『エンドレス・ワルツ』補論 稲葉真弓『抱かれる』について

 

抱かれる

抱かれる

 

  スケッチの集成である。文芸誌に掲載されたのは表題作と『ガラスの魚』のみで、ファンタジー風の佳作『万国旗』を除けば、あとは習作の感が強い。「発表するつもりもなく書き綴ったものばかり」と後書きにある通り、確かに『琥珀の街』ほどの出来栄えではない。それを本にまとめたのは、河出書房の太田美穂さんの勧めがあったからだという。『エンドレス・ワルツ』の編集者だ。
 一方で、末尾の『ガラスの魚』を読むと、女流文学賞を受賞したことを踏まえても、『エンドレス・ワルツ』の次著として出版したくなる気持ちはわかる。同時に、前作がたしかに読み応えのある中編でありながらも、どこか味の満ち足りない理由も、ぼんやりとわかる。
 結論から書けば、『ガラスの魚』は、『エンドレス・ワルツ』を未完としたとき、その補筆に相当する作品である。
 
 『ホテル・ザンビア』から『エンドレス・ワルツ』そして『ガラスの魚』まで、自殺するのは男だ。「速度が問題なのだ。音にしても言葉にしても。どれだけ早く走らせることができるか」という、『エンドレス・ワルツ』のカオルの言葉は、肉体関係のある「私」の義兄にこう言い直される。

「やっぱり車はいいよな。(……)追いかけたり、追いかけられたり。(……)そうしているうちに境界がなくなるものな」
「境界って?」
「いろんな境界だよ。境目がなくなって、スピード感だけになる。その瞬間がたまんないんだよ。走っているときは前しか見えない。なんだか知らないけど体で実験しているような気分になる」
(一四三頁)

 「速度」の主題の再演がここにはあるが、重要なのは、この兄の言葉をめぐる「私」の解釈である。

 止まったときのことを兄は話さない。走り続けて止まったらどんな気分がするものか……。しかし、少女にはわかる気がする。兄が何を追いかけ、何に追いかけられているのか。立ち止まって周りを眺めることが恐ろしいのだ。「馬鹿みたい」と言いかけて少女は口をつぐむ。兄は、自分がこの世界を本当に駆け抜けることができると、本当に砂漠のような明るく渇いた、強い世界へ抜け出ることができると信じているのだろうか。
(一四四頁)

 「明るく渇いた、強い世界」には、まず『エンドレス・ワルツ』のカオルが「僕は北へ行くんだ。まだだれも行ったことのない極北。そこには熱はない」と語り、「白」の空虚が繰り返し物語られることを想起しなくてはならない。より注目すべきは、この「立ち止まって周りを眺めることが恐ろしい」という、あまりにも素朴な解釈である。端的にそれは、私には「馬鹿みたい」なのだ。「口をつぐむ」という気遣いの動作が、そしてこの感想に続く、小説あるいは私の動きが、何よりそれを本音だと物語っている。私は兄の顔から目を反らし、公園を「眺める」。

 夏の木々が茂り始めていた。芝の表面が青く輝いていた。生命が、隅々から湧き出ているような気がした。
(……)子供が、転びながら駆け抜けていく。噴水の光が午後の光を反射して、青く光りながらタイルの縁からこぼれ落ちていく。足元の花壇にはガーベラやホウセンカが揺れていた。砂漠ではなく、こんな世界を兄とずっと歩いていたかった。それは、なんだかすぐ手に届きそうなところにある世界のようにも思われた。兄妹がだめなら、他人同士でもいい。他人がだめなら、兄妹でもいい。
(……)
「広いよね。広くて、明るいよね。別の世界みたい。また来ようよ」兄は黙っている。
(一四四、一四五頁)

 明るい世界を夢見るのは私も兄も変わらない。だが私にはそれは「すぐ手に届きそうな」近しさがあり、公園の情景は具体そのもので、「お弁当」を携えたピクニックや、「昼寝」といった営みの図(一四六頁)が容易く思い浮かぶ。『エンドレス・ワルツ』の序章が「北は、いつも私とカオルの足元に、手に届くところにあったのだ」という一文で結ばれていることを鑑みれば、この形容詞の選択は、単なる偶然の一致ではないはずだ。幻を見るのは男女ともに変わらない。だが稲葉真弓の女の夢には、「手に届きそうな」具体的なビジョンが伴っている。それがないから、男の夢は「馬鹿」なのだ。
 幸福な夢は、兄の交通事故で潰える。「横浜港に近い、人気のない巨大な倉庫の壁」に、「まるで自分から突っ込んだような形で」止まっていた車のなかで、遺体となって発見される。自殺か事故かは判然としないが、「速度」の過剰による死と読んでいいはずだ。
 私を深く傷つけるのは、兄の死よりも、むしろその手帳に遺された、「別の男と暮らしているらしい別れたままの母親の写真」である。

 その女の、遠くを見ているような視線を目にしたとき、少女は自分の体が酸で焼かれていくような気がした。兄を思っていた気持ちの縁が、ちりちりと焼け焦げ、ただれがどこまでも広がっていくような気がした。これまでくっきりとあった兄の輪郭が、にじんでぼやけて別の姿に変わっていくような気がした。
「最低よ」少女はつぶやく。兄にもっと別のことを言いたいはずなのに、言葉がみつからない。少女は机の上にぼんやりとノートを広げる。そのたびに、渇いていた目に涙がにじんで、ゆっくりとノートの上に滴り落ちていくのだった。
(一五一頁)

 「最低」とは、もともと兄が使い古していた形容だった。私の母と再婚した父について、「結婚や再婚で満足できるやつらは最低なのだと低く笑」い、痩せ細る私に「ダイエットなんてするやつは最低だ」と言い放つ。「兄はなんでも"最低"と言いたがる。太っているのも痩せているのも、すぐに男と寝る女も、父親も母親も、金持ちもインテリもみんな"最低"なのだ」(一二〇頁)。最高なのは「人殺し」で、「こんなところで年なんかとりたくない」といい、「人が人を殺す正当な理由」として戦争に憧れる。最低とは日常の安寧であり、『エンドレス・ワルツ』のカオルが「僕はアナーキーでいたい」と語るのと、対極の地点にある。この思想というか、熱への憧憬はありふれている。
 大事なのは、「私」にこの形容が伝染した場面である。ライブ中に空腹で倒れた私は、搬送先の病院で処女でないことを母に知られる(性交の相手は義兄だ)。病室では、認知症で食事の取れなくなった老婆に、点滴の針がいつまでも刺してある。

 みんな見られたのだ。みんなが黙って私の体を内側も外側も自由にしたのだ。その怒りのせいで、少女の体は震えてくる。眠っている間に、たくさんの見知らぬ手が体に触れ、冷たい機械が内側を覗きこみ、そして私の秘密は、もうなくなってしまった。
 (……)最初の男がだれだったのか、その男とどんなことをしたか、死ぬまで人に話すことはないだろうと少女は思う。食べなくなったのは、そんなことではないのだ。そんな理由ではない。理由なんか何ひとつない。もし理由があるにしてもあなたたちに知る権利はないのだ。
 (……)少女はなぜか、あんなふうに尿にまみれて放り出されている老女を、だれよりもかわいそうだと思う。わけもわからない人たちに体をいじられ、半裸のまま放り出されて死んでいく老女を、だれよりも不幸だと思う。わけのわからない人たちに体をいじられ、半裸のまま放り出されて死んでいく老女を、だれよりも不幸だと思う。
「みんな、最低だわよ」
(一四一頁) 

 私が食事を取らないのに理由はない。強いて言えば、それは私が自分の身体をどう扱おうが自由だからである。誰と性交し、誰と秘密を持とうが、私にはその自由がある。認知症の老女が食事を取らないのが、たとえ中枢神経系の衰退の果てであろうが、そこには本人の自由があるとする。「体をいじ」ること、他人の肉体の自由を侵害することが「最低」なのである(この暴力性は、強姦に等しい初交を描く『うさぎ』でより血生臭く語られる)。
 裏返せば、稲葉真弓における性へのおおらかさは、肉体の自由の遵守、とも言い換えられる。『ガラスの魚』は一過的な拒食障害を描いたものだが、そこには神経症じみた、文学的お節介のようなものは読み取れない。むしろ、身体のなかの汚物を出し切るような、清々しささえ漂っている。稲葉が不倫や不貞を描くときの、不思議に爽やかな筆致とも似ている。ただ、そうしたいから、それが自由であるから、そうするのである。
 もっとも、兄が血の繋がった母の写真を手帳に貼り付けているのを知ったときの「最低」は、身体の自由を侵す「最低」とはかけ離れている。

「ねえ、血のつながりよりも濃いものってあるよね」少女は舌足らずの口調で言う。
 兄は馬鹿にしたように言う。「そうかな。みんな他人だろ?」
「他人でも、濃いものってあると思う」
「俺にはないな。そんなもの、うっとうしいだけだ」
(一二七頁)

 このやり取りの勘所は、「みんな他人だろ」とは口にしつつも、兄が否定するのは「血のつながりよりも濃いもの」がある、という言説でしかない、ということだ。結局兄が思慕し続けていたのは「血のつながり」がある母であり、一見「馬鹿にしたように」それを否定することも、そのくせ手帳に女々しく写真を貼り付けることも、おそろしく凡庸な、兄の語彙を借りれば「最低」の部類に属する行為のはずなのだ。だから、その写真を前にして主人公が放つ「最低」とは、私の形容ではなく、兄の形容なのである。この「最低」とは、他ならぬ兄の言葉を借りた罵りであり、追悼でもある。
 こういう短く澄んだ会話と、さりげない意味の遷移を読むと、稲葉はつくづく優れた小説家だと思う。稲葉はひとつのモチーフや語に複数の意味を入れ込む技法を得意とするが、『ガラスの魚』の「最低」は最たる例だろう。作中のもうひとつの例は、題名の「グラス・フィッシュ」だ。
 『エンドレス・ワルツ』の終始が雪で結ばれたように、『ガラスの魚』もグラス・フィッシュに始まり終わる。

 何匹かが群れかたまり、痙攣するようにひくひくと狭い領域を泳いでいる。藻から出てもすぐに藻の中に隠れてしまうのはきっと臆病なせいだろう。魚の肉は半透明で、骨だけが、白く浮き上がっていた。細く淡いピンクの血管が、白い骨と肉をつなぐ組織のようにも見えた。中に何匹か、下腹を食いちぎられ腸が飛び出しているグラス・フィッシュがいた。バランスが取れないのか、傾きながら泳いでいた。
 小さな透き通った魚をなぜ好きになったのかわからない。少女は春の週末、何度か水族館に通った。グラス・フィッシュは腹を食いちぎられても骨だけで生きていた。その魚の白く細い腸の形が、帰り道のバスに揺られる少女の意識の中で、いつも陽炎のように揺れるのだった。
(百十五頁) 

 冒頭、春の水族館で魚を見る場面において、注視されるのは「骨だけで生きて」いるその痩せ細った姿であり、「帰り道のバスに揺られる少女」と共に「白く細い腸」のイメージが「揺れる」のであるから、「骨だけが、白く浮き上が」る魚と拒食の末に痩せ細る私とは、明白に重なっている。
 一方で、末尾、兄の手帳に深く傷つけられた私が、水族館を再訪する場面では、その視線はわずかにずれている。私はすでに食欲を取り戻し、「こけた頬に肉が付いていく気配」すら感じ取っている。

 今日、少女はあの魚を見に来たのだった。透き通った体の中で骨だけが白く燃えるように見えた小さな魚、腹を食い破られても生きていたグラス・フィッシュの姿をなぜか急に見たくなったのだった。
(……)褐色の藻の影に、透き通った魚の骨のひらめきがよぎり、少女の前を通り過ぎていた。血管の色が明るいピンク色に輝いている。白く燃えるような骨の形が、透き通った肉の中でネオンのように輝いていた。そして何秒か後、あの白い腸の影が傾きながら素早くよぎっていくのがみえた。息がもれた。その傷ついた魚が見たかったのだ。もう、見たいものはほかにはなかった。少女はゆっくりと水槽の前を離れる。
 バスは、緩やかに発車する。夏の光を一杯に浴びた倉庫と海を残して、熱の中を進む。町の上空には青い空があった。
(一五三頁) 

 注目すべきは、腸が飛び出るほどに「傷つ」きながらもなお泳ぎ続けている魚の姿こそが、私が切実に見たいものだった、というその遷移である。ここでは魚は、痩せ細った私の分身から、義兄への失恋に傷付きながらも、食欲を取り戻して生き続ける私の現身へと変じている。
 女は自死を選ばない、とも言い換えられる。『ホテル・ザンビア』から『ガラスの魚』まで共通するのは、たとえ「馬鹿みたい」な思想の末に自殺を選んだ男をどれだけ女が愛していたとしても、結局は女が生き延びるという構図である。それだけ稲葉真弓の女はしぶといのだ。だからこそ、『エンドレス・ワルツ』の結末、すなわち鈴木いづみの史実上の自殺は、稲葉真弓の小説世界にはそぐわない。あれだけカオルの暴力に徹底的に抗した女が、時代遅れや孤独を理由に死を選ぶことは、稲葉には肌で理解できなかったのではないか。カオルが望んでいた、音のない極北はこんな風景だろうか、と現実の雪景色に重ねて夢見る序章の鈴木いづみは、稲葉の「私」から地続きである。そして終焉を描く終章、私という一人称は「彼女」へと脱色する。
 このとき自死を選ぶのは、「私」ではなく、「彼女」という他者だったのだろう。

未完のワルツ 稲葉真弓『エンドレス・ワルツ』について

 

エンドレス・ワルツ

エンドレス・ワルツ

 

