革命への片恋 稲葉真弓『ホテル・ザンビア』について

 

ホテル・ザンビア

ホテル・ザンビア

 

 小説家としての初期の遍歴がよくわからない。一九七三年、二十三歳で婦人公論新人賞を『蒼い影の痛みを』で受賞したものの単行本化はせず、一九八〇年に寺田博が編集長だったものの掲載誌ごと一度きりで終了する作品賞を『ホテル・ザンビア』で受賞しようやく初の単行本化、さらに二冊目までは一九九一年の『琥珀の街』と十年の隔たりがあり、九十二年に傑作『エンドレス・ワルツ』が書かれる。『蒼い影の痛みを』は同人誌『作家』に掲載されたものらしく、本書の『みんな月へ…』と『夏の腕』も同誌の八〇年の作品を収録したものだそうだから、そこからまた九十一年まで同人に書き継いでいたのかもしれない。『蒼い影の痛みを』から『ホテル・ザンビア』までは詩に注力していて、ふらっと小説を書きたくなったらしい。九十一年も似た心の満ち引きがあったのだろうか。
 作品そっちのけで自分の話をするのも品位がないが、稲葉真弓を最初に読んだのは古本屋で見つけた『エンドレス・ワルツ』で、単に男女が身を持ち崩すだけの話にしか読めなかったのに、その描写の異様な煌めきにびっくりしてしまった。今でも書いている作家だと知って驚き、『半島へ』を読んだが、『エンドレス・ワルツ』と同じ作家の作品として線で結ぶには、二十一年後の小説だから当然といえばそうなのだが、難しかった。仕事の事情で、今年三つの街を引っ越す羽目になった。最初の街の図書館は稲葉真弓に冷淡で、『海松』と『半島へ』だけでそのときの稲葉真弓は終わってしまった。『月兎耳の家』が出版されたのを知ったのもごく最近のことだし、稲葉真弓倉田悠子である意味も、『エンドレス・ワルツ』と同じ年に産まれた人間にはわかりにくいものがある。いずれにせよ稲葉真弓について言えるのは、彼女が作家として驚異的な息の長さを晩年まで保ち続けた、ということだ。
 それで本書が小説としてどうかというと、『みんな月へ…』はさすがにちょっと古びているように思う。私には多少面白いけれど、他人には勧めにくい。『夏の腕』は傑作とまで言わずとも、佳品として読み継がれる価値はあると思う。だから、手に取る機会がまず滅多にないとは思うが、『ホテル・ザンビア』を見かけたらぜひ『夏の腕』を読んでほしい。「半島の光も風景も、のびやかで飽きるということがなかった」(二一九頁)という、稲葉真弓の生まれた愛知県、その渥美半島の明暗の、「のびやかで飽きるということ」がない描写の鮮やかさだけでも目に入れておいてほしい。
 ただし、表題作『ホテル・ザンビア』は題材の古さはあるにせよ、現代小説に通じる「女」の挑戦はあると思う。それは、最後に書く。

 本書に収録された三篇の小説には、ひとつの単純な共通点がある。それは、病む者たちが、いずれも過去の時間に囚われているということだ。『ホテル・ザンビア』の美麻子は佐伯との記憶を、佐伯は学生運動の記憶を、『みんな月へ…』の「私」は父との記憶を反芻し続ける。
 もっとも分かりやすく症状が表出しているのは、『夏の腕』の祖母だ。

 (……)祖母の病的な驕慢さを知らないものはいない。かつてその町のほとんどの土地を祖母の父は持っていたという。栄華の時代を気ままに過ごした祖母にとっては、戦後のほうが幻だったに違いないのだ。祖母はまだ、遠い栄華の時間の延長線から、自分自身を切離すことができないまま生きていた。没落を物理的には享楽していたとしても、誇りにおいてそれを信じてはいなかった。父も母も、私でさえも「大奥さま」と呼ぶ街の人々の敬いの言葉の底に、小気味よい侮りが潜んでいるのに気づいていた。それを知らなかったのは、ただ一人祖母だけだった。戦後が始まった日から、祖母もこの家も、人々の視線の中でいびつに歪んで映っていたのに、祖母は眼前の現実を絶えず追払おうとしていたのだ。
 祖母は君臨だけを愛した。過去のすべてがもはや姿を失ったはかない夢だというのに、いつでも玉座を忘れなかった。無効になった土地の証文と、古めかしく黄ばんだ系図だけで生きられる人だった。
(二〇五頁) 

