書くことの必然 木村朗子『震災後文学論 あたらしい日本文学のために』について

 

  著者は津田塾大学の教授で、専門は日本の古典文学らしい。専門が現代文学じゃないから、と意地悪い見方をされる場面は少なからずあったと思う。『あたらしい日本文学のために』という副題からして、人によってはちょっと遠くに置きたくなるかもしれない。
 他人に委ねるのは卑怯な話で、私がそうだった。「あたらしい日本文学」も、「震災」もいやだった。私が震災を知った年は高校三年生で、受験で向かっていた信州行きの新幹線が昼過ぎに止まった。結局その二次募集の大学も落ち、進学先の生活はそれなりの困惑が伴い、震災どころではなかった。「あたらしい」どころか「いまの」日本文学を食わず嫌いしていたのもあった。忘れたい。本書は出版されて一年以内には知っていたはずだ。そのあと『文學界』の新人小説月評を著者が担当していて、見たことのある名前だ、と気付いたからだ。でも今まで読まなかった。
 批判しやすい本ではある。大学の内外で、すでに数多くされたと思う。けれど、背を向けづらい魅力がある。
 書物が抗しがたい魅力を発するのは、書かれた必然性が存するときである。だから、その必然性について書いておきたい。

 本書の「震災後文学」の定義は明瞭である。その源流にあるのは佐藤友哉が群像に連載していた『戦後文学を読む』(後に『1000年後に生き残るための青春小説講座』として書籍化)であり、いとうせいこう『想像ラジオ』であり、芥川賞選考委員による評である。

 3・11後、とくに原発放射能汚染について口をつぐんでいる作家たちの態度を痛烈に批判する。それを「自意識過剰」だと佐藤はいう。「あなたの文章が世界を変えたことなんて、一度もなかった」のだから、なにも恐れることはないではないかと。そうして原発問題に関して、それが五年後にどうなっているかがわからないから、「だから書かないの? 作家なのに?」と問うのだ。
 こんな現状ならば、もはや原発放射能汚染について書いたというだけで勝算に値するというものである。『想像ラジオ』の選評で「蛮勇には蛮勇を」と高樹のぶ子が言うのは極めて正しい。しかしそれは選者の全体に共有されていたものではなかった。だから高樹のぶ子の絶賛もまた「蛮勇」なのだ。たとえば山田詠美は「とは言え、この軽くも感じられるスタイルを取ったのは、死者を悼む人間の知恵だなあ、と感心した。しかしながら、やり過ぎの感もあり、死者のための鎮魂歌が鎮魂歌のための死者方向に重心を傾けたようで気になった」という。それは「死者を利用している」という非難に他ならない。作家同士でこんなに厳しい検閲があるのでは、よほどの覚悟がなければとうていやってはいけないだろう。だから書かないという態度をとった作家があまりに多いと佐藤友哉は呆れているのである。震災後文学とは、したがって、単に震災後に書かれた文学を意味しない。書くことの困難のなかで書かれた作品こそが、震災後文学なのである。今までどおりの表現では太刀打ちできない局面を切り開こうとする文学、それを本書では震災後文学と呼ぶことにしよう。
 本書にとりあげる震災後文学は、そういうわけで書くことの困難と格闘したものを主に扱う。最も書きにくいことがらとして、原発の爆発とそれによる放射能汚染の問題がある。とくに原発については、各所でタブー扱いされており、文学作品においてもそれほど活発に語られたテーマではなかった。
(五十八頁)

 佐藤友哉の引用部分には実は「原発放射能汚染」については書かれていない。しかし、木村が参照する佐藤の小説は原発放射能汚染が主題とのことだから、実際にそういう意味なのだろう。3・11から原発放射能汚染を選り分ける発想は、そのまま震災後文学の定義そのものに通じる。いずれにせよ、ここで定義される震災後文学には、「書くことの困難」への抵抗が必須となっている。「書くことの困難」とは、原発を語るうえでつきまとう「タブー」でもあり、これを規定する「作家同士」の、「まさかそんなことを書くなんて」という淡い「検閲」でもあるだろう。
 『想像ラジオ』は津波小説であると同時に原発小説だが、それが芥川賞選考委員の間でいかにタブーであったを読む目線は鋭い。

 高樹のぶ子が「今回の候補作中、もっとも大きな小説だったと、選考委員として私も、蛮勇をふるって言いたい。蛮勇には蛮勇をである」というのは、選考委員のなかでこの作品を推す人がおらず、「蛮勇をふるって言」わねばならないほど孤立した意見だったということだろうか。
 選考委員が口々に言うのは、震災の犠牲者を描くことの倫理問題である。高樹のぶ子も「書くために声なき死者を利用するのか、という反発の波も、世間から押し寄せるだろう」と気遣い、それで「無謀だと承知した時点で、諦めるか諦めないか、そこが分岐点になる」と述べている。島田雅彦もまた、「『想像ラジオ』は現時点におけるポスト3・11の文学の成果と評価することはできる。しかし、それは「震災犠牲者を利用して書いているとの謗りを恐れず、あえて軽妙なDJ口調で鎮魂の叙事詩を綴った」ことに対する勝算である」と述べて、書くことの「蛮勇」を称えるのだ。
(四十~四十一頁)

 「蛮勇」という言葉遣いは、たしかにそれが禁じられている事態を想定しなければ不自然なのである。「世間から押し寄せる」「反発の波」への懸念自体が、そもそも「タブー」の在り方といっていい。島田雅彦の評はより屈折したニュアンスがあるが、いとうせいこうと対談した星野智幸もまた、「当事者を傷つけてしまうのではないかという問題」への懸念を提出している。

 『想像ラジオ』が芥川賞候補作にのぼったことで、書き手たちが、震災の犠牲者を小説に描くのは「倫理」的に許されないと感じていることがはからずも浮き彫りにされた。その懊悩を乗り越えて産み出された作品でもやはり批判にさらされるか、あるいは蛮勇だという一点において評価されるかしかないのだろうか。震災を物語ることはそれほどに困難な状況にあるのなら、蛮勇を以て書かれた小説を正しく読み取り、受け取っていく必要があるだろう。批評に必要とされているのは、物語ることの倫理を云々とすることではない。読み誤りによる非難とは一線を画して、物語を読み解き位置づけることが求められているのではないか。
(四十三頁) 

 この本でいちばん素晴らしいのは第一章だが、その章名が「物語ることの倫理」なのである。もっとも「物語ることの倫理を云々とする」批評家は作中には登場せず、もっぱら小説家のコメントが引用されるので、実際にそのような批評があったかはわからない(あったとは思うが)。だがここで論難されているのは小説家である。こののち小川洋子が『想像ラジオ』の「根幹をつかみそこなって」おり、村上龍が「的をはずしている」というのも、「読み誤りによる非難」を連想させる。震災後文学として重要なのは抵抗の有無だが、とりわけ震災後に発表された、よしもとばなな『スウィート・ヒアアフター』をめぐる評価は、この基準をわかりやすく反映している。

 よしもとばななは、二〇一一年一一月刊行の小説『スウィート・ヒアアフター』(幻冬舎)のあとがきに次のように書く。

 とてもとてもわかりにくいとは思うが、この小説は今回の大震災をあらゆる場所で経験した人、生きている人死んだ人、全てに向けて書いたものです。
 (……)多くのいろんな人に納得してもらうようなでっかいことではなく、私は、私の小説でなぜか救われる、なぜか大丈夫になる、そういう数少ない読者に向けて、小さくしっかりと書くことしかできない、そう思いました。

 (……)この小説が、大震災を体験した人に直接に向けられて書かれたことが「とてもとてもわかりにくい」わけは、ここに描かれた生も死も、震災があってもなくても訪れるものだからである。文庫版あとがきによれば「被災地にいる読者から「ほんとうに読んで安心した、息がつけた」というメール」が何通も届いたというから、求められた小説が、求めている人に届けられて、書くことの不安は杞憂に終わったようである。
 「震災にも原発にもひとことも触れていないけれど、この小説はやはり命についての覚悟を描いたものだと思う」、「これからの私たちは、震災で亡くなった人たちの気配と共に日本で生きていくのだから」といったかたちで、生死の問題として捉えようとすることは、震災によるマスの死を唯一無二の死として置き直すことでもある。
 (……)(※山田詠美『明日死ぬかもしれない自分、そしてあなたたち』を含めた)これらの作品は、原発事故や放射能被害を直接に描いていないという理由からではないが、これまでの文学史の流れに逆らうことなく、すんなりと落ち着ける場所をもつだろう。逆に言えば、震災などなかったときにも書かれ得るテーマであった。物語の死者を震災の現実に重ねて読んだ読者がいたとして、本当に震災の記憶などすっかり薄れた頃、たとえば五〇年後にこの小説がそのように読まれる可能性はあるのかどうか。震災のわずか二年後だという書かれた現在を過ぎれば、「いつだって大切な人を失うのは悲しい」という普遍性のなかに易々と回収されていくのではないか。文学史というスパンでみるなら、おそらくこれらの作品は、作風として震災前の作と少しも変わらぬものであり、震災の経験が刻印されたとはとうてい気づかれないだろう。
(三十六~四十頁)

 「震災によるマスの死」を「唯一無二の死として置き直す」ことは、小説の基本的な技法だろうが、「普遍性のなかに易々と回収」する手つきに等しいのだろう(……と補わなければ、最初によしもとばななに怒りを交えた嫌味を書き、最後に「震災の経験が刻印されたとはとうてい気づかれないだろう」とまで書くその途中に置かれる意味がよくわからない)。「原発事故や放射能被害を直接に描いていないという理由からではない」と注釈してはいるが、直後にいとうせいこう『震災ラジオ』の話が続くのだから、最初はやっぱり原発小説じゃないとだめなんじゃないか、としか読めなかった。「普遍性」というとややこしいが、ありふれた、耳障りの良いテーマに「易々と回収」することを阻むような「抵抗」に乏しいのである。この二小説に共通するのは「震災」を親類や恋人の理不尽な死に置き換えたことだ。それを木村は、困難の回避、迂回として読んでいる。だから、吉本の「書くことの不安」に対する攻撃は苛烈である(引用していて胃が痛くなった)。そんなことより気にすべき「書くことの困難」があるはずだ、というところだろう。

 もっとも『震災後文学論』における「抵抗」は「原発の爆発とそれによる放射能汚染の問題」という最も書きにくい問題を書こうとする、自粛の論理への抵抗を意味する。そして「震災」という言葉を用いて「できるだけ原発事故ないし原発問題には触れないという態度」を選ぶ作家の「一般的態度」を佐藤友哉の言葉を借りてそれとなく批判し、講談社の震災を主題とした短編アンソロジー『それでも三月は、まだ』には英訳版の「地震津波、そして原発メルトダウン」といった副題が抜け落ちている、「どこか呑気な構え」に苛立つ。
 本書のいちばん面白い部分は、読んでみないとわからないが、この感情の滲み方なのである。おそらく、と書くには妄想に近いが、第四章「短編小説アンソロジー」の初稿は、より苛烈な批判であり、それを打ち消す改稿があったのではないかと思う。よしもとばなな評のわかりにくさも同様だ。それぐらい強烈な情がなければ、仮に編集者が考えたとしても、『あたらしい日本文学のために』という副題は銘打てない。題の説得力がない。
 激情と抑圧、その緊張が本書の醍醐味だと言っていい。時にその激情が堰を切る。だから本書の文体は、時に煽情的であったり、週刊誌のようであったりもする。引用はしないが、たまたま加藤転洋を併読していたのもあり、文章の生硬さにはちょっと虚を突かれた。本来はこういう文を書く人ではない気がする。小説の筋をまとめる手つきなど、実に手際がいい。真似できない。この硬さは今どき珍しいのではないか。「川上弘美の大勇」(二十二頁)なんて、すごい表現もある。失言は批評家の発言にも多かったと思う。でもそれは引用せず、あくまで同時代の作家に喧嘩を売る。昔ながらの批評の王道を突っ切っている、とも言えるかもしれない。その意味で、あたらしい日本文学のための書物であると同時に、なつかしい文学の本でもある。
 文体の感情が面白い本だから、もちろん後書きに注目すべきだ。なぜ本書がこれ程の激情で綴られたのか。

「日本人がほとほと嫌になった」
 日本の古典文学研究をしているカナダ人の友人は、そういって長く住み慣れた東京を去っていった。
放射能が危ないってちゃんとわかってるの?」「なんでなんにも考えないの?」
(……)震災の直後も東北のお酒を買い集め、代々木公園で日本酒を呑んで復興を応援する会を開いた。それが彼女のあたりまえである。
 それに対して、まわりの、とくに大学関係者や日本文学の研究者仲間は、ほんとうに鈍くて、ぼーっとしてて、かつ考えるのを放棄しているようにみえたに違いない。
 そんな彼女に対する申し開きのために、ここまでやってきたような気もする。
「何かしなければならない」という焦燥は、海外の日本文学の学会で語らなければならないという思いにどういうわけか帰着して、以来あちこち忙しく飛び回ることとなった。
(二三九頁) 

 より鮮烈な挿話は別にある。目的は書かれていないが、地震直後に向かったパリで酔っぱらった老人に「ラディオアクティブ!」と叫ばれ、「ああこれからの日本人は寛大な親切を受ける一方で、心ない差別にもあうのであろう」と心を痛めるくだりだ。でも重要なのはこちらだろう。
 引用部の後には「何もいわない」「鈍くて、ぼーっとしてて、かつ考えるのを放棄しているよう」な「日本人」への手短な、かつ強烈な感情の吐露が続くのだけれども、根本にあるのは「申し開き」なのである。そうじゃない、考えている日本人もいるよ。それを聞き知ってもらうために、何かしなければならないと。同僚の古典文学者なのかもしれないが、本書の上梓を「たいへん危険なことだ」と止められもしたという。
 この日本人への怒りについては私は同意しにくい。他ならぬ私が外国人の友達ひとり居ない、凡庸な日本人だからである。影響はしばしば後方視的な検討によってしか読めず、厳密な予知はいつも常に難しいだろうとは、個人的には思う。福島の農産物の下りとか、当時と現在では著者の意見も違っている可能性があると思う。ブッグガイドとしても、震災から刊行までの期間の短さはあるが、現在ではより質の高いものがあるに違いない。詳細に分析された作品数も存外少ないし、批評の応答も書き漏らされているだろう(世界文学の観点だし、小説を選ぶ理由も説明されている以上は仕方ないのだが、さみしい)。なぜ原発を語ることが自然にタブーとなるのかは、心理の詳細を想像でも書くことは出来ただろうし、あるいは過去に抑圧があれば、抑圧の歴史を書くことが出来る(天皇制を語るタブーと、福島原発を語るタブーと、津波による死者を非当事者が語るタブーとは、分けて考えたほうがいいんじゃないか)わけだが、粗雑な言い方をすれば、本書は「鈍くて、ぼーっとして」るから、と言い切るのに近いところがある。
 でも、良い本なのである。少なくとも第一章はすこぶる良い。
 「古典研究の人が何を言うだとか、思想的に偏向していて中立的な態度とはみなせないとか、ありとあらゆる日本人の「普通」をふりかざして否定されるにちがいないというのだ。そういう目にあいたくないと思わないわけではない。けれど、今の気分としては、それでまた「ほとほと嫌になった」なんて海外の友達に言われるほうがよっぽど哀しいのだ」とあるから、他ならぬ「書くことの困難」に置かれていたのは、著者なのだ。古典文学者が「同僚」にそれとなく提示されるタブーは、想像するに余りある。禁忌と抵抗、抑圧と激情が、本書の潜在的な主題だろう。故に『震災後文学論』における震災後文学とはまず第一に本書である。だから語りに血が通っているし、震災後文学の定義を書く第一章がもっとも面白いのは、自然な成り行きだろう。
 最後に。よしもとばなな山田詠美の小説について、五十年後の読者が何気ない震災小説だと分かるわけがないだろうと批判するくだりは、そもそも著者が千年後の『源氏物語』の読者であるのを思い出す(これは現代文学へのポジティブな期待の現れと見なしていいのだろう)。本書の索引は、震災後文学と題したアンソロジーの編集にも見える。和歌集の目次のようだ、では野暮か。しかし現在をめぐる語りが禁忌であるならば、その侵犯は、現況の外部から立ち寄る者のみが可能な「蛮勇」だ。現代文学者でない著者が『震災後文学論』を記すとき、そこには間違いなく必然性があったと思う。

