水生するさびしさ 木村紅美『花束』について

 

花束

花束

 

  作家のすべては処女作にあるという説があるけれど、発言者が誰にしろ言い過ぎで、たしかにデビュー作から最新作まで繋がる水脈は、作家読みをしていると頻繁に見出せはするけれども、書き生きるあいだで、もちろんそれ以外の水流も流れ込んでくる。最初は書き手もよく掴めずにいたものが、続く作品で鮮明な意味を見せることもある。そういう小説が、たぶんしばしば傑作になる。作家の、ひとつのシーズンの決算とも言い換えられる。
 『花束』はそういう小説だ。東京の大学受験予備校の、まもなく取り壊される女子寮が舞台だから、題名が最初に意味するのはその寮生の女子たちだろう。第二の意味は、気取りすぎだけれど、『風化する女』から『イギリス海岸』までの三冊のなかに書き綴られた花、小説における技法や、木村紅美という作家のこだわりが、そのまま集まった『花束』でもある。小説に限らず、あらゆる創作の発展は蒐集と統合の連続だ。ぶらつきながら歩いていく、目についたものをひたすら自分のなかに取り込んでいく作業が最初にあって、それから集めた花を束ねる統合の作業がある。
 もしこれから木村紅美を読む人がいれば、『風化する女』のあとには、ぜひ『花束』を読んでほしい。それから『島の夜』と『イギリス海岸』を読んで、『花束』で結ばれた花が、最初に自生していた裸のかたちを、確かめてほしい。
 小説は、こんな文章から始まる。

 高一の夏休み、東京から私の家へやって来た大学生の杉浦さんは、海に向かってタバコの煙を吐き出しては溜息まじりにくり返していた。
「ここはさびしいなあ」
 杉浦さんは恋人と別れたばかりで、傷心から立ち直るために出た旅の途中だった。
「きっと、日本一さびしい場所だよ」
(七頁) 

 木村紅美はさびしさの作家だ。選ばれないさびしさ、別れのさびしさを書いている。失恋と別れが『イギリス海岸』で主題として繰り返されるのは、それがさびしさにおいて通底するからだ。孤独とは、すこしずれる。選ばれないことには孤独が付き纏うが、もう二度と再会しない人間と別れたあとも、また人は誰かと結ばれ合う。そこには孤独はないけれど、さびしさはある。木村紅美が書くのは、人のあいだにあって、それでも強烈に感じずにはいられない寂寥感だ。『風化する女』は、存在はたしかに認知されているけれど、誰かに選ばれはしない「女」のさびしい「風化」を書いている。
 木村紅美の女たちはいつも失恋するか、利用されている。失恋はたしかにたびしさの極致だろう。けれど『花束』では、さびしさの主題は、微妙に色合いを変えて咲いている。北海道の故郷を離れ、東京に困惑する永原あおいのさびしさ、兄への思慕に囚われ続けている吉川咲のさびしさ、高校時代からの恋人と簡単に別れてしまえる貴島礼奈のさびしさ、きっとどこかで好きだったのかもしれない同性に突然去られた松本多英のさびしさ、誰かと誰かが交わったかと思えば、かつての関係などなかったように振舞えてしまうさびしさ、これだけ濃厚な感情が集い重なる空間が、ひっそりと取り壊されていくであろうさびしさ。さびしさは、異性にも、同性にも、時間にも、場所にも根を伸ばしている。
 さびしさを種子に物語と関係性が花開いていく構図は、『イギリス海岸』の響きを受け継いでいる。正統な進化形でもある。
 人はいつかはさびしさに訓練され、順応していく。『風化する女』のれい子さんだって、結局はローカルな歌手に弄ばれる自分を、おそらくは諦観半分に受け容れていたはずだ。あるいは、本作と同じく「東京」という文化の着こなしを主題にした『海行き』で、映画監督志望の男が夢を諦め、友人との別れを前にして、誰ひとり二度と出会わないであろうさびしさを口にしないように。『イギリス海岸』の梢が、清彦の記憶から一歩踏み出すように。
 『風化する女』以前に書かれた『島の夜』の小百合さんが、いつまでも異性との性交を夢見ているのとは対照的である。『花束』は、社会に運ばれる以前の少女たちが、さびしさと衝突する物語でもある。貴島礼奈は初恋の相手に、吉川咲は兄に、松本多英は同性への思慕をはじめて自覚した相手に、永原あおいは故郷に、それぞれさびしさを突き付けられる。小説の序盤を飾る永原あおいの空想は、さびしさの原風景でもある。

 絶壁に佇んでいると、たびたび、彼の仕草や声がよみがえり、気分がざわざわと落ち着かなくなっている。すると私はきまって崖っぷちまで歩み出て、腹ばいになる。前髪を潮風で巻きあげられながら、はるか下に広がる海をのぞきこみ、目をつぶって『The Sugiura Selection』を聴く。
 そうして、魚たちに肉や内臓を食い荒らされ、白骨と化した死体が、だれにも見つからないまま海の底に静かに積み重なっている光景を空想していると、ふしぎと、少しずつ、落ち着いてくるのだった。
(十頁) 

 木村紅美の小説世界において、海はいつも別れの場所だ。だから、という接続詞が正確かはわからない。ただ「絶壁」は、東京に消えていった杉浦さんとの別れを自覚せずにはいられない土地ではある。別れは、『風化する女』や『海行き』や『イギリス海岸』のいくつかの短編がそうであったように、心にその人の像を刻み込む。「彼の仕草や声」は、その人を前にすればそれほど幻惑的に巻き上がってくることではない(それは、続く『吉川咲 夏』の、あまりにもあっけない「杉浦さん」の描写を読めばわかる)。「絶壁」の縁にまで「歩み出」て、「白骨と化した死体」になる自分を想像することが、「ふしぎと」「落ち着」きを与えてくれる。なぜ落ち着くのか、小説内には明白な記載はない。ただ、本来目にすることのできない自分の「死体」を空想し、「だれにも見つから」ずに「海の底」に沈むとき、孤独はむしろ救いになる。別れの孤独は気持ちを乱すけれど、個別の誰かではなく地上との別れであれば、もはやそれに心を乱されることもない。『風化する女』のれい子さんも、きっとそう生きようとしていた。
 けれどそんな完全な別れはあり得ない。どれだけ幽霊になりたくても、生者は地上を生きるしかない。だから、「海の底」は「空想」でしかない。
 『吉川咲 夏』の冒頭は、美大志望の咲が「小五のとき、初めて県のコンクールで最優秀賞をもらった水彩画」の話から始まる。「大きなコップにシュワシュワと満たされたハチミツ色の液体のなかに、街がひとつ閉じこめられている」という画材は、死別した兄の「街ぜんたいがね、大きな、大きなコップに入ったシトロンプレッセの底に沈んでいるみたいなんだ」というパリの描写に由来している。檸檬水を意味するフランス語は、兄のバンドの名称でもあり、そして別れの海の名でもある。「祭りの灯りのとぎれた先にあるのは、冥界だ」という五十六頁の何気ない文章は、木村紅美において「崖っぷち」の先に何があるのかを、そっと呟いている。『風化する女』の岸壁、『クリスマスの音楽会』の浜辺の先には、冥界が続いていたはずだ。

 ネグリジェに着がえて電気を消し、ドアを閉めるとき、もういちど、隙間から、女の子たちの笑いさざめく声が、無数の花びらみたいにこぼれてきて追いかけてくるような錯覚に、一瞬、陥った。じっと耳を澄ますと、洗面室やトイレや、廊下の隅々からも聞こえてくる気がする。
(一九七頁) 

 エピローグは素晴らしい。寮生たちの消えた建物のなかで、声と花が結ばれる。「……い、い、いらないよォォォッ」(二十四頁)や「やだ、アレ、始まっちゃってるゥ。どーしよォー」「キャッキャッキャッキャッ」(三十二頁)といった、それまでの木村紅美の小説と比較してバタ臭い語調も、生の「声」として録音されたものだと分かる。乱れた声の記憶を、端正に整えることなく、そのまま束ねることが、この小説においては正しいのだろう。
 多英たちから贈られた花束がポプリとして保存されるように、記憶もまた管理人夫人のなかで「大切にしまって」「何回でも思い出して」いられるものだろう。寮は破壊されても、その記憶は生き続けている。小説は「海の底」から始まり、「湯船」で終わる。上京前の水原あおいが、二度と出会えないかもしれない、けれど名前も言葉も強烈に残った相手の残像から「海の底」へ運ばれるのと、管理人夫人が浅い「湯船」で、少なからず名の記憶を失った「何百人もの女の子たちの喋り声」を思い出すのは、正確な対比だ。小説は、永原あおいがいくつもの別れを積み重ねて、やがては「湯船」にたどり着く未来を予感させる。別れへの順応と、その記憶を慈しめる身のこなしを、あるいは加齢と呼べるのかもしれない。
 ただし、幸福な結末の前後には、夫からのやんわりとした性交の拒絶がある。

「でも、たまには一緒にゆったりと入ってみない?」
 上目遣いをしてみると、夫は夫人ではなく花束のほうを向いて苺ミルクを食べ始めている。夫人は内心、溜息をついてまたうつむき、すでにいい具合につぶれた苺を、スプーンを握る指にいっそう力をこめ、押しつぶした。うす赤い果汁が飛び散る。
「一回ぐらい、ここで」
 急に喉が渇いて、二人きりだし、とはつづけられなかった。
「……いや、おれはやっぱりシャワーで充分だ」
 そっけなく首を横に振り、夫はさっさと苺ミルクを食べ終わると、厨房へ入り後片づけを始めた。夫人はつぶしすぎた苺にハチミツを回しかけ牛乳を注ぐと、肩をすくめ花束に向かって小さく笑いかけて、なるべくのんびりと食べた。
(一九一頁)

