白黒結晶 清水博子『ぐずべり』について

 

ぐずべり

ぐずべり

 

  傑作である。清水博子を読むならこの一冊、と決めていいかもしれない(まだあと二冊残っている)。そして清水博子の不運のひとつは、本書でなく『処方箋』で野間文芸新人賞を獲得したことだと思う。賞の受賞作よりもその前後のほうが素晴らしい、とは文芸では実にありふれたことで、それを強調するのも今更の感しかないが、しかし清水博子はやはり本書で何がしかの賞を得るべきだったのではないかと惜しくてならない。とりわけ、収録作のうちの、『亜寒帯』で。
 小説の書かれた時期を厳密に考えるのは難しいし、まして清水博子のような作家に、そのような史料は期待しにくい。完成と掲載までのタイムラグも当然あるだろう。つい最近亡くなったばかりだから、あるいはその正確な日付を知るのはさほど難しくないのかもしれないが、『ぐずべり』に収録された二作はいずれも群像の掲載作で、『亜寒帯』は1999年、表題作は2002年。『処方箋』は2001年にすばるに掲載された小説だから、『ぐずべり』はちょうど『処方箋』という、半ば清水自身の治癒過程じみた小説の、その前後を収録した本になる。病前と病後、と呼ぶのは言葉遊びに過ぎないが、『亜寒帯』と『ぐずべり』は、それぞれ『ドゥードゥル』と『処方箋』で清水博子が追い求めたものの結晶である、と先に結論出来る。

 前者は物語を疎い、描写のみで成立可能な小説を追及していくベクトルであり、それが北海道という特異な地(思い返せば私は驚くぐらい北海道が舞台の小説を読んでいない)そして十三歳という特異な時間の描写へと結実する。描写だけで小説を作り上げていきたいなら、特別なもの、自分に古く根ざしたものを描写していくのは自然だし、それは『街の座標』の、ある土地の息遣いはどうすれば書けるのか、という問を正しく生きた結果でもあるだろう。過去形・現在形・未来形の時制のバリエーションが絡み合い、あるいは少女以外、時には物体にも視点が飛んでいくのもまた、物語以外で小説に動きを与えようとする、描写小説の試みと見て差し支えないはずだ。つまり、『亜寒帯』は『街の座標』から『ドゥードゥル』において体現し切れなかったものの達成、といえる。もちろん『ドゥードゥル』の戯画性も多少は引き継いでいるが、それは少女の毒舌、というしっくりくる形式に落とし込まれている。
 後者は物語の許容であり、時間感覚の獲得である。その典型として、清水が書くのは『亜寒帯』と同じ藍田相子の属する、一族の家族史である。たぶん『処方箋』以前の清水博子であれば、そのような試みは許さなかっただろう。たとえば、『亜寒帯』の藍田亜子が、こう厭うように。

 結婚したくない、というこざかしい返答で藍田が隠そうとしたのは、家庭の事情が語られることへの戸惑いだった。父親の死、母親の死、兄弟姉妹の死は、ひとの子であればだれもが経験するありふれた場面でしかないのに、家族を亡くしたひとは喪失を埋め合わせるために物語をはじめずにいられないらしい。親が子に自分の親の死を聞かせ、その子が親の死を悲しみ、さらにはいつか孫がだれかの親となり死が語り継がれる。家庭の物語の循環は無限であり、ましてやそれらがすべて文章に綴られ流布する事態を想像すると、途方もなく死にたくなる。藍田はいまもこれからも家族の死を書くつもりはないし、書かれずにすむよう家族を持ちたくない。(P.44)

 実際に『ぐずべり』の家族史をどう捉えるかは難しい。家族史が単なる事実の列挙から成り立つから描きたかったのか、それとも物語でしかない家族史の些末な事項を書き連ねることで無化させたかったのかは、この小説だけでは判断が難しい。あるいは、両方かもしれない、と思う。
 前者に通じるのは、たとえば「ゆらぐ光の風景」を、「きれい、といって言葉に躰を預けるやり口も、きたない、といって言葉で身を守るやりくち」も通過せずに「なにも考えずながめているのがよかった」『亜寒帯』の藍田亜子の態度である。それは単なる女子中学生の自己嫌悪ではなくて、清水博子の文体に潜む願望そのものだろうと思う。感情による形容を差し挟むことなく、「なにも考えずながめている」対象の複雑さ、その立ち上がり揺らぎを全て書き表していきたいという夢想は、清水博子の、煩瑣であるが時に透明といっていいほど澄んだ文体に通じる。たとえば、次に引く『亜寒帯』の書き出しは、私が読んできた清水博子の言葉では、いちばん響く。心のなかに留めて、諳んじれるようにしておきたいぐらいだ。


