難読性について 山尾悠子『夢の棲む街』について

 

夢の棲む街 (ハヤカワ文庫JA)

夢の棲む街 (ハヤカワ文庫JA)

 

  山尾悠子を読んで驚かされるのは、私たちの世界がいかに山尾悠子的な「幻想」に埋め尽くされたかである。私は山尾を読んだ経験がないので、この既視感は筋違いなのだが、破綻した旅を取り扱っているからカフカっぽいとか、女が妖怪じみて怖いから泉鏡花っぽいとか、無限を題材にしているからボルヘスっぽいとか、そういう既視感ではない。もっと馴染み深いものの記憶である。具体的には、私が十代のころ座敷に寝そべってプレイしていたPS2GCの世界を彷彿とさせてくる。たとえば本書に収録された『遠近法』の「基底と頂上の存在しない円筒型の」「中央部は空洞になっており、空洞を囲む内壁には無数の輪状の回廊があり」「すべて古びて表面の摩滅した濃灰色の石組みで構築されている」塔はFF12の大灯台を思い出させたし、『シメールの領地』の湖に船が閉じ込められようとしている描写など、先の用意されていない海域にプレイヤーの船が進もうとした瞬間にそっくりだ。あるいは『遠近法』の破綻した旅の描写も、『ゼルダの伝説風のタクト』で船が地図最北端の海に進もうとした瞬間ぐるりと最南端へ飛ばされたときを思い出させて、不思議な懐かしさを覚えてしまう。
 だから山尾悠子はもう古いとか、逆に山尾悠子は現在のポピュラーなファンタジーの形態を先取りしていたとか、そういう話をしたいのではない。あるいは『夢の棲む街』や『ファンタジア領』の第一篇を取り上げて、緻密で堅牢な言葉の秩序を築き得る書き手だからこそ、言葉を超えたもの(たとえばその小説世界の破局)を待ち望むのは不思議なことではないとか、そんな無難な話にも興味が持てない。気になるのは、これだけ慣れ親みやすい「ファンタジー」のイメージが羅列され、文章の論理関係も意識して明晰に整えられ、物語も人間関係も単純に抑えられ、偏執的な描写の過剰も回避している山尾悠子の小説が、しかし何故か特異に読みづらいことである。
 山尾悠子の難読性はどこから来て、何を意味するのか。
 もっとも読むのに難儀したのは『ムーンゲイト』だ。たとえば、主人公の男女が住んでいた都から脱出した直後の描写である。
 何でもないこの移動の場面を乗り越えられずに、私は三度読み直す羽目になった。今書き写すだけでも、頭のなかを引っかかれるような苦しさがある。

 川幅が狭まってくるにつれて、両岸の景色は徐々に険しい深山の様相を見せはじめていた。最後の分岐点を過ぎて、月の門へ通じる狭い峡谷へ分け入ったころから、両岸は、切りたった断崖になった。ゆるく蛇行する深い流れをさかのぼるに従って断崖はほとんど垂直に近くなり、光の射しこまない谷底からはるかな高みを見あげると、空は、黒々とした岩壁にはさまれた、細いひと筋の白い帯としか見えなかった。
(『山尾悠子作品集成』九十六頁)

 第一の段落に仕込まれているのは、視線の過剰な方向転換だ。文体は眼の酷使を要求している。第二文は「最後の分岐点を過ぎて、月の門へ通じる狭い峡谷へ分け入った」というから、地図を頼りにしているか、あるいは上から船を見下ろしているその直後に、「両岸」とカメラが船上の視点に寄る。第三文の「ゆるく蛇行する深い流れ」も難所で、ゆるく蛇行するのは辺りを見回す水平方向の目の動きだが、「深い流れ」は水底を覗こうとする垂直下向きの目線である(これは第一文の「川幅が狭まってくる」から「険しい深山」となった「両岸」に、すなわち水平方向・垂直方向に素早くカメラが転換される動作とパラレルだ)。それがいきなり「断崖はほとんど垂直に」と垂直上向きへ百八十度反転し、「光の射しこまない谷底」と再び真上から舟を見下ろす視線に転じたあと(私なら「射しこまない」ではなく「射してこない」だろう)「はるかな高みを」川面から見上げ、両側の「黒々とした岩壁」を視界に入れつつ、ようやく「細いひと筋の白い帯」に辿り着く。散々に眼と頭を振り回されたあとの、「黒」と「白」あるいは「はるかな」と「細い」の強烈なコントラストが、目眩を引き起こす。何気ない文章だが、ここには山尾特有の目眩を引き起こす仕掛けがある。幻惑の文体である。

 昼の間、幽谷の重い静寂を破るものは、流れを漕ぎのぼる船の櫓の音しかない。時おり、鋭い鳴き声を残して、黒い山塊の狭間を白い鳥が翔けのぼる。一瞬後、白い軌跡を追って、矢尻に結んだ麻糸が宙をよぎる。高空の白い点を縫いとめると同時に、伸びきった麻糸は急激にゆるみ、やがてうねうねと落下して、水面に叩きつけられた。
(同頁)