 夫は性交の意志にもちろん気付いているし、だからこそ拒絶のさびしさがある。それを、「肩をすくめ」て受け流すのは、長年の夫婦生活で培われた順応の動作なのだろう。この微笑の意味は難しい。二十二歳で結婚し、「いっぺんも子供を産」まず、「夫以外の男は知らない」ままに、月経を終えた五十歳の女が、花束のような少女たちに何を思うのか。たぶんそれは、貴島礼奈が水原あおいのクッキーの無作法な食べ方に、「ひらりとつま」む模範を示す場面の、「彼女は学習しなくちゃならない」(一〇五頁)という心の動きとは、きっと違うはずだ。学習し、習慣と化してしまった動作で和らげようとしたさびしさが、未だ社会に出る前の女たちのように予想外に深く染み透ってしまう自分の心を振り返ったときに、ふと洩れた微笑だろうと思う。

海岸の遠近法 木村紅美『イギリス海岸』について

 

イギリス海岸―イーハトーヴ短篇集 (ダ・ヴィンチブックス)

イギリス海岸―イーハトーヴ短篇集 (ダ・ヴィンチブックス)

 

  木村紅美において、海は別れの場所だ。たとえば『風化する女』で、語り手は海を望む夢の砂丘と、北海道の埠頭とで二度れい子さんと別れる。『海行き』は大学時代の友人と別れる話だし、『島の夜』でトシミさんから告白を断られるのも夜の海だ。だから、『イギリス海岸』というこの本は、題名からして、すでに別れの短編集である。表題作がいちばん面白いかというと難しいが、それでもやはり、この題名を書名に選ぶべきなのだろう。
 二種類の離別がある。第一は死者や失踪者のような、どうあがいても永遠に会いようがない相手との別れだ。第二は会おうと決めればいつでも会えるし、再会の約束さえ結ぶけれども、もう二度と出会わないことを互いに確信する別れだ。前者は離別だが、後者は疎遠である。死のような離別と、インターネットが発達した時代の疎遠では、本来その重さは異なる。『イギリス海岸』においても、出会いと別れにはしばしばインターネットが付き纏ってくる。けれど木村紅美は、たとえば『海行き』がそうであるように、いつでも言葉や音声で繋がり合えるはずの相手との疎遠が、絶対的な離別としか思えない瞬間を書いている。このとき、再会の約束は、むしろ離別を意味している。
 たとえば『ソフトクリーム日和』の、「いつのまにか音信の途絶えていったさまざまな友だち」との別れだ。

 あたしは、高校を卒業するとすぐに上京して、二十歳過ぎまでアルバイトで生計を立てつつ、売れないロックバンドなどやっていた。
 ひろみちゃんは卒業後は、地元で一年浪人したあと、東京にある女子大学に合格し、
〈私も上京することになったよ。〉
 とハガキで知らせてくれたのを、おぼえている。
 そのころのあたしは、住所不定、数週間おきに、彼氏をはじめとする音楽仲間の家を転々とする生活を送っており、居場所は、双子の姉の翠以外、だれにも教えていなかった。
 翠は、あたしには無断で、上京したことをひろみちゃんに教えた。そして実家あてに送られてきたハガキを、アパートまで転送してくれたのだ。
〈東京で遊べるのを楽しみにしてるよ~!!〉
 ひろみちゃんの新しい住まいは吉祥寺で、あたしの暮らす高円寺とは、電車で十分ほどしかはなれていなかったけれど、あたしはなぜだが、彼女とあらためて連絡を取る気にはなれなくて、返事は出さなかった。
(『イギリス海岸』一〇〇頁) 

 盛岡に帰郷した「あたし」は、恋人を連れていった小岩井農場で、ソフトクリームを売る「ひろみちゃん」と再会する。

 どう考えても、農場でソフトクリームなんて売っているのは、アルバイトにすぎないだろうから、
(定職には、ついてない、っていうワケか)
 また、心のなかで、つぶやいた。
「あ、あたしはね、もう、ずっと東京に」
 居つづけていて、などと説明しかけて、列が詰まっているのに気づき、
「今夜、よかったら、ウチに電話してッ」
 そう叫ぶと、アツシのもとへソフトクリームを持ち帰った。
(一〇八頁) 

 『ソフトクリーム日和』では、ハガキ、電話、メールといった通信手段の差異が明確に書き分けられている。「あたし」は恋人からのメールをひっきりなしに気にするが、咄嗟にひろみちゃんに呼びかける連絡手段は実家への「電話」である。ハガキは無視できても、電話には会話を強制する力がある。

 ベッドに寝そべり携帯電話のメールを打っていると、家の電話の子機を持って、翠が部屋に入ってきた。
「お友だちから電話だよ。高校のときいっしょだった武田さん」
「エッ」
 まさか、ほんとうに、ひろみちゃんが家に電話をかけてくるとは、あまり思っていなかったので、びっくりした。
(一一二頁) 

 「電話して」とは第一に社交辞令だし、第二はあたしが未だに「はかなげな雰囲気をただよわせた美少女だった」高校時代のひろみちゃんを引きずっている証でもある。ひろみちゃんは東京での銀行員生活に疲れ、肥え太っている。なし崩しに、嫌っていた家業を継ぐつもりらしい。

 よくよく、話をしているうちに、ひろみちゃんの働いていた銀行と、あたしの働きつづけている会社とは、二駅ちがいで、通勤路もかぶっていたことがわかった。
 もしかしたら、同じ電車で、あるいは、乗り換えする駅のホームや街の雑踏のなかで、知らないあいだに、すれちがったことがあるのかもしれなかった。
 だけど東京では気づかない。
 あまりに人が多すぎ、気づくわけがない。
(一一八頁) 

 たぶん携帯電話越しの距離は、「知らないあいだに」「すれちが」うぐらいの近さにありながら、「気づかない」世界なのだ。それは、たとえば幽霊に似ている。木村紅美の幽霊は、いつも「すれちがう」ほどの距離にいながら、だれにも「気づかれない」世界を彷徨っている(『風化する女』のれい子さんが、職場の誰からも関心を集めていなかったように)。掌の電子機器からほんの数語を書き送れば再び繋がり合うけれど、その数語が億劫だという「疎遠」は、別れに近い。相手を幽霊にする視線といってもいい。薄情といえばそうかもしれない。自分のその薄情さを覆い隠すように、会う気もしない約束を取り結び、言い訳のようにアドレスを交換し合うのは、現実的な別れ方ではある。だからこそ、そうして別れた相手から、距離を潰す「電話」が来たとき、人は「あたし」のように、「なぜだか」「暗く」なるのではないか。幽霊に触れられるような不気味さを、感じてしまうのではないか。
 『ソフトクリーム日和』は簡単な約束で終わる。短い文章だが、絶対的な別れの響きがある。

 ふいに、ひろみちゃんは、これから街なかで帰省中のあたしを見かけたとしても、気づかないふりをするんじゃないか、という予感がした。
 あたしは、どうするかわからない。ひょっとしたら……。
(……)
 次に会うのは、いったい、いつなのか、わからないけれど、
「今度は、ほんとにおいしいソフトクリーム、食べに行こうね」
 約束して、あたしたちは別れた。
(一二四頁)

 近いようで遠い幽霊が一方の極ならば、遠いはずのものを異様に近く感じてしまう瞬間が、『イギリス海岸』のもう一極である。携帯電話越しにいつでも会えるはずの他人が、幽霊のように果てしなく遠い存在になることもあれば、初めて目にした風景が、故郷のように感じることもある。
 その奇妙な瞬間がもっとも鮮やかに書かれたのが、書き下ろしの『クリスマスの音楽会』だ。
 話の筋はあっけない。『イギリス海岸』で恋人の前から突然失踪した清彦は、「野垂れ死にしたい」という衝動に突き動かされ、ヨーロッパを彷徨っている。アイルランドで出会った「ヨーコさん」という日本人の旅行客の言葉を頼りに、浄土ヶ浜を訪れる、それだけの話だ。ヨーコさんは、「服装が若々しく、ガール、というふうにも見え」るし、「両目の下のクマの濃さと頬のやつれ具合からして、オールドミスらしくも」見える。
 「ダブリンからゴールウェイまで来る途中の景色」が、故郷の岩手、花岡と重なり合ったという。

 バスに揺られているあいだ、ずっと時差ボケの影響でウトウトしていて、ふと目がさめ、窓の外を見ると、いつでも淡い緑の丘が広がっているのを、
(まるでふるさとに帰ってきたみたいだ)
 なんて、感じつづけていたのだという。
「成田から飛行機を乗り継いで、十四時間もかけてたどり着いた国だったていうのに。……とてもそんなに遠く離れた場所なんだって気がしなくて。ふしぎね。……なにせ、ボケているせいで、私はとんでもない回り道をして岩手に帰ってきただけなんじゃないか、とも思ったりして」
(一六五頁) 

 彼女と関係の進展があるわけでもない。そこから観光地までの道を共にしただけで、翌朝起きたときには、もう別の場所へ旅立ってしまっている。置手紙もなければ、住所や電話番号の交換もなかった。教えてもらったはずの漢字の表記も、すっかり忘れてしまった。だから、ヨーコさんと再会することは、きっともうない。それでも、「彼女は、ヨーコさん、としておれの記憶のなかに存在している」(一七一頁)。ただ旅先で出会っただけの同郷人なのに、その記憶は、いつまでも色濃く残り続けている。もしかすると、無言で置き捨てた『イギリス海岸』の恋人よりも。

 そこは、たしかに、浄土ヶ浜、と名づけられるだけあって、この世ではないような、しかし、
「世界の果てっぽいの」
 とヨーコさんが言っていたのも納得がいくような景色だった。
(……)
 突然、だれかの手のひらから、水面に灰が撒かれている光景が、脳裏に浮かんだ。その灰とは、おれなのだった。
 初めてやって来たこの場所を、おれはひとめで、たぶん、とても深く愛した。
(一八一頁)

