昏さへのテレスコープ 木村紅美『島の夜』について

 

島の夜

島の夜

 

 人が人を想う感情の昏さ、不気味さについて書かれた小説である。
 小説は、母と折り合いの悪い「私」こと「波子」が、離婚した父の経営する「沖縄の離島のひとつ」の「民宿」を訪れ、帰るまでの短い日々を描いている。父と再会するのは十八年間ぶり。離婚の原因は浮気で、ホステスの仕事で酔うたびに、母は決まって彼の悪口をわめきたてる。

 母の父にたいする悪口はいつも同じだった。彼の女好きと放浪好きがいかにひどかったかを、自分がいかにそれで傷つけられたかを、声が嗄れるまで語りつづけるのだった。いつも、一方的に、被害者みたいな顔をして。
 (……)
 父をののしっているときの母の顔は、みにくくて、大きらいだった。
 しかし母がいつも最低と言う、その最低の男を母はたしかに好きになって、私が生まれたわけなのだ。いつからか、私はそれがふしぎでしかたなくなった。
 どうして母は、いまとなってはののしってばかりいる父のことを、好きになったのだろう。好きだったはずなのに、なぜいまとなっては、ののしってばかりいるのだろう、と。
(十一頁~十二頁)

 小説は、「好きになった」という情愛の根源を、見極めようとする地点から始まる。愛情が増悪に転換する不思議に触れて、後から思い返せば完全な間違いとしか思えないような恋愛がなぜ生まれるのか、その昏さ、烈しさを覗こうとする物語として、小説は動き出す。最初から結論が出ている小説でもある。恋愛は昏い。底知れぬ、「夜」の感情として見定められている。それが早々に明かされるのが、次の場面だ。

「みんな、ちょっとだけ静かにして」
 父が言うと、みんな静まり返った。すると濃い青い闇のなかで、聴こえてくるのは、打ち寄せる波の音だけになった。私は一瞬、大勢でならんで仰向けになっていることを、忘れてしまった。星空と海だけの世界に、独りぼっちで、放り出されたような気分になった。
(……)
「むかしはこの浜辺に、若い男女があつまって、三線を弾いたり、うたったりしながら、夜ふけまで遊んだんだ。そうしてみんな、何度か恋したなかで、結婚の相手を決めて、代々、子孫ができていったんだよ。いまではすたれてしまった風習だけどね」
「ロマンチックですね」
 トシミさんのとなりに寝ている、今夜私と相部屋になる彼女は、父の言葉に溜息をついた。私はなぜか身ぶるいがした。
 ござから起き上がると、みんなで波打ち際まで歩いた。夜の海はすてきだけど、こわい。
 まっ暗すぎて、気をゆるめると呑み込まれてしまいそうだ。足をひたすと、つめたい。
(八頁~十一頁)

 「島の夜」すなわち「恋」の時間は、確かに「ロマンチック」かもしれないが、同時に「こわ」く、「つめた」く、「身ぶるい」するような昏さを秘めている。相手に盲目的に恋するとき、人が恍惚感と同時に味わうのは、何もない夜の空間に、「独りぼっちで、放り出されたような気分」のはずだ。それは、振り向いてくれるとは限らない相手に、一方的に感情を振り向けている、半ば虚しさに似た孤独である。どれだけ勝手であろうが、それは不平等、不公平の感覚に似ている。私がこんなに恋に苦しんでいるのに、あなたはどうして同じぐらい苦しんでくれないのか。他人の感情は、根源的にはわからない。他人より自分の激情のほうが近しく感じずはいられない以上、「一方的に、被害者みたいに」感じさせてしまう、不平等の感覚は必然である。
 結婚が失敗したから「被害」と化したのでもなく、恋愛そのものが「被害」なのだ。私が「ロマンチックですね」という言葉に身ぶるいを覚えるのは、母の言動から、「島の夜」=恋の時間の「昏さ」を聞き知っているからである。恋は昏く、相手の存在と不在、承諾と否認とにかかわらず、孤独である。結論が出ている以上、小説が集中するのは、その昏さの注視である。恋愛の孤独がもっとも際立つのは、片想いのときだ。
 だから、『島の夜』という小説において反復して描かれるのは、片想いの物語である。たとえば民宿に宿泊している小百合さんが、その主役のひとりである。描写は、『風化する女』のれい子さんを彷彿とさせる。

