書く人のための読書合評会一案:小説は勉強可能か?

 ちょっと古い心理学の本で読んだ話。

 

 スピーチが苦手で悩んでいる人間に、「うまい人はどのようにスピーチをしていましたか?」と訊ねると、「さあ」とか「よく分からないけれど、とにかくうまい」とか、「とても自分にはできない。うらやましい」などと、とにかく具体的にどこがどううまいのか、はっきりしない場合が多いという。逆にスピーチが巧みな人間は、他人のスピーチの巧拙を、具体的に詳しく報告できることが多い。スピーチが巧みな人間ほど、他人のスピーチに対する関心が高く、「この話は今度自分も取り入れてみよう」「ここはもっとうまい表現があるのではないか」と、常に自分が実践した場合を念頭に置きつつ、重要な点に自然と注意を向けている。スピーチがうまくできない人の多くは、「自分にはできるはずがない」と頭から思い込んでいるために、他人のスピーチを聴いても技術の肝心を抽出しづらい。

 

 他者の実践は、自分の実践に比べれば客観的に理解しやすい。自分の行動だけに着目していたのでは見えにくいところを、他者の行動が示してくれることも少なくない。こんなふうに、他人の行動を観察し、それを自分の行動にフィードバックすることを心理学用語で「モデリング学習」というらしい(昔の本だから、今がどうかは知らない)。

 モデリング学習を有効活用出来る人の特徴は、次の四点に整理される。

 

 ①他者の行動に関心が高く、それを吸収しようという気持ちが強い。

 ②他者の行動を想起したり予測したりすることが多い。

 ➂他者の行動に接して、重要なポイントに注意が向く。

 ④他者の行動を自分の行動に変換することが多い。

 

 小説の能力にも通じそうだ。②は登場人物を動かすのに、➂は描写の取捨選択に役立つだろう。④に関しては、若かりし頃に特定作家に傾倒して影響を受けたとか、あるあるエピソードである。言い古されてきた「読まねば書けない」が①で、より柔らかい言い方をするなら「書きたい人は、当然他人の書きぶりが気になる」というところか。

 何故②がモデリング学習に必要なのか? 曰く、自分の経験は重要と思えば自然に記憶され、必要なときに引き出せる。それに比べると、他者の行動は所詮他人事なのだから、いささか記憶されにくい。したがって他者の行動は、想起や予期の反復でこそ確実な記憶になるわけで、そうした習慣の有無こそが、モデリング学習の効率を左右することになる……らしい(見終えた他人の行動に、「予期」はちょっぴり食い違う気もするが)。

 

 自作と他作の正確な比較は極めて難しい。たとえば優れた書き手の小説と自分の小説がどう違うのか、具体的に説明出来る人は稀だろう。あるいは自作と活字になった小説を比べて、「なんでこれが……」とヒネた思いを一度も抱いたことのない人は、飛びきりの善人である。

 自分のことは、他人のようには客観的に理解しにくい。とりわけ自分が苦手と思い込んでいる課題だと、なおさら巧みな他人との比較は難しい。「とても自分にはできない。うらやましい」である。そこで提案されるのが、自分と他人の比較ではなく、他人と他人の比較である。たとえば、電話対応が苦手で、そのたびに吃音や恐怖感に苛まれていた女性が、電話対応が上手な人と苦手な人を観察比較することで急速に軽減していった、という例示がある。「こうすればいいんだ」というプラスモデル、「こういうことをしてはダメなんだ」というマイナスモデルを比較することで、より明瞭に浮き出すものがあるのだろう。

 

  それで、小説の話である。それも、勉強の話。

  小説をめぐる巨大な誤謬のひとつに、小説は「勉強できない」というものがある。「生半可な勉強ではいけない、経験がなくてはならない」という。人生経験もないのに何で立派な小説が書けるかと最初に一発かまし、だからまずは時間を置いてみてはどうか、と語調を柔らかくするやり口が多い。しかし、小説家の伝記なり日記なりを二三冊読めば、特異な経験に恵まれ続けた作家など極めて少数であることは、すぐに理解出来るはずだ。恋愛小説を書く人が、そのたび大恋愛を繰り返しているようでは、さすがに身が持たないだろう(田辺聖子の『しんこ細工の猿や雉』に、恋愛経験がまったくないにもかかわらず恋愛小説を書けるのか、と自問するくだりがある)。小説の言葉は外国語であり、小説の約束事やシステムは小説からしか学び得ない。私小説だって、私小説の流儀に沿って書かれているはずだろう。

