遠い自分の空葬 上田岳弘『ニムロッド』について

 

第160回芥川賞受賞 ニムロッド

第160回芥川賞受賞 ニムロッド

 

 帯が内容を語り尽している。「ドライで軽妙な展開の底につねに虚無への想像力が働く」という阿部公彦のコメントから「ドライ」「軽妙」「虚無」の三語を、さらに田中和生の言葉から「抒情性」を抜き出して、さらに作家志望の男と堕胎経験のある女、という登場人物の内実を知らされたら、ある程度年齢のいった人なら大体のトーンや話の方向性は想像がつきそうなものだ。「僕たちは、個であることをやめ、全能になって世界に溶ける」という引用句と堕胎を重ね合わせれば、ああ、全てが計算された完全な未来に、たとえば先天性疾患が判明した胎児の堕胎が失敗として対置されるのだろう、というところまで予想は進んでしまう。マニアックな固有名詞は極力避けられ、誰もがアクセス可能なwikipediaの記事が頻繁に引かれる。「軽妙」で「虚無」に満ちた時代に生きる、ノイローゼ気味の男と女は、最終的には問題の解決策を見出すことなく失踪するしかない。そのような使い古された強固な形式こそ、ビットコインという新奇な題材の語りには必要だった。上田岳弘がこれまで繰り返してきた、過剰の果てに破局に至る寓話、もしくは与太話は、本作では作家志望の世に出ない作中作という、ひっそりした形式で語られていて、そこに客観的な距離を見出すことも可能なのだろう。作家本人の最高到達点からは少し力の抜けた、良い意味で芥川賞らしい、穏健で、ウェルメイドな小説である、と要約出来るかもしれない。
 ただ、こんなことは読めば明らかな話だ。小説は全般に感傷的だが、次に引くニムロッドの言葉は、挫折した作家志望者の発想として生々しい。

 これから書くものは賞に応募しない。誰かに読ませようと思って書かない。名古屋で会ったとき、ニムロッドはそう言っていた。一つの小説が世の中に存在するためだけに行われる、シンプルな行為。今はそういうことにしか興味を持てない心境なのだ、と。その文章が評価を受けて「芸術としての価値」を纏うことも、誰かを感動させて「読者の魂を救う」ことも、そうした可能性は予め捨て去られている。ただそこにごろりと文章がある。
(七五頁)

 これは創作の気鬱である。「そんな衝動を持っているのは、きっと僕だけじゃない。それは、誰もが心の奥底に抱えている根源的な衝動に違いない。そんな衝動がきっと空っぽな世界を支えているんだ。僕よりずっと才能のある芸術家だって、それが空っぽだと知っていて、だからこそ、そのことを表現せざるを得なかった。表現するだけの気力が尽きてしまったら、あとは死ぬしかなくなるものな。未熟なロックスターが二十七歳で自殺するように。たくさんの傑作をものした老境の作家が自ら死を選ぶように」(一三一頁)という語りを踏まえれば、(語弊は大いにあるだろうが)「芸術家」として小説家を見る態度だと思う。けれど、こんな考えを本気で信じていれば、小説を書くなんてちんまりした作業は出来ない。だから、と接続するのは残酷だけれど、作家を挫折したニムロッドの寓話はたいして面白いファンタジーでもないし、「個であることをやめ、全能になって世界に溶ける」ことへの不安は、鬱病のニムロッドが、先取りしたところで仕方ない未来に不安を抱くこと自体にはリアリティがあるけれども、読んで新鮮な印象はない。
 この小説が面白いのは、題名に反して、興味深い登場人物が「ニムロッド」でないことだ。『ニムロッド』でもっとも目を惹く登場人物は、小説に失敗したニムロッドでなければ、出産に失敗する田久保紀子でもない。それは、一見すれば観察者でしかない「ぼく」である。

