遠い自分の空葬 上田岳弘『ニムロッド』について

 

第160回芥川賞受賞 ニムロッド

第160回芥川賞受賞 ニムロッド

 

 帯が内容を語り尽している。「ドライで軽妙な展開の底につねに虚無への想像力が働く」という阿部公彦のコメントから「ドライ」「軽妙」「虚無」の三語を、さらに田中和生の言葉から「抒情性」を抜き出して、さらに作家志望の男と堕胎経験のある女、という登場人物の内実を知らされたら、ある程度年齢のいった人なら大体のトーンや話の方向性は想像がつきそうなものだ。「僕たちは、個であることをやめ、全能になって世界に溶ける」という引用句と堕胎を重ね合わせれば、ああ、全てが計算された完全な未来に、たとえば先天性疾患が判明した胎児の堕胎が失敗として対置されるのだろう、というところまで予想は進んでしまう。マニアックな固有名詞は極力避けられ、誰もがアクセス可能なwikipediaの記事が頻繁に引かれる。「軽妙」で「虚無」に満ちた時代に生きる、ノイローゼ気味の男と女は、最終的には問題の解決策を見出すことなく失踪するしかない。そのような使い古された強固な形式こそ、ビットコインという新奇な題材の語りには必要だった。上田岳弘がこれまで繰り返してきた、過剰の果てに破局に至る寓話、もしくは与太話は、本作では作家志望の世に出ない作中作という、ひっそりした形式で語られていて、そこに客観的な距離を見出すことも可能なのだろう。作家本人の最高到達点からは少し力の抜けた、良い意味で芥川賞らしい、穏健で、ウェルメイドな小説である、と要約出来るかもしれない。
 ただ、こんなことは読めば明らかな話だ。小説は全般に感傷的だが、次に引くニムロッドの言葉は、挫折した作家志望者の発想として生々しい。

 これから書くものは賞に応募しない。誰かに読ませようと思って書かない。名古屋で会ったとき、ニムロッドはそう言っていた。一つの小説が世の中に存在するためだけに行われる、シンプルな行為。今はそういうことにしか興味を持てない心境なのだ、と。その文章が評価を受けて「芸術としての価値」を纏うことも、誰かを感動させて「読者の魂を救う」ことも、そうした可能性は予め捨て去られている。ただそこにごろりと文章がある。
(七五頁)

 これは創作の気鬱である。「そんな衝動を持っているのは、きっと僕だけじゃない。それは、誰もが心の奥底に抱えている根源的な衝動に違いない。そんな衝動がきっと空っぽな世界を支えているんだ。僕よりずっと才能のある芸術家だって、それが空っぽだと知っていて、だからこそ、そのことを表現せざるを得なかった。表現するだけの気力が尽きてしまったら、あとは死ぬしかなくなるものな。未熟なロックスターが二十七歳で自殺するように。たくさんの傑作をものした老境の作家が自ら死を選ぶように」(一三一頁)という語りを踏まえれば、(語弊は大いにあるだろうが)「芸術家」として小説家を見る態度だと思う。けれど、こんな考えを本気で信じていれば、小説を書くなんてちんまりした作業は出来ない。だから、と接続するのは残酷だけれど、作家を挫折したニムロッドの寓話はたいして面白いファンタジーでもないし、「個であることをやめ、全能になって世界に溶ける」ことへの不安は、鬱病のニムロッドが、先取りしたところで仕方ない未来に不安を抱くこと自体にはリアリティがあるけれども、読んで新鮮な印象はない。
 この小説が面白いのは、題名に反して、興味深い登場人物が「ニムロッド」でないことだ。『ニムロッド』でもっとも目を惹く登場人物は、小説に失敗したニムロッドでなければ、出産に失敗する田久保紀子でもない。それは、一見すれば観察者でしかない「ぼく」である。

 もっと日常的なこと、例えば職場でのストレスや、これまでの異性関係、家族のこと、そういったものを話すことの方が現実に即して、真実味があって、ニュースで起こっている動きは自分には関与しようのない、興味をもってその渦中にいるかのように話すのは、薄ら寒いこと。終わらない日常に耐えるのが、現代人として正しい生き方であり、態度である。それがなんとなくコンセンサスだったような気がするが、それがそうでもなくなってきたように感じる。そういった大きなものの渦中に確かに僕たちはダイレクトに含まれていて、当事者として語らなければならないような気がしてきている。二○一一年の東日本大震災以降だろうか、いやもっと大きな流れ、インターネットの発展とかもあるだろうか、こんな風に今考えてることを、ワードかなんかで文字にして、Ctrl+C&Ctrl+Vでインターネットのどこかに貼り付ければこの思考すらすぐに、世界中で共有が可能になる。僕の思考なんて誰も興味ないかもしれないけど、わずかな現象が静かに連鎖していって、大きな変調を起こすことだってあるかもしれない。僕の思考を見た人が、かすかな影響を受けて書いたものに影響を受けて書いたものを見てその人が――つまりは、バタフライ効果
 片手で操作するiPhone8にYahoo! のトップニュースが表示されている。世界の不幸は誰かのせいではなくて、わずかなりとも確かに僕のせいなのだ。別のニュースではイスラム国で少女が売られていると伝えてくる。

