海岸の遠近法 木村紅美『イギリス海岸』について

 

イギリス海岸―イーハトーヴ短篇集 (ダ・ヴィンチブックス)

イギリス海岸―イーハトーヴ短篇集 (ダ・ヴィンチブックス)

 

  木村紅美において、海は別れの場所だ。たとえば『風化する女』で、語り手は海を望む夢の砂丘と、北海道の埠頭とで二度れい子さんと別れる。『海行き』は大学時代の友人と別れる話だし、『島の夜』でトシミさんから告白を断られるのも夜の海だ。だから、『イギリス海岸』というこの本は、題名からして、すでに別れの短編集である。表題作がいちばん面白いかというと難しいが、それでもやはり、この題名を書名に選ぶべきなのだろう。
 二種類の離別がある。第一は死者や失踪者のような、どうあがいても永遠に会いようがない相手との別れだ。第二は会おうと決めればいつでも会えるし、再会の約束さえ結ぶけれども、もう二度と出会わないことを互いに確信する別れだ。前者は離別だが、後者は疎遠である。死のような離別と、インターネットが発達した時代の疎遠では、本来その重さは異なる。『イギリス海岸』においても、出会いと別れにはしばしばインターネットが付き纏ってくる。けれど木村紅美は、たとえば『海行き』がそうであるように、いつでも言葉や音声で繋がり合えるはずの相手との疎遠が、絶対的な離別としか思えない瞬間を書いている。このとき、再会の約束は、むしろ離別を意味している。
 たとえば『ソフトクリーム日和』の、「いつのまにか音信の途絶えていったさまざまな友だち」との別れだ。

 あたしは、高校を卒業するとすぐに上京して、二十歳過ぎまでアルバイトで生計を立てつつ、売れないロックバンドなどやっていた。
 ひろみちゃんは卒業後は、地元で一年浪人したあと、東京にある女子大学に合格し、
〈私も上京することになったよ。〉
 とハガキで知らせてくれたのを、おぼえている。
 そのころのあたしは、住所不定、数週間おきに、彼氏をはじめとする音楽仲間の家を転々とする生活を送っており、居場所は、双子の姉の翠以外、だれにも教えていなかった。
 翠は、あたしには無断で、上京したことをひろみちゃんに教えた。そして実家あてに送られてきたハガキを、アパートまで転送してくれたのだ。
〈東京で遊べるのを楽しみにしてるよ~!!〉
 ひろみちゃんの新しい住まいは吉祥寺で、あたしの暮らす高円寺とは、電車で十分ほどしかはなれていなかったけれど、あたしはなぜだが、彼女とあらためて連絡を取る気にはなれなくて、返事は出さなかった。
(『イギリス海岸』一〇〇頁) 

 盛岡に帰郷した「あたし」は、恋人を連れていった小岩井農場で、ソフトクリームを売る「ひろみちゃん」と再会する。

 どう考えても、農場でソフトクリームなんて売っているのは、アルバイトにすぎないだろうから、
(定職には、ついてない、っていうワケか)
 また、心のなかで、つぶやいた。
「あ、あたしはね、もう、ずっと東京に」
 居つづけていて、などと説明しかけて、列が詰まっているのに気づき、
「今夜、よかったら、ウチに電話してッ」
 そう叫ぶと、アツシのもとへソフトクリームを持ち帰った。
(一〇八頁) 

 『ソフトクリーム日和』では、ハガキ、電話、メールといった通信手段の差異が明確に書き分けられている。「あたし」は恋人からのメールをひっきりなしに気にするが、咄嗟にひろみちゃんに呼びかける連絡手段は実家への「電話」である。ハガキは無視できても、電話には会話を強制する力がある。

 ベッドに寝そべり携帯電話のメールを打っていると、家の電話の子機を持って、翠が部屋に入ってきた。
「お友だちから電話だよ。高校のときいっしょだった武田さん」
「エッ」
 まさか、ほんとうに、ひろみちゃんが家に電話をかけてくるとは、あまり思っていなかったので、びっくりした。
(一一二頁) 

 「電話して」とは第一に社交辞令だし、第二はあたしが未だに「はかなげな雰囲気をただよわせた美少女だった」高校時代のひろみちゃんを引きずっている証でもある。ひろみちゃんは東京での銀行員生活に疲れ、肥え太っている。なし崩しに、嫌っていた家業を継ぐつもりらしい。

