6.23 高橋弘希『日曜日の人々』読書会+創作合評会のお知らせ

「課題図書を読んだ後に書かれた小説」をテーマに、中短編の創作合評を開催します。
 課題図書を読んだあとに自分の小説を書いて、読み合って、自作の感想をもらいましょう、というコンセプトのイベントです。
 予定は6月23日(土)の昼から、場所は池袋を予定しています。
 課題図書は2017年の野間文芸新人賞受賞作、高橋弘希『日曜日の人々』(講談社・1400円)です。

日曜日の人々

日曜日の人々

 

 
 参加表明の締切は5月20日(日)です。novelgathering4096@gmail.comに、御連絡ください。それ以降参加したくなった等々のお問い合わせについても、まずはこちらによろしくお願いします。
 ご連絡いただいたメールアドレスに、freemlメーリングリストを用いて連絡します。書いていただいた小説や、課題図書・他作への感想についても、メーリングリストアップローダーに提出します。
 
 参加者については、事前に
①5/27(日)までに課題図書の感想
②6/17(日)までに中・短編小説(下限10枚~上限100枚、それ以上は要相談)
③6/22(金)までに他作への感想
 を提出していただきます。他作への感想については、特に枚数下限はありません。
 提出作品数が多い場合は、感想を書いていただく作品を割り振ります。
 
 提出作品については、枚数上限を100枚、下限10枚とします。
 作品の条件は、「課題図書を読んだ後に書かれたもの」「完成された小説」の二点です。したがって、その小説から得られた何がしかを込めて書かれた小説、たとえばその小説の技法・文体・設定を転用したもの、たとえばその小説の二次創作が該当しますが、「後」でさえあれば、どのような小説でも構いません。
 また、「課題図書を読んで書き直した小説」も可とします。前回と同内容の小説のリライトも含みます。継続的にリライトして中編を完成させていきたい、という方の連続参加も問題ありません。
 連作短編の一部でも、「完成された小説」であれば構いません。
 別ジャンルの二次創作、未完の小説についてはお控えください。
 枚数上限を大幅に超えそうな場合も、novelgathering4096@gmail.comまでご相談ください。

 第一回目松浦理英子『最愛の子ども』を課題図書としています。その際の私の短編を作品例として掲載しますので、気になるようでしたらご参照ください。やや文芸寄りのサンプルですが、ミステリ、エンタメの作品もお待ちしております(前回もミステリの作品を提出していただいた方がいます)。

 合評会は、端的に、感想の言い合いです。
 この小説と課題図書はどう違うか、この小説で躓いている点を、課題図書であればどのように処理しているだろうかに着目することもあれば、課題図書を離れて話し合うこともあるでしょう。
 
 書いた作品をどう使うかについては、当然書いた人間の自由です。どこかに投稿するなり、文フリ等の原稿の下地にするなり、連作短編として公募に出すなり、好きに使っていただければと思います。

 参加費については、レンタルスペースの場所代÷人数分を予定しています(概ね500~1000円以内に収まりそうです)。定員は現時点ではありませんが、募集人数が予想以上に多かった場合は抽選とします。
 スペースを借りる関係上、予定が付かなくなった場合は会の一週間前までにご連絡いただけると助かります。

 学生・社会人問わず大歓迎です。インターネットから参加者を募っていますので、仮名・筆名での参加でも問題ありません。
 私と2人、最低3人は出席予定です。よろしくお願いします。

『十年の金色』(松浦理英子『最愛の子ども』読書合評会提出作)

『十年の金色』

 

 彼女が死んだことを聞かされたのは、六月の終わりだった。私たちは、まあ、そうかなあ、というぐらいの平易な気持ちでそれを受け止め、葬式の日を手帳に書き込んだ。言わずもがな、死んでから何を思い返しても遅いので、私たちは斎場で互いに再会したところで、雪野瑞枝の思い出話をしようとはしなかった。
 ただ、雪野と在学中に交際していて、卒業後もわざわざ東京の大学まで追いかけていって同棲した春川葉子のことは気にして、あの子居た? と互いにひそひそ声で話し合ったが、あれだけ雪野に入れ込んでいた、というより単純に付き合っていたにもかかわらず、彼女は会場に姿を見せることはなかった。
 自分たちの上司と同じぐらいの年齢でしかない、まだ中年の看護師の母が、瑞穂の棺の隣で番人のように厳めしい顔つきをして立っていた。私たちは、春川と雪野が交際していることを知るや否や、怒りを持ち出す対象も見つからず、なぜか職員室に猛抗議に来たことを覚えていたから、たぶん彼女が、ゆめゆめ葬儀には来るな、と釘を刺したに違いない、と話し合っていた。それどころか、働き出してすぐに見つかった、質の悪い乳癌で入院していた婦人科の病室についても、きっと彼女は入室を許さなかっただろう。働き出してからも彼女は母親からひっきりなしに電話を受けていて、うちの甘えん坊にも困ったもんだよ、とあの雲のように掴みどころのない声で私たちに愚痴っていた。彼女の喉を通せば、どんなに卑小でみっともない話も、古い絵本の挿話みたいに、現実離れして聞こえるのだった。
 正直に告白すると、たぶん私たちは、その声を独占している春川に嫉妬をしていたかもしれない。雪野は素晴らしい声をしていたけれど、人とあまり話すこともなく、ただ春川がそばにいたときや、教室で先生から意見を求められたときだけ、ゆるやかに言葉を発した。だから、私たちはみんな彼女を変わり者に思っていたし、真面目さがあまり余って、他人の嫌な仕事ばかり引き受けてしまう春川が彼女の世話を焼いていたのも、同じような面倒事の一環だと見なす振りをしていた。
 でも、たとえば図書室の隅、埃をかぶった世界文学全集の棚の前で、雪野が春川に微笑みながらなにかを囁くとき、ふたりで机をひっつけて、おそろしく近い距離で弁当を食べ合っているのを見たとき、体育の授業が終わったあとに、雪野がこしょこしょと肌着だけの春川をくすぐって遊んでいるとき、確かに羨望を覚えるのだった。あれは何だったんだろうね、と交差点の信号が青くなるのを待ちながら、私たちは死人そっちのけで話し合った。
 もしかすると、私たちも、春川みたいな意味で雪野が好きだったんだろうか?
 まさか。でも、確かにあの子、誰からも愛されていたもん、私たちのうちにも、確かに彼女を愛した人が居たのかもしれない。でも、あの時期の恋愛なんて、漫画みたいなもんじゃない? 誰も覚えていないだろうけど、私たち、あの二人がわかりやすく距離を詰めたり遠ざけたりするのを見るたび、勝手なロマンスを作り上げてそれに浸っていたんだよ、まるで食い物にするみたいに。
 本当にそうだろうか、と道玄坂を渋谷駅に向けて歩いていた私たちのひとりが、口を開く。
 私たちは、変わり映えのしない女子高生活に、まるで夢物語のような異質な恋愛が巻き起こったことを遠目で観察するような気持ちでいたに違いなかったけれど、本当は、彼女たちの編み上げる金色のロマンスのなかに、自分たちの存在が一滴でも入り混じることを望んでいたんじゃないだろうか。それがどういう気持ちかはわからないけれど、と彼女は秘密を約束するみたいにそっと声を潜めて、交差橋の下に目線を落としていた。夏への準備のように、湿度を少しずつ失った、からりとした風が吹いて、私たちは黙った。

 工場や港に接していないような、誰の航路でもないような海辺に寝転がって暮らしたい、と瑞枝があの夢見るような声で囁いて、そうね、私もついていこうかな、と春川が何でもないことのように答えた日のことを、私たちは甘い記憶として胸に残している。それから数年して、私たちの数人は東京を出て海に近い場所に暮らしたが、瑞枝が憧れるような、誰のものでもない海はあまりなかった。日本の海水浴場はどこもさびれていていいね、と私たちの一人が瑞枝に電話をしたとき、風と波音に混じってそんな言葉が聞こえてきた。
 まさか瑞枝、本当に海の傍で暮らしてるの? ふふふ、と彼女の突拍子のない行動に驚く私たちに、瑞枝が教室と同じように笑う。彼女の笑い方は控えめだけど、まるで私たちの憧れを最初から見抜いていますよ、とばかりに意地悪い響きがして、いつも秘密を暴かれたような気分になる。本当に海のそばじゃないけど、すぐ海に行けるところに居る、それが東京なんだといって、私たちのそれぞれは不思議な気持ちになる。
 東京って、そんなに海近いっけ? 江の島、鎌倉を海に数えるならね、とさらりと答える瑞枝の後ろで、聞いたことのある誰かの笑い声がする。誰かといるの? うん、友達と。でも、それが本当に春川なのかは、私たちに知る術はない。教室にいたときから、彼女は恋人、という名前を嫌がった。私と春川はとても仲のいい友達なんだよ、と当の相手を隣にして柔らかく発語するとき、思わず春川の唇の動きを見ずにはいられなかった。そうだね、私たちは、すごく仲のいい友達、といつもと変わらない硬い声で、彼女が答える。
 じゃあ、私たちと春川とは、どう違う友達なの? 彼女のあまりにゆったりとした、ほとんど鷹揚とした余裕に苛立ったひとりが、ついそう問いかけたことがある。何にも違わない、と瑞枝は音楽室の窓に背を預けながら答える。隣の吹奏楽部の部室で、誰かがフルートとクラリネットの二重奏の練習をしている。私は春川とは、すごく仲のいい友達だから、もしかするとあなたともそうなるかもしれない。彼女は弾けもしないピアノの蓋を開け、黒鍵と白鍵を気まぐれに押していく。すごく残酷、と侮辱されたように、私たちのひとりが答える。彼女は首をゆったりと傾げて、ううん、と溜息にもならないような、ゆるい息を吐く。

 瑞枝とのことを思い出すとき、私たちはいつも時間がぐちゃぐちゃになってしまう。こんなこともあった、あんなこともあった。印象には残るけれど些末な話ばかり、記憶の行列の先頭に出てきて、瑞枝と本当に何があったのか正しく思い出させてくれない。だから、私たちは瑞枝のことをちゃんとした物語として話すことは出来ないのだろう。だからこそ、私たちは瑞枝が死んでから、こうやって思い出を語り始めている。
 死んでから始まる言葉なんて手遅れだ。だとして、でも、私たちに他にどんな語り方があっただろう。
 私たちのうちで、春川と瑞枝のように親しい女友達と巡り合ったものはいない。あれだけ彼女たちの恋愛に興味を持った私たちなのに、それを自分で演じることには何の興味も湧かないのだった。男性同士ならともかく、女性同士は社会はまだ理解のあるほうだ(私たちは結局当事者ではないから、実際のところはわからないけれど)。時々私たちは、移動教室の時間に、女友達の敵を演じて笑い合うことがあった。A.男と付き合ったことがないなんて、もったいないよね。B.きっと一緒に居れば、男のことも好きになるんじゃないかなって。C.女性同士、子どもが居ないまま老いていくなんて寂しくない? D.一時の気の迷いでは?
 実際にそうした、一種の模範といっていいぐらい棘の突き出た言葉を聞いたことは、社会に出てからもない。私たちが化学ノートを小脇に挟みながら導き出した反論はこうだ。A.男と付き合ったことがないなんてもったいないですね。B.そうやって女のことが好きになったんですよ。C.子どもを産む苦労を想像したことがありますか? D.気の迷いで結婚をする男女だってたくさんいますよ。敵たちの顔は、時に私たちに嫌われていた禿げ頭の体育教師でもあったし、会話の合わない祖母たちでもあった。陰険レズ野郎、と私たちのうち看護師となった女は、病棟から病棟を回診で歩くときに、研修医の男たちが陰気な女医を罵って笑うのを聞いたこともある。本当にそんな単純な言葉がこの世にあるのか、と変に感心してしまったのだった。
 罵倒のための言葉は、品位はなくとも、目的がはっきりしているだけ、美しく響いてしまうことがある。
 春川は口が悪かった。というより、すべてを白か黒かで割り切るのだった。彼女は瑞枝の意見も、自分と合わなかったら、それはまったく間違い、と断言する。いい? それ、全部、おかしいから。あんた、間違ってるから、全部、何もかも。瑞枝は苦笑しながら、春川の手を自分のほうに寄せようと触れて、春川に振り払われる。東京の大学まで追いかけてくるなんて、まるで駆け落ちだよ、瑞枝が体育の着替え中に冗談めかして笑うと、春川は真顔で矢継ぎ早に否定を重ねていくのだった。私たちは目を伏せ、やり取りが聞こえないような振りを演じながら、耳の記憶に出来るだけその会話を残そうと努める。ねえ、ただの冗談だよ、そんなに怒らないで、だって春川は、たまたま私と近くの大学に行くだけなんだもんね。違う。おかしいよ、瑞枝、全部、間違ってる。いつもぼんやり反響するような瑞枝の口調に比べれば、春川の言葉は短剣だ。
 私たちの努力は無意味に終わる。化粧品や香水、若木の香りが入り混じる教室の中で、二人の言い争いは次第に声量を潜めていき、やがて私たちの誰にも聞き取れなくなる。ただ、きっと十数年後も同じように吹いているに違いない風だけが永遠に室内へ吹き込んできて、私たち、彼女たちの湿った肌を、撫でている。

 数学の入試問題のような、あらかじめ適切な答えが想定されているような問を教室移動や、友達の家で紅茶を飲み合うときに投げかけあうときは、私たちは決して瑞枝と春川の耳には入らないようにしていた。瑞枝なら、そんなこと本気で言う人いるかなあ、とやんわりと私たちを否定するだろうし、春川は、馬鹿、と切り捨てて終わりだろう。私たちはずっと後に、瑞枝から、そういう言葉はもう聞き慣れているんだよ、と携帯電話越しに告げられて、なんだか複雑な気持ちになったことがある。近場で見たから理解している、というひとつの傲慢を暴かれたような気がしたし、同時に、なにを偉ぶって、という反発も生まれた。
 そんな自分たちの感情を、驚きはしない。瑞枝は、理解を示す言葉も聞き慣れていたに違いない。

 女子高と言えど、瑞枝と春川の関係は広く受け入れられていたわけではない。教師たちはあからさまに関係から目を反らしていたし、気持ち悪い、と端的に厭う同級生たちも居た。たまたま同じクラスだった私たちがまだ好意的に受け止めていただけで、実際、瑞枝が春川に休み時間の教室でもたれかかるところなんかを目にすると、私たちは親の情事でも見るような気まずさを覚えずには居られなかった。
 何がだめだったんだろうね、と葬式帰りの私たちは、渋谷駅へと続く坂を下りながら話し合う。人が人を愛する動作なんか世の中に溢れているのに、どうして二人の繋がりは見ていてぞっとしたのだろう、と。趣味の悪い社会人と口づける同級生も、父母の妙にいやらしい距離の近しさも、あれぐらい怖くて魅惑的なものはなかった。瑞枝の手は桃のようなうっすらした産毛がわずかに生えていて、蝶の脚のように細やかに動いて春川をくすぐる。春川は不愉快そうに椅子に座ったまま黙っているが、肩や腕の線はわずかに震えている。そんな単なるからかいが、私たちにはどんな性愛の行為より卑猥に思えて、目を伏せたくなった。同性が同性を愛するとき、愛情と友愛が溶け合う瞬間へ、私たちは聖なるものにでも相対するときのように、本当は畏敬の気持ちを抱いていたのではないか。それを、砂糖菓子のようなロマンスでごまかしていただけなのではないか、と理屈っぽい私たちのひとりは言葉に出さず思う。
 果たして、高校時代の春川と瑞枝はセックスをしていただろうかと、雑居ビル八階の古臭い、くすんだ喫茶室で、ジャム付きの紅茶を飲みながら、私たちのひとりが切り出す。ううん、それはない、とバターの脂っこ過ぎるフィナンシェやカヌラをかじって、私たちは一斉に否定する。自分の手の表裏を眺めて、瑞枝の長細い、それでいて肉のやわらかに乗った手のことを思い出す。学校で禁止されていた香水でも使っていたのか、瑞枝の指先からは桜の香りがした。血色の良い、時に舌のように肉肉しい桃色になる指だった。
 中年の男女たちがばか騒ぎする喫茶店のなかで、私たちはその香りについて、物語を紡ぎ合う。
 春川と瑞枝は互いの家に遊びに行くことはなかった。瑞枝の母が職員室に怒鳴り込んで以来、互いの両親からは厳重に監視されていた。春川の父はフィールディングスを研究していた大学教員で、娘の性嗜好については比較的よく受容出来ていたものの、それでも相手の親がお怒りなのだから、という主張を崩すことはなかった。二人とも別々の予備校に通っていたから、放課後であっても、互いに共有できる時間というのは存外少なかった。なんとなく電話は好かなかった。私たちが知っているのは、二人が互いの全存在を常に感じ合おうとする関係は破綻する、と考察していたことだ。瑞枝の母に携帯電話を取り上げられる以前から、彼女は春川の電話番号を知らなかった。最初に切り出したのは春川で、お互いにずっと連絡していると疲れるから、と教室での話の最中に短く言い切って、そうだねえ、と瑞枝が柔らかく答えた。
 そうだそうだ、思い出したよ、と私たちのひとりが宝物でも見つけたように声を弾ませる。あれはねえ、誰かに大学生の彼氏が出来て、一日中通信で話し合うことを要求されてしんどいんだ、とちょっと自慢気に、でも芯から疲れ果てたような声音で打ち明けてきたときのことだ。高校大学と複数の男を渡り歩いて、最後には外資系の清潔なスポーツマン青年との結婚式を、ゴールデンウィークの中日に用意してきた彼女の悪口で盛り上がり、何人かがおかわりに頼んだ苺の紅茶が運ばれてきたところで、物語は再開する。
 たぶん、歌を書いた扇子かなにかに香を付けて、恋人に送って自分を思い出す頼りにしてほしい、という歌物語の一場面を古典の授業で取り上げた日から、瑞枝の手から濃い桜の香りがするようになった。数日をしてから、私たちは春川の手からもうっすらと同じ匂いがするのに気付いて密かに目を交わし合った。花の香りが似合う人間は貴重だ。授業中に二人の手を交互に見ながら、私たちは夢想する。あんた本当馬鹿、と嫌がる春川の両手に、瑞枝がぽとぽとと香水の滴を垂らし、その手を擦り合わせる。女友達だって互いにお揃いものを付けたりするじゃない、と葉桜並木の下で瑞枝が冗談のように言う。やだ、こんなの付けてたら、予備校で変に思われるよ。春川の抗議を無視して、瑞枝は早足で先に信号を渡ってしまう。手洗い場で入念に洗い流そうとするが、皮膚に染み付いた花の香りは簡単には取れない。なんだか良い香りするわね、とポテトサラダの芋を潰している最中の母親に問われた春川は、教室で馬鹿な同級生が香水をこぼして、生活指導の先生がやってくるわ、何人かの制服には直接かかって、教室中が砂糖漬けのさくらんぼみたいな香りで息が出来なくなりそうになる、といった嘘の話をでっちあげる。風呂場で膝を抱えながら、布団の中で身体を横に倒しながら、指と指の間に残る香りを、時々すうっと嗅いでみる。
 春川はきっと、こういう儀式を好まなかっただろう。彼女が何度も匂いを確認するのを承知で、わざと意地悪で振りかけたようなものだ。きつく叱られたのか、それとも飽きたのか、瑞枝の手からは元通りの石鹸の香りだけがするようになった。ただ、冷房のために着用を許された制服のカーディガンにだけは、夏の終わりまでずっと、あの砂糖漬けの芳香が染み付いていて、私たちの胸をどきりとさせた。
 瑞枝、入院中けっこう臭かったよね、とあくまで事実を告げる調子で私たちのひとりが思い出す。乳房を飛び出し、皮膚を内側から食い破った瑞枝の癌は、肉の膿み腐る臭いを個室に垂れ流していた。見舞いに行った私たちは、ごめんねえ、と全然申し訳なさそうな声で謝る瑞枝に、看護師に軟膏を塗ってもらうからという理由で追い出された。気の利いた見舞いの品も考えられず、とりあえず百貨店で適当に買った水羊羹や生ういろうの紙袋を手に持ちながら、私たちは醜く膨れ上がった瑞枝の乳房が、春川以外の女の手に優しく抱き止められる姿を想像して、妙に理不尽な怒りを覚えた。軟膏が染みるのか、扉越しに瑞枝の細い鳴き声が聞こえてきた。瑞枝本人に反して、品のある張り方をしていた乳房の片割れが、無神経な包帯できつく圧迫される姿を想像すると、まるで私たちのほうが、長年連れ添った恋人の浮気を目撃してしまったような気分だった。その頃はもう瑞枝が海辺の家に引っ越したとき、つまりは春川と別れた後だというのに。
 水饅頭なんてもらっても食べる体力がない、と瑞枝は甘ったるい笑顔で私たちに暗に命令した。そのとき陰気な婦人科病棟に来ていた私たちは互いに顔を見合わせ、ため息を付き、片方は瑞枝の背中を後ろから押して、もう片方は透明な水饅頭を口へ運ぶ役目を引き受けた。ふふふ、ふふふ、と瑞枝はくすぐられているみたいに柔らかく声を震わせる。軟膏の匂いは、教室で密かに嗅いだ、石鹸のようなあの体臭に似ていた。

