『十年の金色』(松浦理英子『最愛の子ども』読書合評会提出作)

『十年の金色』

 

 彼女が死んだことを聞かされたのは、六月の終わりだった。私たちは、まあ、そうかなあ、というぐらいの平易な気持ちでそれを受け止め、葬式の日を手帳に書き込んだ。言わずもがな、死んでから何を思い返しても遅いので、私たちは斎場で互いに再会したところで、雪野瑞枝の思い出話をしようとはしなかった。
 ただ、雪野と在学中に交際していて、卒業後もわざわざ東京の大学まで追いかけていって同棲した春川葉子のことは気にして、あの子居た? と互いにひそひそ声で話し合ったが、あれだけ雪野に入れ込んでいた、というより単純に付き合っていたにもかかわらず、彼女は会場に姿を見せることはなかった。
 自分たちの上司と同じぐらいの年齢でしかない、まだ中年の看護師の母が、瑞穂の棺の隣で番人のように厳めしい顔つきをして立っていた。私たちは、春川と雪野が交際していることを知るや否や、怒りを持ち出す対象も見つからず、なぜか職員室に猛抗議に来たことを覚えていたから、たぶん彼女が、ゆめゆめ葬儀には来るな、と釘を刺したに違いない、と話し合っていた。それどころか、働き出してすぐに見つかった、質の悪い乳癌で入院していた婦人科の病室についても、きっと彼女は入室を許さなかっただろう。働き出してからも彼女は母親からひっきりなしに電話を受けていて、うちの甘えん坊にも困ったもんだよ、とあの雲のように掴みどころのない声で私たちに愚痴っていた。彼女の喉を通せば、どんなに卑小でみっともない話も、古い絵本の挿話みたいに、現実離れして聞こえるのだった。
 正直に告白すると、たぶん私たちは、その声を独占している春川に嫉妬をしていたかもしれない。雪野は素晴らしい声をしていたけれど、人とあまり話すこともなく、ただ春川がそばにいたときや、教室で先生から意見を求められたときだけ、ゆるやかに言葉を発した。だから、私たちはみんな彼女を変わり者に思っていたし、真面目さがあまり余って、他人の嫌な仕事ばかり引き受けてしまう春川が彼女の世話を焼いていたのも、同じような面倒事の一環だと見なす振りをしていた。
 でも、たとえば図書室の隅、埃をかぶった世界文学全集の棚の前で、雪野が春川に微笑みながらなにかを囁くとき、ふたりで机をひっつけて、おそろしく近い距離で弁当を食べ合っているのを見たとき、体育の授業が終わったあとに、雪野がこしょこしょと肌着だけの春川をくすぐって遊んでいるとき、確かに羨望を覚えるのだった。あれは何だったんだろうね、と交差点の信号が青くなるのを待ちながら、私たちは死人そっちのけで話し合った。
 もしかすると、私たちも、春川みたいな意味で雪野が好きだったんだろうか?
 まさか。でも、確かにあの子、誰からも愛されていたもん、私たちのうちにも、確かに彼女を愛した人が居たのかもしれない。でも、あの時期の恋愛なんて、漫画みたいなもんじゃない? 誰も覚えていないだろうけど、私たち、あの二人がわかりやすく距離を詰めたり遠ざけたりするのを見るたび、勝手なロマンスを作り上げてそれに浸っていたんだよ、まるで食い物にするみたいに。
 本当にそうだろうか、と道玄坂を渋谷駅に向けて歩いていた私たちのひとりが、口を開く。
 私たちは、変わり映えのしない女子高生活に、まるで夢物語のような異質な恋愛が巻き起こったことを遠目で観察するような気持ちでいたに違いなかったけれど、本当は、彼女たちの編み上げる金色のロマンスのなかに、自分たちの存在が一滴でも入り混じることを望んでいたんじゃないだろうか。それがどういう気持ちかはわからないけれど、と彼女は秘密を約束するみたいにそっと声を潜めて、交差橋の下に目線を落としていた。夏への準備のように、湿度を少しずつ失った、からりとした風が吹いて、私たちは黙った。