(九〇頁) 

 小説はあたかも「終わらない日常」を書いているように見える。少なくとも、世界を「空っぽ」(一三一頁)と言い切るニムロッドや、「正直言って何のために稼いでいるのか、全然わかんない。なんだか自分の人生じゃないみたい」(一〇一頁)と語る田久保紀子は、そのような「虚無」を生きているし、とりわけ田久保紀子の堕胎をめぐる問題は、言ってしまえば「現実に即し」「真実味が」ある「家族のこと」の範疇を出てこない。「大きなものの渦中」とは、「今考えてること」なのだから、現在の「大きなものの渦中」にある体感である。「予想されうる未来は今と同じか、あるいはそれ以上に人間を縛る」(一三二頁)というニムロッドの寓話は、2018年でなくて、1988年にも書けたイメージだろう。「ダイレクト」に自分が巻き込まれたものの体感について語ることと、「予想されうる未来」の不安を語ることは、似ているようで、実際には大きな隔たりがある。ニムロッドは常に自分の創作の問題に苛まれているし、田久保紀子もそうだ。結局のところ、「日常的なこと」を「現実に即して」「真実味」をもって語るということは、「終わらない日常」の「虚無」を細々と綴り続ける羽目になるのかもしれない(これは、たぶん昔から繰り返されてきた問題で、むしろフィクションより私小説作家においてその状況の打破が目指されたのではないか)。小説が書けないという事態、とりわけその不安に焦点を当てた小説で、私は成功作を知らない。不安は停滞する。不安になる対象から目が離せず、そこから一歩も動けないという状況の固着が、不安だろう。だからニムロッドの訴えも寓話も、常に同じ地点に停滞しているようで、物語を前向きに進める推進力にはなっていない。物語と描写はもちろん違う。ニムロッドや田久保紀子の「虚無」は、あくまで描写の対象に留まる。
 小説を前進させるのは、もっぱら「ぼく」のビットコイン採掘だ。「Ctrl+C&Ctrl+Vでインターネットのどこかに貼り付ければこの思考すらすぐに、世界中で共有が可能になる」「僕の思考なんて誰も興味ないかもしれないけど、わずかな現象が静かに連鎖していって、大きな変調を起こすことだってあるかもしれない」というぼくの発想は、「金庫」に文章を閉じ込めるほかないニムロッドとは真逆である。
 『ニムロッド』は不思議な転位を来した小説だ。これは妄想の域を出ないけれども、小説の最初の構図は、ニムロッドと田久保紀子という、失敗した男女を双極の立場に置こうとしていたのではないか。けれど、小説が最終的に至るのは、二〇一八年以降を生きるぼくと、「終わらない日常」を生きるニムロッドと田久保紀子とが、分裂する地点だ。もちろんニムロッドの寓話の最初の離陸点は、naverまとめという、無記名のインターネットのテキストだ。ニムロッドは、そこから聖書へ逆行する。ぼくが選ぶのはwikipediaだ。「なんでもWikipediaで調べるのが癖になっているのがよくないのかもしれない。どのみちそこにたいていのことは書いてあるんだから、わざわざ僕の脳内に残しておく必要はないだろうと思ってしまう。27クラブのことも、サリンジャーの作品や人間性も、Wikipediaにしっかり書かれてあって、誰かが覚えてくれている」(七七頁)とある通り、ぼくは三十八歳という年齢にもかかわらず(これは作者が一九七九年生まれなのと無関係ではないはずだ)非現実的なほど物知らずな人間で、「カート・コベイン」や「NIRVANA」の名前も、「涅槃」の意味も知らない(十九頁)。でもそんなぼくでも、「Wikipediaの関連情報」を読めば、「航空特攻兵器 桜花」の「発案者」の顛末を知り、それについて感想を語ることが出来る。小説として書くことが出来る、とも言い換えられる。
 『ニムロッド』という小説は「ぼく」の一人称の語りだが、これは「ぼく」がニムロッドと田久保紀子という、「終わらない日常」を生きた二人が去った後に新たに書き始めた小説である、ともいえる。ついに小説家たり得なかったニムロッドの意思が、naverまとめという無記名のテキストから離陸する精神と共に、「ぼく」に継承される物語でもある。技法的には、小説はwikipediaやLINEといった、今現在の私たちの日常には本来ごくありふれているものを、抵抗なく書き切ったところに達成がある。wikipediaのような無記名のテキストから、平然と小説が離陸してもいい、という模範としても読める。きっとニムロッドは、自分の小説にwikipediaやLINEは持ち込めなかったはずだ。継承は、同時に葬送でもある。だから『ニムロッド』は、作家たり得なかった三十九歳の「ぼく」を、飛行機を媒体に、遠く葬り去る小説でもあるのだろう。