小説家の足音 木村紅美『雪子さんの足音』について

 

雪子さんの足音

雪子さんの足音

 

 木村紅美は卓抜した文章家と言われる。それだけでは宣伝文句にならないからか、登場人物の心情を詳細に書くのが巧みだという謳い文句も、たしか『春待ち海岸カルナヴァル』の表紙裏に書かれていた。個人的には『春待ち海岸カルナヴァル』よりも、『夜の隅のアトリエ』以降の木村文学においてこそ、文体における心理表現が深度を増したように思う。
 本書なら、小野田さんの部屋に忍び込んでその荒れように衝撃を受け、バーに駆け込んだときの何気ない一文である。
 「今晩もレゲエや古いロックが大音量で流れている。だまって身体を揺らし聴いているうちに、洋服やぬいぐるみに八つ当たりする女の子なんて、つくづく、まともに相手にしないで正解だったと、自分の判断を誉めたくなった」(一〇九頁)という、この心情の書き方こそ、『夜の隅のアトリエ』以降の基本技法と言っていい。年上のテレフォンオペレーター・小野田さんから強引な迫られ方をされ、冷たく拒んだあとの場面だ。褒めたのではなく、誉めたくなったのである。小細工のような読みだが、このとき主人公の湯佐薫は、自分の判断を正解とは心の底では思えていない。もっと別の正解があったのではないか、という疑念が滲んでいる。それを抑圧するために褒めたいのだが、心情の奥底で出来ずにいる。だから、この「誉めたくなった」とは、自分への語り掛け、抑圧としての言い聞かせの文体だ。疑念の源にあるのは、自分が小野田さんに破壊的な打撃を与えたのではないかという罪悪感である。それは小野田さんが会社を辞めたのを自分のせいではないかと、大家である川島雪子に尋ねる場面からも明らかだろう。
 『夜の隅のアトリエ』以降の木村文学には、この罪悪感と抑圧の結果として生まれる、言い聞かせの文体が芽生えている。
 本作の物語でもっとも決定的な場面は、アパート・月光荘の隣人である小野田さんに、肉体関係を迫られる箇所だろう。「湯佐くんは、わたしを……、いっそ、遊びで、というか、身体だけを目当てに、道具っぽく扱ってくれたっていいじゃない」(八十八頁)と小野田さんが「コーデュロイのズボンのジッパーを下げようと」しながら背後から囁く言葉は、薫の本心を見事に言い当てている。薫は、たしかに後ろめたさから川島雪子の孫ごっこに付き合い始めたとはいえ、明らかに金「だけを目当てに、道具っぽく扱」っていた節があるし、「都合のいいところだけを利用していたい」(七十四頁)と願っていたからである。小野田さんと湯佐薫が二人きりになるよう取り成したのは、「キューピッド」になりたいと願っていた川島雪子だ。
 「そりゃ、わたしは、あなたにとって、古着屋やレコード屋をいっしょにはしごしたくなるような外見じゃないだろうけど、それは、電気を暗くすれば気にならないじゃない? 声と、身体の感触だけになってしまえば」(八十九頁)と続く言葉も、つまりは「声と、身体の感触」という「都合のいいところだけを利用」すればいいじゃないか、という請願である。金を払って抱かせてくれ、という願いも、湯佐薫の急所を、正確に突いているといえる。金を払って孫ごっこをさせてくれるのに、恋人ごっこを断るのは、理由の説明がつかないからだ。
 たしかに小野田さんの迫り方は性暴力に近く、その誘いを断られたからといって「洋服やぬいぐるみに八つ当たりする女の子なんて、つくづく、まともに相手にしないで」正解なのである。湯佐薫は金目当てに孫ごっこを利用してはいるが、一方で「まったく最後の最後まで、湯佐さんはおやさしい」と川島雪子に告げられる。湯佐薫が「やさしい」のは小野田さんに対してもだ。最後まで性暴力を振るった相手の身を案じようとする(湯佐薫は、これまで女を「道具」のように扱ってきた木村文学の男たちと比べれば、比較群が悪いとはいえ、破格のように倫理的である)。
 それは薫が、他ならぬ自分の罪悪感を言い当てられたからだろうと思う。
 
