『エンドレス・ワルツ』補論 稲葉真弓『抱かれる』について

 

抱かれる

抱かれる

 

  スケッチの集成である。文芸誌に掲載されたのは表題作と『ガラスの魚』のみで、ファンタジー風の佳作『万国旗』を除けば、あとは習作の感が強い。「発表するつもりもなく書き綴ったものばかり」と後書きにある通り、確かに『琥珀の街』ほどの出来栄えではない。それを本にまとめたのは、河出書房の太田美穂さんの勧めがあったからだという。『エンドレス・ワルツ』の編集者だ。
 一方で、末尾の『ガラスの魚』を読むと、女流文学賞を受賞したことを踏まえても、『エンドレス・ワルツ』の次著として出版したくなる気持ちはわかる。同時に、前作がたしかに読み応えのある中編でありながらも、どこか味の満ち足りない理由も、ぼんやりとわかる。
 結論から書けば、『ガラスの魚』は、『エンドレス・ワルツ』を未完としたとき、その補筆に相当する作品である。
 
 『ホテル・ザンビア』から『エンドレス・ワルツ』そして『ガラスの魚』まで、自殺するのは男だ。「速度が問題なのだ。音にしても言葉にしても。どれだけ早く走らせることができるか」という、『エンドレス・ワルツ』のカオルの言葉は、肉体関係のある「私」の義兄にこう言い直される。

「やっぱり車はいいよな。(……)追いかけたり、追いかけられたり。(……)そうしているうちに境界がなくなるものな」
「境界って?」
「いろんな境界だよ。境目がなくなって、スピード感だけになる。その瞬間がたまんないんだよ。走っているときは前しか見えない。なんだか知らないけど体で実験しているような気分になる」
(一四三頁)

 「速度」の主題の再演がここにはあるが、重要なのは、この兄の言葉をめぐる「私」の解釈である。

 止まったときのことを兄は話さない。走り続けて止まったらどんな気分がするものか……。しかし、少女にはわかる気がする。兄が何を追いかけ、何に追いかけられているのか。立ち止まって周りを眺めることが恐ろしいのだ。「馬鹿みたい」と言いかけて少女は口をつぐむ。兄は、自分がこの世界を本当に駆け抜けることができると、本当に砂漠のような明るく渇いた、強い世界へ抜け出ることができると信じているのだろうか。
(一四四頁)

 「明るく渇いた、強い世界」には、まず『エンドレス・ワルツ』のカオルが「僕は北へ行くんだ。まだだれも行ったことのない極北。そこには熱はない」と語り、「白」の空虚が繰り返し物語られることを想起しなくてはならない。より注目すべきは、この「立ち止まって周りを眺めることが恐ろしい」という、あまりにも素朴な解釈である。端的にそれは、私には「馬鹿みたい」なのだ。「口をつぐむ」という気遣いの動作が、そしてこの感想に続く、小説あるいは私の動きが、何よりそれを本音だと物語っている。私は兄の顔から目を反らし、公園を「眺める」。

 夏の木々が茂り始めていた。芝の表面が青く輝いていた。生命が、隅々から湧き出ているような気がした。
(……)子供が、転びながら駆け抜けていく。噴水の光が午後の光を反射して、青く光りながらタイルの縁からこぼれ落ちていく。足元の花壇にはガーベラやホウセンカが揺れていた。砂漠ではなく、こんな世界を兄とずっと歩いていたかった。それは、なんだかすぐ手に届きそうなところにある世界のようにも思われた。兄妹がだめなら、他人同士でもいい。他人がだめなら、兄妹でもいい。
(……)
「広いよね。広くて、明るいよね。別の世界みたい。また来ようよ」兄は黙っている。
(一四四、一四五頁)

 明るい世界を夢見るのは私も兄も変わらない。だが私にはそれは「すぐ手に届きそうな」近しさがあり、公園の情景は具体そのもので、「お弁当」を携えたピクニックや、「昼寝」といった営みの図(一四六頁)が容易く思い浮かぶ。『エンドレス・ワルツ』の序章が「北は、いつも私とカオルの足元に、手に届くところにあったのだ」という一文で結ばれていることを鑑みれば、この形容詞の選択は、単なる偶然の一致ではないはずだ。幻を見るのは男女ともに変わらない。だが稲葉真弓の女の夢には、「手に届きそうな」具体的なビジョンが伴っている。それがないから、男の夢は「馬鹿」なのだ。
 幸福な夢は、兄の交通事故で潰える。「横浜港に近い、人気のない巨大な倉庫の壁」に、「まるで自分から突っ込んだような形で」止まっていた車のなかで、遺体となって発見される。自殺か事故かは判然としないが、「速度」の過剰による死と読んでいいはずだ。
 私を深く傷つけるのは、兄の死よりも、むしろその手帳に遺された、「別の男と暮らしているらしい別れたままの母親の写真」である。