 女同士の付き合いというのは、ただでさえ勝手な推測を生むものだったから、まして瑞枝と春川は様々な人に余計な妄想をかきたてた。二人は現実の教室に居るのに、まるで幽霊のような目撃報告があちこちから聞こえてきた。瑞枝と春川、昨日の日曜、水族館に一緒に居るところを見かけたよ。二人で白百合の花束を買っていたけど、あんなもの何に使うんだろう。二人とも、決して美形ではなくて、どちらかといえば輪郭の曖昧な、ぼやっとした顔なのも作用した。デート情報の噂が流れるたび、私たちは興奮して、本人たちが席を外した教室でその細かな動作や表情について、さも自分が見てきたかのように話し合った。稀に居合わせても、もの言いたげな春川はともかく、瑞枝は進んで訂正しようとはしなかった。さあ、もしかすると、いたかもね、といたずらっぽく、甘ったるく笑うだけだった。
 それどころか、後になって春川は困ったように私たちに打ち明けた、瑞枝はそういう噂が流れだすと、本当のことにしてみるのも楽しいかもしれない、といって春川を外出に誘い出した。本当に使い道のない黒薔薇の造花を探しに行ったり、鉱石屋で群青や緑の石を握り締めたり、イギリスの童話作家の伝記映画を映画館で一緒に見に行って、終わった後のロビーで互いにオレンジピールの香水を吹きかけ合ったり、積極的に嘘を本当にしたがるのだった。他人の期待には添ってあげなきゃ、と全然遠慮も気遣いもない声で春川に囁きかけるのが、ありありと聞こえてくる。
 そんな彼女を、春川は困りながらも、それなりに芯の部分で愛していたに違いない、と私たちは物語る。瑞枝と別れ、大学を出てからの春川の足跡について私たちが知るのは、ごくごくありふれた現実のプロフィールでしかない。三年後に、職場の素朴で誠実な、肩幅のがっちりした、たぶんラグビーをやっていた色黒の男と結婚し、一年以内に双子の姉妹を産む。義母との折り合いは良くも悪くもなく、それから三年間、育児休暇を取得している、と。これは私たちが直接対面したり電話で話を聞いたのではなくて、facebookで検索して発見した事実に過ぎない。
 私たちが高校時代に夢見ていた永遠の恋人の片割れは、今は東京都世田谷区池尻の、それなりに家庭の収入がなければ入れない八階建てのマンションに住み、子供の幼稚園を探すのに苦労して復職がなかなか進まず、地域の小児医療の手薄さに悩みながらも、一週間に一度、父親に子を任せて、新宿や池袋の、そこそこの質の紅茶が大量に飲める喫茶店に長居しながら白水社国書刊行会から発刊された、こじゃれた翻訳小説を読むのを数少ない楽しみにしている。高校時代の面影がわずかに滲む最後の部分の記述だけを、私たちは繰り返し、何度も読む。実際に会えば、彼女は雛菊の刺繍がされたニットのセーターを着て、柑橘か桜の香水をほんのわずかだけ手から香らせて、何、それ、全然、おかしいと鉄を断ち切るような口調で、私たちを否定するかもしれない。
 でも私たちは三十路手前の春川を知らない。二十二歳から、彼女はずっと、私たちに会うことを拒んでいる。完璧な拒否ではない。同窓会のはがきにはちゃんと否で返事をするし、LINEで誘えば家の都合が付いたらね、と穏やかな否定で答える。でもそれは、放置や忘却ではない、当時の春川らしくない、社交の礼節が伴った否定だ。私たちはその返事を受け取るたびに、教室に居たときの十七歳、私たちのロマンスの中の彼女よりも、ずっと遠い距離を視る。
 私たちは、時に紅茶をすすり、時に煙草をくわえながら、瑞枝と別れてからの春川について語り続ける。
 彼女にとって、瑞枝との出会いは後悔すべきものだったんだろうか? そうであってほしくない、という希望をこめて、私たちは答える。瑞枝が新しいイラストレーター崩れの恋人と住む、鎌倉の、潮風の吹き付ける築三十年のアパートの階段で、決然と彼女を見上げて。あるいは、高田馬場の私立大学の、ガラス張りの学生会館のロビーでたまたま出会い、気づかうような素振りを見せる春川に苛立つように、わざと隣のベンチに腰掛けて、こう告げる。
 うぬぼれないで。私、あなたと交際していたこと、全然後悔していない、これっぽっちも、まったく。
 私たちはありありと、彼女のその口調を想像できる。まだ社会で棘を抜き去られていない、言葉の鋭さを。

 でもそれは妄想だよ、と私たちのひとりがチャイの茶碗を両手で抱えたまま、いつまでも飲みもせずに口を出す。
 その発言を打ち消すように、私たちは互いの家庭生活や職場について話し始める。ある者は幸福な結婚をし、ある者は社会的な義務としてのみ結婚を捉えた男と結ばれた結果、義両親と彼のあらゆる無理解に苦しめられている。ある者は女性であるが故に職場で不公平な扱いを受けたと強く感じ、ある者は適応障害の診断で数年休職して実家の世話になっていて、ある者はそのした余計な波とも無縁に、無難に労働を続けている。時に声を潜め、時に声をやわらかく張り、それぞれの人生の、ありふれた瞬間について語り合う。高校生のときは同じ教室に詰め込まれているのに、どうして何気ない偶然がこれほど先々の色合いを変えていくのだろうかと、私たちはただ不思議に思っている。
 薄い夏の喪服に身を包み、東京のあちらこちらへ離散していく自分たちを、黒揚羽の群れのようだと思う。
 私たちのうち、これからおそらく贅沢な文化になるだろう出産を成し遂げた者は、自分の娘に将来同性を愛した過去を知られる可能性について考えて、傲慢とは理解している溜息をつく。また集会では誰にも話さなかったが、本当は大学時代から同性の恋人と同じ下北沢のアパートに住んでいる者は、百貨店の地下でエビチリを買いながら、無言で聞いていたロマンスの異様な甘ったるさについて思い返して、今度はもう誘われても絶対にあの集まりには行かない、と決意する。乳がん検診で精密検査の必要ありと告げられていた者は、浴室の鏡の前で自分の乳房をさわりながら、静かに鼻を近づけてみる。高校生の弟が同性と交際していることが発覚し、母が学校側に報告して何とか対策を取ってもらうべきではないかと深刻に思案している家へ帰る者は、おそらく生涯春川のことを許さないであろう、棺の横の老女の、岩のように鬱血した顏の無表情を、記憶のなかで反芻する。もし私が、と練馬のマンションで生後八か月の娘を抱き上げた私たちのひとりが、娘に同性愛者であることを告げられた時、果たして自分はそれを受容出来るだろうか、と自問する。その相手を、憎まずにいられるだろうか。溜息が重なるうちに、葬儀の日は終わる。
 
 死んでから思い出す記憶なんて、まるで死者を美化するための備品のようだ、と私は唇を静かに噛む。渋谷東急地下でエビチリと、同居人の好きな韓国式の巻きずしを2パック買って、京王井の頭線に乗り込む。彼女は今日は夜勤だから、料理の出来ない私がデリで買う決まりになっている。下北沢、明大前、永福町と吉祥寺に向けて通り過ぎていく駅の名前を頭のなかで読み上げながら、私はその集まりでは明かさなかった、病室での本当のロマンスを思い返す。
 高校一年生の瑞枝にからかい半分に、使われていなかった焼却炉の裏で何かの拍子に口づけをされて、その弾みで自分から告白をして、誰にも感づかれないような秘密の交際をしていた。高校二年生になって、彼女から別に好きな人が出来た、と打ち明けられた時には、相手への憎しみや嫉妬を通り越した、悲しみとはただ意地で名付けたくないような、どこにも行き場のない感情が発生したのを覚えている。瑞枝は春川に、私のことを前の恋人だと紹介した。春川は瑞枝の気遣いの無さ、それから自分の知らない交際関係に驚愕していたが、すぐに私たちは打ち解けて、瑞枝の悪口で盛り上がるようになった。彼女のわがままや移り気への助言もした。そんな受容が出来たのは、そうした立ち位置でも瑞枝に関われることを、単純に幸福だと思ったからだ。それに、三人で遊びに行けば、恋人同士ではなく友達同士の遊びなのだという物語も、嘘から本当へと様変わりしていく。教室での噂を受けて、水族館に三人で行った日の帰り、瑞枝が、まるでふうちゃんは私たちの娘みたいだね、と冗談めかして口にしたとき、春川は鮫の水槽の前で瑞枝の頬を打った。謝罪を決して言葉にしなかった、すももの様に薄く腫れた頬の赤い美しさを、覚えている。
 春川とまともに連絡を交わしていたのは、たぶん会のなかでは私だけだったに違いない。だから、瑞枝がかなり悪い乳癌で入院していることを知ったとき、真っ先に彼女に連絡した。余計なお世話だとは思ったが、それがあのとき、水族館で瑞枝の頬を打ってくれた春川への義理の返し方だと、勝手な心の決算をつけていた。彼女は、怖い、と言った。今更会いに行くのは怖いよと、素直に感情を打ち明けてくれた春川は、高校の時から全然変わっていなかった。
 頭の中では、別に瑞枝と会ったところで今の生活に変わりなんか無いって分かってる。自分がレズビアンでないことに気付いて、彼女との生活を美しい思い出にして、なりの清潔な男と結婚した自分のことを、裏切者のように思う必要なんてまったくないことも。でもそれは理屈であって感情じゃない、と春川は柔らかな声で、自分の胸元に手を当てながら喫茶店で語る。わかったよ、と私は申し訳ない気持ちで答える。あの金色のロマンスの、最後の結末を春川につけてほしいと、そんな不埒な欲望が自分にあったのだとしたら、と自問する。それは、純粋な暴力だろう。
 春川は短剣で一語一語切り裂くような話し方をやめて、言葉の間に息を多く挟み込む、ゆったりとした口調に変わっていた。それは瑞枝の影響というよりは、彼女が大学を出てから学び取った、ひとつの技術に違いなかった。
 病院の狭苦しいエレベーターには、老若男女の見舞客が乗り込んでくる。まるで葬式の先取りをしているような陰鬱で薄暗い顔の人々と、祭りの準備でもしにくいかのような華やかな人々が混じり合う空間の、その複雑な体臭に耐えながら、私はすでに聞いていた瑞枝の乳房の臭いについて考えている。焼却炉の裏で、指定のカーディガン越しにおふざけを装って瑞枝の胸に手を当てた時、私のは小ぶりで形が良いんだよ、となぜか自慢げに言われたのを思い出す。あのころの自分と、何にも変わらない黄土色と桃色が入り混じる手を見返して、六階で降りた。
 そこから話すことは、あまりない。
 やせ細った春川に、東急の地下で買った箱入りのプラリネを手渡したとき、確かに皮膚が膿む臭いを嗅いだ。軟膏の香りで大分和らげられてはいたが、注意深く意識すると、確かに鼻先に香ってくるのだ。常日頃から乳房を持て余している人間はたまったものではないだろうと同情したが、むしろ瑞枝はあっけらかんと、乳癌に気付いてはいたが民間療法に頼った自分の愚かさと、長期生存への諦めと、今の彼女に対する愚痴を矢継ぎ早に語った。教室の連中は誰も気づいていないようだったが、本当の春川は、瑞枝と入れ替わったように早く言葉を刻む喋り方に変わっていた。自由とそれなりの我儘を貫くためには、それだけの言葉の変化が必要だったのだと、私は思っている。彼女は病室にガラスの茶器を持ち込んでいたから、私たちは夏向けのアソートギフトから、パインナップルの欠片が乗ったのや、梅酒とハチミツのガナッシュを口に放り込み、味の薄い紅茶を飲んで時間を潰した。教室の連中は相変わらず自分たちのロマンスに酔っ払っているようだというと、彼女はこちら側に足を踏み出す勇気がない人にとっては、ああやって物語を編むぐらいしか欲望のはけ口がないのよ、と意地悪く笑った。陽が暮れて、百貨店のタイムサービスの時間が近付いていた。私が別れを切り出して、瑞枝がまた好きなときに来てよ、と軽く手を振ったとき、病室の扉が開いた。
 張り詰めた顔に浮かべた、彼女のあの精いっぱいの笑顔を、私は一生忘れないだろうと思う。彼女は挨拶もせず、名前を呼ぶこともせず、なんといっていいのかわからないままに、包帯の巻かれた乳房にそっと鼻を近付けた。病室の扉越しに、二人分の小さな足音が、はしゃぎながら遠ざかっていくのが聞こえた。その後を、男の靴音が追っていく。オレンジの紙袋から取り出した、少女趣味のピンクの小瓶が、線のかっちりした群青色のブラウスに全く似合わない。膿んでるところは沁みるからね、とまるで昨日まで時間を共にしていた人のような口調で、瑞枝が注意する。
 それもそうだね、と女は柔らかな声で答えて、浮遊する金色の光へ、季節外れの香水を一吹きした。【了】

 

松浦理英子『最愛の子ども』および、自作『十年の金色』について
 読書合評会で課題図書に選んだ、松浦理英子『最愛の子ども』を読んだあとに書かれた小説です。

 『最愛の子ども』は、日夏・真汐・空穂という三人の女学生の同性愛的および疑似家族の関係についての物語です。三人はクラスの女生徒「私たち」によって「父」「母」「子」という疑似家族に目され、物語が進むにつれて曖昧な三角関係に陥っていきます。終盤において同性愛的関係は空穂の母に露呈し、その相手である日夏が学校を退学させられます。彼女は同級生の父親の助言を受け、留学のためイギリスに旅立ち、残された真汐と空穂、そして「私たち」に見送られます。大学入試の結果を待ちながら、真汐が日夏と共に「最愛の子ども」である空穂と再会する日を想う場面で小説は終わります。
 この小説の特徴は、語り手を日夏・真汐・空穂といった主人公格の視点でもなく、三人称でもなく、あくまでその関係の変化を周りで見ている「私たち」に置いているところにもあります。「私たち」は当事者でなく、ただ三人の人前に見せる姿から何があったのか推測し、「ロマンス」を語ります。
 作品の、特に前半部は「私たち」が「私たちのファミリー」に寄せる性的空想から成ります。もっとも空想といえど、彼女たちは主人公から話の一部始終を聞いているので、決して現実から大きく離れているわけではなそさうです。また、「私たち」は時に、クラスメイトである日夏・真汐・空穂の「私」の視点を借り、一人称で物語を紡いでいきます。この人称の移り変わり、あるいは曖昧な「私たち」という一人称複数形が、不思議に柔らかな文体を生んでいるのが特徴です。
 私はもともと分析が得意ではないのでその程度しか書けないのですが、個人的に読んでいて面白かったのは「私たち」の性的妄想の緻密さや、女子高生たちのそれとない日常描写でした。同性愛や疑似家族を要素としては含んでいますが、普通の女子高生小説としてもかなり面白い小説です。ぜひ読んでみてください。

 

 自作『十年の金色』について。春川と雪野という二人の女子高生の同性愛的関係を「私たち」が期待し、その「物語」を勝手に編む、という筋は『最愛の子ども』と変わりません。一方で、「私たち」の勝手な脚色にうんざりしている「私」こと「ふうちゃん」が最終盤に登場します。
 『最愛の子ども』は(乱暴に書けば、なんだかコンテンツめいた)百合妄想を戯画的に描いている節があるので、それよりは直截的に「うんざり」しています。「ふうちゃん」は雪野とかつて交際していた同級生ですが、彼女を「娘」に見立てようとする雪野を、春川は平手で打ち拒みます。三角関係は成立しませんが、雪野は彼女を都合のいいおもちゃにしている節があるので、けっこう性格が悪いです。
 『最愛の子ども』は高校時代についてのみ書かれているので、『十年の金色』はその先の大学、社会人時代について書いています。日夏たちは高校時代に別れを迎えますが、春川と雪野は大学時代に恋愛関係を終え、春川は成人してから男性と結婚し、雪野は引き続き別の女性と交際を続けています。
 最後まで「私たち」の「ロマンス」として終わる『最愛の子ども』に対して(ただし日夏たちの一人称が「私たち」から独立して立ち上がる瞬間が複数回あるので、章名にある通りロマンスは「混淆」し、しばしば「途絶」するのですが)「ふうちゃん」は「ロマンス」として「私たち」に語られなかった場面について語ります。つまり、「ロマンス」の外側でこの短編は終わります。
 「こちら側に足を踏み出す勇気がない人にとっては、ああやって物語を編むぐらいしか欲望のはけ口がない」という雪野の台詞は、(記憶の限りではおそらく)松浦理恵子の『奇貨』から来たものです。

奇貨 (新潮文庫)

奇貨 (新潮文庫)

 

 

 でもこれは自作を後で読み返して気付いた違いであって、書いているときからそんなに意識しているわけではありません。「この百合妄想する私たちって怖いな」とか、「娘って関係やばくない?」とか、「同性愛の関係は一時かもしれないし、ずっと続くかもしれない」とか、それぐらいの気持ちで書いていました。

5.12 松浦理英子『最愛の子ども』読書会+短編合評会のお知らせ

【概要】
 読書会と、短編の合評会を開催します。
 第一部が課題図書の読書会で、第二部が参加者の小説の合評会です。
 予定は5月12日(土)の昼から、場所は池袋を予定しています。
 課題図書は2017年泉鏡花文学賞受賞作、松浦理英子『最愛の子ども』(文藝春秋)です。購入するなり借りるなり、各自入手して、当日はご持参ください。

最愛の子ども

最愛の子ども

 

 

 参加者については、事前に
 ①「課題図書を読んだ後に書かれた」小説(枚数上限50枚、下限なし)
 ②提出された作品の感想(字数下限なし)
 を提出していただきます。

 提出された作品数が多い場合には、感想を書いていただく作品を割り振ります。
 それぞれ締め切りは、①5/5, ②5/11を予定しています。
 小説は書いて出したほうが得と思われますが、都合が付かなければ、課題図書および他作の感想のみでもOKです。

 小説については、枚数上限を50枚とします。下限はありません。
 小説の条件は、「課題図書を読んだ後に書かれたもの」という一点のみです。したがって、その小説から得られた何がしかを込めて書かれた小説、たとえばその小説の技法・文体・設定を転用したもの、たとえばその小説の二次創作であれば嬉しいですが、「後」でさえあれば、どのような小説でも構いません。
 ただし、別ジャンルの二次創作などはお控えください。

 合評会は、端的に、感想の言い合いです。
 この小説と課題図書はどう違うか、この小説で躓いている点を、課題図書であればどのように処理しているだろうか、に着目することもあれば、課題図書を離れて話し合うこともあるでしょう。

 同様の会を2年前に長野まゆみ『冥途より』で行ったので、私の短編をサンプルとして置いておきます。
 書いた作品をどう使うかについては、当然ですが、書いた人間の自由です。
 どこかに投稿するなり、ネットに上げるなり、文フリ等の原稿の下地にするなり、好きに使っていただければと思います。

