水生するさびしさ 木村紅美『花束』について

 

花束

花束

 

  作家のすべては処女作にあるという説があるけれど、発言者が誰にしろ言い過ぎで、たしかにデビュー作から最新作まで繋がる水脈は、作家読みをしていると頻繁に見出せはするけれども、書き生きるあいだで、もちろんそれ以外の水流も流れ込んでくる。最初は書き手もよく掴めずにいたものが、続く作品で鮮明な意味を見せることもある。そういう小説が、たぶんしばしば傑作になる。作家の、ひとつのシーズンの決算とも言い換えられる。
 『花束』はそういう小説だ。東京の大学受験予備校の、まもなく取り壊される女子寮が舞台だから、題名が最初に意味するのはその寮生の女子たちだろう。第二の意味は、気取りすぎだけれど、『風化する女』から『イギリス海岸』までの三冊のなかに書き綴られた花、小説における技法や、木村紅美という作家のこだわりが、そのまま集まった『花束』でもある。小説に限らず、あらゆる創作の発展は蒐集と統合の連続だ。ぶらつきながら歩いていく、目についたものをひたすら自分のなかに取り込んでいく作業が最初にあって、それから集めた花を束ねる統合の作業がある。
 もしこれから木村紅美を読む人がいれば、『風化する女』のあとには、ぜひ『花束』を読んでほしい。それから『島の夜』と『イギリス海岸』を読んで、『花束』で結ばれた花が、最初に自生していた裸のかたちを、確かめてほしい。
 小説は、こんな文章から始まる。

 高一の夏休み、東京から私の家へやって来た大学生の杉浦さんは、海に向かってタバコの煙を吐き出しては溜息まじりにくり返していた。
「ここはさびしいなあ」
 杉浦さんは恋人と別れたばかりで、傷心から立ち直るために出た旅の途中だった。
「きっと、日本一さびしい場所だよ」
(七頁) 

 木村紅美はさびしさの作家だ。選ばれないさびしさ、別れのさびしさを書いている。失恋と別れが『イギリス海岸』で主題として繰り返されるのは、それがさびしさにおいて通底するからだ。孤独とは、すこしずれる。選ばれないことには孤独が付き纏うが、もう二度と再会しない人間と別れたあとも、また人は誰かと結ばれ合う。そこには孤独はないけれど、さびしさはある。木村紅美が書くのは、人のあいだにあって、それでも強烈に感じずにはいられない寂寥感だ。『風化する女』は、存在はたしかに認知されているけれど、誰かに選ばれはしない「女」のさびしい「風化」を書いている。
 木村紅美の女たちはいつも失恋するか、利用されている。失恋はたしかにたびしさの極致だろう。けれど『花束』では、さびしさの主題は、微妙に色合いを変えて咲いている。北海道の故郷を離れ、東京に困惑する永原あおいのさびしさ、兄への思慕に囚われ続けている吉川咲のさびしさ、高校時代からの恋人と簡単に別れてしまえる貴島礼奈のさびしさ、きっとどこかで好きだったのかもしれない同性に突然去られた松本多英のさびしさ、誰かと誰かが交わったかと思えば、かつての関係などなかったように振舞えてしまうさびしさ、これだけ濃厚な感情が集い重なる空間が、ひっそりと取り壊されていくであろうさびしさ。さびしさは、異性にも、同性にも、時間にも、場所にも根を伸ばしている。
 さびしさを種子に物語と関係性が花開いていく構図は、『イギリス海岸』の響きを受け継いでいる。正統な進化形でもある。
 人はいつかはさびしさに訓練され、順応していく。『風化する女』のれい子さんだって、結局はローカルな歌手に弄ばれる自分を、おそらくは諦観半分に受け容れていたはずだ。あるいは、本作と同じく「東京」という文化の着こなしを主題にした『海行き』で、映画監督志望の男が夢を諦め、友人との別れを前にして、誰ひとり二度と出会わないであろうさびしさを口にしないように。『イギリス海岸』の梢が、清彦の記憶から一歩踏み出すように。
 『風化する女』以前に書かれた『島の夜』の小百合さんが、いつまでも異性との性交を夢見ているのとは対照的である。『花束』は、社会に運ばれる以前の少女たちが、さびしさと衝突する物語でもある。貴島礼奈は初恋の相手に、吉川咲は兄に、松本多英は同性への思慕をはじめて自覚した相手に、永原あおいは故郷に、それぞれさびしさを突き付けられる。小説の序盤を飾る永原あおいの空想は、さびしさの原風景でもある。

 絶壁に佇んでいると、たびたび、彼の仕草や声がよみがえり、気分がざわざわと落ち着かなくなっている。すると私はきまって崖っぷちまで歩み出て、腹ばいになる。前髪を潮風で巻きあげられながら、はるか下に広がる海をのぞきこみ、目をつぶって『The Sugiura Selection』を聴く。
 そうして、魚たちに肉や内臓を食い荒らされ、白骨と化した死体が、だれにも見つからないまま海の底に静かに積み重なっている光景を空想していると、ふしぎと、少しずつ、落ち着いてくるのだった。
(十頁) 