小説家の足音 木村紅美『雪子さんの足音』について

 

雪子さんの足音

雪子さんの足音

 

 木村紅美は卓抜した文章家と言われる。それだけでは宣伝文句にならないからか、登場人物の心情を詳細に書くのが巧みだという謳い文句も、たしか『春待ち海岸カルナヴァル』の表紙裏に書かれていた。個人的には『春待ち海岸カルナヴァル』よりも、『夜の隅のアトリエ』以降の木村文学においてこそ、文体における心理表現が深度を増したように思う。
 本書なら、小野田さんの部屋に忍び込んでその荒れように衝撃を受け、バーに駆け込んだときの何気ない一文である。
 「今晩もレゲエや古いロックが大音量で流れている。だまって身体を揺らし聴いているうちに、洋服やぬいぐるみに八つ当たりする女の子なんて、つくづく、まともに相手にしないで正解だったと、自分の判断を誉めたくなった」(一〇九頁)という、この心情の書き方こそ、『夜の隅のアトリエ』以降の基本技法と言っていい。年上のテレフォンオペレーター・小野田さんから強引な迫られ方をされ、冷たく拒んだあとの場面だ。褒めたのではなく、誉めたくなったのである。小細工のような読みだが、このとき主人公の湯佐薫は、自分の判断を正解とは心の底では思えていない。もっと別の正解があったのではないか、という疑念が滲んでいる。それを抑圧するために褒めたいのだが、心情の奥底で出来ずにいる。だから、この「誉めたくなった」とは、自分への語り掛け、抑圧としての言い聞かせの文体だ。疑念の源にあるのは、自分が小野田さんに破壊的な打撃を与えたのではないかという罪悪感である。それは小野田さんが会社を辞めたのを自分のせいではないかと、大家である川島雪子に尋ねる場面からも明らかだろう。
 『夜の隅のアトリエ』以降の木村文学には、この罪悪感と抑圧の結果として生まれる、言い聞かせの文体が芽生えている。
 本作の物語でもっとも決定的な場面は、アパート・月光荘の隣人である小野田さんに、肉体関係を迫られる箇所だろう。「湯佐くんは、わたしを……、いっそ、遊びで、というか、身体だけを目当てに、道具っぽく扱ってくれたっていいじゃない」(八十八頁)と小野田さんが「コーデュロイのズボンのジッパーを下げようと」しながら背後から囁く言葉は、薫の本心を見事に言い当てている。薫は、たしかに後ろめたさから川島雪子の孫ごっこに付き合い始めたとはいえ、明らかに金「だけを目当てに、道具っぽく扱」っていた節があるし、「都合のいいところだけを利用していたい」(七十四頁)と願っていたからである。小野田さんと湯佐薫が二人きりになるよう取り成したのは、「キューピッド」になりたいと願っていた川島雪子だ。
 「そりゃ、わたしは、あなたにとって、古着屋やレコード屋をいっしょにはしごしたくなるような外見じゃないだろうけど、それは、電気を暗くすれば気にならないじゃない? 声と、身体の感触だけになってしまえば」(八十九頁)と続く言葉も、つまりは「声と、身体の感触」という「都合のいいところだけを利用」すればいいじゃないか、という請願である。金を払って抱かせてくれ、という願いも、湯佐薫の急所を、正確に突いているといえる。金を払って孫ごっこをさせてくれるのに、恋人ごっこを断るのは、理由の説明がつかないからだ。
 たしかに小野田さんの迫り方は性暴力に近く、その誘いを断られたからといって「洋服やぬいぐるみに八つ当たりする女の子なんて、つくづく、まともに相手にしないで」正解なのである。湯佐薫は金目当てに孫ごっこを利用してはいるが、一方で「まったく最後の最後まで、湯佐さんはおやさしい」と川島雪子に告げられる。湯佐薫が「やさしい」のは小野田さんに対してもだ。最後まで性暴力を振るった相手の身を案じようとする(湯佐薫は、これまで女を「道具」のように扱ってきた木村文学の男たちと比べれば、比較群が悪いとはいえ、破格のように倫理的である)。
 それは薫が、他ならぬ自分の罪悪感を言い当てられたからだろうと思う。
 
 映画『雪子さんの足音』は優れた映像化作品だ。もちろん原作は好きな作家の小説なんだから好きに決まっている。
 しかし脚本も素晴らしい。脚本家の山崎邦紀さんは木村紅美のファンで、それは本作の冒頭が『たそがれ刻はにぎやかに』という、おそらく木村文学を以前から読んでいた人しか知らないであろう中編の引用から始まることからも確かなのだが、小説では月光荘の女たちとの別れを後押しする重要な装置が「江戸川」であったのに対して、映画では原作にない水槽が二度決め打ちのように使われていたのも印象深い。木村文学における「水」は、別れを決定付ける重要な装置だからだ。
 それに劣らぬほど素晴らしいのは、主演三人の演技だろう。
 個人的には原作でも「足音」は然程重視されていないように感じていて、むしろ重要なのは「声」だと思う。小野田さんが二人で川島雪子の養子になることを「プロポーズめいて」提案するとき、「夜は、声だけは美人、ってしょっちゅう褒められるこの声を活かして」テレフォンセックスで小説を書く薫の生活を支えたい、と申し出る箇所もそうだ。『夜の隅のアトリエ』における、ヌードモデルの女を男たちが視線で切り取る動作は、『雪子さんの足音』においてより発展している。湯佐薫は川島雪子の「金」だけを切り取って交流しようとするし、だから小野田さんに「声」と「身体」だけを切り取って自分を抱いてくれ、と復讐されるのである。映画を横浜で観てから随分経ったが、川島雪子を演じる吉行和子さんと、小野田さんを演じる菜葉奈さんの声の粘度は、今も耳の底に沈んだまま、消えてくれそうにない。菜葉菜さん演じる女は、内気で内向的で動作がぎこちなく、だが恋愛への欲望を抑えきれずに苦しむ木村文学の女たちを、同時に何人も演じているようで、『春待ち海岸カルナヴァル』の紫麻を思い出してしまった。
 しかしいちばん驚いたのは、湯佐薫を演じる寛一郎さんが、本作を読んだとき、恋愛小説だと思った、というコメントだった。これは私はまったく初読ではわからなかったのだけれど、そうなのである。すでに書いたように、「道具っぽく」扱ったのはまず小野田さんではなく川島雪子相手であり、「わたしが死んだとき、まだきれいなうちに下宿人に見つけてもらえたら、という魂胆があったの」(百十一頁)という告白はほとんど最期を看取ってほしいという「プロポーズめいて」いるし、何よりそう読まなければ、雪子さんの寝室に忍び込んだときの、次の描写の説明がつかない。

 洋服箪笥もあけた。防虫剤の香る、几帳面に畳まれたブラウスやセーター、スカートを一枚ずつ持ちあげる。おへそまで覆うショーツに大きなブラジャー、レースや花飾りのついたスリップ、厚ぼったい木綿の肌着シャツは、揃って、白かベージュかサーモンピンクをしていた。その底に、こんどは、しわくちゃの感熱紙が折りたたまれ入っている。広げると、印刷された文字列に憶えがあった。
〈指さきがクリトリスに触れ、淫靡な食虫花めいた陰唇のあいだを探った。せつなげに待ち受けるように濡れているのがわかり、〉
 試しに書いた官能小説の一部だ。ごみ袋を点検したのか、掃除に入り込んだときにごみ箱から拾いあげたらしい。
(一〇五頁)

 母親に書きかけの官能小説を見つかっていたようなもので、湯佐薫が「こめかみから火が出そうで乱暴に丸めよう」とするのは当然なのだが、しかしこのわずか二文で終わった官能小説の切れ端を、誰にも探られないであろう洋服箪笥の底に、丁寧に折りたたんで保管していたとき、「せつなげに待ち受け」ていたのは、他ならぬ川島雪子だったのではないか。「孫ごっこ」に欲望が付き纏うかというと、この小説の世界ではするのである。何故なら川島雪子の分身にも等しい小野田さんが、「血のつながりのない姉と弟」になることを願いながら、湯佐薫に迫るのだから。
 映画版で、薫の退去をめぐって、小野田さんが川島雪子に食ってかかる場面がある。この場面は原作にはなくて、山崎邦紀さんに伺ったとき、「お二人とも素晴らしい女優だから、やはり衝突をさせたかった」と仰られていた記憶があるのだが、正確な補筆だろう。そしてもうひとつ、若かりし頃の雪子さんが「白い毛布から肩をのぞかせ」た裸の写真を、「思わず手に取り、見つめ返すように見入った。台所で後ろから寄りかかってきたのが彼女なら、たぶん、」小野田さんとは「別の態度を取った」と比較する場面があるけれど、ここでは原作は、吉行和子さん、すなわち老女・雪子さんの映像を差し挟んでいる。これがとてつもなく色っぽいから驚いたのだけれど、しかし浜野佐知監督の采配なのだとしたら、やはり見事な場面である。
 「キューピッド」は欲望の代理であり、二人は同じ湯佐薫という男をめぐって争っている。にもかかわらず映画版のような衝突が小説内に発生しなかったのは、小野田さんの「姉と弟」の提案を「ぼくは、普通に結婚とかしたいし」と湯佐薫が拒んだときの、「じゃあ、奥さんもここへ連れてきて、子どもも高円寺で育てたらいい。わたしはたぶん、ずっと、ひとりだけど」という切ない応答が理由になるだろう。薫と「結婚」できるなど夢にも思わない。だが「ずっと、ひとり」であろうが、姉弟という関係で繋がれるなら、それが小野田さんの最大幸福なのである。養子縁組を結んだとき、実質的に「奥さん」のように薫を掌握するのは、経済的にもずっと有利な川島雪子に違いない。それで、小野田さんは良かったはずなのだ。
 しかし、その小野田さんが薫に強引に迫るのである。この変化は極端である。友人の精神科医がこの小説を読んだとき、「小野田さんのあの場面は唐突で、官能小説みたいだな」と半笑いで要約していて、同調こそ出来なかったけれど、では何故なのか、ということは答えられなかった。
 しかし、川島雪子もまた湯佐薫を「せつなげに待ち受け」ていたことを踏まえれば、提案を拒む、この次のやり取りこそが鍵なのではないか。

「ぼくは、普通に結婚とかしたいし」
「じゃあ、奥さんもここへ連れてきて、子供も高円寺で育てたらいい。わたしはたぶん、ずっと、ひとりだけど」
「まだ生きてる雪子さんがいなくなったあとの話を、陰でそんなに嬉々としてするのも感心しないな」
(……)「気分を害したのなら、ごめんなさい。嬉々、だなんて……。いまのは、ぜんぶ、雪子さんが自分で笑って話していたことなの。わたしがいなくなったあとは、あなたたちふたりでそうしてくれるのが夢よ、って」
「あのさ」
 我に返り困惑し、ふり返ろうとすると、そのまま、小刻みにふるえ背中に身体を預けてきて、腰を抱きしめてくる。
(八十七頁)

 薫が小野田さんを非難するのは、死後の話を「嬉々としてする」からだ。彼が川島雪子の孫ごっこに付き合い始めたのは、彼女を息子に先立たれた哀れな老人なのだと同情し、食事の誘いを拒むことに後ろめたさを覚えたからである。『夜の隅のアトリエ』以降の木村文学の主人公がそうであるように、湯佐薫もまた、後ろめたさと罪悪感に弱い。料理だって川島雪子のほうが上手だろうが、何より心を掌握する術が勝っているのだ。
 「あなたたちふたりでそうしてくれるのが夢」が仮に本気でも、結局彼女が死ぬまでには、そこから二十年の時間が必要なのである。
 小野田さんにとって、この「感心しないな」は、決定的な敗北の台詞だった。だから、最後の賭けに出るしかなかったのではないか。川島雪子に勝るのは「声」とまだ年若い「身体」だけなのである。ここまで小野田さんが考えていたかは分からないが、湯佐薫が屈服しなかったとしても、彼が最早月光荘に留まるとは考えられない。であれば、彼を手に入れられないのは、川島雪子も同様である。いずれにせよこのままでは敗北しかない勝負に、引き分け、そして仮にあり得ないとしても勝利の可能性がわずかに含まれる以上、賭けに出ることには必然性がある。

 最初にこの小説を読んだとき、月光荘、という名前が引っ掛かった。木村紅美の小説で、飲食店や宿場が洒落た名前をつけられるのはいつものことだが、高円寺のアパートに、ホテルのような名前だ、と思った。映画版のロケ地は静岡市のカナダ人宣教師が住んでいた文化財の洋館だが、生活感の漂う小説内の個室に対して、まるで古いホテルのシングルルームのような寝室が舞台に選ばれている。でもそのほうが納得いくような名前である。
 この小説の源流は、確かに『たそがれ刻はにぎやかに』も水脈のひとつだろうが、私は『春待ち海岸カルナヴァル』だったと思う。慕う異性との手紙のやり取りと食事がホテルのなかで絡むのもそうだし、何よりあの小説は、男をめぐる紫麻と、亡母の三角関係なのである。木村紅美の女たちは高確率で恋愛に失敗するが、故に、三角関係を結ぶことには慣れていなかったのではないかと思う。同じ男を姉妹のような女たちが巡って争ったところで、同時に男に逃げられる結末が見えている。だから、三角関係を描こうとすれば、片方を既に勝ち終えた女にするしかない。典型的なのは『ボリビアのオキナワ生まれ』だし、その変奏として死者の亡母が選ばれたのが『春待ち海岸カルナヴァル』だろう。木村紅美の小説では妻子持ちの男との不倫が繰り返されるが、これも最初から敗北が確定している三角関係のようなものだ。
 茅野さんがなぜ亡母にそれほどまでの想いを募らせているのかは、『春待ち海岸カルナヴァル』だけでは分からない。『雪子さんの足音』は、紫麻が小野田さんに、亡母が雪子さんに置き換わった、新しい三角である。そして茅野さんから亡母への思慕は、湯佐薫から川島雪子への後ろめたさとして説明されている。倫理の主題は、震災が導き入れたものだろう。ここが木村文学の特異点だと言っていい。
 『雪子さんの足音』は、震災以降の『春待ち海岸カルナヴァル』なのである。
 一方で、この生きた女同士が結ぶ三角関係の緊張は、これまでの木村文学にはなかったものだ。意地悪な見方をするなら、木村文学は『風化する女』以来、絶対的なもの(たとえば、死者との絶対に飛び越えられない断絶)を道標にすることで、巧みな小説を書くことが出来た。さらに嫌味な書き方をすれば、上手い文章を書きやすい枠組みだった(といっても、木村紅美の上手さと細やかさが格別だから、優れた小説なのだが)。木村紅美は、ともすれば女の孤独ばかり書いている作家と思われるかもしれないが、政治的問題についても「オキナワ」と抑圧される女を主題とした、『島うさぎたちのソウル』という優れた小説がある。しかし『夜の隅のアトリエ』以降の木村文学は、震災と原発という政治的問題に対して、「上手い文章」を書くことは出来なかったし、倫理と震災の接合点を目指したとも読める『まっぷたつの先生』においても、震災を書くのにどこか難儀していたと思う。何より『夜の隅のアトリエ』以降、スランプに悩まされたと、他ならぬ作者が語っているのである。私が初めて読んだ木村文学の作品は、この時期の中編だった。それから数年後の去年、『風化する女』のあまりの精巧さに驚いた。だから、木村文学の単行本を通読することにした。