 工場や港に接していないような、誰の航路でもないような海辺に寝転がって暮らしたい、と瑞枝があの夢見るような声で囁いて、そうね、私もついていこうかな、と春川が何でもないことのように答えた日のことを、私たちは甘い記憶として胸に残している。それから数年して、私たちの数人は東京を出て海に近い場所に暮らしたが、瑞枝が憧れるような、誰のものでもない海はあまりなかった。日本の海水浴場はどこもさびれていていいね、と私たちの一人が瑞枝に電話をしたとき、風と波音に混じってそんな言葉が聞こえてきた。
 まさか瑞枝、本当に海の傍で暮らしてるの? ふふふ、と彼女の突拍子のない行動に驚く私たちに、瑞枝が教室と同じように笑う。彼女の笑い方は控えめだけど、まるで私たちの憧れを最初から見抜いていますよ、とばかりに意地悪い響きがして、いつも秘密を暴かれたような気分になる。本当に海のそばじゃないけど、すぐ海に行けるところに居る、それが東京なんだといって、私たちのそれぞれは不思議な気持ちになる。
 東京って、そんなに海近いっけ? 江の島、鎌倉を海に数えるならね、とさらりと答える瑞枝の後ろで、聞いたことのある誰かの笑い声がする。誰かといるの? うん、友達と。でも、それが本当に春川なのかは、私たちに知る術はない。教室にいたときから、彼女は恋人、という名前を嫌がった。私と春川はとても仲のいい友達なんだよ、と当の相手を隣にして柔らかく発語するとき、思わず春川の唇の動きを見ずにはいられなかった。そうだね、私たちは、すごく仲のいい友達、といつもと変わらない硬い声で、彼女が答える。
 じゃあ、私たちと春川とは、どう違う友達なの? 彼女のあまりにゆったりとした、ほとんど鷹揚とした余裕に苛立ったひとりが、ついそう問いかけたことがある。何にも違わない、と瑞枝は音楽室の窓に背を預けながら答える。隣の吹奏楽部の部室で、誰かがフルートとクラリネットの二重奏の練習をしている。私は春川とは、すごく仲のいい友達だから、もしかするとあなたともそうなるかもしれない。彼女は弾けもしないピアノの蓋を開け、黒鍵と白鍵を気まぐれに押していく。すごく残酷、と侮辱されたように、私たちのひとりが答える。彼女は首をゆったりと傾げて、ううん、と溜息にもならないような、ゆるい息を吐く。

 瑞枝とのことを思い出すとき、私たちはいつも時間がぐちゃぐちゃになってしまう。こんなこともあった、あんなこともあった。印象には残るけれど些末な話ばかり、記憶の行列の先頭に出てきて、瑞枝と本当に何があったのか正しく思い出させてくれない。だから、私たちは瑞枝のことをちゃんとした物語として話すことは出来ないのだろう。だからこそ、私たちは瑞枝が死んでから、こうやって思い出を語り始めている。
 死んでから始まる言葉なんて手遅れだ。だとして、でも、私たちに他にどんな語り方があっただろう。
 私たちのうちで、春川と瑞枝のように親しい女友達と巡り合ったものはいない。あれだけ彼女たちの恋愛に興味を持った私たちなのに、それを自分で演じることには何の興味も湧かないのだった。男性同士ならともかく、女性同士は社会はまだ理解のあるほうだ(私たちは結局当事者ではないから、実際のところはわからないけれど)。時々私たちは、移動教室の時間に、女友達の敵を演じて笑い合うことがあった。A.男と付き合ったことがないなんて、もったいないよね。B.きっと一緒に居れば、男のことも好きになるんじゃないかなって。C.女性同士、子どもが居ないまま老いていくなんて寂しくない? D.一時の気の迷いでは?
 実際にそうした、一種の模範といっていいぐらい棘の突き出た言葉を聞いたことは、社会に出てからもない。私たちが化学ノートを小脇に挟みながら導き出した反論はこうだ。A.男と付き合ったことがないなんてもったいないですね。B.そうやって女のことが好きになったんですよ。C.子どもを産む苦労を想像したことがありますか? D.気の迷いで結婚をする男女だってたくさんいますよ。敵たちの顔は、時に私たちに嫌われていた禿げ頭の体育教師でもあったし、会話の合わない祖母たちでもあった。陰険レズ野郎、と私たちのうち看護師となった女は、病棟から病棟を回診で歩くときに、研修医の男たちが陰気な女医を罵って笑うのを聞いたこともある。本当にそんな単純な言葉がこの世にあるのか、と変に感心してしまったのだった。
 罵倒のための言葉は、品位はなくとも、目的がはっきりしているだけ、美しく響いてしまうことがある。
 春川は口が悪かった。というより、すべてを白か黒かで割り切るのだった。彼女は瑞枝の意見も、自分と合わなかったら、それはまったく間違い、と断言する。いい? それ、全部、おかしいから。あんた、間違ってるから、全部、何もかも。瑞枝は苦笑しながら、春川の手を自分のほうに寄せようと触れて、春川に振り払われる。東京の大学まで追いかけてくるなんて、まるで駆け落ちだよ、瑞枝が体育の着替え中に冗談めかして笑うと、春川は真顔で矢継ぎ早に否定を重ねていくのだった。私たちは目を伏せ、やり取りが聞こえないような振りを演じながら、耳の記憶に出来るだけその会話を残そうと努める。ねえ、ただの冗談だよ、そんなに怒らないで、だって春川は、たまたま私と近くの大学に行くだけなんだもんね。違う。おかしいよ、瑞枝、全部、間違ってる。いつもぼんやり反響するような瑞枝の口調に比べれば、春川の言葉は短剣だ。
 私たちの努力は無意味に終わる。化粧品や香水、若木の香りが入り混じる教室の中で、二人の言い争いは次第に声量を潜めていき、やがて私たちの誰にも聞き取れなくなる。ただ、きっと十数年後も同じように吹いているに違いない風だけが永遠に室内へ吹き込んできて、私たち、彼女たちの湿った肌を、撫でている。