 

しんこ細工の猿や雉 (文春文庫)

しんこ細工の猿や雉 (文春文庫)

 

 

 なので、小説は「小説の勉強」で絶対に上手くなる。優れた小説が書ける。当然そうでなければならないし、でなければ「才能」とか「経験」とか「精神」とか、気持ちよく説教する側にだけ有用な、そして限りなく無意味な観念に騙されるだけである。

 

 どのように勉強すべきかということで、グループ学習の一案。

 自作と他作の比較が困難なら、他作と他作の比較が必要だ。かつ、その二作に明瞭な技術の差があればコツの把握に役立つだろうし、自分の行動にも反映させやすい。ということで、プロの小説一作と、自作と他作(出来れば最低二作)があればいい。他人の小説をマイナスモデルと呼ぶのは失礼だけど、自作も他人のマイナスモデルになるのである。

 読書会と、小説の合評会を足しただけだ。参加者には課題の小説を読んでもらったうえで、「読んだからこそ書ける」小説を書いてもらう。枚数は二十枚から五十枚ぐらい、気軽に新しいことを試せる短編サイズのほうがいいだろう(枚数を読むコストが跳ね上がると、他人を呼びづらくなってしまう)。読んだからこそ書ける小説とは、作中要素を転用したものだ。技法や文体(語りの構造、時空間の操作)、語彙(単語リストを作るのも面白い)や小道具、粗筋・主題、などなど。その小説の方法を自分で試してみれば、小説自体への理解も深まるだろうし、自分とその小説との距離もうっすら感知出来るだろう。その距離を、出席者に「課題作とどう違うのか?」という問いで分析・言語化してもらうのも面白い。作品は、自作含めて二作は欲しい。プロと非プロ、非プロと非プロ同士で比較して見えるものもあるだろう。出来上がった作品は、短編の賞にでも、ローカルな文学賞にでも応募すればいいだろう。他人と締切を共有すれば、いやでも書く。書けば書けてしまうのだから、締切は儲けものだ。

 読む小説はどう選ぶべきだろう。その月の文芸誌のいちばん長い小説とか、文学賞受賞作リストを読みたい順に上から並べ、下から順に読んでいくとか、グループの力を活用するなら普段の自分ひとりでは読めそうにない小説をこそ積極的に選んだほうが、お得ではある。

 

 プロの小説は面白くないと、小説を書いている人は(嫉妬もわずかに混じって)尚更考えがちだが、本当に面白いかどうかは別として、私は勧めない。プロの小説よりあなたの小説が面白いのだとしたら、あなたの小説が活字化されないのはとてつもない不条理である。ジャンルが悪いのか社会が編集者が悪いのか、別にそれはどうでもいいのだが、他人の否定は結局慢性的な他責か、あるいは破壊的な自責に行き着くだけだ。プロの小説は前提として「面白い」と思ったほうがいい。なんて反感を買って当たり前の意見だが、精神衛生のための小技である。個々の作品がつまらなくても当然いいけれど、前提とするのはまずい。

 最初から「どうせつまらない」と前提して読み始めてしまうと、その小説を面白くしている肝心の種を見逃してしまう。面白く読めない以上当然なのだが、勉強して生かすべきはまさにその部分だったりする。どうしても、本当にどうしても譲れないなら別として、私はプロの小説は肯定すべきだと常々思っている。「どうしても」の一基準として、「この小説は面白い!」と心から感動している人に、たとえ嘘でも「面白いですよね!」と同調出来ない、なんてのはどうか。面白いと思えば面白く読めてしまうのは私がチョロイからだが、金を払って読んだ小説が面白く読めないのは、私は負けた気がしてしまう。小説でなく批評を書きたいなら話は変わるかもしれないが、それでも活字化された批評はプラスモデルとして読んだ方が、得だろう。どんな作品からも、学び取れるものがあるはずだ。

 たしか名古屋大の脳外科の名誉教授が言い残していた言葉で、「自分にもできる」と思い込んだ手術映像にこそ自分と相当の力量差があるのだという。「この小説は面白くない」というひとは、「こんな小説は自分でも書ける」と思い込んでいるのかもしれない。では、それこそ実際に自分で書いて試してみればいい。そんなに簡単には、書けないんじゃないか。