 その女の、遠くを見ているような視線を目にしたとき、少女は自分の体が酸で焼かれていくような気がした。兄を思っていた気持ちの縁が、ちりちりと焼け焦げ、ただれがどこまでも広がっていくような気がした。これまでくっきりとあった兄の輪郭が、にじんでぼやけて別の姿に変わっていくような気がした。
「最低よ」少女はつぶやく。兄にもっと別のことを言いたいはずなのに、言葉がみつからない。少女は机の上にぼんやりとノートを広げる。そのたびに、渇いていた目に涙がにじんで、ゆっくりとノートの上に滴り落ちていくのだった。
(一五一頁)

 「最低」とは、もともと兄が使い古していた形容だった。私の母と再婚した父について、「結婚や再婚で満足できるやつらは最低なのだと低く笑」い、痩せ細る私に「ダイエットなんてするやつは最低だ」と言い放つ。「兄はなんでも"最低"と言いたがる。太っているのも痩せているのも、すぐに男と寝る女も、父親も母親も、金持ちもインテリもみんな"最低"なのだ」(一二〇頁)。最高なのは「人殺し」で、「こんなところで年なんかとりたくない」といい、「人が人を殺す正当な理由」として戦争に憧れる。最低とは日常の安寧であり、『エンドレス・ワルツ』のカオルが「僕はアナーキーでいたい」と語るのと、対極の地点にある。この思想というか、熱への憧憬はありふれている。
 大事なのは、「私」にこの形容が伝染した場面である。ライブ中に空腹で倒れた私は、搬送先の病院で処女でないことを母に知られる(性交の相手は義兄だ)。病室では、認知症で食事の取れなくなった老婆に、点滴の針がいつまでも刺してある。

 みんな見られたのだ。みんなが黙って私の体を内側も外側も自由にしたのだ。その怒りのせいで、少女の体は震えてくる。眠っている間に、たくさんの見知らぬ手が体に触れ、冷たい機械が内側を覗きこみ、そして私の秘密は、もうなくなってしまった。
 (……)最初の男がだれだったのか、その男とどんなことをしたか、死ぬまで人に話すことはないだろうと少女は思う。食べなくなったのは、そんなことではないのだ。そんな理由ではない。理由なんか何ひとつない。もし理由があるにしてもあなたたちに知る権利はないのだ。
 (……)少女はなぜか、あんなふうに尿にまみれて放り出されている老女を、だれよりもかわいそうだと思う。わけもわからない人たちに体をいじられ、半裸のまま放り出されて死んでいく老女を、だれよりも不幸だと思う。わけのわからない人たちに体をいじられ、半裸のまま放り出されて死んでいく老女を、だれよりも不幸だと思う。
「みんな、最低だわよ」
(一四一頁) 

 私が食事を取らないのに理由はない。強いて言えば、それは私が自分の身体をどう扱おうが自由だからである。誰と性交し、誰と秘密を持とうが、私にはその自由がある。認知症の老女が食事を取らないのが、たとえ中枢神経系の衰退の果てであろうが、そこには本人の自由があるとする。「体をいじ」ること、他人の肉体の自由を侵害することが「最低」なのである(この暴力性は、強姦に等しい初交を描く『うさぎ』でより血生臭く語られる)。
 裏返せば、稲葉真弓における性へのおおらかさは、肉体の自由の遵守、とも言い換えられる。『ガラスの魚』は一過的な拒食障害を描いたものだが、そこには神経症じみた、文学的お節介のようなものは読み取れない。むしろ、身体のなかの汚物を出し切るような、清々しささえ漂っている。稲葉が不倫や不貞を描くときの、不思議に爽やかな筆致とも似ている。ただ、そうしたいから、それが自由であるから、そうするのである。
 もっとも、兄が血の繋がった母の写真を手帳に貼り付けているのを知ったときの「最低」は、身体の自由を侵す「最低」とはかけ離れている。

「ねえ、血のつながりよりも濃いものってあるよね」少女は舌足らずの口調で言う。
 兄は馬鹿にしたように言う。「そうかな。みんな他人だろ?」
「他人でも、濃いものってあると思う」
「俺にはないな。そんなもの、うっとうしいだけだ」
(一二七頁)

