燃焼としての時間 山尾悠子『飛ぶ孔雀』について

 2018年に発刊した『私的文藝年鑑』から、山尾悠子『飛ぶ孔雀』(泉鏡花文学賞)の感想を公開します。2018年もっとも面白く読んだ小説のひとつであり、回想の意味もこめています。

飛ぶ孔雀

飛ぶ孔雀

 

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 昔ある小説家が、煙草は間を持たせるからつい習慣的に作中人物に持たせてしまう、とインタビューで話していたのを思い出す。私は非喫煙者なので、煙草を吸わせるとどうにも嘘っぽくなってしまうが、会話の合間を繋ぐ小道具として、たしかに便利そうではある。現実の人間相手でも、互いの言葉が出尽くしてしまったとき、ちょうど間を置くのには使いやすい道具だろう。隙間の時間を消し去る、あるいは点火することで互いに話せなくなった時間を経過させる、それが煙草の役割とも言える。
 『飛ぶ孔雀』は、冒頭から「不燃性」をめぐる小説である。

 シブレ山の石切り場で事故があって、火は燃え難くなった。
 大人たちがそう言うのを聞いて、少女のトエはそうかそうかと思っただけだったが、火は確かに燃え難くなっていた。まったく燃えないという訳ではないのだが、とにかくしんねりと燃え難い。すでに春で、暖房の火を使う場面はなかった。喫煙する祖母が奥の間で舌打ちするのを聞くことはあったものの、少女のトエにとってたちまち不自由が生じたのは煮焚きの場だった。
(p.7)

 「暖房」として火を使う場面はない。代わりに不燃性に難儀する例として登場するのは、「喫煙」と料理である。そういえば、というにはやや無理のある連想かもしれないが、料理もまた、小説では何もない間を詰めるのに使いやすい。喫煙と料理には、いずれも時を流す役割がある。短縮させる、通過させる、といってもいい。『飛ぶ孔雀』は私は読むのに難儀した小説で、というのは時間の秩序が作中で乱れに乱れていて、まるで夢を歩くような心地がする。そして夢においては、たぶん厳密な時間の感覚というのはあり得ない。次から次に出来事の図柄が思い浮かんできて、それが繋がったり千切れたり、単独に生起してきたりするのを繰り返すばかりだ。時間と出来事の連続は、似ているようで違う。『飛ぶ孔雀』の読みにくさは、この出来事同士が一見相関しているように近付いたり、いきなり遠ざかったりして、事件の全貌が見えづらいことに起因する。「まったく」時間=物語の繋がりがないという「訳ではない」のだが、「とにかくしんねりと」時間=物語が繋がってこない。物語というよりは出来事の羅列が、生々しい夢のリアリティをもって迫ってくる。物語として印象が残るのではなく、ただ鮮烈なイメージだけが浮き上がっては弾けて消えていく。
 
 『飛ぶ孔雀』はどういう小説か。要約は難しい。けれど、説明し難い鋭さがあるのは間違いなくて、たとえばそれは快楽とか幻想とか、柔らかな言葉で丸く表現するのが適切なのかもしれない。でもそれでは、小説と詩の区別が付かない気もする(別に付けなくてもいいのだが、なんとなく作者が詩も書いていたという経歴に結び付けて、詩的だ、幻想的だ、と片付けてしまうのは自分に納得がいかない)。
 そこで具体的に書こうと試みるなら、ひとまず、これは夢の時間を描いた小説だ、と要約したくなる。
 夢の小説は、試してみればわかるが、普通はそこまで長々と書けるものではない。記憶に残る夢はどこかにイメージの焦点が合い過ぎて、起きてすぐメモを取るにしてもその中心点ばかり焼き付いてしまう。本来遠い、あるいは些末なものも、夢のなかで心的に拡大されてしまえば、それは異様に近く大きなものとして遠近法を狂わせてしまう。たとえば「肝斑のような濃い灰色の痣」が「ひどく目立つという訳でもないのに、見れば見るほど痣が男であり男が痣である」(p.30)ように。小説は詩ではなくて、瞬間に細密な描写を詰め込み過ぎればそれだけで終わってしまう。エピソードとしての瞬間同士を繋ぐ、持続した秩序が必要になる。その典型例が時間であり、こそばゆい言葉遣いだが、それぞれの登場人物が、どのような状況においても本質としては同じ登場人物だという、同一性だろう。『飛ぶ孔雀』はそうした秩序は拒んでいて、時間と同一性の秩序を遠ざけている(本書に収録された二編は登場人物にアルファベットや短いカタカナの名前を与えるが、同じ字面でも果たして同一人物なのか確信が持てなくなりがちで、それもまた読み辛さの一因となっている)。その無秩序において連続している、ともいえる。ただし主題が曖昧な観念のままでは小説を支える背骨にはなれないから、何らかの具体的な形は取らなくてはならない。それが、不燃性に相当する。
 たとえば火種屋の次の描写は、この小説における火と時間の関係を、明瞭に描いている。

 小銭を出して今日も火種を買う。紙縒りの先に移した火を手渡しで受け取り、煙草のガラス棚に片肘ついた親爺のかおを見る。陽射しのせいで円レンズの片方が白く燃え上がるように反射するので、その人相はやはり測りがたいが、たまに眼鏡をはずして昼寝しているところを見かけるときは別だ。ただしそれには少しだけ条件があって、火の番である火種屋が眠っているときはその場の時間の流れが停滞するのであるらしい――それもかなりの度合いで。一見したところ燃える火の桶は薄暗い土間に置き放され、奥の小座敷で寝倒れている親爺のことはともかくとして、妙な黒い犬が火を咥えて逃げ出す姿勢のまま静止していたりするのだ。餓、と烈しく火を噛んだ犬の鼻づらには深い肉皺が寄り、数本の髭が焦げて白煙が纏わっている。
 ぱふ、と音をたてて夢の蓋が閉じる。(p.38) 