 最後に、『夜の隅のアトリエ』以降の、現実の亀裂について書いておきたい。戦争を体験した老人が、かつての戦禍を語る小説は本作と『黒うさぎたちのソウル』に共通する場面だ。オバァの語りは強烈であり、故にヒロインである麻利は沖縄で戦死した女たちの「ソウル」に自然に感応することが出来る。一方で『雪子さんの足音』における川島雪子の体験談は、にわかには信用し難いものとして描かれている。

爆撃機に乗ったアメリカ人のパイロットと眼が合ったこともあるわよ。一気に急降下してきて、湖のような薄青い瞳。『アラビアのロレンス』のピーター・オトゥールと似ていた」
 そこまでわかるわけがないだろうとしか思えなくてからかいたくなり、膝を見おろす彼女が片手だけ握りしめかすかにふるえているのに気づくと、薫は、へえ、とだけつぶやき受け流した。どうもおとぎ話っぽく聞こえる。
(五十一頁)

 この「おとぎ話」の疑念は、二十年後、下宿人に疎開経験を語ったらしいという挿話に触れて、「大家として、いちいち、下宿人を惹きつける身の上話を作りあげることに、得体の知れない喜びを感じていたような気もする」(百十三頁)と繰り返される。わかるのは、川島雪子が「片手」を握り、震わせていることだけだ。たしかに作話の側面もあったかもしれないが、たしかに手を震わせるだけの体験はあったはずだ。しかし、かつては強固に語られていた戦争体験談さえ「おとぎ話」のように覚束なくなる場所とは、それぞれの立脚する現実に、亀裂が走っている世界なのではないか。木村は『夜の隅のアトリエ』以降、民話に取材した中編を発表しているが、それは震災に揺るがされた現実を、どう修復するかという試みの持続ではないかと思う。
民話を取り入れるとは、過去に回帰するということだ。『まっぷたつの先生』の仙台復興が、「荒れたすすき野原」という傷を抱えながら、過去の都市の姿を取り戻そうとする営みであったように、最新作『夜の底の兎』とその周辺の中編群は、復興過程としての震災文学に位置付けられるだろう。
 相手の語りが本心ではなく演技なのではないかという留保は、『まっぷたつの先生』の結末においても繰り返される。
 『雪子さんの足音』であれば、いちばん肝心な、雪子さんのプロポーズの場面である。

「わたしは、……もう、部屋を借りる方への、親切? お節介は、金輪際、止めることにします」
「金輪際? なにもそこまで」
「白状しますと、……わたしが死んだとき、まだきれいなうちに下宿人に見つけてもらえたら、という魂胆があったの」
 心から反省し吐露するふうに言い、コサージュと似た赤に塗ったくちびるの裏側を噛みしめる。どこまで本気なのやら言葉通りには受け止められなくて、薫は、はあ、とだけあいまいに返した。自分も、ここでは嘘ばかりもっともらしくついてきた。明日からは生まれ変わるつもりで、もうそんなことはないようにしたい。
(百十一頁)

 相手の本心などわかるわけがない、という認識は、小説では当たり前の技法かもしれない。湯佐薫はたしかに嘘ばかりついてきたが、女たちに対してだけではなく、自分自身を騙そうと繰り返し言い聞かせたのもそうだろう。『まっぷたつの先生』では相手の罪悪感を結局演技とは思えないし、演技であっても一枚上手だとする。それが理性的な解決だろう。明日から生まれ変わるという願いも、やはり前作に書かれていたものだ。
 だが『雪子さんの足音』においては、昏迷はより深まっている。猪俣志保美は中村沙世の告白を受け入れられるが、湯佐薫は川島雪子の「心から」の悔悟ですら、「はあ、とだけあいまいに返」すしかないのだから。人の狭間に横たわる淵が、深度を増しているといえる。心の昏さなら、すでに恋心の昏さを描いた『島の夜』がある。だが『島の夜』の昏さが、自分を受け入れてくれるとは思い難い相手を、それでもなお思慕する心であったのに対し、『雪子さんの足音』の昏さは、目の前の相手との、生きた緊張関係のなかにある。

 雪子さんの足音とは、失恋で抑鬱に陥り込んだ湯佐薫を気遣い、絶交状態であったはずの川島雪子がおじやを運びに来るときの足音だ。これは、事務所の破綻で塞ぎ込み、ホテル・カルナヴァルの一室を占領する茅野さんの部屋の扉に、救援の手紙を送った紫麻の足音にも似ていただろう。恋愛の欲望がひとかけらは宿っていたかもしれないが、しかし善意と気遣いからの施しであったには違いない。それが理解出来ているからこそ、湯佐薫の罪悪感は深い。足音が題名に選ばれたのは、この小説が後悔と罪悪感、そしてそれにまつわる回想の物語であることを意味する。
 木村紅美は、『夜の隅のアトリエ』の担当編集者に、「これで木村さんは向こう何十年と書いていける、そういう小説です」と太鼓判を押されたという。『春待ち海岸カルナヴァル』の完成度は非常に高いが、震災を真正面から受け止めるが故に、時に筆致の乱れる『夜の隅のアトリエ』以降は、独特の緊張感がある。その感応こそが、木村紅美が単に卓抜した文章家ではなくて、優れた作家であることを意味すると思う。木村文学はまた失敗するかもしれないし、スランプになるかもしれない。しかし、その辛さは重々承知で、木村文学の達成は、やはり『夜の隅のアトリエ』以降だと言いたい。
 足早に通り過ぎれば、平穏な佳品としか読めないかもしれない。重量を意識して、慎重に選び抜かれた言葉だからこそ、さらりと読めてしまうきらいはある。だが澄んだ言葉の奥底に潜む昏さと緊張感は、木村文学の新たな歩みを意味する。『雪子さんの足音』に響く足音は、老いてなお思慕する雪子さんの緊張した足取りであり、そして小説家が生きた課題に取り組み続けるが故に、時に乱れ、時に足踏みし、時にたたらを踏みながら、しかし前進し続ける足音だろう、と思う。

再建のための一章 木村紅美『まっぷたつの先生』について

 

まっぷたつの先生

まっぷたつの先生

 

  二〇一二年の『夜の隅のアトリエ』で浮上してきた木村文学の新たな問題は、倫理と罪悪だった。それが震災と関連するかは難しいところだが、私は「放射線」がそれとなく言及されている場面に触れて、サバイバーズ・ギルトに類するものがあったんじゃないかと妄想を書いた。
 そのときは、作者本人のなかで、倫理と震災の接点を明白に書くことが出来なかったのかもしれない。本書『まっぷたつの先生』は、そのふたつは強固に結び付けられている。「あの蒲鉾はね、よく知り合いに贈るんだけど、あれは、三陸を支援することで、仙台で教えてたころの罪ほろぼしをしたい一心で」(二七四頁)とあるように、その役目は、序盤から登場する、三陸の蒲鉾が果たしている。
 『夜の隅のアトリエ』以降、木村文学の主人公たちに共通するのは、彼らが特大の罪悪感を抱くことだ。
 『夜の隅のアトリエ』の女は二人の男を見殺しにした後ろめたさで永久の流浪を続けるし、『雪子さんの足音』の薫は女性との交際が困難になる。『まっぷたつの先生』の沙世も、二十年前に自分が教職に専念出来ず、教室で暴力を振るった記憶を後悔し続けている。女性派遣社員、不倫といったモチーフはいつも通りに使われるが、中村沙世の不倫において、相手の妻の精神疾患をめぐる、何気ないこの記述は見逃せない。

「妻が……、ヒデコが、心を病んでしまってね」
 塚本さんからそう告げられたのは、最後にふたりで行ったドライヴの帰りみちだった。
(……)それまで、沙世も会ったことのあるひとり息子の青はともかく、彼が妻について話題にしたことはなかった。空気のように感じていたのが、ふいに、ヒデコ、という名前で重みを持った。
(一八五頁) 

 まさしく木村文学は、「妻について話題にしたことはなかった」のである。木村文学のヒロインたちは頻繁に不倫するが、単行本化された小説で、浮気をされる相手=妻の側について触れた、その「重み」を感じた小説は、初めてのはずだ。塚本さんと別れたあと、大学浪人中の「ひとり息子」青を、「さびしさを埋めるため」(二二九頁)自分の部屋に上げて「甘やかす」挿話が絡む。抱かれる空想の程度はあるけれど、性的関係は結ばない。沙世は己の「さびしさ」を自覚して青を突き放すし、相手の男も「彼女の人生を狂わせてしまったのだろうか」と死に際に後悔する。
 『夜の隅のアトリエ』という亀裂以降の木村文学は、このような倫理と罪悪のフィールドに立っている。
 その亀裂を踏み越える前の木村文学で、果たして男が最後に後悔したとは思えないのである。亀裂以降、ヒロインたちの感情がしばしば暴発することも見逃せない。制御不可能な感情が溢れ出たとき、彼女たちは罪過を犯し、そのことを悔い続ける。『雪子さんの足音』の小野田さんが薫に性交を迫って失敗したとき、映画版の描写を重ねるなら、自身が父親から振るわれた性的暴力の光景が重なったはずである。抑えていた感情が滲み出るまでには、抑圧と隠蔽が前提としてある。

「あれ? ……光のページェント
 志保美がうたた寝から目ざめると、すでに夜だ。車の両窓は、小さな星がびっしりと宿ってみえる黄金色に輝く木立ちで埋め尽くされている。まばたきして見渡した。
(……)志保美は煌めくページェントを瞳に映しながら、瞳の奥に、ついさっきまで車窓に海のように広がってみえた、荒れたすすき野原をよみがえらせた。薄赤い夕陽を受けてささめき揺れていた。国道沿いに、四階や五階まで津波が達しベランダの硝子戸が割れたまま、取り壊されないで残っているぼろぼろのアパートがあった。カラスが巣を作ったようで、室内に出入りしていた。
 新しい家を建てる高台を作るための工事が始まり、クレーン車が土を盛りあげている光景も見た。まだまだすすき野原のほうが果てしなくつづき、志保美は、むかしここは街だったといくら自分に強く言い聞かせ、津波に呑まれるまえの景色を思い描こうとしても、どうしても、初めからすすき野原だったようにしか考えられなかった。
 街があったと信じたくなかった。
(二四五頁) 

 本書はもともと、二〇一五年に創刊された文芸誌『アンデル』に、一年間連載された小説だ。震災から四年が経過し、「光のページェント」はとうに輝きを取り戻している。それでも「すすき野原」という、大地のかさぶたは残存している。街の姿をそこに思い描けば、その悲惨さが余震として自分の心を揺らす。だから「街があったと信じたく」ない。けれども、「心のなかで手を合わせ」祈らずにはいられないとき、志保美はその震えを感知している(余談だが、本書はこれまでの木村文学と比較しても「星」が印象に残る小説だ。木村が度々書いてきたのは雲だが、被災地の星を見たのだろうか)。『夜の隅のアトリエ』以降、木村のヒロインたちが繰り返す特徴的な身振りである。「信じられない」のではなく「信じたくない」というとき、そこには事実への心理的な否認がある。だが頭ではそこに「街」があったのはとうに理解しているから、祈りの心情が自然と滲み出てくる。言葉の上での抑圧と、そこから漏れ出る心情とを同時に描いたこの文体は、三人称のようで常に一人称的な特性を十二分に活かしたものだと思う。
 もうひとつの特徴は忘却だ。『まっぷたつの先生』の女たちは、複数の場面で過去を思い出せなくなる。

 過去はいまさら建てなおせない。明け方、小鳥のさえずりを聴きながら、起きあがったら生まれ変わったようにいい人になろうと、なにかのために署名しようと決意したはずだった。なにかは、子どもだったような、いまは律子の胸のうちで、ぼんやりとかすんでいた。思い出せないまま、おなかがすいて、悔やんでいたことすらまた忘れていった。
(一五六頁)

 『夜の隅のアトリエ』の特異な文体は、結末において特に顕著だが、女がまさしく自分の「悔やんでいたこと」を忘れたように振舞う、抑圧としての忘却から成り立っている。作中の「放射能」が「隠蔽」されたように、小説は震災後の出版物という事実を隠蔽する。より直截的に震災を主題にしている『まっぷたつの先生』でも、忘却の身振りは繰り返される。それは、二〇一六年に出版された本書を読む私たちが、震災という忘れ難い事実をなかったことのように隠蔽している事態と、そっくり重なるだろう。傷の直視は耐え難く、しかし隠蔽=忘却された傷は日常のなかで何度も浮かび上がってくる。『夜の隅のアトリエ』と『まっぷたつの先生』は、この罪悪感と抑圧=忘却という繰り返す浮沈を、物語の原動力としている。
 
 「まっぷたつ」とは、生徒からの評価がまっぷたつなのと、地のまっぷたつ=震災とのダブルミーニングだろう。ある人と震災文学の話をしていた。なぜ震災文学をリアリズムで書いた小説に傑作が思い当たらないのだろうと自分の不勉強を棚に上げて訊いたとき、リアリズムで書くにはあまりに巨大な現実だったのではないか、という答えで納得したのがつい先日だ。しかし、木村紅美の描写力をもってすれば、津波直後の瓦礫と荒野を書くことは出来たはずだし、行動家である木村が瓦礫を直接見なかったはずがないのだ、ところが私は、そうした木村の小説を知らない。
 小説が震災を書こうとするとき、それは必ず余震の形式を取る。死者がこの世に言葉を記すことは出来ない。震災について書き得るのは、助かる程度の震災しか被災しなかった者ではある。だが、震災は大地の揺動から津波が続発したように、第二波、第三波、と副次的な余震を生んだ。原発のニュース、次第に明らかになる死者の数、波に洗い流されたあとの荒れ野の写真。生きて震災について書くことは、震災の傍らを書くことにしかなり得ない。それが圧倒的な現実ということだろう。『夜の隅のアトリエ』以降の木村文学は、この書き得ないものを「物語」で書こうとする試みと、それ故の必然的な迂回、と要約出来る。その迂回こそが、震災という傷の深さを体現している、とも言える。
 『まっぷたつの先生』は、震災から復興する東北と、過去の傷から復活する女たちが重なり合う物語だ。震災と個人的な後悔が連続するのを、私は短絡だとは思わない。作者が震災とその余震、それ以降について書こうとしたとき、そこには個人の物語を差し挟まずにはいられなかった。それが小説家としての資質なのだろう。『黒うさぎたちのソウル』における「沖縄」が、何よりまず個人の物語として書くことで島の隷属を心理的に納得させたように。それが、木村文学における「問題」の記法である、とも言える。

 同時に本書においては、過去の木村文学の引用が、(たとえ無意識にせよ)複数含まれていることには注意を要する。不倫や女性派遣社員の事務職もそうだが、猪俣志保美の「ぼろぼろ」の「ローファー」と、正社員である吉井律子の「ギャルソン」の靴との対比には、『風化する女』の靴のくだりを思い出さずにはいられない。そして木村文学が、このあと、選ばれない女をめぐる回想であり、そして『たそがれ刻はにぎやかに』の再演と変奏である『雪子さんの足音』へ歩みを進めることを思うと、『まっぷたつの先生』は、まさしく木村文学そのものの復興の物語ではないかと思う。
 ただしそれは、大地の傷跡の否認などではなく、「荒れたすすき野原」を横目に見るような、静かな歩みなのだろう。

亀裂をめぐる試論 木村紅美『夜の隅のアトリエ』について

 

夜の隅のアトリエ

夜の隅のアトリエ

 

