすれば「子どもっぽい」(六十五頁)だけの話法を心に想い起こしたとき、原田未央は子どもが「生まれたくなかった」可能性に歩み寄ることが出来る。胚芽はものを考えられないから、これは単なる心の慰めに過ぎない。けれど、堕胎を殺人の罪過と見なしてしまったとき、自ら赦しを与えられる、確かな論理でもある。
 二十歳ならば、誰でも心中に呟くような他愛ない言葉だ。だからここに奇跡があるとすれば、言葉の内容ではなくて、はるか過去の言葉を現在という時間にまで汲み上げられた、その回想の力だろうと思う。併録作の『野いちごを煮る』もまた、交わるようですれ違うだけだった同郷人の、何気ない野いちごの挿話から「明日目ざめたら、突然、ぜんぶが宝石みたいにきらめく野いちごの花束に変わっているところを思い描いた」(百六十一頁)とき、断絶していたはずの人に「電話」を鳴らし、「声」で繋がり合う物語だ。自分のなかに埋もれていた記憶が、平凡な再会によって掘り起こされたとき、たとえ幻のような一瞬の光であっても、日々にわずかな慰めをもたらすのであれば、それは祝福と呼んでもいいのかもしれない。
 他ならぬ自分の羊水に浮遊していた「生まれたくなかったのかもしれない赤ちゃん」に向けて、「おめでとう」と祝福することは、何を含意するだろうか。それは単に「希望のまま、生まれないままでいれて、おめでとう」という、心の慰撫を交えた、斜に構えた祝福だけではないと思う。まだ胚芽でしかないもの、未だ個の芽生えていない胎児と、かつて自分が孕んでいた者とに「だれ」の区別をつけないということだ。新婦の胎芽と、自分から離した胎芽とを、ともに人になろうとする可能性の萌芽として等しく読まなければ、この祝福はあり得ない。羊水という水辺に向かって、新婦に妊娠された子に、「妊娠しておめでとう」と祝福し、そしてたまたま別の腹に在るだけで、もしかすると自分が孕んでいたかもしれない子として「生まれずにいておめでとう」と同時に片側で祝福するとき、同時に地上では、新婦であるエリーに、そして未央自身もおそらくは意識せずに、他ならぬ自分を救った自分への祝福を唱えている。だからこの水中の「見知らぬ人」への「おめでとう」は、同時に地上への二人の女の祝福も兼ねた、四重の祝福だろうと思う。
 表題作は、最後の一文で飯島灯子と原田未央を「似たもの同士」(百頁)と評している。何気ないけれど、木村紅美の小説でここまで語り手=作者が前にせり出してくる瞬間を、私はこれ以前の作で知らない。堕胎した原田未央が、妊娠しないままの飯島灯子、結婚式の服装もまともに整えられない彼女とを「似たもの同士」として縫い合わせるには、可能性の世界に渡らなければあり得ない。
 堕胎と孕まないことには、本来絶対的な断絶がある。少なくとも、『見知らぬ人へ、おめでとう』以前では、間違いなく海ぐらいの深い淵があったはずだ。けれど、原田未央が飯島灯子の苦悶を自分のそれと縫い合わせ、二十歳なら誰でも心中で呟くような他愛ない言葉を現在にまで汲み上げたとき、たとえ堕胎の告白がなくとも、ふたりは「似たもの同士」になれる。そのささやかな形容こそが、『風化する女』から別れの淵の水深を測り続けた手が綴る、最高の「おめでとう」のはずなのだ。だって小説は、誰よりもまず、作者にとって「見知らぬ人」の物語なのだから。

記憶への歩調 木村紅美『月食の日』について

 

月食の日

月食の日

 

  小説の描写とはどういうものだろう。大袈裟な問い方になるけれど、素朴に考えるなら、描写とは次の書き出しのようなものだ。

 有山隆の暮らすアパートの外壁は、卵色、という呼びかたの似合う淡い黄色をしているらしい。
「このアパート、卵色、って感じだよ」
 と隆に教えたのは、以前、交際していた路子だ。
「美味しそうな色。角のケーキ屋で売ってるレモンのムースにも似てる」
(七頁)