 たぶん短編としての勘所はここなのだろう。海を前に、その彼方の彼岸に思いを巡らせる構図は、『風化する女』の結末に似ている。
 でもこれは『風化する女』の先に書かれた小説だ。だから本当に大事なのは、その次に続く場面だ。

 やがて、遊歩道の向こうから、ひと組のカップルが歩いてくるのに気づいた。
 濃い緑色をした上等そうなコートのうえから、さらに、ミルク色のショールをふんわりと巻いた女は、ヒールのないブーツを履いており、となりの夫らしい男にしきりといたわられながら歩いてくる。
「こんにちは」
 すれちがいざま、男のほうからあいさつしてきて、
「……こんにちは」
 ぶっきらぼうに返すと、女も、
「こんにちは」
 つぶやくように言い、一瞬、口もとをほころぼさせておれを見て、またうつむき、二人は歩き去っていった。
(……)
 緑のコートの女は、むかしおれがつきあっていた恋人と瓜二つの顔立ちをしていたのだけれど、そういえば彼女は、
「私には、ソックリの双子の姉がいるのよ」
 と、いつも話していたことを思い出したのだ。
 しかも、姉のほうは、岩手に住みつづけているのだと。
 おれは、そちらとは会ったことがない。
 もしかしたら、いますれちがったのは、双子の姉のほうだったのかもしれないし、あるいは、世のなかには、同じ顔をした人間は三人いる、なんていうから、双子外の、もうあと一人なのかもしれない、とも思った。
 ――どちらにしろ、おれにとっては、見知らぬ他人だ。
(一八三頁) 

 おれにとっては「見知らぬ他人」だが、それでも「恋人」の残影がふいに心に滲むぐらいには、その「ひと組のカップル」は心を突き刺していった。この「濃い緑色をした上等そうなコート」の女が、恋人の双子の姉はわからないけれど、「見知らぬ他人」であることには変わりない。「双子」という関係は、まったく異なる二人を、同じ人物のように感じさせてしまう。姉と妹は、アイルランドと岩手の田舎ぐらいは違うはずだ。
 似た偶然は、『イギリス海岸』でも繰り返されている。『イギリス海岸』の梢が、自分を捨てた清彦を忘れられないのは、「ふだんは、タクシーの運転手をやっているというおじさん」が修学旅行で彼に教えてくれたという、ある挿話の記憶からだ。

 「夏の夜にはね、天の川がきれいに川の水に映るんだってさ。ちょうど、イギリス海岸、と名づけられた辺りに立つと、空に広がっている天の川と、水に映った天の川が、地平線のところでつながって見える……川のほとりをずっと、ユラユラ揺れる星明りをながめながら歩いて行けるんだってさ」
(……)あたしはその川に映って揺れる星の話をキヨヒコから聞くのが好きで、何度、お願いしくり返し聞かせてもらったか、わからない。
(五十一頁) 

 彼女がその記憶から解かれるのは、「イギリス海岸」への旅で出会った「タクシー運転手のおじさん」を、清彦が出会った「おじさん」と同一人物ではないかと思い始めた瞬間からである。天の川が映るのも、「川の流れ自体、賢治が生きていたころとは、かなり位置が変わってしま」ってもうない、と聞かされたとき、初めて梢は、「記憶のなかのキヨヒコの影が、ようやく薄れはじめ、遠くなっていく」のを感じる。それが、本当に清彦の出会った「タクシー運転手」かどうかは分からない。海岸の「濃い緑色をした上等そうなコート」の女と同じぐらいには、きっと遠い誰かなのだろう。
 それでも、人が生きるうえで、何気ない遠くの他人が、異様な近しさをもって心のなかで迫ってくる瞬間はある。そして近いはずの誰かが、死者のように遠くなることもある。『イギリス海岸』という短編集を貫く主題は、人生のこの不思議な遠近にあると思う。

遠い自分の空葬 上田岳弘『ニムロッド』について

 

第160回芥川賞受賞 ニムロッド

第160回芥川賞受賞 ニムロッド

 

 帯が内容を語り尽している。「ドライで軽妙な展開の底につねに虚無への想像力が働く」という阿部公彦のコメントから「ドライ」「軽妙」「虚無」の三語を、さらに田中和生の言葉から「抒情性」を抜き出して、さらに作家志望の男と堕胎経験のある女、という登場人物の内実を知らされたら、ある程度年齢のいった人なら大体のトーンや話の方向性は想像がつきそうなものだ。「僕たちは、個であることをやめ、全能になって世界に溶ける」という引用句と堕胎を重ね合わせれば、ああ、全てが計算された完全な未来に、たとえば先天性疾患が判明した胎児の堕胎が失敗として対置されるのだろう、というところまで予想は進んでしまう。マニアックな固有名詞は極力避けられ、誰もがアクセス可能なwikipediaの記事が頻繁に引かれる。「軽妙」で「虚無」に満ちた時代に生きる、ノイローゼ気味の男と女は、最終的には問題の解決策を見出すことなく失踪するしかない。そのような使い古された強固な形式こそ、ビットコインという新奇な題材の語りには必要だった。上田岳弘がこれまで繰り返してきた、過剰の果てに破局に至る寓話、もしくは与太話は、本作では作家志望の世に出ない作中作という、ひっそりした形式で語られていて、そこに客観的な距離を見出すことも可能なのだろう。作家本人の最高到達点からは少し力の抜けた、良い意味で芥川賞らしい、穏健で、ウェルメイドな小説である、と要約出来るかもしれない。
 ただ、こんなことは読めば明らかな話だ。小説は全般に感傷的だが、次に引くニムロッドの言葉は、挫折した作家志望者の発想として生々しい。

 これから書くものは賞に応募しない。誰かに読ませようと思って書かない。名古屋で会ったとき、ニムロッドはそう言っていた。一つの小説が世の中に存在するためだけに行われる、シンプルな行為。今はそういうことにしか興味を持てない心境なのだ、と。その文章が評価を受けて「芸術としての価値」を纏うことも、誰かを感動させて「読者の魂を救う」ことも、そうした可能性は予め捨て去られている。ただそこにごろりと文章がある。
(七五頁)

 これは創作の気鬱である。「そんな衝動を持っているのは、きっと僕だけじゃない。それは、誰もが心の奥底に抱えている根源的な衝動に違いない。そんな衝動がきっと空っぽな世界を支えているんだ。僕よりずっと才能のある芸術家だって、それが空っぽだと知っていて、だからこそ、そのことを表現せざるを得なかった。表現するだけの気力が尽きてしまったら、あとは死ぬしかなくなるものな。未熟なロックスターが二十七歳で自殺するように。たくさんの傑作をものした老境の作家が自ら死を選ぶように」(一三一頁)という語りを踏まえれば、(語弊は大いにあるだろうが)「芸術家」として小説家を見る態度だと思う。けれど、こんな考えを本気で信じていれば、小説を書くなんてちんまりした作業は出来ない。だから、と接続するのは残酷だけれど、作家を挫折したニムロッドの寓話はたいして面白いファンタジーでもないし、「個であることをやめ、全能になって世界に溶ける」ことへの不安は、鬱病のニムロッドが、先取りしたところで仕方ない未来に不安を抱くこと自体にはリアリティがあるけれども、読んで新鮮な印象はない。
 この小説が面白いのは、題名に反して、興味深い登場人物が「ニムロッド」でないことだ。『ニムロッド』でもっとも目を惹く登場人物は、小説に失敗したニムロッドでなければ、出産に失敗する田久保紀子でもない。それは、一見すれば観察者でしかない「ぼく」である。

 もっと日常的なこと、例えば職場でのストレスや、これまでの異性関係、家族のこと、そういったものを話すことの方が現実に即して、真実味があって、ニュースで起こっている動きは自分には関与しようのない、興味をもってその渦中にいるかのように話すのは、薄ら寒いこと。終わらない日常に耐えるのが、現代人として正しい生き方であり、態度である。それがなんとなくコンセンサスだったような気がするが、それがそうでもなくなってきたように感じる。そういった大きなものの渦中に確かに僕たちはダイレクトに含まれていて、当事者として語らなければならないような気がしてきている。二○一一年の東日本大震災以降だろうか、いやもっと大きな流れ、インターネットの発展とかもあるだろうか、こんな風に今考えてることを、ワードかなんかで文字にして、Ctrl+C&Ctrl+Vでインターネットのどこかに貼り付ければこの思考すらすぐに、世界中で共有が可能になる。僕の思考なんて誰も興味ないかもしれないけど、わずかな現象が静かに連鎖していって、大きな変調を起こすことだってあるかもしれない。僕の思考を見た人が、かすかな影響を受けて書いたものに影響を受けて書いたものを見てその人が――つまりは、バタフライ効果
 片手で操作するiPhone8にYahoo! のトップニュースが表示されている。世界の不幸は誰かのせいではなくて、わずかなりとも確かに僕のせいなのだ。別のニュースではイスラム国で少女が売られていると伝えてくる。

(九〇頁) 