 よくよく、話をしているうちに、ひろみちゃんの働いていた銀行と、あたしの働きつづけている会社とは、二駅ちがいで、通勤路もかぶっていたことがわかった。
 もしかしたら、同じ電車で、あるいは、乗り換えする駅のホームや街の雑踏のなかで、知らないあいだに、すれちがったことがあるのかもしれなかった。
 だけど東京では気づかない。
 あまりに人が多すぎ、気づくわけがない。
(一一八頁) 

 たぶん携帯電話越しの距離は、「知らないあいだに」「すれちが」うぐらいの近さにありながら、「気づかない」世界なのだ。それは、たとえば幽霊に似ている。木村紅美の幽霊は、いつも「すれちがう」ほどの距離にいながら、だれにも「気づかれない」世界を彷徨っている(『風化する女』のれい子さんが、職場の誰からも関心を集めていなかったように)。掌の電子機器からほんの数語を書き送れば再び繋がり合うけれど、その数語が億劫だという「疎遠」は、別れに近い。相手を幽霊にする視線といってもいい。薄情といえばそうかもしれない。自分のその薄情さを覆い隠すように、会う気もしない約束を取り結び、言い訳のようにアドレスを交換し合うのは、現実的な別れ方ではある。だからこそ、そうして別れた相手から、距離を潰す「電話」が来たとき、人は「あたし」のように、「なぜだか」「暗く」なるのではないか。幽霊に触れられるような不気味さを、感じてしまうのではないか。
 『ソフトクリーム日和』は簡単な約束で終わる。短い文章だが、絶対的な別れの響きがある。

 ふいに、ひろみちゃんは、これから街なかで帰省中のあたしを見かけたとしても、気づかないふりをするんじゃないか、という予感がした。
 あたしは、どうするかわからない。ひょっとしたら……。
(……)
 次に会うのは、いったい、いつなのか、わからないけれど、
「今度は、ほんとにおいしいソフトクリーム、食べに行こうね」
 約束して、あたしたちは別れた。
(一二四頁)

 近いようで遠い幽霊が一方の極ならば、遠いはずのものを異様に近く感じてしまう瞬間が、『イギリス海岸』のもう一極である。携帯電話越しにいつでも会えるはずの他人が、幽霊のように果てしなく遠い存在になることもあれば、初めて目にした風景が、故郷のように感じることもある。
 その奇妙な瞬間がもっとも鮮やかに書かれたのが、書き下ろしの『クリスマスの音楽会』だ。
 話の筋はあっけない。『イギリス海岸』で恋人の前から突然失踪した清彦は、「野垂れ死にしたい」という衝動に突き動かされ、ヨーロッパを彷徨っている。アイルランドで出会った「ヨーコさん」という日本人の旅行客の言葉を頼りに、浄土ヶ浜を訪れる、それだけの話だ。ヨーコさんは、「服装が若々しく、ガール、というふうにも見え」るし、「両目の下のクマの濃さと頬のやつれ具合からして、オールドミスらしくも」見える。
 「ダブリンからゴールウェイまで来る途中の景色」が、故郷の岩手、花岡と重なり合ったという。

 バスに揺られているあいだ、ずっと時差ボケの影響でウトウトしていて、ふと目がさめ、窓の外を見ると、いつでも淡い緑の丘が広がっているのを、
(まるでふるさとに帰ってきたみたいだ)
 なんて、感じつづけていたのだという。
「成田から飛行機を乗り継いで、十四時間もかけてたどり着いた国だったていうのに。……とてもそんなに遠く離れた場所なんだって気がしなくて。ふしぎね。……なにせ、ボケているせいで、私はとんでもない回り道をして岩手に帰ってきただけなんじゃないか、とも思ったりして」
(一六五頁) 

 彼女と関係の進展があるわけでもない。そこから観光地までの道を共にしただけで、翌朝起きたときには、もう別の場所へ旅立ってしまっている。置手紙もなければ、住所や電話番号の交換もなかった。教えてもらったはずの漢字の表記も、すっかり忘れてしまった。だから、ヨーコさんと再会することは、きっともうない。それでも、「彼女は、ヨーコさん、としておれの記憶のなかに存在している」(一七一頁)。ただ旅先で出会っただけの同郷人なのに、その記憶は、いつまでも色濃く残り続けている。もしかすると、無言で置き捨てた『イギリス海岸』の恋人よりも。