 有山隆は盲人である。アパートの壁が卵色だと保障してくれるのは、かつての交際相手が「教えた」言葉だけだ。これは人が小説に触れるときの条件に近似している。「有山隆の暮らすアパートの外壁は、卵色、という呼びかたの似合う淡い黄色をしている」と「教え」られる限りにおいてのみ、アパートの外壁は卵色だ。そこを、一人称や二人称ならともかく三人称でひっくり返すことにはさほどの面白みはなくて、卵色、と書かれれば卵色でしかない。だから、小説のこの書き出しは、小説の描写とはどういうものかを端的に表している。格好つけた書き方をすれば、それは「教え」である。
 教えには、教えられる側の許可が存在している。アパートの外壁は卵色かどうかなんてわかりはしないじゃないか、と読む側が拒んでしまえば、もうそこで言葉は止まる。小説は、書く側が教え、読む側が教えられるという、ひとつの黙契のもとで成立する。信頼出来ない語り手、という概念について私は何の知識を持ち合わせていないが、あれも「この書き手の言葉を信じるな」という教えと、それを受け入れる側の許容があるはずだ。
 傑作『花束』に続く『月食の日』は、小説の描写とは何か、を問い直す場面から始まっている。盲人を主人公にするというアイデアがどこから湧いたのかは、まだ資料を集めていないから知りようがない。小説の制作順は必ずしも発表順とは一致しないし、むしろ文芸誌に掲載された本作は原稿の受取から掲載までそれなりの時間を要した、と推測するほうが自然だろう。とりわけ、『月食の日』まで異様な速度で作品を発表し続けた木村においては、作品の書かれた順番を正確に同定することは困難だ。ただ、『風化する女』でれい子さんのロッカーの描写で胸を衝き、『島の夜』で島の風景を鮮やかに描き出した木村紅美という作家が、『花束』というあるシーズンの技術の結実を越えて、今いちど自分のなかで描写とは何か、を問い直した作品として『月食の日』を定めることは可能とは思う。

 盲目ということで余計な警戒心を持たれないせいもあるのか、隆には女友だちがやけに多い。
(七頁)

 盲目は、必然的に「教え」を多く受ける条件だ。作中にも、女友だちからの複数の「教え」の場面が挿入される。教えの場面が先にあり、そこで「警戒心」が霧散する場面は、後々の人妻とのやり取りにある。思えば、木村紅美のヒロインたちは、教えられる場面を然程持ち合わせてこなかった。「卵色」に相当する、世界を規定する「教え」の場面である。予備校寮を舞台にした『花束』では、肝心の授業の風景は徹底的に避けられる。『島の夜』のヒロインがトシミさんから性的な教えを受ける場面には、自分が実際にその技術を振るうのだという実感は伴わない。
 『花束』のような傑作を書き上げた後の木村紅美がどういう心境にあったかはわからない。ただ、傑作の先に、教えを受ける場面が中核を成す小説が続くことは、何かしらしっくりとくるものはある。あるいは『花束』の、とりわけエピローグにおいてひとつの完成に至った描写を、別方向に発展させる枝葉の動きが『月食の日』にはある。それが、どういう花を結ぶかは、先々の小説を読めなければわからない。
 ただ、徹底的に語り手の眼の力を消す、言葉だけの世界に生きるとはどういうことかを問い直した『月食の日』は、木村においてひとつの転換点という気がしてならない。月食の「食」に相当する暗闇のなかで、新たに見えてくるものは何か、という模索の手つきがある。
 完成度からすれば確実に併録作の『たそがれ刻はにぎやかに』のほうが上だし、派遣労働者認知症の老女、という社会で苦悶に喘ぐ人々を主人公に設定するのには、『風化する女』でれい子さんに注いだ眼差しに近いものを感じはする。まもなく失われるであろう空間の重みを、その場所の記憶の描写をもって保存する手腕は、『花束』のエピローグから受け継ぎ、発展させたものだろう。
 『月食の日』という本において、併録作は『花束』と同じ方向へ、表題作は別の方向へ歩く作品だと、まずは単純に整理出来る。
 もしくはこうは言い換えられないだろうか。『花束』のエピローグは空間にまつわる記憶の重みを描き出しているけれど、裏返せば、記憶なくして空間は鮮やかに物語られない。『花束』の結末で写真が意味を持つのは、管理人夫人が映っているからではなく、同時に去ろうとする元寮生たちと、彼女たちの花束が被写体になっているからだ。空間の描写は、単にたとえば「卵色」ということを列挙する、ということではないはずだ。以前の交際相手が「卵色」と教えてくれた、というミクロな物語なくしては、その描写は精彩を欠く。順序が逆転するが、「角のケーキ屋で売ってるレモンのムース」を思い出せるからこそ、「卵色」には意義がある(あるいは単に卵色と書くだけでは素っ気なくて、つい「レモンのムース」を続きに書いてしまう)。
 そのとき、空間を着色する記憶、挿話は、物語に近似していないか。あるいは、物語の前提なくして空間を書くことは難しいだろうか。