 小説はあたかも「終わらない日常」を書いているように見える。少なくとも、世界を「空っぽ」(一三一頁)と言い切るニムロッドや、「正直言って何のために稼いでいるのか、全然わかんない。なんだか自分の人生じゃないみたい」(一〇一頁)と語る田久保紀子は、そのような「虚無」を生きているし、とりわけ田久保紀子の堕胎をめぐる問題は、言ってしまえば「現実に即し」「真実味が」ある「家族のこと」の範疇を出てこない。「大きなものの渦中」とは、「今考えてること」なのだから、現在の「大きなものの渦中」にある体感である。「予想されうる未来は今と同じか、あるいはそれ以上に人間を縛る」(一三二頁)というニムロッドの寓話は、2018年でなくて、1988年にも書けたイメージだろう。「ダイレクト」に自分が巻き込まれたものの体感について語ることと、「予想されうる未来」の不安を語ることは、似ているようで、実際には大きな隔たりがある。ニムロッドは常に自分の創作の問題に苛まれているし、田久保紀子もそうだ。結局のところ、「日常的なこと」を「現実に即して」「真実味」をもって語るということは、「終わらない日常」の「虚無」を細々と綴り続ける羽目になるのかもしれない(これは、たぶん昔から繰り返されてきた問題で、むしろフィクションより私小説作家においてその状況の打破が目指されたのではないか)。小説が書けないという事態、とりわけその不安に焦点を当てた小説で、私は成功作を知らない。不安は停滞する。不安になる対象から目が離せず、そこから一歩も動けないという状況の固着が、不安だろう。だからニムロッドの訴えも寓話も、常に同じ地点に停滞しているようで、物語を前向きに進める推進力にはなっていない。物語と描写はもちろん違う。ニムロッドや田久保紀子の「虚無」は、あくまで描写の対象に留まる。
 小説を前進させるのは、もっぱら「ぼく」のビットコイン採掘だ。「Ctrl+C&Ctrl+Vでインターネットのどこかに貼り付ければこの思考すらすぐに、世界中で共有が可能になる」「僕の思考なんて誰も興味ないかもしれないけど、わずかな現象が静かに連鎖していって、大きな変調を起こすことだってあるかもしれない」というぼくの発想は、「金庫」に文章を閉じ込めるほかないニムロッドとは真逆である。
 『ニムロッド』は不思議な転位を来した小説だ。これは妄想の域を出ないけれども、小説の最初の構図は、ニムロッドと田久保紀子という、失敗した男女を双極の立場に置こうとしていたのではないか。けれど、小説が最終的に至るのは、二〇一八年以降を生きるぼくと、「終わらない日常」を生きるニムロッドと田久保紀子とが、分裂する地点だ。もちろんニムロッドの寓話の最初の離陸点は、naverまとめという、無記名のインターネットのテキストだ。ニムロッドは、そこから聖書へ逆行する。ぼくが選ぶのはwikipediaだ。「なんでもWikipediaで調べるのが癖になっているのがよくないのかもしれない。どのみちそこにたいていのことは書いてあるんだから、わざわざ僕の脳内に残しておく必要はないだろうと思ってしまう。27クラブのことも、サリンジャーの作品や人間性も、Wikipediaにしっかり書かれてあって、誰かが覚えてくれている」(七七頁)とある通り、ぼくは三十八歳という年齢にもかかわらず(これは作者が一九七九年生まれなのと無関係ではないはずだ)非現実的なほど物知らずな人間で、「カート・コベイン」や「NIRVANA」の名前も、「涅槃」の意味も知らない(十九頁)。でもそんなぼくでも、「Wikipediaの関連情報」を読めば、「航空特攻兵器 桜花」の「発案者」の顛末を知り、それについて感想を語ることが出来る。小説として書くことが出来る、とも言い換えられる。
 『ニムロッド』という小説は「ぼく」の一人称の語りだが、これは「ぼく」がニムロッドと田久保紀子という、「終わらない日常」を生きた二人が去った後に新たに書き始めた小説である、ともいえる。ついに小説家たり得なかったニムロッドの意思が、naverまとめという無記名のテキストから離陸する精神と共に、「ぼく」に継承される物語でもある。技法的には、小説はwikipediaやLINEといった、今現在の私たちの日常には本来ごくありふれているものを、抵抗なく書き切ったところに達成がある。wikipediaのような無記名のテキストから、平然と小説が離陸してもいい、という模範としても読める。きっとニムロッドは、自分の小説にwikipediaやLINEは持ち込めなかったはずだ。継承は、同時に葬送でもある。だから『ニムロッド』は、作家たり得なかった三十九歳の「ぼく」を、飛行機を媒体に、遠く葬り去る小説でもあるのだろう。

昏さへのテレスコープ 木村紅美『島の夜』について

 

島の夜

島の夜

 

 人が人を想う感情の昏さ、不気味さについて書かれた小説である。
 小説は、母と折り合いの悪い「私」こと「波子」が、離婚した父の経営する「沖縄の離島のひとつ」の「民宿」を訪れ、帰るまでの短い日々を描いている。父と再会するのは十八年間ぶり。離婚の原因は浮気で、ホステスの仕事で酔うたびに、母は決まって彼の悪口をわめきたてる。

 母の父にたいする悪口はいつも同じだった。彼の女好きと放浪好きがいかにひどかったかを、自分がいかにそれで傷つけられたかを、声が嗄れるまで語りつづけるのだった。いつも、一方的に、被害者みたいな顔をして。
 (……)
 父をののしっているときの母の顔は、みにくくて、大きらいだった。
 しかし母がいつも最低と言う、その最低の男を母はたしかに好きになって、私が生まれたわけなのだ。いつからか、私はそれがふしぎでしかたなくなった。
 どうして母は、いまとなってはののしってばかりいる父のことを、好きになったのだろう。好きだったはずなのに、なぜいまとなっては、ののしってばかりいるのだろう、と。
(十一頁~十二頁)

 小説は、「好きになった」という情愛の根源を、見極めようとする地点から始まる。愛情が増悪に転換する不思議に触れて、後から思い返せば完全な間違いとしか思えないような恋愛がなぜ生まれるのか、その昏さ、烈しさを覗こうとする物語として、小説は動き出す。最初から結論が出ている小説でもある。恋愛は昏い。底知れぬ、「夜」の感情として見定められている。それが早々に明かされるのが、次の場面だ。

「みんな、ちょっとだけ静かにして」
 父が言うと、みんな静まり返った。すると濃い青い闇のなかで、聴こえてくるのは、打ち寄せる波の音だけになった。私は一瞬、大勢でならんで仰向けになっていることを、忘れてしまった。星空と海だけの世界に、独りぼっちで、放り出されたような気分になった。
(……)
「むかしはこの浜辺に、若い男女があつまって、三線を弾いたり、うたったりしながら、夜ふけまで遊んだんだ。そうしてみんな、何度か恋したなかで、結婚の相手を決めて、代々、子孫ができていったんだよ。いまではすたれてしまった風習だけどね」
「ロマンチックですね」
 トシミさんのとなりに寝ている、今夜私と相部屋になる彼女は、父の言葉に溜息をついた。私はなぜか身ぶるいがした。
 ござから起き上がると、みんなで波打ち際まで歩いた。夜の海はすてきだけど、こわい。
 まっ暗すぎて、気をゆるめると呑み込まれてしまいそうだ。足をひたすと、つめたい。
(八頁~十一頁)

 「島の夜」すなわち「恋」の時間は、確かに「ロマンチック」かもしれないが、同時に「こわ」く、「つめた」く、「身ぶるい」するような昏さを秘めている。相手に盲目的に恋するとき、人が恍惚感と同時に味わうのは、何もない夜の空間に、「独りぼっちで、放り出されたような気分」のはずだ。それは、振り向いてくれるとは限らない相手に、一方的に感情を振り向けている、半ば虚しさに似た孤独である。どれだけ勝手であろうが、それは不平等、不公平の感覚に似ている。私がこんなに恋に苦しんでいるのに、あなたはどうして同じぐらい苦しんでくれないのか。他人の感情は、根源的にはわからない。他人より自分の激情のほうが近しく感じずはいられない以上、「一方的に、被害者みたいに」感じさせてしまう、不平等の感覚は必然である。
 結婚が失敗したから「被害」と化したのでもなく、恋愛そのものが「被害」なのだ。私が「ロマンチックですね」という言葉に身ぶるいを覚えるのは、母の言動から、「島の夜」=恋の時間の「昏さ」を聞き知っているからである。恋は昏く、相手の存在と不在、承諾と否認とにかかわらず、孤独である。結論が出ている以上、小説が集中するのは、その昏さの注視である。恋愛の孤独がもっとも際立つのは、片想いのときだ。
 だから、『島の夜』という小説において反復して描かれるのは、片想いの物語である。たとえば民宿に宿泊している小百合さんが、その主役のひとりである。描写は、『風化する女』のれい子さんを彷彿とさせる。

 一人だけ、やや年のいっている女の人がいた。痩せっぽちで、ショートカットとおかっぱのあいだみたいな髪型をして、どこか悲哀を感じさせる大きな目に、黒ぶちの眼鏡をかけている。おとなしそうな人だ。彼女はいちばん最後に、おずおずと荷台に乗りこんだ。私は今夜は彼女と相部屋になる予定で、うまく話がはずむかどうか、どきどきしている。
(七頁)

 突然死したれい子さんが、ハワイへの社内旅行で「わたし」と同室になる予定だったのを思い出さずにはいられない。小百合さんは「東京のアパート」に住む独身で、教育系の出版社で「営業事務」をやっている。家族と疎遠だったれい子さんに対して、小百合さんは「今年の正月に帰省したとき、お母さんがガンになっていることがわかり、お父さんは数年前からアルツハイマーにかかって要介護度4の身だから、二人の面倒をみる」ため、旅のあとは秋田に帰郷しなくてはならない。「落ち着いたら、また東京に出ていきたいなと思ってるけど」とは語るが、「小百合さんの年齢的にも、状況的にも、そんな遠くの実家に帰ったら、もう二度と東京に出てくるのは不可能なんじゃないだろうか」という私の予想は、おそらく正しいのだろう。
 「霊感が強い」と話し、窓辺に幽霊を目視して怯えるのは、たぶん彼女もれい子さんのように、幽霊の立つ岸に近付いているからだ。『風化する女』の、「砂丘」に相当する地帯である。れい子さんが霊子になったのは「生きていたころから死んでいるみたい」に周囲に扱われていたからだが、自由な東京から、すべて息苦しい秋田へ引き戻され閉じ込められる小百合さんもまた、「死」に近付きつつある。
 人はたとえ肉体が生きていても、その存在の自由を認められなければ死んでいるのに等しい。そういう美学が、れい子さんと小百合さんという、ふたりの「幽霊」には宿っている。
 もっとも、小百合さんはまだれい子さんのように死んではいない。だから、「テレビの旅の情報番組に紹介されていた」「私の父に会うために」ひとりでT島に渡ってくることが出来た。