 そこは、たしかに、浄土ヶ浜、と名づけられるだけあって、この世ではないような、しかし、
「世界の果てっぽいの」
 とヨーコさんが言っていたのも納得がいくような景色だった。
(……)
 突然、だれかの手のひらから、水面に灰が撒かれている光景が、脳裏に浮かんだ。その灰とは、おれなのだった。
 初めてやって来たこの場所を、おれはひとめで、たぶん、とても深く愛した。
(一八一頁)

 たぶん短編としての勘所はここなのだろう。海を前に、その彼方の彼岸に思いを巡らせる構図は、『風化する女』の結末に似ている。
 でもこれは『風化する女』の先に書かれた小説だ。だから本当に大事なのは、その次に続く場面だ。

 やがて、遊歩道の向こうから、ひと組のカップルが歩いてくるのに気づいた。
 濃い緑色をした上等そうなコートのうえから、さらに、ミルク色のショールをふんわりと巻いた女は、ヒールのないブーツを履いており、となりの夫らしい男にしきりといたわられながら歩いてくる。
「こんにちは」
 すれちがいざま、男のほうからあいさつしてきて、
「……こんにちは」
 ぶっきらぼうに返すと、女も、
「こんにちは」
 つぶやくように言い、一瞬、口もとをほころぼさせておれを見て、またうつむき、二人は歩き去っていった。
(……)
 緑のコートの女は、むかしおれがつきあっていた恋人と瓜二つの顔立ちをしていたのだけれど、そういえば彼女は、
「私には、ソックリの双子の姉がいるのよ」
 と、いつも話していたことを思い出したのだ。
 しかも、姉のほうは、岩手に住みつづけているのだと。
 おれは、そちらとは会ったことがない。
 もしかしたら、いますれちがったのは、双子の姉のほうだったのかもしれないし、あるいは、世のなかには、同じ顔をした人間は三人いる、なんていうから、双子外の、もうあと一人なのかもしれない、とも思った。
 ――どちらにしろ、おれにとっては、見知らぬ他人だ。
(一八三頁) 

 おれにとっては「見知らぬ他人」だが、それでも「恋人」の残影がふいに心に滲むぐらいには、その「ひと組のカップル」は心を突き刺していった。この「濃い緑色をした上等そうなコート」の女が、恋人の双子の姉はわからないけれど、「見知らぬ他人」であることには変わりない。「双子」という関係は、まったく異なる二人を、同じ人物のように感じさせてしまう。姉と妹は、アイルランドと岩手の田舎ぐらいは違うはずだ。
 似た偶然は、『イギリス海岸』でも繰り返されている。『イギリス海岸』の梢が、自分を捨てた清彦を忘れられないのは、「ふだんは、タクシーの運転手をやっているというおじさん」が修学旅行で彼に教えてくれたという、ある挿話の記憶からだ。

 「夏の夜にはね、天の川がきれいに川の水に映るんだってさ。ちょうど、イギリス海岸、と名づけられた辺りに立つと、空に広がっている天の川と、水に映った天の川が、地平線のところでつながって見える……川のほとりをずっと、ユラユラ揺れる星明りをながめながら歩いて行けるんだってさ」
(……)あたしはその川に映って揺れる星の話をキヨヒコから聞くのが好きで、何度、お願いしくり返し聞かせてもらったか、わからない。
(五十一頁) 

 彼女がその記憶から解かれるのは、「イギリス海岸」への旅で出会った「タクシー運転手のおじさん」を、清彦が出会った「おじさん」と同一人物ではないかと思い始めた瞬間からである。天の川が映るのも、「川の流れ自体、賢治が生きていたころとは、かなり位置が変わってしま」ってもうない、と聞かされたとき、初めて梢は、「記憶のなかのキヨヒコの影が、ようやく薄れはじめ、遠くなっていく」のを感じる。それが、本当に清彦の出会った「タクシー運転手」かどうかは分からない。海岸の「濃い緑色をした上等そうなコート」の女と同じぐらいには、きっと遠い誰かなのだろう。
 それでも、人が生きるうえで、何気ない遠くの他人が、異様な近しさをもって心のなかで迫ってくる瞬間はある。そして近いはずの誰かが、死者のように遠くなることもある。『イギリス海岸』という短編集を貫く主題は、人生のこの不思議な遠近にあると思う。