亀裂をめぐる試論 木村紅美『夜の隅のアトリエ』について

 

夜の隅のアトリエ

夜の隅のアトリエ

 

 これまでの木村文学と比較したとき、異質の昏さがある。傑作や佳作と、容易に断言することが躊躇われる。
 たとえば『春待ち海岸カルナヴァル』までなら、ゆったりとした変化はあるにせよ、ほぼ同一の構造で作品を捉えることが出来た。『見知らぬ人へ、おめでとう』以前の木村は、人と人との間に横たわる絶対的な隔絶を書き、以降はその淵の深さではなく、人と人とが通じ合える可能性を書き続けた。物語に即した言い方をすれば、『見知らぬ人へ、おめでとう』以降、別れた二人の再会は、二度目の別離をもたらすのではなく(『海行き』『ソフトクリーム日和』)再び通じ合う機会になる。現実の他者だけでなく、想像の他者、たとえば生まれ得なかった赤子や死者(『黒うさぎたちのソウル』)にも想像で通じることが出来る。その極点が、恋愛の困難を片側に置きながら、再び出会い直した家族、そして友人との友愛を描いた『春待ち海岸カルナヴァル』だろう。
 もうひとつ。木村が『風化する女』から一貫して書き続けてきたのは、低賃金の女性労働者だ。経済的(=低賃金)そして性的(=女性)に二重の差別を受ける木村文学のマイノリティたちは、恋愛の困難さに苛まれ続ける(この困難さに女性同性愛者が登場しないのは、個人的には興味を惹かれる)。自分を支えてくれる集団の承認が土台としてなければ恋愛も出来ないという、シビアな認識が漂う。マイノリティの孤独だ。その典型例が『ボリビアのオキナワ生まれ』だし、『春待ち海岸カルナヴァル』の紫麻が恋愛に踏み出せるのも、家族と常連客との友愛があってこそだ。
 
 では、『夜の隅のアトリエ』は従来の木村文学と比較して、どう異質なのか。第一は、名前と過去の欠落である。
 まず、主人公である女に、厳密な名前がないことは見逃せない。たしかに小説は、名付けが面倒なのか、書き始めた時点で用意していなかったからか、「女」と代名詞のように呼ぶこともある。しかし木村文学においては、小説をちゃんと探せば、名字ともに名前が用意されている。『夜の隅のアトリエ』の女は、理容師の資格こそ有してはいるが、移り住んだ街々で他人の保険証を盗み、新たに生起し始めた社会関係がわずらわしくなってきたところで、別の女に成り代わって逃げ出す暮らしを続けている。女は名前を奪い続けている。だから、その個人証明書に印字された名前は繰り返し小説内に記入されるけれど、女の本当の名は、わからない。『島の夜』の母との関係に悩む波子は、その根本原因たる父に出会い直す。沖縄というルーツを描いた『黒うさぎたちのソウル』や、家族が重要な主題であった『春待ち海岸カルナヴァル』に対して、『夜の隅のアトリエ』では、女が血族や自身の過去について語ることは一度もない。女が物語の最初で名を捨てる原因となった、恋人のカメラマン・秋生との生活以前のことは、一切書かれない。女がどこから来たのか、小説内の誰にも、そして読んでいる私たちにも分からない。
 分かるのは、女が名を奪いながら旅をしている、ただそれだけだ。
 木村文学における孤独は、今に始まったことではない。孤独は過去からの積み重ねで、人をそこに縛り付けるものだろう。
 たとえば『風化する女』のれい子さんは、社内で存在しない人間のように扱われる前から、そもそも鳥取の家族と不仲だった。新たな土地に安住も出来ず、もはや故郷に帰ることも出来ない女こそが(『野いちごを煮る』のように、その移住先に選ばれるのが東京だ)木村紅美における低賃金の女性労働者の系譜であり、『ボリビアのオキナワ生まれ』のマナさんもこの例に漏れない。自分に恋愛を希望する資格がないように感じるには、相応の失敗経験の積み重ねがあるはずである。木村の小説は、この失敗の歴史を必ず丹念に描くか示唆している。最新作『雪子さんの足音』は、恋愛が困難な小野田さんの傷を濃密にほのめかしているし、物語は女を愛することが困難となった男の失敗談そのものである。
 しかし、『夜の隅のアトリエ』の女は決定的に違う。女は、孤独ではない。恋人が居れば、職場からのそれなりの承認もある。ビジネスホテルに連泊出来る程度の貯金もあるし、自分の身体に女としての価値があることも理解している。だがそれでも女は、進んで孤独を選ぶ。