 小説に流行する病は、それは「もはや姿を失った」過去から「自分自身を切離す」ことが出来ず、「眼前の現実を絶えず」否認するものだ、と要約出来る。『ホテル・ザンビア』の学生運動で「燃え尽きてやってきた一人の男」佐伯と最初に対面した美麻子は、「存在そのものを恥じているようなところ」を感受する。佐伯が恥じる存在とは、否認すべき「眼前の現実」をだらしなく許容し、のうのうと生きている現在の自分だ。

  学生運動の嵐にもみくちゃにされた日々が夢のように思われる。あれは果して自分の意志だったのかどうか。
(……)"闘いとは持続することだ。情熱とは狂気のエネルギーのことだ"と書いた佐伯の友人の自称詩人は、詩を捨てて役人になった。そして彼は、子供や妻や、日常のつつましい風景を細々と書いている。彼等の会話から、抵抗への熱意もなくなり、会話そのものが風俗となった。あるとすれば、悲哀だけだ。
 佐伯の周りで、終ったという実感もなく何かが始まり、それは何の抵抗感もなく肉体を包み溶解させる。それはまた、見えない不快な壁でもあった。
 何が終わったのか、何を奪ったのか、はたして奪ったものはあったのか。否、力の限りと信じたものが、確かに力の限りあったのかどうか。燃えつきたのはいったい何なのか。
 とにかく大学を卒業すること。その生活の隅々に、曖昧で不快な悲哀が漂い、佐伯はそんな自分と、平穏な周囲を軽蔑した。軽蔑にはどこか、自分自身を安心させるものがあった。拉致されないで平穏な生活に舞い戻った己への懲罰のようでもあった。軽蔑の中に見える風景は、別の世界だった。佐伯は自分が、意味もなく肥った豚になったような気がした。その豚はこれまで"幻想の砦"という餌を食べていたのだ。飢えの中で食べる餌は甘く、悲愴なほど心を満した。肥る必要はなかったのだ。それが今、不必要に肥っている、どこでどう転換が行われたのかも見当がつかない。
(三十四-三十五頁)

 佐伯の「学生運動」への想いは複雑だ。整理しなくてはならない。それは第一に、「自分の意志だったのかどうか」正確に思い返せない不安であり、第二に終わりの実感を持てない未燃焼の感触であり、第三に何事もなく「平穏」が始まることへの不気味さであり、第四に運動の目標そのものが「幻想」であったのではないかという後方視の疑いである。『夏の腕』の祖母は、過去の栄華を「はかない夢」とは思わないだろう。だから「自分自身」を「遠い栄華の時間の延長線」に位置付けることが出来る。佐伯の病型は、さらに複雑な症状を呈している。佐伯は「眼前の現実」を否認してはいるが、一方で学生運動という過去もまた、「はかない夢」としか思えない。「時間の延長線」において、(それこそ「大奥さま」を演じる祖母が、未だに女中・静子を雇い続けるように)実現困難な運動を継続する素振りを演じることも出来なければ、「現実」の自分への「恥」から免れることも出来ない。旧家の祖母は、静子という手頃な虐待の相手を見出してのうのうと生き続けることは出来るが、故郷を捨てた佐伯にはそのような選択はあり得ない。
 重要なのは、この恥ずべき現実の延長線が、生殖すなわち「系図」と結びついていることである。それは「役人」が最初に書くのが「子供や妻」であるのにも示唆されているが、より決定的なのは、学生運動時代の恋人と再会する次の場面だ。

