紙に沈む字 清水博子『カギ』について

 

カギ

カギ

 

  傑作のあとの、模索のための一作、と位置付けられる。
 谷崎潤一郎の『鍵』に題材を取った小説で、互いの日記を盗み読む姉妹が主役となる。姉は金持ちの未亡人でマンションを資産に有し、時折株に触れ、サラリーマン家庭の専業主婦である妹は、現在の生活に満足せず、姉に嫉妬を覚えている。嫉妬の原因は、単に生活の格差だけでなく、夫が姉にも気があるように感じているのにもある。疑念と嫉妬は、清水博子において繰り返されるモチーフだ。妹は「無限のかたがたにごらんいただくことを励みに」(p.3)ブログを書き始める。「よく考えるのを躊躇してきた日々のつまらない出来事が、文字にする過程でなにかべつのものに変化してくれればとあわく期待」するのは、書けない人の最後の拠り所に近いかもしれない。とはいえ、二人があからさまに小説を書き出すようなことはないし、書けないことへの苦労が自家中毒的に書かれることもない。そこにあるのは、中流以上の人々の、平凡な生活雑記の域を出ない。もちろん他人の日記を盗み読むということは、その秘密のくだらなさは十分承知のうえで、しかも何故か面白いという不思議な経験ではあるし、日記を盗み読む女たちは、そのまま小説を読む私たちの姿でもある。無関係な他人の秘密を主題にした物語は世の中に溢れていて、私だって、秘密の暴かれた瞬間にちょっと興奮を覚えずにいられない。そうした主婦たちの日記は、同じようにインターネットに書くしかない主婦たちを読者にしているのだろう(本当のところはよく知らないが)し、そこには作中の妹のように、「vanity」があるに違いない。実際に作中で姉が散々に書くように、粗末な自意識から成る書き物を戯画的に取り扱うのも、清水博子の使い慣れた道具である。
 清水博子の小説を一種の描写中毒だとすれば、それは自己開示の中毒、といっていいのかもしれない。
 もっとも、自意識、という言葉は、あまりにぞんざいに扱われ過ぎてはいる。こうした毒々しい目線は、『ぐずべり』以前、とりわけ『ドゥードゥル』にあったものだし、清水博子の小説からそんなものを読んでも仕方がない。もっと巧みに書ける人間がいくらでもいるし、また自意識という主題は、書き易いわりになんだか歯切れが悪い悪口か、それを振り切るために極端な戯画化に踏み込もうとして無残に失敗に終わることが多い気がする。たぶんこれは、ほかならぬ小説の読み書きにおいて自意識を振り払えないあたりに起因して、そのジレンマは他ならぬ清水博子が『ドゥードゥル』で示したような、苦い自画像、という形式でしか解消できないのではないか。
 小説的な技術の巧みさは、『街の座標』から比較すれば格段に成長している。読みやすさと言い換えてもいい。日記の特性として、時間感覚は無理にでも刻まずにいられない。どうしても時間感覚=物語の秩序を失いがちな清水がこの形式を採用したのは自然であるし、また場面を細密に書き過ぎる清水博子のヒロインたちに、「疲れ」という上限を持ち込むのも正しい。だから本作は、ここまで私が読んできた五作の小説のなかでは、もっとも生理的に読みやすい。

