喜ばしい唐突 保坂和志『こことよそ』について

 

 2018年に発刊した『私的文藝年鑑』から、保坂和志『こことよそ』(川端康成文学賞)の感想を公開します。2018年もっとも面白く読んだ小説のひとつであり、回想の意味もこめています。

ハレルヤ

ハレルヤ

 

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 喜びと可能性をめぐる小説である。文体は幻惑的で、意図して読めないようにしているんじゃないかと邪推したくなるほど、雑多なエピソードが明滅している。しかし、ただ圧倒されるだけでは、なんとなく良かった、しか言えない。それで良いのかもしれないが、私は気にくわない。

 小説は谷崎潤一郎全集の月報に『細雪』に関する思い出を書こうとする場面から始まる。「私」がその小説を読んだのは白浜での「九月の最後の一週間」で、「バブルの真っ最中というか上昇期」の、現在の若者にはとても「真似ができない」「明るさ」を象徴する時間だった。ところが白浜のその記憶はあまりに個人的過ぎて「谷崎潤一郎と何も関係がない」ので、実際には『異端者の思い出』について書いたのだった。『異端者の思い出』は谷崎が「学生のうちにデビュー」するまでの時間を描いた小説で、「私」はそこに小説家になりたいが今はなっていない、という「重く晴々しないところ」を重ね合わせて読んでいた。もっとも『異端者の思い出』とは「私」の読みでは「耽美主義」の小説で、「耽美主義というのは観念つまり形而上学だからこの小説にはいわゆる時間は流れない」のであって、「時間の法則の外にある」作品なのである。
 私がその小説を過去に読んだのは「大学五年目」の年末年始、「やっぱり外に出るのに初詣の人だかりの華やぎが去った夜の通りを選ぶような心境」だった。六十歳の私は鎌倉の商店街を歩きながら、二十歳の自分が同じ道を逆方向に歩いていたことを思い出す。「自分には何があるのかといつも考えては何もない」と感じていた自分を、「先の見通しがまったくなかった自分をリアルに思い返すことができる」のに「私」は「喜び」を抱く。
 これが第一の喜びである。六十歳の私が、二十代の自分を今まさに生き直しているかのようにありありと回想出来る、そのなんともいえない恍惚とした空気が、この「喜び」にはまずある。第二の喜びは、鎌倉の商店街を歩いた二週間前、「映画の仲間が死んだそのお別れ会」にて「思いがけず」訪れた歓喜である。その仲間である「尾崎」の死因は書かれないが、ともかく私は「尾崎にまつわる多くもない記憶を繰り返し引っ張り出してはそれに耽」る。会場に向かう小田急のなかで「私はこれから尾崎と会うような気持ちになってウキウキ」してくる。私が暴走族役として参加し、尾崎が初めて映画の世界に入ることになった思い出深いフィルムが放映されたとき、歓喜は始まる。

 映画の主演格はそろっていない、尾崎もいないが映画が映し出される私は喜びがピークに達した、目の前で自分の二十三、四のあの時間が再現されているような気分になった、尾崎が映ってなくてもこれが尾崎のあのときであり私のあのときだ。映画はかつて暴走族のリーダーでいまは伝説となっている内藤をめぐる殺伐とした内容だが、音のない映像だけを見ていると若くツルンツルンの肌でまだ幼いようなピンクの唇でしゃべる表情は、夢やあこがれを語っているようだ!(新潮六月号、p.147)

 それは「後づけの言葉」で私は出席者と騒ぎ、結局翌朝の七時八時まで飲み歩いていただけなのだが、ともかくそのとき「渋谷駅は意味もなく祝福されている」ように見えたのには違いなかった。しかもその「尾崎のお別れの会で味わった幸福感」はどうも「じゅうぶんに自覚できていない」らしい、と私は「喜びの絶頂に達する」夢を解釈して考える。それはなぜなのか、という問いが残る(これを書いている私の中に)。この、幸福感の不可思議な物足りなさ、もっと幸福であるべき感情がなぜか自覚できていないという躓きの感触が、小説の後半への転調になる。

 重要なのは、私にとって尾崎よりも「ずっと身近でつき合いがひんぱんだった知り合いが二人死んだ」にもかかわらず、「私は尾崎のことだけを思っていた」ことである。もし仮にそうした事態を「小説的に膨らませ」るのならば、本来であれば前者が書かれるべきである。ただ、そうではない、というテーゼがある。ずっと身近な知人が二人死んだにもかかわらず、別の知人の記憶が浮き上がってくる、というその「小説的」とかけ離れた仕組みこそが、小説とは別の、人間の在り方じゃないかという。あるいは「きょりと道のりは違う」(p.151)という作中の台詞に従えば、ずっと身近であったからこそその記憶がより心中に色濃く浮かび上がってくる、という発想は距離の視法なのだろう。あるいは死者の記憶が泡のようにいくつも湧き上がってくる、というのも現実的ではない。記憶は機械のように整然とはしていない。もっとずっと、唐突らしい。

 私は高校の三年間ほとんど毎日、鎌倉駅のホームの一番うしろの端で待ち合わせて横須賀線に乗って二番目の大船で降り、そこから十五分歩いて学校に行った友達が五年前に死に、その死を知ったときも思い出すことはあまりなく、というかいろいろ思い出すが思い出すことが全部、私は鎌倉駅のホームの一番うしろで待ち合わせていたことに収斂した、その友達が死ぬまでは鎌倉駅のその場面を思い出していたわけではなかった、死んだのを知ってからそればかりになった。(p.149)