 参加費は、レンタルスペースが必要になった場合は場所代÷人数分。人数が少なければ不要、を予定しています。
 定員は現時点ではありませんが、募集人数が予想以上に多かった場合は(ないとは思いますが)抽選とします。
 これを書いている人間の顔見知りでも、そうでなくても、学生でも社会人でも主婦でも大歓迎です。
 私と、+2人は出席予定です。
 
【参加方法】
 novelgathering4096@gmail.comに、3月末までに参加意思がある旨の御連絡をください。
 それ以降参加したくなった、およびお問い合わせについても、こちらにご連絡いただければと思います。
 ご連絡いただいたメールアドレスに、freemlメーリングリストを用いて連絡します。
 書いていただいた小説や、課題図書・他作への感想についても、メーリングリストアップローダーに提出します。
 ①ハンドルネーム(私の知人なら氏名でも可)②小説を提出するかどうか、について記載いただければ幸いです。
 
 あとからやっぱり都合が付いて、小説が出せるようになった、出せなくなった、という場合は、連絡をいただければ大丈夫です。枚数上限を越えそう、という場合についても、ご相談ください。

 

【余談】
 小説を書いて読もう、というコンセプトそのままのイベントです。ついでに、自作の感想をもらいましょう。

 もともと私が文芸サークルに居たときに何回かやった会で、そのときは長野まゆみ『冥途あり』や、滝口悠生『死んでいない者』、宮内悠介『半地下』(『カブールの園』所収)といった文芸小説を課題作にしていました。
 ひとまずは今回やってみて、手ごたえが悪くなければ継続します。松浦理英子『最愛の子ども』を選んだのは2017年泉鏡花文学賞受賞作だったからで、今後続けるのであれば、同様に文学賞を受賞した小説を課題にする予定です。
 文芸寄りではありますが、誰が読んでも読めそうな小説、をひとつの選定基準とします。
 たとえば小川洋子角田光代川上弘美よしもとばなな
 ちなみに去年の泉鏡花文学賞受賞作は、川上弘美『大きな鳥にさらわれないよう』です。

 作品の感想については、後に残る形として、文章の形でまず送るのが良いと判断しています。以前にやった際はコメントの提出はしなかったのですが、本当にぎりぎりの直前まで読まない、ということになりかけたのもあります。
 また、感想を受け取る側についても、あとで思い返すのには声ではなく文章記録のほうが良い、というところです。

 なお、どうしても対面する以上、私と顔見知りでない人間は参加しづらいかもしれませんが、個人的には、そういう方にこそぜひ来ていただければ、と思います(実名を明かす必要はありません。HNで呼び合うのはちょっと恥ずかしいかもしれませんが)。一緒に読んだり、書いたりしていければ、と思います。

 そんなわけで、よろしくお願いします。

『トリオ』(2016)

(2016年の長野まゆみ『冥途あり』の読書会+合評会の際に書いた短編です。)

冥途あり

冥途あり

 

 

 物語修復人だった父は、自分の仕事をカウンセリングと勘違いされるのをひどく嫌がり、カウンセラーのことはインチキ商売と呼んでいた。どうにもならない現実に対して慰めが必要な人間が存在し、それに対し言葉で苦痛を緩和する専門職が存在することは、インチキどころか、自然な事態だろう。ただ、父はカウンセリングがとにかく嫌いで、テレビでその手の番組が始まると、不愉快そうに顔をしかめ、チャンネルを変えてしまう。
 いいか、あれは嘘の仕事だ。お前達はあんなインチキみたいな仕事はするなよ。
 姉は大学を卒業したのち葬儀屋に、ぼくは市民病院の麻酔科に務めることになった。全ての痛みを経験し終えた人間を送り出す仕事と、痛み自体をなかったことにする仕事だ。

 

 ぼくたち姉弟は、職人気質を気取り、どんぶり勘定で、むらっ気が激しい父のことを信頼していなかった。説教好きの父が何かにつけて人生訓を授けたがるのも、高校生と中学生になったぼくたちには、なかなか気分の悪い時間だった。子供の目にもパッとしない、色あせた人生を送っているこの男が、胸を鶏のように前面に押し出し、何があっても自信と誇りを持ち続けること、不平不満を述べないこと、嘘を述べないこと、常に独創的であるべきだということ等々を、どうしてそうも誇らしげに教え諭せるのか、疑問でしょうがなかった。
 ぼくは小説を書き、姉は絵を描いたが、それを仕事にする気はなかった。姉の結婚とぼくの卒業が重なったので、趣味は趣味として、三月の里帰りで、姉弟共有のクローゼットの奥へ、それぞれの十数年の生産物を詰め込んだきり封印してしまった。他人の夢が大好きで、自分の人生で賭け事をする勇気のない父親には、それがたいそう不満らしかった。
 もちろん、父とぼくらは、あまり仲が良くなかった。三人とも出不精で、ぼくたちは欝々と築五十年の木造建築で煮詰まらなくてはならなかった。空き部屋が多いのは、本来ここに住むべきもう一人がさっさと父親に見切りをつけてしまったのもあるし、見栄っ張りの父が、とにかく職人商売は部屋だ、心を落ち着けるための瞑想部屋、道具を手入れする部屋、客を招き入れる仕事部屋が絶対に必要だと言い張り、耐震性や利便性を度外視し、無意味に部屋が多く、老朽化も酷く、買い手のつきそうにない空虚な家屋を己の終の住処と見極めたせいもある。青竹のような、空の空間ばかり目立つ、変に広々として落ち着かない家が、僕と姉の青春の場であり、父の子育ての場でもあり、母の他愛ない不倫の舞台でもある。
 要約してしまえばありふれた家である。要約してしまえば、何事もそうかもしれない。

 

 父はよく家出をした。姉との喧嘩で言い負かされると、「誰が育てたと思っている!」なんて、古風な捨て台詞を吐き捨てる。そっぽを向いていた姉は知らなかっただろうが、そんなときの父の唇はむず痒そうにひん曲がっていて、本当はこんなつまらないこと言いたいわけじゃないんだよ、となんだか言い訳じみていた。そんなとき、父は履き潰した自分の靴ではなく、自分より足の大きな息子の靴を拝借していくのだった。普段から靴を出しておけばいいのに、毎回不慮の事態に直面したとでもいうように、頭を軽くぽりぽりとかいて、玄関で見守っているぼくに、へらっと軽く笑い、中学生用の真っ白い運動靴を両手に携え、裸足で玄関を出ていくのだ。
 別にぼくは困らなかった。父の持ち出しを見越して、姉は新しい靴を買わせるときも、絶対に前のサイズを残させるようにした。雨で濡れて帰ってくると、ぼくは姉からまず布巾を手渡され、新顔のほうから水滴を吸い取る。自分用のタオルケットは、それを終えてからだ。極力丁寧に靴を履くようになったのも、物持ちのよくない父が反面教師だったのかもしれない。家出のときの靴がみっともなかったら、さすがに可哀想だとも思っていた。
 都合のいい家出先などあるわけもない父は、電車で三駅離れた、別の市の中心駅から、夜の十時が最終便の市営バスに乗り継ぎ、湖そばの温泉施設へ逃げ籠っていた。帰ってきていいことがあるわけでもないので、放置だった。母に喧嘩で言い任されていたときから、ずっと同じ逃げ場所だった。駄目な人だけど、ヤケになって博打を打たないのは、ちょっとはマシかもね。まだ幼い姉に、母は沢庵を勢い良く切りながら笑っていたという。ダメナヒトなんだなあ、と三歳の姉は生物の種名を耳にしたような気分だった。ダメナヒトだから、仕方ないよと、八歳の姉は、父の突然の癇癪に危うく泣き出しそうになった五歳のぼくに、そっと静かに耳打ちした。齢四十にして、家族全員からダメナヒトと認定されていた父は、思い返せば、正直ちょっと可哀想だ。そう思われて、余計にだめになったんじゃないか。僕も姉も母も、できれば父にはダメナヒトで居て欲しいと、いささか暗い願望があったのかもしれない。どうしてそんなひどいことを願えたのか、不思議で仕方ない。

 

 家族の約束は破っても、客との約束は絶対に守った。いくら職人だ、芸術家だと家族に大口を叩いたところで、食い扶持を保証してくれるのは結局客と、長い修復人生活で理解していたわけだ。表に出ない業種だけに、とにかく口コミが生命線。ひとり幻滅させれば、十人百人の客が死ぬ、そういう仕事なんだと酔っ払った折に絶叫していたのも、決して誇張ではなかったのだろう。インターネットで自分達の職場の名前で検索したら、すぐ評判が聞こえてくるのにげんなりした、と最近も姉弟で互いに溜息をつきあった。棺のなかに、故人の愛用していた腕時計を納棺させてもらえませんでした。星ひとつです。愛犬を残してやるのは可哀想だから一緒に燃やさせてあげたかったのに、絶対に許可してもらえませんでした。星ひとつです。姉が読み上げるスマートフォン越しの言葉は、他人事に聞こえなかった。痛みを取り切れていないから星ひとつ。術後に起こされたから星ひとつ。そんなに故人が不憫なら、棺に同席して天国まで付き添ってあげればいいのに、と口走る弟を、姉は丸めた新聞で叩いた。尊敬出来る父親でなかったから、星ひとつ。妻に逃げられたから、星ひとつ。
 
 職人に心の準備が必要といって、顧客が来る一時間前には仕事部屋で待機していたが、どれだけ早く来られても対応出来る、と立派に見せたいようだった。そういう父の小心は、けっこう好きだった。仕事が仕事なだけに神経質な客も多かったが、父の変に几帳面なところには安心させられていたようだ。ぼくが朱塗りの盆で二人分の湯呑を運び入れるたび、礼儀正しいお子さんだ、お父さんの教育が行き届いているんだな、と父はよく褒められた。得意顔の父は、客の目の前でぼくに茶を運んでくるよう命じたが、礼儀を教えてくれたのは当然姉だった。高校から飲食店でアルバイトをしていた姉からは、こういうことは早いうちに学んでおいたほうがいいと、接客業のノウハウを教え込まれた。姉にはオモチャにされていたわけだが、ぼくは立派なウェイターのつもりだったし、教えの内容はしっかりしていた。
 ホテルの三十六階の、スカイレストランのウェイターは、密談に耽る客の傍まで暗殺者のように静かに忍び寄り、急所に正確無比な一撃を与えるように、湯呑を素早く置くと、一礼のみで何事もなかったように引き返すべきである。と、牛丼屋勤務だった姉に教え込まれた通りに、僕は茶を運んだ。「暗殺?」帰還した途端に姉に問われ、「暗殺!」と答えた。一流ホテルのウェイターなら、格好も立派でなきゃいけない。タイピンとカフスボタンが欲しいとねだると、姉は日暮里の繊維街で獅子の彫刻された金色のアンティークボタンを見つけて来て、接待用のぼくのポロシャツに縫い付けてくれた。全くカフスではないが、ぼくらの間では、それなりにカフスだった。ネクタイピンについては、我が家にはそもそもネクタイがなかったのだから、流石に無茶な要求だった。父にはそれすら誇るべき事柄らしく、お父さんは、他人に頭を下げて物を売らなくていいんだ、無様な正装もしなくていい、職人だからな、と僕の部屋に突然やってきては、無暗に足音を立てて仕事部屋へ戻るのだった。
 でも、ぼくは父の施術が不満で、いきなり殴りかかって来た若いチンピラに、父が平身低頭で許しを乞うていたのを、四歳のときに目撃してしまっている。ついでに四歳のぼくが身をもって知ったのは、どんな乱暴な客も、子供の覗き見には耐えられないということだ。怯えた視線に気づくと、彼らは子供時代の辛い記憶を掘り起こされたでもいうように、突如として沈鬱な表情になり、言い訳じみた言葉の出来損ないを口ごもると、千円札をスローモーションじみた動作で父の手に叩き付け、威圧的な足音で駆け去っていくのだった。しかし、二階の窓から見下ろせば、玄関から先の歩き方は、妙にとぼとぼと、しょぼくれていた。
「きっと悪い人じゃないんだろうね」銃弾を回避するみたいに、しゃがみ込んで窓を覗き込んでいる父に話しかけると、先程のしおらしい態度はどこへやら、急に血相を変えて怒鳴った。「悪い奴になりきれないから、悪いんだ」
 納得はしたが、興味は「おやつ!」という間の抜けた呼び声へすぐさま移り変わった。三時を三十分遅れたおやつは、メロンソーダときなこドーナツだった。僕のおやつなのに、何故か父も泣きそうな顔で、背中をきゅっと哀れに縮めて、台所まで降りてきた。「二つ目はない」姉は事実を告げた。「穴がある」父はぼくの皿から勝手にドーナツを取り上げて、中心の空洞を、それこそ穴が空くほど凝視し続けた。「やめて!」姉の再三の懇願にもかかわらず、父が前歯で生地を撫ぜたところへ、ぼくが短い両足へタックルした。予想外の反抗に、父は上体のバランスを失い、後ろのソファへ頭からひっくり返った。
 同時に放り投げれたドーナツはぼくの頭に乗り、姉は「ソファが壊れたらどうするの!」と、父を叱った。今のぼくはきっと天使みたいだぞ、と手に取ったドーナツからは、きな粉の粒がきらきらと落ちてきた。前歯の痕が、薄く凹んで残っていた。父は普段通りの自分の右頬を撫で、暴漢に詰め寄られたときみたいな、怯えた視線でぼくを見つめた。
「息子が、俺を、俺の息子が、俺を、いじめる」薬物中毒者のように回らぬ呂律で、父はいきなりまくし立てた。「おい、どうなってるんだ、俺の息子が、俺を、いじめるぞ、お姉ちゃんよ、お前の弟は、どうなってるんだ」僕と姉は、素知らぬ調子で、顔を見合わせた。あまりに可哀想になってきたぼくは、きなこドーナツを四分の一、時計の十五分だけあげようとした。「いらねえよ!」両手で施しを払いのけられたぼくは、十五分と残りの三十分を口にいれ、ソーダで流し込んだ。父親は更に機嫌を悪くし、半分残ったソーダのグラスを突然握りしめた。ぼくが思わず目を閉じると、父親は律儀に水色ストライプのストローで最後の一滴まで飲み干し、「出かける!」と宣言した。「出かけて」と姉が薦めた。このメロンソーダは甘過ぎる、とぼくは思っていた。父の噛みしめたストローの先端部が、舌先にちょっと塩辛かった。加齢臭みたいなもの、加齢唾液だな、今日の晩御飯はカレーがいいな、とぼんやりと考えた十五分後に、少し窮屈な靴で、姉とカレーの材料を買いに行った。

 

 父は同業者の評判を気にしていて、自分の常連客だった中年女性が、隣町の若い男の職人に鞍替えしたときには、その場に居ない職人を夕食の席で口悪しく罵り続けた。あいつの仕事は雑だ、店を小奇麗にして金稼ぎのことばかりで、肝心の腕前がついていってない。
「だめだ、こんなことばかり言ってたら客が逃げる」と、父は口を塞ぎさえすれば悪口が止まるかのように、油の滴る唐揚げで頬を膨らませた。それでも言葉の勢いが止まらないのか、「おい、このから揚げ熱いぞ!」と意味不明な文句をつけた。姉は当然無視して、小鍋から箸でつまみ上げた熱々の唐揚げを、ぼくと父のあいだの大皿に追加した。「おい、何を笑ってる」と父は皿の端から白米に唐揚げを運んでいたぼくを睨み付け、「客がいなかったらお前このから揚げ明日から食えないんだぞ!」と長台詞で怒鳴り、大皿を自分のほうへ引き寄せた。ぼくがむくれていると、彼は持ち上げた唐揚げを、わざとぼくの目線の高さまで持ち上げて、にやにや笑いながら口に放り込んだ。「俺の金だからな!」恩着せがましく言い放つと同時に、姉が手早く食器棚から緑の小皿を取り出し、十数個のから揚げを乗せた。「これが私のお金」姉が僕のところへ皿を置くと、父はさっきの息子みたいなふくれっ面で、やけっぱちにから揚げを食べまくると、「熱いぞ!」と吠えた。「揚げ物だもの」鍋底の最後の一個をつまみ上げると、姉は玉入れのように自分の口へ放った。唯一猫舌の父は、悔しそうにキッチンペーパーの油滴を睨んでいた。
 で、猫には嫌われた。動物嫌いの姉には食べ物の匂いが染みついているのか、布団叩きで何度も追い払われ、ホースで水をぶちまけられたりしても、負けずにしつこくじゃれついた。そんな夏の日は、ぼくも水のアーチに飛び込んで、びしょびしょにシャツを濡らした。布団叩きを握らされて、ぼくはシャツと干された夏用の軽い掛布団を叩き続けた。皿洗いを終えると、姉は炭酸水入りのタンブラーを携え、腰掛けた縁側からぼくを監視していた。黒猫が寄って来ると、足蹴のポーズや、手で払いのけたりして追い払った。ふいに二階の窓が開き、「猫だ」と誰かが嬉しそうに笑った途端、それまで人懐こかった猫が、急に高く首を上げ、フシュウフシュウと獰猛に鳴いた。「おいで!」書斎の出窓から手を伸ばした父の手を、猫は食いちぎらんばかりに不機嫌に睨み付け、尻尾を蠍のように逆立ててた。「やめてよ!」ぼくが叫んだのは、猫をからかっているのか、本気で二階まで飛ぶと信じているのか判別し難い父の言動を止めたかっただけではなく、万が一猫が軽やかに跳躍して、父のあの骨ばった手を噛み千切りでもしたら、とてつもなく哀しくなると予感していたからだった。姉がタンブラーを手に取ると、氷が鈴のように高く鳴った。猫は我に返ったようにきょとんとし、尻尾を垂らして姉の足元へすり寄って来た。姉は頭上に突き出た両手に狙いを定め、足元の石を放り投げた。石は不自然な軌道を描き、僕の頭に落ちた。「痛い!」非難したぼくを、猫も姉も、なんだか別世界の人間に出くわしたような、不思議そうな顔で見ていた。
「なんで懐かない!」父が首を突き出して怒鳴った。「猫もダメナヒトは解る」そう呟くと、姉は足を黒猫に突き出した。ついに観念したのか、黒猫は庭の右手から、柵の奥の林へ逃げ込んでしまった。ああーっ、と至極残念そうな父の声に我慢ならず、ぼくは布団をうるさく叩いた。姉は、蹴り伸ばしたままの自分の裸足に、じいっと眼の焦点を据えていた。手つかずの炭酸水に左手の人差し指を浸し、同じ姿勢を保ち続ける姉の姿は、なんでもない場所を凝視している猫を思い起こさせた。ぼくが布団を叩き終えると、父もガシャンと鳴らして窓を閉じた。黒猫が戻って来て、今度は出窓の下で少しは愛想を振りまいてくれるのではないかというぼくの希望は、姉の隣で何十分待ち続けても、けっして適わなかった。空中に差し出された両手の残像が、白い布団の布地に焼き付いているような気がして、ぼくは何度も自分の瞼を擦った。三十分後に、姉がタンブラー一杯の炭酸水を、台所のシンクに捨てた。

 