 問のないところに傑作は生まれにくい。
 傑作とはその人の生きてきた問への一個の解答であり、『ぐずべり』の、とりわけ『亜寒帯』が、書くこと自体を小説にするにはどうすればいいのか、という問を見事に作品化しているのは既に書いた通りだが、『カギ』には同じ問は見えてこない。もちろん、同じ問に二度答える必要はない。
 裏返せば、私たちは『カギ』から第二の問、あるいはその可能性を読まなくてはならない。『ぐずべり』以前と比較して、明らかにこの小説で捨てられているのは、描写である。意識的な封印、と言っていい。土地の土地らしさ、物の物らしさ、といったその固有のリアリティはどうすれば書けるのか、という『街の座標』からその文体を支えてきた問は一旦放棄されて、表層的なブランドや地名や料理の名の羅列に言葉が尽くされる。したがって、『カギ』という小説を考えるにあたっては、次のような問を鍵に考えなくてはならない。なぜ清水は『カギ』において描写を捨て、固有名や単なる品目の羅列に文体を切り替えたのか。
 そして、そこから清水は何を探し求めようとしたのか。
 そもそも描写とは何なのか。 
 思えば多くの小説において描写は不要品である。小説は何か、と訊かれたら私は物語と文体=描写の組み合わせだ、とたぶん暫定的に答えはするけれども、それは文芸寄りの回答であって、実際には文体=描写がほとんどないか、単に慣例として書き込んでいるだけの小説のほうが世間においては多いだろう。新奇な舞台設定には説明としての描写が必要だろうが、では、私たちが見慣れているはずの風景にまでわざわざ描写を必要とするのは何故か。たとえばコンビニ前と書けば誰だってその風景を想像するのに、そこに冴えない白いライトバンが律儀に横並びになっているとか、家庭用ゴミは持ち込まないでくださいと掲示されたゴミ箱から、何が入っているのかわからないビニール袋が不潔に突き出しているとか、そういうことをわざわざ書くとき、何が起きているのか。もちろん、描写に意味が存在するのは、文体=描写と、物語における問とが重ね合わされるときだ、とこれもまた、一応は答えることが出来る(小説における没入感に楽しみを見いだせないのでこんな貧相な答えが出てくるのだが)。たとえばその完成形が、『ぐずべり』の「白」と「黒」の描写だろう。
 別の答えとして、風景描写とは、それ自体が問を探り出す手つきになり得る。たとえばなにか恐ろしげな描写をしているとき、そこには書く人が自分なりの恐れの対象を見つめようとする意識が潜んでいる、と言い換えていい。先行する恐怖があるからか、それを催させる描写があるから恐怖の対象へ意識が向かうのか、その順番自体に意味はないが、描写とは主題を探し出そうとする意識だ、と言える(こんな読みは、いかにも文学を独学でかじった人間がしそうなものだが)。
 だから、描写をスキップして物語からいきなり始めるのは、オープニングの短い映画のようなもので、読み手には親切かもしれないが、(特に物語以外の小説を)書く人には選びにくい手段だ。かつて宇野千代が、小説を書き始めるには窓から見える風景を書き出すだけでいい、と豪語した文章を読んだことがあって記憶に残っているが、確かに小説を書くうえで安定するのは、物語ではなくて描写から始めるほうである(もちろん、ちゃんと物語を考え抜いて書けるのであればそんな無意味な苦労は必要ないのだろうが)。

 裏返せば、描写の欠如とは主題の欠如に、かなり近い。主題には物語のほうから与えられるものと、文体=描写のほうから浮かび上がってくるものがあって、前者の主題を意識的に拒むとき、いわゆる文芸小説が出てくる可能性が高いだろうが、『カギ』という小説はこの文体=描写が欠如している。日常のよしなしごとを書くばかりで、どうにも作者がそういう主題に向いている気がしてこない。というか、そうした日常雑記を小説にするのであれば、強みは自分が生きて見た風景の描写ではないか。
 確かに姉妹の性格は悪いかもしれないが、この程度の卑しさはありふれているし、第一私にもあるし、もっと言えば卑しさの描写というのは実は清水は然程得意でない気がする。笑える細部はあるし、独り者のエッセイスト、という枠に安住出来そうな優れた表現もある。そこを紹介してやり過ごすのもいいし、実際それがこの小説の魅力ではあるのだが、個人の我儘として、清水博子には、そんな風にいてほしくない。
 とはいえ、問の端緒、欲望の欠片のようなものはある。地名、ブランド名、種目名が意味するところは、それがその言葉だけで終わる、というところだ。たとえばこんな記述である。

 姉のおみまいに行ってきました。
 ソニーミュージックエンターテイメントに勤める友人に連絡しましたが外出中。
 マリナ・ド・ブルボンでひとり飲むパッションフルーツのお茶もいいものです。
 一階のミューゼ・ド・ウジのスーツをみましたが、着る機会はなさそうです。
 インテリアショップでテーブルクロスとランチョンマットのセットを注文しました。
(p.23)