 もっと日常的なこと、例えば職場でのストレスや、これまでの異性関係、家族のこと、そういったものを話すことの方が現実に即して、真実味があって、ニュースで起こっている動きは自分には関与しようのない、興味をもってその渦中にいるかのように話すのは、薄ら寒いこと。終わらない日常に耐えるのが、現代人として正しい生き方であり、態度である。それがなんとなくコンセンサスだったような気がするが、それがそうでもなくなってきたように感じる。そういった大きなものの渦中に確かに僕たちはダイレクトに含まれていて、当事者として語らなければならないような気がしてきている。二○一一年の東日本大震災以降だろうか、いやもっと大きな流れ、インターネットの発展とかもあるだろうか、こんな風に今考えてることを、ワードかなんかで文字にして、Ctrl+C&Ctrl+Vでインターネットのどこかに貼り付ければこの思考すらすぐに、世界中で共有が可能になる。僕の思考なんて誰も興味ないかもしれないけど、わずかな現象が静かに連鎖していって、大きな変調を起こすことだってあるかもしれない。僕の思考を見た人が、かすかな影響を受けて書いたものに影響を受けて書いたものを見てその人が――つまりは、バタフライ効果
 片手で操作するiPhone8にYahoo! のトップニュースが表示されている。世界の不幸は誰かのせいではなくて、わずかなりとも確かに僕のせいなのだ。別のニュースではイスラム国で少女が売られていると伝えてくる。

(九〇頁) 

 小説はあたかも「終わらない日常」を書いているように見える。少なくとも、世界を「空っぽ」(一三一頁)と言い切るニムロッドや、「正直言って何のために稼いでいるのか、全然わかんない。なんだか自分の人生じゃないみたい」(一〇一頁)と語る田久保紀子は、そのような「虚無」を生きているし、とりわけ田久保紀子の堕胎をめぐる問題は、言ってしまえば「現実に即し」「真実味が」ある「家族のこと」の範疇を出てこない。「大きなものの渦中」とは、「今考えてること」なのだから、現在の「大きなものの渦中」にある体感である。「予想されうる未来は今と同じか、あるいはそれ以上に人間を縛る」(一三二頁)というニムロッドの寓話は、2018年でなくて、1988年にも書けたイメージだろう。「ダイレクト」に自分が巻き込まれたものの体感について語ることと、「予想されうる未来」の不安を語ることは、似ているようで、実際には大きな隔たりがある。ニムロッドは常に自分の創作の問題に苛まれているし、田久保紀子もそうだ。結局のところ、「日常的なこと」を「現実に即して」「真実味」をもって語るということは、「終わらない日常」の「虚無」を細々と綴り続ける羽目になるのかもしれない(これは、たぶん昔から繰り返されてきた問題で、むしろフィクションより私小説作家においてその状況の打破が目指されたのではないか)。小説が書けないという事態、とりわけその不安に焦点を当てた小説で、私は成功作を知らない。不安は停滞する。不安になる対象から目が離せず、そこから一歩も動けないという状況の固着が、不安だろう。だからニムロッドの訴えも寓話も、常に同じ地点に停滞しているようで、物語を前向きに進める推進力にはなっていない。物語と描写はもちろん違う。ニムロッドや田久保紀子の「虚無」は、あくまで描写の対象に留まる。
 小説を前進させるのは、もっぱら「ぼく」のビットコイン採掘だ。「Ctrl+C&Ctrl+Vでインターネットのどこかに貼り付ければこの思考すらすぐに、世界中で共有が可能になる」「僕の思考なんて誰も興味ないかもしれないけど、わずかな現象が静かに連鎖していって、大きな変調を起こすことだってあるかもしれない」というぼくの発想は、「金庫」に文章を閉じ込めるほかないニムロッドとは真逆である。
 『ニムロッド』は不思議な転位を来した小説だ。これは妄想の域を出ないけれども、小説の最初の構図は、ニムロッドと田久保紀子という、失敗した男女を双極の立場に置こうとしていたのではないか。けれど、小説が最終的に至るのは、二〇一八年以降を生きるぼくと、「終わらない日常」を生きるニムロッドと田久保紀子とが、分裂する地点だ。もちろんニムロッドの寓話の最初の離陸点は、naverまとめという、無記名のインターネットのテキストだ。ニムロッドは、そこから聖書へ逆行する。ぼくが選ぶのはwikipediaだ。「なんでもWikipediaで調べるのが癖になっているのがよくないのかもしれない。どのみちそこにたいていのことは書いてあるんだから、わざわざ僕の脳内に残しておく必要はないだろうと思ってしまう。27クラブのことも、サリンジャーの作品や人間性も、Wikipediaにしっかり書かれてあって、誰かが覚えてくれている」(七七頁)とある通り、ぼくは三十八歳という年齢にもかかわらず(これは作者が一九七九年生まれなのと無関係ではないはずだ)非現実的なほど物知らずな人間で、「カート・コベイン」や「NIRVANA」の名前も、「涅槃」の意味も知らない(十九頁)。でもそんなぼくでも、「Wikipediaの関連情報」を読めば、「航空特攻兵器 桜花」の「発案者」の顛末を知り、それについて感想を語ることが出来る。小説として書くことが出来る、とも言い換えられる。
 『ニムロッド』という小説は「ぼく」の一人称の語りだが、これは「ぼく」がニムロッドと田久保紀子という、「終わらない日常」を生きた二人が去った後に新たに書き始めた小説である、ともいえる。ついに小説家たり得なかったニムロッドの意思が、naverまとめという無記名のテキストから離陸する精神と共に、「ぼく」に継承される物語でもある。技法的には、小説はwikipediaやLINEといった、今現在の私たちの日常には本来ごくありふれているものを、抵抗なく書き切ったところに達成がある。wikipediaのような無記名のテキストから、平然と小説が離陸してもいい、という模範としても読める。きっとニムロッドは、自分の小説にwikipediaやLINEは持ち込めなかったはずだ。継承は、同時に葬送でもある。だから『ニムロッド』は、作家たり得なかった三十九歳の「ぼく」を、飛行機を媒体に、遠く葬り去る小説でもあるのだろう。