 歩いていても電車やバスの窓からなにげなしに街並みを眺めているときも、廃屋寸前のまま何年も周囲の時間の流れから取り残されたアパートや家が気になる。
(……)陽あたりのわるい部屋の畳は傷むのが早いだろう。ビー玉を置けば指さきで弾かなくても自然に転がってゆく。でもすぐに慣れてなんとも感じなくなる。
 田辺真理子は、いつからか、衆人の眼にさらされていながら、じっさいは映っていないように思えるああいう場所に、ひとりきりでひっそりと身を隠し暮らしたくなることがある。いっそ、自分の素性もわからなくしたい。仕事も名前も変えて、つきあいのあるすべての人のまえから、突然、予告なしに消える。
(四頁)

 『夜の隅のアトリエ』の女は、「衆人の眼にさらされていながら」「じっさいは映っていない」ような人間として生きることを願っている。誰に素性を知られることもなく、関係を持つこともない。『風化する女』を踏まえれば、「幽霊」のように扱われる人間になりたい、ということだ。
 だから『夜の隅のアトリエ』の欲望は異質なのである。木村文学のヒロインたちが苦しむのは、「幽霊」の孤独だ。恋愛の希望を持つことも出来ず、存在を承認される(映される)こともなく、欲望に付け込まれて弄ばれる、そんな定型を繰り返してきた。ところが今「田辺真理子」を名乗る理髪師は、恋愛の欲望や存在の承認への希望もない。むしろ、恋愛や承認=友愛と無関係な生活を望み続ける。正反対だ。
 第二は労働へのスタンスである。これは過去の木村文学への、反逆にすら近い。たとえば『野いちごを煮る』でヒロインを疲れ果てさせ、『黒うさぎたちのソウル』でそれとなく忌避されていた、「個性」を徹底的に抹殺する派遣の事務職のような仕事が、いちばんの「理想」となる。

 鵜呑みしたマニュアルに従うだけで良く、独自の個性や発想といったものはむしろ邪魔になるだけの仕事、一日の終わりがくるといつもボロ切れのように疲れ果て、ただ、倒れて眠るしかない、休日もろくになく余計な感情を根こそぎ奪われる仕事が理想だ。
(一六八頁) 

 「個性」ある生身の人間ではなく、「衆人の眼にさらされていながら」「じっさいは映っていない」もの、物質のような何かになりたい。
 欲望は、二つの職業に帰結する。第一は連れ込み宿の受付であり、第二はヌードモデルだ。ラブホテル「旅館かささぎ」は、入り口すぐの受付に「小窓がついており、黄みの強い肌をした女の顔の下半分がのぞ」くばかりで、その小窓から鍵の出し入れをする。ここで必要なのは、在室の証となる「顔の下半分」と、鍵を受け取る手だけであって、「あちらからみえる自分は鼻のみの存在」(七十四頁)だ。「毎日いろいろな客と髪を介しコミュニケーションを取らなければなかなかった東京」とは違う仕事だから、気楽である。「乳首や尻を凝視される」絵画教室のヌードモデルは、「愉しみに思えるばかりで恥ずかしさ」はない。その極点は、個人的にモデルを依頼してきた「館主」に、手すりの「ライオン」へ全裸で跨るよう要求される場面だ(一三七頁)。「押し広げられたやわらかなひだのかさなり」が「いっそうこすれて濡れだ」すのを、間違いなく館主は「狙ってい」たに違いない。「モデルというよりなぐさみもの」なのは明白だが、「期待に応えようと眼を瞑ったまま、指示もないのに身体を前へのめらせ」るのは、他でもない「自分」が「そうしたかった」のである。
 自分がものになる世界では、他人もまたもののように見えてくる。