 妹の文章はこうした「vanity」の空虚さが主題なのだが、よくよく考えてみれば、ここには感情による形容は殆どない。「マリナ・ド・ブルボンでひとり飲むパッションフルーツのお茶」は、「いい」という価値判断はあるが、「マリナ・ド・ブルボンでひとり飲むパッションフルーツのお茶」と言われれば、そこで描写が無くても、そういうものなのだな、と納得してしまう。これは、実のところ、外界に目を向けるに際して、「きれい、といって言葉に躰を預けるやり口も、きたない、といって言葉で身を守るやりくち」をも拒み、「なにも考えずながめてい」たいという『ぐずべり』における藍田亜子=清水博子の願いの、別の経路での達成である、といえる。マリナ・ド・ブルボンという字面はたんなる気取った、虚飾の文字列と言われればそれまでだが、フランス語をろくに知らない私が、なんだか勝手で浅ましい美しさを感じてしまうのは、否定しにくい。そのとき私が見ているのは、「なにも考えずながめて」いられる言葉ではないか。

 『ぐずべり』はその「風景」を全て細密画のように言葉にしていったが、『カギ』は「風景」を固有名詞に帰することで、その描写を省略する。『ぐずべり』の藍田亜子であれば、いちいち紅茶の色がどうとか、カップがどうとか、店員の態度がどうとか書き込んでいったに違いないが、厳密には、描写にも価値判断を差し挟む言葉に「躰を預ける」「身を守る」のと変わらないような、選択の目つきがある。その選択の偏差から、感情としての主題が産まれる、といっていいかもしれない。それをも拒むことは、思考的な厳密さ、と呼べはする。けれど、その偏差なくして小説における描写=主題は立ち上がってこない。 
 裏返せば、『カギ』という小説は、まさにその描写の放棄をもって、描写がどういう欲望を意味していたのか、という自己試問だったのではないか。それは、ともすれば「マリナ・ド・ブルボン」という固有名の羅列に帰着しかねない願いでもある。もちろん小説家の能力として、描写に頼らない、単に出来事だけで小説が書けるかという問もあっただろうが、それについては、やはり清水の美質は描写である、と結論しないわけにはいかない。『ぐずべり』において、描写の可能性の、一個の底まで辿り着いた清水博子が、それとは別の問の可能性を模索した過程が『カギ』である。小説の結末は、2002年の時間的な終わりに際して強制的に打ち切られるが、これ自体、検索の断念である、とも読める。あるいはその続きは、『vanity』という清水博子最後の小説に期待してもいいのかもしれないが、ともかく『カギ』は次作のための、準備段階に相当する小説だろう。しかし、清水博子に触れるうえでは、もっとも手には取り易い一作ではある。

 ところで、マリナ・ド・ブルボンとは本当はフランスの香水店で、日本の紅茶ブランドが名を借りていたらしい。金色の紅茶缶はウェッジウッドを想わせるような、シックな青と水色のストライプが美しいが、今は花水木という本来の会社の名前に戻って、まるで喉飴の包装紙のような、ずいぶん味気ないデザインに変わってしまっている。恵比寿のティーハウスが残っていれば、たぶん今週末にでも喜々として「マリナ・ド・ブルボンでひとり飲むパッションフルーツのお茶」に口をつけただろうけど、残念ながら今は筑波に洋館風の本店があるだけのようだ。紅茶だけで筑波は遠いが、「マリナ・ド・ブルボンでひとり飲むパッションフルーツのお茶」が、あるいは雑誌や陶器の固有の名が、ひとつひとつgoogleで検索して既に実在しないことを確認し、今はもう小説の字面としてのみ沈殿しているのを上から見下ろしていると、ダムの底を覗くような気分になる。固有の名の消滅は、検索なくしては簡単には知り得ないのではないか(もしインターネットがなかったら、私が清水博子という作家を読み始めることはなかったかもしれない)。他愛のない紅茶店の閉業でも、インターネットはすべて記憶に留めてしまう。『カギ』という一種の通俗小説がインターネットについて書かれたものだとして、私が本当に読むべきなのは、いつまでも忘れられずにいる遠い物々の終わりの、その不思議な切なさかもしれない。【了】