昏さへのテレスコープ 木村紅美『島の夜』について

 

島の夜

島の夜

 

 人が人を想う感情の昏さ、不気味さについて書かれた小説である。
 小説は、母と折り合いの悪い「私」こと「波子」が、離婚した父の経営する「沖縄の離島のひとつ」の「民宿」を訪れ、帰るまでの短い日々を描いている。父と再会するのは十八年間ぶり。離婚の原因は浮気で、ホステスの仕事で酔うたびに、母は決まって彼の悪口をわめきたてる。

 母の父にたいする悪口はいつも同じだった。彼の女好きと放浪好きがいかにひどかったかを、自分がいかにそれで傷つけられたかを、声が嗄れるまで語りつづけるのだった。いつも、一方的に、被害者みたいな顔をして。
 (……)
 父をののしっているときの母の顔は、みにくくて、大きらいだった。
 しかし母がいつも最低と言う、その最低の男を母はたしかに好きになって、私が生まれたわけなのだ。いつからか、私はそれがふしぎでしかたなくなった。
 どうして母は、いまとなってはののしってばかりいる父のことを、好きになったのだろう。好きだったはずなのに、なぜいまとなっては、ののしってばかりいるのだろう、と。
(十一頁~十二頁)

 小説は、「好きになった」という情愛の根源を、見極めようとする地点から始まる。愛情が増悪に転換する不思議に触れて、後から思い返せば完全な間違いとしか思えないような恋愛がなぜ生まれるのか、その昏さ、烈しさを覗こうとする物語として、小説は動き出す。最初から結論が出ている小説でもある。恋愛は昏い。底知れぬ、「夜」の感情として見定められている。それが早々に明かされるのが、次の場面だ。

「みんな、ちょっとだけ静かにして」
 父が言うと、みんな静まり返った。すると濃い青い闇のなかで、聴こえてくるのは、打ち寄せる波の音だけになった。私は一瞬、大勢でならんで仰向けになっていることを、忘れてしまった。星空と海だけの世界に、独りぼっちで、放り出されたような気分になった。
(……)
「むかしはこの浜辺に、若い男女があつまって、三線を弾いたり、うたったりしながら、夜ふけまで遊んだんだ。そうしてみんな、何度か恋したなかで、結婚の相手を決めて、代々、子孫ができていったんだよ。いまではすたれてしまった風習だけどね」
「ロマンチックですね」
 トシミさんのとなりに寝ている、今夜私と相部屋になる彼女は、父の言葉に溜息をついた。私はなぜか身ぶるいがした。
 ござから起き上がると、みんなで波打ち際まで歩いた。夜の海はすてきだけど、こわい。
 まっ暗すぎて、気をゆるめると呑み込まれてしまいそうだ。足をひたすと、つめたい。
(八頁~十一頁)