 一人だけ、やや年のいっている女の人がいた。痩せっぽちで、ショートカットとおかっぱのあいだみたいな髪型をして、どこか悲哀を感じさせる大きな目に、黒ぶちの眼鏡をかけている。おとなしそうな人だ。彼女はいちばん最後に、おずおずと荷台に乗りこんだ。私は今夜は彼女と相部屋になる予定で、うまく話がはずむかどうか、どきどきしている。
(七頁)

 突然死したれい子さんが、ハワイへの社内旅行で「わたし」と同室になる予定だったのを思い出さずにはいられない。小百合さんは「東京のアパート」に住む独身で、教育系の出版社で「営業事務」をやっている。家族と疎遠だったれい子さんに対して、小百合さんは「今年の正月に帰省したとき、お母さんがガンになっていることがわかり、お父さんは数年前からアルツハイマーにかかって要介護度4の身だから、二人の面倒をみる」ため、旅のあとは秋田に帰郷しなくてはならない。「落ち着いたら、また東京に出ていきたいなと思ってるけど」とは語るが、「小百合さんの年齢的にも、状況的にも、そんな遠くの実家に帰ったら、もう二度と東京に出てくるのは不可能なんじゃないだろうか」という私の予想は、おそらく正しいのだろう。
 「霊感が強い」と話し、窓辺に幽霊を目視して怯えるのは、たぶん彼女もれい子さんのように、幽霊の立つ岸に近付いているからだ。『風化する女』の、「砂丘」に相当する地帯である。れい子さんが霊子になったのは「生きていたころから死んでいるみたい」に周囲に扱われていたからだが、自由な東京から、すべて息苦しい秋田へ引き戻され閉じ込められる小百合さんもまた、「死」に近付きつつある。
 人はたとえ肉体が生きていても、その存在の自由を認められなければ死んでいるのに等しい。そういう美学が、れい子さんと小百合さんという、ふたりの「幽霊」には宿っている。
 もっとも、小百合さんはまだれい子さんのように死んではいない。だから、「テレビの旅の情報番組に紹介されていた」「私の父に会うために」ひとりでT島に渡ってくることが出来た。

「波ちゃんの年ならまだしも、三十八歳で、いちども経験のない女なんて、これから先、どんな男の人も相手にしてくれるわけがないじゃない。だれだって気味わるがるでしょ」
「そんなの、隠しておけばすむことじゃないですか。経験あるふりをしておけば」
「意識の問題なのよ。私が、意識しすぎているのがいけないの。だから……とりあえず、だれとでもいいから、私はいちど、経験してみたいのね」
 言いにくそうに、声をひそめて、小百合さんは言った。浮かびかけていた涙は引っこみ、こんどは、両手を後ろで組んで、うつむいてしまった。水の中で、私はまた身ぶるいがした。
「だれとでもいいって、たとえば、だれとですか」
(九十六頁)

 このあと「だれとでもいい」といいながら、「できれば、洋介さんと」と羞恥心を交えて答える場面は、見事であると同時にぎょっとする描写で、『風化する女』のれい子さんの洗濯機から、赤と黒のレースのブラジャーとパンツを発見した下りを思い出す。
 「島の空気は、生きてる人の世界のすぐそばに、死んじゃった人の世界があって、その二つが溶けあってる感じがする」(四十七頁)のだという。これは、T島という「島」に限らず、『風化する女』から今作まで、木村紅美の世界を貫く原理だ。生者の世界と死者の世界が隣り合い、溶け合う世界においては、生者はときに容易に死者の世界へ滑り落ちていく。生きながら死んでいるという事態が、まず社会的にあり得るのだから。れい子さんの痕跡を追って、彼女が消えていった彼岸まで旅したのが、『風化する女』の主人公だった。『島の夜』においては、同性の恋人に置き去りにされたトシミさんが、その旅人の役割を担っている。
 「もう関係も終わりかと思いかけていた去年の秋、またいつものように彼の帰りを待ちつづけていたら、死んでしまったらしいというのを、風のうわさで聞」(八十二頁)く。「風のうわさ」の出所は作中で明らかではないし、「ほんとうは、死んでいないような気もする」(八十五頁)。それでも、「でもたぶん死んだと思う」し、「万が一、生きていたとしても、アタシのまえに姿をあらわしてくれないんじゃあ、アタシにとっては、死んでしまったのと同じ」だという。宿帳の名前や、喫茶店のノートの恋人の記載まで切り取って、気が住むまで集めたら、遺骨代わりに燃やして、それでおしまいにするのだと。
 恋愛はともかく、恋情そのものは、こちらを振り向かない幽霊を追い求めるように、一方的だ。相手の肉体を手に触れ、肌の温度を共有して「溶けあってる感じ」を味わうことが先に待っていたとしても、必ず「孤独」の体感が訪れる。恋をすることは、途方もなく昏い恋情のなかで、孤独に立ちすくむようなものだ。『島の夜』という恋愛小説は、そのことを明瞭に物語り続けている。たとえば、こんな風に。