 映画『雪子さんの足音』は優れた映像化作品だ。もちろん原作は好きな作家の小説なんだから好きに決まっている。
 しかし脚本も素晴らしい。脚本家の山崎邦紀さんは木村紅美のファンで、それは本作の冒頭が『たそがれ刻はにぎやかに』という、おそらく木村文学を以前から読んでいた人しか知らないであろう中編の引用から始まることからも確かなのだが、小説では月光荘の女たちとの別れを後押しする重要な装置が「江戸川」であったのに対して、映画では原作にない水槽が二度決め打ちのように使われていたのも印象深い。木村文学における「水」は、別れを決定付ける重要な装置だからだ。
 それに劣らぬほど素晴らしいのは、主演三人の演技だろう。
 個人的には原作でも「足音」は然程重視されていないように感じていて、むしろ重要なのは「声」だと思う。小野田さんが二人で川島雪子の養子になることを「プロポーズめいて」提案するとき、「夜は、声だけは美人、ってしょっちゅう褒められるこの声を活かして」テレフォンセックスで小説を書く薫の生活を支えたい、と申し出る箇所もそうだ。『夜の隅のアトリエ』における、ヌードモデルの女を男たちが視線で切り取る動作は、『雪子さんの足音』においてより発展している。湯佐薫は川島雪子の「金」だけを切り取って交流しようとするし、だから小野田さんに「声」と「身体」だけを切り取って自分を抱いてくれ、と復讐されるのである。映画を横浜で観てから随分経ったが、川島雪子を演じる吉行和子さんと、小野田さんを演じる菜葉奈さんの声の粘度は、今も耳の底に沈んだまま、消えてくれそうにない。菜葉菜さん演じる女は、内気で内向的で動作がぎこちなく、だが恋愛への欲望を抑えきれずに苦しむ木村文学の女たちを、同時に何人も演じているようで、『春待ち海岸カルナヴァル』の紫麻を思い出してしまった。
 しかしいちばん驚いたのは、湯佐薫を演じる寛一郎さんが、本作を読んだとき、恋愛小説だと思った、というコメントだった。これは私はまったく初読ではわからなかったのだけれど、そうなのである。すでに書いたように、「道具っぽく」扱ったのはまず小野田さんではなく川島雪子相手であり、「わたしが死んだとき、まだきれいなうちに下宿人に見つけてもらえたら、という魂胆があったの」(百十一頁)という告白はほとんど最期を看取ってほしいという「プロポーズめいて」いるし、何よりそう読まなければ、雪子さんの寝室に忍び込んだときの、次の描写の説明がつかない。

 洋服箪笥もあけた。防虫剤の香る、几帳面に畳まれたブラウスやセーター、スカートを一枚ずつ持ちあげる。おへそまで覆うショーツに大きなブラジャー、レースや花飾りのついたスリップ、厚ぼったい木綿の肌着シャツは、揃って、白かベージュかサーモンピンクをしていた。その底に、こんどは、しわくちゃの感熱紙が折りたたまれ入っている。広げると、印刷された文字列に憶えがあった。
〈指さきがクリトリスに触れ、淫靡な食虫花めいた陰唇のあいだを探った。せつなげに待ち受けるように濡れているのがわかり、〉
 試しに書いた官能小説の一部だ。ごみ袋を点検したのか、掃除に入り込んだときにごみ箱から拾いあげたらしい。
(一〇五頁)