 そして佐伯は思った。そっくりの女と結婚し子供を持ち、希望も後悔もなく生きている未来を。それは決してやってはこない未来のように思われ、思いがけずたやすく手に入れることのできる未来のようでもある。佐伯はふと、こうして女と何年も向きあっているような気がした。ささやかな家庭を持つ夫婦のように。佐伯はいつの間にか幻影に向って微笑みかけていた。
 大学を卒業した佐伯は、希望通りの町の高校に採用された。故郷へ帰る気は毛頭なく、東京にいたいとも思わなかった。佐伯は自分が、すでに余生を送るともいうべき場所を探していることに気づいていた。祭りも、あらゆる裏切りも終っていた。闘いというべきものに出会うことはもうないだろう。希望などないのだから、失望もあるはずがなかった。どんな場所であろうと生活になじみ、生活はまた、場所にふさわしく消化されてゆくだろう。
(三十九頁) 

 結局祖母が我儘を通せるのは「土地」と「系図」(=家系の力)を手にしているからだという事実は、故郷を捨て、女と結ばれない佐伯が自殺するという結末においては見逃せない。長々と引用するわけにはいかないが、本書で最も魅力的な部分が町や海や画廊の描写であり、「土地」の力こそ小説を輝かせていることも考えないわけにはいかない。父母との確執、あるいは祖母から孫娘への溺愛が重大な小説の推進力となる表題作以外の二作を鑑みれば、『ホテル・ザンビア』は、過去という幻への偏執をめぐる物語ではあるが、土地と系図についての小説でもある。

 いったい佐伯は、町とどういう関わりあいをしていたのだろう。美麻子は、佐伯が町に死をみていることを知っていたし、それが佐伯の気に入っていることもわかってはいたが、あの町のどの部分がそれほどまでに佐伯の心を魅きつけているのか、知ることはできなかった。
 美麻子は佐伯の生まれた町に着き、一目見ただけで理由がわかったような気がした。山と川に囲まれた小さな町は、美麻子の住む町とそっくりだった。眠りのなかに漂う町、活気を失ってすでに久しい町。
「ひとつが去れば必ず何かが始まっている。しかし、同じことなんだ。同じことを繰り返し、同じような場所をぐるぐると回っているだけなんだ」と佐伯は言ったことがあった。
「そして、同じようなものだと気づかないで逃げる。同じところを逃げ回る。このめめしさはいったいどこからくるんだろうか。そして新鮮さとは、どういうことなんだろうか」
(四十八頁) 

 佐伯と死別した美麻子が、現在の夫婦生活に対して「もう熱心にはなれない自分への罪悪感」(十一頁)を覚えるとき、それは佐伯が己の存在に抱く「恥」に近似している。束の間の鎮痛剤じみた変化の後に、結局は「同じような場所をぐるぐると回っているだけ」と気づく事態を、おそらく「けだるさ」(同頁)あるいは倦怠と呼べるのだろう。
 美麻子が罪悪感を感じるのは、夫ではなく「自分」に対してである。恥とは、もっとこうあるべきだった、という「自分への罪悪感」とも読み解ける。佐伯への片恋が終わった後の「日曜日」に美麻子が覚える「軽い傷み」の感触と、学生運動後の空無に佐伯が抱く「恥」とは、同じ自分への罪悪感で結ばれている。だからこそ、美麻子は夢のなかで、遠い佐伯の「恥」に触れ合っている。強引な字の解き方ではあるけれど、「情事」(六十頁)から、情の交わり、と言い換えてもいいだろう。別の言い方をするなら、異界の佐伯との「情事」を描いた『ホテル・ザンビア』の幻想が、単なるご都合主義ではなく、ある種の切迫感とリアリティを伴っているのは、この「罪悪感」で二人を結び、かつ学生運動と佐伯への片恋を、同じ「情熱」の次元で読み解いているからだ。