 木村紅美の小説世界において、海はいつも別れの場所だ。だから、という接続詞が正確かはわからない。ただ「絶壁」は、東京に消えていった杉浦さんとの別れを自覚せずにはいられない土地ではある。別れは、『風化する女』や『海行き』や『イギリス海岸』のいくつかの短編がそうであったように、心にその人の像を刻み込む。「彼の仕草や声」は、その人を前にすればそれほど幻惑的に巻き上がってくることではない(それは、続く『吉川咲 夏』の、あまりにもあっけない「杉浦さん」の描写を読めばわかる)。「絶壁」の縁にまで「歩み出」て、「白骨と化した死体」になる自分を想像することが、「ふしぎと」「落ち着」きを与えてくれる。なぜ落ち着くのか、小説内には明白な記載はない。ただ、本来目にすることのできない自分の「死体」を空想し、「だれにも見つから」ずに「海の底」に沈むとき、孤独はむしろ救いになる。別れの孤独は気持ちを乱すけれど、個別の誰かではなく地上との別れであれば、もはやそれに心を乱されることもない。『風化する女』のれい子さんも、きっとそう生きようとしていた。
 けれどそんな完全な別れはあり得ない。どれだけ幽霊になりたくても、生者は地上を生きるしかない。だから、「海の底」は「空想」でしかない。
 『吉川咲 夏』の冒頭は、美大志望の咲が「小五のとき、初めて県のコンクールで最優秀賞をもらった水彩画」の話から始まる。「大きなコップにシュワシュワと満たされたハチミツ色の液体のなかに、街がひとつ閉じこめられている」という画材は、死別した兄の「街ぜんたいがね、大きな、大きなコップに入ったシトロンプレッセの底に沈んでいるみたいなんだ」というパリの描写に由来している。檸檬水を意味するフランス語は、兄のバンドの名称でもあり、そして別れの海の名でもある。「祭りの灯りのとぎれた先にあるのは、冥界だ」という五十六頁の何気ない文章は、木村紅美において「崖っぷち」の先に何があるのかを、そっと呟いている。『風化する女』の岸壁、『クリスマスの音楽会』の浜辺の先には、冥界が続いていたはずだ。

 ネグリジェに着がえて電気を消し、ドアを閉めるとき、もういちど、隙間から、女の子たちの笑いさざめく声が、無数の花びらみたいにこぼれてきて追いかけてくるような錯覚に、一瞬、陥った。じっと耳を澄ますと、洗面室やトイレや、廊下の隅々からも聞こえてくる気がする。
(一九七頁) 

 エピローグは素晴らしい。寮生たちの消えた建物のなかで、声と花が結ばれる。「……い、い、いらないよォォォッ」(二十四頁)や「やだ、アレ、始まっちゃってるゥ。どーしよォー」「キャッキャッキャッキャッ」(三十二頁)といった、それまでの木村紅美の小説と比較してバタ臭い語調も、生の「声」として録音されたものだと分かる。乱れた声の記憶を、端正に整えることなく、そのまま束ねることが、この小説においては正しいのだろう。
 多英たちから贈られた花束がポプリとして保存されるように、記憶もまた管理人夫人のなかで「大切にしまって」「何回でも思い出して」いられるものだろう。寮は破壊されても、その記憶は生き続けている。小説は「海の底」から始まり、「湯船」で終わる。上京前の水原あおいが、二度と出会えないかもしれない、けれど名前も言葉も強烈に残った相手の残像から「海の底」へ運ばれるのと、管理人夫人が浅い「湯船」で、少なからず名の記憶を失った「何百人もの女の子たちの喋り声」を思い出すのは、正確な対比だ。小説は、永原あおいがいくつもの別れを積み重ねて、やがては「湯船」にたどり着く未来を予感させる。別れへの順応と、その記憶を慈しめる身のこなしを、あるいは加齢と呼べるのかもしれない。
 ただし、幸福な結末の前後には、夫からのやんわりとした性交の拒絶がある。

「でも、たまには一緒にゆったりと入ってみない?」
 上目遣いをしてみると、夫は夫人ではなく花束のほうを向いて苺ミルクを食べ始めている。夫人は内心、溜息をついてまたうつむき、すでにいい具合につぶれた苺を、スプーンを握る指にいっそう力をこめ、押しつぶした。うす赤い果汁が飛び散る。
「一回ぐらい、ここで」
 急に喉が渇いて、二人きりだし、とはつづけられなかった。
「……いや、おれはやっぱりシャワーで充分だ」
 そっけなく首を横に振り、夫はさっさと苺ミルクを食べ終わると、厨房へ入り後片づけを始めた。夫人はつぶしすぎた苺にハチミツを回しかけ牛乳を注ぐと、肩をすくめ花束に向かって小さく笑いかけて、なるべくのんびりと食べた。
(一九一頁)

 夫は性交の意志にもちろん気付いているし、だからこそ拒絶のさびしさがある。それを、「肩をすくめ」て受け流すのは、長年の夫婦生活で培われた順応の動作なのだろう。この微笑の意味は難しい。二十二歳で結婚し、「いっぺんも子供を産」まず、「夫以外の男は知らない」ままに、月経を終えた五十歳の女が、花束のような少女たちに何を思うのか。たぶんそれは、貴島礼奈が水原あおいのクッキーの無作法な食べ方に、「ひらりとつま」む模範を示す場面の、「彼女は学習しなくちゃならない」(一〇五頁)という心の動きとは、きっと違うはずだ。学習し、習慣と化してしまった動作で和らげようとしたさびしさが、未だ社会に出る前の女たちのように予想外に深く染み透ってしまう自分の心を振り返ったときに、ふと洩れた微笑だろうと思う。