 これまでの木村文学と比較したとき、異質の昏さがある。傑作や佳作と、容易に断言することが躊躇われる。
 たとえば『春待ち海岸カルナヴァル』までなら、ゆったりとした変化はあるにせよ、ほぼ同一の構造で作品を捉えることが出来た。『見知らぬ人へ、おめでとう』以前の木村は、人と人との間に横たわる絶対的な隔絶を書き、以降はその淵の深さではなく、人と人とが通じ合える可能性を書き続けた。物語に即した言い方をすれば、『見知らぬ人へ、おめでとう』以降、別れた二人の再会は、二度目の別離をもたらすのではなく(『海行き』『ソフトクリーム日和』)再び通じ合う機会になる。現実の他者だけでなく、想像の他者、たとえば生まれ得なかった赤子や死者(『黒うさぎたちのソウル』)にも想像で通じることが出来る。その極点が、恋愛の困難を片側に置きながら、再び出会い直した家族、そして友人との友愛を描いた『春待ち海岸カルナヴァル』だろう。
 もうひとつ。木村が『風化する女』から一貫して書き続けてきたのは、低賃金の女性労働者だ。経済的(=低賃金)そして性的(=女性)に二重の差別を受ける木村文学のマイノリティたちは、恋愛の困難さに苛まれ続ける(この困難さに女性同性愛者が登場しないのは、個人的には興味を惹かれる)。自分を支えてくれる集団の承認が土台としてなければ恋愛も出来ないという、シビアな認識が漂う。マイノリティの孤独だ。その典型例が『ボリビアのオキナワ生まれ』だし、『春待ち海岸カルナヴァル』の紫麻が恋愛に踏み出せるのも、家族と常連客との友愛があってこそだ。
 
 では、『夜の隅のアトリエ』は従来の木村文学と比較して、どう異質なのか。第一は、名前と過去の欠落である。
 まず、主人公である女に、厳密な名前がないことは見逃せない。たしかに小説は、名付けが面倒なのか、書き始めた時点で用意していなかったからか、「女」と代名詞のように呼ぶこともある。しかし木村文学においては、小説をちゃんと探せば、名字ともに名前が用意されている。『夜の隅のアトリエ』の女は、理容師の資格こそ有してはいるが、移り住んだ街々で他人の保険証を盗み、新たに生起し始めた社会関係がわずらわしくなってきたところで、別の女に成り代わって逃げ出す暮らしを続けている。女は名前を奪い続けている。だから、その個人証明書に印字された名前は繰り返し小説内に記入されるけれど、女の本当の名は、わからない。『島の夜』の母との関係に悩む波子は、その根本原因たる父に出会い直す。沖縄というルーツを描いた『黒うさぎたちのソウル』や、家族が重要な主題であった『春待ち海岸カルナヴァル』に対して、『夜の隅のアトリエ』では、女が血族や自身の過去について語ることは一度もない。女が物語の最初で名を捨てる原因となった、恋人のカメラマン・秋生との生活以前のことは、一切書かれない。女がどこから来たのか、小説内の誰にも、そして読んでいる私たちにも分からない。
 分かるのは、女が名を奪いながら旅をしている、ただそれだけだ。
 木村文学における孤独は、今に始まったことではない。孤独は過去からの積み重ねで、人をそこに縛り付けるものだろう。
 たとえば『風化する女』のれい子さんは、社内で存在しない人間のように扱われる前から、そもそも鳥取の家族と不仲だった。新たな土地に安住も出来ず、もはや故郷に帰ることも出来ない女こそが(『野いちごを煮る』のように、その移住先に選ばれるのが東京だ)木村紅美における低賃金の女性労働者の系譜であり、『ボリビアのオキナワ生まれ』のマナさんもこの例に漏れない。自分に恋愛を希望する資格がないように感じるには、相応の失敗経験の積み重ねがあるはずである。木村の小説は、この失敗の歴史を必ず丹念に描くか示唆している。最新作『雪子さんの足音』は、恋愛が困難な小野田さんの傷を濃密にほのめかしているし、物語は女を愛することが困難となった男の失敗談そのものである。
 しかし、『夜の隅のアトリエ』の女は決定的に違う。女は、孤独ではない。恋人が居れば、職場からのそれなりの承認もある。ビジネスホテルに連泊出来る程度の貯金もあるし、自分の身体に女としての価値があることも理解している。だがそれでも女は、進んで孤独を選ぶ。

 歩いていても電車やバスの窓からなにげなしに街並みを眺めているときも、廃屋寸前のまま何年も周囲の時間の流れから取り残されたアパートや家が気になる。
(……)陽あたりのわるい部屋の畳は傷むのが早いだろう。ビー玉を置けば指さきで弾かなくても自然に転がってゆく。でもすぐに慣れてなんとも感じなくなる。
 田辺真理子は、いつからか、衆人の眼にさらされていながら、じっさいは映っていないように思えるああいう場所に、ひとりきりでひっそりと身を隠し暮らしたくなることがある。いっそ、自分の素性もわからなくしたい。仕事も名前も変えて、つきあいのあるすべての人のまえから、突然、予告なしに消える。
(四頁)

 『夜の隅のアトリエ』の女は、「衆人の眼にさらされていながら」「じっさいは映っていない」ような人間として生きることを願っている。誰に素性を知られることもなく、関係を持つこともない。『風化する女』を踏まえれば、「幽霊」のように扱われる人間になりたい、ということだ。
 だから『夜の隅のアトリエ』の欲望は異質なのである。木村文学のヒロインたちが苦しむのは、「幽霊」の孤独だ。恋愛の希望を持つことも出来ず、存在を承認される(映される)こともなく、欲望に付け込まれて弄ばれる、そんな定型を繰り返してきた。ところが今「田辺真理子」を名乗る理髪師は、恋愛の欲望や存在の承認への希望もない。むしろ、恋愛や承認=友愛と無関係な生活を望み続ける。正反対だ。
 第二は労働へのスタンスである。これは過去の木村文学への、反逆にすら近い。たとえば『野いちごを煮る』でヒロインを疲れ果てさせ、『黒うさぎたちのソウル』でそれとなく忌避されていた、「個性」を徹底的に抹殺する派遣の事務職のような仕事が、いちばんの「理想」となる。

 鵜呑みしたマニュアルに従うだけで良く、独自の個性や発想といったものはむしろ邪魔になるだけの仕事、一日の終わりがくるといつもボロ切れのように疲れ果て、ただ、倒れて眠るしかない、休日もろくになく余計な感情を根こそぎ奪われる仕事が理想だ。
(一六八頁) 

 「個性」ある生身の人間ではなく、「衆人の眼にさらされていながら」「じっさいは映っていない」もの、物質のような何かになりたい。
 欲望は、二つの職業に帰結する。第一は連れ込み宿の受付であり、第二はヌードモデルだ。ラブホテル「旅館かささぎ」は、入り口すぐの受付に「小窓がついており、黄みの強い肌をした女の顔の下半分がのぞ」くばかりで、その小窓から鍵の出し入れをする。ここで必要なのは、在室の証となる「顔の下半分」と、鍵を受け取る手だけであって、「あちらからみえる自分は鼻のみの存在」(七十四頁)だ。「毎日いろいろな客と髪を介しコミュニケーションを取らなければなかなかった東京」とは違う仕事だから、気楽である。「乳首や尻を凝視される」絵画教室のヌードモデルは、「愉しみに思えるばかりで恥ずかしさ」はない。その極点は、個人的にモデルを依頼してきた「館主」に、手すりの「ライオン」へ全裸で跨るよう要求される場面だ(一三七頁)。「押し広げられたやわらかなひだのかさなり」が「いっそうこすれて濡れだ」すのを、間違いなく館主は「狙ってい」たに違いない。「モデルというよりなぐさみもの」なのは明白だが、「期待に応えようと眼を瞑ったまま、指示もないのに身体を前へのめらせ」るのは、他でもない「自分」が「そうしたかった」のである。
 自分がものになる世界では、他人もまたもののように見えてくる。

「本日のモデルの小林さんです」
 拍手が起き、ガウンをかきあわせ全身を硬くした。だれとも視線を合わさないようにして、よろしくお願いします、と口のなかでつぶやきおじぎした。椅子を伝いカウンターにあがる。豹柄のフェイクファーが敷かれている。集まっただれのことも、揃って、人間というより、目鼻立ちを肌色にぼかされた人物像に思えだした。
(七九頁) 

 そこは人の生温かさからかけ離れた世界である。関係し続けようとする生物がひたすらにわずらわしい女には、この「肌色にぼかされた人物像」ばかりの世界は心地良い。スケッチする人々の視線は欲望を孕んでいるかもしれない。そう予想していたからこそ、「興奮で陰毛の奥が濡れてきそうな怖れ」を覚えていたが、実際には「すうすうした」ままで、「なんとも感じない」。「可能ならくちびるから肛門までジッパーのようなものでめくりあげ、臓器のひとつながりを、人体模型みたいに全部むき出しても平然としていられそう」だ。
 一方で、ここには不思議な転倒がある。比較すべきは、サプリメントのモニター勧誘を拒む序盤の場面である。

「一日一錠、就寝前に服用して頂ければいいんです。とりあえず、無料で一か月ぶん差し上げますけど、代わりに、お願いしづらいんですが、使用前と使用後の写真を、全身、パーツごとに撮らせてもらいたくて……、もちろん、眼もとは隠してお撮りします」
 さりげなく身を引いた。
(十三頁) 

 サプリメントは「肌から染みやくすみを取り除いて潤いを与え」「二十代前半の状態まで若返」る代物だそうだから、その服用前後の比較は、ヌードモデル同様に、大雑把には「美」を証立てるためにある。むしろ「眼もと」を時に直視され、性器まで露にするヌードモデルのほうが、抵抗感は大きいはずだ。ところが女は「ヌードモデル」のスケッチは愉し気に受け容れ、「写真」からは「身を引く」。この差異は重要だ。恋人であるカメラマンの秋生に「着衣」で撮影をせがまれても、理由を説明することなく拒絶する。身体の分割が愉しく、全身の要求が疎ましいだけでは筋は通らない。なぜなら「臓器のひとつながり」を「全部むき出しても平然」としていられるし、モデルは「裸足」を要求される、すなわち頭の上から爪の先まで凝視されているからだ。
 スケッチが是であり、写真が否である理由は、作中には明記されていない。だからここは想像の領分である、ともいえる。
 「こちらをじっと見つめているはずの領主の網膜から吸い取られた魂が、コンテと鉛筆を通しキャンパスへと移し替えられる。寿命が削られてゆく。奥さんもモデルをしているうちに、削られたのだろうか」(一三六頁)という記述は、どちらかといえば写真を連想させるものだ。「網膜」が欲望を寄せるのは、スケッチも写真も変わらない。普通は前者の視線のほうが、持続する分より濃密な欲を感じさせるはずだし、むしろ女はスケッチの欲望には「サービス」までするのだ。だが写真は、正確な記録である。モデルの名が絵に付されることは滅多にないだろうし、絵は小説の後半がそうであるように、それぞれの欲望に応じて身体を切り取る。「乳房や尻」から個人を特定することは不可能だろう。そこが、差異なのかもしれない。
 しかしそもそも、木村文学において、このように想像で勝手に補わなくてはならない欠落こそが、なにより異質なのである。

 

 ここまでの文章は、『夜の隅のアトリエ』をめぐる重要な問にはまったく答えられていない。
 それは、なぜ木村文学は、『春待ち海岸カルナヴァル』からぐるりと歩みの方向を転じたか、だ。作品の細部を無視すれば、『春待ち海岸カルナヴァル』は人と人が通じ合うという主題を、家族・友人・恋慕の三方向から書き切った作品だった。主題の底まで潜り切った。だからこそ、人と人がまったく通じ合えない、「もの」同士が無関係に並列する世界へ歩き出すのは、流れとしては理解出来る。
 では、その転調の原因とは、何なのか。
 『夜の隅のアトリエ』は、間違いなく木村文学におけるひとつの亀裂である。本書以前の木村文学の魅力は、徹底したリアリズムだったと思う(もっとも、このリアリズムとは「女が抑圧されている」という事態の、素朴で残忍な言い換えかもしれないが)。私も全部を読んだわけではないが、『夜の隅のアトリエ』から『まっぷたつの先生』までの木村は、非リアリズムへの跳躍を繰り返していたと思う。
 重要な主題は震災だ。本書でも、それとなく震災への目配せがあることは見逃せない。家主に髪を切られる場面だ。

「両横は、耳を半分出して。前髪は眉が隠れるくらい」
「わかりました。なにか読みますか」
 週刊誌の最新号をまとめて持ってきてくれた。
「そうですね」
 発売日の日付けをたしかめただけで息苦しくなった。自分は携帯やインターネットのない時代に生きているわけではなかった。表紙を見比べ、総理大臣が替わったことを知った。目次をめくった。各国で相次ぐ自爆テロ放射能漏れの隠蔽。牛肉の産地偽装フィギュアスケートの裏側。女子アナが実業家とゴールイン。
 どの見出しにも興味がわかず、知りたいことはなにひとつなく、知らないで困ることもなかった。無理に読もうとすると眼がちかちかし、押し返した。
「いいです」
 あくびすると両手をクロスの下に隠し、膝のうえで重ねて、鏡に映る自分の顔を見たくなくうつむいた。
(一〇五頁) 

 非常に簡素に書かれている。補って読む必要がある。携帯の契約こそ切ってはいるが、「旅館のパソコン」からインターネットを閲覧することは出来る。そのうえで「発売日の日付け」を確認すると息苦しさが巻き起こるという。この「息苦しさ」は実はよくわからない。「放射能漏れの隠蔽」とあるから、普通に考えれば二〇一一年だろう。菅内閣が終焉したのも二〇一一年で、『夜の隅のアトリエ』は二〇一二年の本だ。
 素朴に憶測するなら、最新号として持ってきてくれた週刊誌の日付けが、軒並み遅れていた。そこに地方の閉塞を感じた、ぐらいのものだろう。ところが「牛肉の産地偽装」となると、表立った事件はゼロ年代だ。最新刊にはさすがに古い。家主も処分するだろう。粘着質な読みをするなら、物語はそもそも二〇一〇年のクリスマスから始まっているはずだ。そこから菅内閣が終了する二〇一一年九月までの時間経過を読むのは、本書からは難しい。なにせ小説の前半はクリスマスと正月から幾月かの、一冬の物語に過ぎないはずなのだ。
 この部分を、私は細疵として読まない。木村文学における時間の亀裂が始まった証だと見たい。
 だから「発売日の日付けをたしかめ」ることは息苦しいのだ。小説の舞台は富山であり、女が仮に地震を体験しているのであれば、それを書かないことは不自然だ。地震を体験していないなら、「放射能漏れの隠蔽」を持ち出す理由がつかない。ここで「隠蔽」されているのは、木村紅美が「震災」をあえて書かなかった、そのことに他ならない。そして、にもかかわらず「放射能漏れの隠蔽」を持ち出さざるを得なかった、切迫感に似た「息苦しさ」が滲むのが、この不自然なほどに簡素極まりない数行である。隠蔽は、抑圧と言い換えてもいい。
 これは小説の外側から押し付けるような暴力的な読みだが、女が「写真」を嫌うのは、報道を連想させるからではないかとも思う。
 もうひとつ。木村文学は度々死者を書いてきた一方、自死者は徹底して避けてきた。『風化する女』のれい子さんが病死でなく自死であったなら、小説の哀切さは霧散しただろう。『たそがれ刻はにぎやかに』の結末は、自殺が困難だからこそ悶え苦しむような哀しさがある。『雪子さんの足音』は、雪子さんが息子を手がけたのではないか、あるいは自殺かと推測したくもなるが、異状死が警察の検死を受けないわけがない。野暮な見方だが、絞殺は痕跡が残るはずだ。
 ところが『夜の隅のアトリエ』の二人の男は、実に呆気なく自殺する。たしかに自殺の動機は説明可能なものと不可能なものとの複合だろうが、その動機の根源は、直接触れ合った館主でさえ分かりにくい。それどころか、自殺とするには奇妙と思いたくなる描写が挟まれている。

 電話のとなりに、アベ、の名前と先月の給与明細が記された茶封筒があった。小銭だけ入っている。丸めてコートのポケットに押し込めた。遺書らしきものは見当たらず、みずから死を選んだのか、不意のことか、わからない。卓上カレンダーは四月に変わり、次の日曜日が赤丸で囲まれ、コバヤシさん、とある。また絵画教室へ出るために仕事を頼む気でいたのだろう。ますます死ぬつもりはなかったのではないかと信じた。
(一五五頁) 