 父の起床は遅かったが、寝る時間も早かった。布団に入ってから、子供部屋で少しでも物音が立つと、大いに怒り狂って「誰のおかげで飯を食えてる!」と怒鳴ったが、中学、高校と姉が進学するにつれて、父の収入が家計を占める割合は減っていった。
 父は遊びを知らない人間だったが、休みの日は競馬場に行きたがった。東京競馬場の入場料だけを払い、自分もいっぱしの遊び人のようなつもりで、ハンチング帽のつばを左の親指と人差し指でつまみ、右手でパックのたこ焼きにつまようじを刺しながら、一列に並んだ立派な競走馬を凝視していた。最初の連れ合いは妻で、二人目は姉で、三人目はぼくで、四人目はいなかった。決して風体は悪くなかったし、誘いさえすれば近所の同年代の女もついてきてくれただろうが、おそらく、同年代というのが気に食わなかったのだ。父は昭和の年号を嫌い、息子は昭和七十何生まれだとか平気で口にして、相手に微苦笑を催させるのだった。「昭和が嫌いなら、西暦で答えればいいのに」ちょうど愛読書が世界史の教科書だったころに、余計なことをいったぼくを、父はガツンと一喝した。
「千年二千年単位の年号なんて、何の役に立つか!」
 たしかに、二千以上積み重なってしまった一年一年の重みなど、比較してしまえばどれほどのものか。一個人の生死と結び付けた日本の年号というのも、そこに限れば悪くない発想だ。父の平成嫌いは、だがもちろん市役所の書類には通用しなかった。若い女の職員には叱られたくない、生年月日の昭和を丸く囲むのも気に食わないといって、嫌がるぼくに無理やり代筆をさせた。通りがかりの、それこそ若い女性職員が、「ご本人ですか!」と剣呑な声で斬りかかって来た。「彼が父親です」舌先を軽く出しながら、父は悠々と答えた。


 父は客の殆ど入らなくなった晩年に、チラシ広告を作ろうかと本気で悩んでいた。自分から客を呼び込むのはみっともないし、さりとてこのままでは子供たちに金をたからなくてはならない。駆け出し麻酔科医のぼくにも、僕の学費を相当に負担してくれた姉にも、父を支援できる余裕は無かった。父の職業は国家的には無職と認定されており、無職にふさわしい年金しか用意されていなかった。そもそも父は、国に守られるという発想が心底気に食わないらしく、とにかく誰の世話にもなりたくないらしかった。勝手に死なれるのも参るので、僕と姉は、なけなしの金を、なんとかして父に渡さねばならなかった。直に渡すのは論外、口座に振り込んでも第六感で勘付かれる、帰省して密かに和室や寝室に金を落とすと、「金を落とすな!」と叱ってくる。ネコババを嫌うのは、正義感というより、他人に媚びへつらいたくなかったようだ。飯の種には程遠く、見飽きた客ばかりの枯れた商売を、それでも父は、唯一人生で身を捧げた職として誇りにしていた。廃業は、最後までしなかった。
「この年になってようやく物語が解るようになってきた」烏賊の塩辛とえび満月を交互につまみながら、父が嬉しそうにぼくに語ったときには、余命の終わりまで三か月を切っていた。いい仕事だったのだろうな、と感動したぼくは、老衰した麻酔科の医局長が、先に自分が寝込んでしまいそうなほど眠た気に瞼を擦り、麻酔の目盛りを震えの止まらぬ指でいじっているのを見守りながら、頼むから早く辞めてくれ、と願ってきたのを忘れていた。麻酔と金儲けが趣味の人間を一線から退かせるのも気の毒な話だったが、仮に失敗すれば誰がどう責任を引き受るのかと、上級医や経営陣は戦々恐々としていた。姉の職場でも、大ベテランの老葬儀屋が、棺を閉める手の揺れを止められずにいたところへ、「どちらが死人か解りませんね」と、眼鏡をかけた故人の娘が、冗談とは受け取りづらい言い方をした。老人の顔は紅く腫れ、それまで身勝手に動き続けていた指先が、急にぴたりと止まった。気まずい沈黙のなかで、静まった右手の四指を左手で包みながら、「すぐ死にますよ」と小声で呟いた。年を取れば身体が狂う。神経が狂えば指先も狂う。いつかの帰省から、正月料理の皿を受け止める父の手の、その震えを見逃せなくなった。遺伝子も狂う。遺伝子が狂えば異常細胞も増え、圧倒的多数だったはずの正常細胞を駆逐し、頭から爪先まで、大血管から毛細血管の先端部まで、ずれた細胞で覆い尽くしてしまう。「遺伝子異常は陽性です」血液内科医が家族三人に宣告する。「予後は、残念ながら、非常に悪いでしょう」「遺伝子」反唱した姉に、慌てて血液内科医が注釈した。「遺伝子といってもお子さんに遺伝するものではありません。お父様の血液細胞に、遺伝子の狂いが生じているんです。狂った細胞が、別の細胞を巻き込みながら狂いを増していく。次第に修復も追い付かなくなり、身体が最終的に破綻する。化学療法に可能なのは破綻までの時間を引き延ばすだけです。根治的な治療ではなく、病気との付き合い方を考えるのが、この病気では自然です」「病気でしょう。病気なんかと、付き合えるんですか」灰色の薄いメモ用紙に、医師は英字の連なりを綴った。流麗な筆跡の病名は、短い内科での研修生活では見覚えのないものだった。ぼくの当惑を察した血液内科医が、「私どもでも滅多に見ない病気です」と説明して、病名を正確な発音で読んだ。「病気と付き合うって、病気なんかと、付き合えるんですか」父の声は、まるで会話を継続するためだけに、天気の話題を持ち出すような調子だった。研修医時代に、何度も同席した癌の告知場面を、ぼくは必死に思い起こそうとしていた。患者の顔も、家族の顔も、病名も、何も思い出せなかった。悲しいぐらい、他人事だった。ただ、上級医達が「病気と付き合う」と口にするたび、舌先に味わっていた奇妙なざらつきだけは、明確に思い出すことが出来た。ぼくより年下の血液内科医は、少しだけ間を置いてから、「付き合えます」と、神託を述べ告げるような厳粛な声で、はっきりと、回答した。
 受付でぼくが診察費を払うと、父は「なんで告知に金が要るんだ」と不思議がった。誰も幸せにならない告知に、何故金を払わなきゃいけないのか。ぼくだって、教えて欲しかった。姉の青いアウディの後部座席に乗り込むと、助手席から次の難問が飛んできた。「遺伝子って何だ」生物の基礎知識を忘却し切っていたからでも、麻酔ばかりの毎日だったからでもなく、どう答えれば自分達にいちばん正しいのか、全く思い付けなかった。父は来週から入院し、化学療法を開始する。「付き合う、病気と、付き合う、病気と」車が一般道へ出ると、父はお気に入りの歌詞みたいに、楽し気にその言葉を繰り返した。「付き合う、病気と付き合うんだってなあ、不思議だな、付き合う、付き合う」父の舌が弾むたび、姉はアクセルを踏んだ。僕たち家族は、とてつもない速度の車に閉じ込められていた。高速道路の下に差し掛かったところで、交通整備中の警察官がホイッスルを吹いた。「馬鹿野郎!」顔面蒼白の姉が急ブレーキをかけるその前から、父はただ前方を見据えて怒鳴っていた。

 

 父は競馬場で金を賭けずに、心で賭けた。自分の見定めた馬が一等賞になると、ぼくを抱き寄せてまで喜んだ。引き裂かれた外れ馬券が歓声の影で桜のように散り、眼下の芝生までそよ風で運ばれていくのを、ぼくは父の胸元から眺めていた。垂直に昇っていた煙草の煙が、無数の声と共に僕たちの頭上で霧散していった。姉は、父がぼくを競馬に引き込むのではないか、本当は金も払っているのではないかと戦々恐々で、自分も同行すると言い出したが、父は許可するどころか、「俺が休みなら、お前は働け」とまで言い放った。手形の残る頬が、試合結果で青にもに赤にも色付いた。
「これはスポーツ新聞という」
 父は売店で取り上げた一部を、わざわざ指差して説明した。
「言ってみろ。スポーツ新聞だ」「スポーツ新聞」「そうだ。スポーツ新聞だ」
 ぼくは小学二年生で、我が家は新聞を購読していなかった。配達員がどれだけ定期購読の特典をちらつかせようが、姉は容赦なく断った。もうテレビがある、と珍しく姉と父の意見は共通していた。原色のブルーインクで強調された見出しを、漢字の読めなかったぼくは、ただただ格好いいと思った。「これひとつ包んでください」妙に慇懃な父に、おばさん店員は怪訝な顔つきだった。席に戻った僕たちは、姉の作ってくれたシュウマイ弁当を食べた。弁当箱はどちらもステンレス製の同サイズだったが、ぼくには黄色のプラスチック容器がオマケされていた。蓋を開けると、祖父母の送ってくれたサクランボが詰めてある。
 未読のスポーツ新聞をナプキンのように膝元に敷いていた父は、「それくれ」と頼んだ。「新聞」ぼくは答えた。喫煙者みたいに息を吐きながら、父は芝生の光を見ていた。癌恐怖症の父は根っからの禁煙者だったが、そのときの父は、周囲から漂う煙の香りを、ひっそりした鼻息で深々と嗅いでいた。「じゃあいい」競馬場にはスポーツ新聞、という思い込みのファッションに過ぎないのに。ぼくは四つのさくらんぼを食べ、二個の種を容器に残し、二個の種を噛み砕いた。歯が駄目になるといって、姉に注意されていた実験を、ぼくはついに達成したのだった。杏仁に似てるんじゃないかという味と食感の予想は大外れで、ただ砂粒を噛みしめるような苦みだけが口内に広がった。眉をしかめたぼくを、父はおかしそうに笑った。だが、残り四つのさくらんぼから二つ親指で握り、左の握り拳の、親指と人差し指の輪の上に置こうとすると、父は「いい!」と意固地に断った。さくらんぼを二つ残すと、ぼくは父の膝元で銀色のバットを振りかぶっている野球選手と、芝生とスタンド席のあいだの、何もない眩しい空間を凝視している父の横顔ばかりを、交互に見続けていた。レース開始のアナウンスが入ると、栗毛白毛の見事な馬たちが、一斉に横へ並んだ。「どれに賭けたの」父がどの一頭を指差したのかは、距離の遠さではっきりしなかった。ぼくも、確かな名前を聞こうとはしなかった。レースが開始してからも、父は指先で自分の馬を追い続けた。
 
 出発点と帰着点が同じ経路は、結局は似たり寄ったりなのだろうか。最終地点から振り返れば、突然死んだが、緩慢に死に続けたか程度の差が無いのか。他人はそれでよくとも、自分の父親はそうであって欲しくなかった。だが、特別な事件は何も思い出せない。妻に不貞を働かれた以上は、あらゆる事件と無縁な人間でもあった。それが、本人の意思だったのか。
 父が死んだ日、ぼくは病棟の廊下で喪主のスピーチを必死で考えていたが、父の人生は説明のしようがなかった。そもそも、つい一時間前に死亡確認された六十八歳の男が、果たして本当に自分の父親なのか、これから物語ろうとする時間は本当に父の生きた人生なのか、疑問が止まることはなかった。疑い問う意味もなかった。告別式は身内、すなわち一族で生き残り、かつ父と縁を絶っていなかった子供二人だけで執り行われた。
 土地を売り払うべきか、ぼくたちは座敷の遺影の前で議論した。僕は賛成で、姉も賛成だった。「ちょっと……」近所の僧侶が読経を一時中断し、小声で咎めてきたが、同一方向に重ね揃えたはずの声を、ぼくたちは抗議のように段々と大きくしていった。口のひん曲がった遺影がいかにもダメナヒトで、ぼくはこの情けない葬式に慰められていた。父からは、死後の写真の全処分を言いつけられていた。「俺が死んで、写真が残るのは、理不尽だ」僕は賛成し、姉は反対した。そんな面倒な作業どちらもやってる余裕ない、と痛いところを突いてきた。「もう死んでるし」確かに。死人との約束を守るなんて、ただの自己満足だ。自己満足だから美しい、というのは嘘っぱちである。家を売り払う具体的条件を決定し、ぼくらはついにその話題へ差し掛かった。
「ちょっと!」忍耐の限界に達した僧侶が、木魚を腹立たしそうに殴った。気の毒ではあるが、姉は葬儀屋だし、ぼくだって医者だ。そんな二人に真剣な葬儀を求めるほうが難しい。死ぬ、死ぬ、人は死ぬ、本当に人は死ぬ、経を読もうが子を産もうが嫁に逃げられようが、人は死ぬぞ、おい、わかってんのかアンタ、死ぬんだよ人は。
「ちょっと待ってもらえますか」舌先まで滴りかけた言葉を努めて封じ、ぼくは礼儀正しく頼んだ。まだ議論も始まっていないうちから、姉は額を手で押さえて唸っていた。
 どこから忍び込んできたのか、引き戸の前を黒猫が通りがかった。「ちょっと!」次に声を上げたのは姉だった。黒猫は唖然とするぼくらを無視して、座敷の中央を占領した。尻尾を隆々とおっ立たせ、歯を剥き出しにして唸った先は、遺影だった。「死んでるよ」ぼくの説明も聞かず、猫は父の顔面へ突進した。遺影は倒れ、僧侶は叫び、蝋燭は転げ落ちた。畳を焦がし、薄く燃え広がり続ける炎を、ぼくたちは消そうとしなかった。どうせ壊す家なら、解体に手間をかけなくても、自然に燃えてしまえばいいじゃないか。土地は残り、僕らが売る。相続税を支払い、残りは半分に分ける。それで万事解決、とぼくが計画している最中に、脱ぎ被された僧衣が鎮火の役目を果たしてしまっていた。「えーっ」不服そうなぼくに、中年の僧侶は「はあ?」と心情を素直に言い表し、姉はまた唸った。当の黒猫は、姉の隣、深緑の座布団の上で悠々と丸まっていた。参列客が増えるわけでもないのに、僧侶が勝手に配置したのだ。死んだのを忘れた父が、ふらっと出戻ってくるとすれば、きっとそこに座った。
「この猫は何ですか?」僧侶の刺々しい質問に、姉は「猫です」と答えた。
 正解!
 
 姉との喧嘩に負けた父は、時々ぼくを誘拐した。そうやって少しでも姉の気苦労を増やしたかったわけだが、ぼく自身、姉の過保護にちょっぴり耐えかねて、この誘拐旅行を楽しんでいる節があった。父も、ぼくが参り始めたころを見計らって、都合よく連れ去ってくれるのだ。ある日の行先は、公園だった。父は藤棚の影の下のベンチに横になると、「好きにしてろ」と命令した。命令通り、ぼくは好きなように砂場を転げまわり、母親たちの眉を顰めさせていた。父は日に輝く母たちを、顕微鏡でも覗くように凝視していた。
「結婚するか?」
 掌の砂を払い落とし、影下に帰ったぼくに、父は淡々と問うた。
「どうでもいい」
「いいか」
 父が本当に消えるのは、姉にやり込められたときでも、商売に失敗したときでもない。月始めの三日だけ、あらゆる連絡を断ち、失踪するのだった。姉は何も語らなかったが、父にも相手が居たのだろう。父は子供と彼女を対面させはしなかったし、その相手も、父の煮え切らぬ性格を承知していたに違いない。臆病というより、面倒だったのだろう。
 妻の不貞を発見した父は、憤りもせず、「三日で出てくれ」とだけ頼んだらしい。三日居残った母は、昼にカレーとシチューと豚汁を作り、夕方まで引越の用意をした。母と入れ替わりで姉が学校から帰ってきて、冷めた鍋を温め直すのだった。三日目の夜に、姉は鍋底に繁る青い炎へそうっと指を伸ばした。「こら」と、背後の男が注意した。姉は火を赤く落とすと、食器棚から汁物用の茶碗を取り出した。父は立ち尽くしたまま、蒼白い姉の指先を凝視していた。二歳のぼくは、転落防止用のベルトで椅子に縛られていた。最初の記憶だ。
 四日目の夜に、マザーテレサの微笑が台所に貼り付けられた。わざわざ父が図書館で現代史の資料集を探し出し、印刷した写真をセロファンで貼り付けたのだ。誰のための急ごしらえの護符なのか、父は語ろうとはしなかった。秋、離縁に気付いた祖母が、妙に塩辛い煮物や切干大根を送ってくるようになり、姉が料理を始めたころには、マザーテレサを繋ぎ止めていたテープは劣化し切っていた。顔はゆったりと回り落ち、姉は包丁を握り締めていた。写真はコンロに落下し、姉の手がコンロのつまみに添えられた。「危ない!」と叫んだぼくは、三歳だった。白黒のマザーテレサは、最期まで微笑んで燃え落ちた。
 その日から、姉は父に辛辣な言葉を吐き捨てるようになった。祖父母が送ってきた、石塊のように堅い大根や人参を無言で刻み続けた。情念が込もっているわけでもない、ただただまな板に刃の突き当たる単純な衝突音が、ぼくは無性に怖かった。姉が料理に取り掛かるたび泣き喚くと、今度は首元が涙と汗で蒸れ、たまらなくむず痒かった。姉は包丁を左に握り締めたまま、右手の二本指ぼくの顎を挙上し、「痒そう」と呟いた。ベビーパウダーを押し当てる指先は、沸騰したばかりの薬缶のように熱かった。
 中学一生の姉は英語を、年少組のぼくは日本語を勉強した。姉はクッキーアソートの包装紙の裏に、アルファベットのAと、平仮名のあを併記した。「あ」人差し指をメトロノームのように振りながら、姉はその字を読んだ。「あ」と真似たぼくに、続けて姉が「エイ」と指差して読んだ。「エイ」と真似たぼくに、姉は口をつぐんだ。アルファベットのIと、平仮名のい、が隣り合わせになる。「アイ」と彼女が読み、ぼくも「アイ」と倣った。姉は「アイ」と繰り返すばかりで、いつまでも「い」に進もうとはしなかった。
 平成の後に死にたいという父の願いは、余命からして尺足らずだった。年号にこだわりのないぼくたちが、生きながら平成の最後を通り過ぎるのは、なんだかアンフェアだった。「どうして昭和、平成なんていうの」姉の知らないことをぼくが知っているはずもなかったが、苦し紛れに電話台のメモ帳を千切り、「昭和」「平成」と縦に並べた。試みに家族三人の名を川の字で連ねたかったが、ぼくらは全員別々の寝室をあてがわれていた。「昭和、平成、昭和、平成」筋道だった答えを思いつけぬまま、ぼくは二つの名前を繰り返した。「とりあえず、平和だ。和だし、平らかだし」その場しのぎの答えだったが、姉は心から納得したように、ぽん、と右の拳で左の掌を叩いた。懐かしい動作を、ぼくも真似た。ガッテン。
 晩年の父は、健康番組を好んで視た。人生も最終局面なら、もうすこし価値のある番組に時間を費やせばよさそうなものを、父は黙然と、教会のイコンを取り囲む信徒のように、真剣極まる様で善玉悪玉コレステロールの模式図を熟視しているのだった。隣で体育座りをしたぼくに、父は「見るか」と訊ねた。「見てる」と答えた僕に、「そうじゃなくて……」とリモコンに手を伸ばしたまま、父は黙った。特売品のサーモンが、切り刻まれている。姉が三歳の僕の前で握り締めていた包丁は、いまでも台所の主役だった。四つ足で硬直した父の背に、座ろうと思えば、きっと座れた。鼻糞色の悪玉コレステロールが、プラスチックのように透明な冠動脈にへばりつき、血流を滞らせ始める。ガッテン。父は死ぬ。最終的には僕も姉も死ぬわけだが、今年中に終わるのは父だけだ。油の栓が突如として吹き飛ぶと、今度は細かな紅色の血栓が、あっという間に動脈の中身を埋め尽くしてしまう。銀縁眼鏡の老人が、胸を押さえて和室の畳に崩れ落ちる。この俳優は、父より何歳年下なのだろうか。
 父は長い溜息をつきながら、頭を落とした。「動脈硬化心筋梗塞のリスクになります」老年内科の大学教授が、厳粛な声音で語り掛けてきた。顔のてかりと、勿体ぶった両手のジェスチャーが、不愉快でしょうがなかった。「脳卒中心筋梗塞、大動脈瘤の、リスクに、なります」息を吐き終えると、父は突然「うーっ」と唸った。ぼくは、リモコンを蹴り飛ばした。買い替えてまもないプラズマテレビの、ボード下に滑り込んだ。父は腹立たし気にますます唸り、僕は欠伸を噛み殺すふりをした。ゴールイン、ガッテン。人生は長い。

 