「本日のモデルの小林さんです」
 拍手が起き、ガウンをかきあわせ全身を硬くした。だれとも視線を合わさないようにして、よろしくお願いします、と口のなかでつぶやきおじぎした。椅子を伝いカウンターにあがる。豹柄のフェイクファーが敷かれている。集まっただれのことも、揃って、人間というより、目鼻立ちを肌色にぼかされた人物像に思えだした。
(七九頁) 

 そこは人の生温かさからかけ離れた世界である。関係し続けようとする生物がひたすらにわずらわしい女には、この「肌色にぼかされた人物像」ばかりの世界は心地良い。スケッチする人々の視線は欲望を孕んでいるかもしれない。そう予想していたからこそ、「興奮で陰毛の奥が濡れてきそうな怖れ」を覚えていたが、実際には「すうすうした」ままで、「なんとも感じない」。「可能ならくちびるから肛門までジッパーのようなものでめくりあげ、臓器のひとつながりを、人体模型みたいに全部むき出しても平然としていられそう」だ。
 一方で、ここには不思議な転倒がある。比較すべきは、サプリメントのモニター勧誘を拒む序盤の場面である。

「一日一錠、就寝前に服用して頂ければいいんです。とりあえず、無料で一か月ぶん差し上げますけど、代わりに、お願いしづらいんですが、使用前と使用後の写真を、全身、パーツごとに撮らせてもらいたくて……、もちろん、眼もとは隠してお撮りします」
 さりげなく身を引いた。
(十三頁) 

 サプリメントは「肌から染みやくすみを取り除いて潤いを与え」「二十代前半の状態まで若返」る代物だそうだから、その服用前後の比較は、ヌードモデル同様に、大雑把には「美」を証立てるためにある。むしろ「眼もと」を時に直視され、性器まで露にするヌードモデルのほうが、抵抗感は大きいはずだ。ところが女は「ヌードモデル」のスケッチは愉し気に受け容れ、「写真」からは「身を引く」。この差異は重要だ。恋人であるカメラマンの秋生に「着衣」で撮影をせがまれても、理由を説明することなく拒絶する。身体の分割が愉しく、全身の要求が疎ましいだけでは筋は通らない。なぜなら「臓器のひとつながり」を「全部むき出しても平然」としていられるし、モデルは「裸足」を要求される、すなわち頭の上から爪の先まで凝視されているからだ。
 スケッチが是であり、写真が否である理由は、作中には明記されていない。だからここは想像の領分である、ともいえる。
 「こちらをじっと見つめているはずの領主の網膜から吸い取られた魂が、コンテと鉛筆を通しキャンパスへと移し替えられる。寿命が削られてゆく。奥さんもモデルをしているうちに、削られたのだろうか」(一三六頁)という記述は、どちらかといえば写真を連想させるものだ。「網膜」が欲望を寄せるのは、スケッチも写真も変わらない。普通は前者の視線のほうが、持続する分より濃密な欲を感じさせるはずだし、むしろ女はスケッチの欲望には「サービス」までするのだ。だが写真は、正確な記録である。モデルの名が絵に付されることは滅多にないだろうし、絵は小説の後半がそうであるように、それぞれの欲望に応じて身体を切り取る。「乳房や尻」から個人を特定することは不可能だろう。そこが、差異なのかもしれない。
 しかしそもそも、木村文学において、このように想像で勝手に補わなくてはならない欠落こそが、なにより異質なのである。

 