  本の再読が苦手だ。ゲームも追加要素なしに二週目が出来ない。初読ですべてが読めていることなど当然なく、こうやって短い感想をつけるために読み返して、そこでようやく基本的で、かつ重要な事実に気付くことも多い。
 稲葉真弓の『エンドレス・ワルツ』はこれで三度読んでいる。どれも、再読ではない。
 最初は十代の半ばに、次は二十代の前半に、三度目は二十代の後半。最初の『エンドレス・ワルツ』は大阪上本町の古本屋で買ったはずだ。十八世紀の恋愛小説と、昭和の小説が好きだった。カオルと「私」の殺し合いに似た愛し方が、なんだかフランスの古典小説のようでするすると読めた。
 いちばん印象に残ったのは、たぶんカオルが発する時間とか存在といった単語のほうだった。あとは、アナントン・アルトーの名前。
 二冊目の『エンドレス・ワルツ』は新宿のブックオフの、三百円均一の棚で見つけた。それを読んでから、図書館で『半島へ』と『海松』を借り、住んでいる場所の図書館の蔵書の貧しさに失望しながら、あるはずもない稲葉真弓の名を古本屋の棚に探し続けた。私がいちばん読み書きを熱心にしていたのはこのころだから、もっと記憶に残っていていいはずなのだが、内容はまるで覚えていない。幻の交差点でワルツを踊る場面は記憶に残っていたけれど、これは読んだ人間なら全員覚えている箇所だろう。カオルがボリス・ヴィアンを愛読しているくだりで、同じようにこの作家がお気に入りの知人がいたのだが、二度目の読書では、どうも覚えられなかったようだ。
 三冊目の『エンドレス・ワルツ』は、引っ越し先の神戸の図書館で借りて読んだ。地元の図書館はまたしても蔵書が貧相だったから、仕方なく神戸市立図書館に出向いて借りる羽目になった。二度の『エンドレス・ワルツ』は、いずれにせよ凄い作家だ、という記憶を刻んだ。偶然の近接もあった。二度目に出会い直した稲葉真弓の大学の講座を、たまたま友人が受講する予定だった。膵臓癌で逝去する年のことだった。
 友達の友達ならぬ友達の先生なのだが、でも稲葉真弓のことは読み通したい、そのときからずっと思っていた。
 三度目の『エンドレス・ワルツ』はあまり面白くなかった。話を安っぽいとも思うようになっていた。でも、だからこそ、良い読書だった。

 作家をどこから読み始めるかは難しい。
 私は清水博子や木村紅美の小説を最初から順々に読んでいったが、だからこそ読み落とすものはあったに違いない。私には長年なぜ『エンドレス・ワルツ』の作者が『半島へ』を書いたのかまるで分からなかった。『エンドレス・ワルツ』は観念と情念の世界にあり、『半島へ』は生活と平穏の世界にある。それは当時住んでいた町の図書館に、『エンドレス・ワルツ』の次の著書が『海松』しかなかったからそういう疑問を抱く羽目になったに過ぎないし、また『エンドレス・ワルツ』も石鹸やタオルの扱い方に生活風景の名手らしい細やかさが光ってはいるのだが、しかし『琥珀の町』から期待して次作を読んだ人には、やはりなぜこの小説が生起したのか分からなかったのではないか。
 時代遅れ、という主題はある。私が死を選ぶのはカオルの死が第一だろうが、第二は時代についていけないからでもある。時代遅れという主題は、学生運動後の時代に馴染めない男が最後には死を選ぶ『ホテル・ザンビア』や、過去の栄華をいつまでも忘れられない『夏の腕』でも繰り返されてきた。
 薬物中毒の女性がヒロインとして登場するのは、十年以上の中編『みんな月へ…』以来である。カオルのような痩せぎすの不良少年であれば、『琥珀の町』の『澪の行方』だろう。でも、この二作は稲葉真弓の小説にしては失敗作に近い。『ホテル・ザンビア』なら観念的な表題作よりも半島の夏を描いた『夏の腕』のほうが精彩に富んでいるし、『琥珀の町』なら表題作か、構造の切断が目立つとはいえ『バラの彷徨』と『火鉢を抱く』を取るべきだ。
 故人なのをいいことにひどいことを書くが、稲葉真弓の男女関係って小説になるんだろうか?
 稲葉真弓がポルノ小説を書いていたのは確かだけど、『ホテル・ザンビア』はなんで佐伯のような男に夢中になるのかまるでわからないし、田舎に鬱屈する女子高生と、学生運動に鬱屈した男教師という組み合わせは、けっこう安っぽい。『バラの彷徨』と『火鉢を抱く』の男の趣味は抜群に良いけれど、文芸小説というより女性向けエロ漫画のノベライズみたいだ。私は女性向けエロ漫画がけっこう好きなので、この二作の性愛小説としてのパートは面白く読んだけど、でも文芸小説としては余分だろう。
 稲葉真弓の書く性欲は健康的だ。だからこそ問題の気配がない。
 たとえ『ホテル・ザンビア』で男から男を渡り歩いていても、『バラの彷徨』で姉の死を穴埋めするように男と交際しても、『火鉢を抱く』で顔も知らない階上の男の足音に自慰に勤しんでも、何故か健全な印象を受ける。『みんな月へ…』では妻子持ちの男との不倫に後ろ暗い気配が漂っていたが、『エンドレス・ワルツ』の不倫にはそんな気配はまるでない。稲葉真弓の小説は、女性の性欲に関しては、海のように大らかだ。だからこそ稲葉真弓は今再読されていい作家だとちょっと思う。女性の性欲というより、男性に向ける性欲が禁忌に近いのは、昔も今も然程変わらないのだし。 
 性欲に問題を感じ取る気質なら、たとえば初潮と生理が問題になったはずだ。単に稲葉のそんな小説を知らないだけだろうが、でも初潮がひとつの喪失になるような小説世界を稲葉が書いたら、たぶん私は首を傾げる(文章ひとつひとつを取り出すと実に説得力がある作家なので、言い伏せられる気もするが)。私が初潮の文学で好きなのは津村節子の傑作『茜色の戦記』だが、稲葉の小説では「茜色」の破局というか、これで何かを失ってしまう、という喪失感はまるで問題にならない。年回りで近そうな『夏の腕』で問われるのは「死」の不安であり、罪悪感の問題だ。
 シティ・ガールの小説、なんて書くと流石に失礼か。でも、読んでいて心が落ち着くのは、そういう大らかさがあるからだ。他人の孤独や性欲に、とやかく口を出すつもりはない。でも人の孤独と性欲を、ほんの少しだけ垣間見てみたい。自分と近いか、まったく違うか、確かめたい。
 東京の小説だ。

 この調子でだらだら書いていくと、本編の中身にはあんまり踏み込めなさそうだ。でも周辺について書きたくなる小説なのだ。
 あとがきで稲葉真弓が記しているように、私もまた「鈴木いづみについてなにも知らな」いし、「阿部薫の音を聞いたことも」ない。
 本書に書かれているらしい強烈な愛というのが私にはよくわからないけれど、稲葉もよく分からなかったんじゃないだろうか?
 阿部薫鈴木いづみのエピソードがどの程度史実に基づいているかは関連書を当たらなければ不明だが、激しい恋愛模様というより、カオルの強烈な幼児性と純真さ、DVばかりが目につく。ただし「私」は男の暴力に屈するのではなく、時に友人の部屋に逃げ込みがら、対等な存在で在り続けようとする。でも結局「私」は薫の暴力をライブで吹かれたラブ・ソングひとつで許す。そんなアホな、と目が点になる。三度目で初めての体験だ。
 カオルは子供にだけは暴力を振るわなかったようだが、結局勝手に別の女のもとへ逃げ出し、前後不覚状態になって帰還し、暴力を再開する。
 そして身勝手に薬物中毒で死ぬ。救急医は迷惑しただろう。
 そして女も後を追うように死ぬ。これが史実らしいのだから、安っぽさは仕方がない。むしろ安っぽくなければ嘘だろう。
 だが稲葉真弓の小説に漂う大らかさ、優しさは、このキッチュさと紙一重でもあると思う。後書きを参照するに、どうもこの小説を書くよう勧めたのは河出書房新社の太田美穂さんだったようだ。「ある日突然、鈴木いづみ阿部薫に関するたくさんの資料を届けてくれた」そうだし。この人は全然情報がないのだが、稲葉真弓の作品を長年担当していたようだし、去年時点で遠藤周作全日記の出版に漕ぎつけている(いつか稲葉真弓について書いてほしい)。「この作品は、想念の中で始まり想念の中で完結する小説ばかり書いていた私に、資料を基に取材するという未知の体験を与えてくれた」ともある。稲葉真弓の不良少年やドラッグ中毒を題材にした小説は失敗作ばかりだったから、太田美穂さんの勧めは、見事な届け物だった。
 「彼らの凄絶な関係や死に方が強烈に印象に残ったことだけは確か」としつつも、「なによりも心を捕らえたのは、阿部薫死後の鈴木いづみの姿」だとある通り、小説ももっぱらカオルの死後が面白い。「白」と「ワルツ」の主題は最後まで生煮えだし、カオルの「走り続けること、その速度だけが問題だ」という言葉の意味もまるで分からなかったんじゃないか。小説は一九八六年二月の雪の日に始まり、同日に終わるワルツめいた循環構造を採用しているが、「白」については冒頭に「これはなんだろう。掴みたくても見えないのだ。カオルの熱さをいつも掴もうとして結局掴み切れなかったように」と正直に告白してある。
 いつもの稲葉なら「白」も「ワルツ」も雪も、もっとことことに煮込んである。でも、その不十分さが、小説の魅力に近い。
 カオルの書き方は阿部薫にどの程度まで夢を見るかだろうが、稲葉の書きぶりは、成行で結婚して、妻と一応呼ぶべき人に暴力を振るうドラッグ・ジャンキーの不良少年程度でしかない。サックス・プレイヤーとしての華やかな活躍も、まるで記録していない。最後までダメなジャズマンである。
 本書が阿部薫の親族から訴えられたのは、思いの他作品が有名になったのも金銭関係もあっただろうが、確かに頷けるものがある。
 稲葉は男の伝説なんてまるで興味がなかったはずだ。そこがいい。だから本書で輝くのは、「私」がグループ・サウンズの男の子たちを追う姿であり、カオルへの愛を証明するため己の足指を切り落とす壮絶な挿話であり、粘着質なDV夫の追跡から逃げ続ける姿であり、そのくせ彼の死で虚脱する不可解な姿なのだ。『エンドレス・ワルツ』は短く完成された佳作のようで、普段の稲葉に比較すれば、史実の殻の表面を、つるりと滑っていくのに近い。
 「走り続けること、その速度だけが問題だ」という言葉通り、小説は時に立ち止まって地盤を掘り下げることなく、ひたすらに走り続けている。
 その未完こそが完成だというような逆転は、稲葉真弓という職人的作家の筆致を踏まえたとき、異質な光を放っている。

双眼鏡日和 稲葉真弓『琥珀の町』について

 

琥珀の町

琥珀の町

 

  この一年に三つの町を引っ越した。ふたつ前に暮らしていた町は、職場の前に公営住宅があって、夜は各階の白い光が煌々と並んでいた。店という店もない、病院と市役所といくつかの公共施設があるだけの駅前の町で、懐かしく思い出せるのは、毎週昼飯を食いに通っていた近所の居酒屋と、あの公営住宅の光ぐらいだ。暗いマンションの部屋から、双眼鏡で雨の東京の窓を眺める場面を読んで、その光を思い出した。

 窓の中には様々な光景があふれていた。深夜というのに煌々と天井灯を点した事務所で机に向かって仕事をしている人、台所に立って洗い物をしている女、音もなく道を横切る猫、あるいは途方にくれたようにタクシーを待っている男、狭いアパートの部屋一杯を占めたトレーニングマシーンを、黙々と操っている若者など、いずれも見られていることなんて少しも気づかないまま明かりにさらされ、無防備な表情を見せていた。明晰なレンズの向こうには顔も声も知らない他人の静かな時間が満ちていて、切り取られたような静けさと生の気配とが、雨の膜を通して心に染み込んでくる。次々と目の中をよぎっていく夥しい数の人々や生活の匂いを、私は息を殺して見詰めていた。
(二十一頁) 

 短編集の巻頭を飾る『バラの彷徨』は、一九八九年、学習研究社の文芸誌『季刊フェミナ』の創刊号に掲載された。女性に応募を限るフェミナ賞という文学賞の結果も発表されていたらしく、受賞者は井上荒野江國香織、選者は大庭みな子・瀬戸内寂聴田辺聖子だったという。まだ日本の家庭にインターネットがない時代だ。息を殺して他人の窓を眺める「私」は、両親にすでに先立たれ、恋人とも別れ、唯一の親類であった姉も自殺したばかりの孤独な境遇にある。ありふれた、「ふと微笑まずにはいられなくなるような」風景が、「昔見た映画の忘れがたいシーン」のような印象を帯びる。
 事務所やマンション、アパートといったビルディングの窓に、無数の知らない誰かの人生が凝縮されている。団地を見上げるたび、一粒一粒の光の中に住む人がいることに、不思議な気持ちになったのを思い出す。「窓」は、複数人の、相応の重みのある歴史を、平たく切り出した断面でもある。この「窓」は、二〇一九年の今なら、インターネットに置き換わっているかもしれない。たとえばツイッターは無限大にも等しい人間の呟きの集合体だが、その発言者ひとりひとりに固有の人生と過去があることには、なんだかすこしどきどきする。
 この凝縮の動作は、マンションの管理人を主人公にした『眠る船』でも繰り返される。『眠る船』では、実際に住人たちの人生の一幕が短く書かれ、いずれも独立した短編のような手堅さと鮮烈さを有する一方で、その語りは、管理人の語りが脈絡なく差し挟まれたとき、その日常の物憂い倦怠感に衝突して砕けるように立ち消えていく。日常の倦怠は、本書の約十年前に出版されたデビュー作『ホテル・ザンビア』同様に、本書でも重要な主題だ。
 それは『眠る船』を結ぶ次の文章にもっとも顕著である。

 一日が終わる。
 今日も一日、何も起きなかった。彼はノロノロと管理人室の小窓を閉め、カーテンを引いた。外の風の音に混じって、妻が見ているテレビから、甲高い矯声が弾けていた。もう一度あとで、ゴミ置場のはみ出したゴミの整理をしなくてはならないだろう。それから今日一日の管理日誌を書くのだ。彼には何ひとつ変わりばえのしない、退屈な日誌だった。
(百十四頁) 