 母親に書きかけの官能小説を見つかっていたようなもので、湯佐薫が「こめかみから火が出そうで乱暴に丸めよう」とするのは当然なのだが、しかしこのわずか二文で終わった官能小説の切れ端を、誰にも探られないであろう洋服箪笥の底に、丁寧に折りたたんで保管していたとき、「せつなげに待ち受け」ていたのは、他ならぬ川島雪子だったのではないか。「孫ごっこ」に欲望が付き纏うかというと、この小説の世界ではするのである。何故なら川島雪子の分身にも等しい小野田さんが、「血のつながりのない姉と弟」になることを願いながら、湯佐薫に迫るのだから。
 映画版で、薫の退去をめぐって、小野田さんが川島雪子に食ってかかる場面がある。この場面は原作にはなくて、山崎邦紀さんに伺ったとき、「お二人とも素晴らしい女優だから、やはり衝突をさせたかった」と仰られていた記憶があるのだが、正確な補筆だろう。そしてもうひとつ、若かりし頃の雪子さんが「白い毛布から肩をのぞかせ」た裸の写真を、「思わず手に取り、見つめ返すように見入った。台所で後ろから寄りかかってきたのが彼女なら、たぶん、」小野田さんとは「別の態度を取った」と比較する場面があるけれど、ここでは原作は、吉行和子さん、すなわち老女・雪子さんの映像を差し挟んでいる。これがとてつもなく色っぽいから驚いたのだけれど、しかし浜野佐知監督の采配なのだとしたら、やはり見事な場面である。
 「キューピッド」は欲望の代理であり、二人は同じ湯佐薫という男をめぐって争っている。にもかかわらず映画版のような衝突が小説内に発生しなかったのは、小野田さんの「姉と弟」の提案を「ぼくは、普通に結婚とかしたいし」と湯佐薫が拒んだときの、「じゃあ、奥さんもここへ連れてきて、子どもも高円寺で育てたらいい。わたしはたぶん、ずっと、ひとりだけど」という切ない応答が理由になるだろう。薫と「結婚」できるなど夢にも思わない。だが「ずっと、ひとり」であろうが、姉弟という関係で繋がれるなら、それが小野田さんの最大幸福なのである。養子縁組を結んだとき、実質的に「奥さん」のように薫を掌握するのは、経済的にもずっと有利な川島雪子に違いない。それで、小野田さんは良かったはずなのだ。
 しかし、その小野田さんが薫に強引に迫るのである。この変化は極端である。友人の精神科医がこの小説を読んだとき、「小野田さんのあの場面は唐突で、官能小説みたいだな」と半笑いで要約していて、同調こそ出来なかったけれど、では何故なのか、ということは答えられなかった。
 しかし、川島雪子もまた湯佐薫を「せつなげに待ち受け」ていたことを踏まえれば、提案を拒む、この次のやり取りこそが鍵なのではないか。

「ぼくは、普通に結婚とかしたいし」
「じゃあ、奥さんもここへ連れてきて、子供も高円寺で育てたらいい。わたしはたぶん、ずっと、ひとりだけど」
「まだ生きてる雪子さんがいなくなったあとの話を、陰でそんなに嬉々としてするのも感心しないな」
(……)「気分を害したのなら、ごめんなさい。嬉々、だなんて……。いまのは、ぜんぶ、雪子さんが自分で笑って話していたことなの。わたしがいなくなったあとは、あなたたちふたりでそうしてくれるのが夢よ、って」
「あのさ」
 我に返り困惑し、ふり返ろうとすると、そのまま、小刻みにふるえ背中に身体を預けてきて、腰を抱きしめてくる。
(八十七頁)

 薫が小野田さんを非難するのは、死後の話を「嬉々としてする」からだ。彼が川島雪子の孫ごっこに付き合い始めたのは、彼女を息子に先立たれた哀れな老人なのだと同情し、食事の誘いを拒むことに後ろめたさを覚えたからである。『夜の隅のアトリエ』以降の木村文学の主人公がそうであるように、湯佐薫もまた、後ろめたさと罪悪感に弱い。料理だって川島雪子のほうが上手だろうが、何より心を掌握する術が勝っているのだ。
 「あなたたちふたりでそうしてくれるのが夢」が仮に本気でも、結局彼女が死ぬまでには、そこから二十年の時間が必要なのである。
 小野田さんにとって、この「感心しないな」は、決定的な敗北の台詞だった。だから、最後の賭けに出るしかなかったのではないか。川島雪子に勝るのは「声」とまだ年若い「身体」だけなのである。ここまで小野田さんが考えていたかは分からないが、湯佐薫が屈服しなかったとしても、彼が最早月光荘に留まるとは考えられない。であれば、彼を手に入れられないのは、川島雪子も同様である。いずれにせよこのままでは敗北しかない勝負に、引き分け、そして仮にあり得ないとしても勝利の可能性がわずかに含まれる以上、賭けに出ることには必然性がある。