 

 次にありがちなのは「現代小説は面白くない」なのだが、これはそもそも読んでいないケースが多い。たくさん読んで、そのどれもに文句を言い続けるなんて、よほどの根性が無ければ不可能である(だいたい、文芸誌のトップに掲載されるとか、文学賞を受賞する小説は、最低限以上は面白いほうが自然だろう)。それに、小説なんて、読んでしまえば大体面白いのだ。読まないから面白くないわけで、またひとりで読むのは確かに精神的コストが高いだろう。だったら、それこそグループ学習を活用してもいいかもしれない。立ち向かうべき小説がそれでも駄作としか読めないなら、学べるところだけさっさと掠め取ればいい。

 余談。持てる者はさらに富む、ではないけれども、プロの小説家が優れた小説を書き続けられる一因は、肯定的な書評を書き続けるのも理由かもしれない。読みどころ、褒めどころを強引にでも探して読んでいくうちに、本当に面白い要素を拾い上げてしまう。ネガティブな書評が載りづらい理由には業界の都合も、一応はあるのかもしれないが(だとしてもどうでもいいことだ)、ポジティブな書評自体に育成装置としての機能があるのかもしれない。

 

 最後におまけ。中井久夫アリアドネからの糸』の名編「創作の生理学」から引用する。本自体も面白いが、小説を書くひとには是非この一篇だけでも読むことをオススメしたい。

 

 ……「文体の獲得」なしには、創作行為という「二河白道」は歩き通し得ない。そして「文体の獲得」に失敗した作家はたかだか通俗作家である。文体の獲得なしに、作家はそれぞれの文化の偉大な伝統に繋がり得ない。「文体」において、伝統とオリジナリティ、創造と熟練、明確な知的常識と意識の閾下の暗いざわめき、努力と快楽、独創と知的公衆の理解可能性とが初めて相会うのである。これらの対概念は相反するものであるが、その双方なくしては読者はそもそも作品を読まないであろう。そして、「文体」とはこれらの「出会いの場」(ミーティング・プレイス)である。

 ……その獲得のためには、人は多くの人と語り、無数の著作を読まなければならない。語り読むだけでなくて、それが文字通り「受肉」するに任せなければならない。そのためには暗誦もあり、文体模倣もある。プルーストのようにパスティーシュから出発した作家もある。

 もちろん優れた作家への傾倒が欠かせない。ほとんどすべての作家の出発期にあって、これらの「受肉行為」が実証されるのは理由のないことでは決してない。おそらく出発期の創作家が目利きの人によって将来を予言されるのは、この「受肉量」の秤量によってである。傾倒は、決してその思想ゆえでなく「言語の肉体」獲得のためでなければならない。そうでなければ、その人はたかだか作家の「取り巻き」に終わるであろう。作家が生きていようと死者であろうと変わりはない。実際、思春期の者を既存作家への傾倒に向かわせる者は決して思想の冷静な吟味によってではない。それは意識としてはその作家のしばしば些細な、しかし思春期の者には決定的な一語、一文、要するに文字通り「捉える一句」としてのキャッチフレーズであるが、その底に働いているのは「文体」の親和性、あるいは思春期の者の「文体」への道程の最初の触媒作用である。

 ……ヴァレリーは「テスト氏との一夜」によって「文体」を獲得したと思われるが、この一種の小説の書き出しとポーの「アルンハイムの地所」との類似性はかなり顕著である。

 

アリアドネからの糸

アリアドネからの糸

 

 

書いてから直すか、直してから書くか

 小説の指南本をめくると、「直すのは後でいい、とにかく書け!」という助言に出会うことがある。無駄に考え込むぐらいならとにかく書け、一文字でも多く書け、書きさえすれば後は直すだけだからどうにでもなる、というやつ。で、私もそのやり方を二年ほど続けて来たわけだが、最近になって別案を採用したので、その話。

 

 さて、「書く」「直す」の関係に限れば、小説の作り方には次の三手が考えられる。

①書き終えて直す。

②書いて直しての繰り返し。

➂頭の中で十分直してから書く。

 叩かれがちなのは三番目の方法で、というのも丁寧に書き続ける集中力、持続力は一朝一夕には具わらないし、慣れない人間なら、書きたいものを思いつく速度と実際に書く速度にあまりに差があり過ぎて、途中で書く気が失せる、という事態は確かにあり得そうだ。そこで一番目の方法が推奨されるのだろうが、このやり方も楽ではない。