 「居場所っていうのは、けっきょく、外側じゃなくて、心の内側にしか存在しないものなんじゃないかな。究極の居場所は、なんなのかっていうと、きざな言い方をしちゃうと、孤独なのよ」
 さらりとトシミさんは言いきって、私は一瞬、鳥肌が立った。おととい、浜辺で仰向けになったときに味わった、星空と海のあいだに、一人でぽんと放り出されたような感覚がよみがえった。
 その考え方は、すごくさびしくてこわい感じがした。
(五十四頁)

 ただし小説が最後に描くのは、幽霊や振り向かない相手を想い続ける昏さ、さみしさではない。むしろ、孤独、というような「きざな言い方」を粉々にするような、性交の生々しさである。

 二人とも汗みどろで、動物のような声を出し合っているのだ。日ごろ、私がよくふくらませては打ち消す、男の子と恋をする妄想の場面には、汗なんて出てこないのに。
 なんとなく、組んずほぐれつしている彼らの顔を父と母に置き換えてみたら、たちまち、胃のなかのものがこみあげてくるようで、しゃがみこんだ。
 必死で頭をふり、浮かんできた光景を打ち消した。
 初めて、目のあたりにしたからだろうか。男と女が、まさしく、欲望を全開にさせつつ、激しくからみ合っている姿は、グロテスク、としか思えない。
 理解はかんたんに出来るけれど、私が生まれてきたのは、こんなグロテスクな行いの結果なのだ、ということを、実感するのは、とてもむずかしい。
(一五三~一五四頁)

 『風化する女』の幕切れは見事だ。それと比較してしまえば、本作のクロージングはどうしても不格好には見えてしまう。トシミさんへの告白をさらりと済ませる場面は素晴らしいけれど、もちろん私と母の問題は解決しないし、離島旅行だけで踏ん切りをつけられるものでもない。恋情を「まったく、莫迦らしいけれど、そんなふうに、あやふやで、うつろいやすいからこそ、とうとい感情」と頭で設定できても、そこに付帯する「生々し」(一五六頁)く「グロテスク」な面を否認することは出来ない。

 そっと肩に廻される彼の腕の体温を感じ取りながら、私は、自分はほんとうに、目のまえの景ちゃんたちみたいに、トシミさんと、なりたいのか、と考えたら、どうも、ちがうような気もしてきた。わからない。
 ちがうのなら、私の彼にたいする気持ちは、恋ではない、ということになるのだろうか。それもわからない。
 ――あやふやだ。
(一五四頁)

 夜に呑み込まれるように、すべては「あやふや」に溶けていく。

 私はこれからどういう人を好きになるんだろうか、なんてわかるわけがない。近い将来、ほんとうに、さっき見た光景の雪ちゃんみたいに、だれかに脚をやわらかく押し広げられたり、トシミさんの教えてくれたテクニックを試して喜ばせてあげられるように、なるんだろうか。いまはまだ信じられない。
 オカマにふられてしまったばかりの私には、いつか自分にそのような事態が降りかかりそうな予感など、いまはまったく掴めない。
 わかるのは、たしかなのは、いま、月と星は島を見おろしながらかがやきつづけている、ということだ。
(一五八頁)

 つまり「月と星は島を見おろしながらかがやきつづけている」以外のことはわからない。おそらく小説は、その技術力を以てすれば『風化する女』のようなすっきりした終わり方が出来たはずだ。ただ、意識したか否かにかかわらず、小説はそんな「わかる」結末を選び取りはしなかった。「わからない」と言い残しただけの不器用な結末が、けれど個人的には、すごく好きだ。そして「夜」の昏さに「あやふや」に溶かすしかなかった問題は、おそらくは『島の夜』以降の小説で問い直されるのだろう。