 ここまでの文章は、『夜の隅のアトリエ』をめぐる重要な問にはまったく答えられていない。
 それは、なぜ木村文学は、『春待ち海岸カルナヴァル』からぐるりと歩みの方向を転じたか、だ。作品の細部を無視すれば、『春待ち海岸カルナヴァル』は人と人が通じ合うという主題を、家族・友人・恋慕の三方向から書き切った作品だった。主題の底まで潜り切った。だからこそ、人と人がまったく通じ合えない、「もの」同士が無関係に並列する世界へ歩き出すのは、流れとしては理解出来る。
 では、その転調の原因とは、何なのか。
 『夜の隅のアトリエ』は、間違いなく木村文学におけるひとつの亀裂である。本書以前の木村文学の魅力は、徹底したリアリズムだったと思う(もっとも、このリアリズムとは「女が抑圧されている」という事態の、素朴で残忍な言い換えかもしれないが)。私も全部を読んだわけではないが、『夜の隅のアトリエ』から『まっぷたつの先生』までの木村は、非リアリズムへの跳躍を繰り返していたと思う。
 重要な主題は震災だ。本書でも、それとなく震災への目配せがあることは見逃せない。家主に髪を切られる場面だ。

「両横は、耳を半分出して。前髪は眉が隠れるくらい」
「わかりました。なにか読みますか」
 週刊誌の最新号をまとめて持ってきてくれた。
「そうですね」
 発売日の日付けをたしかめただけで息苦しくなった。自分は携帯やインターネットのない時代に生きているわけではなかった。表紙を見比べ、総理大臣が替わったことを知った。目次をめくった。各国で相次ぐ自爆テロ放射能漏れの隠蔽。牛肉の産地偽装フィギュアスケートの裏側。女子アナが実業家とゴールイン。
 どの見出しにも興味がわかず、知りたいことはなにひとつなく、知らないで困ることもなかった。無理に読もうとすると眼がちかちかし、押し返した。
「いいです」
 あくびすると両手をクロスの下に隠し、膝のうえで重ねて、鏡に映る自分の顔を見たくなくうつむいた。
(一〇五頁) 

 非常に簡素に書かれている。補って読む必要がある。携帯の契約こそ切ってはいるが、「旅館のパソコン」からインターネットを閲覧することは出来る。そのうえで「発売日の日付け」を確認すると息苦しさが巻き起こるという。この「息苦しさ」は実はよくわからない。「放射能漏れの隠蔽」とあるから、普通に考えれば二〇一一年だろう。菅内閣が終焉したのも二〇一一年で、『夜の隅のアトリエ』は二〇一二年の本だ。
 素朴に憶測するなら、最新号として持ってきてくれた週刊誌の日付けが、軒並み遅れていた。そこに地方の閉塞を感じた、ぐらいのものだろう。ところが「牛肉の産地偽装」となると、表立った事件はゼロ年代だ。最新刊にはさすがに古い。家主も処分するだろう。粘着質な読みをするなら、物語はそもそも二〇一〇年のクリスマスから始まっているはずだ。そこから菅内閣が終了する二〇一一年九月までの時間経過を読むのは、本書からは難しい。なにせ小説の前半はクリスマスと正月から幾月かの、一冬の物語に過ぎないはずなのだ。
 この部分を、私は細疵として読まない。木村文学における時間の亀裂が始まった証だと見たい。
 だから「発売日の日付けをたしかめ」ることは息苦しいのだ。小説の舞台は富山であり、女が仮に地震を体験しているのであれば、それを書かないことは不自然だ。地震を体験していないなら、「放射能漏れの隠蔽」を持ち出す理由がつかない。ここで「隠蔽」されているのは、木村紅美が「震災」をあえて書かなかった、そのことに他ならない。そして、にもかかわらず「放射能漏れの隠蔽」を持ち出さざるを得なかった、切迫感に似た「息苦しさ」が滲むのが、この不自然なほどに簡素極まりない数行である。隠蔽は、抑圧と言い換えてもいい。
 これは小説の外側から押し付けるような暴力的な読みだが、女が「写真」を嫌うのは、報道を連想させるからではないかとも思う。
 もうひとつ。木村文学は度々死者を書いてきた一方、自死者は徹底して避けてきた。『風化する女』のれい子さんが病死でなく自死であったなら、小説の哀切さは霧散しただろう。『たそがれ刻はにぎやかに』の結末は、自殺が困難だからこそ悶え苦しむような哀しさがある。『雪子さんの足音』は、雪子さんが息子を手がけたのではないか、あるいは自殺かと推測したくもなるが、異状死が警察の検死を受けないわけがない。野暮な見方だが、絞殺は痕跡が残るはずだ。
 ところが『夜の隅のアトリエ』の二人の男は、実に呆気なく自殺する。たしかに自殺の動機は説明可能なものと不可能なものとの複合だろうが、その動機の根源は、直接触れ合った館主でさえ分かりにくい。それどころか、自殺とするには奇妙と思いたくなる描写が挟まれている。