 

 たしかに物語を書き終えるまでの期間は短縮されるが、とても人には見せられないような支離滅裂の文章を直し続けるのは、正直つらい。自分の下手振りを延々と再確認せねばならず、しかも物語自体は完成しているだけに途中で新たなエピソードも書き加えづらく、何より推敲の時間が延々と続くのは、単純につまらない。逆に、延々と書いているだけのときには、文章を直したくて直したくてたまらなくなる。

 

 自分の場合、小説を直すのはどこでも出来るが、新たに書く場所は図書館か、喫茶店か、自室のどれかに限られてしまう(原因不明)。となると、書き続けているときは同じ場所の往復になりがちで、これが大いに参る。あとは、自分の推敲は削りが多いので、どれだけ枚数を積み重ねて完成させても、所詮は削る前じゃないかと、達成感に乏しい。推敲の時間がどれだけかかるのか、予測が難しい。直すのはちょっとした隙間時間で可能だが、書くにはまとまった空き時間が必要で、まとまった時間を数日間~数週間取らなくてはいけない。そんな時間は、無理と不義理なくして得られるはずもない。よろしくない。あれこれと積み重なり、この方法はもう使えないな、と結論した。 

 

 ということで、方法を②に変えた。

 

 夜の十時から十一時の間だけ新しい文章を書き、特に午前の空き時間に直し。推敲に結構な時間を要するので、たった一、二場面書いただけでも、翌日の直しだけでは間に合わないことがしばしばである。不足分は週末の飯屋の待ち時間とか、電車・バスに乗っている最中に埋め合わせている。以前は一日に何枚新しく書けたかを記録していたが、今現在は一日に何枚直せたか、である。

 

 何枚の作品をどれぐらいの日数で完成させられるか、新旧のデータで正確に比較してはいない(まだ比較出来るほど作品数がないので)。ただ、精神的な負担は明らかに軽い。ということで、私のように「書き切ってから直す」しんどさに耐えかねた人には、書いて直しての繰り返し、に変更してみてもいいのかもしれない。

 ちなみにこれは私の思いつきではなくて、友人の方法を拝借している。ついでに宣伝。

 

 

 おまけで雑感をいくつか。

 漫画を描く人、ゲームを制作している人が使う「作業」という語が羨ましかった。余計な意識の重さがなくて、さっぱりした言葉だ。小説を書くことも作業と言い切りたかったが、そこでつまずいた。書く内容を前日に全て決め、翌朝から実際に書こうと準備しても、これが何故かうまくいかない。作業と割り切ってしまうと、流石に単調であり過ぎた。

 小説を書くことは修正作業と創造の二工程に分かれていて、新しい言葉を書き続けるだけでは足元が危うく、修正だけでは前に進めない。けれど創造だけでは、言葉の勘が培いにくい。自分の文章を丹念に読み返し、冷静に一文字一文字直していくことでしか、私の場合は勘を思い出しにくい。勘が働かないまま書き進めると、後々の推敲が余計大変になる。最初の修正で言葉の感覚を思い出し、次に書く言葉へフィードバックするのが適切だろう。

 ある漫画家が三年ほど前に「夜中に物語を考えてネームを書き、午前にペン入れの作業をすると上手くいく」と語っていたが、新たな言葉を自由に書く作業は夜のほうが、冷静に言葉を整備していく作業は午前のほうが進み良い。この二行程は物語の論理、文法の論理でそれぞれ頭の使う部分が異なるのだろう。

  

 あとは、ゼロ稿(推敲が終わらぬうちは一稿足らずなので)からWordで打ち込んでいたのを、メモ帳から書くようにした。これも何故かは解らないが、新しい言葉を書くときはメモ帳のほうが使い易い。推敲のときだけWordを使うようにすると、頭のモードが切り替わりやすい。メモ帳は自動で文字数がカウントされないから、まだこれっぽっちしか書けていない、と無意味に落ち込まなくてもいい。文字サイズも余白も小さいから、狭いタブレットPCの画面でも書いた分を一望出来る。たしか津村節子の『人生のぬくもり』に紹介されていた話で、吉村昭は清書のとき、原稿用紙五枚分の文字を一枚の用紙に詰め込んでいたらしい。