 それぞれの部屋に固有の住人がいるように、それぞれの人生に固有の風景がある。だが他人の部屋が扉の一枚で絶対に侵入出来ないよう隔てられているように、人が人の物語を容易く読むことは出来ない。ただ顔の羅列があるだけだ。『琥珀の街』は、それぞれの窓に、時に「微笑」を浮かべ、時に「退屈」を感じる。人生の固有の風景、決して他に換え難いはずの瞬間も、他人からすればなんでもない「退屈」の時にしか映らないことは、ままある話だろう。とりわけ稲葉真弓が書くような日常の風景は、その人が「退屈」だと信じ切っているような瞬間にこそ、面白みがあったりする。
 他人の生活を、その部屋の窓から覗き見ることは、何故だか面白いのである。それが面白いのだと、小説は語る。同時にその退屈さを物語っている。双眼鏡、に引っ掛けるわけではないけれど、この短編集には双つの眼差しがある。面白くも、退屈もあるという。小説を読み書きする人、まして日常の風景を書く人であれば、前者を支持するのが普通だろう。でも、稲葉は、その退屈さもちゃんと書いている。どこか、中庸だ。
 判断保留というのではなくて、面白さと退屈さの両方を目視している。そういう、懐の広さ、明るさが、この本にはある。
 窓に見えるのはあくまで生活の断片に過ぎない。ところがその断片だけを与えられたとき、他人が独特な風貌をもって立ち上がってくる。断片には不思議な力がある。早合点といえばそうかもしれない。でも、たとえば人が普段見せない微笑を一瞬だけ零したとすれば、それは特異な印象を与える。
 例示が難しいけれど、断片をいくら積み重ねても、それは全体とは違う力を持っている。本書でとりわけ魅力的なのは、この断片と、気配の書き方だ。


 そもそも『バラの彷徨』が、断片を集める物語である。理由も分からず自殺した「私」の姉は、生前「毎夜、見知らぬ女のところへ自由に電話できる」「会員制クラブ」で「ローズ・サハラ」を名乗っていた。声帯を切除した末期癌の老人からの電話に、姉は「無邪気なお喋り」を聞かせ続け、老人はそれを録音する。「私」は彼からテープを受け取り、「夜」ごとにその声の断片を聴く。お喋りの内容は、たとえばこんな調子だ。

 今日、クラブの仕事で変な人に会ったわ。彼は何時間もかけて私の写真を撮っていったわ。耳や足やお腹や唇やなんかをね。彼はこう言ったわ。世の中にはいろんなものを集めたがる人がいるけど僕は女の体の部分しか好きになれないって。これまでに何人もの女の体を写し、日曜日、それをばらばらにして並べては、一日中眺めているんですって。それから私達、写したばかりのビデオを見たの。臍や耳や唇ばかり一時間もね。そのあと別のビデオも見たわ。一面の波、波ばかり。時間とともに少しずつ色を変えていく波を、なにもしないで男の人と二人きりで眺めるのはとても変なものよ。彼は知らない女と、黙って、そんな類のビデオを見ている時が一番幸福なんですって。でも私は、その男の人と別れた後、なぜか、彼を変人だと思えなくなっていたわ。
(三十四頁) 

 「幸福」を共有するから「変人」と思えない。「臍や耳や唇」は「女の体」の断片に過ぎないし、「波」もまた海の一部でしかないけれど、そこには人を釘付けにするものがある。「臍や耳や唇」の断片には、別の女の気配が漂い始める。この挿話のあとに、砂漠の薔薇の解説が続く。

 会話のきっかけはもう思い出せないが、姉は、褐色の砂のバラを知っているかと尋ね、私は知らないと答えた。すると姉は砂漠を移動する砂丘について話し始めた。
砂丘の下には必ず地下水が流れているのよ。そのバラは、地下水に含まれている水酸化鉄が固まってできた砂色の結晶なの。砂丘が動いていった後、広い砂の世界にひっそりと残されていくのね」
 砂丘は、刻々と風に運ばれて砂漠をさまよう。砂嵐が起これば砂丘は大きく移動するが、風の穏やかな地方ではゆっくりと位置を変える。その、目には見えない移動の年月の間に、砂に沁み出した成分が熱に固められて結晶になるのだという。かつてあった砂漠が視界から消えた後、まるで砂丘の落とし子のように褐色の石の花が点々と残されるのだ、と姉は言った。
(三十六頁) 

 「視界から消えた後」の姉は、「褐色の石の花」のように、その声の断片を「点々」と残していく。それは別に救いでも、慰めでもない。ただ断片があるというだけだ。「なぜ彼女が週のうち何回かを無名の女として過ごすようになったか私にはわからないし、そんなことはどうでもいいのです」と老人が語る通り、物語は最後まで姉の自殺の理由は「どうでもいい」とばかりに書かない。
 老人の台詞はこう続く。
「ただ私は、毎夜彼女のお喋りを聞き、そのお喋りに慰められたということをあなたに伝えたかった」
 何故だろうか。自殺者の知人が親類に会おうとする展開は、小説ではよくある。都合がいいと書けば、そうだろう。ただ、人はそのとき、何を望んで出会おうとするのだろうか。直接的に慰め合いたいわけではない。慰められる傷でないことは、近しい人であれば当然知っているはずだ。
 欲しいのは、その人が自分以外に見せていた断片なのではないか。この人と共に生きていた時間があった、その事実を、その相手の存在を知りたい。
 私はかつての姉のように、老人に頼まれてお喋りを聞かせ続ける。

 老人の部屋がどんな部屋で、彼がどんな服を着て、どんな姿勢をしているのか、私には見当もつかない。しかし、受話器の向こうに姉の声が届いていた時のように、私の声の残像が静かに漂っているのが感じられた。
 私の声……それはどんなふうに彼の耳に届くのだろう。自分の声やとりとめのない会話を反芻しながら、私は日々動いていく砂丘に取り残される砂の結晶のことを思っている。細く複雑な回線を通して、確実に耳底に残る声の結晶……そうであればいい。
(三十八頁)

 なぜ「私」が老人の願いを受け入れたのか、その心理は直接的には書かれていない。
 それでも「私」は「老人がほんのわずかにしろ幸福な気分になれる」話題を探す。たとえ断片であっても、姉の声を届けてくれた感謝なのか。死を前にした老人への憐憫なのか。同じように孤独な人間を、突き放せなかったのか。明記されているのは、自分もまた姉のように「声の結晶」であればいい、という祈りに似た思いだ。声だけの世界で結ばれているとき、「私」は姉に少しでも近付ける気がしたのではないか。もしかすると、生前よりも。
 声を足音に置き換えれば、顔さえ知らない階上の男と、「互いをまさぐっているような」「至福」を感じる『火鉢を抱く』の部屋に近付くだろう。
 『バラの彷徨』と『火鉢を抱く』は双子の短編だ。
 前者は「声」だけで探り合う男との交わりを前半に書き、後半で孝雄(雄という字がよく性格を表している)という健康そのもののような男と関係を結び、「巨大な太陽の光」のもとで性欲を感じる。後者は「肩も腕も筋肉に被われ」ているような肉体的な男と交わりながら、結末は顔も知らない階上の男の夜の「足音」に、密かに性欲を満たす。孝雄と男を取り結ぶのは、室内の観葉植物だ。花屋の息子である孝雄は、「言葉を持たないのに」「危険を伝えあったり、遺伝子を護ったりしながら」「何億年という日々を、お互いに助け合って生きてきた」植物の生態に関心する。ここでの植物とは、「言葉」とは別の世界に繁茂する存在だ。文体の精緻な作家の多くがそうであるように、ここで稲葉は、言葉の届かぬ世界をひとつの極として配置している。『火鉢を抱く』の後半から、プランターの存在はそれを運んできた前半の男と共に掻き消える。
 肉体と実存の世界が片側にあり、言葉と気配の世界がもう片側にある。実は力業が目立つ短編集で、特にこの二作は男を境界点として、別々の小説に分かれるような切断があるのだけれど、結末は健康だ。素晴らしいのは性欲の書き方で、『バラの彷徨』と『火鉢を抱く』はいずれも性欲が小説を結ぶけれど、後者には、ひとりぼっちの夜の自慰であっても「至福」という単語が確かに当てはまるような、不思議な喜ばしさがある。
 おそらくその明るさは、言葉のある世界と、言葉のない世界とを、同時にまなざす眼にあるのだろう。

書くことの必然 木村朗子『震災後文学論 あたらしい日本文学のために』について

 

  著者は津田塾大学の教授で、専門は日本の古典文学らしい。専門が現代文学じゃないから、と意地悪い見方をされる場面は少なからずあったと思う。『あたらしい日本文学のために』という副題からして、人によってはちょっと遠くに置きたくなるかもしれない。
 他人に委ねるのは卑怯な話で、私がそうだった。「あたらしい日本文学」も、「震災」もいやだった。私が震災を知った年は高校三年生で、受験で向かっていた信州行きの新幹線が昼過ぎに止まった。結局その二次募集の大学も落ち、進学先の生活はそれなりの困惑が伴い、震災どころではなかった。「あたらしい」どころか「いまの」日本文学を食わず嫌いしていたのもあった。忘れたい。本書は出版されて一年以内には知っていたはずだ。そのあと『文學界』の新人小説月評を著者が担当していて、見たことのある名前だ、と気付いたからだ。でも今まで読まなかった。
 批判しやすい本ではある。大学の内外で、すでに数多くされたと思う。けれど、背を向けづらい魅力がある。
 書物が抗しがたい魅力を発するのは、書かれた必然性が存するときである。だから、その必然性について書いておきたい。

 本書の「震災後文学」の定義は明瞭である。その源流にあるのは佐藤友哉が群像に連載していた『戦後文学を読む』(後に『1000年後に生き残るための青春小説講座』として書籍化)であり、いとうせいこう『想像ラジオ』であり、芥川賞選考委員による評である。

 3・11後、とくに原発放射能汚染について口をつぐんでいる作家たちの態度を痛烈に批判する。それを「自意識過剰」だと佐藤はいう。「あなたの文章が世界を変えたことなんて、一度もなかった」のだから、なにも恐れることはないではないかと。そうして原発問題に関して、それが五年後にどうなっているかがわからないから、「だから書かないの? 作家なのに?」と問うのだ。
 こんな現状ならば、もはや原発放射能汚染について書いたというだけで勝算に値するというものである。『想像ラジオ』の選評で「蛮勇には蛮勇を」と高樹のぶ子が言うのは極めて正しい。しかしそれは選者の全体に共有されていたものではなかった。だから高樹のぶ子の絶賛もまた「蛮勇」なのだ。たとえば山田詠美は「とは言え、この軽くも感じられるスタイルを取ったのは、死者を悼む人間の知恵だなあ、と感心した。しかしながら、やり過ぎの感もあり、死者のための鎮魂歌が鎮魂歌のための死者方向に重心を傾けたようで気になった」という。それは「死者を利用している」という非難に他ならない。作家同士でこんなに厳しい検閲があるのでは、よほどの覚悟がなければとうていやってはいけないだろう。だから書かないという態度をとった作家があまりに多いと佐藤友哉は呆れているのである。震災後文学とは、したがって、単に震災後に書かれた文学を意味しない。書くことの困難のなかで書かれた作品こそが、震災後文学なのである。今までどおりの表現では太刀打ちできない局面を切り開こうとする文学、それを本書では震災後文学と呼ぶことにしよう。
 本書にとりあげる震災後文学は、そういうわけで書くことの困難と格闘したものを主に扱う。最も書きにくいことがらとして、原発の爆発とそれによる放射能汚染の問題がある。とくに原発については、各所でタブー扱いされており、文学作品においてもそれほど活発に語られたテーマではなかった。
(五十八頁)

 佐藤友哉の引用部分には実は「原発放射能汚染」については書かれていない。しかし、木村が参照する佐藤の小説は原発放射能汚染が主題とのことだから、実際にそういう意味なのだろう。3・11から原発放射能汚染を選り分ける発想は、そのまま震災後文学の定義そのものに通じる。いずれにせよ、ここで定義される震災後文学には、「書くことの困難」への抵抗が必須となっている。「書くことの困難」とは、原発を語るうえでつきまとう「タブー」でもあり、これを規定する「作家同士」の、「まさかそんなことを書くなんて」という淡い「検閲」でもあるだろう。
 『想像ラジオ』は津波小説であると同時に原発小説だが、それが芥川賞選考委員の間でいかにタブーであったを読む目線は鋭い。

 高樹のぶ子が「今回の候補作中、もっとも大きな小説だったと、選考委員として私も、蛮勇をふるって言いたい。蛮勇には蛮勇をである」というのは、選考委員のなかでこの作品を推す人がおらず、「蛮勇をふるって言」わねばならないほど孤立した意見だったということだろうか。
 選考委員が口々に言うのは、震災の犠牲者を描くことの倫理問題である。高樹のぶ子も「書くために声なき死者を利用するのか、という反発の波も、世間から押し寄せるだろう」と気遣い、それで「無謀だと承知した時点で、諦めるか諦めないか、そこが分岐点になる」と述べている。島田雅彦もまた、「『想像ラジオ』は現時点におけるポスト3・11の文学の成果と評価することはできる。しかし、それは「震災犠牲者を利用して書いているとの謗りを恐れず、あえて軽妙なDJ口調で鎮魂の叙事詩を綴った」ことに対する勝算である」と述べて、書くことの「蛮勇」を称えるのだ。
(四十~四十一頁)

 「蛮勇」という言葉遣いは、たしかにそれが禁じられている事態を想定しなければ不自然なのである。「世間から押し寄せる」「反発の波」への懸念自体が、そもそも「タブー」の在り方といっていい。島田雅彦の評はより屈折したニュアンスがあるが、いとうせいこうと対談した星野智幸もまた、「当事者を傷つけてしまうのではないかという問題」への懸念を提出している。

 『想像ラジオ』が芥川賞候補作にのぼったことで、書き手たちが、震災の犠牲者を小説に描くのは「倫理」的に許されないと感じていることがはからずも浮き彫りにされた。その懊悩を乗り越えて産み出された作品でもやはり批判にさらされるか、あるいは蛮勇だという一点において評価されるかしかないのだろうか。震災を物語ることはそれほどに困難な状況にあるのなら、蛮勇を以て書かれた小説を正しく読み取り、受け取っていく必要があるだろう。批評に必要とされているのは、物語ることの倫理を云々とすることではない。読み誤りによる非難とは一線を画して、物語を読み解き位置づけることが求められているのではないか。
(四十三頁) 

 この本でいちばん素晴らしいのは第一章だが、その章名が「物語ることの倫理」なのである。もっとも「物語ることの倫理を云々とする」批評家は作中には登場せず、もっぱら小説家のコメントが引用されるので、実際にそのような批評があったかはわからない(あったとは思うが)。だがここで論難されているのは小説家である。こののち小川洋子が『想像ラジオ』の「根幹をつかみそこなって」おり、村上龍が「的をはずしている」というのも、「読み誤りによる非難」を連想させる。震災後文学として重要なのは抵抗の有無だが、とりわけ震災後に発表された、よしもとばなな『スウィート・ヒアアフター』をめぐる評価は、この基準をわかりやすく反映している。