 数学の入試問題のような、あらかじめ適切な答えが想定されているような問を教室移動や、友達の家で紅茶を飲み合うときに投げかけあうときは、私たちは決して瑞枝と春川の耳には入らないようにしていた。瑞枝なら、そんなこと本気で言う人いるかなあ、とやんわりと私たちを否定するだろうし、春川は、馬鹿、と切り捨てて終わりだろう。私たちはずっと後に、瑞枝から、そういう言葉はもう聞き慣れているんだよ、と携帯電話越しに告げられて、なんだか複雑な気持ちになったことがある。近場で見たから理解している、というひとつの傲慢を暴かれたような気がしたし、同時に、なにを偉ぶって、という反発も生まれた。
 そんな自分たちの感情を、驚きはしない。瑞枝は、理解を示す言葉も聞き慣れていたに違いない。

 女子高と言えど、瑞枝と春川の関係は広く受け入れられていたわけではない。教師たちはあからさまに関係から目を反らしていたし、気持ち悪い、と端的に厭う同級生たちも居た。たまたま同じクラスだった私たちがまだ好意的に受け止めていただけで、実際、瑞枝が春川に休み時間の教室でもたれかかるところなんかを目にすると、私たちは親の情事でも見るような気まずさを覚えずには居られなかった。
 何がだめだったんだろうね、と葬式帰りの私たちは、渋谷駅へと続く坂を下りながら話し合う。人が人を愛する動作なんか世の中に溢れているのに、どうして二人の繋がりは見ていてぞっとしたのだろう、と。趣味の悪い社会人と口づける同級生も、父母の妙にいやらしい距離の近しさも、あれぐらい怖くて魅惑的なものはなかった。瑞枝の手は桃のようなうっすらした産毛がわずかに生えていて、蝶の脚のように細やかに動いて春川をくすぐる。春川は不愉快そうに椅子に座ったまま黙っているが、肩や腕の線はわずかに震えている。そんな単なるからかいが、私たちにはどんな性愛の行為より卑猥に思えて、目を伏せたくなった。同性が同性を愛するとき、愛情と友愛が溶け合う瞬間へ、私たちは聖なるものにでも相対するときのように、本当は畏敬の気持ちを抱いていたのではないか。それを、砂糖菓子のようなロマンスでごまかしていただけなのではないか、と理屈っぽい私たちのひとりは言葉に出さず思う。
 果たして、高校時代の春川と瑞枝はセックスをしていただろうかと、雑居ビル八階の古臭い、くすんだ喫茶室で、ジャム付きの紅茶を飲みながら、私たちのひとりが切り出す。ううん、それはない、とバターの脂っこ過ぎるフィナンシェやカヌラをかじって、私たちは一斉に否定する。自分の手の表裏を眺めて、瑞枝の長細い、それでいて肉のやわらかに乗った手のことを思い出す。学校で禁止されていた香水でも使っていたのか、瑞枝の指先からは桜の香りがした。血色の良い、時に舌のように肉肉しい桃色になる指だった。
 中年の男女たちがばか騒ぎする喫茶店のなかで、私たちはその香りについて、物語を紡ぎ合う。
 春川と瑞枝は互いの家に遊びに行くことはなかった。瑞枝の母が職員室に怒鳴り込んで以来、互いの両親からは厳重に監視されていた。春川の父はフィールディングスを研究していた大学教員で、娘の性嗜好については比較的よく受容出来ていたものの、それでも相手の親がお怒りなのだから、という主張を崩すことはなかった。二人とも別々の予備校に通っていたから、放課後であっても、互いに共有できる時間というのは存外少なかった。なんとなく電話は好かなかった。私たちが知っているのは、二人が互いの全存在を常に感じ合おうとする関係は破綻する、と考察していたことだ。瑞枝の母に携帯電話を取り上げられる以前から、彼女は春川の電話番号を知らなかった。最初に切り出したのは春川で、お互いにずっと連絡していると疲れるから、と教室での話の最中に短く言い切って、そうだねえ、と瑞枝が柔らかく答えた。