 

 

人生のぬくもり

人生のぬくもり

 

 

 白紙から書く。続きを書くのは気が重い。毎回新しい場面から始めると気楽だ。

 もうひとつ心がけていることで、しんどくなったらやめる。一回一回のしんどさが、最終的に「小説を書く/直すことはしんどい」と身体に記憶される事態は避けたい。二十分か三十分で一場面書けたら上出来で、あとは出来るだけ丁寧に直し続ける。直す作業自体は書く作業よりは気楽だが、それだけに集中すると煮詰まる。書くことが、適度な気晴らしになる。

 

 ただ、最も地力を鍛えるのは三番目の方法だろう。直さず書ければ一番いい。後から直せると思うと、気が抜ける。もっとも、一生一度きりの言葉と思い見なして書き続けるには、並大抵でない忍耐力が必要そうだ。円城塔はたしか一日三枚。古井由吉も『招魂のささやき』で、たしか一日三枚か五枚と書き残していたはずだ。案外少ない印象だが、二人ともコンスタントに作品を発表し続けている以上は、回り道がいちばんの近道なのかもしれない。

 

招魂のささやき

招魂のささやき

 

 

 ただ、これは自分の文体を確立し切った人にのみ許される、贅沢な執筆法という気もする。

 まずはある程度がむしゃらに、けれど一定の質も担保して書かなければならない人には、やはり二番目の方法が丁度いいんじゃなかろうか。

外国語の単語帳:滝本杏奈訳『感情類語辞典』

 小説の言葉は外国語だなあ、とよく思う。「口ごもる」とか「はにかむ」とか滅多に使わないし、日常使いの日本語から明らかにかけ離れている。

 あるいは、他人のありふれた身振りに関心を持つことは難しい。だからこそ、普段見過ごしている凡庸な動作を明晰に言語化している小説に出会うと、それだけで素敵な小説だと思ってしまう。日常の私には意識不可能なほど当たり前の身体動作を、明晰に、けれどさらりと表現出来るのも、外国人の視線に似ているかもしれない。

 

感情類語辞典

感情類語辞典

 

 

  辞典といっても百八十ページ。とくに小説を書く人のために、感情を言い表す語彙表現を集めてみました、という一冊。「感情」を表現する要素を「外的シグナル(ボディランゲージなどの動作)」「内的な感覚(本能的、生理的な反応)」「精神的反応(思考)」の三つの要素に分け、リストアップしてある。

 たとえば「幸福」の「外的シグナル」を抜粋してみると、

 

・表情が明るくなる

・微笑む

・鼻歌を歌う、口笛を吹く、歌う

・歩きながら両腕を振る

・冗談を言い、よく笑い声をあげる

(ここまでは私でも書けそう)

 

・笑い皺ができる

・笑って頬骨が上がる、突き出る

・足を大きく伸ばし、広々と構える

・軽快なリズムで足をブラブラさせる、あるいは足で地面を叩く

(手癖で書けなさそう)

 

 「内的な感覚」「精神的な反応」はたとえ自分の感覚に問い合わせられても、「外的なシグナル」を書くには観察力と記憶力が必要だ。私の場合、後者がしんどい。とっさに使える身体動作の持ち合わせが少ないうえ、隙間恐怖症で、台詞を言い終えるとすぐ登場人物の描写を入れてしまう。結果は「笑う」と「微笑む」が連発される、のっぺらぼうな文章である。それをあとで全部削り捨てるのも、けっこう嫌な作業だ。

 

  「本書に掲載したリストは、アイデアをもたらすのにぴったりの素材だが、書き手自身の観察力も同じくらい役立つ。だから、ショッピングモールの人間観察をしてみるのもよし、あるいは映画のキャラクターに注目してみるのもよし、とにかく人々を見てほしい。そして、困惑したとき、圧倒されたとき、イライラしているとき、人がどのように行動するのかメモをとろう。どうしても顔の表情にばかり目がいきがちだが、体のほかの部分からも読み取れることがあるはずだ。その人の声や話し方、態度や姿勢を見逃さないように」(p.14)

  