 記憶をかき集めるほどに、その集合と父という全体は乖離を増していくようだ。都合のいい歪曲は仕方ないとしても、思い返すほどに自分の内側の父と、本当に生きた父との距離は広がり続けていく。悲しい以前に不思議で、その淵を思うと、ただただ思考が霧散する。
 ぼくは、父の仕事を知らない。物語修復人という、仕事部屋の中央に藤のリクライニングチェアを、サイドテーブルに催眠術の道具に並べて、顧客たちの物語をどう修復していたのか。幼かったぼくは、家の中で小金を稼ぐ父を、魔法使いか錬金術師かと夢見ていた。同時に、習慣の夜歩きも、本当は定期的な空き巣じゃないかと疑っていた。真っ当な実業とは、これっぽっちも思っていなかった。あながち遠い直観でもなかったろう。揚げたてのコロッケで白米を口に運びながら、ぼくは父の行き先をめぐって想像を逞しくしていた。
 姉の帰りは遅く、ぼくは昔から夜型生活だった。子供には相応しくない時間と解り切っていても、夜十一時に食べさせてもらえる竜田揚げや肉豆腐は、どうしようもなく美味しかった。翌朝に、晩の残りを温め直してもらうのもいい。姉は、ぼくを放置せざるをえない時間を埋め合わせるかのように、なるたけ出来立ての夕飯を食べさせようと努力してくれた。いつでも腹ペコのぼくには嬉しかったけど、ちょっぴり気分は重かった。作り置きでも、レンジで温め直すのでも、姉の料理は十二分に美味しいのに。どうせなら、父がご飯を作ってくれればいいのだ。「なんで亭主が飯を作る」そう頼んだぼくに、父は実に不思議そうに問い返した。母は居酒屋勤務だったから、どのみちぼくは夜型民族だったろう。家族四人の生活でも、自分はこの家の重荷なのだろう、と無根拠に確信していたに違いない。
「おいしい?」毎回の質問に、ぼくは必ず「おいしい」と答えた。だっておいしいし、食育の成果で、ぼくには好き嫌いがないのだ。父は違った。芋とか人参とか大根とか、根菜はとにかく貧乏臭い、運が落ちると勝手なことをのまたい、すぐ肉料理を要求した。「お金が足りない」姉の指摘に、父はそれこそスーパーの牛肉みたいに顔を真っ赤にして、両足で憤然と床を叩きながら、「嫌味か!」と怒鳴るのだった。「事実よ」姉が家計簿を開こうとすると、父は急にうろたえて口ごもった。姉の茶褐色の手肌は、ゴボウの皮に似ていた。
 そのわりに、ぼくには貧乏の記憶がない。ぼくは家計を食事内容によってのみ判断し、我が家のエンゲル係数は高かった。大豆食品は多かったが、結局は姉も肉好きで、冬のぼくたちは一週間に二度も同じ鍋を囲んだ。すき焼きの牛肉争奪戦では、「俺の金だ」という父の抗議は完全に無視され、かえって卵を三個も四個も贅沢に割るのを注意されていた。
 父がときどき飯抜きで出かけるのは、稼ぎの悪さを、遅い夕食として突き付けられたくなかったから、だけではなかったと思う。大好きな夜が、待ちきれなかったのだ。姉の目を盗んでぼくを誘拐し、行動範囲の狭い息子ですら歩き慣れた住宅街の道を、縦横斜め、無法図に、そして嬉しそうに歩き続けた。流れる川の暗さに目を細め、回る星の眩さに瞠目し、突然立ち止まっては、ぼくに「ほら」とか「あれ」とか、簡単な言葉でぼくには見えない何かを指差した。きっと路地の隅に枯葉が積み重なっていたとか、果実酒の空瓶が転がっていたとか、そんな他愛ない風景に違いない。違いないが、父にはきっと特別な発見物だった。
 酒も飲めず、つるめる友達もいない父は、勤め人で賑わう居酒屋の赤提灯を、少し恥ずかしそうに通り過ぎていった。終電を見送り、閉じ切った駅のシャッターの前で、背伸びをしていた父の嬉しそうな横顔を、いや、父もそんな時刻まではぼくを連れ回さなかっただろうから、想像と現実の混同に違いないのだが、ぼくは、記憶している。冬には黒の襟巻に厚着を重ね、夏には藍色の作務衣で渡り歩いた夜道の踏み心地を、舗石の黒い輝きを、父は死に際で思い出したのだ。そうで、あって欲しい。でなければ、父は牢屋のような中庭へ小窓が開いたきりの、あの昏々と暗い血液内科の個室で、どうやって夜の時間を潰したのか。
 全身状態が悪化する。寝たきりになる。退院後は車椅子が必要ですね、と血液内科医が手続きを約束する。全部無駄になる。父は院内で死ぬ。根治術なし。抗癌剤で正常細胞と癌細胞を皆殺しにしようと、放射線で病を焼き続けようと、深く埋もれた病根は芽を伸ばし、茎を生やし、食い潰す。摂理だ。受け止める他ない事実だ。時間が解決する。記憶は要約される。入院以来見かけなかった黒猫が、闘病生活の終わった丁度その日に、庭先へ姿を現わす。猫嫌いだったはずの姉が、自分の手から、夕食用のささ身を分け与えている。
「飼うつもり」ぼくが訊く、姉がいう。「まさか!」
 餌の乗った父の手を、この黒猫は容赦なく噛んだ。姉の手から大人しく肉を食むのを眺めながら、人生はうまくいかない、とぼくは四十二歳にあるまじきことを考えた。今のぼくには、それが間違いだと理解出来る。全ての人生が死をもって終わるなら、その場所こそ正しい目的地なのだ。どう生きようが、人生は全て適切に終わる。父も、正しく生き終えたのだ。
 十年後、麻酔に耐えきれず、術中に死亡した肝臓癌の患者を見送ったぼくは、自分が独り身として死ぬ未来を想像し、誰一人とも適切な関係を結ばなかったことを後悔する。二十年後、術後翌日に死亡する、工事現場の三階相当の高さから転落した若い男に麻酔をかけているぼくは、自分の後悔を忘れている。三十年後に医局長に就任した直後、若い同僚が薬物中毒で逮捕され、ぼくは田舎の病院へ飛ばされる。四十年後のぼくは、生きている間に根治可能になると勝手に思い込んでいた悪性リンパ腫で、死亡する。姉は、電車に乗り遅れたでもしたように、間の抜けた顔でぼくの最期を眺めていた。いちばん最後じゃなくて良かった、とぼくは勝手な安心感を抱く。アルファベットを読む声が、遠くから聞こえてきた。

 

 小学生のぼくは、摘んだ野花を砂場に埋めるのが好きだった。紫の小花を千切り尽くし、日光を吸って熱い砂の下に埋めた。内側で拳を握ったり解いたりしたときの、液体とも固体とも定め難い不思議な感触が、気持ちよくてしょうがなかった。ぼくがむしりとった野花が本来ならばいくつもの実を結び、その数だけの生命を産出し得たことを思うと、今現在のぼくはおかしな罪悪感に駆られ、昔のぼくは爽快だった。この手に握り締めた、青紫のオオイヌフグリの花のなかに、何百何万の命が詰め込まれている。無性に興奮したぼくは、砂の深く、出来る限り誰の手足にも掘り返されない深い場所に、花という花を埋め続けた。
「おい、息子」藤棚の影下から、父はヘンテコな呼び方をした。砂上にあぐらをかいていたぼくは、自分のまたぐらへ視線を落とした。父は薄目を開いただけで、それ以上の言葉はかけようとしなかった。次の埋葬分を採り始めた僕の背後を、犬を連れた老婦人が通り過ぎた。花を摘むのに夢中のぼくを、彼女は懐かしむように笑い、麦色の柴犬は軽蔑の眼で見てきた。急に恥ずかしさが湧いたぼくは、草の汁と手汗で濡れた掌の中心に、じっと目を据えていた。夏風が吹き、老婦人は陽向のベンチに座った。柴犬も飛び乗り、父のように仰向けで横たわった。蛇口で洗い流した手は、ほのかに塩素の匂いがした。体育座りで、目の高さがちょうど柴犬と同じになった。夏日の照る真昼に、老婦人は白のチューリップハットを被ったまま、首を垂らし、瞑想でもするみたいにじいっと眼を閉じていた。気分は番犬なのか、柴犬は公園全域を鋭い目つきで監視していたが、眼前のぼくには関心を持ってくれなかった。なんだか悔しくなったぼくは、栗色の両眼のまえで激しく手を振った。柴犬はひょいと首を高く持ち上げるだけで、父は依然として眠り続け、母親たちは他愛ない会話に花を咲かすばりだかった。途端に自分が、この公園で唯一ひとりぼっちだと気付いた。脱力して垂れた両腕を、水滴が細く静かに流れ落ちていった。今度は柴犬だけが、消沈したぼくの眼を見つめていた。舟を漕ぎ始めた老婦人の手から、リードの持ち手が落ちた。どきどきしながら、ぼくは取っ手の輪を拾い上げた。「おい」ぼくの呼び声に、柴犬は首を傾げるだけだった。誘拐は、未遂で終わった。
 二十年後、父が「お前達の孫は期待しない」と明言する。姉は結婚するが、年齢にしては早過ぎる卵巣癌が発見され、子宮を取り去られる。ぼくは何人かの女性と関係を結ぶが、結婚には踏み込めず、麻酔の仕事にのみ熱中する。月に三日だけの相手なんて、どれほど気楽で素敵だろうと勝手な妄想をしていたが、実際にはただの財布男だった。姉が家計を管理していた以上、小遣いの支給にもその都度申請が必要だった父は、財布以前だったに違いない。
 それでも、父の知人を名乗る複数の未知の老女たちが、日に何人も病室を見舞っては、姉や女同士で争うこともせず、あでやかな花束を手渡してきた。「生花は緑膿菌の温床ですよ!」病棟の婦長は断固として花の設置を許さなかったから、ぼくたちも安心出来た。優美な女たちは、姉の手をまるで聖人のように跪いて取ったり、看病の苦労を慰めたり、わざわざ慈愛たっぷりに励ましてくれたりもした。まったく、余計なお世話だった。
 父は女たちに次々辛辣な文句を投げかけていったが、彼女たちは耐え忍ぶように両目を閉じ、輸液で膨れた父の手を順々に取っていった。「やめろ!」父が絶叫すると、彼女たちはますます憐れむように、握り締めた手を自分たちの胸元へ運ぶのだった。ぼくが耐えられずに口を開きかけたところへ、「すみません」と姉が短く言い捨てた。彼女たちは微笑を崩さず、悠然と部屋を出ていった。「おい」残されたアルストロメリアの造花を、父は弱々しく指差した。花を手渡すと、父は両手で引きちぎろうと試みた。息を切らすだけだった。
 病室には果物の籠が増殖し、「果物はいいのか」と父に不思議がらせた。もっともな疑問だが、ぼくには死病の見舞いに花や果物を持ち込む神経も不思議だった。誕生日パーティーじゃないんだぞ、ここは。
 網目の色鮮やかな高級メロンを抱き締めて、姉が「これはケーキ」と決定した。「メロンケーキ」と父が問い、「メロンケーキ」と姉が答えた。「メロンケーキ……メロンケーキ……」ぐったりしつつも、期待に満ちた柔らかな声で、父はのんびりと繰り返した。薬みたいな名前だな、とぼくは思った。点滴バッグからは、ただ透明な液体だけが滴り落ちてくる。「いいね、メロンケーキ」同調こそしたが、ぼくには完成図がまったく思い浮かばなかった。

 

 東京までは、電車一本。父はぼくらを都内散策に誘ったが、姉が家を出たがらなかった。「外は見飽きた」説得は、ぼくでも難しい。「見飽きない外に行こうよ」姉は右の母趾に爪切りを当てたまま、時間でも止まったように硬直していた。「どこ?」姉の問いに、具体的な行先を知らされていなかったぼくは、まともに答えられなかった。「東京……」割れ爆ぜる音がして、爪の破片が眩く飛んだ。左足で踏むと、足底に痛くて気持ちよかった。「ティッシュ取って」命じられるがままに渡すと、姉は右手に広げたティッシュに左足を乗せ、休符と音符を交互に繰り返すように、正確なリズムで爪切りを続けた。それに合わせて、ぼくは背伸びを繰り返した。両足を切り終えると、四つ折りのティッシュが手渡される。掌には組織の確かな堅さが伝わり、ゴミ箱に放るのが名残惜しくてしょうがなかった。「忘れてる」姉が指差したのは、床上でバナナ型に潰れた最初の一枚だった。片足立ちで見た左の足底に、桃色の曲線が残っている。なんだか嬉しい気持ちで、ぼくは爪を捨てる振りをして、パジャマのズボンにしまった。両手を上げた格好で姉に寝間着を脱がされて、余所行き用のポロシャツを着させられたときも、親指と人差し指で挟み隠した。「楽しみ?」ぼくの上機嫌を勘違いしたのか、姉はちょっぴり羨ましそうだった。「行かない?」「家のことがある」ボタンを閉めてもらいながら、ぼくは家のことを心の中で挙げていった。トイレ掃除、風呂掃除、台所の油汚れ、黒猫を追い払う、掃除機、洗濯機、庭に干す、畳む、箪笥に仕舞い込む、夕食の買い出しと用意、家計簿の記録、それから、ぼくの着替え。「わー」こんなにたくさんの仕事が思い付くことに感動し、思わず両腕を振り上げると、「じっとしてて」と姉が掴み下ろして、最後に両袖のボタンを閉めてくれた。余所行きの格好をしたぼくは、姉を貫くドリルのつもりで、姉の胸元へ頭をぐりぐり押し付けていた。
 エプロンの隙間からする塩素系漂白剤の臭いで、ぼくの回転採掘運動は途中停止になった。姉はぼくを押し退け、パステルカラーに刺繍された、純白のタオルを何枚も何枚も畳み続けた。ぼくは滑らかに動き続ける手つきを眺めながら、積もり続けるこの家のことが、いつかは家自体の大きさをも超え、ぼくら全員を呑みこむ巨大な怪物になってしまうんじゃないかと変な妄想に耽り、指の間の爪を、何度も何度も御守りみたいに握り続けていた。用意の遅い父は、いつまでもぼくを呼んでくれなかった。

 

 父のメロンケーキに関して、姉は手作りに、ぼくは店屋物にこだわった。高級メロンを素人の菓子作りで台無しにするよりは、池袋なり銀座の百貨店で小洒落たメロンケーキを買ったほうがいい。メロンタルトとか、メロンプリンとか、メロンパイでもいい。だいたい、手作りなんて湿っぽいだろう。助手席からの説得を、運転席は完全に無視した。
 わずかな化粧品や手帳と一緒に、病室の巨大マスクメロンまで詰め込まれた藍色のトートバックは、今にも姉の膝下ではちきれてしまいそうだった。メロンの種子が発芽し、茎が分枝し、花を結び、鳴った小粒の実がたちのわるい腫瘍のように果糖を溜め込みながら隆々と膨れ上がり、北海道から都内までトラックで運ばれ、百貨店の青果売場で竹の籠に林檎や葡萄と一緒くたに収納され、上品な女たちの手に渡り、そうしてあの狭苦しい病室から連れ出されているわけだ。ぼくは溜息をつき、週刊誌の目次をめくった。同じ国のどこかでバンドボーカルと女性タレントが不倫しているのに、なんでぼくは他人の贈り物にケチをつけようとしているんだろう。だいたい、姉の得意料理は牛肉の時雨煮とか肉豆腐とか、押しなべて茶色い。表紙が風呂場のタイルみたいにツルツルで、角の異常に鋭い婦人雑誌には、まったくもって無縁の人生だ。北欧のプレートなんて、我が家には一枚もない。
 丸めた週刊誌で自分の太腿を叩いていると、車は見覚えのないY字路を左に進んだ。誕生日パーティーに、初挑戦のケーキを用意するみたいなものだ。意見を通せない自分が情けなかったが、一度もお菓子作りの余裕などなかった姉の人生について、つい考えずにはいられなかった。「どこ?」「近道」一方通行の細い道路を、姉は延々と曲がり続けた。本当は、故意の遠回りなんじゃないか。ぼくは雛菊スカートの襞を観察したり、窓を開閉したり、週刊誌で自分の肩を叩いたりした。「いいね。手作り」姉が微笑む。「いいでしょう」皺の淡く浮かんだ横顔は、記憶のマザーテレサに似ていた。大通りのローソンで、席の交代。
 停車中の車内で、ぼくはローソンの赤玉メロンプリンを、姉はクックパッドを検索していた。三百円しないし、これだってメロンだろ。「どう」アクセルを踏んだぼくに、姉が五年前のスマートフォンを見せてきた。「どうかな」メロンヨーグルトムースケーキ。走り出す。「どう」深緑の断面が美しいメロンパウンドケーキは、レシピ中程で緑色色素を投入していた。色素なんて、そんなにお手軽に手に入るものなのか。「どうかなあ」「どう」メロンでメロンパン風パウンドケーキ。「メロンパンはメロンじゃない!」パウンドケーキ好きのぼくだって、メロンでメロンパンをこしらえられたら怒るぞ。赤信号。「どう」墓石型のスポンジケーキに大量の生クリームを盛り付け、切り刻んだメロンをあられのように振りかけた、単純明快なメロンのショートケーキ。メロンケーキは、やっぱりメロンが主役じゃなきゃ。「それだ!」「なるほど」「なにが」ぼくの疑問には答えることなく、姉はレシピの解説文を音読していった。母の誕生日のために作りました、ティータイムにも是非。メロンが苦手な旦那様のために、頂き物の高級メロンをすり潰してパウンドケーキに、大好評でした。苺のない六月が誕生日の息子のために、苺の次に好きなメロンをたっぷり使ってあげました、最後にチェリーや蜜柑を飾れば完成。姉の舌が「ために」を拾い上げるたび、ぼくは眉を吊り上げた。五キロ走ったところで、額の筋肉が痙攣を始めた。

 

 父のメロンケーキ会には、自宅外泊が必要だった。申請書を手渡された父は「なんで帰るのが外泊なんだ」とふて腐れ、案の定ぼくが代筆することになった。骨髄抑制がかかり、免疫機能の低下した父を、何日も連れ回すことは出来ない。誕生日でもない翌日の昼に、ぼくが父を連れ帰った。姉は前日の夜遅くまで大はしゃぎで製菓器具を買い集め、今朝も早くから大量の卵を割っていた。上機嫌な姉に、とても運転なんて任せられなかった。
 点滴の針を外し、明日の薬を受け取って、ぼくらはエレベーターに乗り込んだ。「葬式みたいだな」一階のボタンを押したぼくに、父はにやりと笑った。「葬式だよ」
「なんで葬式は本人を呼ばないんだ」枯れ枝のように痩せ細った腕を、父は堂々と組んだ。「主役不在だろうが」ぼくは、二階と三階のボタンの間に、指を二本置いていた。エレベーターは三階で停止し、聴診器を首にかけた童顔の医者が、憮然とした顔で入ってきた。ぼくは、研修医を終えてから一度も聴診器を使っていない。医者の後で、ぼくたちは一階に降り立った。「かもね」息子の無意識の言葉に、父は首を傾げた。「何がだ」「うーん」なんだっけ。父は認知機能のテストで満点を叩き出したが、ぼくは正直怪しい。           
 姉のアウディは蒸し暑く、父は「冷房」と命じた。ぼくは従い、車は出発した。近道は要らない。家なんて、既知の道だけで帰れるはずなのだ。ぼくは呆けたように外環を走り続け、赤信号で急停止した。「おーい」遅い呼び声のあとで、列車のように長い鋼鉄のトラックが、延々とぼくの視界を塞いだ。「おい!」と叫んだぼくに、父は平たい声で語りかけた。「人生は長い」車が何台通り過ぎても、信号は青になってくれななかった。ぼくの掌が、ハンドルの中央に伸びる。「人生は長いぞ」父は繰り返し、信号は青になった。足は素早くアクセルを踏み、手は引っ込むのが遅れた。九官鳥みたいなクラクションに、父が口笛を吹いた。前方を見続ける他ないドライバーには、赤面の隠しようがなかった。父は側方を、淡緑色の茶畑を見ていた。「長いといえば、長くなった」なるほど。自分に言い聞かせる呪文みたいなものか。「だったら、良かった」「うん」
 ぼくは、父との会話に飽きつつあった。三十年も親子の関係で過ごしてきて、飽きないほうが不思議だ。水分を失った臍の緒のように、温度の抜け落ちた関係だった。「人生は長い」ぼくがそう口に出したのは、単純な感想としてだった。「だろう」道路は長い直線で、併走してそびえる高速道路が日を遮って薄暗かった。十年後の自分からすれば、今現在の自分は、過去のなかに息づいているわけか。高速道路は右に蛇行し、ぼくは速度を落とした。唐突な白色光に、目を焼かれたのだった。ぼく以外、同じ方向を走る車はなかった。再びアクセルを踏んだときには、父は居眠りを始めていた。あんな狭い病室で、毎日が負け戦だ。それこそが、病気との付き合い方らしい。
 人生の全体に比すればあまりに短い期間のうちに、一気に死への道筋を駆け登らされているわけだ。人生は、適切に重荷を配分しようとはしてくれないみたいだ。ぼくはアクセルを加減して、常に時速四十キロを保つよう試みた。速度計は三十八キロとか、四十二キロとか、標準偏差の範囲内を彷徨い続けた。半世紀生きて、死なない生物のほうが変だろう。膝からずれ落ちた、腐った葡萄のような茶色の手の細胞ひとつひとつに、五十年の遺伝子異常が蓄積されている。ぼくは速度を五十キロに上げ、窓を開けた。果てしなく加速を続けていけば、自分の魂も記憶も車内から放り出されていくのではないかと考えつつも、結局ぼくは法定速度を越えられなかった。時速四十キロの風を、四十年後のぼくが思い返す。