 最初にこの小説を読んだとき、月光荘、という名前が引っ掛かった。木村紅美の小説で、飲食店や宿場が洒落た名前をつけられるのはいつものことだが、高円寺のアパートに、ホテルのような名前だ、と思った。映画版のロケ地は静岡市のカナダ人宣教師が住んでいた文化財の洋館だが、生活感の漂う小説内の個室に対して、まるで古いホテルのシングルルームのような寝室が舞台に選ばれている。でもそのほうが納得いくような名前である。
 この小説の源流は、確かに『たそがれ刻はにぎやかに』も水脈のひとつだろうが、私は『春待ち海岸カルナヴァル』だったと思う。慕う異性との手紙のやり取りと食事がホテルのなかで絡むのもそうだし、何よりあの小説は、男をめぐる紫麻と、亡母の三角関係なのである。木村紅美の女たちは高確率で恋愛に失敗するが、故に、三角関係を結ぶことには慣れていなかったのではないかと思う。同じ男を姉妹のような女たちが巡って争ったところで、同時に男に逃げられる結末が見えている。だから、三角関係を描こうとすれば、片方を既に勝ち終えた女にするしかない。典型的なのは『ボリビアのオキナワ生まれ』だし、その変奏として死者の亡母が選ばれたのが『春待ち海岸カルナヴァル』だろう。木村紅美の小説では妻子持ちの男との不倫が繰り返されるが、これも最初から敗北が確定している三角関係のようなものだ。
 茅野さんがなぜ亡母にそれほどまでの想いを募らせているのかは、『春待ち海岸カルナヴァル』だけでは分からない。『雪子さんの足音』は、紫麻が小野田さんに、亡母が雪子さんに置き換わった、新しい三角である。そして茅野さんから亡母への思慕は、湯佐薫から川島雪子への後ろめたさとして説明されている。倫理の主題は、震災が導き入れたものだろう。ここが木村文学の特異点だと言っていい。
 『雪子さんの足音』は、震災以降の『春待ち海岸カルナヴァル』なのである。
 一方で、この生きた女同士が結ぶ三角関係の緊張は、これまでの木村文学にはなかったものだ。意地悪な見方をするなら、木村文学は『風化する女』以来、絶対的なもの(たとえば、死者との絶対に飛び越えられない断絶)を道標にすることで、巧みな小説を書くことが出来た。さらに嫌味な書き方をすれば、上手い文章を書きやすい枠組みだった(といっても、木村紅美の上手さと細やかさが格別だから、優れた小説なのだが)。木村紅美は、ともすれば女の孤独ばかり書いている作家と思われるかもしれないが、政治的問題についても「オキナワ」と抑圧される女を主題とした、『島うさぎたちのソウル』という優れた小説がある。しかし『夜の隅のアトリエ』以降の木村文学は、震災と原発という政治的問題に対して、「上手い文章」を書くことは出来なかったし、倫理と震災の接合点を目指したとも読める『まっぷたつの先生』においても、震災を書くのにどこか難儀していたと思う。何より『夜の隅のアトリエ』以降、スランプに悩まされたと、他ならぬ作者が語っているのである。私が初めて読んだ木村文学の作品は、この時期の中編だった。それから数年後の去年、『風化する女』のあまりの精巧さに驚いた。だから、木村文学の単行本を通読することにした。

 最後に、『夜の隅のアトリエ』以降の、現実の亀裂について書いておきたい。戦争を体験した老人が、かつての戦禍を語る小説は本作と『黒うさぎたちのソウル』に共通する場面だ。オバァの語りは強烈であり、故にヒロインである麻利は沖縄で戦死した女たちの「ソウル」に自然に感応することが出来る。一方で『雪子さんの足音』における川島雪子の体験談は、にわかには信用し難いものとして描かれている。

爆撃機に乗ったアメリカ人のパイロットと眼が合ったこともあるわよ。一気に急降下してきて、湖のような薄青い瞳。『アラビアのロレンス』のピーター・オトゥールと似ていた」
 そこまでわかるわけがないだろうとしか思えなくてからかいたくなり、膝を見おろす彼女が片手だけ握りしめかすかにふるえているのに気づくと、薫は、へえ、とだけつぶやき受け流した。どうもおとぎ話っぽく聞こえる。
(五十一頁)

 この「おとぎ話」の疑念は、二十年後、下宿人に疎開経験を語ったらしいという挿話に触れて、「大家として、いちいち、下宿人を惹きつける身の上話を作りあげることに、得体の知れない喜びを感じていたような気もする」(百十三頁)と繰り返される。わかるのは、川島雪子が「片手」を握り、震わせていることだけだ。たしかに作話の側面もあったかもしれないが、たしかに手を震わせるだけの体験はあったはずだ。しかし、かつては強固に語られていた戦争体験談さえ「おとぎ話」のように覚束なくなる場所とは、それぞれの立脚する現実に、亀裂が走っている世界なのではないか。木村は『夜の隅のアトリエ』以降、民話に取材した中編を発表しているが、それは震災に揺るがされた現実を、どう修復するかという試みの持続ではないかと思う。
民話を取り入れるとは、過去に回帰するということだ。『まっぷたつの先生』の仙台復興が、「荒れたすすき野原」という傷を抱えながら、過去の都市の姿を取り戻そうとする営みであったように、最新作『夜の底の兎』とその周辺の中編群は、復興過程としての震災文学に位置付けられるだろう。
 相手の語りが本心ではなく演技なのではないかという留保は、『まっぷたつの先生』の結末においても繰り返される。
 『雪子さんの足音』であれば、いちばん肝心な、雪子さんのプロポーズの場面である。