 そうだそうだ、思い出したよ、と私たちのひとりが宝物でも見つけたように声を弾ませる。あれはねえ、誰かに大学生の彼氏が出来て、一日中通信で話し合うことを要求されてしんどいんだ、とちょっと自慢気に、でも芯から疲れ果てたような声音で打ち明けてきたときのことだ。高校大学と複数の男を渡り歩いて、最後には外資系の清潔なスポーツマン青年との結婚式を、ゴールデンウィークの中日に用意してきた彼女の悪口で盛り上がり、何人かがおかわりに頼んだ苺の紅茶が運ばれてきたところで、物語は再開する。
 たぶん、歌を書いた扇子かなにかに香を付けて、恋人に送って自分を思い出す頼りにしてほしい、という歌物語の一場面を古典の授業で取り上げた日から、瑞枝の手から濃い桜の香りがするようになった。数日をしてから、私たちは春川の手からもうっすらと同じ匂いがするのに気付いて密かに目を交わし合った。花の香りが似合う人間は貴重だ。授業中に二人の手を交互に見ながら、私たちは夢想する。あんた本当馬鹿、と嫌がる春川の両手に、瑞枝がぽとぽとと香水の滴を垂らし、その手を擦り合わせる。女友達だって互いにお揃いものを付けたりするじゃない、と葉桜並木の下で瑞枝が冗談のように言う。やだ、こんなの付けてたら、予備校で変に思われるよ。春川の抗議を無視して、瑞枝は早足で先に信号を渡ってしまう。手洗い場で入念に洗い流そうとするが、皮膚に染み付いた花の香りは簡単には取れない。なんだか良い香りするわね、とポテトサラダの芋を潰している最中の母親に問われた春川は、教室で馬鹿な同級生が香水をこぼして、生活指導の先生がやってくるわ、何人かの制服には直接かかって、教室中が砂糖漬けのさくらんぼみたいな香りで息が出来なくなりそうになる、といった嘘の話をでっちあげる。風呂場で膝を抱えながら、布団の中で身体を横に倒しながら、指と指の間に残る香りを、時々すうっと嗅いでみる。
 春川はきっと、こういう儀式を好まなかっただろう。彼女が何度も匂いを確認するのを承知で、わざと意地悪で振りかけたようなものだ。きつく叱られたのか、それとも飽きたのか、瑞枝の手からは元通りの石鹸の香りだけがするようになった。ただ、冷房のために着用を許された制服のカーディガンにだけは、夏の終わりまでずっと、あの砂糖漬けの芳香が染み付いていて、私たちの胸をどきりとさせた。
 瑞枝、入院中けっこう臭かったよね、とあくまで事実を告げる調子で私たちのひとりが思い出す。乳房を飛び出し、皮膚を内側から食い破った瑞枝の癌は、肉の膿み腐る臭いを個室に垂れ流していた。見舞いに行った私たちは、ごめんねえ、と全然申し訳なさそうな声で謝る瑞枝に、看護師に軟膏を塗ってもらうからという理由で追い出された。気の利いた見舞いの品も考えられず、とりあえず百貨店で適当に買った水羊羹や生ういろうの紙袋を手に持ちながら、私たちは醜く膨れ上がった瑞枝の乳房が、春川以外の女の手に優しく抱き止められる姿を想像して、妙に理不尽な怒りを覚えた。軟膏が染みるのか、扉越しに瑞枝の細い鳴き声が聞こえてきた。瑞枝本人に反して、品のある張り方をしていた乳房の片割れが、無神経な包帯できつく圧迫される姿を想像すると、まるで私たちのほうが、長年連れ添った恋人の浮気を目撃してしまったような気分だった。その頃はもう瑞枝が海辺の家に引っ越したとき、つまりは春川と別れた後だというのに。
 水饅頭なんてもらっても食べる体力がない、と瑞枝は甘ったるい笑顔で私たちに暗に命令した。そのとき陰気な婦人科病棟に来ていた私たちは互いに顔を見合わせ、ため息を付き、片方は瑞枝の背中を後ろから押して、もう片方は透明な水饅頭を口へ運ぶ役目を引き受けた。ふふふ、ふふふ、と瑞枝はくすぐられているみたいに柔らかく声を震わせる。軟膏の匂いは、教室で密かに嗅いだ、石鹸のようなあの体臭に似ていた。