 よしもとばななは、二〇一一年一一月刊行の小説『スウィート・ヒアアフター』(幻冬舎)のあとがきに次のように書く。

 とてもとてもわかりにくいとは思うが、この小説は今回の大震災をあらゆる場所で経験した人、生きている人死んだ人、全てに向けて書いたものです。
 (……)多くのいろんな人に納得してもらうようなでっかいことではなく、私は、私の小説でなぜか救われる、なぜか大丈夫になる、そういう数少ない読者に向けて、小さくしっかりと書くことしかできない、そう思いました。

 (……)この小説が、大震災を体験した人に直接に向けられて書かれたことが「とてもとてもわかりにくい」わけは、ここに描かれた生も死も、震災があってもなくても訪れるものだからである。文庫版あとがきによれば「被災地にいる読者から「ほんとうに読んで安心した、息がつけた」というメール」が何通も届いたというから、求められた小説が、求めている人に届けられて、書くことの不安は杞憂に終わったようである。
 「震災にも原発にもひとことも触れていないけれど、この小説はやはり命についての覚悟を描いたものだと思う」、「これからの私たちは、震災で亡くなった人たちの気配と共に日本で生きていくのだから」といったかたちで、生死の問題として捉えようとすることは、震災によるマスの死を唯一無二の死として置き直すことでもある。
 (……)(※山田詠美『明日死ぬかもしれない自分、そしてあなたたち』を含めた)これらの作品は、原発事故や放射能被害を直接に描いていないという理由からではないが、これまでの文学史の流れに逆らうことなく、すんなりと落ち着ける場所をもつだろう。逆に言えば、震災などなかったときにも書かれ得るテーマであった。物語の死者を震災の現実に重ねて読んだ読者がいたとして、本当に震災の記憶などすっかり薄れた頃、たとえば五〇年後にこの小説がそのように読まれる可能性はあるのかどうか。震災のわずか二年後だという書かれた現在を過ぎれば、「いつだって大切な人を失うのは悲しい」という普遍性のなかに易々と回収されていくのではないか。文学史というスパンでみるなら、おそらくこれらの作品は、作風として震災前の作と少しも変わらぬものであり、震災の経験が刻印されたとはとうてい気づかれないだろう。
(三十六~四十頁)

 「震災によるマスの死」を「唯一無二の死として置き直す」ことは、小説の基本的な技法だろうが、「普遍性のなかに易々と回収」する手つきに等しいのだろう(……と補わなければ、最初によしもとばななに怒りを交えた嫌味を書き、最後に「震災の経験が刻印されたとはとうてい気づかれないだろう」とまで書くその途中に置かれる意味がよくわからない)。「原発事故や放射能被害を直接に描いていないという理由からではない」と注釈してはいるが、直後にいとうせいこう『震災ラジオ』の話が続くのだから、最初はやっぱり原発小説じゃないとだめなんじゃないか、としか読めなかった。「普遍性」というとややこしいが、ありふれた、耳障りの良いテーマに「易々と回収」することを阻むような「抵抗」に乏しいのである。この二小説に共通するのは「震災」を親類や恋人の理不尽な死に置き換えたことだ。それを木村は、困難の回避、迂回として読んでいる。だから、吉本の「書くことの不安」に対する攻撃は苛烈である(引用していて胃が痛くなった)。そんなことより気にすべき「書くことの困難」があるはずだ、というところだろう。

 もっとも『震災後文学論』における「抵抗」は「原発の爆発とそれによる放射能汚染の問題」という最も書きにくい問題を書こうとする、自粛の論理への抵抗を意味する。そして「震災」という言葉を用いて「できるだけ原発事故ないし原発問題には触れないという態度」を選ぶ作家の「一般的態度」を佐藤友哉の言葉を借りてそれとなく批判し、講談社の震災を主題とした短編アンソロジー『それでも三月は、まだ』には英訳版の「地震津波、そして原発メルトダウン」といった副題が抜け落ちている、「どこか呑気な構え」に苛立つ。
 本書のいちばん面白い部分は、読んでみないとわからないが、この感情の滲み方なのである。おそらく、と書くには妄想に近いが、第四章「短編小説アンソロジー」の初稿は、より苛烈な批判であり、それを打ち消す改稿があったのではないかと思う。よしもとばなな評のわかりにくさも同様だ。それぐらい強烈な情がなければ、仮に編集者が考えたとしても、『あたらしい日本文学のために』という副題は銘打てない。題の説得力がない。
 激情と抑圧、その緊張が本書の醍醐味だと言っていい。時にその激情が堰を切る。だから本書の文体は、時に煽情的であったり、週刊誌のようであったりもする。引用はしないが、たまたま加藤転洋を併読していたのもあり、文章の生硬さにはちょっと虚を突かれた。本来はこういう文を書く人ではない気がする。小説の筋をまとめる手つきなど、実に手際がいい。真似できない。この硬さは今どき珍しいのではないか。「川上弘美の大勇」(二十二頁)なんて、すごい表現もある。失言は批評家の発言にも多かったと思う。でもそれは引用せず、あくまで同時代の作家に喧嘩を売る。昔ながらの批評の王道を突っ切っている、とも言えるかもしれない。その意味で、あたらしい日本文学のための書物であると同時に、なつかしい文学の本でもある。
 文体の感情が面白い本だから、もちろん後書きに注目すべきだ。なぜ本書がこれ程の激情で綴られたのか。

「日本人がほとほと嫌になった」
 日本の古典文学研究をしているカナダ人の友人は、そういって長く住み慣れた東京を去っていった。
放射能が危ないってちゃんとわかってるの?」「なんでなんにも考えないの?」
(……)震災の直後も東北のお酒を買い集め、代々木公園で日本酒を呑んで復興を応援する会を開いた。それが彼女のあたりまえである。
 それに対して、まわりの、とくに大学関係者や日本文学の研究者仲間は、ほんとうに鈍くて、ぼーっとしてて、かつ考えるのを放棄しているようにみえたに違いない。
 そんな彼女に対する申し開きのために、ここまでやってきたような気もする。
「何かしなければならない」という焦燥は、海外の日本文学の学会で語らなければならないという思いにどういうわけか帰着して、以来あちこち忙しく飛び回ることとなった。
(二三九頁) 

 より鮮烈な挿話は別にある。目的は書かれていないが、地震直後に向かったパリで酔っぱらった老人に「ラディオアクティブ!」と叫ばれ、「ああこれからの日本人は寛大な親切を受ける一方で、心ない差別にもあうのであろう」と心を痛めるくだりだ。でも重要なのはこちらだろう。
 引用部の後には「何もいわない」「鈍くて、ぼーっとしてて、かつ考えるのを放棄しているよう」な「日本人」への手短な、かつ強烈な感情の吐露が続くのだけれども、根本にあるのは「申し開き」なのである。そうじゃない、考えている日本人もいるよ。それを聞き知ってもらうために、何かしなければならないと。同僚の古典文学者なのかもしれないが、本書の上梓を「たいへん危険なことだ」と止められもしたという。
 この日本人への怒りについては私は同意しにくい。他ならぬ私が外国人の友達ひとり居ない、凡庸な日本人だからである。影響はしばしば後方視的な検討によってしか読めず、厳密な予知はいつも常に難しいだろうとは、個人的には思う。福島の農産物の下りとか、当時と現在では著者の意見も違っている可能性があると思う。ブッグガイドとしても、震災から刊行までの期間の短さはあるが、現在ではより質の高いものがあるに違いない。詳細に分析された作品数も存外少ないし、批評の応答も書き漏らされているだろう(世界文学の観点だし、小説を選ぶ理由も説明されている以上は仕方ないのだが、さみしい)。なぜ原発を語ることが自然にタブーとなるのかは、心理の詳細を想像でも書くことは出来ただろうし、あるいは過去に抑圧があれば、抑圧の歴史を書くことが出来る(天皇制を語るタブーと、福島原発を語るタブーと、津波による死者を非当事者が語るタブーとは、分けて考えたほうがいいんじゃないか)わけだが、粗雑な言い方をすれば、本書は「鈍くて、ぼーっとして」るから、と言い切るのに近いところがある。
 でも、良い本なのである。少なくとも第一章はすこぶる良い。
 「古典研究の人が何を言うだとか、思想的に偏向していて中立的な態度とはみなせないとか、ありとあらゆる日本人の「普通」をふりかざして否定されるにちがいないというのだ。そういう目にあいたくないと思わないわけではない。けれど、今の気分としては、それでまた「ほとほと嫌になった」なんて海外の友達に言われるほうがよっぽど哀しいのだ」とあるから、他ならぬ「書くことの困難」に置かれていたのは、著者なのだ。古典文学者が「同僚」にそれとなく提示されるタブーは、想像するに余りある。禁忌と抵抗、抑圧と激情が、本書の潜在的な主題だろう。故に『震災後文学論』における震災後文学とはまず第一に本書である。だから語りに血が通っているし、震災後文学の定義を書く第一章がもっとも面白いのは、自然な成り行きだろう。
 最後に。よしもとばなな山田詠美の小説について、五十年後の読者が何気ない震災小説だと分かるわけがないだろうと批判するくだりは、そもそも著者が千年後の『源氏物語』の読者であるのを思い出す(これは現代文学へのポジティブな期待の現れと見なしていいのだろう)。本書の索引は、震災後文学と題したアンソロジーの編集にも見える。和歌集の目次のようだ、では野暮か。しかし現在をめぐる語りが禁忌であるならば、その侵犯は、現況の外部から立ち寄る者のみが可能な「蛮勇」だ。現代文学者でない著者が『震災後文学論』を記すとき、そこには間違いなく必然性があったと思う。

小説家の足音 木村紅美『雪子さんの足音』について

 

雪子さんの足音

雪子さんの足音

 

 木村紅美は卓抜した文章家と言われる。それだけでは宣伝文句にならないからか、登場人物の心情を詳細に書くのが巧みだという謳い文句も、たしか『春待ち海岸カルナヴァル』の表紙裏に書かれていた。個人的には『春待ち海岸カルナヴァル』よりも、『夜の隅のアトリエ』以降の木村文学においてこそ、文体における心理表現が深度を増したように思う。
 本書なら、小野田さんの部屋に忍び込んでその荒れように衝撃を受け、バーに駆け込んだときの何気ない一文である。
 「今晩もレゲエや古いロックが大音量で流れている。だまって身体を揺らし聴いているうちに、洋服やぬいぐるみに八つ当たりする女の子なんて、つくづく、まともに相手にしないで正解だったと、自分の判断を誉めたくなった」(一〇九頁)という、この心情の書き方こそ、『夜の隅のアトリエ』以降の基本技法と言っていい。年上のテレフォンオペレーター・小野田さんから強引な迫られ方をされ、冷たく拒んだあとの場面だ。褒めたのではなく、誉めたくなったのである。小細工のような読みだが、このとき主人公の湯佐薫は、自分の判断を正解とは心の底では思えていない。もっと別の正解があったのではないか、という疑念が滲んでいる。それを抑圧するために褒めたいのだが、心情の奥底で出来ずにいる。だから、この「誉めたくなった」とは、自分への語り掛け、抑圧としての言い聞かせの文体だ。疑念の源にあるのは、自分が小野田さんに破壊的な打撃を与えたのではないかという罪悪感である。それは小野田さんが会社を辞めたのを自分のせいではないかと、大家である川島雪子に尋ねる場面からも明らかだろう。
 『夜の隅のアトリエ』以降の木村文学には、この罪悪感と抑圧の結果として生まれる、言い聞かせの文体が芽生えている。
 本作の物語でもっとも決定的な場面は、アパート・月光荘の隣人である小野田さんに、肉体関係を迫られる箇所だろう。「湯佐くんは、わたしを……、いっそ、遊びで、というか、身体だけを目当てに、道具っぽく扱ってくれたっていいじゃない」(八十八頁)と小野田さんが「コーデュロイのズボンのジッパーを下げようと」しながら背後から囁く言葉は、薫の本心を見事に言い当てている。薫は、たしかに後ろめたさから川島雪子の孫ごっこに付き合い始めたとはいえ、明らかに金「だけを目当てに、道具っぽく扱」っていた節があるし、「都合のいいところだけを利用していたい」(七十四頁)と願っていたからである。小野田さんと湯佐薫が二人きりになるよう取り成したのは、「キューピッド」になりたいと願っていた川島雪子だ。
 「そりゃ、わたしは、あなたにとって、古着屋やレコード屋をいっしょにはしごしたくなるような外見じゃないだろうけど、それは、電気を暗くすれば気にならないじゃない? 声と、身体の感触だけになってしまえば」(八十九頁)と続く言葉も、つまりは「声と、身体の感触」という「都合のいいところだけを利用」すればいいじゃないか、という請願である。金を払って抱かせてくれ、という願いも、湯佐薫の急所を、正確に突いているといえる。金を払って孫ごっこをさせてくれるのに、恋人ごっこを断るのは、理由の説明がつかないからだ。
 たしかに小野田さんの迫り方は性暴力に近く、その誘いを断られたからといって「洋服やぬいぐるみに八つ当たりする女の子なんて、つくづく、まともに相手にしないで」正解なのである。湯佐薫は金目当てに孫ごっこを利用してはいるが、一方で「まったく最後の最後まで、湯佐さんはおやさしい」と川島雪子に告げられる。湯佐薫が「やさしい」のは小野田さんに対してもだ。最後まで性暴力を振るった相手の身を案じようとする(湯佐薫は、これまで女を「道具」のように扱ってきた木村文学の男たちと比べれば、比較群が悪いとはいえ、破格のように倫理的である)。
 それは薫が、他ならぬ自分の罪悪感を言い当てられたからだろうと思う。
 