 

 静まり返るぼくたちの家に、父は観光客みたいに目を輝かせていた。空き部屋ばかりの荒れ果てた木造建築は、表面の木材も剥がれ落ち、誰かの一蹴りでペシャンコに押し潰れてしまいそうだった。百年後にでもタイムスリップしたみたいな気分で、自分が学生時代に居着いていた家とは信じられなかった。サザエさんのエンディングの、線描の家が家族の突進でぐにゃぐにゃに折れ曲がる場面を思い返していると、庭の影から黒猫が忍び歩いてきた。顔見知りのはずのぼくたちに、黒猫の一瞥はよそよそしかった。父の差し伸べた手から、黒猫は困惑気味に後ずさりし、ついには身を翻して逃げてしまった。父は無念そうに唸り、ぼくは噛まれなかったことに安心した。どんな感染症のキャリアか、わかったものではない。
 合鍵を回すやいなや、甘い芳香が鼻を打った。互いに顔を見合わせ、おそるおそる居間へ入る。ぼくたちは、姉の満面の笑みに出迎えられた。「見て」普段は焼きそば用の青い大皿に、石窯で焼いたピザ一枚分ぐらいの、巨大なスポンジケーキが積まれていた。「びっくり!」言葉を失ったぼくの感情を、姉は正確に言い当てた。びっくりだし、どうするんだよ、これ。
 古墳型のスポンジケーキは、全面を大量の生クリームで塗り固められていた。乳白色の分厚い表面層に、球体にくり抜いたオレンジ色の果肉が、これでもかとばかり贅沢に散らしてある。ぼくは、精巣捻転の手術を思い出していた。台所は橙色の果汁で汚れに汚れ、銀色のボールには薄力粉と卵黄がべっとり残存し、ねばついたメロンの種子と卵の殻がシンクの底で混ざり合っていた。ぼくは腕を組んで目を閉じ、父は新種の生物でも観察するみたいに、うきうきとこの惨状を眺めていた。「食べよう」ぼくが両手を叩くと、姉は食器を準備しながら、スポンジを膨らませる難しさについて楽し気に語り始めた。
 父は机の外周をぐるぐる回り、三百六十度で巨大ショートケーキを観察すると、「メロンケーキだな」と心底嬉しそうにいった。球体の配置だけは、見事な放射線状だった。ぼくと父が着席すると、姉は円を四つに等分した。「八!」ぼくの叫びは無視され、父は姉の手捌きを嬉しそうに目で追い続けていた。ぼくは頬杖をつき、四分の一メロンケーキを観察した。 スポンジ生地の断面は隙間だらけで、クリーム層との間にも大量のメロンが挟んであった。これはもう、完全なメロンケーキだった。父は呑気な歓声を上げながら、皿を延々と時計方向に回していた。食欲の減退している父は戦力外として、はたして姉に協力するつもりはあるのか。「召し上がれ」姉は自分の取り皿も出さずに、残りのケーキから球体を一個だけ口に放り込んだ。岬の突端部を縦に切ろうとしたが、生地がぐにゃぐにゃに折れ曲がり、綺麗な垂直には断ち切れなかった。悲惨に崩れた一塊を金メッキのフォークに乗せ、父と同時に口へ運んだ。「おいしい?」姉はご機嫌に笑いながら、包丁を縦に握り締めていた。ぼくが言葉に迷っていると、父がむっと眉を顰めた。
「……そのままのほうがうまかったな」
 包丁の切先が、びくりと震えた。
「お前は?」
 不敵な笑みと共に、父はフォークの矛先を向けてきた。薄弱な笑みを浮かべ、フォークを右手で回し始めたぼくを、父はアッハッハと快活に笑い飛ばした。つられてぼくも、そして姉までもが、大声で笑った。調子外れの三重奏みたいに、ぼくらはばらばらに笑った。【了】

花を断つ言葉 ――幸田文『季節のかたみ』

 

季節のかたみ (講談社文庫)

季節のかたみ (講談社文庫)

 

 

 幸田文の『季節のかたみ』に、「壁つち」という随筆がある。書き出しが、まずうまい。
 
 死なせるとか、ころすとか、まことに穏やかならぬことを、これはまた至極おだやかな調子でいっているので、なんのことなのかときき耳をたてたら、壁土づくりの話しをしているのだった。
(「壁つち」)
 
 野呂邦暢なんかもそうで、だいたい抒情的とか評価される書き手こそ案外一流のアルチザンだったりするのだが、なんのことか、誰の話かと「きき耳をたて」ざるを得ない書き出しをしている。どこそこに入っていく、というのは物語の書き出しの一定型であって、それは読み手がまさに小説のなかに入っていくのと登場人物の歩みを重ねられるからなのだが、幸田のこの書き出しもその類だろう。
 で、壁土つくりとはなにか。
 「死なすの殺すのとは、腐らせることなのである。念入りな建物には、壁もまた念入りになるが、そういう時、壁の材料である土は、二年も三年もかけて、いちど十分に腐らせてから使う。その腐らせることを、話していたのである。」どうも「壁つち」の「職人さんたち」の話らしい。

 
 しかし、それにしても、土をころすとは、どういうことなのかとおもった。ものを爛熟させることは、寝かす、寝かせるなどという、やさしい言葉も使うのだから、それを殺すと荒々しくいうのには、それ相応のなにかがあるのだろうと察した。するとその私の気持ちを見抜いたように、なにしろ土は生きているのだから、殺さなければ思うようには使えない。それに土は性根の強いものだから、死なすには相当ほねを折らなければならないのだ、という。
(同上)

 

 「壁つち」のための土は、水をくわえて、何度も何度も職人の足で踏みつけられてこねられる。「子供のどろんこ遊びとおなじで、なんと汚らしく、そして滑稽である」と幸田が思わず笑うと、すかさず職人に切り返される。

 
 遊びなどとはとんでもない、難行だという。鼻のもげそうな悪臭で、口もなにもききたくないほどな、我慢のいる仕事だと、いまただ話すのにさえ顔をしかめる。嗅いだことのない人には、話しても到底わからないが、あの嫌な臭いのなかで、くちゃくちゃ踏んで捏ねるのは、とてもとても、けぶにもおかしいなんてものじゃない――ときびしくいったものの、ちょっと戸惑って考えているふうで、「へんだな、こうして実地の仕事でなく、話だけのことでしゃべってみると、あの作業は、やはりなんだか可笑しいな。話だと、臭いということ自体が、もうおかしさをくすぐるし、しかもそれを足で捏ねる、とくればいかにも滑稽だ」ととうとう自分が笑いだす始末になった。
(同上) 
 
 「が、当人にそう笑われると、今度はこちらが笑え」ない。悪臭、土を踏む触感を想像する。実作業には滑稽味など「毛ほどありはしない」のに、「ただ話できけば、なにかおかしくなるのは、どういうわけだろう。それが実地と話とのちがい、というものだろうか」と、不思議がりつつも、「それはさておき」と話が移る。

 
 では、土が生きている、とはどういうことなのか。土が、本来持っている自分の性質を持ち続けているかぎりは、生きている土なのだという。それなら、土本来の性質とはなにか、といえばそれは、固まる、ということなのだ。(……)念入りな壁をつくろうとする際の壁土としては、土本来の性質のままに固まられたのでは、いい壁にはならない。(……)だからどうしても、性来の固まる性質を一度くさらせ、殺して、いわば癖抜きをするのである。
 (……)そのものの形態の、そのもの本来の性質も、ともに消し去ってしまうのが死というものだが、この場合は、本来の固まるという性質だけを消して、土そのものの形は残る。しかし、本来の性質をもっている土を、生きている土と考えるのだから、その性質を消そうとする時、それはまさに、死なす、というほかないのである。こちらの意志や力を敢えて加えて、死なせるのである。
(同上)

 

 このあと話題は人間の「持って生れた性質」というものに流れていくわけだが、そもそもこの問答は、「実地と話とのちがい、というものだろうか」から始まっている。幸田はその自問の答えをはっきり書いているわけではないが、「実地」が「くさらせ、殺して、いわば癖抜き」された形として、「話」として固まるからこそ、「なにかおかしく」なる。本人にとって陰鬱で真剣な作業ですら、時間を置いて「くさらせ」た末に、誰にでも通じる言葉へと「癖抜き」してしまえば、そこに「滑稽」が生まれる。ここで幸田が「土」の生死を書きながら同時に暴き立てているのは、まさに幸田が「随筆」として書き語ることの、どうしようもない作為、一般化に滲む「滑稽」ともいえる。
 幸田の文章に滲む詩性、幸田の詩学は、おそらくこの「癖抜き」に自覚的であるからこそ成立する。好きな作家のわりに今更気付いたのだが、幸田の文体には強烈な癖がある。後から癖をつけるのではなくて、最初から物事に染み付いた癖を、極力殺さないようにする用心である。たとえば同じ『季節のかたみ』に収録された、「季節の楽しみ」のこんなくだりなど。
 
 洗濯物の乾き具合で、春の到来をたしかめるという奥さんがありました。どんなに転機のいい日でも、冬のうちは乾き方がとろんとしている。春がきざせば、それが力のある乾きになる。ことに純綿物は、糊をしたかのような張りをみせて乾く。
 だから、その日そういう手ざわりで乾けば、暦よりも実地で、自分は自分なりの、確かな春の手ごたえをうけとっているのだといいます。
(「季節のたのしみ」)
 
 幸田文の随筆には、しばしばこうした聞き書きの場面が出てくる。実際にこの発言がどこまで本当にあったのかはちょっと疑わしいが(なんせ近所の主婦から旅行先のタクシー運転手、職人までみんながみんな感性が鋭過ぎるので)ともかく「乾き方がとろんとしている」というくだりが、否応にも目を引く。こんな形容をさらりと出来るのは幸田文ぐらいなものとも思うが、こういう異様な感性の発露を読み手に難なく読ませてしまう仕掛けが、ひとつには聞き書きという形式であり(自分が感じたことを自分の言葉で書く、という体裁と、人の感想を聞き書きする、というのでは真偽はともかく書くほうも読むほうも距離感が変わってくる)ひとつにはその形容の短さだろう。こういう特異な表現が延々と続いてしまえば、とても読めた代物ではない。もちろんそれは幸田も分かっていて、いちばん癖のある、粘つくような表現をさっと一度だけ挿入して、その場面はさっさと終えてしまう。
 
 私は花を片付けるのが好きで、終りの気配を察しると、しおれを見ないうちに始末する。むらがって咲く小菊などは、先に咲いた花から、順につまみ取ってやる。そのほうがかえって、一花一花を惜しむことであり、庇ってやることだと思うのだが、人によっては、枯れるまで置いておくのが、いとおしみ深いという。……私にあうとフリージアなど、元のほうからどんどん花を摘みとられて、しまいにはあの特徴のある花柄の、くねりの突先に小さい花が一つになるから、人がみな、変な恰好だといって笑う。たしかにおかしな形だとはおもうが、清潔で、いい匂いを放つ、あのやさしい白い花がしなびて、うなだれていくのは、私は見るにしのびない。
(「ことしの別れ」)

 

 こんな具合に、潔く花を切る幸田の手つきと、一瞬だけ強烈な形容詞を置き残して場面を終わらせていく筆の運びとは、似た動作のように思える。たとえば布団が「とろん」と乾くとき、冬の日の布団に染み付いた、いちばん深い部分の「癖」を抜き出して、後の部分はさっさと切り落としてしまう。文章の書き方でいえばごくシンプルで自然なものだが、そこには確かに、生のものを「殺す」手の動きがある。話は最初に戻るが、「壁つち」はこんな文章で締めくくられている。随筆にこんな表現は適切かわからないが、掌編にしては比較的長く膨らませてからの、話を断つ一文だ。
 

 ついでながら、ここで話されていた壁土は、富豪の豪華な住宅に使われるものではなく、富まぬ寺の、祈念のために造られる建築物に使用されるものである。この夏、土は捏ねはじめられるという。
(「壁つち」)

 

 生といっていい現実を捏ね、癖を抜き出し、速やかに固めてしまう幸田の言葉が向かう先は、大体の場合は「時代から消えていくもの」への「淋しい」哀悼である。現実について書くとき、人は当然、常に生の現実に遅れて書くしかないのであって、終わったことを言葉に書き直し、文章記録として固める動作には、この「淋しい」感情が付きまとう。現実から何がしかを削ぎ落とすしかない、ぐだぐだと待っていては腐り落ちてしまう。切り落とす言葉には、そんな切迫感があると思う。

焦燥と承認

 人は書きたいから書く。そんな純粋な行為に、書くこと自体とはまったく無関係な苦悶が伴うことがある。得られぬ評価、承認を望むが故の苦しみ、焦燥である。
 書くことの承認と焦燥を主題にした短編に、菊池寛のデビュー作『ある無名作家の日記』がある。
 登場する文科の学生・佐竹は、「黙々と」千五百枚を超える「長編の創作に従事」したと語り、語り手「俺」に「何かの偉さを持っているに違いない」と確信させる。一方で、今度完成させた百五十枚の短編は、先輩の小説家に送ればきっと文芸誌に推薦してくれるに違いないと語り、「俺」に「その「呑気さ」を「淋し」く思わせる。「あの人(※佐竹の先輩の小説家)は、投書家からいろいろな原稿を、読まされるのに飽ききっているはずだ。こんな当てにならないことを当てにして、すぐにも華々しい初舞台ができるように思っている佐竹君の世間見ずが、俺は少し気の毒になった。実際、本当のことをいえば、文壇でもずぼらとして有名な林田氏が、百五十枚の長編を読んでみることさえ、考えてみれば怪しいものだ」。
 これは佐竹に対する憐憫と同時に、他ならぬ「俺」への批判でもある。
 そも東京の高等学校にいた「俺」が京都の文科に移ったのは、同じ文芸部に所属していた面々の「秀れた天分から絶えず受けている不快な圧迫」に「堪られなくなったためだと、いえばいわれないこともない」*1ためであり、そこには「もうよほど、文壇の中心から離れている」「それでも文壇の一部とはある種の関係がある」中田博士の知遇を得れば、文壇への紹介も非現実ではないという算段があった。「俺」の「呑気さ」を裏付けるように、中田博士に提出した七十枚の自作は、いつまでも未読のまま放置される。
 
 そもそも、「俺」が文芸部員たちから「不快な圧迫」を感じずにはいられないのはなぜか。
 たとえば作家の佐伯一麦は、自分の著作が世に出ないことに悩んでいたとき、先輩作家の三浦哲郎に「なあに、あわてなさんな。お先にどうぞ、と腹をくくることだよ。これは僕が苦しかったときに、井伏先生がおっしゃった、いわば師匠直伝の言葉なんだ」と助言されたという(『麦主義者の小説論』)が、これが良識だろう。「圧迫」など、馬鹿馬鹿しいといえばそれまでだ。
 この「不快な圧迫」をうまく説明した文章に、最近たまたま出会って、なるほどなあ、と唸った。


 承認欲求が先にある研究では、成果が出てこそ人に認められるので、どうしても成果を急ぐことになります。また他の人が評価されれば、相対的に自分の評価が下がったように感じて、競争心が芽生えます。競争心は、自分を鼓舞して頑張る原動力にもなりえます。しかし、競争に常に勝ち続けるのは非常に難しいことです。また承認欲求を第一の目的にして競争心に煽られながら研究を続ければ、自分をどんどん消耗し、どこかで破綻をきたす可能性が高くなります。 
 承認欲求を持つこと自体は、社会的な動物である人間にとってある程度必然的なことです。小さな子どもは親から認められ面倒をみてもらうことではじめて生きていけるので、親から嫌われることはしないようになります。このような子どもの承認欲求をさらに強固にするのが、賞罰教育です。勉強ができれば褒めれば、それをモチベーションにますます頑張る。できなければ怒られるか、少なくとも褒められはしません。受験などは承認欲求と競争を凝集したようなシステムです。
 私たちは子どもの頃からこうした環境で育っていますから、承認欲求を断ち切るのは非常に難しいのです。特に研究者を志すような人たちは早くからエリートと呼ばれる機会が多く、人から承認されていないことに慣れていないのです。
(佐藤雅昭『なぜあなたの研究は進まないのか』)

なぜあなたの研究は進まないのか?

なぜあなたの研究は進まないのか?