 女同士の付き合いというのは、ただでさえ勝手な推測を生むものだったから、まして瑞枝と春川は様々な人に余計な妄想をかきたてた。二人は現実の教室に居るのに、まるで幽霊のような目撃報告があちこちから聞こえてきた。瑞枝と春川、昨日の日曜、水族館に一緒に居るところを見かけたよ。二人で白百合の花束を買っていたけど、あんなもの何に使うんだろう。二人とも、決して美形ではなくて、どちらかといえば輪郭の曖昧な、ぼやっとした顔なのも作用した。デート情報の噂が流れるたび、私たちは興奮して、本人たちが席を外した教室でその細かな動作や表情について、さも自分が見てきたかのように話し合った。稀に居合わせても、もの言いたげな春川はともかく、瑞枝は進んで訂正しようとはしなかった。さあ、もしかすると、いたかもね、といたずらっぽく、甘ったるく笑うだけだった。
 それどころか、後になって春川は困ったように私たちに打ち明けた、瑞枝はそういう噂が流れだすと、本当のことにしてみるのも楽しいかもしれない、といって春川を外出に誘い出した。本当に使い道のない黒薔薇の造花を探しに行ったり、鉱石屋で群青や緑の石を握り締めたり、イギリスの童話作家の伝記映画を映画館で一緒に見に行って、終わった後のロビーで互いにオレンジピールの香水を吹きかけ合ったり、積極的に嘘を本当にしたがるのだった。他人の期待には添ってあげなきゃ、と全然遠慮も気遣いもない声で春川に囁きかけるのが、ありありと聞こえてくる。
 そんな彼女を、春川は困りながらも、それなりに芯の部分で愛していたに違いない、と私たちは物語る。瑞枝と別れ、大学を出てからの春川の足跡について私たちが知るのは、ごくごくありふれた現実のプロフィールでしかない。三年後に、職場の素朴で誠実な、肩幅のがっちりした、たぶんラグビーをやっていた色黒の男と結婚し、一年以内に双子の姉妹を産む。義母との折り合いは良くも悪くもなく、それから三年間、育児休暇を取得している、と。これは私たちが直接対面したり電話で話を聞いたのではなくて、facebookで検索して発見した事実に過ぎない。
 私たちが高校時代に夢見ていた永遠の恋人の片割れは、今は東京都世田谷区池尻の、それなりに家庭の収入がなければ入れない八階建てのマンションに住み、子供の幼稚園を探すのに苦労して復職がなかなか進まず、地域の小児医療の手薄さに悩みながらも、一週間に一度、父親に子を任せて、新宿や池袋の、そこそこの質の紅茶が大量に飲める喫茶店に長居しながら白水社国書刊行会から発刊された、こじゃれた翻訳小説を読むのを数少ない楽しみにしている。高校時代の面影がわずかに滲む最後の部分の記述だけを、私たちは繰り返し、何度も読む。実際に会えば、彼女は雛菊の刺繍がされたニットのセーターを着て、柑橘か桜の香水をほんのわずかだけ手から香らせて、何、それ、全然、おかしいと鉄を断ち切るような口調で、私たちを否定するかもしれない。
 でも私たちは三十路手前の春川を知らない。二十二歳から、彼女はずっと、私たちに会うことを拒んでいる。完璧な拒否ではない。同窓会のはがきにはちゃんと否で返事をするし、LINEで誘えば家の都合が付いたらね、と穏やかな否定で答える。でもそれは、放置や忘却ではない、当時の春川らしくない、社交の礼節が伴った否定だ。私たちはその返事を受け取るたびに、教室に居たときの十七歳、私たちのロマンスの中の彼女よりも、ずっと遠い距離を視る。
 私たちは、時に紅茶をすすり、時に煙草をくわえながら、瑞枝と別れてからの春川について語り続ける。
 彼女にとって、瑞枝との出会いは後悔すべきものだったんだろうか? そうであってほしくない、という希望をこめて、私たちは答える。瑞枝が新しいイラストレーター崩れの恋人と住む、鎌倉の、潮風の吹き付ける築三十年のアパートの階段で、決然と彼女を見上げて。あるいは、高田馬場の私立大学の、ガラス張りの学生会館のロビーでたまたま出会い、気づかうような素振りを見せる春川に苛立つように、わざと隣のベンチに腰掛けて、こう告げる。
 うぬぼれないで。私、あなたと交際していたこと、全然後悔していない、これっぽっちも、まったく。
 私たちはありありと、彼女のその口調を想像できる。まだ社会で棘を抜き去られていない、言葉の鋭さを。