 映画『雪子さんの足音』は優れた映像化作品だ。もちろん原作は好きな作家の小説なんだから好きに決まっている。
 しかし脚本も素晴らしい。脚本家の山崎邦紀さんは木村紅美のファンで、それは本作の冒頭が『たそがれ刻はにぎやかに』という、おそらく木村文学を以前から読んでいた人しか知らないであろう中編の引用から始まることからも確かなのだが、小説では月光荘の女たちとの別れを後押しする重要な装置が「江戸川」であったのに対して、映画では原作にない水槽が二度決め打ちのように使われていたのも印象深い。木村文学における「水」は、別れを決定付ける重要な装置だからだ。
 それに劣らぬほど素晴らしいのは、主演三人の演技だろう。
 個人的には原作でも「足音」は然程重視されていないように感じていて、むしろ重要なのは「声」だと思う。小野田さんが二人で川島雪子の養子になることを「プロポーズめいて」提案するとき、「夜は、声だけは美人、ってしょっちゅう褒められるこの声を活かして」テレフォンセックスで小説を書く薫の生活を支えたい、と申し出る箇所もそうだ。『夜の隅のアトリエ』における、ヌードモデルの女を男たちが視線で切り取る動作は、『雪子さんの足音』においてより発展している。湯佐薫は川島雪子の「金」だけを切り取って交流しようとするし、だから小野田さんに「声」と「身体」だけを切り取って自分を抱いてくれ、と復讐されるのである。映画を横浜で観てから随分経ったが、川島雪子を演じる吉行和子さんと、小野田さんを演じる菜葉奈さんの声の粘度は、今も耳の底に沈んだまま、消えてくれそうにない。菜葉菜さん演じる女は、内気で内向的で動作がぎこちなく、だが恋愛への欲望を抑えきれずに苦しむ木村文学の女たちを、同時に何人も演じているようで、『春待ち海岸カルナヴァル』の紫麻を思い出してしまった。
 しかしいちばん驚いたのは、湯佐薫を演じる寛一郎さんが、本作を読んだとき、恋愛小説だと思った、というコメントだった。これは私はまったく初読ではわからなかったのだけれど、そうなのである。すでに書いたように、「道具っぽく」扱ったのはまず小野田さんではなく川島雪子相手であり、「わたしが死んだとき、まだきれいなうちに下宿人に見つけてもらえたら、という魂胆があったの」(百十一頁)という告白はほとんど最期を看取ってほしいという「プロポーズめいて」いるし、何よりそう読まなければ、雪子さんの寝室に忍び込んだときの、次の描写の説明がつかない。

 洋服箪笥もあけた。防虫剤の香る、几帳面に畳まれたブラウスやセーター、スカートを一枚ずつ持ちあげる。おへそまで覆うショーツに大きなブラジャー、レースや花飾りのついたスリップ、厚ぼったい木綿の肌着シャツは、揃って、白かベージュかサーモンピンクをしていた。その底に、こんどは、しわくちゃの感熱紙が折りたたまれ入っている。広げると、印刷された文字列に憶えがあった。
〈指さきがクリトリスに触れ、淫靡な食虫花めいた陰唇のあいだを探った。せつなげに待ち受けるように濡れているのがわかり、〉
 試しに書いた官能小説の一部だ。ごみ袋を点検したのか、掃除に入り込んだときにごみ箱から拾いあげたらしい。
(一〇五頁)

 母親に書きかけの官能小説を見つかっていたようなもので、湯佐薫が「こめかみから火が出そうで乱暴に丸めよう」とするのは当然なのだが、しかしこのわずか二文で終わった官能小説の切れ端を、誰にも探られないであろう洋服箪笥の底に、丁寧に折りたたんで保管していたとき、「せつなげに待ち受け」ていたのは、他ならぬ川島雪子だったのではないか。「孫ごっこ」に欲望が付き纏うかというと、この小説の世界ではするのである。何故なら川島雪子の分身にも等しい小野田さんが、「血のつながりのない姉と弟」になることを願いながら、湯佐薫に迫るのだから。
 映画版で、薫の退去をめぐって、小野田さんが川島雪子に食ってかかる場面がある。この場面は原作にはなくて、山崎邦紀さんに伺ったとき、「お二人とも素晴らしい女優だから、やはり衝突をさせたかった」と仰られていた記憶があるのだが、正確な補筆だろう。そしてもうひとつ、若かりし頃の雪子さんが「白い毛布から肩をのぞかせ」た裸の写真を、「思わず手に取り、見つめ返すように見入った。台所で後ろから寄りかかってきたのが彼女なら、たぶん、」小野田さんとは「別の態度を取った」と比較する場面があるけれど、ここでは原作は、吉行和子さん、すなわち老女・雪子さんの映像を差し挟んでいる。これがとてつもなく色っぽいから驚いたのだけれど、しかし浜野佐知監督の采配なのだとしたら、やはり見事な場面である。
 「キューピッド」は欲望の代理であり、二人は同じ湯佐薫という男をめぐって争っている。にもかかわらず映画版のような衝突が小説内に発生しなかったのは、小野田さんの「姉と弟」の提案を「ぼくは、普通に結婚とかしたいし」と湯佐薫が拒んだときの、「じゃあ、奥さんもここへ連れてきて、子どもも高円寺で育てたらいい。わたしはたぶん、ずっと、ひとりだけど」という切ない応答が理由になるだろう。薫と「結婚」できるなど夢にも思わない。だが「ずっと、ひとり」であろうが、姉弟という関係で繋がれるなら、それが小野田さんの最大幸福なのである。養子縁組を結んだとき、実質的に「奥さん」のように薫を掌握するのは、経済的にもずっと有利な川島雪子に違いない。それで、小野田さんは良かったはずなのだ。
 しかし、その小野田さんが薫に強引に迫るのである。この変化は極端である。友人の精神科医がこの小説を読んだとき、「小野田さんのあの場面は唐突で、官能小説みたいだな」と半笑いで要約していて、同調こそ出来なかったけれど、では何故なのか、ということは答えられなかった。
 しかし、川島雪子もまた湯佐薫を「せつなげに待ち受け」ていたことを踏まえれば、提案を拒む、この次のやり取りこそが鍵なのではないか。

「ぼくは、普通に結婚とかしたいし」
「じゃあ、奥さんもここへ連れてきて、子供も高円寺で育てたらいい。わたしはたぶん、ずっと、ひとりだけど」
「まだ生きてる雪子さんがいなくなったあとの話を、陰でそんなに嬉々としてするのも感心しないな」
(……)「気分を害したのなら、ごめんなさい。嬉々、だなんて……。いまのは、ぜんぶ、雪子さんが自分で笑って話していたことなの。わたしがいなくなったあとは、あなたたちふたりでそうしてくれるのが夢よ、って」
「あのさ」
 我に返り困惑し、ふり返ろうとすると、そのまま、小刻みにふるえ背中に身体を預けてきて、腰を抱きしめてくる。
(八十七頁)

 薫が小野田さんを非難するのは、死後の話を「嬉々としてする」からだ。彼が川島雪子の孫ごっこに付き合い始めたのは、彼女を息子に先立たれた哀れな老人なのだと同情し、食事の誘いを拒むことに後ろめたさを覚えたからである。『夜の隅のアトリエ』以降の木村文学の主人公がそうであるように、湯佐薫もまた、後ろめたさと罪悪感に弱い。料理だって川島雪子のほうが上手だろうが、何より心を掌握する術が勝っているのだ。
 「あなたたちふたりでそうしてくれるのが夢」が仮に本気でも、結局彼女が死ぬまでには、そこから二十年の時間が必要なのである。
 小野田さんにとって、この「感心しないな」は、決定的な敗北の台詞だった。だから、最後の賭けに出るしかなかったのではないか。川島雪子に勝るのは「声」とまだ年若い「身体」だけなのである。ここまで小野田さんが考えていたかは分からないが、湯佐薫が屈服しなかったとしても、彼が最早月光荘に留まるとは考えられない。であれば、彼を手に入れられないのは、川島雪子も同様である。いずれにせよこのままでは敗北しかない勝負に、引き分け、そして仮にあり得ないとしても勝利の可能性がわずかに含まれる以上、賭けに出ることには必然性がある。

 最初にこの小説を読んだとき、月光荘、という名前が引っ掛かった。木村紅美の小説で、飲食店や宿場が洒落た名前をつけられるのはいつものことだが、高円寺のアパートに、ホテルのような名前だ、と思った。映画版のロケ地は静岡市のカナダ人宣教師が住んでいた文化財の洋館だが、生活感の漂う小説内の個室に対して、まるで古いホテルのシングルルームのような寝室が舞台に選ばれている。でもそのほうが納得いくような名前である。
 この小説の源流は、確かに『たそがれ刻はにぎやかに』も水脈のひとつだろうが、私は『春待ち海岸カルナヴァル』だったと思う。慕う異性との手紙のやり取りと食事がホテルのなかで絡むのもそうだし、何よりあの小説は、男をめぐる紫麻と、亡母の三角関係なのである。木村紅美の女たちは高確率で恋愛に失敗するが、故に、三角関係を結ぶことには慣れていなかったのではないかと思う。同じ男を姉妹のような女たちが巡って争ったところで、同時に男に逃げられる結末が見えている。だから、三角関係を描こうとすれば、片方を既に勝ち終えた女にするしかない。典型的なのは『ボリビアのオキナワ生まれ』だし、その変奏として死者の亡母が選ばれたのが『春待ち海岸カルナヴァル』だろう。木村紅美の小説では妻子持ちの男との不倫が繰り返されるが、これも最初から敗北が確定している三角関係のようなものだ。
 茅野さんがなぜ亡母にそれほどまでの想いを募らせているのかは、『春待ち海岸カルナヴァル』だけでは分からない。『雪子さんの足音』は、紫麻が小野田さんに、亡母が雪子さんに置き換わった、新しい三角である。そして茅野さんから亡母への思慕は、湯佐薫から川島雪子への後ろめたさとして説明されている。倫理の主題は、震災が導き入れたものだろう。ここが木村文学の特異点だと言っていい。
 『雪子さんの足音』は、震災以降の『春待ち海岸カルナヴァル』なのである。
 一方で、この生きた女同士が結ぶ三角関係の緊張は、これまでの木村文学にはなかったものだ。意地悪な見方をするなら、木村文学は『風化する女』以来、絶対的なもの(たとえば、死者との絶対に飛び越えられない断絶)を道標にすることで、巧みな小説を書くことが出来た。さらに嫌味な書き方をすれば、上手い文章を書きやすい枠組みだった(といっても、木村紅美の上手さと細やかさが格別だから、優れた小説なのだが)。木村紅美は、ともすれば女の孤独ばかり書いている作家と思われるかもしれないが、政治的問題についても「オキナワ」と抑圧される女を主題とした、『島うさぎたちのソウル』という優れた小説がある。しかし『夜の隅のアトリエ』以降の木村文学は、震災と原発という政治的問題に対して、「上手い文章」を書くことは出来なかったし、倫理と震災の接合点を目指したとも読める『まっぷたつの先生』においても、震災を書くのにどこか難儀していたと思う。何より『夜の隅のアトリエ』以降、スランプに悩まされたと、他ならぬ作者が語っているのである。私が初めて読んだ木村文学の作品は、この時期の中編だった。それから数年後の去年、『風化する女』のあまりの精巧さに驚いた。だから、木村文学の単行本を通読することにした。

 最後に、『夜の隅のアトリエ』以降の、現実の亀裂について書いておきたい。戦争を体験した老人が、かつての戦禍を語る小説は本作と『黒うさぎたちのソウル』に共通する場面だ。オバァの語りは強烈であり、故にヒロインである麻利は沖縄で戦死した女たちの「ソウル」に自然に感応することが出来る。一方で『雪子さんの足音』における川島雪子の体験談は、にわかには信用し難いものとして描かれている。

爆撃機に乗ったアメリカ人のパイロットと眼が合ったこともあるわよ。一気に急降下してきて、湖のような薄青い瞳。『アラビアのロレンス』のピーター・オトゥールと似ていた」
 そこまでわかるわけがないだろうとしか思えなくてからかいたくなり、膝を見おろす彼女が片手だけ握りしめかすかにふるえているのに気づくと、薫は、へえ、とだけつぶやき受け流した。どうもおとぎ話っぽく聞こえる。
(五十一頁)

 この「おとぎ話」の疑念は、二十年後、下宿人に疎開経験を語ったらしいという挿話に触れて、「大家として、いちいち、下宿人を惹きつける身の上話を作りあげることに、得体の知れない喜びを感じていたような気もする」(百十三頁)と繰り返される。わかるのは、川島雪子が「片手」を握り、震わせていることだけだ。たしかに作話の側面もあったかもしれないが、たしかに手を震わせるだけの体験はあったはずだ。しかし、かつては強固に語られていた戦争体験談さえ「おとぎ話」のように覚束なくなる場所とは、それぞれの立脚する現実に、亀裂が走っている世界なのではないか。木村は『夜の隅のアトリエ』以降、民話に取材した中編を発表しているが、それは震災に揺るがされた現実を、どう修復するかという試みの持続ではないかと思う。
民話を取り入れるとは、過去に回帰するということだ。『まっぷたつの先生』の仙台復興が、「荒れたすすき野原」という傷を抱えながら、過去の都市の姿を取り戻そうとする営みであったように、最新作『夜の底の兎』とその周辺の中編群は、復興過程としての震災文学に位置付けられるだろう。
 相手の語りが本心ではなく演技なのではないかという留保は、『まっぷたつの先生』の結末においても繰り返される。
 『雪子さんの足音』であれば、いちばん肝心な、雪子さんのプロポーズの場面である。

「わたしは、……もう、部屋を借りる方への、親切? お節介は、金輪際、止めることにします」
「金輪際? なにもそこまで」
「白状しますと、……わたしが死んだとき、まだきれいなうちに下宿人に見つけてもらえたら、という魂胆があったの」
 心から反省し吐露するふうに言い、コサージュと似た赤に塗ったくちびるの裏側を噛みしめる。どこまで本気なのやら言葉通りには受け止められなくて、薫は、はあ、とだけあいまいに返した。自分も、ここでは嘘ばかりもっともらしくついてきた。明日からは生まれ変わるつもりで、もうそんなことはないようにしたい。
(百十一頁)

 相手の本心などわかるわけがない、という認識は、小説では当たり前の技法かもしれない。湯佐薫はたしかに嘘ばかりついてきたが、女たちに対してだけではなく、自分自身を騙そうと繰り返し言い聞かせたのもそうだろう。『まっぷたつの先生』では相手の罪悪感を結局演技とは思えないし、演技であっても一枚上手だとする。それが理性的な解決だろう。明日から生まれ変わるという願いも、やはり前作に書かれていたものだ。
 だが『雪子さんの足音』においては、昏迷はより深まっている。猪俣志保美は中村沙世の告白を受け入れられるが、湯佐薫は川島雪子の「心から」の悔悟ですら、「はあ、とだけあいまいに返」すしかないのだから。人の狭間に横たわる淵が、深度を増しているといえる。心の昏さなら、すでに恋心の昏さを描いた『島の夜』がある。だが『島の夜』の昏さが、自分を受け入れてくれるとは思い難い相手を、それでもなお思慕する心であったのに対し、『雪子さんの足音』の昏さは、目の前の相手との、生きた緊張関係のなかにある。