 「重い静寂」につまずいてしまう。第一段落はカメラの方向転換を繰り返すことで、否応なく語の凝視を要求しているが、ここでは感覚の素早い切り替えを要求している。「静寂」は聴覚だが「重い」は皮膚感覚だ。その切り替えの早さにもかかわらず、本作の旅は常にのろのろとしていて、感覚の食い違いが生まれてくる。文章に立ち返れば、「昼」の光(視覚)→「重い」(皮膚の重力感覚)→「静寂」(聴覚)→流れを漕ぎのぼる(櫂の感触、重力感覚)→「櫓の音」(聴覚)と交互に皮膚感覚と聴覚とが呼び覚まされる(第一段落でカメラの垂直/水平方向が交互に転換させられたように)。山尾の小説の登場人物たちは概して世界の理解不能な規則に苛まれているが、山尾の文体もまた異常なまでに厳密で、しかも一見すると馬鹿馬鹿しいが、読み手に異常な拘束力を持つ規則に束縛されている。
 「山塊」から続く「白い鳥」はそれなりの大きさを視界に残すが、「矢尻に結んだ麻糸」に文体のピントが絞られるとき、「高空の白い点」にまで縮小され、直後に矢に結わえた糸の輪郭がくっきり見えるまでに拡大される。ここで眩惑を起こしているのは、『遠近法』の切り替えである。

 夜になると、小さな入り江を見つけて船を漕ぎ入れ、ふたりは狭い岩場に火をたいて野営した。
 黒々と屹立する絶壁の根かたに残された焚火は、深い峡谷を埋めつくした暗闇の膨大な容積に比べて、あまりにも小さく心もとなかった。
(同頁)

 第三の眩惑は無の描写である。山尾が「深い峡谷を埋めつくした暗闇の膨大な容積」と書くとき、私たちはその暗闇、空無を物質のように受け止めなくてはならない。『ムーンゲイト』に関わらず本書の収録作に共通する描写だが、ともかく山尾の文体=眼は空無を空無として通り過ぎることを許さない。それすら厳密に、執拗に言葉として記録する。それが本書の規則である。自分が書くなら確実に省く。その資格もないが、まず「膨大な容積」を肌身に感じさせることが出来ない。山尾には出来る。読み手の視点の方向と遠近、あるいは感覚受容器を高速に切り替えさせる山尾の文体は、端的に、全てを読め、と要求している。あるいは山尾が自分の小説を書きながら読むとき、そこには過剰なまでの感覚の励起があるはずだ。自分の書いている言葉だけでなく、頁の空白にまで眼が焼き付くような、異様な視覚の活用がある。
 印字された言葉=実在物だけでなく、空白=頁の無までをひとつの言葉として読む=書くのは、詩の読み方=書き方だろうと思う。記憶が定かでないけれど、十年ほど前に世界詩人全集のアポリネールだかシュペルヴィエルだかの巻に(私は詩の造詣は皆無なのできっと人物違いだろうが)渦巻状に字が配列されている一篇があって、困った記憶がある。だからというわけではないが、激しく感覚を揺さぶり、世界の空無にまで凝視を要求する山尾の文体は、端的に私の手に余る。難読性とは何か、と大仰な問の身振りをしておきながら、私の感覚器が弱い、ではあまりにチンケだけど。
 
 『ムーンゲイト』の十一行で私が『夢の棲む街』について書きたいことの大半は終わっている。空無が切迫するリアリティを有するのと並行に、言葉にしてしまえば他愛ない「無限」もまた、山尾の小説世界においては強烈な実在感を有している。読んでいて吸い込まれるような感覚は私の勝手な錯覚に過ぎなくとも、抽象的な語彙として、あるいは無や無限を言葉遊びとして弄ぶような作家と、山尾が対極の位置にいるのは間違いない。無や無限がただの知的遊戯でないから、難儀なのだ。無限に向けて旅立つ人々は、たとえば『遠近法』や『シメールの領地』の旅団のように、自死を選ぶほど差し迫った挫折を味わわなくてはならない。
 確信はないが、この二作の苦渋に満ちた旅程は、おそらく山尾が小説を書く労苦と重なっている気がする。
 私はまだ山尾のインタビューやエッセイを読んでいないし、経歴も人物像もまったく知らないのだが、山尾が神話に取材するとき、そこには必然性があると思う。たとえば『遠近法』にはウロボロスというあまりに有り触れたモチーフが呼び込まれているけれど、それは山尾の過剰なまでに研ぎ澄まされた感覚を、正しく鈍化させるものとしてあるはずだ。怪談風の『月蝕』や、寓話じみた『堕天使』は、物語の外枠が先にあって、次に小説の内側が埋め込まれた印象を受ける。『ファンタジア領』第三篇「星男」の夢と現実が交互に入れ替わり、やがて境界線がわからなくなる構成もお馴染みのものだし、『月蝕』の京都の描写は私小説的な馴染み深さがあり、読んでいて落ち着く。私は『月食』がいちばん好きだが、しかし学生時代を過ごした土地など、思えばもっとも安易で生ぬるい舞台ではないか。第四編「邂逅」の「意味なんてものは、どこにもありゃしない」「でももちろん、そんなことはどうだってかまやしないんだ」(二百三十二頁)といった警句めいた台詞や、あるいは『夢の棲む街』で「脚本家」が死した後に「あらゆる言葉を飛び越えて美し」い踊りが立ち現れるさまに私が感じるのは、見慣れたものへの安心感でしかない。
 そのような安全なものを土台に据えねば『夢の棲む街』の収録作は小説たり得なかった。そしてその水脈においてこそ、確かに幻想作家でなければ山尾は小説家たり得なかったのだ、と書き継げば邪推としてもさすがに残忍過ぎる。けれど山尾の難読性 dyslexia がその異様な感覚の励起から必然的に起き得るなら、その幻想のやむを得ない安全さは他ならぬ山尾の難書性 dysgraphia に対応しているはずだと、読み終えた今は思う。

山尾悠子作品集成

山尾悠子作品集成