 このやり取りの勘所は、「みんな他人だろ」とは口にしつつも、兄が否定するのは「血のつながりよりも濃いもの」がある、という言説でしかない、ということだ。結局兄が思慕し続けていたのは「血のつながり」がある母であり、一見「馬鹿にしたように」それを否定することも、そのくせ手帳に女々しく写真を貼り付けることも、おそろしく凡庸な、兄の語彙を借りれば「最低」の部類に属する行為のはずなのだ。だから、その写真を前にして主人公が放つ「最低」とは、私の形容ではなく、兄の形容なのである。この「最低」とは、他ならぬ兄の言葉を借りた罵りであり、追悼でもある。
 こういう短く澄んだ会話と、さりげない意味の遷移を読むと、稲葉はつくづく優れた小説家だと思う。稲葉はひとつのモチーフや語に複数の意味を入れ込む技法を得意とするが、『ガラスの魚』の「最低」は最たる例だろう。作中のもうひとつの例は、題名の「グラス・フィッシュ」だ。
 『エンドレス・ワルツ』の終始が雪で結ばれたように、『ガラスの魚』もグラス・フィッシュに始まり終わる。

 何匹かが群れかたまり、痙攣するようにひくひくと狭い領域を泳いでいる。藻から出てもすぐに藻の中に隠れてしまうのはきっと臆病なせいだろう。魚の肉は半透明で、骨だけが、白く浮き上がっていた。細く淡いピンクの血管が、白い骨と肉をつなぐ組織のようにも見えた。中に何匹か、下腹を食いちぎられ腸が飛び出しているグラス・フィッシュがいた。バランスが取れないのか、傾きながら泳いでいた。
 小さな透き通った魚をなぜ好きになったのかわからない。少女は春の週末、何度か水族館に通った。グラス・フィッシュは腹を食いちぎられても骨だけで生きていた。その魚の白く細い腸の形が、帰り道のバスに揺られる少女の意識の中で、いつも陽炎のように揺れるのだった。
(百十五頁) 

 冒頭、春の水族館で魚を見る場面において、注視されるのは「骨だけで生きて」いるその痩せ細った姿であり、「帰り道のバスに揺られる少女」と共に「白く細い腸」のイメージが「揺れる」のであるから、「骨だけが、白く浮き上が」る魚と拒食の末に痩せ細る私とは、明白に重なっている。
 一方で、末尾、兄の手帳に深く傷つけられた私が、水族館を再訪する場面では、その視線はわずかにずれている。私はすでに食欲を取り戻し、「こけた頬に肉が付いていく気配」すら感じ取っている。

 今日、少女はあの魚を見に来たのだった。透き通った体の中で骨だけが白く燃えるように見えた小さな魚、腹を食い破られても生きていたグラス・フィッシュの姿をなぜか急に見たくなったのだった。
(……)褐色の藻の影に、透き通った魚の骨のひらめきがよぎり、少女の前を通り過ぎていた。血管の色が明るいピンク色に輝いている。白く燃えるような骨の形が、透き通った肉の中でネオンのように輝いていた。そして何秒か後、あの白い腸の影が傾きながら素早くよぎっていくのがみえた。息がもれた。その傷ついた魚が見たかったのだ。もう、見たいものはほかにはなかった。少女はゆっくりと水槽の前を離れる。
 バスは、緩やかに発車する。夏の光を一杯に浴びた倉庫と海を残して、熱の中を進む。町の上空には青い空があった。
(一五三頁) 

 注目すべきは、腸が飛び出るほどに「傷つ」きながらもなお泳ぎ続けている魚の姿こそが、私が切実に見たいものだった、というその遷移である。ここでは魚は、痩せ細った私の分身から、義兄への失恋に傷付きながらも、食欲を取り戻して生き続ける私の現身へと変じている。
 女は自死を選ばない、とも言い換えられる。『ホテル・ザンビア』から『ガラスの魚』まで共通するのは、たとえ「馬鹿みたい」な思想の末に自殺を選んだ男をどれだけ女が愛していたとしても、結局は女が生き延びるという構図である。それだけ稲葉真弓の女はしぶといのだ。だからこそ、『エンドレス・ワルツ』の結末、すなわち鈴木いづみの史実上の自殺は、稲葉真弓の小説世界にはそぐわない。あれだけカオルの暴力に徹底的に抗した女が、時代遅れや孤独を理由に死を選ぶことは、稲葉には肌で理解できなかったのではないか。カオルが望んでいた、音のない極北はこんな風景だろうか、と現実の雪景色に重ねて夢見る序章の鈴木いづみは、稲葉の「私」から地続きである。そして終焉を描く終章、私という一人称は「彼女」へと脱色する。
 このとき自死を選ぶのは、「私」ではなく、「彼女」という他者だったのだろう。