 タイマーの設定時刻ちょうどにストーブが着火し、サーモスタットが作動し温風が吹きだし、机につくねられた本の頁をめくり、冷えきっていた窓枠がしだいに露で覆われ、遠くからやってきた除雪車が窓枠の端に入り、室内を暖める石油を備蓄した屋外タンクのまえをのろのろと通り過ぎ、そのうしろからあらわれた黒い犬がならされたばかりの雪をえぐって駆け出すがすぐにまた駆けるのに厭きたようにたちどまり、路肩に引かれたての轍を一足跳びし、また薄暗いうちからエンジンがかけられた無人の自家用車を一周して去り、そうしておもてで動くものはすっかりなくなり、二重窓で遮断された部屋のストーブは舌打ちのような音をたてながら室温をあげていき、外壁と内壁のあいだに埋められた触れれば皮膚に微細な傷をつける断寒材が熱をふくみ、燃えさかっていた炎が種火となり、窓枠の露がついに雫となって本の頁にしたたりおち、滴のレンズの作用で文字の輪郭がゆがみ、昨夜読まれることのなかった文字がぼやけ、水のしみた頁をゆっくりと裏返して温風がとまり、部屋はもうすっかり暖まっているのに、藍田の家の娘はまだ睡っている。(p.5)

 ここで「着火」するのは小説であり、たとえ「藍田の家の娘」が「睡って」いたとしても、世界には微細な動作が満ち溢れている。紙の白を覆い潰すかのようなその列挙は、「言葉に躰を預け」るのでもなく、「きたない、といって言葉で身を守る」のでもなく(これは清水なりの自己反省かもしれない)ただ植物図鑑の頁をめくるような楽しさがある。何でもない少女の部屋に、『亜寒帯』の火と風と水が動いていて、もちろん日々生きているうえでは気にも留めないような細かな現象だろうが、そこに目の焦点が合う。他人の眼が乗り移ってくるような面白さは、小説のひとつの本態だろう。あるいは、ここには、なんとかして小説を動かしていこう、という清水なりのいじましい「タイマー」がある。

 寝ても醒めても、おなじみぶりの繰り返しにすぎない。寝ても醒めても、雪はまっすぐにひっきりなしに降っていて、いつ降りはじめたかもいつ降りやむかもわからず、だからだれも雪のことなど意識しない。(p.6)

 『亜寒帯』の力学は、仄かな思慕を抱く相手の「牛乳色の外套」や、あるいは雪に代表される「白」と、石炭やバレンタインの「黒い菓子」(この形象の重なりは、清水なら眉を顰めるだろうが、美しい)に代表される「黒」から成る。書かれない空白の白、書かれる文字の黒、のせめぎ合いと読んでもいいだろう。小説は書かれないこと、書かれたことの渦として読める。
 『亜寒帯』は、白と黒の物語である。最後は石炭の黒に汚された藍田亜子が、憧れていた女が「牛乳色の外套」を脱ぎ去って、不倫相手と車で走り去っていくのを目撃する場面で終わる。白から黒とは、書く動作そのものである。清水博子が度々失敗してきた、書く動作自体を小説として結晶化させようとする試みは、『亜寒帯』において完成している。あるいは、白から黒とは、書かれない世界の丸裸の姿が、言葉によって汚れていく流れでもある。『街の座標』で経血と言葉が不潔さにおいて結び付けられたように、ほぼ描写されないに等しいが、『亜寒帯』は初潮の小説でもある。
 初潮について言外に書かれた小説は、たとえば津村節子の『茜色の戦記』のように、普通は「赤」を主題の色に選ぶだろう。そこに「黒」を選ぶのが、清水博子の非凡さだ。

 ひとつ興味深い点を挙げておきたい。動物の立ち位置だ。藍田亜子が美術室で昼食のパンを食べさせている猫の「ニキ」は、「二毛つまり白と黒のまじりあった鼠色」として描かれる。書く黒と書かれない白のせめぎ合いとは、徹頭徹尾、人間の世界の出来事でしかない。清水がこの「鼠色」の動物の方向性に書き進めていけば、あるいは別の発展があったのではないかと思う。清水なら、こんな妄想は真っ先に馬鹿にするだろうが。
 美術室の石炭ストーブは、「赤くなり、熱くなり、蒸気を発し、黒い石を薬のような白い粉末に変える、そんな金属の塊」(p.54)である。「黒」の石炭を「白」の灰へ変換するのが炎である。書かれた言葉は覆されない。初潮は引き返せない。本当であれば、白は黒に塗り潰される。「白」の側に位置していたはずの女が、不浄の世界へ消えていくのを目撃した、その小説の最後の文章を読み返す。

もう帰るきっかけなど見出せはしないのだと、藍田はちいさな絶望をひとついだいたが、後年記憶に残りつづけるのは、絶望感ではなく、女の愚痴でもなく、この日の大胆ともいえる自身の行動でもなく、写真館特有の薬品のにおいでもなく、牛乳色の外套の女のことですらなく、ストーブの通気口からのぞいていた石炭の熛火だけだった。(p.80) 

 ここで「石炭の熛火」が記憶に焼き付くのは、それが黒から白へ逆戻りしていく装置だからだ。初潮なくしては、疎ましい妊娠も結婚もあり得ない。言葉なくして書くことの苦しみもないだろうし、感情を宿した形容詞で(たとえば受け止められない経血が垂れ落ちるように)世界を汚すこともない。だから藍田相子=清水博子においては、白から黒へと巻き戻す「石炭ストーブ」が、夢の機械として立ち現れてくる。幻である。故に甘い。『亜寒帯』は、そんな苦味を湛えた、少女小説の傑作である。

茜色の戦記 (新潮文庫)

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