 木村文学において死がどのような運動になぞらえられてきたかは、正確に作品を追って確認しなければならない。しかし、『たそがれ刻はにぎやかに』の屋上を思わせる次の想像の場面が、『夜の隅のアトリエ』の死の力学の一端である、とひとまず見なしていいはずだ。

 このあいだ、先生をふり切り夜空にむかい階段を駈けあがっていったら、どんな光景が広がっていたのだろうと、思い描いた。屋上までたどりつくまえに、注意されたとおり底が抜けていてバランスを崩し、悲鳴もなくそのまま深い穴へ落ちていって固い地面にたたきつけられ、死んでしまってもいい気がした。
(九十七頁) 

 それは第一には落下だ。突然「底が抜け」るその一瞬で、落下した先の「地」に殺されるのが、『夜の隅のアトリエ』の死である。館主と秋生の死は、まさしく突然、底が抜けるような唐突な死に方だった。どちらの死の理由も、いつ死んだのかも、正確にはわからない。
 女は、同性の身分証を盗むことには何の躊躇いも覚えないにもかかわらず、男たちの死には極大の罪悪感を覚える。

 死んだのだ。あらためて突きつけられると、彼も館主も、自分が追いやった気がした。鞄の内ポケットに隠し持っていた粉末をひそかに取りあげて捨てたらよかった。脳裏をかすめてはいたものの、実行に移せなかった。いちどくらい、写真を好きなように撮らせてやればよかった。誘われるまま、ふたりで逃げたらよかった。どちらも出来なかった。チェリーで髪を切られながらさめざめと泣きだしたもうひとりの秋生の恋人は、最後に彼が共に過ごしたのが田辺真理子らしいと知ったら、助けなかった自分の罪を、執拗に問おうとするのではないか。常軌を逸する憎しみを抱き裁いてやろうと、あらゆる手段を使い、やがて行方を嗅ぎつける。自分は罪を負ったまま逃げつづける。
(一六〇頁) 

 これを、同性の女たちがどうでもいいからで、男たちには多少なりとも恋愛感情があったから、とだけでは読みたくない。事実だけ読むなら、館主と秋生の死については、いずれも対処策を「実行に移せなかった」だけで、仮にそうしていたとして自殺を止められたかはわからない。ここで重要なのは「助けなかった自分の罪」が「執拗に問」われるのではないかという、無根拠な不安である。実際には、名と住所を捨てた「田辺真理子」を、「もうひとりの秋生の恋人」が発見出来る可能性は高くないはずだ。
 だから、ここに書かれているのは他ならぬ自分が「罪」を「問おう」としている、すなわち自責である。
 第二の力学は水死だ。

 思いきって回すと、正面の鏡に、自分の全身が映った。途中までふたが閉まっている、水の満ちた薄青い浴槽に、館主が沈んでいた。壁も床のタイルも青く、閉め切られたくもり硝子の窓に裏庭の物置か植物かわからないシルエットが淡く映っている。髪がぐっしょりとし、まっ白い顔はむくんで眼も口も一文字に閉じられている。
(一五二頁) 

 自殺の現場を発見したとき、まず最初に映るのが「自分の全身」なのは注意すべきだろう。鏡はこの場面の直後、ほとんど唐突にも近い性急さで、秋生の服毒を見逃した記憶へと時間を折り返す。いずれにおいても問われるのは「助けなかった自分の罪」であり、鏡は自責の導入装置になっている。しかしより重要なのは、手首を切った館主が、浴槽に沈んでいることだ。
 この水死体の描写は、「魔女」をめぐる想像にまで引きずられる。それは、女が富山を去る最後の場面でもある。

 二十メートルほど先の隅に給水塔が建っている。照らしたら、そこまで行くのには、雪が腰の辺りまで埋もれそうに深い。よじのぼるのはあきらめ、ただ、見つめた。灰色のような空色をしたタンクの表面に光の輪が映る。神隠しの話は先生のでっちあげ で、魔女は暗い水のなかに、死んだまま閉じ込められているのかもしれない。隠れたのではなく殺されて沈められ、いまごろ骸骨と化している。
(一六七頁) 

 二つの水死体の共通点は、第一に「ふた」が閉められ、第二に沈んだまま、ということだ。
 総合するなら、『夜の隅のアトリエ』の死の力学は、まず突然の「地」との衝突があり、それから遺体が「水」に沈められる、という二つの手続きがある。そして主人公はその死に「自責」を覚える。乱暴を承知で、私は震災とサバイバーズ・ギルトとして読む。
 津波は、木村文学において決定的な打撃を与えたに違いない。そう断言したい。強烈なまでの感応があった。なぜなら他ならぬ「水」こそが、木村文学において常に別れを意味する形象だからだ。『夜の隅のアトリエ』以前の木村文学では、ただし当然、別れとは、人と人のすれ違いによる別れでしかなかった。亀裂以降の「水」は、関係性など完全に無視するような唐突さと、圧倒的な力で、人を破砕する。
 そこには明確な決別の瞬間すらなく、死を知った女が、ただ取り残されるだけである。

 読み返すごとに、欠落の多さに気付く小説である。
 小説の前半は富山を去る場面で終わるが、十三章からは館主が自分を描いた絵を一目見ようと、富山に帰還する「五、六年」後の物語が続く。しかし、なぜ女が館主によるスケッチを見たがるのか、小説内から直接読むことは不可能に近い。

 館主の遺作があるはずの民宿を初めて訪れるつものでいた。カードをもとに検索して見つけたホームページを時折りチェックしていた。じいちゃん、と先生が呼んでいた宿主は先代で、とうに亡くなった。息子が跡を継いだものの、年内で廃業するという。
 壁にかかった絵が写り込んでいる。人物像らしく見えるけれど、果たして自分がモデルなのかは、わからない。いったい、どんなふうに描かれているのだろう。後ろ向きで、白鳥座のほくろがある。もしも飾られているとして、見知らぬ人たちの視線にさらされ続けてきたのだと思うと、描かれたときに聞こえていた音が、耳の奥によみがえった。さらさら、きゅきゅ、かりかり。波打ちながら身体の内側を満たしてゆく。廃業まえにひとめ、たしかめたかった。
(一七三~一七四頁)

 書いてあることには書いてあるのだ。「いったい、どんなふうに描かれているのだろう」とあるから、好奇心だろう。耳の奥によみがえるなら、懐かしさもあるだろう。四方田犬彦は、2018年の木村紅美との対談で(群像2018年3月号『ボブカットの寄る辺なき女性たち』)女の、「自分が思っている自分」と「他人の中で自分を隠して、外側をどんどん取りかえていく仮面のような自分」との乖離に「疲れた主人公が、あるとき、自分のことを見ていた人にとっての自分のイメージを確認したい」と感じたのだ、と補って読んでいる。この解釈は、では主人公はペルソナとの乖離に「疲れ」ていたか、という問いは生じる。疲れたなら「外側をどんどん取りかえていく」生活をやめればいい。さすがに秋生の恋人も五年経てば追ってはこないだろう。罪悪感も一見和らいでいるように見える。結末を読む限りでは、むしろ「外側をどんどん取りかえ」る、「定めなき人間」(四方田犬彦)の生活が女には好ましいはずだ。
 しかし、わかる読みなのだ。
 四方田のように「疲れ」を補いでもしなければ、実際、この動機はよくわからないのである。たしかに波の音に「描かれていたときの音」と「館主の死に顔」が喚起され、館主、秋生に続いて自分の葬式を空想する場面も、「自分のことを見ていた人にとっての自分」を「確認」したい、という欲望の現れだろうから、四方田の読みは正確である。しかし、この補強をもってしても、「氷塊に居座られてから」すなわち罪悪感に囚われてから、「いつか彼の絵に会うことをただひとつの寄る辺として、旅をつづけてきた」その心理を読み解くことは難しい。

 最後にかささぎへ出勤したときに勇気を奮い住居の二階へあがったら、獅子と裸婦をテーマにしたデッサンが残っていたのではないかと考え始めると、仕事のあとどんなにぐったりしていても、いまだに眠れなくなる。うなされるどころか、そういう晩は、空想がこんこんとわきあがる限り、浸って、戯れていたい。
 何度も、頭のなかで、あの天井に近い窓から射しこむ光に埃が踊っていた階段をおそるおそるのぼっていっては、あるはずのアトリエを探した。ドアをあけると、狭苦しい質素な部屋じゅうにキャンパスが積まれ、つんとするにおいが漂っている。イーゼルに未完成の油彩画があって、木製のパレットに点々とこびりついたままの色とりどりの絵の具は、爪のさきほどの野の花が咲き乱れているみたいにみえる。
(…)
 デッサン練習に使うミロのヴィーナスの石膏像や本物のりんご、黒い斑点の浮きあがりだしたバナナが、イーゼルを取り囲んでいる。小鳥のさえずりが聴こえ、窓から裏の畑を見おろせる。チューリップ、ひまわり、コスモス。季節ごとに奥さんが育てた花々が揺れる。摘んできてモチーフにすることもある。或いはひたすらに雨戸を閉め切り、太陽と無縁でいる。案外と高価なアンティークのランプや壺が隠されている。
 思いつく限りあざやかに空想しているうちに、じっさいにそこに呼ばれ描かれた経験があるみたいに、記憶がすり替えられつつある。この遊びはどれだけくり返しても気が咎めない。どんなようすでも、行ったことなどないのに、なつかしさをおぼえる。
(一七五~一七六頁)

 想像図のアトリエは、外界の喧騒とは無縁な、穏やかな室内である。館主の奥さんも存命の、楽園の図だ。五年後の感情はもはや「うなされる」ような罪悪感ではなく、「なつかしさ」に等しいものへと脱色されているように見える。しかし、実際にはそうではない。女は「罪」を背負っている。館主の描いた背中の「ほくろ」を密かに「つないだ」とき、それは「十字架」に似ているのだから。
 この「十字架」は、かつて女が嘘をつき、店主に責められる原因となった「サワさん」の首に飾られたものでもある(一二四頁)。

 描かれおわったとき、なんの興味も持てない、と感じたはずだった。腕前などはなから信じていなかった。いつのまにやら、描かれたことによって永遠の命を与えられたみたいだと、いっぱしに錯覚していた。彼はダ・ヴィンチでもフェルメールでもないのに。
 芯から魂を吸い取られたと揺さぶられるほどの見事な肖像であったならば、きっと、盗んででも奪い去った。
 氷塊に居座られてからいままで、いつか彼の絵に会うことをただひとつの寄る辺として、旅をつづけてきた気がする。向かいあったら、どちらの作品も、捕まえられるかもしれない危険を冒してまで奪う価値など、自分を憐れみ笑いだしたくなるくらいに見出せなかった。頭の隅でオレンジの炎が勢いよくはぜた。キャンパスの表面がめくれあがり真黒くなって焼け落ちる音が弾けた。夜明けまえの空に煤がひらひらと舞い、あとにはひと握りの灰が残る。
(一八九頁) 

 これは四方田の読みよりはるかに乱暴な補いだが、女が絵を確認したいと願い続けたのは、罪悪感に囚われる前の「魂」の写し絵を期待していたのだと思う。「氷塊」が居座るのは、館主と秋生の死をほぼ同時期に知ってからだ。想像のアトリエが喜ばしい楽園であるように、罪を知る前の「後ろ向きの裸婦」は、亀裂の先から見返せば、「野の花が咲き乱れているみたいな」明るさに生きているはずなのだ。
 心象としてスケッチを燃やすことは出来ても、罪悪感は残存する。むしろ燃焼こそが、罪悪感を強化するだろう。想像のアトリエはもはや「死んだ元館主」が「白髪から水滴をしたたらせ、キャンパスに裸の女を描いている」凄惨な空間と化すし、館の非常出口の鍵はいつまでも捨てられない。

 ポケットのうえから鍵に触れた。チリリ。いまでは、どこへ通じるドアをあけるためのものだったか、すぐには思い出せないときがある。思い出せないふりをしている。煌々と輝くガソリンスタンドがたちまち後方へ遠ざかった。夜が更けていく。置き去りにしてきた、名前を忘れたふたりの男は、きっと、この同じどこかの隅で、生きつづけている。嘘だ。やすらかに死んだ。
 いままでもこれからも、知らない町から町へと流れ去ってゆくことだけがたしかだ。追われているようなこの暮らしは安住よりも生きている心地を得られる。
(二〇〇頁) 

 これは「嘘」なのだ。女が自死者の名を忘れるわけがないし、「生きつづけている」なんて見え透いた嘘でしかない。しかし、そのように死を隠蔽せざるを得ない心の動きがある。それが抑圧であり、罪悪感だ。「追われている」のは罪にだが、「安住」しない生活は束の間それを忘れさせてくれる作用があるだろう。
 『夜の隅のアトリエ』の輝きが特異なのは、木村文学において、おそらく初めて倫理が主題となったからだ。このあとに続く『まっぷたつの先生』もそうだし、『雪子さんの足音』の薫を支配するのもまた罪悪感である。『たそがれ刻はにぎやかに』や『ボリビアのオキナワ生まれ』の男たちが、女を手酷く扱うことにほとんど罪悪感を覚えないのとは、対照的である。
 この倫理の主題は、私は震災とサバイバーズ・ギルトがもたらしたものだと思う。とりわけ木村文学の根底にある「水」こそが、強烈な動揺を与えられた。小説の亀裂は、生き残る者の罪悪と倫理の世界、その両岸の境界線を意味している。
 四方田犬彦は、『夜の隅のアトリエ』以降の木村の小説を「非常に大きな枠組みで、民俗学やそれにつながる物語の援用が少しずつはっきり出てきたような感じ」と評し、短編『馬を誘う女』を「震災後の人々の無意識の世界にどのような接近すべきか」という問を孕むものだとしている。この「人々の無意識の世界」へのアプローチに民話を援用する構成は、『黒うさぎたちのソウル』の古謡の扱い方に近似している。「無意識の世界」とは「ソウル」とも言い換えられるだろう。しかし、その『馬を誘う女』においては、『黒うさぎたちのソウル』のようなリアリズムの基盤は柔らかく崩れている。震災をめぐる不安を直接的に描いた『八月の息子』は、記憶の限りでは、心的外傷のような唐突な不安の挿入をされていたはずだ。民話とは、魂の傷ついた作家が物語を維持出来なくなったとき、ひとつの処方箋として手を伸ばすものではないかと書けば、さすがに邪推が過ぎるだろうか。
 木村は宮城県出身の作家であり、岩手を主題にした『イギリス海岸』もある。この素朴な事実はもちろん重要だ。しかし、震災という巨大な現実を前にしてリアリズムの地盤が揺らぎ、そこから秩序と現実性に亀裂の入った、柔らかな土地を歩き始めた、というだけの読みには抵抗感がある。そんなことは作家を読まなくても言えることだ。重要なのは、『夜の隅のアトリエ』以降の木村が、どのように、そしてなぜ震災という亀裂に感応したか、亀裂以前とどう連続し乖離したかだろう。それを読むのが、作家を読むことだと思う。

薔薇の蒔き直し 木村紅美『春待ち海岸カルナヴァル』について

 

春待ち海岸カルナヴァル

春待ち海岸カルナヴァル

 