 

 

 菊池寛の時代でいえば、東京の「高等学校」とは「エリート」の進学先だ(おそらくは旧制一高)。『ある無名作家の日記』で、「俺」の「創作家になることを志した理由」が「中学時代に作文が得意であったという、愚にもつかない原因」なのは、案外設定として巧みである*2

 そもそもこの高等学校の文芸部は、「俺」には競争の舞台でしかなかった。「俺」は、「東京にいて、山野や、桑田などと競争的になるのが不快で堪らなく」なったが故に京都に逃れたのだ。そしてその「不快な圧迫」から逃れたようで、実際には「彼らとまったく違った境遇におれば、彼らに取り残された場合にも言い訳はいくらでもある」などと、なお執拗に意識せずにはいられない。物理的な距離とは裏腹に、対象を余計に意識し嫉妬を膨らせるのがこの小説の勘所だが、実に変な話でもある。
 この「承認欲求」は、いつ、どうして発生してしまうのだろうか。
 
 これから研究を始める、あるいは今研究をしているあなたにはぜひ一度立ち止まって、なぜ研究をしているのか、研究を何を求めているのかを考えてほしいのです。他人からどう思われるかではなく、しっかりとした自分自身の価値観、自分は人にどう思われようと何々だから研究するのだ、と言い切れる確固たる自我を確立してください。研究の本物の醍醐味、面白さは、そのような地に足の着いた研究姿勢から生まれてくるはずです。
 「承認欲求」をできるだけ否定し、自分自身の確固たる目的意識に沿って研究する……そんなことはできるのだろうか?  至極ごもっともな指摘です。たしかに研究では、成果を人に知ってもらわないと自己満足に終わってしまいますし、論文として世に出すためには通常はまずReviewerを納得させなければなりません。
 重要なのは、評価の対象が「あなた」ではなく「論文」あるいは「研究結果」だと意識的に区別することです。ケチをつけられても、それは「あなた」への非難ではなく、研究結果そのものに問題があるのではないかと意見されている、ということです。総じて、論文がReviewerに認められることは、「私自身」の研究目的を果たすために必要であると同時に、研究そのものをより良くするために重要であり、子どもが親から認められたいと思うような原始的な承認欲求とは次元の違う話です。
(佐藤雅昭『なぜあなたの研究は進まないのか』)

 

 研究についてのこの本が、本来それとは無関係な小説を書くうえでの方法論として読めてしまったのは、両者に共通の流れがあるからだ。いずれも、Reviewer(査読者・編集者)に読まれたうえで、acceptまで何度も修正を繰り返したり、時には書いたもの全てをreject(掲載拒否)される。
 論文のrejectが研究者の非承認ではないように、小説のrejectも書き手の非承認ではない。が、この二つを切り分けることは存外難しい*3。最初の地点に戻れば、そもそも、人は認められるためだけに書くのではない。競争と承認という原理に今現在突き動かされていたとしても、最初の動機はまずもって喜びなのではないか。
 精神科医神谷美恵子は、有名な『生きがいについて』で「真のよろこびをもたらすものは目的、効用、必要、理由などと関係のない"それ自らのための活動"」とし、「生きるよろこび」の原形を子どもの「あそび」に見出しつつも、「よろこび」についてこう触れている。
 
 ベルグソンはよろこびには未来にむかうものがふくまれているとみた。たしかによろこびは明るい光のように暗い未知の行手をも照らし、希望と信頼にみちた心で未来へむかわせる。何か不幸な事情でもないかぎり、みどり児に見いる母親の眼ほど未来と生命へのそぼくな信頼にあふれているものはない。(神谷美恵子『生きがいについて』)

生きがいについて (神谷美恵子コレクション)

生きがいについて (神谷美恵子コレクション)

 

 

 この「未来」に開かれる感触が失われ閉塞したとき、人は過去に立ち返る他なくなるのだろう。もっとも、その過去の積み重ねが現在なので、本当は懐かむ道理などないのだが、それでも暗い現在からは輝かしく見えてくる。その残像は後悔を掻き立て、傷を刻む。たとえば、「俺」の心に。

 

 俺は、彼らに対抗するために、戯曲「夜の脅威」を書いている。が、俺の頭は高等学校時代のでたらめな生活のために、まったく消耗しきっている。この戯曲の主題には、少し自信がある。が、俺のペンから出てくる台詞は月並みの文句ばかりだ。中学時代に、自分ながら誇っていた想像の富贍なことなどは、もう俺の頭の中には、跡形もなくなっている。
菊池寛『無名作家の日記』)

 

 「中学時代」の作が、「月並みな文句ばかり」でないわけがない。「俺」がここで理想化し懐かしんでいるのは想像力ではなく、むしろ自分はこれから未来に歩いていけるという、開かれの感触なのではないか。裏返せば、この開かれていく、これから変じていくという希望、「前途に目標をすえ、それにむかって歩いて行こうとする」(神谷美恵子)力が失われたとき、人は承認で現在の自分を保つ他ないのではないか。承認欲求が原始的な、低次の欲求だとしたら、その根本部分が露出するほどに欲求する心が痩せている。*4
 
 生きるのに努力を要する時間、生きるのが苦しい時間のほうがかえって生存充実感を強めることが少なくない。ただしその際、時間は未来に向かって開かれていなくてはならない。いいかえれば、ひとは自分が何かにむかって前進していると感じられるときにのみ、その努力や苦しみをも目標への道程として、生命の発展の感じとしてうけとめるのである。
神谷美恵子『生きがいについて』)

 

 「俺」の「中学時代」は、「何かにむかって前進している」と無条件に保証してくれた。あるいは「高等学校にいた頃」もそうだ。「なあに! 僕たちの連中だって、今に認められるさ」「そうとも、文芸部で委員をしていた者は、皆文壇的に有名になっているんだ」という文芸部での会話には、傲慢ではあっても、たしかに「前進」の希望がある。彼らから伝染したその気分を、「自信があったというよりも、自分の真実の天分なり境遇なりを、自分でごまかしていくことができたのだ」という俺の読みは、単に現在から過去の意味を汚しているだけではないのか。 
  こういう開かれの希望は、「中学時代」の後、すなわち無条件な保証を失ってからは、意図的に持つ必要があるのだろう。では希望は、どのような手続きで作り出せるのか。
 「将来の或る時を待ち望んでただ現在の苦しい生を耐え忍んでいなくてはならないひともある。この場合にも現在の毎日が未来へと通じているという、その希望の態勢に意味感が生じる」(『生きがいについて』)。神谷美恵子のこの記述とまるっきり逆なのが、佐竹だろう。
 
 いつか、あの男の部屋を訪問した時、実際あの男は、もう三百枚もあるという草稿を俺に見せた。その上、少年時代からずうっと書き溜めた高さ三尺に近い原稿を、俺の前に積み上げた。
「百枚ぐらいのものなら、七つ八つありますよ。このうちで、一番長いのは五百枚の長編で、俺の少年時代の初恋を取り扱ったもので、幼稚でとても発表する気にはなれませんよ。はははは」と笑ったっけ。俺は、あの人の他産に感心すると共に、その暢気さにも関心した。発表する気にはならないといって、もし発表する気にさえなればすぐにも出版の書店でもが見つかるような、暢気なことを考えているのだ。俺はあの男のように、発表ということや、文壇に出るということについて、少しの苦労もない心理状態がかなり不思議に思われる。あの男は、ただ書いていさえすればそれで満足しておられるのかしら。
菊池寛『ある無名作家の日記』)
 
 「書いていさえすればそれで満足しておられるのかしら」と「俺」に思わせるような「暢気さ」と同時に、佐竹には「俺の小品が七枚でも活字になったこと」に「激昂」するような「焦燥」がある。この「暢気さ」は、単に「俺」に対する余裕ぶったポーズ、つまりは傲慢の裏返し、だけではない。
 本当は、こういう諦観に近いのではないか。
 
 実は論文を書いた側の問題で一番根が深いのは、初稿を書き終えた段階で燃え尽きてしまって、それ以上の手を打とうとしなくなることです。論文を指導教官に渡した段階で、すでにその論文がどうなるかは自分の問題ではない、ボールは相手のコートにある、あとは相手がどう打ち返してくるかだと思いこむわけです。これは書く側の甘えであり、ひどい場合には、論文作成の作業そのものにすでにうんざりしているので、指導教官が論文を返してくれないことをある種の言い訳にして、それ以上何もしようとしない状況を目にします。結局、論文を書き上げてpublishするということが本心では面倒で嫌になっているのだけれど、さすがにそう表明するのははばかられるので、誰かのせいにしてしまって自分はそれ以上何もしない(楽をする)という心理です。
(佐藤雅昭『なぜあなたは論文が書けないのか』)

なぜあなたは論文が書けないのか?

なぜあなたは論文が書けないのか?

 

 

 他人事として読めないので、自分の話をする。
 こういう状況に陥ると、読んでくれる相手の反応が無いほうが安心する。アリバイ作りのために書く始末になる。私は書いている、書き続けていると自分に言い聞かせるためだけの小説に、未来への開かれや希望などあり得ないし、無気力が沈殿しただけの作品と向き合うことは、単に苦痛でしかない。提出後の時間を呆然と過ごし、読んでもらった相手からコメントが返ってきたとしても、改訂する気力など起こりようがない。ただ惰性で、ありもしない義務を果たした気になるだけだ。*5
 佐竹は「俺」と初めて言葉を交わすとき、やたらに「枚数」の多さを誇る。
「実は今、僕は六百枚ばかりの長編と、千五百枚ばかりの長篇とを書きかけているのだ。六百枚の方は、もう二百枚ばかりも書き上げた。いずれでき上がったら、何かの形式で発表するつもりだ」
 こう語る佐竹を、「俺」は「自分の力作に十分な自信を持っていて、俺のように決して焦っていない」とあるが、枚数と質は違う。枚数は書けば積み上がるもので、これが自分の努力の純粋な結果だ、あとは他人がどう評価するかと線引きしてしまえば、これほど都合良い指標はない。
 あとはすべて、自分にはどうしようもないことだ。たとえば「感性」が違い、「経歴」が違い、「立場」が違う。自分の小説がrejectされるのは「片々たる短編ばかり」載せる雑誌の問題、あるいは「どっしりした長編」を歓迎しない「日本」の問題、つまりは受け入れない相手や状況の問題と化す。
 他人事として笑えない人は、私だけではないのではないか。
 
 これは「何のために自分は論文を書くのか?」という本質が理解できておらず、やれと言われたからやる、といった「やらされ感」がそうさせるのだと思います。心当たりのある人はもう一度自問してみましょう。Publishまで持っているかどうかは結局、他でもない"あなた自身"にかかっているのです。
(佐藤雅昭『なぜあなたは論文が書けないのか』)

 

 何のために自分は書くかとは、書くことでどこに向かうのかと、開かれた感触を取り戻すための問い掛けなのだろう。同時に、何のために自分は書いてきたのかと問うことは、それだけで確かに書けてきた、そこまで歩いてきた自分の足取りを実感出来る。書けてきたなら、書くはずなのだ。
 「書きたいから書く」は間違っていない。しかし本当にそれだけで書けるなら、わざわざ理由を己に問い質す必要など無いはずだ。「書く理由など無い、書いたから書いたのだ」と言い切れる態度は、単純に美学として格好良い。理想的ですらある。けれど「書いたから書いた」だけでは満たされないとき、そこには何らかのアップデートが必要になる。
 その小説を書くこと自体で、どう変われるのか。それを、具体的に思い描けているかどうか*6
 『なぜあなたの研究は進まないのか』では、研究上の困難に窮したとき、「次のステップに進めるか、砕け散る(精神的に落ち込んで立ち直れなくなる、研究自体をギブアップする)かの分かれ道は、他の人との対話ができるか」と断言する。それが出来ないのは、「他の人は自分の研究の困難さ、自分の悩みを真に理解してくれないと思ってい」たり、あるいは「周りに自分がぶつかっている困難な状況を話すことは、自分の無能力さを露呈することだと(無意識に)思っている」から。

 

 あなたの抱える問題は、相談したからと言ってすぐに解決するほど簡単ではないことが多く、だから相談しても無駄だと思ってしまうでしょう。しかし、他の人の意見には、あなたが気付いていない、思いがけない問題解決の糸口があることが多々あります。また、あなたの持つ困難を他の人に説明する過程で、直面している課題が客観視できるようになり、次にどうすればいいかが自然と見えてくることもあります。
 ここでよくありがちなのが、あなたのこと(大抵は愚痴がほとんど)ばかり話してしまい、せっかくの他の人の意見に十分耳を傾けない、という状態です。これを避けるために、傾聴する力が問われます。あなたが話すだけでなく、対話ではむしろ相手からの意見・アドバイスにしっかり耳を傾けることが不可欠です。
(佐藤雅昭『なぜあなたの研究は進まないのか』)

 
 村上春樹の『職業としての小説家』を読んだとき、長篇小説を書くときの異様な鷹揚さに驚かされた。村上はまず、長篇の第一稿を仕上げた後(もちろん一か月から二か月の推敲込みで)一週間を置き、二回目の書き直しに入る。その後にまた半月から一か月放置し、更にまた三回目の書き直しを行い、第四段階として「第三者の意見」を取り入れるのだという。これが終わった時点で、ようやく編集者に「正式に」読んでもらう。ここまで時間をかければ、「頭の加熱状態はある程度解消されていますから、編集者の反応に対しても、それなりにクールに客観的に対処することができます」。
 
 とにかく書き直しにはできるだけ時間をかけます。まわりの人々のアドバイスに耳を傾け(腹が立っても立たなくても)、それを念頭に置いて、参考にして書き直していきます。助言は大事です。長編小説を書き終えた作家はほとんどの場合、頭に血が上り、脳味噌が加熱して正気を失っています。なぜかといえば、正気の人間には長篇小説なんてものは、まず書けっこないからです。ですから正気を失うこと自体にはとくに問題はありませんが、それでも「自分がある程度正気を失っている」ということだけは自覚しておかなくてはなりません。そして正気を失っている人間にとって、正気の人間の意見はおおむね大事なものです。

村上春樹『職業としての小説家』) 

職業としての小説家 (新潮文庫)

職業としての小説家 (新潮文庫)

 

 

 他人の声をしっかり聴取することは、極めて難しい。作品と自分を切り離そうと意識し努力しても、心の抵抗はどうしても生じる。『なぜあなたの研究は進まないのか』では、指導教官のコメントに「自分が時間をかけて書いたものが全否定されたように思」い、「全然この論文のことを解ってくれない」と「逆恨み」する描写があるが、私がつけてきた留保はこうだ――「あの人には文学の素養がないからわからないのだ」(すごい)「私とあの人では読んでいる小説の時代や好みが違う」(私は昭和文学が好きなので、人と好みがずれることは多々あるが、好みが違うからこそ見てもらう価値があるだろう)「所詮は他人の小説だと思っていい加減に読んだのだ」(なら見せるなよ)「この程度のコメントなら私ひとりで反省しただけでも出来る」(どういうことだ?)。

 

 「第三者導入」プロセスにおいて、僕にはひとつ個人的ルールがあります。それは「けちをつけられた部分があれば、何はともあれ書き直そうぜ」ということです。批判に納得がいかなくても、とにかく指摘を受けた部分があれば、そこを頭から書き直します。批判に同意できない場合には、相手の助言とはぜんぜん違う方向に書き直したりもします。
 でも方向性はともかく、腰を据えてその箇所を書き直し、それを読み直してみると、ほとんどの場合その部分が以前より改良されていることに気づきます。僕は思うのだけど、読んだ人がある部分について何かを指摘するとき、指摘の方向性はともかく、そこには何かしらの問題が含まれていることが多いようです。
村上春樹『職業としての小説家』)

 
 村上春樹のこの長い修正が「鷹揚」に感じられたのは、振り返って、自分は書き上げた草稿を放り出したくして仕方ないからだ。動機の相当がアリバイ作りなのもあるし、他人のコメントを聴取し修正に活かせない以上は、このまま手元に置いても仕方ない。「まずは数打ちゃ当たるだ」という内心の声が、さらに悪く作用する。それは時に書けない人の救いになり得るし、時に焦燥を加速もさせる。後者の場合は、佐竹の、結局は枚数さえ稼いでしまえばそれでいい、という投げやりな発想と、何ら変わらない。承認欲求がそれに拍車をかける。「承認欲求が先にある研究では、成果が出てこそ人に認められるので、どうしても成果を急ぐことになります」(『なぜあなたの研究は進まないのか』)。
 だいたい、草稿を書き終えた後になってまで「数打ちゃ当たる」にすがらねばならない時点で、あるいは待てないこと自体が、焦りの証拠だろう。
 引用部にあるように、村上のこの「第三者導入」は、正式に読まれるまでの予行練習だ。この正式とは、論文なら指導教官やReviewer、小説なら新人賞や編集者が相当するだろう。そこに至りつくまで、まずは心理的に抵抗の少ない人間から段階的に読んでもらう。最初は難易度の低いところからだ。*7
 
 佐竹は決して「俺」に小説本文を読ませようとしないし、たぶんそれは「俺」相手に限ったことではない。「俺」が佐竹に読ませるのも、雑誌に掲載された後だ。村上の鷹揚さは自分の熱狂が冷めるのをひたすら「待つ」態度にあるが、佐竹や「俺」の「暢気さ」は、「待つ」のではなくむしろ絶望に硬直している。そこには「現在の毎日が未来へと通じているという、希望の態勢」(神谷美恵子)とはかけ離れた、ただ現状の苦痛をやり過ごす態度しかない。
 致し方ないといえばそうかもしれない。休息も必要だ。ただ、どこかで区切りをつける必要もある。
 待った先の未来図がなければ、現在において待ちようがない。繰り返すけれども、その希望は、幸福な「中学時代」が終わった後は意識的に構築する他ないのだと思う――少なくとも、鬱屈の後の再出発では。あるいは推敲こそが、それによって作品の質が高まる、より素晴らしい作品になるという希望無くしてはあり得ない。推敲そのものが、希望の所産である。第三者と希望を共有することは、最初の抵抗こそ間違いなくあっても、希望を強化する最良の手段だろう。
 欲求される承認とは、未来の承認ですらなく、まずもって「やらされている、これをやるしかない」という義務感、不全感をやり過ごし、現在を鎮痛するための承認でしかないのだろう。
 しかし、それでは根本の問題は解決しようがない。
 
 どのようにして、人は「待つ」ことが可能なのか? あるいは、粗製乱造でも、無気力状態による断筆でもなく、「将来の或る時を待ち望」む「希望の態勢」は、どのようにして獲得されるのか。
 それは第一に己の焦燥を自覚し、承認が前景化している現状を見返すことだろう。承認欲求と焦燥感は同時に現れるか、あるいはどちらかが初発の症状として先行する確率が高い。そもそもの書き始めた根を思い出し、同時に書いた先の未来を具体的に設定する。行き先を計画すれば、そこに前進すべき道のりが、希望が生まれる。そうして「待つ」心をまず作ることなのだろう。
 第二に行動として「待つ」ことで、正式に読まれる際の予行練習として、そして「正気」を取り戻す待機のためにこそ、「第三者導入」が必要となる。その際に予想される心理的な抵抗や言い訳をあらかじめ予期し、書き出しておけば、それが対処策になり得る。声は自然には聴き取れない。少なくとも私はそうだ。であれば、考え得る失敗への準備は必要だろう。*8

 
 流行作家! 新進作家! 俺は、そんな空虚の名称に憧れていたのが、この頃は少し恥ずかしい。明治、大正の文壇で名作として残るものが、一体いくらあると思うのだ。俺は、いつかアナトール・フランスの作品を読んでいると、こんなことを書いてあるのを見出した。
(太陽の熱がだんだん冷却すると、地球も従って冷却し、ついには人間が死に絶えてしまう。が、地中に住んでいる蚯蚓は、案外生き延びるかも知れない。そうするとシェークスピアの戯曲や、ミケランジェロの彫刻は蚯蚓にわらわれるかも知れない)
 なんという痛快な皮肉だろう。天才の作品だっていつかは蚯蚓にわらわれるのだ。
菊池寛『ある無名作家の日記』)

 

 これは皮肉でも諦観ですらなく、単に自傷である。それは「俺」がいちばん自覚しているし、「学校を出れば、田舎の教師でもし」たところで、その「平和な生活」には、この「恥」の記憶と、佐竹が見せた「暗い顔」がちらつくだろう。時間が解決してくれる可能性はある。埋め合わせとなる何かを見出すこともあるだろう。だとしても、この結末だけではさすがに悲しい。
 もっとも、菊池寛はこの半私小説を手に一歩前へ進んだ。それだけで、十分救いだという気もする。

麦主義者の小説論

麦主義者の小説論

 

 

*1:精神科医の大野裕によれば、人は気弱になったとき、自分の内心の言葉すら婉曲な形で表現するという(『はじめての認知療法』)。

*2:たしか『それでも作家になりたい人のためのブックガイド』で、共著者のどちらかが「作文が出来たから作家になりたい」と語る人の多さに憤慨していた記憶があるが、笑えない指摘である。

それでも作家になりたい人のためのブックガイド

それでも作家になりたい人のためのブックガイド

 

 

*3:ただし『ある無名作家の日記』終盤の山野の手紙には、小説をrejectすることで相手個人に傷を与えようとする悪意が、でなければ軽蔑に近い軽慮が、少なくとも一か所にははっきりとある――「君は高等学校の一年生時代から、思想的には一歩も進歩していないね」これはとどめを刺す一句で、山野がどうしてこうまで「俺」に執着するかはよくわからない。

*4:それほど疲弊した人間に対して、たとえばその承認欲求を本人の「弱さ」と結び付けて責め立てるなど残忍極まるのであって、聞くたびに胸が痛む。

*5:「指導教官など論文を読んでくれる人に対して、reminderのメールを送ったり、顔を合わせたときに「あの論文の件ですが」とremindしたりといったことをこまめにすることは重要です。「ただでさえ忙しい指導教官にそんなことできない」と思う人がいるかもしれませんが、指導教官が忙しければ忙しいほど、この作業を怠ればお蔵入りのリスクが高くなります」(『なぜあなたは論文が書けないのか』)
 この先は「どうしても気を遣ってしまって、remindできない」場合の方策に続くが、読んでもらう相手にリマインド出来ないのは、そもそも読まれたら困る場合もある。このときの言い訳にこそ、私は「相手も忙しくて事情があるだろうから」を選んだ。リマインドすら出来ない作品を送ってしまったのは、他ならぬ自分が最初に解っている。何度も修正を重ね、やり切ったという自信と、これ以上はもう改善のしようがないという満たされた諦観を以て待つ時間と、後述するが、とにかく数打ちゃ当たるで提出だけ繰り返し、リマインドも送れず、義務からの解放感と、それよりはるかに強い罪悪感と後悔に浸って呆ける時間を比較すれば、まず前者のほうが短いし、しかも充実している。