 「島の夜」すなわち「恋」の時間は、確かに「ロマンチック」かもしれないが、同時に「こわ」く、「つめた」く、「身ぶるい」するような昏さを秘めている。相手に盲目的に恋するとき、人が恍惚感と同時に味わうのは、何もない夜の空間に、「独りぼっちで、放り出されたような気分」のはずだ。それは、振り向いてくれるとは限らない相手に、一方的に感情を振り向けている、半ば虚しさに似た孤独である。どれだけ勝手であろうが、それは不平等、不公平の感覚に似ている。私がこんなに恋に苦しんでいるのに、あなたはどうして同じぐらい苦しんでくれないのか。他人の感情は、根源的にはわからない。他人より自分の激情のほうが近しく感じずはいられない以上、「一方的に、被害者みたいに」感じさせてしまう、不平等の感覚は必然である。
 結婚が失敗したから「被害」と化したのでもなく、恋愛そのものが「被害」なのだ。私が「ロマンチックですね」という言葉に身ぶるいを覚えるのは、母の言動から、「島の夜」=恋の時間の「昏さ」を聞き知っているからである。恋は昏く、相手の存在と不在、承諾と否認とにかかわらず、孤独である。結論が出ている以上、小説が集中するのは、その昏さの注視である。恋愛の孤独がもっとも際立つのは、片想いのときだ。
 だから、『島の夜』という小説において反復して描かれるのは、片想いの物語である。たとえば民宿に宿泊している小百合さんが、その主役のひとりである。描写は、『風化する女』のれい子さんを彷彿とさせる。

 一人だけ、やや年のいっている女の人がいた。痩せっぽちで、ショートカットとおかっぱのあいだみたいな髪型をして、どこか悲哀を感じさせる大きな目に、黒ぶちの眼鏡をかけている。おとなしそうな人だ。彼女はいちばん最後に、おずおずと荷台に乗りこんだ。私は今夜は彼女と相部屋になる予定で、うまく話がはずむかどうか、どきどきしている。
(七頁)

 突然死したれい子さんが、ハワイへの社内旅行で「わたし」と同室になる予定だったのを思い出さずにはいられない。小百合さんは「東京のアパート」に住む独身で、教育系の出版社で「営業事務」をやっている。家族と疎遠だったれい子さんに対して、小百合さんは「今年の正月に帰省したとき、お母さんがガンになっていることがわかり、お父さんは数年前からアルツハイマーにかかって要介護度4の身だから、二人の面倒をみる」ため、旅のあとは秋田に帰郷しなくてはならない。「落ち着いたら、また東京に出ていきたいなと思ってるけど」とは語るが、「小百合さんの年齢的にも、状況的にも、そんな遠くの実家に帰ったら、もう二度と東京に出てくるのは不可能なんじゃないだろうか」という私の予想は、おそらく正しいのだろう。
 「霊感が強い」と話し、窓辺に幽霊を目視して怯えるのは、たぶん彼女もれい子さんのように、幽霊の立つ岸に近付いているからだ。『風化する女』の、「砂丘」に相当する地帯である。れい子さんが霊子になったのは「生きていたころから死んでいるみたい」に周囲に扱われていたからだが、自由な東京から、すべて息苦しい秋田へ引き戻され閉じ込められる小百合さんもまた、「死」に近付きつつある。
 人はたとえ肉体が生きていても、その存在の自由を認められなければ死んでいるのに等しい。そういう美学が、れい子さんと小百合さんという、ふたりの「幽霊」には宿っている。
 もっとも、小百合さんはまだれい子さんのように死んではいない。だから、「テレビの旅の情報番組に紹介されていた」「私の父に会うために」ひとりでT島に渡ってくることが出来た。