 雪子さんの足音とは、失恋で抑鬱に陥り込んだ湯佐薫を気遣い、絶交状態であったはずの川島雪子がおじやを運びに来るときの足音だ。これは、事務所の破綻で塞ぎ込み、ホテル・カルナヴァルの一室を占領する茅野さんの部屋の扉に、救援の手紙を送った紫麻の足音にも似ていただろう。恋愛の欲望がひとかけらは宿っていたかもしれないが、しかし善意と気遣いからの施しであったには違いない。それが理解出来ているからこそ、湯佐薫の罪悪感は深い。足音が題名に選ばれたのは、この小説が後悔と罪悪感、そしてそれにまつわる回想の物語であることを意味する。
 木村紅美は、『夜の隅のアトリエ』の担当編集者に、「これで木村さんは向こう何十年と書いていける、そういう小説です」と太鼓判を押されたという。『春待ち海岸カルナヴァル』の完成度は非常に高いが、震災を真正面から受け止めるが故に、時に筆致の乱れる『夜の隅のアトリエ』以降は、独特の緊張感がある。その感応こそが、木村紅美が単に卓抜した文章家ではなくて、優れた作家であることを意味すると思う。木村文学はまた失敗するかもしれないし、スランプになるかもしれない。しかし、その辛さは重々承知で、木村文学の達成は、やはり『夜の隅のアトリエ』以降だと言いたい。
 足早に通り過ぎれば、平穏な佳品としか読めないかもしれない。重量を意識して、慎重に選び抜かれた言葉だからこそ、さらりと読めてしまうきらいはある。だが澄んだ言葉の奥底に潜む昏さと緊張感は、木村文学の新たな歩みを意味する。『雪子さんの足音』に響く足音は、老いてなお思慕する雪子さんの緊張した足取りであり、そして小説家が生きた課題に取り組み続けるが故に、時に乱れ、時に足踏みし、時にたたらを踏みながら、しかし前進し続ける足音だろう、と思う。

再建のための一章 木村紅美『まっぷたつの先生』について

 

まっぷたつの先生

まっぷたつの先生

 

  二〇一二年の『夜の隅のアトリエ』で浮上してきた木村文学の新たな問題は、倫理と罪悪だった。それが震災と関連するかは難しいところだが、私は「放射線」がそれとなく言及されている場面に触れて、サバイバーズ・ギルトに類するものがあったんじゃないかと妄想を書いた。
 そのときは、作者本人のなかで、倫理と震災の接点を明白に書くことが出来なかったのかもしれない。本書『まっぷたつの先生』は、そのふたつは強固に結び付けられている。「あの蒲鉾はね、よく知り合いに贈るんだけど、あれは、三陸を支援することで、仙台で教えてたころの罪ほろぼしをしたい一心で」(二七四頁)とあるように、その役目は、序盤から登場する、三陸の蒲鉾が果たしている。
 『夜の隅のアトリエ』以降、木村文学の主人公たちに共通するのは、彼らが特大の罪悪感を抱くことだ。
 『夜の隅のアトリエ』の女は二人の男を見殺しにした後ろめたさで永久の流浪を続けるし、『雪子さんの足音』の薫は女性との交際が困難になる。『まっぷたつの先生』の沙世も、二十年前に自分が教職に専念出来ず、教室で暴力を振るった記憶を後悔し続けている。女性派遣社員、不倫といったモチーフはいつも通りに使われるが、中村沙世の不倫において、相手の妻の精神疾患をめぐる、何気ないこの記述は見逃せない。

「妻が……、ヒデコが、心を病んでしまってね」
 塚本さんからそう告げられたのは、最後にふたりで行ったドライヴの帰りみちだった。
(……)それまで、沙世も会ったことのあるひとり息子の青はともかく、彼が妻について話題にしたことはなかった。空気のように感じていたのが、ふいに、ヒデコ、という名前で重みを持った。
(一八五頁) 

 まさしく木村文学は、「妻について話題にしたことはなかった」のである。木村文学のヒロインたちは頻繁に不倫するが、単行本化された小説で、浮気をされる相手=妻の側について触れた、その「重み」を感じた小説は、初めてのはずだ。塚本さんと別れたあと、大学浪人中の「ひとり息子」青を、「さびしさを埋めるため」(二二九頁)自分の部屋に上げて「甘やかす」挿話が絡む。抱かれる空想の程度はあるけれど、性的関係は結ばない。沙世は己の「さびしさ」を自覚して青を突き放すし、相手の男も「彼女の人生を狂わせてしまったのだろうか」と死に際に後悔する。
 『夜の隅のアトリエ』という亀裂以降の木村文学は、このような倫理と罪悪のフィールドに立っている。
 その亀裂を踏み越える前の木村文学で、果たして男が最後に後悔したとは思えないのである。亀裂以降、ヒロインたちの感情がしばしば暴発することも見逃せない。制御不可能な感情が溢れ出たとき、彼女たちは罪過を犯し、そのことを悔い続ける。『雪子さんの足音』の小野田さんが薫に性交を迫って失敗したとき、映画版の描写を重ねるなら、自身が父親から振るわれた性的暴力の光景が重なったはずである。抑えていた感情が滲み出るまでには、抑圧と隠蔽が前提としてある。

「あれ? ……光のページェント
 志保美がうたた寝から目ざめると、すでに夜だ。車の両窓は、小さな星がびっしりと宿ってみえる黄金色に輝く木立ちで埋め尽くされている。まばたきして見渡した。
(……)志保美は煌めくページェントを瞳に映しながら、瞳の奥に、ついさっきまで車窓に海のように広がってみえた、荒れたすすき野原をよみがえらせた。薄赤い夕陽を受けてささめき揺れていた。国道沿いに、四階や五階まで津波が達しベランダの硝子戸が割れたまま、取り壊されないで残っているぼろぼろのアパートがあった。カラスが巣を作ったようで、室内に出入りしていた。
 新しい家を建てる高台を作るための工事が始まり、クレーン車が土を盛りあげている光景も見た。まだまだすすき野原のほうが果てしなくつづき、志保美は、むかしここは街だったといくら自分に強く言い聞かせ、津波に呑まれるまえの景色を思い描こうとしても、どうしても、初めからすすき野原だったようにしか考えられなかった。
 街があったと信じたくなかった。
(二四五頁) 

 本書はもともと、二〇一五年に創刊された文芸誌『アンデル』に、一年間連載された小説だ。震災から四年が経過し、「光のページェント」はとうに輝きを取り戻している。それでも「すすき野原」という、大地のかさぶたは残存している。街の姿をそこに思い描けば、その悲惨さが余震として自分の心を揺らす。だから「街があったと信じたく」ない。けれども、「心のなかで手を合わせ」祈らずにはいられないとき、志保美はその震えを感知している(余談だが、本書はこれまでの木村文学と比較しても「星」が印象に残る小説だ。木村が度々書いてきたのは雲だが、被災地の星を見たのだろうか)。『夜の隅のアトリエ』以降、木村のヒロインたちが繰り返す特徴的な身振りである。「信じられない」のではなく「信じたくない」というとき、そこには事実への心理的な否認がある。だが頭ではそこに「街」があったのはとうに理解しているから、祈りの心情が自然と滲み出てくる。言葉の上での抑圧と、そこから漏れ出る心情とを同時に描いたこの文体は、三人称のようで常に一人称的な特性を十二分に活かしたものだと思う。
 もうひとつの特徴は忘却だ。『まっぷたつの先生』の女たちは、複数の場面で過去を思い出せなくなる。

 過去はいまさら建てなおせない。明け方、小鳥のさえずりを聴きながら、起きあがったら生まれ変わったようにいい人になろうと、なにかのために署名しようと決意したはずだった。なにかは、子どもだったような、いまは律子の胸のうちで、ぼんやりとかすんでいた。思い出せないまま、おなかがすいて、悔やんでいたことすらまた忘れていった。
(一五六頁)

 『夜の隅のアトリエ』の特異な文体は、結末において特に顕著だが、女がまさしく自分の「悔やんでいたこと」を忘れたように振舞う、抑圧としての忘却から成り立っている。作中の「放射能」が「隠蔽」されたように、小説は震災後の出版物という事実を隠蔽する。より直截的に震災を主題にしている『まっぷたつの先生』でも、忘却の身振りは繰り返される。それは、二〇一六年に出版された本書を読む私たちが、震災という忘れ難い事実をなかったことのように隠蔽している事態と、そっくり重なるだろう。傷の直視は耐え難く、しかし隠蔽=忘却された傷は日常のなかで何度も浮かび上がってくる。『夜の隅のアトリエ』と『まっぷたつの先生』は、この罪悪感と抑圧=忘却という繰り返す浮沈を、物語の原動力としている。
 
 「まっぷたつ」とは、生徒からの評価がまっぷたつなのと、地のまっぷたつ=震災とのダブルミーニングだろう。ある人と震災文学の話をしていた。なぜ震災文学をリアリズムで書いた小説に傑作が思い当たらないのだろうと自分の不勉強を棚に上げて訊いたとき、リアリズムで書くにはあまりに巨大な現実だったのではないか、という答えで納得したのがつい先日だ。しかし、木村紅美の描写力をもってすれば、津波直後の瓦礫と荒野を書くことは出来たはずだし、行動家である木村が瓦礫を直接見なかったはずがないのだ、ところが私は、そうした木村の小説を知らない。
 小説が震災を書こうとするとき、それは必ず余震の形式を取る。死者がこの世に言葉を記すことは出来ない。震災について書き得るのは、助かる程度の震災しか被災しなかった者ではある。だが、震災は大地の揺動から津波が続発したように、第二波、第三波、と副次的な余震を生んだ。原発のニュース、次第に明らかになる死者の数、波に洗い流されたあとの荒れ野の写真。生きて震災について書くことは、震災の傍らを書くことにしかなり得ない。それが圧倒的な現実ということだろう。『夜の隅のアトリエ』以降の木村文学は、この書き得ないものを「物語」で書こうとする試みと、それ故の必然的な迂回、と要約出来る。その迂回こそが、震災という傷の深さを体現している、とも言える。
 『まっぷたつの先生』は、震災から復興する東北と、過去の傷から復活する女たちが重なり合う物語だ。震災と個人的な後悔が連続するのを、私は短絡だとは思わない。作者が震災とその余震、それ以降について書こうとしたとき、そこには個人の物語を差し挟まずにはいられなかった。それが小説家としての資質なのだろう。『黒うさぎたちのソウル』における「沖縄」が、何よりまず個人の物語として書くことで島の隷属を心理的に納得させたように。それが、木村文学における「問題」の記法である、とも言える。

 同時に本書においては、過去の木村文学の引用が、(たとえ無意識にせよ)複数含まれていることには注意を要する。不倫や女性派遣社員の事務職もそうだが、猪俣志保美の「ぼろぼろ」の「ローファー」と、正社員である吉井律子の「ギャルソン」の靴との対比には、『風化する女』の靴のくだりを思い出さずにはいられない。そして木村文学が、このあと、選ばれない女をめぐる回想であり、そして『たそがれ刻はにぎやかに』の再演と変奏である『雪子さんの足音』へ歩みを進めることを思うと、『まっぷたつの先生』は、まさしく木村文学そのものの復興の物語ではないかと思う。
 ただしそれは、大地の傷跡の否認などではなく、「荒れたすすき野原」を横目に見るような、静かな歩みなのだろう。

亀裂をめぐる試論 木村紅美『夜の隅のアトリエ』について

 

夜の隅のアトリエ

夜の隅のアトリエ

 

 これまでの木村文学と比較したとき、異質の昏さがある。傑作や佳作と、容易に断言することが躊躇われる。
 たとえば『春待ち海岸カルナヴァル』までなら、ゆったりとした変化はあるにせよ、ほぼ同一の構造で作品を捉えることが出来た。『見知らぬ人へ、おめでとう』以前の木村は、人と人との間に横たわる絶対的な隔絶を書き、以降はその淵の深さではなく、人と人とが通じ合える可能性を書き続けた。物語に即した言い方をすれば、『見知らぬ人へ、おめでとう』以降、別れた二人の再会は、二度目の別離をもたらすのではなく(『海行き』『ソフトクリーム日和』)再び通じ合う機会になる。現実の他者だけでなく、想像の他者、たとえば生まれ得なかった赤子や死者(『黒うさぎたちのソウル』)にも想像で通じることが出来る。その極点が、恋愛の困難を片側に置きながら、再び出会い直した家族、そして友人との友愛を描いた『春待ち海岸カルナヴァル』だろう。
 もうひとつ。木村が『風化する女』から一貫して書き続けてきたのは、低賃金の女性労働者だ。経済的(=低賃金)そして性的(=女性)に二重の差別を受ける木村文学のマイノリティたちは、恋愛の困難さに苛まれ続ける(この困難さに女性同性愛者が登場しないのは、個人的には興味を惹かれる)。自分を支えてくれる集団の承認が土台としてなければ恋愛も出来ないという、シビアな認識が漂う。マイノリティの孤独だ。その典型例が『ボリビアのオキナワ生まれ』だし、『春待ち海岸カルナヴァル』の紫麻が恋愛に踏み出せるのも、家族と常連客との友愛があってこそだ。
 