  海辺の宿を木村紅美が舞台に選んだのは、単行本化された小説では二冊目だ。一冊目の『島の夜』は、その後の木村文学の輝きを思い起こせば習作に近い。木村紅美が家族を主題としたのも、『島の夜』の父、そして『イギリス海岸』の姉妹以来だろう。『島の夜』が父との再会から物語が始まるのに対し、『春待ち海岸カルナヴァル』の幕を開けるのは父の死だ。あるいは、初期から木村がそれとなく触れている異界、『島の夜』以来の再登場となる男性同性愛者、『風化する女』を彷彿とさせる、死者の置き残していった靴など、そこかしこに懐かしい断片が「カルナヴァル」のパレードのように列挙される。
 結論から書くなら、『春待ち海岸カルナヴァル』は『島の夜』と『イギリス海岸』という、初期木村作品の救済としてある。紫麻が救われるまでの物語は、『風化する女』のれい子さんはどうすれば救われるか、という問いに等しいと思う。書名の「春」は第一には紫麻が新たに踏み出し始める恋愛のことだろうが、『イギリス海岸』までの初期作品を種子に見立てれば、「春待ち」はその蒔き直しにも等しい。もっとも、ヒロインの紫麻が想い人の部屋の扉に食事を運び続けたり、未払いの宿泊料金を肩代わりするのは、『雪子さんの足音』を想わせる。
 『春待ち海岸カルナヴァル』は、初期作品のセルフカバーベストであり、同時に先々の小説への種子を蒔いた物語でもあると思う。
 小説は、幼少期に父からニューオーリンズの「ジャズ葬」について聞かされる場面から始まる。「あの町では、ミュージシャンが亡くなると、ジャズ葬、ってので送るのさ。この歌をみんなで演奏しながら、にぎやかに踊り歩く」その光景を想像した紫麻の感想は、こう続く。

 カラフルな列は海辺からはるか雲のうえまで、淡い金色をしたゆるやかな光の坂道を渡って続いており、雲のうえにも、やはり、あらゆる楽器を持った人たちがいるのだった。そこらじゅうにお祭りみたいな音楽が鳴り響いている。
 だれかが死ぬのは、ひどく悲しいことであるはずなのに、父が語るそのお葬式のようすは、紫麻にはとても楽しげに感じられた。――沢山、待ってくれている人がいるのなら、死ぬのは、さびしくないのかもしれない。
(八頁) 

 この死の風景は、木村の小説においては特異なものだと思う。
 たとえば『見知らぬ人へ、おめでとう』で、爆撃される結婚式場のイメージで描かれた死は、もはや誰ひとり生存しない、さびしさすらない静寂の風景であり、「待ってくれている人」がいる場所ではない。木村が書き続けてきた彼岸は、『風化する女』がそうであるように、絶対に超えられない淵を隔てたものだ。『クリスマスの音楽会』(『イギリス海岸』収録)の彼岸もそうだろう。異界への想像を許すようになったのは単行本として六冊目の『見知らぬ人へ、おめでとう』からだが、ついに「待ってくれている人」を隔絶の向こうに想定したことも、ひとつの雪解けに読めるだろう。
 物語は父の死と葬儀から始まり、「トランペットとギターの合奏」が鳴り響く紫麻の誕生日に終わる。
 紫麻は木村文学に度々登場してきた、内気で地味な独身のヒロインだ。「男とちゃんとつきあったことがあるのは一回だけ」で、「二十代のころに蒲鉾工場の同僚に言い寄られ、一年半ほどデート」はしたものの、関係は続かなかった。六年前に「かなり年上で妻子持ちの陶芸家」に想いを寄せたが、「追い詰めたようなメール攻撃」(一四八頁)を繰り返した苦い記憶がある。

 あの夏の初め、帰京した陶芸家の携帯に毎日のように送りつけた文面がよみがえった。
〈少しは返事をください、気がおかしくなってしまいそうです〉
〈早く返事を〉
〈読んでいますよ、というたった一言だけでもいいです〉
(九十二頁) 

 『風化する女』のれい子さんが、明らかに遊ばれている男相手に「れい子です。」と同じ題名のメールを送り続けていたのを思い出してしまう。れい子さんは自殺者ではないが、孤独死を迎えた。鳥取の家族とは折り合いが悪く、社内にも友人はいなかった。誰もれい子さんの密かな恋を知りはしなかった。『春待ち海岸カルナヴァル』において、紫麻が救済されるのは第一に(第五章で茅野さんからのメールを受け取れずに落ち込む紫麻が、「励ましてくれる人がほしい」と願う通り)恋心を打ち明けられる友人が出来たからであり、第二にサプライズの誕生日会を開いてくれる母と妹、そしてホテルの常連客たちがいるからだ。
 六年前の片恋の傷を抱えつつ、茅野さんへの微妙な接近を繰り返すこの小説は、最初は恋愛小説のようにも見える。ただし、紫麻を救うのは、恋愛の成功ではない。ラブホテルを手掛ける建築家の茅野さんは、「バレエシューズ専門の靴職人のお母さんに、女手ひとつで育てられた」「おととしお母さんが亡くなるまで、ずーっと二人きりで暮らして」いた「四十過ぎても独身」(一五二頁)の男であり、はっきり「他のどんな素敵な女の子より、お母さんを好きでたまらない」「マザコン」と評されている(姪っ子のミルクと妖精にまつわる幻想を、「この春から小六ですか。それなら、いつまでも、妖精だなんて、そんな迷信を信じてはいけませんよ」と「少し怒っているように」「早口で」退けるのは、おそらくは早めに大人にならなくてはならなかった、ということなのだろう)。小説は、紫麻が告白の手紙を送ったのち、茅野さんからの宅配便を受け取る場面で終わる。

 紫麻はめまいがした。ふるえる指でリボンをといたら、つややかなベルベットで拵えられた深紅の薔薇が一本入っている。針金の茎には深緑のベルベットが巻きつけられ、葉っぱも精巧に造られている。情熱的な愛、という花言葉が浮かんだ。添えられた手紙をひらいた。あのおみまいへの返事で見慣れた角張った字が飛び込んでくる。
〈お気持ちはうれしいのですけれど、まだまだ、私は自分のことだけで一杯です。とりあえず、むかし母が作ったお花をお贈りします。気に入って頂けたら幸いです。次の予約は、来月の、八、九、二泊で〉
 紫麻はほろ苦いような笑いをこらえ、さっそく花瓶に挿した。いつかほんとうの紅い薔薇をもらうことはあるだろうか。ドアの向こうから、だれかが自分を呼ぶ声が聞こえてくる。今日のカルナヴァルは笑い声に満ちてにぎやかだ。トランペットとギターの合奏も始まった。陽が翳り、暗くなってきた部屋で、ベルベットの薔薇はしずかにうつむいていた。
(二二〇頁) 

 茅野さんは母の喪に「おととし」から服し続け、遺品のバレエシューズを周囲に配り続けているような男だ。建築事務所の経営も苦しい。だから「まだまだ」「自分のことだけで一杯」なのだが、それにしたって「母が作ったお花をお贈りします」は告白相手の、それも誕生日に、あまりに手酷い返礼だろう。残虐でないのなら、鈍感だ。
 ただし、「いつかほんとうの紅い薔薇をもらうことはあるだろうか」というのは、きっと否定のための問ではない。それまでの紫麻なら、堪え切れずに「追い詰めたようなメール攻撃」か、泣くぐらいはしただろう。「ほろ苦いような笑い」が浮かび上がりかける、その心情は明確には書き込まれてはいないけれど、こんな男を、という自分への苦笑だったのかもしれない。「笑い声に満ちたにぎやか」なホテルの一室で、寂寥感は増すだろう。
 それでも、この花瓶に挿された「ベルベットの薔薇」には、不思議な明るさがある。来月の二泊の予約に、「しずか」な希望を持つことは出来る。たぶんこのときの紫麻にとっては、恋愛の成就ではなく、その希望を抱けること自体が救いなのだ。それは、『島の夜』の小百合さんを苛むのが、恋愛の困難よりも、むしろ恋愛への欲望を持ちながら、達成のための希望を持てない困難であったのと、正確な対照を成している。

 ふり返ると、ごみ袋が目に入る。
〈割れもの注意〉
 さっきのせめぎあった感覚がよみがえると、そのまま、ほんとうに瓶に入れるくらい、小さくなってしまいたくなった。純平くんを、たいして気に入っているわけでもないのに、瞬間的とはいえ、まるで嫉妬したみたいに腹立たしくなったのも恥ずかしい。
 純平くんを、たいして気に入っているわけでもないのに、瞬間的とはいえ、まるで嫉妬したみたいに腹立たしくなったのも恥ずかしい。
 肩に触れる茅野さんの指と、耳もとでささやかれるなぐさめの言葉を思い浮かべようとして、かき消した。――なんだか、いまの自分には、だれかに好かれたいなどと望む価値さえないように感じられる。
(八十四頁)

 『春待ち海岸カルナヴァル』の恋愛をめぐる認識は、驚くほど社会的だ。そこにはスクールカーストの日陰者のような、切ない躊躇いがある。
 年下の純平くんが妹の杏里に好意を寄せていたのを聞き知った直後、表面的にはその労働態度について、実質的には茅野さんからメールが来ない現状への苛立ちも相まって言い争う場面のあとに続くこの文章は、木村文学における恋愛の困難さは、容姿や経験の乏しさだけではなく、「価値」にも起因することを示唆する。『島の夜』の小百合さんは自身の経験の乏しさから新たな恋愛に踏み込めないが、実際に一歩踏み出すために必要なのは、トシミさんと波子による後押しだろう。『ボリビアのオキナワ生まれ』が描くのは、在日外国人というマイノリティ、すなわち「価値」の保証が難しいマナさんの恋愛の困難だ。『雪子さんの足音』の小野田さんが薫に近付けるのは、雪子さんの支援があるからだ。「好かれたい」と希望するには、相応の「価値」が必要になる。木村文学の幽霊じみた女性社員たちが、社内の誰かに恋の希望を持ち続けることは、きっと不可能だろう。
 紫麻がこうなったのは、陶芸家への恋が失敗に終わった傷もあるだろうが、自分よりはるかに男に好かれる妹の杏里の存在もあっただろう。最初に紫麻が選ばれる者と選ばれない者の隔絶を実感したのは、高校生のとき、杏里が富田先生から『痴人の愛』を贈られる場面だったと思う。

「紫麻ちゃん、これ、きっと好きでしょう」
「ぜったい、気に入ると思ってね……」
 紫麻が本好きと知ると、いつも、東京の大きな書店で選んだ本をおみやげに持ってきてくれるようになった。心をひらいてくれたのだと感じられ、あたたかな気持ちになった。杏里は本などまるで読まないのに、あるとき、なぜだか『痴人の愛』を贈られた。
「手紙が入っててさ、ヒロインが私と似てるから、あげます、って書いてあったんだけど、こんなこまかい字読む気しないよぉ。姉さんにあげるわ」
 と言ってそっけなく突き出された赤っぽい文庫本を、紫麻は、杏里の代わりに読み始めた。自分は本しか貰ったことがない。先生が、杏里には手紙もあげた、というのは、驚きだった。
(二十四頁) 

 小説のセクシュアルな描写に動揺した紫麻は、「サラリーマンと少女に自分と杏里の姿を重ねているのかと考えたら、気味がわるく」なり、「近くの浜辺」に『痴人の愛』を埋めてしまう。富田先生から贈られた本の冊数は、きっと紫麻のほうがはるかに多かったに違いない。紫麻が十五年以上経った今でも、埋めた場所に近付くと「深呼吸して気づかなかった」ふりをせざるを得ないのは、心の奥底に埋め立てるしかなかった傷の記憶だからだろう。これは二重の傷だ。それは第一に、手紙と本の取り合わせに露出した欲望の生々しさであり、そして杏里が「そっけなく」あるいは、あっけなく、贈り物を突き出してきたときの痛みにもあるのだろう。それはあくまで杏里が「妖艶な美少女」により近かったからに過ぎないのかもしれないが、選ばれる者と選ばれない者の差異を、これほど痛ましく実感させられたときはなかったはずだ。八章の母との会話や、あるいは紫麻が普段から「パパ」「ママ」と呼び慕い続けている様子からも、姉妹への愛情差を感じていたとは考えにくい。
 富田先生から、久々の宿泊予約があったときも、杏里は「どんな人だっけ」とまるで記憶していない。「紫麻には、先生は自分よりも杏里を気に入っていたように思えるのに、予約が入ったことを伝えると、彼女は先生のことを無情にもすっかり忘れていた」とあるが、そんなものだろう。富田先生にではなくて、紫麻に「無情」なのだ。自分が慕っていた人のことを「そっけなく」忘れられる、そのことを無情だと言い立てているのだと思う。『痴人の愛』を贈ってくれた話を口にしかけて、「やめた。うつむくと息が詰まって、光の躍る沖合いへさらわれていきたく」なるのだから、傷はなお深い。

 ふと、ひょっとして、だれか素敵な人と知りあえたりしないだろうか、と思った。先生といい、陶芸家といい、どうして自分はかんたんにはふり向いてくれなさそうな人にばかり好意を抱いてしまうのだろうかと、紫麻は心のなかで、溜息をつく。
 たまには自分を好きになってくれる人を好きになりたい。でも、そういう人を自分が好きになれるとは、限らない。
(四十二頁)

 紫麻の独白は、私は読んでいて意外だった。紫麻が富田先生を恋慕していたのがまるで分からなかったからだ。だから、これは鈍感な人間の読みではあるけれど、紫麻が「好意」に気付いたのは、むしろ妹が「そっけなく」本を渡してきたときだったのではないか。社会的な恋愛、に寄り過ぎた見方だろうが、選ばれなかった己を自覚したときに、後追いのように、「あたたかな気持ち」ではない、最初から失恋した恋心が生まれたんじゃないか。
 失恋は、選ばれる者との隔たりを、もっとも強烈に体験させる出来事だ。茅野さんとの最初の出会いの場面は、注意深く読まなければならない。

(先生?)
 いそいそとテーブルへ向かうと、紫麻は、すでにとなりの席に座っている中年男を見た途端、そう呼びそうになった。
 身長はかなり高いが、撫で肩、丸っこい黒ぶち眼鏡も髪型も、よく泊まりに来ていたころの先生と似ている。もしや親類かと疑ったけれど、手前に置かれたプレートには「茅野 久 様」と書かれている。他人の空似だ。
(……)
「初めまして」
 動揺を隠し微笑みかけると、すぐさま、はにかむように会釈された。
(四十四頁) 

 茅野さんを最初に富田先生と見間違えるこの場面は、物語の結末を正確に予告している。『春待ち海岸カルナヴァル』は、高校生の紫麻が選ばれなかった恋愛を、十八年後にもう一度やり直す物語である。同時にそれは、『イギリス海岸』までの初期木村作品の断片を再登場させる意味でも、やり直しの物語である。小説の結末は、失恋だろうか。富田先生が杏里を選び紫麻を選ばなかったとき、それを証し立てるのは谷崎潤一郎の「赤」の本だ。茅野さんが贈る「紅」の薔薇は、死した実母への想いが色濃く香り立っている。しかし、造花であっても、薔薇は薔薇だ。いつかほんとうの紅い薔薇をもらうことはあるだろうか、とささやく声は、たとえ痛みにさびしくかすれていたとしても、ほのかな希望の問だろう、と今は思う。

革命への片恋 稲葉真弓『ホテル・ザンビア』について

 

ホテル・ザンビア

ホテル・ザンビア

 