 正論だけど、これを実践出来る人間って何人居るんだろうか。

 「困惑し」「圧倒され」「イライラしている」人間をじろじろ観察するのは、なんだか失礼な気がする。それが出来てこそ小説を書く人間なのかもしれないが、私はあまりしたくない。集めた記録をすぐ小説に応用出来るとも限らないし、観察には緊張と集中力を要する。いきなりやるには、ちょっと手強い課題じゃないか。

 

 そもそも「観察力」が稼働するには、観察結果の知識が必要だろう。動作表現の知識がない人間に、いきなり目の前の光景から小説に使えるシグナルを見出せというのは、心電図やレントゲン写真の知識のない人間に、いきなり異常を読めと命じるようなものじゃないか。

 なのでこの本は、私のような動作表現の知識が貧しい、結果として「観察力」にも貧しい人にこそ薦めたい。外国語を学習するように、暗記用の単語帳として使ってみてもいいのだろう。心電図を読む修練だって、まずは重大な波形を頭に叩き込むところからだろうし。

 

 実際に自分で演じて記憶するのも面白いかも。

 吉本隆明は「頭をつかう」記憶に、「運動性を司るものと結びつけてやると効果が高まる」という(『真贋』)。「それが手であってもいいし、足であっても一向に差し支えなくて、とにかく運動性を伴うことで、自分の資源になっていくのだと僕は考えています」。

 ただ頭をつかうだけでなく、体の動きと組み合わせて修練する。「運動性とともに修練をした人としない人とで」「もっとも技術的に分かれるところ」は、吉本さんにとっては「パンチの強弱」らしい。「体を動かすことを伴った修練をした人は、強いところと弱いところを交互に繰り出し、しかもリズミカルに文章を書いています。ところが、そういう修練をしない人は、同じ意味のことを書いても、のっぺらぼうな文章を書くのです。……これは、批評家だけでなく、小説家でも同じようなものだと思います」(p.82-4)。

 

真贋 (講談社文庫)

真贋 (講談社文庫)

 

 

 まずは自分が使いがちな感情から学習するのがいい。あるいは、これから書く小説の感情を予想して、先回りで覚えるのもいい。自分が使えない描写だけ記憶すればいいわけで、たとえば私の場合、「平穏」の「微笑む」という表現は再確認に留めるだけでいい。

 「頭を後ろにそらせて目を閉じる」「椅子の背もたれに片方の腕をかけ、後ろにもたれる」「ネコのように伸びをする」「膝の上で緩く手を握りしめる」。この「外的なシグナル」をとっさに使えれば、「微笑む」を連発せずに済む。ネコのように伸びをし、そのまましばらく両腕を垂直に保っておくとか、膝の上で緩く握った手を開いたり閉じたりするとか、手に握ったシャーペンのキャップを親指でしつこく回しているとか、思いがけなく浮かんだ描写を積み重ねることも出来る。

 もちろん、今の場面でどういう動作を描写したらいいのか思い付かないとき、緊急用の手引きとしても活用出来る。ただこの「思い付かない」という表現が曲者で、小説の言葉が外国語なのだとしたら、単に「思い出せない」か「知らない」のどちらかという気もする。

 

 本書に倣って、たとえば自分の好きな小説、文章の上手さに驚かされた小説から、気持ちに引っかかった動詞だけを抜き書きしてみるのも面白いかもしれない。誰だったか忘れたけれど、安部公房の愛読者だった或る作家が、小説を書き始める前に安部公房の比喩をひたすら抜き書きし続けた、という話を聞いたことがある。

  「上手い文章」というのも漠然とした物言いだ。

 「誰某の何々という、自分が上手いと思った作品の文章」ぐらい具体的な水準で考えたほうが、取り掛かる分には気楽だろう。

 

 あの作家みたいな文体で書きたいと願っても、「文体」なんて曖昧なものは容易く身につけられない。「文体」を「外国語」に置き換えれば、難しさも想像出来る。

 「文体」を動詞とか比喩とか形容詞といった具体的な分野に分解し、まずはそのなかで一番自分に必要な分野の言葉を記憶してみる。そして実際に使ってみる。暗記可能な数に絞り込むのも、大事な分解のプロセスだろう。単語リストを手元に置きつつ、小説一作書き上げるうちに集めた言葉すべてを使ってみるなんてのも、楽しそうだ。

 ということで、小説の言葉に困っている人にぜひ。値段も千六百円とお手頃です。