 では、『夜の隅のアトリエ』は従来の木村文学と比較して、どう異質なのか。第一は、名前と過去の欠落である。
 まず、主人公である女に、厳密な名前がないことは見逃せない。たしかに小説は、名付けが面倒なのか、書き始めた時点で用意していなかったからか、「女」と代名詞のように呼ぶこともある。しかし木村文学においては、小説をちゃんと探せば、名字ともに名前が用意されている。『夜の隅のアトリエ』の女は、理容師の資格こそ有してはいるが、移り住んだ街々で他人の保険証を盗み、新たに生起し始めた社会関係がわずらわしくなってきたところで、別の女に成り代わって逃げ出す暮らしを続けている。女は名前を奪い続けている。だから、その個人証明書に印字された名前は繰り返し小説内に記入されるけれど、女の本当の名は、わからない。『島の夜』の母との関係に悩む波子は、その根本原因たる父に出会い直す。沖縄というルーツを描いた『黒うさぎたちのソウル』や、家族が重要な主題であった『春待ち海岸カルナヴァル』に対して、『夜の隅のアトリエ』では、女が血族や自身の過去について語ることは一度もない。女が物語の最初で名を捨てる原因となった、恋人のカメラマン・秋生との生活以前のことは、一切書かれない。女がどこから来たのか、小説内の誰にも、そして読んでいる私たちにも分からない。
 分かるのは、女が名を奪いながら旅をしている、ただそれだけだ。
 木村文学における孤独は、今に始まったことではない。孤独は過去からの積み重ねで、人をそこに縛り付けるものだろう。
 たとえば『風化する女』のれい子さんは、社内で存在しない人間のように扱われる前から、そもそも鳥取の家族と不仲だった。新たな土地に安住も出来ず、もはや故郷に帰ることも出来ない女こそが(『野いちごを煮る』のように、その移住先に選ばれるのが東京だ)木村紅美における低賃金の女性労働者の系譜であり、『ボリビアのオキナワ生まれ』のマナさんもこの例に漏れない。自分に恋愛を希望する資格がないように感じるには、相応の失敗経験の積み重ねがあるはずである。木村の小説は、この失敗の歴史を必ず丹念に描くか示唆している。最新作『雪子さんの足音』は、恋愛が困難な小野田さんの傷を濃密にほのめかしているし、物語は女を愛することが困難となった男の失敗談そのものである。
 しかし、『夜の隅のアトリエ』の女は決定的に違う。女は、孤独ではない。恋人が居れば、職場からのそれなりの承認もある。ビジネスホテルに連泊出来る程度の貯金もあるし、自分の身体に女としての価値があることも理解している。だがそれでも女は、進んで孤独を選ぶ。

 歩いていても電車やバスの窓からなにげなしに街並みを眺めているときも、廃屋寸前のまま何年も周囲の時間の流れから取り残されたアパートや家が気になる。
(……)陽あたりのわるい部屋の畳は傷むのが早いだろう。ビー玉を置けば指さきで弾かなくても自然に転がってゆく。でもすぐに慣れてなんとも感じなくなる。
 田辺真理子は、いつからか、衆人の眼にさらされていながら、じっさいは映っていないように思えるああいう場所に、ひとりきりでひっそりと身を隠し暮らしたくなることがある。いっそ、自分の素性もわからなくしたい。仕事も名前も変えて、つきあいのあるすべての人のまえから、突然、予告なしに消える。
(四頁)

 『夜の隅のアトリエ』の女は、「衆人の眼にさらされていながら」「じっさいは映っていない」ような人間として生きることを願っている。誰に素性を知られることもなく、関係を持つこともない。『風化する女』を踏まえれば、「幽霊」のように扱われる人間になりたい、ということだ。
 だから『夜の隅のアトリエ』の欲望は異質なのである。木村文学のヒロインたちが苦しむのは、「幽霊」の孤独だ。恋愛の希望を持つことも出来ず、存在を承認される(映される)こともなく、欲望に付け込まれて弄ばれる、そんな定型を繰り返してきた。ところが今「田辺真理子」を名乗る理髪師は、恋愛の欲望や存在の承認への希望もない。むしろ、恋愛や承認=友愛と無関係な生活を望み続ける。正反対だ。
 第二は労働へのスタンスである。これは過去の木村文学への、反逆にすら近い。たとえば『野いちごを煮る』でヒロインを疲れ果てさせ、『黒うさぎたちのソウル』でそれとなく忌避されていた、「個性」を徹底的に抹殺する派遣の事務職のような仕事が、いちばんの「理想」となる。

 鵜呑みしたマニュアルに従うだけで良く、独自の個性や発想といったものはむしろ邪魔になるだけの仕事、一日の終わりがくるといつもボロ切れのように疲れ果て、ただ、倒れて眠るしかない、休日もろくになく余計な感情を根こそぎ奪われる仕事が理想だ。
(一六八頁) 

 「個性」ある生身の人間ではなく、「衆人の眼にさらされていながら」「じっさいは映っていない」もの、物質のような何かになりたい。
 欲望は、二つの職業に帰結する。第一は連れ込み宿の受付であり、第二はヌードモデルだ。ラブホテル「旅館かささぎ」は、入り口すぐの受付に「小窓がついており、黄みの強い肌をした女の顔の下半分がのぞ」くばかりで、その小窓から鍵の出し入れをする。ここで必要なのは、在室の証となる「顔の下半分」と、鍵を受け取る手だけであって、「あちらからみえる自分は鼻のみの存在」(七十四頁)だ。「毎日いろいろな客と髪を介しコミュニケーションを取らなければなかなかった東京」とは違う仕事だから、気楽である。「乳首や尻を凝視される」絵画教室のヌードモデルは、「愉しみに思えるばかりで恥ずかしさ」はない。その極点は、個人的にモデルを依頼してきた「館主」に、手すりの「ライオン」へ全裸で跨るよう要求される場面だ(一三七頁)。「押し広げられたやわらかなひだのかさなり」が「いっそうこすれて濡れだ」すのを、間違いなく館主は「狙ってい」たに違いない。「モデルというよりなぐさみもの」なのは明白だが、「期待に応えようと眼を瞑ったまま、指示もないのに身体を前へのめらせ」るのは、他でもない「自分」が「そうしたかった」のである。
 自分がものになる世界では、他人もまたもののように見えてくる。

「本日のモデルの小林さんです」
 拍手が起き、ガウンをかきあわせ全身を硬くした。だれとも視線を合わさないようにして、よろしくお願いします、と口のなかでつぶやきおじぎした。椅子を伝いカウンターにあがる。豹柄のフェイクファーが敷かれている。集まっただれのことも、揃って、人間というより、目鼻立ちを肌色にぼかされた人物像に思えだした。
(七九頁) 

 そこは人の生温かさからかけ離れた世界である。関係し続けようとする生物がひたすらにわずらわしい女には、この「肌色にぼかされた人物像」ばかりの世界は心地良い。スケッチする人々の視線は欲望を孕んでいるかもしれない。そう予想していたからこそ、「興奮で陰毛の奥が濡れてきそうな怖れ」を覚えていたが、実際には「すうすうした」ままで、「なんとも感じない」。「可能ならくちびるから肛門までジッパーのようなものでめくりあげ、臓器のひとつながりを、人体模型みたいに全部むき出しても平然としていられそう」だ。
 一方で、ここには不思議な転倒がある。比較すべきは、サプリメントのモニター勧誘を拒む序盤の場面である。

「一日一錠、就寝前に服用して頂ければいいんです。とりあえず、無料で一か月ぶん差し上げますけど、代わりに、お願いしづらいんですが、使用前と使用後の写真を、全身、パーツごとに撮らせてもらいたくて……、もちろん、眼もとは隠してお撮りします」
 さりげなく身を引いた。
(十三頁) 

 サプリメントは「肌から染みやくすみを取り除いて潤いを与え」「二十代前半の状態まで若返」る代物だそうだから、その服用前後の比較は、ヌードモデル同様に、大雑把には「美」を証立てるためにある。むしろ「眼もと」を時に直視され、性器まで露にするヌードモデルのほうが、抵抗感は大きいはずだ。ところが女は「ヌードモデル」のスケッチは愉し気に受け容れ、「写真」からは「身を引く」。この差異は重要だ。恋人であるカメラマンの秋生に「着衣」で撮影をせがまれても、理由を説明することなく拒絶する。身体の分割が愉しく、全身の要求が疎ましいだけでは筋は通らない。なぜなら「臓器のひとつながり」を「全部むき出しても平然」としていられるし、モデルは「裸足」を要求される、すなわち頭の上から爪の先まで凝視されているからだ。
 スケッチが是であり、写真が否である理由は、作中には明記されていない。だからここは想像の領分である、ともいえる。
 「こちらをじっと見つめているはずの領主の網膜から吸い取られた魂が、コンテと鉛筆を通しキャンパスへと移し替えられる。寿命が削られてゆく。奥さんもモデルをしているうちに、削られたのだろうか」(一三六頁)という記述は、どちらかといえば写真を連想させるものだ。「網膜」が欲望を寄せるのは、スケッチも写真も変わらない。普通は前者の視線のほうが、持続する分より濃密な欲を感じさせるはずだし、むしろ女はスケッチの欲望には「サービス」までするのだ。だが写真は、正確な記録である。モデルの名が絵に付されることは滅多にないだろうし、絵は小説の後半がそうであるように、それぞれの欲望に応じて身体を切り取る。「乳房や尻」から個人を特定することは不可能だろう。そこが、差異なのかもしれない。
 しかしそもそも、木村文学において、このように想像で勝手に補わなくてはならない欠落こそが、なにより異質なのである。

 

 ここまでの文章は、『夜の隅のアトリエ』をめぐる重要な問にはまったく答えられていない。
 それは、なぜ木村文学は、『春待ち海岸カルナヴァル』からぐるりと歩みの方向を転じたか、だ。作品の細部を無視すれば、『春待ち海岸カルナヴァル』は人と人が通じ合うという主題を、家族・友人・恋慕の三方向から書き切った作品だった。主題の底まで潜り切った。だからこそ、人と人がまったく通じ合えない、「もの」同士が無関係に並列する世界へ歩き出すのは、流れとしては理解出来る。
 では、その転調の原因とは、何なのか。
 『夜の隅のアトリエ』は、間違いなく木村文学におけるひとつの亀裂である。本書以前の木村文学の魅力は、徹底したリアリズムだったと思う(もっとも、このリアリズムとは「女が抑圧されている」という事態の、素朴で残忍な言い換えかもしれないが)。私も全部を読んだわけではないが、『夜の隅のアトリエ』から『まっぷたつの先生』までの木村は、非リアリズムへの跳躍を繰り返していたと思う。
 重要な主題は震災だ。本書でも、それとなく震災への目配せがあることは見逃せない。家主に髪を切られる場面だ。

「両横は、耳を半分出して。前髪は眉が隠れるくらい」
「わかりました。なにか読みますか」
 週刊誌の最新号をまとめて持ってきてくれた。
「そうですね」
 発売日の日付けをたしかめただけで息苦しくなった。自分は携帯やインターネットのない時代に生きているわけではなかった。表紙を見比べ、総理大臣が替わったことを知った。目次をめくった。各国で相次ぐ自爆テロ放射能漏れの隠蔽。牛肉の産地偽装フィギュアスケートの裏側。女子アナが実業家とゴールイン。
 どの見出しにも興味がわかず、知りたいことはなにひとつなく、知らないで困ることもなかった。無理に読もうとすると眼がちかちかし、押し返した。
「いいです」
 あくびすると両手をクロスの下に隠し、膝のうえで重ねて、鏡に映る自分の顔を見たくなくうつむいた。
(一〇五頁) 

 非常に簡素に書かれている。補って読む必要がある。携帯の契約こそ切ってはいるが、「旅館のパソコン」からインターネットを閲覧することは出来る。そのうえで「発売日の日付け」を確認すると息苦しさが巻き起こるという。この「息苦しさ」は実はよくわからない。「放射能漏れの隠蔽」とあるから、普通に考えれば二〇一一年だろう。菅内閣が終焉したのも二〇一一年で、『夜の隅のアトリエ』は二〇一二年の本だ。
 素朴に憶測するなら、最新号として持ってきてくれた週刊誌の日付けが、軒並み遅れていた。そこに地方の閉塞を感じた、ぐらいのものだろう。ところが「牛肉の産地偽装」となると、表立った事件はゼロ年代だ。最新刊にはさすがに古い。家主も処分するだろう。粘着質な読みをするなら、物語はそもそも二〇一〇年のクリスマスから始まっているはずだ。そこから菅内閣が終了する二〇一一年九月までの時間経過を読むのは、本書からは難しい。なにせ小説の前半はクリスマスと正月から幾月かの、一冬の物語に過ぎないはずなのだ。
 この部分を、私は細疵として読まない。木村文学における時間の亀裂が始まった証だと見たい。
 だから「発売日の日付けをたしかめ」ることは息苦しいのだ。小説の舞台は富山であり、女が仮に地震を体験しているのであれば、それを書かないことは不自然だ。地震を体験していないなら、「放射能漏れの隠蔽」を持ち出す理由がつかない。ここで「隠蔽」されているのは、木村紅美が「震災」をあえて書かなかった、そのことに他ならない。そして、にもかかわらず「放射能漏れの隠蔽」を持ち出さざるを得なかった、切迫感に似た「息苦しさ」が滲むのが、この不自然なほどに簡素極まりない数行である。隠蔽は、抑圧と言い換えてもいい。
 これは小説の外側から押し付けるような暴力的な読みだが、女が「写真」を嫌うのは、報道を連想させるからではないかとも思う。
 もうひとつ。木村文学は度々死者を書いてきた一方、自死者は徹底して避けてきた。『風化する女』のれい子さんが病死でなく自死であったなら、小説の哀切さは霧散しただろう。『たそがれ刻はにぎやかに』の結末は、自殺が困難だからこそ悶え苦しむような哀しさがある。『雪子さんの足音』は、雪子さんが息子を手がけたのではないか、あるいは自殺かと推測したくもなるが、異状死が警察の検死を受けないわけがない。野暮な見方だが、絞殺は痕跡が残るはずだ。
 ところが『夜の隅のアトリエ』の二人の男は、実に呆気なく自殺する。たしかに自殺の動機は説明可能なものと不可能なものとの複合だろうが、その動機の根源は、直接触れ合った館主でさえ分かりにくい。それどころか、自殺とするには奇妙と思いたくなる描写が挟まれている。

 電話のとなりに、アベ、の名前と先月の給与明細が記された茶封筒があった。小銭だけ入っている。丸めてコートのポケットに押し込めた。遺書らしきものは見当たらず、みずから死を選んだのか、不意のことか、わからない。卓上カレンダーは四月に変わり、次の日曜日が赤丸で囲まれ、コバヤシさん、とある。また絵画教室へ出るために仕事を頼む気でいたのだろう。ますます死ぬつもりはなかったのではないかと信じた。
(一五五頁) 

 木村文学において死がどのような運動になぞらえられてきたかは、正確に作品を追って確認しなければならない。しかし、『たそがれ刻はにぎやかに』の屋上を思わせる次の想像の場面が、『夜の隅のアトリエ』の死の力学の一端である、とひとまず見なしていいはずだ。

 このあいだ、先生をふり切り夜空にむかい階段を駈けあがっていったら、どんな光景が広がっていたのだろうと、思い描いた。屋上までたどりつくまえに、注意されたとおり底が抜けていてバランスを崩し、悲鳴もなくそのまま深い穴へ落ちていって固い地面にたたきつけられ、死んでしまってもいい気がした。
(九十七頁) 