 清水博子という作家がいた。彼女は空間描写に偏愛を示し、一方で物語は通俗的なものとして排斥していた。だからこそ清水は、物語の前提なく空間を描写し、それが作品になり得る「短歌」を嫌悪した。清水が本格的に物語を書き始めるのは、おおむね『処方箋』からだ。読み手が今居合わせていない空間を書くことは、言葉の想起の力を最大限に引き出す場面だろう。『処方箋』以前の清水は、物語なくして風景を描くにはどうすればいいかを模索し、挫折し、「物語」と「時間」の処方を受けなければならなかった。『月食の日』は、おそらく小説自身も知らずして、同じ問に触れている。
 『月食の日』は、それまで別れを基底音にしていた木村の小説と比較すれば、明らかに物語の失われた小説である。別れの小説は、乱暴な言い方をすれば、確実に物語を形成する。出会いから別れまでの経緯を書くことは、たとえば発病から死までを書く程度には手堅い。粗筋は、盲人の男が昔の知り合いの家に食事を食べに行くだけの話、と要約出来なくもない。有山隆も、彼に触れた人々も、物語らしい変化を被ることはない。
 ただし木村は、清水と異なり、空間の描写に「教え」のエピソードを刻印した。そして「教え」を受けるのは、盲人の有山隆であり、そして読む側の私たちだ。むしろ、教えの場面を持ち出すことは、作中人物と読む側の立場を重ね合わせる、自然な導入だろう。物語に優先して空間を描くには、相応の理由が要る。少なくとも必要とする作家はいる。木村紅美はその側の作家だし、清水博子もまたそうだった。だから清水には「処方」が必要だった。清水が適切な処方、つまり空間の描写を執拗に続ける理由を初めて得られた傑作こそが、『亜寒帯』だった。
 盲人が、ああ誰かに教えられたな、と空間のいちいちに記憶を反響させることは、何ら不自然ではない。その微細な物語の積み重ねが、別れのような、あるいは作中に持ち込まれながら、あえて描写を回避される阪神大震災のような、巨大なプロセスを圧倒する。それが人間なんだ、なんて大袈裟な身振りを木村紅美の小説はしない(だから本当はこういう文章も似つかわしくない)。ただ、木村紅美の小説がしばしば他者との別れを描き、そしてそれがモラトリアムや停滞からの一歩と重ねられてきた、基調として青春小説の書法を採用していたことを鑑みるなら、『月食の日』は間違いなく『花束』から別の枝葉へ芽吹くための一歩、に位置付けられるべき小説だ。そもそも、『花束』が他ならぬ卒業の小説なのだから。

 空間を描くことがそこに蓄積された物語を書くことと同義なら、その物語は人間関係の束とも言い換えられるはずだ。
 木村における物語の大半は、人と人の遭遇で形成される。だから、空間を描くことはその空間に染み付いた記憶を、すなわち関係性を書くことにほぼ等しい。この地点において、描写、物語、関係性はひとつに結ばれる。関係性なくして物語は成立しないし、物語なくして空間を描写する意義は存在しない。木村は別れを頻繁に書く作家だったことを思い返すなら、『月食の日』は空間を先に書いているようで、実際には関係性から出発している小説だろうと思う。「卵色」には「路子」がまとわりつく。だから、小説は他愛ない人間関係の網を書いているようで、不思議な空間の広がりを感じさせている。実際には「卵色」の「アパートの外壁」から始まる空間描写は狭苦しさすらあるはずだ。けれど、関係の網の広さがそれを感じさせない。
 小説は物語としては完結していない。むしろ、完結しない物語こそが、たとえ月食の日であろうが何でもなく終わるのが人生だ、と読むのは、もちろん勝手が過ぎる。木村紅美の小説は人生に触れているけれど、その瞬間を、たとえば人生の手触り、などと安易な言葉で要約するには躊躇われてしまう。それだけの重みが、空間の描写に、関係の束に宿されている。たとえば、この先に続く傑作、『ボリビアのオキナワ生まれ』がそうだ。
 『月食の日』が、盲人の感覚のモードとはどういうものか、という描写を主題にしているのは確かだ。だから、小説は最後まで盲人の感覚にこだわりつづけるし、最後は「彼は自分や佳代が住んでいるのとは地続きでありながら違う世界に存在しているのだ、という思い」(十七頁)を、「風向き」(八十五頁)の挿話で反復するだけだ。「観測していた他のだれにも思いもがけない方法」で「月食を共有」するのには独特な色気はあるけれど、それでも「恋人同士」と取られるのは「かんちがい」に過ぎない。詩織が隆と不倫関係に陥ることは今後もたぶんなくて、これからも夫の浮気を疑い続けながら、夫婦生活を反復するのかもしれない。木村紅美において、この漫然とした反復は新鮮だ。別れにしろ出会いにしろ、木村紅美が描いてきたのはいつも一回的な挿話だから。「日」という短い時間もまた、木村の小説においては同様に特異だろう。
 併録作『たそがれ刻はにぎやかに』の主題もまた、反復である。顕は変わり映えしない日雇い労働に打ちのめされ続け、くららはアパートメントの生活が打ち崩されるときに死を願い、オリーブオイルは定期的に配達される。そもそも認知症という疾患自体が、新規の情報が定着困難となり、過去の記憶を地盤にする他なくなる、反復の病だろう。反復は、常に変化し続ける物語とは対極の位置にある。くららがそこから脱するには死しかないが、自殺は失敗する。顕もくららも、「人知れず死にたくなる」という希望は同一だろうが、『たそがれ刻はにぎやかに』という小説は、そんな綺麗な物語のエンドを許そうとはしない。ただ、漫然と重苦しい日々の延長を予感させるだけだ。そのピリオドの打ち辛い時間こそ、木村の新しい場面展開だろう。
 ただし、後に書かれた『見知らぬ人へ、おめでとう』を読む限り、むしろ木村が『月食の日』で主題としたのは盲人の感覚ではなく、過去の「教え」の場面を幾度となく喚起する記憶の力、その現在に蘇生される瞬間の鮮やかさ、という気もする。『見知らぬ人へ、おめでとう』で小説の核となるのは、平凡な過去の回想が、思いがけず心の慰めや救いになる場面だから。感覚が絶えず記憶を折り返すのが、この小説の盲人だろう。小説が記憶を思い出すとき、時間はいつも、現在にいるのか、過去にいるのか、曖昧な流れ方をする。だから、文体にはふらつきに似た浮遊感がある。『月食の日』の浮遊感は、視覚の失われた空間を読み手が歩き続けるふらつきと、言葉にぶつかるたびに「教え」の過去へ連れ戻される、二重のふらつきから成り立っている。
 小説が感覚と記憶の交わる場を進むとき、そこには現在=感覚から過去=記憶への歩みの転換があるのかもしれない。出来れば『月食の日』は『見知らぬ人へ、おめでとう』と、そしてたとえば『イギリス海岸』と併せて読んでほしい。美しい記憶が強固な現在=現実のまえに崩れ落ちる、すなわち幻滅の瞬間を描き続ける『イギリス海岸』と、他愛ない記憶が現在に喚起されたとき、それが心の救いとなる『見知らぬ人へ、おめでとう』との淵を繋ぎ合わせる橋として、『月食の日』を読むことは可能だろうから。