 佐伯は、かつての仲間の一人で、佐伯の恋人だった女子学生の言ったことが忘れられない。
「あれは、私にとっては通りすがりの男とのセックスと同じよ。行きがかり上の情熱ね」
 佐伯はそれを聞いて大声で笑った。哄笑しながら、いったい何に向って笑っているのかわからなくなった。女はこれだからイヤだ、と軽口を叩くつもりが、凶暴な笑いに変り、いつまでも笑い留めることができなかった。女は困ったように笑っていた。うしろめたく小さく笑っていた。それがさらに佐伯の笑いを煽り立てるのだった。
(三十六頁)

 この学生運動評への佐伯の「凶暴な笑い」は重要だ。学生運動を「通りすがりの男とのセックスと同じ」と評されたとき、佐伯は「哄笑」するばかりで、何の反論も出来ない。出来ないとするのがこの小説だ。学生運動に従事する「熱心」と、美麻子が佐伯を恋慕する「熱心」とは、厳密に区別が出来ない。美麻子が佐伯を想う心はまさに「行きがかり上の情熱」でしかないが、次の説明は、そのまま佐伯に当てはまらないか。

 十八歳の時、まぎれもなく美麻子は恋をしていた。それまでのどの恋とも似ていない。初めての片恋だ。正確に恋が始まったのは、佐伯がその町の高校に赴任してきた十七歳の春だった。感情の動きを常に文学的に捕える性癖を持っていた美麻子は、佐伯を一目見た時に、何のためらないもなく佐伯と自分とを"運命"という言葉で結び付けてしまった。自分の感情の激しさと移ろいやすさを持て余していたその頃の美麻子にとって、恋は退屈しのぎの戯れでしかなかったのだが、佐伯に恋し始めた途端に、自分の新しい恋が悲壮ともいえる熱っぽさを備えていることに気づいた。美麻子のそれまでの恋人は、ほとんどが年の差のある男たちで、美麻子の恋をさらりと受け流し、愛してもいないくせに愛するふりだけはうまい術にたけていた。当の美麻子自身が無邪気に"恋はゲームだ"と豪語しているところがあったので、どの恋も醒めればあとくされもなく、どこにも危険な熱意は存在しなかった。もともと、早く町を出ることばかり考えていた美麻子にとって、当座の退屈がしのげければそれでよかったし、年の差のある恋人たちは肉親のような愛し方をしたので、関り方に生臭いものが生じることもなく、さらりと乾いた形のままで終ることが多かった。美麻子にはそれが不満だった。美麻子は激情ともいえる関り方を欲していたのだ。それがいつも恋に裏切られてしまう。
 美麻子の恋心を、炎ではなくボヤだと言ったのは、最後の恋人だった画家だった。
(二十五-二十六頁) 

 「炎」と「ボヤ」を厳密に区別することは難しい。それは「通りすがりの男とのセックス」と、「学生運動」の情熱との差異を区別する程度には難しい。「詩人」が語ったような、「持続」の有無では鑑別出来ないだろう。過去の佐伯の熱情がどういったものかは、他ならぬ本人が記憶に蓋をしているから、作中の記載ではわからない。ただし、そこには「悲壮ともいえる熱っぽさ」を宿っていたのではないか。それは「炎」だったのか、それとも「ボヤ」程度でしかない、単なる「行きがかり上の情熱」だったのか。いずれにせよ、それは「炎」だと言い返すことも、確かに「ボヤ」だと同調することも出来ないから、佐伯は痙攣するように「凶暴な笑い」を繰り返すしかないのである。
 見逃せないのは、ここで「女」もまた「うしろめたく」笑っている、ということだ。これは女が「もう熱心にはなれない自分への罪悪感」を覚えたから後ろめたいのではなく、佐伯が予想外に「哄笑」したから罪悪感を覚えるのである。もし最初から自分に罪悪感を覚えているのなら、そもそも女はこんな台詞を恋人相手に口にすることはないはずだ。
 美麻子の「最後の恋人だった画家」は、「オマエさんはボヤを火事だといって大騒ぎをしている」と言い残して去る。「女」が佐伯に投じた言葉は、この「画家」の語彙を借りるなら、佐伯の「火事」を「ボヤ」と縮めて表現したようなものだ。当の佐伯自身すら、もはやそれが「火事」か「ボヤ」か思い出すことが出来ない。忘却は自己欺瞞に近いだろうが、正確な記憶は罪悪感を心の限界から溢れさせるだろうから、やむを得ない防御策だろう。 
 その「哄笑」する他ない自己欺瞞に、佐伯の「爛れた」「傷口」(三十四頁)に触れたとき、女は罪悪感を覚える。