「波ちゃんの年ならまだしも、三十八歳で、いちども経験のない女なんて、これから先、どんな男の人も相手にしてくれるわけがないじゃない。だれだって気味わるがるでしょ」
「そんなの、隠しておけばすむことじゃないですか。経験あるふりをしておけば」
「意識の問題なのよ。私が、意識しすぎているのがいけないの。だから……とりあえず、だれとでもいいから、私はいちど、経験してみたいのね」
 言いにくそうに、声をひそめて、小百合さんは言った。浮かびかけていた涙は引っこみ、こんどは、両手を後ろで組んで、うつむいてしまった。水の中で、私はまた身ぶるいがした。
「だれとでもいいって、たとえば、だれとですか」
(九十六頁)

 このあと「だれとでもいい」といいながら、「できれば、洋介さんと」と羞恥心を交えて答える場面は、見事であると同時にぎょっとする描写で、『風化する女』のれい子さんの洗濯機から、赤と黒のレースのブラジャーとパンツを発見した下りを思い出す。
 「島の空気は、生きてる人の世界のすぐそばに、死んじゃった人の世界があって、その二つが溶けあってる感じがする」(四十七頁)のだという。これは、T島という「島」に限らず、『風化する女』から今作まで、木村紅美の世界を貫く原理だ。生者の世界と死者の世界が隣り合い、溶け合う世界においては、生者はときに容易に死者の世界へ滑り落ちていく。生きながら死んでいるという事態が、まず社会的にあり得るのだから。れい子さんの痕跡を追って、彼女が消えていった彼岸まで旅したのが、『風化する女』の主人公だった。『島の夜』においては、同性の恋人に置き去りにされたトシミさんが、その旅人の役割を担っている。
 「もう関係も終わりかと思いかけていた去年の秋、またいつものように彼の帰りを待ちつづけていたら、死んでしまったらしいというのを、風のうわさで聞」(八十二頁)く。「風のうわさ」の出所は作中で明らかではないし、「ほんとうは、死んでいないような気もする」(八十五頁)。それでも、「でもたぶん死んだと思う」し、「万が一、生きていたとしても、アタシのまえに姿をあらわしてくれないんじゃあ、アタシにとっては、死んでしまったのと同じ」だという。宿帳の名前や、喫茶店のノートの恋人の記載まで切り取って、気が住むまで集めたら、遺骨代わりに燃やして、それでおしまいにするのだと。
 恋愛はともかく、恋情そのものは、こちらを振り向かない幽霊を追い求めるように、一方的だ。相手の肉体を手に触れ、肌の温度を共有して「溶けあってる感じ」を味わうことが先に待っていたとしても、必ず「孤独」の体感が訪れる。恋をすることは、途方もなく昏い恋情のなかで、孤独に立ちすくむようなものだ。『島の夜』という恋愛小説は、そのことを明瞭に物語り続けている。たとえば、こんな風に。

 「居場所っていうのは、けっきょく、外側じゃなくて、心の内側にしか存在しないものなんじゃないかな。究極の居場所は、なんなのかっていうと、きざな言い方をしちゃうと、孤独なのよ」
 さらりとトシミさんは言いきって、私は一瞬、鳥肌が立った。おととい、浜辺で仰向けになったときに味わった、星空と海のあいだに、一人でぽんと放り出されたような感覚がよみがえった。
 その考え方は、すごくさびしくてこわい感じがした。
(五十四頁)

 ただし小説が最後に描くのは、幽霊や振り向かない相手を想い続ける昏さ、さみしさではない。むしろ、孤独、というような「きざな言い方」を粉々にするような、性交の生々しさである。

 二人とも汗みどろで、動物のような声を出し合っているのだ。日ごろ、私がよくふくらませては打ち消す、男の子と恋をする妄想の場面には、汗なんて出てこないのに。
 なんとなく、組んずほぐれつしている彼らの顔を父と母に置き換えてみたら、たちまち、胃のなかのものがこみあげてくるようで、しゃがみこんだ。
 必死で頭をふり、浮かんできた光景を打ち消した。
 初めて、目のあたりにしたからだろうか。男と女が、まさしく、欲望を全開にさせつつ、激しくからみ合っている姿は、グロテスク、としか思えない。
 理解はかんたんに出来るけれど、私が生まれてきたのは、こんなグロテスクな行いの結果なのだ、ということを、実感するのは、とてもむずかしい。
(一五三~一五四頁)

 『風化する女』の幕切れは見事だ。それと比較してしまえば、本作のクロージングはどうしても不格好には見えてしまう。トシミさんへの告白をさらりと済ませる場面は素晴らしいけれど、もちろん私と母の問題は解決しないし、離島旅行だけで踏ん切りをつけられるものでもない。恋情を「まったく、莫迦らしいけれど、そんなふうに、あやふやで、うつろいやすいからこそ、とうとい感情」と頭で設定できても、そこに付帯する「生々し」(一五六頁)く「グロテスク」な面を否認することは出来ない。

 そっと肩に廻される彼の腕の体温を感じ取りながら、私は、自分はほんとうに、目のまえの景ちゃんたちみたいに、トシミさんと、なりたいのか、と考えたら、どうも、ちがうような気もしてきた。わからない。
 ちがうのなら、私の彼にたいする気持ちは、恋ではない、ということになるのだろうか。それもわからない。
 ――あやふやだ。
(一五四頁)

 夜に呑み込まれるように、すべては「あやふや」に溶けていく。

 私はこれからどういう人を好きになるんだろうか、なんてわかるわけがない。近い将来、ほんとうに、さっき見た光景の雪ちゃんみたいに、だれかに脚をやわらかく押し広げられたり、トシミさんの教えてくれたテクニックを試して喜ばせてあげられるように、なるんだろうか。いまはまだ信じられない。
 オカマにふられてしまったばかりの私には、いつか自分にそのような事態が降りかかりそうな予感など、いまはまったく掴めない。
 わかるのは、たしかなのは、いま、月と星は島を見おろしながらかがやきつづけている、ということだ。
(一五八頁)

 つまり「月と星は島を見おろしながらかがやきつづけている」以外のことはわからない。おそらく小説は、その技術力を以てすれば『風化する女』のようなすっきりした終わり方が出来たはずだ。ただ、意識したか否かにかかわらず、小説はそんな「わかる」結末を選び取りはしなかった。「わからない」と言い残しただけの不器用な結末が、けれど個人的には、すごく好きだ。そして「夜」の昏さに「あやふや」に溶かすしかなかった問題は、おそらくは『島の夜』以降の小説で問い直されるのだろう。

難読性について 山尾悠子『夢の棲む街』について

 

夢の棲む街 (ハヤカワ文庫JA)

夢の棲む街 (ハヤカワ文庫JA)

 

  山尾悠子を読んで驚かされるのは、私たちの世界がいかに山尾悠子的な「幻想」に埋め尽くされたかである。私は山尾を読んだ経験がないので、この既視感は筋違いなのだが、破綻した旅を取り扱っているからカフカっぽいとか、女が妖怪じみて怖いから泉鏡花っぽいとか、無限を題材にしているからボルヘスっぽいとか、そういう既視感ではない。もっと馴染み深いものの記憶である。具体的には、私が十代のころ座敷に寝そべってプレイしていたPS2GCの世界を彷彿とさせてくる。たとえば本書に収録された『遠近法』の「基底と頂上の存在しない円筒型の」「中央部は空洞になっており、空洞を囲む内壁には無数の輪状の回廊があり」「すべて古びて表面の摩滅した濃灰色の石組みで構築されている」塔はFF12の大灯台を思い出させたし、『シメールの領地』の湖に船が閉じ込められようとしている描写など、先の用意されていない海域にプレイヤーの船が進もうとした瞬間にそっくりだ。あるいは『遠近法』の破綻した旅の描写も、『ゼルダの伝説風のタクト』で船が地図最北端の海に進もうとした瞬間ぐるりと最南端へ飛ばされたときを思い出させて、不思議な懐かしさを覚えてしまう。
 だから山尾悠子はもう古いとか、逆に山尾悠子は現在のポピュラーなファンタジーの形態を先取りしていたとか、そういう話をしたいのではない。あるいは『夢の棲む街』や『ファンタジア領』の第一篇を取り上げて、緻密で堅牢な言葉の秩序を築き得る書き手だからこそ、言葉を超えたもの(たとえばその小説世界の破局)を待ち望むのは不思議なことではないとか、そんな無難な話にも興味が持てない。気になるのは、これだけ慣れ親みやすい「ファンタジー」のイメージが羅列され、文章の論理関係も意識して明晰に整えられ、物語も人間関係も単純に抑えられ、偏執的な描写の過剰も回避している山尾悠子の小説が、しかし何故か特異に読みづらいことである。
 山尾悠子の難読性はどこから来て、何を意味するのか。
 もっとも読むのに難儀したのは『ムーンゲイト』だ。たとえば、主人公の男女が住んでいた都から脱出した直後の描写である。
 何でもないこの移動の場面を乗り越えられずに、私は三度読み直す羽目になった。今書き写すだけでも、頭のなかを引っかかれるような苦しさがある。

 川幅が狭まってくるにつれて、両岸の景色は徐々に険しい深山の様相を見せはじめていた。最後の分岐点を過ぎて、月の門へ通じる狭い峡谷へ分け入ったころから、両岸は、切りたった断崖になった。ゆるく蛇行する深い流れをさかのぼるに従って断崖はほとんど垂直に近くなり、光の射しこまない谷底からはるかな高みを見あげると、空は、黒々とした岩壁にはさまれた、細いひと筋の白い帯としか見えなかった。
(『山尾悠子作品集成』九十六頁)