水生するさびしさ 木村紅美『花束』について

 

花束

花束

 

  作家のすべては処女作にあるという説があるけれど、発言者が誰にしろ言い過ぎで、たしかにデビュー作から最新作まで繋がる水脈は、作家読みをしていると頻繁に見出せはするけれども、書き生きるあいだで、もちろんそれ以外の水流も流れ込んでくる。最初は書き手もよく掴めずにいたものが、続く作品で鮮明な意味を見せることもある。そういう小説が、たぶんしばしば傑作になる。作家の、ひとつのシーズンの決算とも言い換えられる。
 『花束』はそういう小説だ。東京の大学受験予備校の、まもなく取り壊される女子寮が舞台だから、題名が最初に意味するのはその寮生の女子たちだろう。第二の意味は、気取りすぎだけれど、『風化する女』から『イギリス海岸』までの三冊のなかに書き綴られた花、小説における技法や、木村紅美という作家のこだわりが、そのまま集まった『花束』でもある。小説に限らず、あらゆる創作の発展は蒐集と統合の連続だ。ぶらつきながら歩いていく、目についたものをひたすら自分のなかに取り込んでいく作業が最初にあって、それから集めた花を束ねる統合の作業がある。
 もしこれから木村紅美を読む人がいれば、『風化する女』のあとには、ぜひ『花束』を読んでほしい。それから『島の夜』と『イギリス海岸』を読んで、『花束』で結ばれた花が、最初に自生していた裸のかたちを、確かめてほしい。
 小説は、こんな文章から始まる。

 高一の夏休み、東京から私の家へやって来た大学生の杉浦さんは、海に向かってタバコの煙を吐き出しては溜息まじりにくり返していた。
「ここはさびしいなあ」
 杉浦さんは恋人と別れたばかりで、傷心から立ち直るために出た旅の途中だった。
「きっと、日本一さびしい場所だよ」
(七頁) 

 木村紅美はさびしさの作家だ。選ばれないさびしさ、別れのさびしさを書いている。失恋と別れが『イギリス海岸』で主題として繰り返されるのは、それがさびしさにおいて通底するからだ。孤独とは、すこしずれる。選ばれないことには孤独が付き纏うが、もう二度と再会しない人間と別れたあとも、また人は誰かと結ばれ合う。そこには孤独はないけれど、さびしさはある。木村紅美が書くのは、人のあいだにあって、それでも強烈に感じずにはいられない寂寥感だ。『風化する女』は、存在はたしかに認知されているけれど、誰かに選ばれはしない「女」のさびしい「風化」を書いている。
 木村紅美の女たちはいつも失恋するか、利用されている。失恋はたしかにたびしさの極致だろう。けれど『花束』では、さびしさの主題は、微妙に色合いを変えて咲いている。北海道の故郷を離れ、東京に困惑する永原あおいのさびしさ、兄への思慕に囚われ続けている吉川咲のさびしさ、高校時代からの恋人と簡単に別れてしまえる貴島礼奈のさびしさ、きっとどこかで好きだったのかもしれない同性に突然去られた松本多英のさびしさ、誰かと誰かが交わったかと思えば、かつての関係などなかったように振舞えてしまうさびしさ、これだけ濃厚な感情が集い重なる空間が、ひっそりと取り壊されていくであろうさびしさ。さびしさは、異性にも、同性にも、時間にも、場所にも根を伸ばしている。
 さびしさを種子に物語と関係性が花開いていく構図は、『イギリス海岸』の響きを受け継いでいる。正統な進化形でもある。
 人はいつかはさびしさに訓練され、順応していく。『風化する女』のれい子さんだって、結局はローカルな歌手に弄ばれる自分を、おそらくは諦観半分に受け容れていたはずだ。あるいは、本作と同じく「東京」という文化の着こなしを主題にした『海行き』で、映画監督志望の男が夢を諦め、友人との別れを前にして、誰ひとり二度と出会わないであろうさびしさを口にしないように。『イギリス海岸』の梢が、清彦の記憶から一歩踏み出すように。
 『風化する女』以前に書かれた『島の夜』の小百合さんが、いつまでも異性との性交を夢見ているのとは対照的である。『花束』は、社会に運ばれる以前の少女たちが、さびしさと衝突する物語でもある。貴島礼奈は初恋の相手に、吉川咲は兄に、松本多英は同性への思慕をはじめて自覚した相手に、永原あおいは故郷に、それぞれさびしさを突き付けられる。小説の序盤を飾る永原あおいの空想は、さびしさの原風景でもある。