「あなたは卑怯よ。こんなに愛しているのに。あなたこそ魂のない情婦。あたしの恋人はそんなのじゃない。でもあたしには、その恋人の心が見えないの。でもあたしには、その恋人の心が見えないの。どこまで行ってもあたしと恋人は出あわない。近づいたと思うと遠ざかり、情熱だけが病気のようにあたしの中にはびこってゆくの。(……)」
「それを世間では片恋という。不毛の情熱だ」
(四十六頁) 

 美麻子が佐伯に片恋するように、佐伯もまた運動に片恋している。「同じようなものだと気づかないで逃げる。同じところを逃げ回る」動作を、佐伯が「めめしい」と評したのを思い出さなくてはならない。
 恋愛と運動を同じ情熱の次元で読み書くことは、小説では適切な技法かもしれないが、現実には倫理の問題があるだろう。確かに恋愛のために死ぬ者は、革命のために死ぬ者のように、情熱の死者であることには変わりない。しかし、そこから遡って、恋愛と革命とを同じ情熱の範疇で語ることには、些か無理がある。片恋に挫折する美麻子は、結局、佐伯のように自死を選ぶのではなく、倦怠はあれど平凡で幸福な日常にたどり着いているからだ。
 少なくともそこに無理がある、と感じなければ、この小説の切迫した筆致はあり得ない。だから、これは自分でも辟易するほど乱暴な読みではあるが、この「女」の「うしろめた」さとは、私は他ならぬ稲葉真弓自身の「罪悪感」だったと思う。しかし一方で、小説内のどこにも書いていないことだが、革命を仮に男の仕事に見定めるなら、それを「めめしい」恋愛の次元と同列に置くことは、一九八〇年においては、ひとつの定型への挑戦だったのではないか(発想としてはマッチポンプ式の読みだが)。「闘いの女神のように見えた女子学生の多くは、鎧を脱ぎ捨て、かわりに生殖用の衣装をまとい屈託なく佐伯の前から去っていった」(三十五頁)と小説が記すとき、同じように「屈託なく」「去っていった」はずの男子学生への言及は消えている。佐伯は心中で「彼女たちとそれを見送る自分とをせせら笑」うが、ここで男だけが革命の担い手であるように見なすのは、事実の読みとしては間違いだろう。しかし、『みんな月へ…』の女たちが揃って煙草に火を点け、『ホテル・ザンビア』の冒頭が次に引く美麻子の喫煙描写から始まることを思えば、やはり革命への情熱を「片恋」と並列して書くのには、理由がある気がしてならない。

美麻子は目ざめてから、ベッドに半身をもたげて裸の腕を顎にあてがい煙草を喫う。風邪をひくと必ず気管支炎を併発する体には煙草は禁物だったが、この寝起きの癖はどうしても止めることができない。頬をくぼませて煙草を喫い、煙を長く吐出す。その煙い方を、夫の信吾は男のようだと言っていた。ただ、指が細くて長いので、美麻子には煙草がよく似合う。煙を吐出す時の瞳を細める癖や灰を落す指の仕種に、三十年以上生きた女の、けだるい甘さが漂う。煙草をくわえながら鏡に向っている時、ふと美麻子は鏡の中に三十数年目の女の実在感を見出すことがある。
(十頁)

 この描写は何気ない。だが、夫が「男のようだ」と評する煙い方こそが、「鏡」を介して「女の実在」の証に転じるとき、それは男の革命への熱意が、女の「片恋」のように読み替えられる動作と、決して遠い距離にあるものではないと思う。