 第一の段落に仕込まれているのは、視線の過剰な方向転換だ。文体は眼の酷使を要求している。第二文は「最後の分岐点を過ぎて、月の門へ通じる狭い峡谷へ分け入った」というから、地図を頼りにしているか、あるいは上から船を見下ろしているその直後に、「両岸」とカメラが船上の視点に寄る。第三文の「ゆるく蛇行する深い流れ」も難所で、ゆるく蛇行するのは辺りを見回す水平方向の目の動きだが、「深い流れ」は水底を覗こうとする垂直下向きの目線である(これは第一文の「川幅が狭まってくる」から「険しい深山」となった「両岸」に、すなわち水平方向・垂直方向に素早くカメラが転換される動作とパラレルだ)。それがいきなり「断崖はほとんど垂直に」と垂直上向きへ百八十度反転し、「光の射しこまない谷底」と再び真上から舟を見下ろす視線に転じたあと(私なら「射しこまない」ではなく「射してこない」だろう)「はるかな高みを」川面から見上げ、両側の「黒々とした岩壁」を視界に入れつつ、ようやく「細いひと筋の白い帯」に辿り着く。散々に眼と頭を振り回されたあとの、「黒」と「白」あるいは「はるかな」と「細い」の強烈なコントラストが、目眩を引き起こす。何気ない文章だが、ここには山尾特有の目眩を引き起こす仕掛けがある。幻惑の文体である。

 昼の間、幽谷の重い静寂を破るものは、流れを漕ぎのぼる船の櫓の音しかない。時おり、鋭い鳴き声を残して、黒い山塊の狭間を白い鳥が翔けのぼる。一瞬後、白い軌跡を追って、矢尻に結んだ麻糸が宙をよぎる。高空の白い点を縫いとめると同時に、伸びきった麻糸は急激にゆるみ、やがてうねうねと落下して、水面に叩きつけられた。
(同頁)

 「重い静寂」につまずいてしまう。第一段落はカメラの方向転換を繰り返すことで、否応なく語の凝視を要求しているが、ここでは感覚の素早い切り替えを要求している。「静寂」は聴覚だが「重い」は皮膚感覚だ。その切り替えの早さにもかかわらず、本作の旅は常にのろのろとしていて、感覚の食い違いが生まれてくる。文章に立ち返れば、「昼」の光(視覚)→「重い」(皮膚の重力感覚)→「静寂」(聴覚)→流れを漕ぎのぼる(櫂の感触、重力感覚)→「櫓の音」(聴覚)と交互に皮膚感覚と聴覚とが呼び覚まされる(第一段落でカメラの垂直/水平方向が交互に転換させられたように)。山尾の小説の登場人物たちは概して世界の理解不能な規則に苛まれているが、山尾の文体もまた異常なまでに厳密で、しかも一見すると馬鹿馬鹿しいが、読み手に異常な拘束力を持つ規則に束縛されている。
 「山塊」から続く「白い鳥」はそれなりの大きさを視界に残すが、「矢尻に結んだ麻糸」に文体のピントが絞られるとき、「高空の白い点」にまで縮小され、直後に矢に結わえた糸の輪郭がくっきり見えるまでに拡大される。ここで眩惑を起こしているのは、『遠近法』の切り替えである。

 夜になると、小さな入り江を見つけて船を漕ぎ入れ、ふたりは狭い岩場に火をたいて野営した。
 黒々と屹立する絶壁の根かたに残された焚火は、深い峡谷を埋めつくした暗闇の膨大な容積に比べて、あまりにも小さく心もとなかった。
(同頁)

 第三の眩惑は無の描写である。山尾が「深い峡谷を埋めつくした暗闇の膨大な容積」と書くとき、私たちはその暗闇、空無を物質のように受け止めなくてはならない。『ムーンゲイト』に関わらず本書の収録作に共通する描写だが、ともかく山尾の文体=眼は空無を空無として通り過ぎることを許さない。それすら厳密に、執拗に言葉として記録する。それが本書の規則である。自分が書くなら確実に省く。その資格もないが、まず「膨大な容積」を肌身に感じさせることが出来ない。山尾には出来る。読み手の視点の方向と遠近、あるいは感覚受容器を高速に切り替えさせる山尾の文体は、端的に、全てを読め、と要求している。あるいは山尾が自分の小説を書きながら読むとき、そこには過剰なまでの感覚の励起があるはずだ。自分の書いている言葉だけでなく、頁の空白にまで眼が焼き付くような、異様な視覚の活用がある。
 印字された言葉=実在物だけでなく、空白=頁の無までをひとつの言葉として読む=書くのは、詩の読み方=書き方だろうと思う。記憶が定かでないけれど、十年ほど前に世界詩人全集のアポリネールだかシュペルヴィエルだかの巻に(私は詩の造詣は皆無なのできっと人物違いだろうが)渦巻状に字が配列されている一篇があって、困った記憶がある。だからというわけではないが、激しく感覚を揺さぶり、世界の空無にまで凝視を要求する山尾の文体は、端的に私の手に余る。難読性とは何か、と大仰な問の身振りをしておきながら、私の感覚器が弱い、ではあまりにチンケだけど。
 
 『ムーンゲイト』の十一行で私が『夢の棲む街』について書きたいことの大半は終わっている。空無が切迫するリアリティを有するのと並行に、言葉にしてしまえば他愛ない「無限」もまた、山尾の小説世界においては強烈な実在感を有している。読んでいて吸い込まれるような感覚は私の勝手な錯覚に過ぎなくとも、抽象的な語彙として、あるいは無や無限を言葉遊びとして弄ぶような作家と、山尾が対極の位置にいるのは間違いない。無や無限がただの知的遊戯でないから、難儀なのだ。無限に向けて旅立つ人々は、たとえば『遠近法』や『シメールの領地』の旅団のように、自死を選ぶほど差し迫った挫折を味わわなくてはならない。
 確信はないが、この二作の苦渋に満ちた旅程は、おそらく山尾が小説を書く労苦と重なっている気がする。
 私はまだ山尾のインタビューやエッセイを読んでいないし、経歴も人物像もまったく知らないのだが、山尾が神話に取材するとき、そこには必然性があると思う。たとえば『遠近法』にはウロボロスというあまりに有り触れたモチーフが呼び込まれているけれど、それは山尾の過剰なまでに研ぎ澄まされた感覚を、正しく鈍化させるものとしてあるはずだ。怪談風の『月蝕』や、寓話じみた『堕天使』は、物語の外枠が先にあって、次に小説の内側が埋め込まれた印象を受ける。『ファンタジア領』第三篇「星男」の夢と現実が交互に入れ替わり、やがて境界線がわからなくなる構成もお馴染みのものだし、『月蝕』の京都の描写は私小説的な馴染み深さがあり、読んでいて落ち着く。私は『月食』がいちばん好きだが、しかし学生時代を過ごした土地など、思えばもっとも安易で生ぬるい舞台ではないか。第四編「邂逅」の「意味なんてものは、どこにもありゃしない」「でももちろん、そんなことはどうだってかまやしないんだ」(二百三十二頁)といった警句めいた台詞や、あるいは『夢の棲む街』で「脚本家」が死した後に「あらゆる言葉を飛び越えて美し」い踊りが立ち現れるさまに私が感じるのは、見慣れたものへの安心感でしかない。
 そのような安全なものを土台に据えねば『夢の棲む街』の収録作は小説たり得なかった。そしてその水脈においてこそ、確かに幻想作家でなければ山尾は小説家たり得なかったのだ、と書き継げば邪推としてもさすがに残忍過ぎる。けれど山尾の難読性 dyslexia がその異様な感覚の励起から必然的に起き得るなら、その幻想のやむを得ない安全さは他ならぬ山尾の難書性 dysgraphia に対応しているはずだと、読み終えた今は思う。

山尾悠子作品集成

山尾悠子作品集成

 

燃焼としての時間 山尾悠子『飛ぶ孔雀』について

 2018年に発刊した『私的文藝年鑑』から、山尾悠子『飛ぶ孔雀』(泉鏡花文学賞)の感想を公開します。2018年もっとも面白く読んだ小説のひとつであり、回想の意味もこめています。

飛ぶ孔雀

飛ぶ孔雀

 

atami.booth.pm

 昔ある小説家が、煙草は間を持たせるからつい習慣的に作中人物に持たせてしまう、とインタビューで話していたのを思い出す。私は非喫煙者なので、煙草を吸わせるとどうにも嘘っぽくなってしまうが、会話の合間を繋ぐ小道具として、たしかに便利そうではある。現実の人間相手でも、互いの言葉が出尽くしてしまったとき、ちょうど間を置くのには使いやすい道具だろう。隙間の時間を消し去る、あるいは点火することで互いに話せなくなった時間を経過させる、それが煙草の役割とも言える。
 『飛ぶ孔雀』は、冒頭から「不燃性」をめぐる小説である。

 シブレ山の石切り場で事故があって、火は燃え難くなった。
 大人たちがそう言うのを聞いて、少女のトエはそうかそうかと思っただけだったが、火は確かに燃え難くなっていた。まったく燃えないという訳ではないのだが、とにかくしんねりと燃え難い。すでに春で、暖房の火を使う場面はなかった。喫煙する祖母が奥の間で舌打ちするのを聞くことはあったものの、少女のトエにとってたちまち不自由が生じたのは煮焚きの場だった。
(p.7)