 電話のとなりに、アベ、の名前と先月の給与明細が記された茶封筒があった。小銭だけ入っている。丸めてコートのポケットに押し込めた。遺書らしきものは見当たらず、みずから死を選んだのか、不意のことか、わからない。卓上カレンダーは四月に変わり、次の日曜日が赤丸で囲まれ、コバヤシさん、とある。また絵画教室へ出るために仕事を頼む気でいたのだろう。ますます死ぬつもりはなかったのではないかと信じた。
(一五五頁) 

 木村文学において死がどのような運動になぞらえられてきたかは、正確に作品を追って確認しなければならない。しかし、『たそがれ刻はにぎやかに』の屋上を思わせる次の想像の場面が、『夜の隅のアトリエ』の死の力学の一端である、とひとまず見なしていいはずだ。

 このあいだ、先生をふり切り夜空にむかい階段を駈けあがっていったら、どんな光景が広がっていたのだろうと、思い描いた。屋上までたどりつくまえに、注意されたとおり底が抜けていてバランスを崩し、悲鳴もなくそのまま深い穴へ落ちていって固い地面にたたきつけられ、死んでしまってもいい気がした。
(九十七頁) 

 それは第一には落下だ。突然「底が抜け」るその一瞬で、落下した先の「地」に殺されるのが、『夜の隅のアトリエ』の死である。館主と秋生の死は、まさしく突然、底が抜けるような唐突な死に方だった。どちらの死の理由も、いつ死んだのかも、正確にはわからない。
 女は、同性の身分証を盗むことには何の躊躇いも覚えないにもかかわらず、男たちの死には極大の罪悪感を覚える。

 死んだのだ。あらためて突きつけられると、彼も館主も、自分が追いやった気がした。鞄の内ポケットに隠し持っていた粉末をひそかに取りあげて捨てたらよかった。脳裏をかすめてはいたものの、実行に移せなかった。いちどくらい、写真を好きなように撮らせてやればよかった。誘われるまま、ふたりで逃げたらよかった。どちらも出来なかった。チェリーで髪を切られながらさめざめと泣きだしたもうひとりの秋生の恋人は、最後に彼が共に過ごしたのが田辺真理子らしいと知ったら、助けなかった自分の罪を、執拗に問おうとするのではないか。常軌を逸する憎しみを抱き裁いてやろうと、あらゆる手段を使い、やがて行方を嗅ぎつける。自分は罪を負ったまま逃げつづける。
(一六〇頁) 

 これを、同性の女たちがどうでもいいからで、男たちには多少なりとも恋愛感情があったから、とだけでは読みたくない。事実だけ読むなら、館主と秋生の死については、いずれも対処策を「実行に移せなかった」だけで、仮にそうしていたとして自殺を止められたかはわからない。ここで重要なのは「助けなかった自分の罪」が「執拗に問」われるのではないかという、無根拠な不安である。実際には、名と住所を捨てた「田辺真理子」を、「もうひとりの秋生の恋人」が発見出来る可能性は高くないはずだ。
 だから、ここに書かれているのは他ならぬ自分が「罪」を「問おう」としている、すなわち自責である。
 第二の力学は水死だ。

 思いきって回すと、正面の鏡に、自分の全身が映った。途中までふたが閉まっている、水の満ちた薄青い浴槽に、館主が沈んでいた。壁も床のタイルも青く、閉め切られたくもり硝子の窓に裏庭の物置か植物かわからないシルエットが淡く映っている。髪がぐっしょりとし、まっ白い顔はむくんで眼も口も一文字に閉じられている。
(一五二頁) 