*6:これはたぶん「三人称を扱う練習にする」とか「この語を極力使わないようにする」いった、馬鹿馬鹿しいぐらい素朴な目標でのいいだろう。「こんな小説を書いてみたい」というコンセプトがあれば、そこまでの道程を段階に分けていくのもいい。いずれにせよ、目標は達成可能な行動や具体的なポイントと結び付けたほうが、変化と進歩を実感し易い。変わった先の自分を、誇大妄想的に理想化すること、あるいは具体的なステップを思い浮かばぬほど抽象化して描くことは、逆に有害だろう。

*7:『なぜあなたは論文を書けないのか』には、私のような甘ちゃんには、なかなか衝撃的なくだりがある。「初稿を書き終えて最初のハードルは、指導教官など他の誰かに論文を見てもらうところです。書いた本人は、「書けた!」という解放感に浸っているかもしれません。しかし、特に論文作成の初心者はここで要注意です! 初稿に目を通してもらうこと自体が、あなたが思っているほど簡単ではないのです。
 最大の理由は、初稿が論文として読むに堪えるレベルに至っていないことです。これは衝撃でしょう。せっかく書いたのに、読んでもらえるレベルにない……と!? しかしこれが現実です。最初からキチンと書けるほど、論文は甘いものではありません。
 次に問題になるのは、初稿が読むに堪えないものであったとして、それを読めるレベルまで引っ張り上げてくれる援助者が近くにいるかどうかという点です。初稿の手前の段階、草稿を見て改善点を教えてくれるような人が近くにいるのは、実に大きなポイントです。
 読むに堪えないレベルの論文に目を通し、アドバイスを与えることはかなり難しく、多大な労力を要することなのです。まずこのことをよく理解して、論文を読んでもらうことを当たり前と思わず、感謝の気持ちを持つことも大切です」

*8:認知の見返し、そして行動の変容をめぐる名著に、ここでは紹介し切れなかったが大野裕『はじめての認知療法』がある。これは、たとえば不全感、あるいは己の怠惰に悩むあらゆる人々に薦めたい。もとは抑うつに対するリハビリテーションと生活指導の手引きとして書かれた本だが、そもそも焦燥はDSM-5のうつ病の診断基準にあるぐらいだし、重度のうつ病でなくとも抑鬱に効果のある本だ。

はじめての認知療法 (講談社現代新書)

はじめての認知療法 (講談社現代新書)

 

 

意味の検証

 あの頃は、二十五枚から三十枚くらいの短編が盛んで、形容詞はこれでいいのかなどと激論をたたかわせた時代さ。私と同世代から、もっと小説家が出ても良かったんだろうが、あまりにもそういう議論がうるさくてね。書いたって、七、八行以上進みやしない。たとえ進んでも、四、五枚さ。クソミソにけなすからね。一語一語吟味するんだ。酒の味の議論みたいに。「この形容詞は一体何だ」「そんなんじゃ、ダメだ」「どう考えて、この言葉を使ったんだ」じつにうるさく議論する。
(秋山駿『私の文学遍歴――独白的回想』)

私の文学遍歴

私の文学遍歴

 どう考えて、この言葉を使ったんだ、という。言葉を表現に、表現を作品に広げれば、何のためにこの表現はあるのか、何のためにこの小説はあるのか、となる。この戦後まもなくに小説を書く大学生の議論を、自分とまったく無縁だと断じれる人は、そう少なくない気がする。自問なら、なおさらありふれた問いかもしれない。
 書く人が、どこかで一度はぶち当たる問いである。どちらかといえば、物語を読ませることを主とする小説より、それ以外を読ませようとする小説を書く場合のほうが、ぶつかる頻度は高いだろう(最初に引いた秋山駿は、「太宰治のような小説をめざすと、ほとんど三行ぐらいごとにケチがついた」のだという)。何のためにこの小説はあるのか、という問は、「なぜ書くのか」という私的な問いよりも、さらにやっかいだ。自分のことは自分で割り切れたとしても、他人は自分で割り切れない。

 どう書けば、人はこの小説に意味を認めてくれるのか。
 そもそも小説の意味とは何か、では厄介そうだ。それでは「自分はなぜ書くか」に出戻るか、問い自体に「絶えず手を触れ」る、あるいはその触れる「手の感触を確かめる」しかない(秋山駿『私小説という人生』)。つまり、解けない問いに立ち往生するしかない。
 手の感触といえば美しいけれど、それでは実用にならない。問うべきは問う心自体の真摯さではなく、技術であってほしい。「小説にはどんな意味があるのか」では、曖昧過ぎる(これを強引にねじ伏せようとしたのが辻邦生だが、ねじ伏せきれていない気がする)。「意味」を「書く私にとっての意味」に解体するだけでは、片手落ちだ。であるならば、細分すべきは小説だろう。小説において意味ある表現とは、そもそも何か。
 三島だって、ぶち当たっている。
  
 小説を書いていると、大げさなことをいえば、「彼は家へ帰ってきて飯を食った」と書いても、その一行に小説の全運命、全宿命、全問題がみなかかってくるような気がして、その一行書くだけでくたびれちゃう。とにかく「彼」という人間がいるのかということがまず問題だ。「家」というのがまず問題だ。「家へ帰る」ということがまず問題だ。そのなかに全社会、全歴史が入っちゃっている。「彼」がいるのかいないのか、だれがわかりますか。平気で「彼」なんて書くでしょう。よほど無神経でなければ小説が書けない時代になってきたのかもしれないな。
三島由紀夫の発言――中村光夫三島由紀夫『対談・人間と文学』)

対談・人間と文学 (講談社文芸文庫)

対談・人間と文学 (講談社文芸文庫)

 
 これは、書きあぐねた人にこそ共感を覚えさせる告白なのではないか。ありふれた一文に「全運命」「全宿命」「全問題」が集約されてしまうのは、この小説には何の意味があるのか、という素朴で手強い問いが凡庸な部分にこそ立ち現れるからである。私小説に置き換えれば、自己、自意識、などという曖昧極まる地点で、問う心が麻痺してしまう。あまりにも漠然とし過ぎていて、何をどう問えばいいのか解らなくなる。
 やはり、まずは具体的な地点から出発すべきだ。意味のある表現とは、何なのか。

 裏から考えると、無意味な表現はまず単発である。小説に限らず、映画や漫画であっても、突拍子もなく出現し、そしてどこにも繋がらない要素は、登場人物だろうが具体的な事件だろうが、印象には残りにくい。一回しか登場しないような人物に、重要そうな名前をつけるのには抵抗がある。
 文章は、意味論理の流れに沿って進んでいく。最初にこのような言葉があれば、当然次はこのような場面へ展開していくだろうと、身構えつつ読むのが自然だ。人生に予想外の破調があり、その人の続けてきた生活が一旦は途絶えたとしても、過去の流れはいつのまにか蘇ってくる。前回と同じく横光利一の『春は馬車に乗って』の冒頭に立ち返るなら、

 海では午後の波が遠く岩にあたって散っていた。一艘の舟が傾きながら鋭い岬の尖端を廻っていった。渚では逆巻く濃藍色の背景の上で、子供が二人湯気の立った芋を持って紙屑のように坐っていた。
 彼は自分に向って次ぎ次ぎに来る苦痛の波を避けようと思ったことはまだなかった。
横光利一『春は馬車に乗って』)

 外界の「波」を受けて、「苦痛の波」へ話が転じたところから、

 このそれぞれに質を違えて襲って来る苦痛の波の原因は、自分の肉体の存在の最初に於て働いていたように思われたからである。彼は苦痛を、譬えば砂糖を甜める舌のように、あらゆる感覚の眼を光らせて吟味しながら甜め尽してやろうと決心した。そうして最後に、どの味が美味かったか。 
 ――俺の身体は一本のフラスコだ。何ものよりも、先ず透明でなければならぬ。と彼は考えた。(同上)

 ここでちょっとよくわからなくなって、

 ダリヤの茎が干枯びた繩のように地の上でむすぼれ出した。潮風が水平線の上から終日吹きつけて来て冬になった。(同上)

 不可解なうちに冒頭の「ダリヤ」が再び顔を現し、更に「一本のフラスコ」から「茎」へ接ぎ木され、晩秋から「冬」へと時が流れ、
 
 彼は砂風の巻き上る中を、一日に二度ずつ妻の食べたがる新鮮な鳥の臓物を捜しに出かけて行った。彼は海岸町の鳥屋という鳥屋を片端から訪ねていって、そこの黄色い爼の上から一応庭の中を眺め廻してから訊くのである。(同上)

 「食べる」ところで、なるほど「砂糖を甜める舌のように、あらゆる感覚の眼を光らせて吟味しながら甜め尽してやろうと決心した」の「舐める」が流れてきたのだな、とようやく落ち着く。利一が、「彼は苦痛を、譬えば砂糖を甜める舌のように、あらゆる感覚の眼を光らせて吟味しながら甜め尽してやろうと決心した。そうして最後に、どの味が美味かったか」という浮き足だった文章を、どうしてこんな部分に差し挟んでしまったのか、自分にはちょっとわからない。削りたい。好みに過ぎないが、なんだか、特別な感覚感性の持ち主みたいで、いやらしい。利一自身も、深く考えずに書き挟んでしまったか、あるいは小説の外側から不用意に持ち込んできてしまった考えなんじゃないか。「俺の身体は一本のフラスコだ。何ものよりも、先ず透明でなければならぬ」という比喩も、前文との関連がわからない。なんとなく、言葉の勢いで読まされている気もしてしまう。しかし、そのような勢い、言葉の力自体は、「午後の波」から「苦痛の波」へ、さらに苦痛をぐるりと正反対に裏返した「砂糖を舐める舌」から、「美味かった」への着地という流れの確かさで成立しているのだろう。
 鳥屋に戻ろう。「逆巻く濃藍色の背景の上」から「砂風の巻き上る」で渦が繋がり、

「臓物はないか、臓物は」
 彼は運好く瑪瑙のような臓物を氷の中から出されると、勇敢な足どりで家に帰って妻の枕元に並べるのだ。
「この曲玉のようなのは鳩の腎臓だ。この光沢のある肝臓はこれは家鴨の生胆だ。これはまるで、噛み切った一片の唇のようで、この小さな青い卵は、これは崑崙山の翡翠のようで」
(同上)

 「舐める舌」が「臓物」に結ばれ、これから食される「臓物」と日々病に侵される妻の「臓器」が重なり合う。瑪瑙のような、という新しい比喩が湧き上がり、それが「曲玉のような」「光沢のある」「翡翠のような」へ流れ継がれていく。比喩も単発でなく、こんな風に別の言葉を導き出せば流れが生まれる。先の過程を含めて比喩の力になるわけで、鮮やかな表現を一撃で繰り出せなかったとしても、その先で力を宿すことは出来る。むしろ、そうでなくては、無意味で無力な時間稼ぎにしかならない。
 
 すると、彼の饒舌に煽動させられた彼の妻は、最初の接吻を迫るように、華やかに床の中で食慾のために身悶えした。彼は惨酷に臓物を奪い上げると、直ぐ鍋の中へ投げ込んで了うのが常であった。(同上)

 どきどきする描写だ。「一片の唇」と「饒舌」の舌から「接吻」へ、さらに「身悶え」へ流れが続いて、「身悶え」の苦悶が「残酷」の二字を呼び起こせば、

 妻は檻のような寝台の格子の中から、微笑しながら絶えず湧き立つ鍋の中を眺めていた。
「お前をここから見ていると、実に不思議な獣だね」と彼は云った。
「まア、獣だって、あたし、これでも奥さんよ」
「うむ、臓物を食べたがっている檻の中の奥さんだ。お前は、いつの場合に於ても、どこか、ほのかに惨忍性を湛えている」
(同上) 
 
 「身悶え」が「獣」に流れ着いて、さらにどきどきする。看病がひとつの交歓に昇華していくのは、これはもう病妻小説の定番だろうが、実に自然な流れだ。「檻のような寝台」は「鳥屋」から。『春は馬車に乗って』の冒頭は、こんな風に複数の流れが絡み合って前へ前へと進んでいく。「この形容詞は一体何だ」とか、「どう考えて、この言葉を使ったんだ」などとは、口を挟みにくい。
 次の表現を生む水源になれば、それこそが表現の意味になる。次のこの部分に繋がるのだ、と答えられる。流れる先が三つ四つと連なっていけば、問う気力自体が起こりにくい。
 
 意味とは流れじゃないかと、ひとまず結論する。
 そもそも何故、作品に意味を問わねばならないのか。自分を振り返れば、それはこちらの心に何物も流れてこないときだ。あるいは、ひとつの言葉が自分の心に繋がらなくとも、小説内のどこかには繋がっていてほしい。風通しが悪い、という皮膚感覚を退屈な文章に覚える人はたぶん少なくなくて、そこで巻き起こる風、の感触が指し示すものも、流れ、繋がりの欠如かもしれない。あるいは、淀んでいる、という不快さである。
 読む意味のある小説とは、読んだ前後で自分の人生や生活の流れが変わるものだ、という人もいる。私に最初に小説を教えてくれた人は、「読んだ前後で感覚が変わる小説を書きたい」と繰り返していた。なかなか難しい理想だが、書くこと自体の意味は、必ずある。次の小説に繋がるのだから。それこそ三つか四つ書いてしまえば、根本の意味を問う必要は、そうないのではないか。「生産力のあるものだけが真実である」と、ゲーテの詩にあるらしい。ある表現の生産力は、その先でどれだけ多くの語や表現や世界を産めるか、で測れるだろう。続きを書きあぐねたとき、新たに流れを生めそうな表現を前文に探したり、どん詰まってしまった一文を消したりするのは、案外有効な術である。
 そのゲーテは、「この世で人を欠くべからざる存在にするものは、愛以外にない」(『若きウェルテルの悩み』)と書いた。ドイツ文学者の手塚富雄は、こんな風に注釈している。

 だれしも人間としてこの世に生きるかぎりは、あってもなくてもいい人間にはなりたくない。人々にとって大切な、欠くことのできない存在でありたいと願わずにはいられないだろう。どういう範囲のなかで、というのは、第二、第三の問題である。わずか数人に、いや一人にとってなくてはならない存在であるにすぎなくとも、その意味は軽くない。ところでそういう存在になりうる秘密は何かを、ゲーテはここで言いあてたのである。
 それはその人が愛をもつことである、いましている仕事に、またはいま自分にかかわりのある人たちに、愛をもつということだけが、その人の存在の意義を据えるのである。才分や能力は、生まれつきの優劣もあって、さしあたりはどうすることもできないものである。だからそれだけを基準にすると、われわれはわれわれの存在に絶望しないわけにはいかない。しかし愛なら、われわれの心がけしだいで、自分のものにすることができる。はじめからそれができなくとも、最初は親切を主眼にしてやっていけば、だんだんほんとうの愛に育つかもしれない。そういうふうに愛をそそぎうるものを見つけ、そしてその愛をもちつづけたら、われわれは才能は貧しくとも、この世でなくてはならない存在になりうるのである。そのとき、われわれは自分の愛がいよいよ深いものになることを願わずにはいられないだろう。
手塚富雄『いきいきと生きよ』)


 手厳しい。愛するものをどうしても見つけられない人は、と問いたくなる。論理としても引っかかる。どうして自分が自分以外のものを愛せたとして、それが「存在の意義」の留め金となるのか。自分以外のものを愛せること自体が喜びであり、生きる意味である、ならわかる。しかし「人々にとって大切な、欠くことのできない存在」とは限らない。先に愛せば愛される、という素朴な話でも通りそうだが、そもそも、手塚が一番目に挙げたのは「仕事」である。なら、仕事に励めばそれだけ評価されると、単にそれだけの話かもしれない。けれどゲーテを愛読し、ついには『ファウスト』を訳した手塚なら、この「仕事」も「生産」の流れで書いた、と信じたい。お前が今、現時点で存在する意義は何か。青臭く、しかも答えにくい。それに対して手塚なら、自分の仕事で「生産」を果たすためだ、と答えられたのではないか。いま意味がなかったとしても、生むことで意味するのだ。これから。
 子を持たない人生に意味はない、という声は、私には聞き苦しい。生物学的に、という冠を不自然に被せたところで、必ずしも多数を納得させられる意見ではないだろう。しかし、にもかかわらずそうした思想が力を持ち続けているのは、親子という枠組自体が、ひとつの流れに他ならないからだろう。子のない人生は無意味だ、というのは極論以前で、単に自分の言葉を制御できないだけだが、子のある人生にひとつの意味があるのは、それは確かだ。

 この表現の意味は何か、とつまずくとき、人はその表現の、それから先を読んだのだろうか。先を読んでなお意味が掴めないなら、それは書き手の失敗である。先に産み落とした表現があれば、それは読み手の早合点だろう。こんな表現が、こんな作品が何のためにあるのか、何にもならないと書く人が放り投げれば、それもまた早合点である。意味は後から作れるはずだ。

 冒頭に帰ろう。秋山駿である。

 雨に濡れた歩道の上に光が射してきて一つの小石が輝く。生の貴重さのイメージとはそんなものではあるまいか。小石が星になる。そしてこの光りとは、死のことなのだ。
 生の貴重さの源泉には、死がある。死がなければ生が輝かぬ。もし、頭のおかしい帝王が望んだように、われわれの生が不老不死であるとすれば、われわれの生はすべて、いかにも無意味いかにも平凡な、無数の砂粒の中の一つと化してしまうであろう。しかも一粒という形さえ明らかならぬものになってしまうであろう。
 ここに在るものが、ただ一つのかけがえのないものである、と思うとき生の内部に生ずるのが、「私」である。私とは、生が死の発条に触れるとき発する花火のようなものだ。こう言ってもよい。私とは、人間の内部で死の光りによって輝くものだ。この空間この時間において、私というものはただ一点である、と思うためには、死の座標軸が要る。
 なくなる、ということにおいて、存在の一つ一つが独創的なものになるのだ。したがって逆に見ればこうなる。生とは、存在の頂点の形である、と。なぜなら生ほどに、存在がなくなるということを明らかに証すものはないからだ。 
(秋山駿『人生の検証』)

人生の検証 (新潮文庫)

人生の検証 (新潮文庫)

 表現が別の表現を産んで、作品が別の作品を産んで、それで一番最後の行き止まりは何なのだ、と問われたら、逆にこう問い返さなくてはならない。果てなく、終わりなく続く表現の流れや、どこまでいったって終わらない小説に、意味があるのかどうか。終わりから立ち返ったときに、何気なく読み過ごした言葉が「輝く」ときがあるんじゃないか、では、楽観が過ぎるだろうか。様々な言葉を産み落としながら、生き永らえていく一個の表現を読み終えたとき、それを無意味と断じられるか。ごく素朴に、困難なのではないか。
 書く側にも、読む側にも、流れに立ち会っただけの時間の重みがある。
 敗戦を経験し、この本を書いたときには六十の齢に達しつつあった批評家の心を理解するのは、四十近く年若い人間には難しい。率直に、わからない。「私はこの頃、いや誰だってそうなのだろうが、死が恐怖や不安の対象ではなくなっていることに気がつく。ときに、慕わしいものというか、懐かしいものとしても感ぜられるのである」と同書を結んだ秋山は、二十五年後の二〇一三年、食道癌の告知を受けた。亡くなるのはその三か月後だから、宣告時点で末期だったのだろう。言い渡された診断に対して、秋山は一切の治療を望まなかったと、死後刊行された『私の文学遍歴』の年表には、確かにそう記されている。
 享年八十三。子を望むことは生涯なく、喪主は妻が務めた。

私小説という人生

私小説という人生