 絶壁に佇んでいると、たびたび、彼の仕草や声がよみがえり、気分がざわざわと落ち着かなくなっている。すると私はきまって崖っぷちまで歩み出て、腹ばいになる。前髪を潮風で巻きあげられながら、はるか下に広がる海をのぞきこみ、目をつぶって『The Sugiura Selection』を聴く。
 そうして、魚たちに肉や内臓を食い荒らされ、白骨と化した死体が、だれにも見つからないまま海の底に静かに積み重なっている光景を空想していると、ふしぎと、少しずつ、落ち着いてくるのだった。
(十頁) 

 木村紅美の小説世界において、海はいつも別れの場所だ。だから、という接続詞が正確かはわからない。ただ「絶壁」は、東京に消えていった杉浦さんとの別れを自覚せずにはいられない土地ではある。別れは、『風化する女』や『海行き』や『イギリス海岸』のいくつかの短編がそうであったように、心にその人の像を刻み込む。「彼の仕草や声」は、その人を前にすればそれほど幻惑的に巻き上がってくることではない(それは、続く『吉川咲 夏』の、あまりにもあっけない「杉浦さん」の描写を読めばわかる)。「絶壁」の縁にまで「歩み出」て、「白骨と化した死体」になる自分を想像することが、「ふしぎと」「落ち着」きを与えてくれる。なぜ落ち着くのか、小説内には明白な記載はない。ただ、本来目にすることのできない自分の「死体」を空想し、「だれにも見つから」ずに「海の底」に沈むとき、孤独はむしろ救いになる。別れの孤独は気持ちを乱すけれど、個別の誰かではなく地上との別れであれば、もはやそれに心を乱されることもない。『風化する女』のれい子さんも、きっとそう生きようとしていた。
 けれどそんな完全な別れはあり得ない。どれだけ幽霊になりたくても、生者は地上を生きるしかない。だから、「海の底」は「空想」でしかない。
 『吉川咲 夏』の冒頭は、美大志望の咲が「小五のとき、初めて県のコンクールで最優秀賞をもらった水彩画」の話から始まる。「大きなコップにシュワシュワと満たされたハチミツ色の液体のなかに、街がひとつ閉じこめられている」という画材は、死別した兄の「街ぜんたいがね、大きな、大きなコップに入ったシトロンプレッセの底に沈んでいるみたいなんだ」というパリの描写に由来している。檸檬水を意味するフランス語は、兄のバンドの名称でもあり、そして別れの海の名でもある。「祭りの灯りのとぎれた先にあるのは、冥界だ」という五十六頁の何気ない文章は、木村紅美において「崖っぷち」の先に何があるのかを、そっと呟いている。『風化する女』の岸壁、『クリスマスの音楽会』の浜辺の先には、冥界が続いていたはずだ。

 ネグリジェに着がえて電気を消し、ドアを閉めるとき、もういちど、隙間から、女の子たちの笑いさざめく声が、無数の花びらみたいにこぼれてきて追いかけてくるような錯覚に、一瞬、陥った。じっと耳を澄ますと、洗面室やトイレや、廊下の隅々からも聞こえてくる気がする。
(一九七頁) 

 エピローグは素晴らしい。寮生たちの消えた建物のなかで、声と花が結ばれる。「……い、い、いらないよォォォッ」(二十四頁)や「やだ、アレ、始まっちゃってるゥ。どーしよォー」「キャッキャッキャッキャッ」(三十二頁)といった、それまでの木村紅美の小説と比較してバタ臭い語調も、生の「声」として録音されたものだと分かる。乱れた声の記憶を、端正に整えることなく、そのまま束ねることが、この小説においては正しいのだろう。
 多英たちから贈られた花束がポプリとして保存されるように、記憶もまた管理人夫人のなかで「大切にしまって」「何回でも思い出して」いられるものだろう。寮は破壊されても、その記憶は生き続けている。小説は「海の底」から始まり、「湯船」で終わる。上京前の水原あおいが、二度と出会えないかもしれない、けれど名前も言葉も強烈に残った相手の残像から「海の底」へ運ばれるのと、管理人夫人が浅い「湯船」で、少なからず名の記憶を失った「何百人もの女の子たちの喋り声」を思い出すのは、正確な対比だ。小説は、永原あおいがいくつもの別れを積み重ねて、やがては「湯船」にたどり着く未来を予感させる。別れへの順応と、その記憶を慈しめる身のこなしを、あるいは加齢と呼べるのかもしれない。
 ただし、幸福な結末の前後には、夫からのやんわりとした性交の拒絶がある。