 自殺の現場を発見したとき、まず最初に映るのが「自分の全身」なのは注意すべきだろう。鏡はこの場面の直後、ほとんど唐突にも近い性急さで、秋生の服毒を見逃した記憶へと時間を折り返す。いずれにおいても問われるのは「助けなかった自分の罪」であり、鏡は自責の導入装置になっている。しかしより重要なのは、手首を切った館主が、浴槽に沈んでいることだ。
 この水死体の描写は、「魔女」をめぐる想像にまで引きずられる。それは、女が富山を去る最後の場面でもある。

 二十メートルほど先の隅に給水塔が建っている。照らしたら、そこまで行くのには、雪が腰の辺りまで埋もれそうに深い。よじのぼるのはあきらめ、ただ、見つめた。灰色のような空色をしたタンクの表面に光の輪が映る。神隠しの話は先生のでっちあげ で、魔女は暗い水のなかに、死んだまま閉じ込められているのかもしれない。隠れたのではなく殺されて沈められ、いまごろ骸骨と化している。
(一六七頁) 

 二つの水死体の共通点は、第一に「ふた」が閉められ、第二に沈んだまま、ということだ。
 総合するなら、『夜の隅のアトリエ』の死の力学は、まず突然の「地」との衝突があり、それから遺体が「水」に沈められる、という二つの手続きがある。そして主人公はその死に「自責」を覚える。乱暴を承知で、私は震災とサバイバーズ・ギルトとして読む。
 津波は、木村文学において決定的な打撃を与えたに違いない。そう断言したい。強烈なまでの感応があった。なぜなら他ならぬ「水」こそが、木村文学において常に別れを意味する形象だからだ。『夜の隅のアトリエ』以前の木村文学では、ただし当然、別れとは、人と人のすれ違いによる別れでしかなかった。亀裂以降の「水」は、関係性など完全に無視するような唐突さと、圧倒的な力で、人を破砕する。
 そこには明確な決別の瞬間すらなく、死を知った女が、ただ取り残されるだけである。

 読み返すごとに、欠落の多さに気付く小説である。
 小説の前半は富山を去る場面で終わるが、十三章からは館主が自分を描いた絵を一目見ようと、富山に帰還する「五、六年」後の物語が続く。しかし、なぜ女が館主によるスケッチを見たがるのか、小説内から直接読むことは不可能に近い。

 館主の遺作があるはずの民宿を初めて訪れるつものでいた。カードをもとに検索して見つけたホームページを時折りチェックしていた。じいちゃん、と先生が呼んでいた宿主は先代で、とうに亡くなった。息子が跡を継いだものの、年内で廃業するという。
 壁にかかった絵が写り込んでいる。人物像らしく見えるけれど、果たして自分がモデルなのかは、わからない。いったい、どんなふうに描かれているのだろう。後ろ向きで、白鳥座のほくろがある。もしも飾られているとして、見知らぬ人たちの視線にさらされ続けてきたのだと思うと、描かれたときに聞こえていた音が、耳の奥によみがえった。さらさら、きゅきゅ、かりかり。波打ちながら身体の内側を満たしてゆく。廃業まえにひとめ、たしかめたかった。
(一七三~一七四頁)

 書いてあることには書いてあるのだ。「いったい、どんなふうに描かれているのだろう」とあるから、好奇心だろう。耳の奥によみがえるなら、懐かしさもあるだろう。四方田犬彦は、2018年の木村紅美との対談で(群像2018年3月号『ボブカットの寄る辺なき女性たち』)女の、「自分が思っている自分」と「他人の中で自分を隠して、外側をどんどん取りかえていく仮面のような自分」との乖離に「疲れた主人公が、あるとき、自分のことを見ていた人にとっての自分のイメージを確認したい」と感じたのだ、と補って読んでいる。この解釈は、では主人公はペルソナとの乖離に「疲れ」ていたか、という問いは生じる。疲れたなら「外側をどんどん取りかえていく」生活をやめればいい。さすがに秋生の恋人も五年経てば追ってはこないだろう。罪悪感も一見和らいでいるように見える。結末を読む限りでは、むしろ「外側をどんどん取りかえ」る、「定めなき人間」(四方田犬彦)の生活が女には好ましいはずだ。
 しかし、わかる読みなのだ。
 四方田のように「疲れ」を補いでもしなければ、実際、この動機はよくわからないのである。たしかに波の音に「描かれていたときの音」と「館主の死に顔」が喚起され、館主、秋生に続いて自分の葬式を空想する場面も、「自分のことを見ていた人にとっての自分」を「確認」したい、という欲望の現れだろうから、四方田の読みは正確である。しかし、この補強をもってしても、「氷塊に居座られてから」すなわち罪悪感に囚われてから、「いつか彼の絵に会うことをただひとつの寄る辺として、旅をつづけてきた」その心理を読み解くことは難しい。