 小説家としての初期の遍歴がよくわからない。一九七三年、二十三歳で婦人公論新人賞を『蒼い影の痛みを』で受賞したものの単行本化はせず、一九八〇年に寺田博が編集長だったものの掲載誌ごと一度きりで終了する作品賞を『ホテル・ザンビア』で受賞しようやく初の単行本化、さらに二冊目までは一九九一年の『琥珀の街』と十年の隔たりがあり、九十二年に傑作『エンドレス・ワルツ』が書かれる。『蒼い影の痛みを』は同人誌『作家』に掲載されたものらしく、本書の『みんな月へ…』と『夏の腕』も同誌の八〇年の作品を収録したものだそうだから、そこからまた九十一年まで同人に書き継いでいたのかもしれない。『蒼い影の痛みを』から『ホテル・ザンビア』までは詩に注力していて、ふらっと小説を書きたくなったらしい。九十一年も似た心の満ち引きがあったのだろうか。
 作品そっちのけで自分の話をするのも品位がないが、稲葉真弓を最初に読んだのは古本屋で見つけた『エンドレス・ワルツ』で、単に男女が身を持ち崩すだけの話にしか読めなかったのに、その描写の異様な煌めきにびっくりしてしまった。今でも書いている作家だと知って驚き、『半島へ』を読んだが、『エンドレス・ワルツ』と同じ作家の作品として線で結ぶには、二十一年後の小説だから当然といえばそうなのだが、難しかった。仕事の事情で、今年三つの街を引っ越す羽目になった。最初の街の図書館は稲葉真弓に冷淡で、『海松』と『半島へ』だけでそのときの稲葉真弓は終わってしまった。『月兎耳の家』が出版されたのを知ったのもごく最近のことだし、稲葉真弓倉田悠子である意味も、『エンドレス・ワルツ』と同じ年に産まれた人間にはわかりにくいものがある。いずれにせよ稲葉真弓について言えるのは、彼女が作家として驚異的な息の長さを晩年まで保ち続けた、ということだ。
 それで本書が小説としてどうかというと、『みんな月へ…』はさすがにちょっと古びているように思う。私には多少面白いけれど、他人には勧めにくい。『夏の腕』は傑作とまで言わずとも、佳品として読み継がれる価値はあると思う。だから、手に取る機会がまず滅多にないとは思うが、『ホテル・ザンビア』を見かけたらぜひ『夏の腕』を読んでほしい。「半島の光も風景も、のびやかで飽きるということがなかった」(二一九頁)という、稲葉真弓の生まれた愛知県、その渥美半島の明暗の、「のびやかで飽きるということ」がない描写の鮮やかさだけでも目に入れておいてほしい。
 ただし、表題作『ホテル・ザンビア』は題材の古さはあるにせよ、現代小説に通じる「女」の挑戦はあると思う。それは、最後に書く。

 本書に収録された三篇の小説には、ひとつの単純な共通点がある。それは、病む者たちが、いずれも過去の時間に囚われているということだ。『ホテル・ザンビア』の美麻子は佐伯との記憶を、佐伯は学生運動の記憶を、『みんな月へ…』の「私」は父との記憶を反芻し続ける。
 もっとも分かりやすく症状が表出しているのは、『夏の腕』の祖母だ。

 (……)祖母の病的な驕慢さを知らないものはいない。かつてその町のほとんどの土地を祖母の父は持っていたという。栄華の時代を気ままに過ごした祖母にとっては、戦後のほうが幻だったに違いないのだ。祖母はまだ、遠い栄華の時間の延長線から、自分自身を切離すことができないまま生きていた。没落を物理的には享楽していたとしても、誇りにおいてそれを信じてはいなかった。父も母も、私でさえも「大奥さま」と呼ぶ街の人々の敬いの言葉の底に、小気味よい侮りが潜んでいるのに気づいていた。それを知らなかったのは、ただ一人祖母だけだった。戦後が始まった日から、祖母もこの家も、人々の視線の中でいびつに歪んで映っていたのに、祖母は眼前の現実を絶えず追払おうとしていたのだ。
 祖母は君臨だけを愛した。過去のすべてがもはや姿を失ったはかない夢だというのに、いつでも玉座を忘れなかった。無効になった土地の証文と、古めかしく黄ばんだ系図だけで生きられる人だった。
(二〇五頁) 

 小説に流行する病は、それは「もはや姿を失った」過去から「自分自身を切離す」ことが出来ず、「眼前の現実を絶えず」否認するものだ、と要約出来る。『ホテル・ザンビア』の学生運動で「燃え尽きてやってきた一人の男」佐伯と最初に対面した美麻子は、「存在そのものを恥じているようなところ」を感受する。佐伯が恥じる存在とは、否認すべき「眼前の現実」をだらしなく許容し、のうのうと生きている現在の自分だ。

  学生運動の嵐にもみくちゃにされた日々が夢のように思われる。あれは果して自分の意志だったのかどうか。
(……)"闘いとは持続することだ。情熱とは狂気のエネルギーのことだ"と書いた佐伯の友人の自称詩人は、詩を捨てて役人になった。そして彼は、子供や妻や、日常のつつましい風景を細々と書いている。彼等の会話から、抵抗への熱意もなくなり、会話そのものが風俗となった。あるとすれば、悲哀だけだ。
 佐伯の周りで、終ったという実感もなく何かが始まり、それは何の抵抗感もなく肉体を包み溶解させる。それはまた、見えない不快な壁でもあった。
 何が終わったのか、何を奪ったのか、はたして奪ったものはあったのか。否、力の限りと信じたものが、確かに力の限りあったのかどうか。燃えつきたのはいったい何なのか。
 とにかく大学を卒業すること。その生活の隅々に、曖昧で不快な悲哀が漂い、佐伯はそんな自分と、平穏な周囲を軽蔑した。軽蔑にはどこか、自分自身を安心させるものがあった。拉致されないで平穏な生活に舞い戻った己への懲罰のようでもあった。軽蔑の中に見える風景は、別の世界だった。佐伯は自分が、意味もなく肥った豚になったような気がした。その豚はこれまで"幻想の砦"という餌を食べていたのだ。飢えの中で食べる餌は甘く、悲愴なほど心を満した。肥る必要はなかったのだ。それが今、不必要に肥っている、どこでどう転換が行われたのかも見当がつかない。
(三十四-三十五頁)

 佐伯の「学生運動」への想いは複雑だ。整理しなくてはならない。それは第一に、「自分の意志だったのかどうか」正確に思い返せない不安であり、第二に終わりの実感を持てない未燃焼の感触であり、第三に何事もなく「平穏」が始まることへの不気味さであり、第四に運動の目標そのものが「幻想」であったのではないかという後方視の疑いである。『夏の腕』の祖母は、過去の栄華を「はかない夢」とは思わないだろう。だから「自分自身」を「遠い栄華の時間の延長線」に位置付けることが出来る。佐伯の病型は、さらに複雑な症状を呈している。佐伯は「眼前の現実」を否認してはいるが、一方で学生運動という過去もまた、「はかない夢」としか思えない。「時間の延長線」において、(それこそ「大奥さま」を演じる祖母が、未だに女中・静子を雇い続けるように)実現困難な運動を継続する素振りを演じることも出来なければ、「現実」の自分への「恥」から免れることも出来ない。旧家の祖母は、静子という手頃な虐待の相手を見出してのうのうと生き続けることは出来るが、故郷を捨てた佐伯にはそのような選択はあり得ない。
 重要なのは、この恥ずべき現実の延長線が、生殖すなわち「系図」と結びついていることである。それは「役人」が最初に書くのが「子供や妻」であるのにも示唆されているが、より決定的なのは、学生運動時代の恋人と再会する次の場面だ。

 そして佐伯は思った。そっくりの女と結婚し子供を持ち、希望も後悔もなく生きている未来を。それは決してやってはこない未来のように思われ、思いがけずたやすく手に入れることのできる未来のようでもある。佐伯はふと、こうして女と何年も向きあっているような気がした。ささやかな家庭を持つ夫婦のように。佐伯はいつの間にか幻影に向って微笑みかけていた。
 大学を卒業した佐伯は、希望通りの町の高校に採用された。故郷へ帰る気は毛頭なく、東京にいたいとも思わなかった。佐伯は自分が、すでに余生を送るともいうべき場所を探していることに気づいていた。祭りも、あらゆる裏切りも終っていた。闘いというべきものに出会うことはもうないだろう。希望などないのだから、失望もあるはずがなかった。どんな場所であろうと生活になじみ、生活はまた、場所にふさわしく消化されてゆくだろう。
(三十九頁) 

 結局祖母が我儘を通せるのは「土地」と「系図」(=家系の力)を手にしているからだという事実は、故郷を捨て、女と結ばれない佐伯が自殺するという結末においては見逃せない。長々と引用するわけにはいかないが、本書で最も魅力的な部分が町や海や画廊の描写であり、「土地」の力こそ小説を輝かせていることも考えないわけにはいかない。父母との確執、あるいは祖母から孫娘への溺愛が重大な小説の推進力となる表題作以外の二作を鑑みれば、『ホテル・ザンビア』は、過去という幻への偏執をめぐる物語ではあるが、土地と系図についての小説でもある。

 いったい佐伯は、町とどういう関わりあいをしていたのだろう。美麻子は、佐伯が町に死をみていることを知っていたし、それが佐伯の気に入っていることもわかってはいたが、あの町のどの部分がそれほどまでに佐伯の心を魅きつけているのか、知ることはできなかった。
 美麻子は佐伯の生まれた町に着き、一目見ただけで理由がわかったような気がした。山と川に囲まれた小さな町は、美麻子の住む町とそっくりだった。眠りのなかに漂う町、活気を失ってすでに久しい町。
「ひとつが去れば必ず何かが始まっている。しかし、同じことなんだ。同じことを繰り返し、同じような場所をぐるぐると回っているだけなんだ」と佐伯は言ったことがあった。
「そして、同じようなものだと気づかないで逃げる。同じところを逃げ回る。このめめしさはいったいどこからくるんだろうか。そして新鮮さとは、どういうことなんだろうか」
(四十八頁) 

 佐伯と死別した美麻子が、現在の夫婦生活に対して「もう熱心にはなれない自分への罪悪感」(十一頁)を覚えるとき、それは佐伯が己の存在に抱く「恥」に近似している。束の間の鎮痛剤じみた変化の後に、結局は「同じような場所をぐるぐると回っているだけ」と気づく事態を、おそらく「けだるさ」(同頁)あるいは倦怠と呼べるのだろう。
 美麻子が罪悪感を感じるのは、夫ではなく「自分」に対してである。恥とは、もっとこうあるべきだった、という「自分への罪悪感」とも読み解ける。佐伯への片恋が終わった後の「日曜日」に美麻子が覚える「軽い傷み」の感触と、学生運動後の空無に佐伯が抱く「恥」とは、同じ自分への罪悪感で結ばれている。だからこそ、美麻子は夢のなかで、遠い佐伯の「恥」に触れ合っている。強引な字の解き方ではあるけれど、「情事」(六十頁)から、情の交わり、と言い換えてもいいだろう。別の言い方をするなら、異界の佐伯との「情事」を描いた『ホテル・ザンビア』の幻想が、単なるご都合主義ではなく、ある種の切迫感とリアリティを伴っているのは、この「罪悪感」で二人を結び、かつ学生運動と佐伯への片恋を、同じ「情熱」の次元で読み解いているからだ。

 佐伯は、かつての仲間の一人で、佐伯の恋人だった女子学生の言ったことが忘れられない。
「あれは、私にとっては通りすがりの男とのセックスと同じよ。行きがかり上の情熱ね」
 佐伯はそれを聞いて大声で笑った。哄笑しながら、いったい何に向って笑っているのかわからなくなった。女はこれだからイヤだ、と軽口を叩くつもりが、凶暴な笑いに変り、いつまでも笑い留めることができなかった。女は困ったように笑っていた。うしろめたく小さく笑っていた。それがさらに佐伯の笑いを煽り立てるのだった。
(三十六頁)

 この学生運動評への佐伯の「凶暴な笑い」は重要だ。学生運動を「通りすがりの男とのセックスと同じ」と評されたとき、佐伯は「哄笑」するばかりで、何の反論も出来ない。出来ないとするのがこの小説だ。学生運動に従事する「熱心」と、美麻子が佐伯を恋慕する「熱心」とは、厳密に区別が出来ない。美麻子が佐伯を想う心はまさに「行きがかり上の情熱」でしかないが、次の説明は、そのまま佐伯に当てはまらないか。

 十八歳の時、まぎれもなく美麻子は恋をしていた。それまでのどの恋とも似ていない。初めての片恋だ。正確に恋が始まったのは、佐伯がその町の高校に赴任してきた十七歳の春だった。感情の動きを常に文学的に捕える性癖を持っていた美麻子は、佐伯を一目見た時に、何のためらないもなく佐伯と自分とを"運命"という言葉で結び付けてしまった。自分の感情の激しさと移ろいやすさを持て余していたその頃の美麻子にとって、恋は退屈しのぎの戯れでしかなかったのだが、佐伯に恋し始めた途端に、自分の新しい恋が悲壮ともいえる熱っぽさを備えていることに気づいた。美麻子のそれまでの恋人は、ほとんどが年の差のある男たちで、美麻子の恋をさらりと受け流し、愛してもいないくせに愛するふりだけはうまい術にたけていた。当の美麻子自身が無邪気に"恋はゲームだ"と豪語しているところがあったので、どの恋も醒めればあとくされもなく、どこにも危険な熱意は存在しなかった。もともと、早く町を出ることばかり考えていた美麻子にとって、当座の退屈がしのげければそれでよかったし、年の差のある恋人たちは肉親のような愛し方をしたので、関り方に生臭いものが生じることもなく、さらりと乾いた形のままで終ることが多かった。美麻子にはそれが不満だった。美麻子は激情ともいえる関り方を欲していたのだ。それがいつも恋に裏切られてしまう。
 美麻子の恋心を、炎ではなくボヤだと言ったのは、最後の恋人だった画家だった。
(二十五-二十六頁) 

 「炎」と「ボヤ」を厳密に区別することは難しい。それは「通りすがりの男とのセックス」と、「学生運動」の情熱との差異を区別する程度には難しい。「詩人」が語ったような、「持続」の有無では鑑別出来ないだろう。過去の佐伯の熱情がどういったものかは、他ならぬ本人が記憶に蓋をしているから、作中の記載ではわからない。ただし、そこには「悲壮ともいえる熱っぽさ」を宿っていたのではないか。それは「炎」だったのか、それとも「ボヤ」程度でしかない、単なる「行きがかり上の情熱」だったのか。いずれにせよ、それは「炎」だと言い返すことも、確かに「ボヤ」だと同調することも出来ないから、佐伯は痙攣するように「凶暴な笑い」を繰り返すしかないのである。
 見逃せないのは、ここで「女」もまた「うしろめたく」笑っている、ということだ。これは女が「もう熱心にはなれない自分への罪悪感」を覚えたから後ろめたいのではなく、佐伯が予想外に「哄笑」したから罪悪感を覚えるのである。もし最初から自分に罪悪感を覚えているのなら、そもそも女はこんな台詞を恋人相手に口にすることはないはずだ。
 美麻子の「最後の恋人だった画家」は、「オマエさんはボヤを火事だといって大騒ぎをしている」と言い残して去る。「女」が佐伯に投じた言葉は、この「画家」の語彙を借りるなら、佐伯の「火事」を「ボヤ」と縮めて表現したようなものだ。当の佐伯自身すら、もはやそれが「火事」か「ボヤ」か思い出すことが出来ない。忘却は自己欺瞞に近いだろうが、正確な記憶は罪悪感を心の限界から溢れさせるだろうから、やむを得ない防御策だろう。 
 その「哄笑」する他ない自己欺瞞に、佐伯の「爛れた」「傷口」(三十四頁)に触れたとき、女は罪悪感を覚える。

「あなたは卑怯よ。こんなに愛しているのに。あなたこそ魂のない情婦。あたしの恋人はそんなのじゃない。でもあたしには、その恋人の心が見えないの。でもあたしには、その恋人の心が見えないの。どこまで行ってもあたしと恋人は出あわない。近づいたと思うと遠ざかり、情熱だけが病気のようにあたしの中にはびこってゆくの。(……)」
「それを世間では片恋という。不毛の情熱だ」
(四十六頁) 