 でもそれは妄想だよ、と私たちのひとりがチャイの茶碗を両手で抱えたまま、いつまでも飲みもせずに口を出す。
 その発言を打ち消すように、私たちは互いの家庭生活や職場について話し始める。ある者は幸福な結婚をし、ある者は社会的な義務としてのみ結婚を捉えた男と結ばれた結果、義両親と彼のあらゆる無理解に苦しめられている。ある者は女性であるが故に職場で不公平な扱いを受けたと強く感じ、ある者は適応障害の診断で数年休職して実家の世話になっていて、ある者はそのした余計な波とも無縁に、無難に労働を続けている。時に声を潜め、時に声をやわらかく張り、それぞれの人生の、ありふれた瞬間について語り合う。高校生のときは同じ教室に詰め込まれているのに、どうして何気ない偶然がこれほど先々の色合いを変えていくのだろうかと、私たちはただ不思議に思っている。
 薄い夏の喪服に身を包み、東京のあちらこちらへ離散していく自分たちを、黒揚羽の群れのようだと思う。
 私たちのうち、これからおそらく贅沢な文化になるだろう出産を成し遂げた者は、自分の娘に将来同性を愛した過去を知られる可能性について考えて、傲慢とは理解している溜息をつく。また集会では誰にも話さなかったが、本当は大学時代から同性の恋人と同じ下北沢のアパートに住んでいる者は、百貨店の地下でエビチリを買いながら、無言で聞いていたロマンスの異様な甘ったるさについて思い返して、今度はもう誘われても絶対にあの集まりには行かない、と決意する。乳がん検診で精密検査の必要ありと告げられていた者は、浴室の鏡の前で自分の乳房をさわりながら、静かに鼻を近づけてみる。高校生の弟が同性と交際していることが発覚し、母が学校側に報告して何とか対策を取ってもらうべきではないかと深刻に思案している家へ帰る者は、おそらく生涯春川のことを許さないであろう、棺の横の老女の、岩のように鬱血した顏の無表情を、記憶のなかで反芻する。もし私が、と練馬のマンションで生後八か月の娘を抱き上げた私たちのひとりが、娘に同性愛者であることを告げられた時、果たして自分はそれを受容出来るだろうか、と自問する。その相手を、憎まずにいられるだろうか。溜息が重なるうちに、葬儀の日は終わる。
 