 小説の片側の主題が不燃性=無時間であるならば、もう片側は恋愛関係である。小説には繰り返し男女の恋愛が描かれるが、『飛ぶ孔雀』においては未亡人と料理人、トエと川舟のひとに代表されるように、ごくその瞬間しか書かれないし、『不燃性について』では関係の破綻が集中的に描かれる。そして冒頭のトエの場面で描かれるのは、恋愛の無時間だ。一瞬と永遠が取り違えられるような、時間の感覚がまったく狂ってしまったような、そんな瞬間である。

 二度目にそのひとは夜の川を渡ってきて、トエの恋びとになった。障子で隔てただけの明るい台所の奥にはラジオの音や大人たちの出入りする気配があったし、それより何より橋からも両岸からも丸見えのこの場所でと意識することがトエには恐ろしかった。振動とともに路面電車が通過し、火花が散り、また通過した。視界の端では岸沿いのみちを照らしていく車のライトがひっきりなしに動いていたし、取り込み忘れた洗濯ものの隙間にほそい宵の月があった。燃え難くなった火を合図の目印としてそのひとはやって来るのであるから、トエは夜の川辺で火を焚いた。(p.10)

 路面電車や、車のライトや人の気配といった、自分以外のものへの感触が異様に鋭くなる(もちろん「恐ろしかった」から気になるのもあるだろうが)。裏返せばそれは、自分のなかの時間感覚ではなくて、たとえば路面電車や、一台一台の車のヘッドライトだけが、今自分が生きている世界に時間が動いている証拠になっている。恋愛は発展すれば、そのうちに「子」という関係を産み落とす。恋愛の無時間などと言い切ったところで、やはりそこには物事の動きがある。
 けれども、動きは動きであって、本書の出来事から出来事への連続が、決して整然とした時間を感じさせないように、それが必ずしも時間を生むとは限らない。

燐寸の燐がたけだけしく闇に発火し、焚きつけ紙を変色させて明るい炎がさっと走る。正常に燃え上がったその火が空気の澱みに触れて縮むとき、ばちんと大きな音がたつこともあった。怒りに任せ、命ずるうちに、練炭の表面に別種の青い炎が生まれた。たよりなくちりちりした赤い炭火を覆い隠し、二重映しになったあからさまに偽の青い火なのだった。それは気ままに膨れ上がり、髪を振り乱すようにせわしなく動きまわったが、明るいだけで熱というものがまるでなかった。(p.10)

 物事が続いているという持続の感触はあるが、それは「偽」の時間のようなものだ。庭園でのパレードの描写は、出来事が弾むように連続しているまでは分かっても、いつどこで誰が何をしたか、という整理を拒んでいる。あるいは、時間を感じさせない動きと出来事の連続こそが、この小説の主題だろう。
 『飛ぶ孔雀』が夢の無時間を書くならば、『不燃性について』で新規に出現するのは周期である。他人の時間と言い換えてもいい。路面電車、ロープウェー、噴水といった道具立ては、いずれも周期的に動くものだ。質の異なる物事の連続では時間の感覚は生まれてこない。であれば、『飛ぶ孔雀』の冒頭でまさしく「路面電車」がそう使われたように、同じ周期に従うもの、あるいは自分以外の刻む時間を前にすればどうなるのか。「あんたね、子どもみたいな若い女の子をずっと連れ回しているようだけど、いったいどういうことなのかね。いい歳をした年寄りが、ああいやだいやだ。ずっと身の毛もよだつ思いでいたんだよ」(p.236)と突如として糾弾される場面はその典型だと思うが、そんな持って回った言い方をしなくても、具体的な物語の次元で、ひたすら作中の人物は他人に翻弄されている。たとえば、路面電車の女運転士の描写である。

 その場におけるものごとの動きというものはどうやらこの女運転士の身辺に集中する傾向があるらしいのだった。その傾向はどう見ても顕著であると言わざるを得ず、そしてさらに言うならば、一切の動きを引き連れて彼女が通過していったあとには反動としての沈滞が残るらしい。(p.118)

 まるで「ものごとの動き」を吸着するように動いている女運転士は、裏返せば周囲の「一切の動き」を束縛している。物語を通して主人公のひとりKが翻弄され続けるのはこの女運転士に他ならないし、あるいはQは結婚相手の女に、トワダに、劇団員の予言に、団長の妻に自分の時間を乱され続ける。『不燃性について』というこの中編において、主人公格の男たちはいつも誰かにかき乱されていて、自分の動きたいように動けない。「沈滞」と言い換えてもいい。それは悪夢に似ている。悪夢には、自分が覚めたいときに覚められる行動の自由も、時間の自由も認められていない。『飛ぶ孔雀』がわずかに恋愛の成就の無時間について書かれるならば、『不燃性について』では崩壊した恋愛の、いつ終わるとも知れぬだらだらとした苦痛が描かれている。本書は夢のリアリティを突き詰めた小説ではあるが、その無時間の射程が、恋愛の始まりと終わりにまで広がっているその一点において、この小説は単なる夢のスケッチを超えた佳品たり得ていると思う。