「でも、たまには一緒にゆったりと入ってみない?」
 上目遣いをしてみると、夫は夫人ではなく花束のほうを向いて苺ミルクを食べ始めている。夫人は内心、溜息をついてまたうつむき、すでにいい具合につぶれた苺を、スプーンを握る指にいっそう力をこめ、押しつぶした。うす赤い果汁が飛び散る。
「一回ぐらい、ここで」
 急に喉が渇いて、二人きりだし、とはつづけられなかった。
「……いや、おれはやっぱりシャワーで充分だ」
 そっけなく首を横に振り、夫はさっさと苺ミルクを食べ終わると、厨房へ入り後片づけを始めた。夫人はつぶしすぎた苺にハチミツを回しかけ牛乳を注ぐと、肩をすくめ花束に向かって小さく笑いかけて、なるべくのんびりと食べた。
(一九一頁)

 夫は性交の意志にもちろん気付いているし、だからこそ拒絶のさびしさがある。それを、「肩をすくめ」て受け流すのは、長年の夫婦生活で培われた順応の動作なのだろう。この微笑の意味は難しい。二十二歳で結婚し、「いっぺんも子供を産」まず、「夫以外の男は知らない」ままに、月経を終えた五十歳の女が、花束のような少女たちに何を思うのか。たぶんそれは、貴島礼奈が水原あおいのクッキーの無作法な食べ方に、「ひらりとつま」む模範を示す場面の、「彼女は学習しなくちゃならない」(一〇五頁)という心の動きとは、きっと違うはずだ。学習し、習慣と化してしまった動作で和らげようとしたさびしさが、未だ社会に出る前の女たちのように予想外に深く染み透ってしまう自分の心を振り返ったときに、ふと洩れた微笑だろうと思う。

海岸の遠近法 木村紅美『イギリス海岸』について

 

イギリス海岸―イーハトーヴ短篇集 (ダ・ヴィンチブックス)

イギリス海岸―イーハトーヴ短篇集 (ダ・ヴィンチブックス)

 

  木村紅美において、海は別れの場所だ。たとえば『風化する女』で、語り手は海を望む夢の砂丘と、北海道の埠頭とで二度れい子さんと別れる。『海行き』は大学時代の友人と別れる話だし、『島の夜』でトシミさんから告白を断られるのも夜の海だ。だから、『イギリス海岸』というこの本は、題名からして、すでに別れの短編集である。表題作がいちばん面白いかというと難しいが、それでもやはり、この題名を書名に選ぶべきなのだろう。
 二種類の離別がある。第一は死者や失踪者のような、どうあがいても永遠に会いようがない相手との別れだ。第二は会おうと決めればいつでも会えるし、再会の約束さえ結ぶけれども、もう二度と出会わないことを互いに確信する別れだ。前者は離別だが、後者は疎遠である。死のような離別と、インターネットが発達した時代の疎遠では、本来その重さは異なる。『イギリス海岸』においても、出会いと別れにはしばしばインターネットが付き纏ってくる。けれど木村紅美は、たとえば『海行き』がそうであるように、いつでも言葉や音声で繋がり合えるはずの相手との疎遠が、絶対的な離別としか思えない瞬間を書いている。このとき、再会の約束は、むしろ離別を意味している。
 たとえば『ソフトクリーム日和』の、「いつのまにか音信の途絶えていったさまざまな友だち」との別れだ。

 あたしは、高校を卒業するとすぐに上京して、二十歳過ぎまでアルバイトで生計を立てつつ、売れないロックバンドなどやっていた。
 ひろみちゃんは卒業後は、地元で一年浪人したあと、東京にある女子大学に合格し、
〈私も上京することになったよ。〉
 とハガキで知らせてくれたのを、おぼえている。
 そのころのあたしは、住所不定、数週間おきに、彼氏をはじめとする音楽仲間の家を転々とする生活を送っており、居場所は、双子の姉の翠以外、だれにも教えていなかった。
 翠は、あたしには無断で、上京したことをひろみちゃんに教えた。そして実家あてに送られてきたハガキを、アパートまで転送してくれたのだ。
〈東京で遊べるのを楽しみにしてるよ~!!〉
 ひろみちゃんの新しい住まいは吉祥寺で、あたしの暮らす高円寺とは、電車で十分ほどしかはなれていなかったけれど、あたしはなぜだが、彼女とあらためて連絡を取る気にはなれなくて、返事は出さなかった。
(『イギリス海岸』一〇〇頁) 