 死んでから思い出す記憶なんて、まるで死者を美化するための備品のようだ、と私は唇を静かに噛む。渋谷東急地下でエビチリと、同居人の好きな韓国式の巻きずしを2パック買って、京王井の頭線に乗り込む。彼女は今日は夜勤だから、料理の出来ない私がデリで買う決まりになっている。下北沢、明大前、永福町と吉祥寺に向けて通り過ぎていく駅の名前を頭のなかで読み上げながら、私はその集まりでは明かさなかった、病室での本当のロマンスを思い返す。
 高校一年生の瑞枝にからかい半分に、使われていなかった焼却炉の裏で何かの拍子に口づけをされて、その弾みで自分から告白をして、誰にも感づかれないような秘密の交際をしていた。高校二年生になって、彼女から別に好きな人が出来た、と打ち明けられた時には、相手への憎しみや嫉妬を通り越した、悲しみとはただ意地で名付けたくないような、どこにも行き場のない感情が発生したのを覚えている。瑞枝は春川に、私のことを前の恋人だと紹介した。春川は瑞枝の気遣いの無さ、それから自分の知らない交際関係に驚愕していたが、すぐに私たちは打ち解けて、瑞枝の悪口で盛り上がるようになった。彼女のわがままや移り気への助言もした。そんな受容が出来たのは、そうした立ち位置でも瑞枝に関われることを、単純に幸福だと思ったからだ。それに、三人で遊びに行けば、恋人同士ではなく友達同士の遊びなのだという物語も、嘘から本当へと様変わりしていく。教室での噂を受けて、水族館に三人で行った日の帰り、瑞枝が、まるでふうちゃんは私たちの娘みたいだね、と冗談めかして口にしたとき、春川は鮫の水槽の前で瑞枝の頬を打った。謝罪を決して言葉にしなかった、すももの様に薄く腫れた頬の赤い美しさを、覚えている。
 春川とまともに連絡を交わしていたのは、たぶん会のなかでは私だけだったに違いない。だから、瑞枝がかなり悪い乳癌で入院していることを知ったとき、真っ先に彼女に連絡した。余計なお世話だとは思ったが、それがあのとき、水族館で瑞枝の頬を打ってくれた春川への義理の返し方だと、勝手な心の決算をつけていた。彼女は、怖い、と言った。今更会いに行くのは怖いよと、素直に感情を打ち明けてくれた春川は、高校の時から全然変わっていなかった。
 頭の中では、別に瑞枝と会ったところで今の生活に変わりなんか無いって分かってる。自分がレズビアンでないことに気付いて、彼女との生活を美しい思い出にして、なりの清潔な男と結婚した自分のことを、裏切者のように思う必要なんてまったくないことも。でもそれは理屈であって感情じゃない、と春川は柔らかな声で、自分の胸元に手を当てながら喫茶店で語る。わかったよ、と私は申し訳ない気持ちで答える。あの金色のロマンスの、最後の結末を春川につけてほしいと、そんな不埒な欲望が自分にあったのだとしたら、と自問する。それは、純粋な暴力だろう。
 春川は短剣で一語一語切り裂くような話し方をやめて、言葉の間に息を多く挟み込む、ゆったりとした口調に変わっていた。それは瑞枝の影響というよりは、彼女が大学を出てから学び取った、ひとつの技術に違いなかった。
 病院の狭苦しいエレベーターには、老若男女の見舞客が乗り込んでくる。まるで葬式の先取りをしているような陰鬱で薄暗い顔の人々と、祭りの準備でもしにくいかのような華やかな人々が混じり合う空間の、その複雑な体臭に耐えながら、私はすでに聞いていた瑞枝の乳房の臭いについて考えている。焼却炉の裏で、指定のカーディガン越しにおふざけを装って瑞枝の胸に手を当てた時、私のは小ぶりで形が良いんだよ、となぜか自慢げに言われたのを思い出す。あのころの自分と、何にも変わらない黄土色と桃色が入り混じる手を見返して、六階で降りた。
 そこから話すことは、あまりない。
 やせ細った春川に、東急の地下で買った箱入りのプラリネを手渡したとき、確かに皮膚が膿む臭いを嗅いだ。軟膏の香りで大分和らげられてはいたが、注意深く意識すると、確かに鼻先に香ってくるのだ。常日頃から乳房を持て余している人間はたまったものではないだろうと同情したが、むしろ瑞枝はあっけらかんと、乳癌に気付いてはいたが民間療法に頼った自分の愚かさと、長期生存への諦めと、今の彼女に対する愚痴を矢継ぎ早に語った。教室の連中は誰も気づいていないようだったが、本当の春川は、瑞枝と入れ替わったように早く言葉を刻む喋り方に変わっていた。自由とそれなりの我儘を貫くためには、それだけの言葉の変化が必要だったのだと、私は思っている。彼女は病室にガラスの茶器を持ち込んでいたから、私たちは夏向けのアソートギフトから、パインナップルの欠片が乗ったのや、梅酒とハチミツのガナッシュを口に放り込み、味の薄い紅茶を飲んで時間を潰した。教室の連中は相変わらず自分たちのロマンスに酔っ払っているようだというと、彼女はこちら側に足を踏み出す勇気がない人にとっては、ああやって物語を編むぐらいしか欲望のはけ口がないのよ、と意地悪く笑った。陽が暮れて、百貨店のタイムサービスの時間が近付いていた。私が別れを切り出して、瑞枝がまた好きなときに来てよ、と軽く手を振ったとき、病室の扉が開いた。
 張り詰めた顔に浮かべた、彼女のあの精いっぱいの笑顔を、私は一生忘れないだろうと思う。彼女は挨拶もせず、名前を呼ぶこともせず、なんといっていいのかわからないままに、包帯の巻かれた乳房にそっと鼻を近付けた。病室の扉越しに、二人分の小さな足音が、はしゃぎながら遠ざかっていくのが聞こえた。その後を、男の靴音が追っていく。オレンジの紙袋から取り出した、少女趣味のピンクの小瓶が、線のかっちりした群青色のブラウスに全く似合わない。膿んでるところは沁みるからね、とまるで昨日まで時間を共にしていた人のような口調で、瑞枝が注意する。
 それもそうだね、と女は柔らかな声で答えて、浮遊する金色の光へ、季節外れの香水を一吹きした。【了】