 美麻子が佐伯に片恋するように、佐伯もまた運動に片恋している。「同じようなものだと気づかないで逃げる。同じところを逃げ回る」動作を、佐伯が「めめしい」と評したのを思い出さなくてはならない。
 恋愛と運動を同じ情熱の次元で読み書くことは、小説では適切な技法かもしれないが、現実には倫理の問題があるだろう。確かに恋愛のために死ぬ者は、革命のために死ぬ者のように、情熱の死者であることには変わりない。しかし、そこから遡って、恋愛と革命とを同じ情熱の範疇で語ることには、些か無理がある。片恋に挫折する美麻子は、結局、佐伯のように自死を選ぶのではなく、倦怠はあれど平凡で幸福な日常にたどり着いているからだ。
 少なくともそこに無理がある、と感じなければ、この小説の切迫した筆致はあり得ない。だから、これは自分でも辟易するほど乱暴な読みではあるが、この「女」の「うしろめた」さとは、私は他ならぬ稲葉真弓自身の「罪悪感」だったと思う。しかし一方で、小説内のどこにも書いていないことだが、革命を仮に男の仕事に見定めるなら、それを「めめしい」恋愛の次元と同列に置くことは、一九八〇年においては、ひとつの定型への挑戦だったのではないか(発想としてはマッチポンプ式の読みだが)。「闘いの女神のように見えた女子学生の多くは、鎧を脱ぎ捨て、かわりに生殖用の衣装をまとい屈託なく佐伯の前から去っていった」(三十五頁)と小説が記すとき、同じように「屈託なく」「去っていった」はずの男子学生への言及は消えている。佐伯は心中で「彼女たちとそれを見送る自分とをせせら笑」うが、ここで男だけが革命の担い手であるように見なすのは、事実の読みとしては間違いだろう。しかし、『みんな月へ…』の女たちが揃って煙草に火を点け、『ホテル・ザンビア』の冒頭が次に引く美麻子の喫煙描写から始まることを思えば、やはり革命への情熱を「片恋」と並列して書くのには、理由がある気がしてならない。

美麻子は目ざめてから、ベッドに半身をもたげて裸の腕を顎にあてがい煙草を喫う。風邪をひくと必ず気管支炎を併発する体には煙草は禁物だったが、この寝起きの癖はどうしても止めることができない。頬をくぼませて煙草を喫い、煙を長く吐出す。その煙い方を、夫の信吾は男のようだと言っていた。ただ、指が細くて長いので、美麻子には煙草がよく似合う。煙を吐出す時の瞳を細める癖や灰を落す指の仕種に、三十年以上生きた女の、けだるい甘さが漂う。煙草をくわえながら鏡に向っている時、ふと美麻子は鏡の中に三十数年目の女の実在感を見出すことがある。
(十頁)

 この描写は何気ない。だが、夫が「男のようだ」と評する煙い方こそが、「鏡」を介して「女の実在」の証に転じるとき、それは男の革命への熱意が、女の「片恋」のように読み替えられる動作と、決して遠い距離にあるものではないと思う。

黒い字の音楽 木村紅美『黒うさぎたちのソウル』について

 

黒うさぎたちのソウル

黒うさぎたちのソウル

 

 「島」の小説は難しい。木村紅美は水に重きを置く作家だろうから、川や岬に、あるいは島へ行き着くのは必然だと思う。とはいえ、沖縄の小説は簡単ではなさそうだ。沖縄を書くとき、オキナワが置かれた抑圧を無視するのはひとつの欺瞞か、観光小説みたいなものだろう。だからといって、その抑圧を書くことは、小説を分かりやすくし過ぎてしまうように思われる節がないか。
 「オキナワ」と同じぐらい、嫌味な言い方をされてきたものに「ヒロシマ」と「ナガサキ」があると思う。林京子の『長い時間をかけた人間の経験』を読んだとき、この人が原爆作家としてひとくくりにされるのは間違いだ、と思った記憶がある(「ナガサキ」というか原爆の主題にあまり興味がない私でも、地を這う蟻の描写に感動した。『祭りの場』はずいぶん昔に読んだきりだけど)。どう考えたって「オキナワ」とか「ナガサキ」が題材だから取り組むべき問題が容易に見つかっていいとか、そんな話がまかり通るのはおかしい。そんなので小説が書けたら誰も苦労していないはずだ。
 木村紅美がオキナワを書いた『黒うさぎたちのソウル』は、小説としてまず緻密だ。非常に冷たい書き方だけれど、私はナガサキと同じくらい、オキナワに冷淡だと思う。それでもX-JAPANの「スレイヴ」と、複数の隷属とが重なり合う表題作の精巧さは、やっぱりマイスターらしい木村紅美の小説だと感動するし、どんな政治的パンフレットよりまず心情的に「問題」の存在を実感してしまう。
 隷属とは、第一に女の男への隷属であり、第二に日本と米国によるオキナワへの二重の抑圧だ(ただし、作中では奄美大島への沖縄と鹿児島の二重の抑圧の歴史が併記されている)。
 だから、『黒うさぎたちのソウル』とは「スレイヴ」の小説であり、オキナワの小説であると同時に女の小説だ。木村はこれまでも性差と社会制度に抑圧され、隷属させられる女を描いてきた。『野いちごを煮る』の女性-派遣社員はその典型だろう。だから、「スレイヴ」の女を書き続けることが、(本人が島好きなのはあるだろうけど)「オキナワ」への橋を渡るのは必然だと思う。
 もっとも、木村の書く女の隷属は、会社内での男女差別という社会的条件だけでなく、恋の「スレイヴ」であることにも起因する。『風化する女』のれい子さんが男たちの「スレイヴ」になるのが、会社と恋愛の二重の隷属によるのは、賛辞だけれど、残忍なぐらい冷静だ。木村紅美の女たちが恋の「スレイヴ」となるのは、おそらくはまず、ファン心理に近い。

 SUGIZOは、あたしたちが二人とも大好きだったビジュアル系ロックバンド、LUNA SEAのメンバーだ。バンドが終幕してからはソロ活動をしている。
 最近は茶髪にしていることが多いけれど、紅い髪だったころが好きだ。恋しい人の生首にキスをしながら惨殺されるビアズリーサロメみたいにあでやかに化粧して、再上等の葡萄酒の滴りを思わせる髪をダイナミックにふり乱し、エレクトリックギターを、ときにはヴァイオリンを弾く。顔は女の人のようだけれど、黒革のぴったりした衣裳に包まれたよくしなる身体は、適度な筋肉がついていて、男らしい。
 抱かれたら、どんなにか気持ちよいことだろう。夜ごと空想に耽ってしまう。紅い髪と、あたしのゆるいウェーブのかかった栗色の髪が、肩のうえで混じりあう。互いの汗ばんだ肌に貼りつく。溶けそうに思えるくらい愛撫しあう。あたしは、彼になら何をされてもよいし、何でもしてあげたかった。
(九頁)

 たとえば『風化する女』のれい子さんは、男が歌わなければ、果たして彼に弄ばれたのだろうか。
 このSUGIZOへの憧憬を書いた文章は、木村紅美の女たちが「スレイヴ」に至る道程が正確に描かれている。彼女たちはまず「髪をダイナミックにふり乱し、エレクトリックギターを、ときにはヴァイオリンを弾く」パフォーマンスに魅了され、続けてその演奏する「よくしなる身体」に目を転じ、「彼になら何をされてもよい」と誓いを立てる。
 思い返せば、木村紅美の女たちはいつもパフォーマンスを演じる者との恋に苛まれる。先んじて男のパフォーマンスに魅了された女が、その「身体」を「空想」し、やがてその人格に裏切られる。それが、彼女たちの定期航路だといっていい(『島の夜』の小百合さんも、まず父の「身体」に「抱かれたら、どんなにか気持ちよいことだろう」と「空想に耽っ」たはずである)。制作された映画がどうしようもない『海行き』は例外的だが、だからこそ男女の恋愛は成立しない。麻利の「無職」で暴力的な「元彼」であり、ストーカーと化した佐山先輩について、「軽音の元部長で、粘っこいハイトーンが魅力的なヴォーカリストだった。作詞作曲もこなし、悲壮な片想いや無理心中をテーマにしたオリジナル曲を演奏するビジュアル系バンドを組んでいた」から描写が始まるのは、実に自然な成り行きだ。「粘っこいハイトーン」がなければ、きっと「魅力」を覚え、「とつぜん理由もなく殴ったり蹴ったり、ひんぱんに暴力をふるわれるように」なることもなかったはずなのだから。
 男の演奏がしばしば木村文学での恋愛の端緒となることを鑑みれば、『黒うさぎたちのソウル』は単行本化された小説のなかでも特異な位置を占めている。
 作品の中核を成す演奏は、佐山先輩やSUGIZOや敬太といった男ではなく、女の昇奈保子が引き受ける。男との恋愛から、女との友愛へ、では安直な読みだろう。小説のラストナンバーを奏でるのが、「美しく化粧してフリルだらけの衣装を着た男の子たち」であり、女たちがその「内側から輝いている」肌を凝視しているのを見逃すわけにはいかない。それでも、同じ音楽のもとに集った二人の女が、再会と共に新たな友愛を結び直す『見知らぬ人へ、おめでとう』を思い返したとき、『黒うさぎたちのソウル』に連続するものを読まずにはいられない。そしてこの文脈で読む限り、「音楽雑誌」の「コスプレした人たちの写真」において、「黒うさぎの耳つきカチューシャをはめ」た昇奈保子と「恋人同士のごとく寄り添」う「SUGIZOそっくりの切れ長の目をした美形」の十六歳が、「彼氏」ではなく「男装した女の人」なのは必然だ。そもそもSUGIZOからして、「あでやかに化粧」した「ビアズリーサロメ」なのだから。
 男を装う女、そして「女の人」に見紛う男という二つの扮装が許されるのは、性差から一時解放される世界でもある。木村紅美の小説は、もちろんそこで永遠に夢の中に浸るわけではないし、友愛から同性愛へ移行するわけでもない。『黒うさぎたちのソウル』では、「スレイヴ」同然に抑圧され、性的暴力を振るわれる女たちが繰り返し描かれるのだから。現実に性差と抑圧があるからこそ、
 その現実を束の間だけ忘れられる「サロメ」の、あるいは「フリルだらけの衣装を着た男の子たち」の演奏が光輝くのだろう。

 

 「ソウル」について触れなくてはならない。昇奈保子の唄が「ソウル」を感じさせる場面は複数あるが、もっとも重要なのは体育館でふたつの島唄を歌う場面だ。
 最初の『かんつめ節』は、「身売りされて一生働かなきゃならなかった」「奴隷」の女=かんつめが、「となりの村の男と、身分ちがいの恋に落ち」「嫉妬した主人と奥さん」の虐めに耐えかねて首を吊る唄だ。「フクロウやコオロギが啼く森の夜の奥深く、ガジュマルかアダンか、木の枝からぶら下がって死んでいるかんつめに取り憑かれてゆく」と「むかしの島」へ想像で渡るとき、取り憑くという動詞に、まさに「ソウル」=霊魂にそっと目をやっていた過去作品を思い出しはするが、だとしても、性別と身分の二重の抑圧を受けるかんつめに木村が辿り着くのは、『野いちごを煮る』を思い返せば予想の範囲は出ない。むしろ重要なのは、続く『塩道長浜』だ。

 「(……)どこかの島の唄にね、言い寄ってきた男を、女がこらしめようとして、足に馬の手綱を結びつけたら、馬が走り出して。彼はボロ切れのようになって死んでしまった、っていうのがあるよ」
 (……)あたしは頭を打ち砕かれ血まみれになった男の死体が波打ち際に横たわっている光景を思い描いた。恨めしそうな表情を浮かべた目玉が黒ずんだ眼窩から転がり出ている。やがてちいさな蟹たちがわらわらと群がってきて、屍肉を食い荒らすのだろう。ふるえあがりながら、口角が上がり、凍りついた気持ちとは裏腹に笑いそうになった。 (……)
「ストーカーだったのかな。よっぽどしつこくて、女が殺されそうなほどの身の危険を感じてたなら、正当防衛っていうか、しかたないかもしれないね。(……)いつか小学生の女の子を暴行した奴らもさ、吊るしあげられるっていうか、それくらいの目に遭えばいいのにね」
「そうよ」
(六十一頁)

 オバァから『塩道長浜』を教えられる上記の場面は佐山先輩と別れたあとだから、麻利が「ストーカー」を持ち出すのは彼が理由だろう。ここでは「ストーカー」と米兵による小学生女子への「暴行」は同列に書かれるし、さらに「暴行」には戦中の「ヤマトの男」から「沖縄の女」への「ひどいこと」が折り重ねられる。これは「スレイヴ」が二重の意味を織り込まれるのと、技法として似ている。奈保子の唄を聴き終えた敬太は、ビリー・ホリデイの『ストレンジフルーツ』を思い出したという。

「ストレンジ……何、それ」
「リンチに遭った黒人が、木から吊るされて死んでる光景を唄った曲だよ。ジャズっていうかブルースっていうか、ソウルミュージックっていうか。おれの姉貴の彼氏がプロのバンドマンなんだけど、そっち系の音楽のマニアで教えてくれたんだ」
「黒人かぁ。奄美の人ってね、むかし、薩摩の代官に、砂糖を作るための家畜だなんて言われてたんだよ。牛とか馬みたいにこき使われて、売買もされて。そんな苦しみや悲しみから生まれた唄が多いの。案外、似てるかもね」
(……)
「(……)今日の唄は、ソウルを感じたよ」
(六十八頁)

 『黒うさぎたちのソウル』で繰り返されるのは、ひとつの概念やモチーフに、時間や人を越えた、複数の意味と記憶を折り重ね続ける作業だ。歴史、と言い換えてもいいのかもしれない。
 単語の意味を決定するのは文脈だが、幾筋もの文脈が束ねられることで、たとえば「スレイヴ」や「ソウル」といった何気ない語に(ただし、それらは明確な意図をもって、奴隷や魂とは表記されない)この小説固有の意味が花開いてくる。奈保子の『塩満長浜』を聴いた麻利は、「あちこち破れかけたみすぼらしい着物の内側で股間を焼け爛れさせ、ぶら下がって死んでいる女の姿」を幻視する。これは引き裂かれた「ストーカー」ではなく、「オバァのとなりの家に住んでいた親切なお姉さん」が、「日本兵」に暴行され、「股間に銃剣を突っ込まれた死体」となった、という語りに由来する。これも、『塩満長浜』という島唄に、ストーカー=佐山先輩という男から女への抑圧、そしてアメリカと日本の二重の抑圧(米兵と日本兵の暴行)が束ねられたが故の情景だ。もちろん「股間に銃剣を突っ込まれた」とは、性-暴力の傷の徴だろう。
 これは、単に小説的な飛躍だろうか。そうではないことは、慎重に読み進めれば分かる。他ならぬ作者が沖縄について語るどんな言葉よりも、この小説は明晰に「オキナワ」を物語っている(私はそういう小説家が好きで仕方がない)。ストーカーと、二国の兵士の暴行と、黒人奴隷とが一曲の島唄に束ねられるということは、同時に作家が、こうした暴力と抑圧を同じ次元から見続けることを意味しているはずだと思う。だから、『野いちごを煮る』の女性派遣社員と、『黒うさぎたちのソウル』の時と場所は異なれど、抑圧においては在り方を共にする女たち(と、本来は出来ない束ね方を可能にするのが、小説の力だろう)は、連続している。『塩満長浜』の幻視の下りを、もう一度引こう。

 あちこち破れかけたみすぼらしい着物の内側で股間を焼け爛れさせ、ぶら下がって死んでいる女の姿が、脳裏いっぱい、まざまざと映し出されたのだ。血が痩せた小麦色の腿を伝い、裾をどす黒く染め、木の根元に流れ落ちては吸い取られる。
(七十二頁)

 血は赤ではなく、「黒」なのだ。それは銃剣をねじ込まれた沖縄の女の「黒」であり、リンチに遭った奴隷の皮膚の「黒」であり、奄美の「スレイブ」の歴史とも繋がる黒糖の「黒」(五十三頁)であり、麻利を拉致しようとする佐山先輩の車の窓の「黒」であり、抑圧の纏う色だ。同時に「出っ歯のブス」と陰口を叩かれる奈保子がインターネットの仲間と被るカチューシャの「黒」であり、佐山先輩から逃れた麻利が、自分を救ってくれた奈保子のライブに貸す「自慢のヴィヴィアン・ウェストウッドのロッキンホースバレリーナシューズ」は、色の明示はされていなくても、「黒」に違いないはずだ。それは、抵抗の纏う色でもある。そういえば、と接続するのは白々しいけれど、小説はいつも黒字で書かれるはずだ、と最後に余計な補記をしておきたい。