 「暖房」として火を使う場面はない。代わりに不燃性に難儀する例として登場するのは、「喫煙」と料理である。そういえば、というにはやや無理のある連想かもしれないが、料理もまた、小説では何もない間を詰めるのに使いやすい。喫煙と料理には、いずれも時を流す役割がある。短縮させる、通過させる、といってもいい。『飛ぶ孔雀』は私は読むのに難儀した小説で、というのは時間の秩序が作中で乱れに乱れていて、まるで夢を歩くような心地がする。そして夢においては、たぶん厳密な時間の感覚というのはあり得ない。次から次に出来事の図柄が思い浮かんできて、それが繋がったり千切れたり、単独に生起してきたりするのを繰り返すばかりだ。時間と出来事の連続は、似ているようで違う。『飛ぶ孔雀』の読みにくさは、この出来事同士が一見相関しているように近付いたり、いきなり遠ざかったりして、事件の全貌が見えづらいことに起因する。「まったく」時間=物語の繋がりがないという「訳ではない」のだが、「とにかくしんねりと」時間=物語が繋がってこない。物語というよりは出来事の羅列が、生々しい夢のリアリティをもって迫ってくる。物語として印象が残るのではなく、ただ鮮烈なイメージだけが浮き上がっては弾けて消えていく。
 
 『飛ぶ孔雀』はどういう小説か。要約は難しい。けれど、説明し難い鋭さがあるのは間違いなくて、たとえばそれは快楽とか幻想とか、柔らかな言葉で丸く表現するのが適切なのかもしれない。でもそれでは、小説と詩の区別が付かない気もする(別に付けなくてもいいのだが、なんとなく作者が詩も書いていたという経歴に結び付けて、詩的だ、幻想的だ、と片付けてしまうのは自分に納得がいかない)。
 そこで具体的に書こうと試みるなら、ひとまず、これは夢の時間を描いた小説だ、と要約したくなる。
 夢の小説は、試してみればわかるが、普通はそこまで長々と書けるものではない。記憶に残る夢はどこかにイメージの焦点が合い過ぎて、起きてすぐメモを取るにしてもその中心点ばかり焼き付いてしまう。本来遠い、あるいは些末なものも、夢のなかで心的に拡大されてしまえば、それは異様に近く大きなものとして遠近法を狂わせてしまう。たとえば「肝斑のような濃い灰色の痣」が「ひどく目立つという訳でもないのに、見れば見るほど痣が男であり男が痣である」(p.30)ように。小説は詩ではなくて、瞬間に細密な描写を詰め込み過ぎればそれだけで終わってしまう。エピソードとしての瞬間同士を繋ぐ、持続した秩序が必要になる。その典型例が時間であり、こそばゆい言葉遣いだが、それぞれの登場人物が、どのような状況においても本質としては同じ登場人物だという、同一性だろう。『飛ぶ孔雀』はそうした秩序は拒んでいて、時間と同一性の秩序を遠ざけている(本書に収録された二編は登場人物にアルファベットや短いカタカナの名前を与えるが、同じ字面でも果たして同一人物なのか確信が持てなくなりがちで、それもまた読み辛さの一因となっている)。その無秩序において連続している、ともいえる。ただし主題が曖昧な観念のままでは小説を支える背骨にはなれないから、何らかの具体的な形は取らなくてはならない。それが、不燃性に相当する。
 たとえば火種屋の次の描写は、この小説における火と時間の関係を、明瞭に描いている。

 小銭を出して今日も火種を買う。紙縒りの先に移した火を手渡しで受け取り、煙草のガラス棚に片肘ついた親爺のかおを見る。陽射しのせいで円レンズの片方が白く燃え上がるように反射するので、その人相はやはり測りがたいが、たまに眼鏡をはずして昼寝しているところを見かけるときは別だ。ただしそれには少しだけ条件があって、火の番である火種屋が眠っているときはその場の時間の流れが停滞するのであるらしい――それもかなりの度合いで。一見したところ燃える火の桶は薄暗い土間に置き放され、奥の小座敷で寝倒れている親爺のことはともかくとして、妙な黒い犬が火を咥えて逃げ出す姿勢のまま静止していたりするのだ。餓、と烈しく火を噛んだ犬の鼻づらには深い肉皺が寄り、数本の髭が焦げて白煙が纏わっている。
 ぱふ、と音をたてて夢の蓋が閉じる。(p.38) 

 小説の片側の主題が不燃性=無時間であるならば、もう片側は恋愛関係である。小説には繰り返し男女の恋愛が描かれるが、『飛ぶ孔雀』においては未亡人と料理人、トエと川舟のひとに代表されるように、ごくその瞬間しか書かれないし、『不燃性について』では関係の破綻が集中的に描かれる。そして冒頭のトエの場面で描かれるのは、恋愛の無時間だ。一瞬と永遠が取り違えられるような、時間の感覚がまったく狂ってしまったような、そんな瞬間である。

 二度目にそのひとは夜の川を渡ってきて、トエの恋びとになった。障子で隔てただけの明るい台所の奥にはラジオの音や大人たちの出入りする気配があったし、それより何より橋からも両岸からも丸見えのこの場所でと意識することがトエには恐ろしかった。振動とともに路面電車が通過し、火花が散り、また通過した。視界の端では岸沿いのみちを照らしていく車のライトがひっきりなしに動いていたし、取り込み忘れた洗濯ものの隙間にほそい宵の月があった。燃え難くなった火を合図の目印としてそのひとはやって来るのであるから、トエは夜の川辺で火を焚いた。(p.10)

 路面電車や、車のライトや人の気配といった、自分以外のものへの感触が異様に鋭くなる(もちろん「恐ろしかった」から気になるのもあるだろうが)。裏返せばそれは、自分のなかの時間感覚ではなくて、たとえば路面電車や、一台一台の車のヘッドライトだけが、今自分が生きている世界に時間が動いている証拠になっている。恋愛は発展すれば、そのうちに「子」という関係を産み落とす。恋愛の無時間などと言い切ったところで、やはりそこには物事の動きがある。
 けれども、動きは動きであって、本書の出来事から出来事への連続が、決して整然とした時間を感じさせないように、それが必ずしも時間を生むとは限らない。

燐寸の燐がたけだけしく闇に発火し、焚きつけ紙を変色させて明るい炎がさっと走る。正常に燃え上がったその火が空気の澱みに触れて縮むとき、ばちんと大きな音がたつこともあった。怒りに任せ、命ずるうちに、練炭の表面に別種の青い炎が生まれた。たよりなくちりちりした赤い炭火を覆い隠し、二重映しになったあからさまに偽の青い火なのだった。それは気ままに膨れ上がり、髪を振り乱すようにせわしなく動きまわったが、明るいだけで熱というものがまるでなかった。(p.10)

 物事が続いているという持続の感触はあるが、それは「偽」の時間のようなものだ。庭園でのパレードの描写は、出来事が弾むように連続しているまでは分かっても、いつどこで誰が何をしたか、という整理を拒んでいる。あるいは、時間を感じさせない動きと出来事の連続こそが、この小説の主題だろう。
 『飛ぶ孔雀』が夢の無時間を書くならば、『不燃性について』で新規に出現するのは周期である。他人の時間と言い換えてもいい。路面電車、ロープウェー、噴水といった道具立ては、いずれも周期的に動くものだ。質の異なる物事の連続では時間の感覚は生まれてこない。であれば、『飛ぶ孔雀』の冒頭でまさしく「路面電車」がそう使われたように、同じ周期に従うもの、あるいは自分以外の刻む時間を前にすればどうなるのか。「あんたね、子どもみたいな若い女の子をずっと連れ回しているようだけど、いったいどういうことなのかね。いい歳をした年寄りが、ああいやだいやだ。ずっと身の毛もよだつ思いでいたんだよ」(p.236)と突如として糾弾される場面はその典型だと思うが、そんな持って回った言い方をしなくても、具体的な物語の次元で、ひたすら作中の人物は他人に翻弄されている。たとえば、路面電車の女運転士の描写である。

 その場におけるものごとの動きというものはどうやらこの女運転士の身辺に集中する傾向があるらしいのだった。その傾向はどう見ても顕著であると言わざるを得ず、そしてさらに言うならば、一切の動きを引き連れて彼女が通過していったあとには反動としての沈滞が残るらしい。(p.118)

 まるで「ものごとの動き」を吸着するように動いている女運転士は、裏返せば周囲の「一切の動き」を束縛している。物語を通して主人公のひとりKが翻弄され続けるのはこの女運転士に他ならないし、あるいはQは結婚相手の女に、トワダに、劇団員の予言に、団長の妻に自分の時間を乱され続ける。『不燃性について』というこの中編において、主人公格の男たちはいつも誰かにかき乱されていて、自分の動きたいように動けない。「沈滞」と言い換えてもいい。それは悪夢に似ている。悪夢には、自分が覚めたいときに覚められる行動の自由も、時間の自由も認められていない。『飛ぶ孔雀』がわずかに恋愛の成就の無時間について書かれるならば、『不燃性について』では崩壊した恋愛の、いつ終わるとも知れぬだらだらとした苦痛が描かれている。本書は夢のリアリティを突き詰めた小説ではあるが、その無時間の射程が、恋愛の始まりと終わりにまで広がっているその一点において、この小説は単なる夢のスケッチを超えた佳品たり得ていると思う。

喜ばしい唐突 保坂和志『こことよそ』について

 

 2018年に発刊した『私的文藝年鑑』から、保坂和志『こことよそ』(川端康成文学賞)の感想を公開します。2018年もっとも面白く読んだ小説のひとつであり、回想の意味もこめています。

ハレルヤ

ハレルヤ

 

atami.booth.pm

 喜びと可能性をめぐる小説である。文体は幻惑的で、意図して読めないようにしているんじゃないかと邪推したくなるほど、雑多なエピソードが明滅している。しかし、ただ圧倒されるだけでは、なんとなく良かった、しか言えない。それで良いのかもしれないが、私は気にくわない。