 

松浦理英子『最愛の子ども』および、自作『十年の金色』について
 読書合評会で課題図書に選んだ、松浦理英子『最愛の子ども』を読んだあとに書かれた小説です。

 『最愛の子ども』は、日夏・真汐・空穂という三人の女学生の同性愛的および疑似家族の関係についての物語です。三人はクラスの女生徒「私たち」によって「父」「母」「子」という疑似家族に目され、物語が進むにつれて曖昧な三角関係に陥っていきます。終盤において同性愛的関係は空穂の母に露呈し、その相手である日夏が学校を退学させられます。彼女は同級生の父親の助言を受け、留学のためイギリスに旅立ち、残された真汐と空穂、そして「私たち」に見送られます。大学入試の結果を待ちながら、真汐が日夏と共に「最愛の子ども」である空穂と再会する日を想う場面で小説は終わります。
 この小説の特徴は、語り手を日夏・真汐・空穂といった主人公格の視点でもなく、三人称でもなく、あくまでその関係の変化を周りで見ている「私たち」に置いているところにもあります。「私たち」は当事者でなく、ただ三人の人前に見せる姿から何があったのか推測し、「ロマンス」を語ります。
 作品の、特に前半部は「私たち」が「私たちのファミリー」に寄せる性的空想から成ります。もっとも空想といえど、彼女たちは主人公から話の一部始終を聞いているので、決して現実から大きく離れているわけではなそさうです。また、「私たち」は時に、クラスメイトである日夏・真汐・空穂の「私」の視点を借り、一人称で物語を紡いでいきます。この人称の移り変わり、あるいは曖昧な「私たち」という一人称複数形が、不思議に柔らかな文体を生んでいるのが特徴です。
 私はもともと分析が得意ではないのでその程度しか書けないのですが、個人的に読んでいて面白かったのは「私たち」の性的妄想の緻密さや、女子高生たちのそれとない日常描写でした。同性愛や疑似家族を要素としては含んでいますが、普通の女子高生小説としてもかなり面白い小説です。ぜひ読んでみてください。

 

 自作『十年の金色』について。春川と雪野という二人の女子高生の同性愛的関係を「私たち」が期待し、その「物語」を勝手に編む、という筋は『最愛の子ども』と変わりません。一方で、「私たち」の勝手な脚色にうんざりしている「私」こと「ふうちゃん」が最終盤に登場します。
 『最愛の子ども』は(乱暴に書けば、なんだかコンテンツめいた)百合妄想を戯画的に描いている節があるので、それよりは直截的に「うんざり」しています。「ふうちゃん」は雪野とかつて交際していた同級生ですが、彼女を「娘」に見立てようとする雪野を、春川は平手で打ち拒みます。三角関係は成立しませんが、雪野は彼女を都合のいいおもちゃにしている節があるので、けっこう性格が悪いです。
 『最愛の子ども』は高校時代についてのみ書かれているので、『十年の金色』はその先の大学、社会人時代について書いています。日夏たちは高校時代に別れを迎えますが、春川と雪野は大学時代に恋愛関係を終え、春川は成人してから男性と結婚し、雪野は引き続き別の女性と交際を続けています。
 最後まで「私たち」の「ロマンス」として終わる『最愛の子ども』に対して(ただし日夏たちの一人称が「私たち」から独立して立ち上がる瞬間が複数回あるので、章名にある通りロマンスは「混淆」し、しばしば「途絶」するのですが)「ふうちゃん」は「ロマンス」として「私たち」に語られなかった場面について語ります。つまり、「ロマンス」の外側でこの短編は終わります。
 「こちら側に足を踏み出す勇気がない人にとっては、ああやって物語を編むぐらいしか欲望のはけ口がない」という雪野の台詞は、(記憶の限りではおそらく)松浦理恵子の『奇貨』から来たものです。

奇貨 (新潮文庫)

奇貨 (新潮文庫)

 

 

 でもこれは自作を後で読み返して気付いた違いであって、書いているときからそんなに意識しているわけではありません。「この百合妄想する私たちって怖いな」とか、「娘って関係やばくない?」とか、「同性愛の関係は一時かもしれないし、ずっと続くかもしれない」とか、それぐらいの気持ちで書いていました。