 それは第一には落下だ。突然「底が抜け」るその一瞬で、落下した先の「地」に殺されるのが、『夜の隅のアトリエ』の死である。館主と秋生の死は、まさしく突然、底が抜けるような唐突な死に方だった。どちらの死の理由も、いつ死んだのかも、正確にはわからない。
 女は、同性の身分証を盗むことには何の躊躇いも覚えないにもかかわらず、男たちの死には極大の罪悪感を覚える。

 死んだのだ。あらためて突きつけられると、彼も館主も、自分が追いやった気がした。鞄の内ポケットに隠し持っていた粉末をひそかに取りあげて捨てたらよかった。脳裏をかすめてはいたものの、実行に移せなかった。いちどくらい、写真を好きなように撮らせてやればよかった。誘われるまま、ふたりで逃げたらよかった。どちらも出来なかった。チェリーで髪を切られながらさめざめと泣きだしたもうひとりの秋生の恋人は、最後に彼が共に過ごしたのが田辺真理子らしいと知ったら、助けなかった自分の罪を、執拗に問おうとするのではないか。常軌を逸する憎しみを抱き裁いてやろうと、あらゆる手段を使い、やがて行方を嗅ぎつける。自分は罪を負ったまま逃げつづける。
(一六〇頁) 

 これを、同性の女たちがどうでもいいからで、男たちには多少なりとも恋愛感情があったから、とだけでは読みたくない。事実だけ読むなら、館主と秋生の死については、いずれも対処策を「実行に移せなかった」だけで、仮にそうしていたとして自殺を止められたかはわからない。ここで重要なのは「助けなかった自分の罪」が「執拗に問」われるのではないかという、無根拠な不安である。実際には、名と住所を捨てた「田辺真理子」を、「もうひとりの秋生の恋人」が発見出来る可能性は高くないはずだ。
 だから、ここに書かれているのは他ならぬ自分が「罪」を「問おう」としている、すなわち自責である。
 第二の力学は水死だ。

 思いきって回すと、正面の鏡に、自分の全身が映った。途中までふたが閉まっている、水の満ちた薄青い浴槽に、館主が沈んでいた。壁も床のタイルも青く、閉め切られたくもり硝子の窓に裏庭の物置か植物かわからないシルエットが淡く映っている。髪がぐっしょりとし、まっ白い顔はむくんで眼も口も一文字に閉じられている。
(一五二頁) 

 自殺の現場を発見したとき、まず最初に映るのが「自分の全身」なのは注意すべきだろう。鏡はこの場面の直後、ほとんど唐突にも近い性急さで、秋生の服毒を見逃した記憶へと時間を折り返す。いずれにおいても問われるのは「助けなかった自分の罪」であり、鏡は自責の導入装置になっている。しかしより重要なのは、手首を切った館主が、浴槽に沈んでいることだ。
 この水死体の描写は、「魔女」をめぐる想像にまで引きずられる。それは、女が富山を去る最後の場面でもある。

 二十メートルほど先の隅に給水塔が建っている。照らしたら、そこまで行くのには、雪が腰の辺りまで埋もれそうに深い。よじのぼるのはあきらめ、ただ、見つめた。灰色のような空色をしたタンクの表面に光の輪が映る。神隠しの話は先生のでっちあげ で、魔女は暗い水のなかに、死んだまま閉じ込められているのかもしれない。隠れたのではなく殺されて沈められ、いまごろ骸骨と化している。
(一六七頁) 

 二つの水死体の共通点は、第一に「ふた」が閉められ、第二に沈んだまま、ということだ。
 総合するなら、『夜の隅のアトリエ』の死の力学は、まず突然の「地」との衝突があり、それから遺体が「水」に沈められる、という二つの手続きがある。そして主人公はその死に「自責」を覚える。乱暴を承知で、私は震災とサバイバーズ・ギルトとして読む。
 津波は、木村文学において決定的な打撃を与えたに違いない。そう断言したい。強烈なまでの感応があった。なぜなら他ならぬ「水」こそが、木村文学において常に別れを意味する形象だからだ。『夜の隅のアトリエ』以前の木村文学では、ただし当然、別れとは、人と人のすれ違いによる別れでしかなかった。亀裂以降の「水」は、関係性など完全に無視するような唐突さと、圧倒的な力で、人を破砕する。
 そこには明確な決別の瞬間すらなく、死を知った女が、ただ取り残されるだけである。

 読み返すごとに、欠落の多さに気付く小説である。
 小説の前半は富山を去る場面で終わるが、十三章からは館主が自分を描いた絵を一目見ようと、富山に帰還する「五、六年」後の物語が続く。しかし、なぜ女が館主によるスケッチを見たがるのか、小説内から直接読むことは不可能に近い。

 館主の遺作があるはずの民宿を初めて訪れるつものでいた。カードをもとに検索して見つけたホームページを時折りチェックしていた。じいちゃん、と先生が呼んでいた宿主は先代で、とうに亡くなった。息子が跡を継いだものの、年内で廃業するという。
 壁にかかった絵が写り込んでいる。人物像らしく見えるけれど、果たして自分がモデルなのかは、わからない。いったい、どんなふうに描かれているのだろう。後ろ向きで、白鳥座のほくろがある。もしも飾られているとして、見知らぬ人たちの視線にさらされ続けてきたのだと思うと、描かれたときに聞こえていた音が、耳の奥によみがえった。さらさら、きゅきゅ、かりかり。波打ちながら身体の内側を満たしてゆく。廃業まえにひとめ、たしかめたかった。
(一七三~一七四頁)

 書いてあることには書いてあるのだ。「いったい、どんなふうに描かれているのだろう」とあるから、好奇心だろう。耳の奥によみがえるなら、懐かしさもあるだろう。四方田犬彦は、2018年の木村紅美との対談で(群像2018年3月号『ボブカットの寄る辺なき女性たち』)女の、「自分が思っている自分」と「他人の中で自分を隠して、外側をどんどん取りかえていく仮面のような自分」との乖離に「疲れた主人公が、あるとき、自分のことを見ていた人にとっての自分のイメージを確認したい」と感じたのだ、と補って読んでいる。この解釈は、では主人公はペルソナとの乖離に「疲れ」ていたか、という問いは生じる。疲れたなら「外側をどんどん取りかえていく」生活をやめればいい。さすがに秋生の恋人も五年経てば追ってはこないだろう。罪悪感も一見和らいでいるように見える。結末を読む限りでは、むしろ「外側をどんどん取りかえ」る、「定めなき人間」(四方田犬彦)の生活が女には好ましいはずだ。
 しかし、わかる読みなのだ。
 四方田のように「疲れ」を補いでもしなければ、実際、この動機はよくわからないのである。たしかに波の音に「描かれていたときの音」と「館主の死に顔」が喚起され、館主、秋生に続いて自分の葬式を空想する場面も、「自分のことを見ていた人にとっての自分」を「確認」したい、という欲望の現れだろうから、四方田の読みは正確である。しかし、この補強をもってしても、「氷塊に居座られてから」すなわち罪悪感に囚われてから、「いつか彼の絵に会うことをただひとつの寄る辺として、旅をつづけてきた」その心理を読み解くことは難しい。

 最後にかささぎへ出勤したときに勇気を奮い住居の二階へあがったら、獅子と裸婦をテーマにしたデッサンが残っていたのではないかと考え始めると、仕事のあとどんなにぐったりしていても、いまだに眠れなくなる。うなされるどころか、そういう晩は、空想がこんこんとわきあがる限り、浸って、戯れていたい。
 何度も、頭のなかで、あの天井に近い窓から射しこむ光に埃が踊っていた階段をおそるおそるのぼっていっては、あるはずのアトリエを探した。ドアをあけると、狭苦しい質素な部屋じゅうにキャンパスが積まれ、つんとするにおいが漂っている。イーゼルに未完成の油彩画があって、木製のパレットに点々とこびりついたままの色とりどりの絵の具は、爪のさきほどの野の花が咲き乱れているみたいにみえる。
(…)
 デッサン練習に使うミロのヴィーナスの石膏像や本物のりんご、黒い斑点の浮きあがりだしたバナナが、イーゼルを取り囲んでいる。小鳥のさえずりが聴こえ、窓から裏の畑を見おろせる。チューリップ、ひまわり、コスモス。季節ごとに奥さんが育てた花々が揺れる。摘んできてモチーフにすることもある。或いはひたすらに雨戸を閉め切り、太陽と無縁でいる。案外と高価なアンティークのランプや壺が隠されている。
 思いつく限りあざやかに空想しているうちに、じっさいにそこに呼ばれ描かれた経験があるみたいに、記憶がすり替えられつつある。この遊びはどれだけくり返しても気が咎めない。どんなようすでも、行ったことなどないのに、なつかしさをおぼえる。
(一七五~一七六頁)

 想像図のアトリエは、外界の喧騒とは無縁な、穏やかな室内である。館主の奥さんも存命の、楽園の図だ。五年後の感情はもはや「うなされる」ような罪悪感ではなく、「なつかしさ」に等しいものへと脱色されているように見える。しかし、実際にはそうではない。女は「罪」を背負っている。館主の描いた背中の「ほくろ」を密かに「つないだ」とき、それは「十字架」に似ているのだから。
 この「十字架」は、かつて女が嘘をつき、店主に責められる原因となった「サワさん」の首に飾られたものでもある(一二四頁)。

 描かれおわったとき、なんの興味も持てない、と感じたはずだった。腕前などはなから信じていなかった。いつのまにやら、描かれたことによって永遠の命を与えられたみたいだと、いっぱしに錯覚していた。彼はダ・ヴィンチでもフェルメールでもないのに。
 芯から魂を吸い取られたと揺さぶられるほどの見事な肖像であったならば、きっと、盗んででも奪い去った。
 氷塊に居座られてからいままで、いつか彼の絵に会うことをただひとつの寄る辺として、旅をつづけてきた気がする。向かいあったら、どちらの作品も、捕まえられるかもしれない危険を冒してまで奪う価値など、自分を憐れみ笑いだしたくなるくらいに見出せなかった。頭の隅でオレンジの炎が勢いよくはぜた。キャンパスの表面がめくれあがり真黒くなって焼け落ちる音が弾けた。夜明けまえの空に煤がひらひらと舞い、あとにはひと握りの灰が残る。
(一八九頁) 

 これは四方田の読みよりはるかに乱暴な補いだが、女が絵を確認したいと願い続けたのは、罪悪感に囚われる前の「魂」の写し絵を期待していたのだと思う。「氷塊」が居座るのは、館主と秋生の死をほぼ同時期に知ってからだ。想像のアトリエが喜ばしい楽園であるように、罪を知る前の「後ろ向きの裸婦」は、亀裂の先から見返せば、「野の花が咲き乱れているみたいな」明るさに生きているはずなのだ。
 心象としてスケッチを燃やすことは出来ても、罪悪感は残存する。むしろ燃焼こそが、罪悪感を強化するだろう。想像のアトリエはもはや「死んだ元館主」が「白髪から水滴をしたたらせ、キャンパスに裸の女を描いている」凄惨な空間と化すし、館の非常出口の鍵はいつまでも捨てられない。

 ポケットのうえから鍵に触れた。チリリ。いまでは、どこへ通じるドアをあけるためのものだったか、すぐには思い出せないときがある。思い出せないふりをしている。煌々と輝くガソリンスタンドがたちまち後方へ遠ざかった。夜が更けていく。置き去りにしてきた、名前を忘れたふたりの男は、きっと、この同じどこかの隅で、生きつづけている。嘘だ。やすらかに死んだ。
 いままでもこれからも、知らない町から町へと流れ去ってゆくことだけがたしかだ。追われているようなこの暮らしは安住よりも生きている心地を得られる。
(二〇〇頁) 

 これは「嘘」なのだ。女が自死者の名を忘れるわけがないし、「生きつづけている」なんて見え透いた嘘でしかない。しかし、そのように死を隠蔽せざるを得ない心の動きがある。それが抑圧であり、罪悪感だ。「追われている」のは罪にだが、「安住」しない生活は束の間それを忘れさせてくれる作用があるだろう。
 『夜の隅のアトリエ』の輝きが特異なのは、木村文学において、おそらく初めて倫理が主題となったからだ。このあとに続く『まっぷたつの先生』もそうだし、『雪子さんの足音』の薫を支配するのもまた罪悪感である。『たそがれ刻はにぎやかに』や『ボリビアのオキナワ生まれ』の男たちが、女を手酷く扱うことにほとんど罪悪感を覚えないのとは、対照的である。
 この倫理の主題は、私は震災とサバイバーズ・ギルトがもたらしたものだと思う。とりわけ木村文学の根底にある「水」こそが、強烈な動揺を与えられた。小説の亀裂は、生き残る者の罪悪と倫理の世界、その両岸の境界線を意味している。
 四方田犬彦は、『夜の隅のアトリエ』以降の木村の小説を「非常に大きな枠組みで、民俗学やそれにつながる物語の援用が少しずつはっきり出てきたような感じ」と評し、短編『馬を誘う女』を「震災後の人々の無意識の世界にどのような接近すべきか」という問を孕むものだとしている。この「人々の無意識の世界」へのアプローチに民話を援用する構成は、『黒うさぎたちのソウル』の古謡の扱い方に近似している。「無意識の世界」とは「ソウル」とも言い換えられるだろう。しかし、その『馬を誘う女』においては、『黒うさぎたちのソウル』のようなリアリズムの基盤は柔らかく崩れている。震災をめぐる不安を直接的に描いた『八月の息子』は、記憶の限りでは、心的外傷のような唐突な不安の挿入をされていたはずだ。民話とは、魂の傷ついた作家が物語を維持出来なくなったとき、ひとつの処方箋として手を伸ばすものではないかと書けば、さすがに邪推が過ぎるだろうか。
 木村は宮城県出身の作家であり、岩手を主題にした『イギリス海岸』もある。この素朴な事実はもちろん重要だ。しかし、震災という巨大な現実を前にしてリアリズムの地盤が揺らぎ、そこから秩序と現実性に亀裂の入った、柔らかな土地を歩き始めた、というだけの読みには抵抗感がある。そんなことは作家を読まなくても言えることだ。重要なのは、『夜の隅のアトリエ』以降の木村が、どのように、そしてなぜ震災という亀裂に感応したか、亀裂以前とどう連続し乖離したかだろう。それを読むのが、作家を読むことだと思う。