 いろいろと思い出す過程はある。ところがそこで結実するのはある一場面の記憶でしかない、しかも日々強く意識しているわけでもなく、唐突に、ほとんど偶然のような成り行きで、どこか一か所の記憶が定着してくる。それが『こことよそ』の記憶の生理だけれども、たしかに私も自殺した先輩のことを考えるとき、必ず場面はオレンジのジャージを着て、居酒屋で『ジェーン・エア』について話している姿ばかり思い浮かんで、そこから別の道はあまり進んでいかない。他にあるとすれば、別の先輩が文学フリマで頒布予定だったある冊子が発刊中止になったとき、その人が「呪われてるねえ」とぽつりと呟いたことぐらいだ。
 あるいは、九鬼周蔵の「偶然と驚き」からの抜き書きを読む。

 「「与えられた一つのものだけが必然であるという風に考えるのは、むしろ抽象的、部分的平面的な考え方であり」、「多数の可能性を背景に置いて、与えられた一つは、多くの可能性の中の一つとして偶然的であると見るほうが、具体的な、全体的な、立体的な見方」である」
 (……)与えられた一つのものだけが必然なのではない、出来事は多くの可能性の一つとして偶然である、出来事は全体の一部、立体の一部なのだ。このときすでに私は谷崎潤一郎全集の月報の文章は書き上げていた、そこで尾崎のことは掠めるようにしかふれられなかった。(p.153)

 あらゆる出来事は、後から見れば必然のように錯覚するかもしれないが、前から見ればあくまでひとつの可能性に過ぎない。だからもし大学五年目の私が鎌倉の商店街を歩いていて、未来の自分に「将来の作品のリスト」を見せられたとしても、「私はそのリストを破り捨てたってかまわなかった、自分の人生だからというのではな」くて、「それはまだ自分の人生ではなかった」からである。
 私は、谷崎全集の月報のエッセイは尾崎のことを書かなければ「その月報のエッセイが形にならない、文章がどこも何も指し示さない」と感じる。だからといって尾崎のことを書けばいいというのではない、尾崎は谷崎潤一郎とは何の関係もないのだから。
 尾崎をめぐる挿話と谷崎の『異端者の悲しみ』に通底するのは、「着実に積み上げて成果が得られることより大きなものが唐突にくること」の「リアル」である。
 何故それが来るのか、正確な「距離」を計測することは出来ないが、ともかく「よそ」から「大きなもの」はやってくる。その手触りは、積み重ねられた記憶、並び行く死者の列のなかで、唐突にひとりが先頭へ弾き出され、唐突にひとつの個所が記憶のほとんどすべてになる、そういう「リアル」である。そうして読み返したこの小説の文体は、とにかく唐突なのだ。意識の流れとかそういう手法の問題ではなくて、よそから大きなものが唐突にくる、ということのリアルさを身体=言葉で書くとき、このような歩き方=文体しかなかった。文体と主題が緊密に結びついているという意味で、この短編はウェルメイドな佳品である。
 この唐突な小説を最後に結ぶのが、ジャン・ジュネだ。ジュネの「すべての出発点は見ることだ、話はいつも視覚ではじまる、その見るときジュネは官能性にしか関心がない」という。ジュネの目線は限定的である。「与えられた一つは、多くの可能性の中の一つとして偶然的であると見るほうが、具体的な、全体的な、立体的な見方」というのに対して、彼の視法は「官能性」のみを削り出す。『シャティーラの四時間』からこんな文章が引かれる。「この女たちはもう希望することを止めた陽気さだった。……もう希望することを止めた陽気さ、最も深い絶望のゆえに、それは最高の喜びにあふれていた」。ジュネの視覚が官能に彩られるのは、それ以上の可能性を探ることを「止めた陽気さ」が前提であり、それゆえの「最高の喜び」が滲んでいる。そこでもう終わりと宣言すること、希望することを止めることは、「陽気」を伴った「喜び」を宿している。
 可能性の終わりを目視すること。小説のなかには書かれていないけれども、たぶんそれこそが、私が尾崎の葬儀で感じ得た幸福感なのである。ところがそこに影がある。それはなぜか、というのが前半部の問いであったけれども、私はどこか「希望すること」を止めずにはいられない。
 死んでいても死んでいる気がしない。理屈=距離ではなくて、実感=道のりの感触がある。 

 二十歳やそこらで、まして十代で永遠なんてことを思うだろうか、(……)十代の少年たちにとって死は切断じゃない、継続だ、永遠と無縁のひたすらの継続、(……)いまこうして他に選びようもなくなった人生とまったく別の、あの時点で人生は可能性の放射のように開け、死はその可能性を閉じさせられない…………私はあの時点の感触に何度書き直しても届かないからもう何度も何度もこのページを書き直してきた(……)(p.154)

 「重く晴々しない」大学五年生の自分が、鎌倉の商店街を歩きながら抱いていたこの可能性の実感、希望することを止めた喜びとは正反対の、「生きる熱意や生きることへの強い憧れ」故の苦さが、この道のりの場面には集積されている。そんな遠い時間の感触は、どれだけ正確な固有名詞を持ち出そうが、何度書き直そうが、届かない。
 その諦念が、読んでみれば思いのほか懐かしく甘い。もはやそこに届かないと終わりを実感することが甘美であって、だから追想とは甘美なのだろう。