「わたしは、……もう、部屋を借りる方への、親切? お節介は、金輪際、止めることにします」
「金輪際? なにもそこまで」
「白状しますと、……わたしが死んだとき、まだきれいなうちに下宿人に見つけてもらえたら、という魂胆があったの」
 心から反省し吐露するふうに言い、コサージュと似た赤に塗ったくちびるの裏側を噛みしめる。どこまで本気なのやら言葉通りには受け止められなくて、薫は、はあ、とだけあいまいに返した。自分も、ここでは嘘ばかりもっともらしくついてきた。明日からは生まれ変わるつもりで、もうそんなことはないようにしたい。
(百十一頁)

 相手の本心などわかるわけがない、という認識は、小説では当たり前の技法かもしれない。湯佐薫はたしかに嘘ばかりついてきたが、女たちに対してだけではなく、自分自身を騙そうと繰り返し言い聞かせたのもそうだろう。『まっぷたつの先生』では相手の罪悪感を結局演技とは思えないし、演技であっても一枚上手だとする。それが理性的な解決だろう。明日から生まれ変わるという願いも、やはり前作に書かれていたものだ。
 だが『雪子さんの足音』においては、昏迷はより深まっている。猪俣志保美は中村沙世の告白を受け入れられるが、湯佐薫は川島雪子の「心から」の悔悟ですら、「はあ、とだけあいまいに返」すしかないのだから。人の狭間に横たわる淵が、深度を増しているといえる。心の昏さなら、すでに恋心の昏さを描いた『島の夜』がある。だが『島の夜』の昏さが、自分を受け入れてくれるとは思い難い相手を、それでもなお思慕する心であったのに対し、『雪子さんの足音』の昏さは、目の前の相手との、生きた緊張関係のなかにある。

 雪子さんの足音とは、失恋で抑鬱に陥り込んだ湯佐薫を気遣い、絶交状態であったはずの川島雪子がおじやを運びに来るときの足音だ。これは、事務所の破綻で塞ぎ込み、ホテル・カルナヴァルの一室を占領する茅野さんの部屋の扉に、救援の手紙を送った紫麻の足音にも似ていただろう。恋愛の欲望がひとかけらは宿っていたかもしれないが、しかし善意と気遣いからの施しであったには違いない。それが理解出来ているからこそ、湯佐薫の罪悪感は深い。足音が題名に選ばれたのは、この小説が後悔と罪悪感、そしてそれにまつわる回想の物語であることを意味する。
 木村紅美は、『夜の隅のアトリエ』の担当編集者に、「これで木村さんは向こう何十年と書いていける、そういう小説です」と太鼓判を押されたという。『春待ち海岸カルナヴァル』の完成度は非常に高いが、震災を真正面から受け止めるが故に、時に筆致の乱れる『夜の隅のアトリエ』以降は、独特の緊張感がある。その感応こそが、木村紅美が単に卓抜した文章家ではなくて、優れた作家であることを意味すると思う。木村文学はまた失敗するかもしれないし、スランプになるかもしれない。しかし、その辛さは重々承知で、木村文学の達成は、やはり『夜の隅のアトリエ』以降だと言いたい。
 足早に通り過ぎれば、平穏な佳品としか読めないかもしれない。重量を意識して、慎重に選び抜かれた言葉だからこそ、さらりと読めてしまうきらいはある。だが澄んだ言葉の奥底に潜む昏さと緊張感は、木村文学の新たな歩みを意味する。『雪子さんの足音』に響く足音は、老いてなお思慕する雪子さんの緊張した足取りであり、そして小説家が生きた課題に取り組み続けるが故に、時に乱れ、時に足踏みし、時にたたらを踏みながら、しかし前進し続ける足音だろう、と思う。