 盛岡に帰郷した「あたし」は、恋人を連れていった小岩井農場で、ソフトクリームを売る「ひろみちゃん」と再会する。

 どう考えても、農場でソフトクリームなんて売っているのは、アルバイトにすぎないだろうから、
(定職には、ついてない、っていうワケか)
 また、心のなかで、つぶやいた。
「あ、あたしはね、もう、ずっと東京に」
 居つづけていて、などと説明しかけて、列が詰まっているのに気づき、
「今夜、よかったら、ウチに電話してッ」
 そう叫ぶと、アツシのもとへソフトクリームを持ち帰った。
(一〇八頁) 

 『ソフトクリーム日和』では、ハガキ、電話、メールといった通信手段の差異が明確に書き分けられている。「あたし」は恋人からのメールをひっきりなしに気にするが、咄嗟にひろみちゃんに呼びかける連絡手段は実家への「電話」である。ハガキは無視できても、電話には会話を強制する力がある。

 ベッドに寝そべり携帯電話のメールを打っていると、家の電話の子機を持って、翠が部屋に入ってきた。
「お友だちから電話だよ。高校のときいっしょだった武田さん」
「エッ」
 まさか、ほんとうに、ひろみちゃんが家に電話をかけてくるとは、あまり思っていなかったので、びっくりした。
(一一二頁) 

 「電話して」とは第一に社交辞令だし、第二はあたしが未だに「はかなげな雰囲気をただよわせた美少女だった」高校時代のひろみちゃんを引きずっている証でもある。ひろみちゃんは東京での銀行員生活に疲れ、肥え太っている。なし崩しに、嫌っていた家業を継ぐつもりらしい。

 よくよく、話をしているうちに、ひろみちゃんの働いていた銀行と、あたしの働きつづけている会社とは、二駅ちがいで、通勤路もかぶっていたことがわかった。
 もしかしたら、同じ電車で、あるいは、乗り換えする駅のホームや街の雑踏のなかで、知らないあいだに、すれちがったことがあるのかもしれなかった。
 だけど東京では気づかない。
 あまりに人が多すぎ、気づくわけがない。
(一一八頁) 

 たぶん携帯電話越しの距離は、「知らないあいだに」「すれちが」うぐらいの近さにありながら、「気づかない」世界なのだ。それは、たとえば幽霊に似ている。木村紅美の幽霊は、いつも「すれちがう」ほどの距離にいながら、だれにも「気づかれない」世界を彷徨っている(『風化する女』のれい子さんが、職場の誰からも関心を集めていなかったように)。掌の電子機器からほんの数語を書き送れば再び繋がり合うけれど、その数語が億劫だという「疎遠」は、別れに近い。相手を幽霊にする視線といってもいい。薄情といえばそうかもしれない。自分のその薄情さを覆い隠すように、会う気もしない約束を取り結び、言い訳のようにアドレスを交換し合うのは、現実的な別れ方ではある。だからこそ、そうして別れた相手から、距離を潰す「電話」が来たとき、人は「あたし」のように、「なぜだか」「暗く」なるのではないか。幽霊に触れられるような不気味さを、感じてしまうのではないか。
 『ソフトクリーム日和』は簡単な約束で終わる。短い文章だが、絶対的な別れの響きがある。

 ふいに、ひろみちゃんは、これから街なかで帰省中のあたしを見かけたとしても、気づかないふりをするんじゃないか、という予感がした。
 あたしは、どうするかわからない。ひょっとしたら……。
(……)
 次に会うのは、いったい、いつなのか、わからないけれど、
「今度は、ほんとにおいしいソフトクリーム、食べに行こうね」
 約束して、あたしたちは別れた。
(一二四頁)

 近いようで遠い幽霊が一方の極ならば、遠いはずのものを異様に近く感じてしまう瞬間が、『イギリス海岸』のもう一極である。携帯電話越しにいつでも会えるはずの他人が、幽霊のように果てしなく遠い存在になることもあれば、初めて目にした風景が、故郷のように感じることもある。
 その奇妙な瞬間がもっとも鮮やかに書かれたのが、書き下ろしの『クリスマスの音楽会』だ。
 話の筋はあっけない。『イギリス海岸』で恋人の前から突然失踪した清彦は、「野垂れ死にしたい」という衝動に突き動かされ、ヨーロッパを彷徨っている。アイルランドで出会った「ヨーコさん」という日本人の旅行客の言葉を頼りに、浄土ヶ浜を訪れる、それだけの話だ。ヨーコさんは、「服装が若々しく、ガール、というふうにも見え」るし、「両目の下のクマの濃さと頬のやつれ具合からして、オールドミスらしくも」見える。
 「ダブリンからゴールウェイまで来る途中の景色」が、故郷の岩手、花岡と重なり合ったという。

 バスに揺られているあいだ、ずっと時差ボケの影響でウトウトしていて、ふと目がさめ、窓の外を見ると、いつでも淡い緑の丘が広がっているのを、
(まるでふるさとに帰ってきたみたいだ)
 なんて、感じつづけていたのだという。
「成田から飛行機を乗り継いで、十四時間もかけてたどり着いた国だったていうのに。……とてもそんなに遠く離れた場所なんだって気がしなくて。ふしぎね。……なにせ、ボケているせいで、私はとんでもない回り道をして岩手に帰ってきただけなんじゃないか、とも思ったりして」
(一六五頁) 