 最後にかささぎへ出勤したときに勇気を奮い住居の二階へあがったら、獅子と裸婦をテーマにしたデッサンが残っていたのではないかと考え始めると、仕事のあとどんなにぐったりしていても、いまだに眠れなくなる。うなされるどころか、そういう晩は、空想がこんこんとわきあがる限り、浸って、戯れていたい。
 何度も、頭のなかで、あの天井に近い窓から射しこむ光に埃が踊っていた階段をおそるおそるのぼっていっては、あるはずのアトリエを探した。ドアをあけると、狭苦しい質素な部屋じゅうにキャンパスが積まれ、つんとするにおいが漂っている。イーゼルに未完成の油彩画があって、木製のパレットに点々とこびりついたままの色とりどりの絵の具は、爪のさきほどの野の花が咲き乱れているみたいにみえる。
(…)
 デッサン練習に使うミロのヴィーナスの石膏像や本物のりんご、黒い斑点の浮きあがりだしたバナナが、イーゼルを取り囲んでいる。小鳥のさえずりが聴こえ、窓から裏の畑を見おろせる。チューリップ、ひまわり、コスモス。季節ごとに奥さんが育てた花々が揺れる。摘んできてモチーフにすることもある。或いはひたすらに雨戸を閉め切り、太陽と無縁でいる。案外と高価なアンティークのランプや壺が隠されている。
 思いつく限りあざやかに空想しているうちに、じっさいにそこに呼ばれ描かれた経験があるみたいに、記憶がすり替えられつつある。この遊びはどれだけくり返しても気が咎めない。どんなようすでも、行ったことなどないのに、なつかしさをおぼえる。
(一七五~一七六頁)

 想像図のアトリエは、外界の喧騒とは無縁な、穏やかな室内である。館主の奥さんも存命の、楽園の図だ。五年後の感情はもはや「うなされる」ような罪悪感ではなく、「なつかしさ」に等しいものへと脱色されているように見える。しかし、実際にはそうではない。女は「罪」を背負っている。館主の描いた背中の「ほくろ」を密かに「つないだ」とき、それは「十字架」に似ているのだから。
 この「十字架」は、かつて女が嘘をつき、店主に責められる原因となった「サワさん」の首に飾られたものでもある(一二四頁)。

 描かれおわったとき、なんの興味も持てない、と感じたはずだった。腕前などはなから信じていなかった。いつのまにやら、描かれたことによって永遠の命を与えられたみたいだと、いっぱしに錯覚していた。彼はダ・ヴィンチでもフェルメールでもないのに。
 芯から魂を吸い取られたと揺さぶられるほどの見事な肖像であったならば、きっと、盗んででも奪い去った。
 氷塊に居座られてからいままで、いつか彼の絵に会うことをただひとつの寄る辺として、旅をつづけてきた気がする。向かいあったら、どちらの作品も、捕まえられるかもしれない危険を冒してまで奪う価値など、自分を憐れみ笑いだしたくなるくらいに見出せなかった。頭の隅でオレンジの炎が勢いよくはぜた。キャンパスの表面がめくれあがり真黒くなって焼け落ちる音が弾けた。夜明けまえの空に煤がひらひらと舞い、あとにはひと握りの灰が残る。
(一八九頁) 