「波ちゃんの年ならまだしも、三十八歳で、いちども経験のない女なんて、これから先、どんな男の人も相手にしてくれるわけがないじゃない。だれだって気味わるがるでしょ」
「そんなの、隠しておけばすむことじゃないですか。経験あるふりをしておけば」
「意識の問題なのよ。私が、意識しすぎているのがいけないの。だから……とりあえず、だれとでもいいから、私はいちど、経験してみたいのね」
 言いにくそうに、声をひそめて、小百合さんは言った。浮かびかけていた涙は引っこみ、こんどは、両手を後ろで組んで、うつむいてしまった。水の中で、私はまた身ぶるいがした。
「だれとでもいいって、たとえば、だれとですか」
(九十六頁)

 このあと「だれとでもいい」といいながら、「できれば、洋介さんと」と羞恥心を交えて答える場面は、見事であると同時にぎょっとする描写で、『風化する女』のれい子さんの洗濯機から、赤と黒のレースのブラジャーとパンツを発見した下りを思い出す。
 「島の空気は、生きてる人の世界のすぐそばに、死んじゃった人の世界があって、その二つが溶けあってる感じがする」(四十七頁)のだという。これは、T島という「島」に限らず、『風化する女』から今作まで、木村紅美の世界を貫く原理だ。生者の世界と死者の世界が隣り合い、溶け合う世界においては、生者はときに容易に死者の世界へ滑り落ちていく。生きながら死んでいるという事態が、まず社会的にあり得るのだから。れい子さんの痕跡を追って、彼女が消えていった彼岸まで旅したのが、『風化する女』の主人公だった。『島の夜』においては、同性の恋人に置き去りにされたトシミさんが、その旅人の役割を担っている。
 「もう関係も終わりかと思いかけていた去年の秋、またいつものように彼の帰りを待ちつづけていたら、死んでしまったらしいというのを、風のうわさで聞」(八十二頁)く。「風のうわさ」の出所は作中で明らかではないし、「ほんとうは、死んでいないような気もする」(八十五頁)。それでも、「でもたぶん死んだと思う」し、「万が一、生きていたとしても、アタシのまえに姿をあらわしてくれないんじゃあ、アタシにとっては、死んでしまったのと同じ」だという。宿帳の名前や、喫茶店のノートの恋人の記載まで切り取って、気が住むまで集めたら、遺骨代わりに燃やして、それでおしまいにするのだと。
 恋愛はともかく、恋情そのものは、こちらを振り向かない幽霊を追い求めるように、一方的だ。相手の肉体を手に触れ、肌の温度を共有して「溶けあってる感じ」を味わうことが先に待っていたとしても、必ず「孤独」の体感が訪れる。恋をすることは、途方もなく昏い恋情のなかで、孤独に立ちすくむようなものだ。『島の夜』という恋愛小説は、そのことを明瞭に物語り続けている。たとえば、こんな風に。

 「居場所っていうのは、けっきょく、外側じゃなくて、心の内側にしか存在しないものなんじゃないかな。究極の居場所は、なんなのかっていうと、きざな言い方をしちゃうと、孤独なのよ」
 さらりとトシミさんは言いきって、私は一瞬、鳥肌が立った。おととい、浜辺で仰向けになったときに味わった、星空と海のあいだに、一人でぽんと放り出されたような感覚がよみがえった。
 その考え方は、すごくさびしくてこわい感じがした。
(五十四頁)

 ただし小説が最後に描くのは、幽霊や振り向かない相手を想い続ける昏さ、さみしさではない。むしろ、孤独、というような「きざな言い方」を粉々にするような、性交の生々しさである。

 二人とも汗みどろで、動物のような声を出し合っているのだ。日ごろ、私がよくふくらませては打ち消す、男の子と恋をする妄想の場面には、汗なんて出てこないのに。
 なんとなく、組んずほぐれつしている彼らの顔を父と母に置き換えてみたら、たちまち、胃のなかのものがこみあげてくるようで、しゃがみこんだ。
 必死で頭をふり、浮かんできた光景を打ち消した。
 初めて、目のあたりにしたからだろうか。男と女が、まさしく、欲望を全開にさせつつ、激しくからみ合っている姿は、グロテスク、としか思えない。
 理解はかんたんに出来るけれど、私が生まれてきたのは、こんなグロテスクな行いの結果なのだ、ということを、実感するのは、とてもむずかしい。
(一五三~一五四頁)