 彼女と関係の進展があるわけでもない。そこから観光地までの道を共にしただけで、翌朝起きたときには、もう別の場所へ旅立ってしまっている。置手紙もなければ、住所や電話番号の交換もなかった。教えてもらったはずの漢字の表記も、すっかり忘れてしまった。だから、ヨーコさんと再会することは、きっともうない。それでも、「彼女は、ヨーコさん、としておれの記憶のなかに存在している」(一七一頁)。ただ旅先で出会っただけの同郷人なのに、その記憶は、いつまでも色濃く残り続けている。もしかすると、無言で置き捨てた『イギリス海岸』の恋人よりも。

 そこは、たしかに、浄土ヶ浜、と名づけられるだけあって、この世ではないような、しかし、
「世界の果てっぽいの」
 とヨーコさんが言っていたのも納得がいくような景色だった。
(……)
 突然、だれかの手のひらから、水面に灰が撒かれている光景が、脳裏に浮かんだ。その灰とは、おれなのだった。
 初めてやって来たこの場所を、おれはひとめで、たぶん、とても深く愛した。
(一八一頁)

 たぶん短編としての勘所はここなのだろう。海を前に、その彼方の彼岸に思いを巡らせる構図は、『風化する女』の結末に似ている。
 でもこれは『風化する女』の先に書かれた小説だ。だから本当に大事なのは、その次に続く場面だ。

 やがて、遊歩道の向こうから、ひと組のカップルが歩いてくるのに気づいた。
 濃い緑色をした上等そうなコートのうえから、さらに、ミルク色のショールをふんわりと巻いた女は、ヒールのないブーツを履いており、となりの夫らしい男にしきりといたわられながら歩いてくる。
「こんにちは」
 すれちがいざま、男のほうからあいさつしてきて、
「……こんにちは」
 ぶっきらぼうに返すと、女も、
「こんにちは」
 つぶやくように言い、一瞬、口もとをほころぼさせておれを見て、またうつむき、二人は歩き去っていった。
(……)
 緑のコートの女は、むかしおれがつきあっていた恋人と瓜二つの顔立ちをしていたのだけれど、そういえば彼女は、
「私には、ソックリの双子の姉がいるのよ」
 と、いつも話していたことを思い出したのだ。
 しかも、姉のほうは、岩手に住みつづけているのだと。
 おれは、そちらとは会ったことがない。
 もしかしたら、いますれちがったのは、双子の姉のほうだったのかもしれないし、あるいは、世のなかには、同じ顔をした人間は三人いる、なんていうから、双子外の、もうあと一人なのかもしれない、とも思った。
 ――どちらにしろ、おれにとっては、見知らぬ他人だ。
(一八三頁) 

 おれにとっては「見知らぬ他人」だが、それでも「恋人」の残影がふいに心に滲むぐらいには、その「ひと組のカップル」は心を突き刺していった。この「濃い緑色をした上等そうなコート」の女が、恋人の双子の姉はわからないけれど、「見知らぬ他人」であることには変わりない。「双子」という関係は、まったく異なる二人を、同じ人物のように感じさせてしまう。姉と妹は、アイルランドと岩手の田舎ぐらいは違うはずだ。
 似た偶然は、『イギリス海岸』でも繰り返されている。『イギリス海岸』の梢が、自分を捨てた清彦を忘れられないのは、「ふだんは、タクシーの運転手をやっているというおじさん」が修学旅行で彼に教えてくれたという、ある挿話の記憶からだ。

 「夏の夜にはね、天の川がきれいに川の水に映るんだってさ。ちょうど、イギリス海岸、と名づけられた辺りに立つと、空に広がっている天の川と、水に映った天の川が、地平線のところでつながって見える……川のほとりをずっと、ユラユラ揺れる星明りをながめながら歩いて行けるんだってさ」
(……)あたしはその川に映って揺れる星の話をキヨヒコから聞くのが好きで、何度、お願いしくり返し聞かせてもらったか、わからない。
(五十一頁) 

 彼女がその記憶から解かれるのは、「イギリス海岸」への旅で出会った「タクシー運転手のおじさん」を、清彦が出会った「おじさん」と同一人物ではないかと思い始めた瞬間からである。天の川が映るのも、「川の流れ自体、賢治が生きていたころとは、かなり位置が変わってしま」ってもうない、と聞かされたとき、初めて梢は、「記憶のなかのキヨヒコの影が、ようやく薄れはじめ、遠くなっていく」のを感じる。それが、本当に清彦の出会った「タクシー運転手」かどうかは分からない。海岸の「濃い緑色をした上等そうなコート」の女と同じぐらいには、きっと遠い誰かなのだろう。
 それでも、人が生きるうえで、何気ない遠くの他人が、異様な近しさをもって心のなかで迫ってくる瞬間はある。そして近いはずの誰かが、死者のように遠くなることもある。『イギリス海岸』という短編集を貫く主題は、人生のこの不思議な遠近にあると思う。