 これは四方田の読みよりはるかに乱暴な補いだが、女が絵を確認したいと願い続けたのは、罪悪感に囚われる前の「魂」の写し絵を期待していたのだと思う。「氷塊」が居座るのは、館主と秋生の死をほぼ同時期に知ってからだ。想像のアトリエが喜ばしい楽園であるように、罪を知る前の「後ろ向きの裸婦」は、亀裂の先から見返せば、「野の花が咲き乱れているみたいな」明るさに生きているはずなのだ。
 心象としてスケッチを燃やすことは出来ても、罪悪感は残存する。むしろ燃焼こそが、罪悪感を強化するだろう。想像のアトリエはもはや「死んだ元館主」が「白髪から水滴をしたたらせ、キャンパスに裸の女を描いている」凄惨な空間と化すし、館の非常出口の鍵はいつまでも捨てられない。

 ポケットのうえから鍵に触れた。チリリ。いまでは、どこへ通じるドアをあけるためのものだったか、すぐには思い出せないときがある。思い出せないふりをしている。煌々と輝くガソリンスタンドがたちまち後方へ遠ざかった。夜が更けていく。置き去りにしてきた、名前を忘れたふたりの男は、きっと、この同じどこかの隅で、生きつづけている。嘘だ。やすらかに死んだ。
 いままでもこれからも、知らない町から町へと流れ去ってゆくことだけがたしかだ。追われているようなこの暮らしは安住よりも生きている心地を得られる。
(二〇〇頁) 

 これは「嘘」なのだ。女が自死者の名を忘れるわけがないし、「生きつづけている」なんて見え透いた嘘でしかない。しかし、そのように死を隠蔽せざるを得ない心の動きがある。それが抑圧であり、罪悪感だ。「追われている」のは罪にだが、「安住」しない生活は束の間それを忘れさせてくれる作用があるだろう。
 『夜の隅のアトリエ』の輝きが特異なのは、木村文学において、おそらく初めて倫理が主題となったからだ。このあとに続く『まっぷたつの先生』もそうだし、『雪子さんの足音』の薫を支配するのもまた罪悪感である。『たそがれ刻はにぎやかに』や『ボリビアのオキナワ生まれ』の男たちが、女を手酷く扱うことにほとんど罪悪感を覚えないのとは、対照的である。
 この倫理の主題は、私は震災とサバイバーズ・ギルトがもたらしたものだと思う。とりわけ木村文学の根底にある「水」こそが、強烈な動揺を与えられた。小説の亀裂は、生き残る者の罪悪と倫理の世界、その両岸の境界線を意味している。
 四方田犬彦は、『夜の隅のアトリエ』以降の木村の小説を「非常に大きな枠組みで、民俗学やそれにつながる物語の援用が少しずつはっきり出てきたような感じ」と評し、短編『馬を誘う女』を「震災後の人々の無意識の世界にどのような接近すべきか」という問を孕むものだとしている。この「人々の無意識の世界」へのアプローチに民話を援用する構成は、『黒うさぎたちのソウル』の古謡の扱い方に近似している。「無意識の世界」とは「ソウル」とも言い換えられるだろう。しかし、その『馬を誘う女』においては、『黒うさぎたちのソウル』のようなリアリズムの基盤は柔らかく崩れている。震災をめぐる不安を直接的に描いた『八月の息子』は、記憶の限りでは、心的外傷のような唐突な不安の挿入をされていたはずだ。民話とは、魂の傷ついた作家が物語を維持出来なくなったとき、ひとつの処方箋として手を伸ばすものではないかと書けば、さすがに邪推が過ぎるだろうか。
 木村は宮城県出身の作家であり、岩手を主題にした『イギリス海岸』もある。この素朴な事実はもちろん重要だ。しかし、震災という巨大な現実を前にしてリアリズムの地盤が揺らぎ、そこから秩序と現実性に亀裂の入った、柔らかな土地を歩き始めた、というだけの読みには抵抗感がある。そんなことは作家を読まなくても言えることだ。重要なのは、『夜の隅のアトリエ』以降の木村が、どのように、そしてなぜ震災という亀裂に感応したか、亀裂以前とどう連続し乖離したかだろう。それを読むのが、作家を読むことだと思う。