 『風化する女』の幕切れは見事だ。それと比較してしまえば、本作のクロージングはどうしても不格好には見えてしまう。トシミさんへの告白をさらりと済ませる場面は素晴らしいけれど、もちろん私と母の問題は解決しないし、離島旅行だけで踏ん切りをつけられるものでもない。恋情を「まったく、莫迦らしいけれど、そんなふうに、あやふやで、うつろいやすいからこそ、とうとい感情」と頭で設定できても、そこに付帯する「生々し」(一五六頁)く「グロテスク」な面を否認することは出来ない。

 そっと肩に廻される彼の腕の体温を感じ取りながら、私は、自分はほんとうに、目のまえの景ちゃんたちみたいに、トシミさんと、なりたいのか、と考えたら、どうも、ちがうような気もしてきた。わからない。
 ちがうのなら、私の彼にたいする気持ちは、恋ではない、ということになるのだろうか。それもわからない。
 ――あやふやだ。
(一五四頁)

 夜に呑み込まれるように、すべては「あやふや」に溶けていく。

 私はこれからどういう人を好きになるんだろうか、なんてわかるわけがない。近い将来、ほんとうに、さっき見た光景の雪ちゃんみたいに、だれかに脚をやわらかく押し広げられたり、トシミさんの教えてくれたテクニックを試して喜ばせてあげられるように、なるんだろうか。いまはまだ信じられない。
 オカマにふられてしまったばかりの私には、いつか自分にそのような事態が降りかかりそうな予感など、いまはまったく掴めない。
 わかるのは、たしかなのは、いま、月と星は島を見おろしながらかがやきつづけている、ということだ。
(一五八頁)

 つまり「月と星は島を見おろしながらかがやきつづけている」以外のことはわからない。おそらく小説は、その技術力を以てすれば『風化する女』のようなすっきりした終わり方が出来たはずだ。ただ、意識したか否かにかかわらず、小説はそんな「わかる」結末を選び取りはしなかった。「わからない」と言い残しただけの不器用な結末が、けれど個人的には、すごく好きだ。そして「夜」の昏さに「あやふや」に溶かすしかなかった問題は、おそらくは『島の夜』以降の小説で問い直されるのだろう。

難読性について 山尾悠子『夢の棲む街』について

 

夢の棲む街 (ハヤカワ文庫JA)

夢の棲む街 (ハヤカワ文庫JA)

 

  山尾悠子を読んで驚かされるのは、私たちの世界がいかに山尾悠子的な「幻想」に埋め尽くされたかである。私は山尾を読んだ経験がないので、この既視感は筋違いなのだが、破綻した旅を取り扱っているからカフカっぽいとか、女が妖怪じみて怖いから泉鏡花っぽいとか、無限を題材にしているからボルヘスっぽいとか、そういう既視感ではない。もっと馴染み深いものの記憶である。具体的には、私が十代のころ座敷に寝そべってプレイしていたPS2GCの世界を彷彿とさせてくる。たとえば本書に収録された『遠近法』の「基底と頂上の存在しない円筒型の」「中央部は空洞になっており、空洞を囲む内壁には無数の輪状の回廊があり」「すべて古びて表面の摩滅した濃灰色の石組みで構築されている」塔はFF12の大灯台を思い出させたし、『シメールの領地』の湖に船が閉じ込められようとしている描写など、先の用意されていない海域にプレイヤーの船が進もうとした瞬間にそっくりだ。あるいは『遠近法』の破綻した旅の描写も、『ゼルダの伝説風のタクト』で船が地図最北端の海に進もうとした瞬間ぐるりと最南端へ飛ばされたときを思い出させて、不思議な懐かしさを覚えてしまう。
 だから山尾悠子はもう古いとか、逆に山尾悠子は現在のポピュラーなファンタジーの形態を先取りしていたとか、そういう話をしたいのではない。あるいは『夢の棲む街』や『ファンタジア領』の第一篇を取り上げて、緻密で堅牢な言葉の秩序を築き得る書き手だからこそ、言葉を超えたもの(たとえばその小説世界の破局)を待ち望むのは不思議なことではないとか、そんな無難な話にも興味が持てない。気になるのは、これだけ慣れ親みやすい「ファンタジー」のイメージが羅列され、文章の論理関係も意識して明晰に整えられ、物語も人間関係も単純に抑えられ、偏執的な描写の過剰も回避している山尾悠子の小説が、しかし何故か特異に読みづらいことである。
 山尾悠子の難読性はどこから来て、何を意味するのか。
 もっとも読むのに難儀したのは『ムーンゲイト』だ。たとえば、主人公の男女が住んでいた都から脱出した直後の描写である。
 何でもないこの移動の場面を乗り越えられずに、私は三度読み直す羽目になった。今書き写すだけでも、頭のなかを引っかかれるような苦しさがある。