 小説は谷崎潤一郎全集の月報に『細雪』に関する思い出を書こうとする場面から始まる。「私」がその小説を読んだのは白浜での「九月の最後の一週間」で、「バブルの真っ最中というか上昇期」の、現在の若者にはとても「真似ができない」「明るさ」を象徴する時間だった。ところが白浜のその記憶はあまりに個人的過ぎて「谷崎潤一郎と何も関係がない」ので、実際には『異端者の思い出』について書いたのだった。『異端者の思い出』は谷崎が「学生のうちにデビュー」するまでの時間を描いた小説で、「私」はそこに小説家になりたいが今はなっていない、という「重く晴々しないところ」を重ね合わせて読んでいた。もっとも『異端者の思い出』とは「私」の読みでは「耽美主義」の小説で、「耽美主義というのは観念つまり形而上学だからこの小説にはいわゆる時間は流れない」のであって、「時間の法則の外にある」作品なのである。
 私がその小説を過去に読んだのは「大学五年目」の年末年始、「やっぱり外に出るのに初詣の人だかりの華やぎが去った夜の通りを選ぶような心境」だった。六十歳の私は鎌倉の商店街を歩きながら、二十歳の自分が同じ道を逆方向に歩いていたことを思い出す。「自分には何があるのかといつも考えては何もない」と感じていた自分を、「先の見通しがまったくなかった自分をリアルに思い返すことができる」のに「私」は「喜び」を抱く。
 これが第一の喜びである。六十歳の私が、二十代の自分を今まさに生き直しているかのようにありありと回想出来る、そのなんともいえない恍惚とした空気が、この「喜び」にはまずある。第二の喜びは、鎌倉の商店街を歩いた二週間前、「映画の仲間が死んだそのお別れ会」にて「思いがけず」訪れた歓喜である。その仲間である「尾崎」の死因は書かれないが、ともかく私は「尾崎にまつわる多くもない記憶を繰り返し引っ張り出してはそれに耽」る。会場に向かう小田急のなかで「私はこれから尾崎と会うような気持ちになってウキウキ」してくる。私が暴走族役として参加し、尾崎が初めて映画の世界に入ることになった思い出深いフィルムが放映されたとき、歓喜は始まる。

 映画の主演格はそろっていない、尾崎もいないが映画が映し出される私は喜びがピークに達した、目の前で自分の二十三、四のあの時間が再現されているような気分になった、尾崎が映ってなくてもこれが尾崎のあのときであり私のあのときだ。映画はかつて暴走族のリーダーでいまは伝説となっている内藤をめぐる殺伐とした内容だが、音のない映像だけを見ていると若くツルンツルンの肌でまだ幼いようなピンクの唇でしゃべる表情は、夢やあこがれを語っているようだ!(新潮六月号、p.147)

 それは「後づけの言葉」で私は出席者と騒ぎ、結局翌朝の七時八時まで飲み歩いていただけなのだが、ともかくそのとき「渋谷駅は意味もなく祝福されている」ように見えたのには違いなかった。しかもその「尾崎のお別れの会で味わった幸福感」はどうも「じゅうぶんに自覚できていない」らしい、と私は「喜びの絶頂に達する」夢を解釈して考える。それはなぜなのか、という問いが残る(これを書いている私の中に)。この、幸福感の不可思議な物足りなさ、もっと幸福であるべき感情がなぜか自覚できていないという躓きの感触が、小説の後半への転調になる。

 重要なのは、私にとって尾崎よりも「ずっと身近でつき合いがひんぱんだった知り合いが二人死んだ」にもかかわらず、「私は尾崎のことだけを思っていた」ことである。もし仮にそうした事態を「小説的に膨らませ」るのならば、本来であれば前者が書かれるべきである。ただ、そうではない、というテーゼがある。ずっと身近な知人が二人死んだにもかかわらず、別の知人の記憶が浮き上がってくる、というその「小説的」とかけ離れた仕組みこそが、小説とは別の、人間の在り方じゃないかという。あるいは「きょりと道のりは違う」(p.151)という作中の台詞に従えば、ずっと身近であったからこそその記憶がより心中に色濃く浮かび上がってくる、という発想は距離の視法なのだろう。あるいは死者の記憶が泡のようにいくつも湧き上がってくる、というのも現実的ではない。記憶は機械のように整然とはしていない。もっとずっと、唐突らしい。

 私は高校の三年間ほとんど毎日、鎌倉駅のホームの一番うしろの端で待ち合わせて横須賀線に乗って二番目の大船で降り、そこから十五分歩いて学校に行った友達が五年前に死に、その死を知ったときも思い出すことはあまりなく、というかいろいろ思い出すが思い出すことが全部、私は鎌倉駅のホームの一番うしろで待ち合わせていたことに収斂した、その友達が死ぬまでは鎌倉駅のその場面を思い出していたわけではなかった、死んだのを知ってからそればかりになった。(p.149)

 いろいろと思い出す過程はある。ところがそこで結実するのはある一場面の記憶でしかない、しかも日々強く意識しているわけでもなく、唐突に、ほとんど偶然のような成り行きで、どこか一か所の記憶が定着してくる。それが『こことよそ』の記憶の生理だけれども、たしかに私も自殺した先輩のことを考えるとき、必ず場面はオレンジのジャージを着て、居酒屋で『ジェーン・エア』について話している姿ばかり思い浮かんで、そこから別の道はあまり進んでいかない。他にあるとすれば、別の先輩が文学フリマで頒布予定だったある冊子が発刊中止になったとき、その人が「呪われてるねえ」とぽつりと呟いたことぐらいだ。
 あるいは、九鬼周蔵の「偶然と驚き」からの抜き書きを読む。

 「「与えられた一つのものだけが必然であるという風に考えるのは、むしろ抽象的、部分的平面的な考え方であり」、「多数の可能性を背景に置いて、与えられた一つは、多くの可能性の中の一つとして偶然的であると見るほうが、具体的な、全体的な、立体的な見方」である」
 (……)与えられた一つのものだけが必然なのではない、出来事は多くの可能性の一つとして偶然である、出来事は全体の一部、立体の一部なのだ。このときすでに私は谷崎潤一郎全集の月報の文章は書き上げていた、そこで尾崎のことは掠めるようにしかふれられなかった。(p.153)

 あらゆる出来事は、後から見れば必然のように錯覚するかもしれないが、前から見ればあくまでひとつの可能性に過ぎない。だからもし大学五年目の私が鎌倉の商店街を歩いていて、未来の自分に「将来の作品のリスト」を見せられたとしても、「私はそのリストを破り捨てたってかまわなかった、自分の人生だからというのではな」くて、「それはまだ自分の人生ではなかった」からである。
 私は、谷崎全集の月報のエッセイは尾崎のことを書かなければ「その月報のエッセイが形にならない、文章がどこも何も指し示さない」と感じる。だからといって尾崎のことを書けばいいというのではない、尾崎は谷崎潤一郎とは何の関係もないのだから。
 尾崎をめぐる挿話と谷崎の『異端者の悲しみ』に通底するのは、「着実に積み上げて成果が得られることより大きなものが唐突にくること」の「リアル」である。
 何故それが来るのか、正確な「距離」を計測することは出来ないが、ともかく「よそ」から「大きなもの」はやってくる。その手触りは、積み重ねられた記憶、並び行く死者の列のなかで、唐突にひとりが先頭へ弾き出され、唐突にひとつの個所が記憶のほとんどすべてになる、そういう「リアル」である。そうして読み返したこの小説の文体は、とにかく唐突なのだ。意識の流れとかそういう手法の問題ではなくて、よそから大きなものが唐突にくる、ということのリアルさを身体=言葉で書くとき、このような歩き方=文体しかなかった。文体と主題が緊密に結びついているという意味で、この短編はウェルメイドな佳品である。
 この唐突な小説を最後に結ぶのが、ジャン・ジュネだ。ジュネの「すべての出発点は見ることだ、話はいつも視覚ではじまる、その見るときジュネは官能性にしか関心がない」という。ジュネの目線は限定的である。「与えられた一つは、多くの可能性の中の一つとして偶然的であると見るほうが、具体的な、全体的な、立体的な見方」というのに対して、彼の視法は「官能性」のみを削り出す。『シャティーラの四時間』からこんな文章が引かれる。「この女たちはもう希望することを止めた陽気さだった。……もう希望することを止めた陽気さ、最も深い絶望のゆえに、それは最高の喜びにあふれていた」。ジュネの視覚が官能に彩られるのは、それ以上の可能性を探ることを「止めた陽気さ」が前提であり、それゆえの「最高の喜び」が滲んでいる。そこでもう終わりと宣言すること、希望することを止めることは、「陽気」を伴った「喜び」を宿している。
 可能性の終わりを目視すること。小説のなかには書かれていないけれども、たぶんそれこそが、私が尾崎の葬儀で感じ得た幸福感なのである。ところがそこに影がある。それはなぜか、というのが前半部の問いであったけれども、私はどこか「希望すること」を止めずにはいられない。
 死んでいても死んでいる気がしない。理屈=距離ではなくて、実感=道のりの感触がある。 

 二十歳やそこらで、まして十代で永遠なんてことを思うだろうか、(……)十代の少年たちにとって死は切断じゃない、継続だ、永遠と無縁のひたすらの継続、(……)いまこうして他に選びようもなくなった人生とまったく別の、あの時点で人生は可能性の放射のように開け、死はその可能性を閉じさせられない…………私はあの時点の感触に何度書き直しても届かないからもう何度も何度もこのページを書き直してきた(……)(p.154)

 「重く晴々しない」大学五年生の自分が、鎌倉の商店街を歩きながら抱いていたこの可能性の実感、希望することを止めた喜びとは正反対の、「生きる熱意や生きることへの強い憧れ」故の苦さが、この道のりの場面には集積されている。そんな遠い時間の感触は、どれだけ正確な固有名詞を持ち出そうが、何度書き直そうが、届かない。
 その諦念が、読んでみれば思いのほか懐かしく甘い。もはやそこに届かないと終わりを実感することが甘美であって、だから追想とは甘美なのだろう。