 川幅が狭まってくるにつれて、両岸の景色は徐々に険しい深山の様相を見せはじめていた。最後の分岐点を過ぎて、月の門へ通じる狭い峡谷へ分け入ったころから、両岸は、切りたった断崖になった。ゆるく蛇行する深い流れをさかのぼるに従って断崖はほとんど垂直に近くなり、光の射しこまない谷底からはるかな高みを見あげると、空は、黒々とした岩壁にはさまれた、細いひと筋の白い帯としか見えなかった。
(『山尾悠子作品集成』九十六頁)

 第一の段落に仕込まれているのは、視線の過剰な方向転換だ。文体は眼の酷使を要求している。第二文は「最後の分岐点を過ぎて、月の門へ通じる狭い峡谷へ分け入った」というから、地図を頼りにしているか、あるいは上から船を見下ろしているその直後に、「両岸」とカメラが船上の視点に寄る。第三文の「ゆるく蛇行する深い流れ」も難所で、ゆるく蛇行するのは辺りを見回す水平方向の目の動きだが、「深い流れ」は水底を覗こうとする垂直下向きの目線である(これは第一文の「川幅が狭まってくる」から「険しい深山」となった「両岸」に、すなわち水平方向・垂直方向に素早くカメラが転換される動作とパラレルだ)。それがいきなり「断崖はほとんど垂直に」と垂直上向きへ百八十度反転し、「光の射しこまない谷底」と再び真上から舟を見下ろす視線に転じたあと(私なら「射しこまない」ではなく「射してこない」だろう)「はるかな高みを」川面から見上げ、両側の「黒々とした岩壁」を視界に入れつつ、ようやく「細いひと筋の白い帯」に辿り着く。散々に眼と頭を振り回されたあとの、「黒」と「白」あるいは「はるかな」と「細い」の強烈なコントラストが、目眩を引き起こす。何気ない文章だが、ここには山尾特有の目眩を引き起こす仕掛けがある。幻惑の文体である。

 昼の間、幽谷の重い静寂を破るものは、流れを漕ぎのぼる船の櫓の音しかない。時おり、鋭い鳴き声を残して、黒い山塊の狭間を白い鳥が翔けのぼる。一瞬後、白い軌跡を追って、矢尻に結んだ麻糸が宙をよぎる。高空の白い点を縫いとめると同時に、伸びきった麻糸は急激にゆるみ、やがてうねうねと落下して、水面に叩きつけられた。
(同頁)

 「重い静寂」につまずいてしまう。第一段落はカメラの方向転換を繰り返すことで、否応なく語の凝視を要求しているが、ここでは感覚の素早い切り替えを要求している。「静寂」は聴覚だが「重い」は皮膚感覚だ。その切り替えの早さにもかかわらず、本作の旅は常にのろのろとしていて、感覚の食い違いが生まれてくる。文章に立ち返れば、「昼」の光(視覚)→「重い」(皮膚の重力感覚)→「静寂」(聴覚)→流れを漕ぎのぼる(櫂の感触、重力感覚)→「櫓の音」(聴覚)と交互に皮膚感覚と聴覚とが呼び覚まされる(第一段落でカメラの垂直/水平方向が交互に転換させられたように)。山尾の小説の登場人物たちは概して世界の理解不能な規則に苛まれているが、山尾の文体もまた異常なまでに厳密で、しかも一見すると馬鹿馬鹿しいが、読み手に異常な拘束力を持つ規則に束縛されている。
 「山塊」から続く「白い鳥」はそれなりの大きさを視界に残すが、「矢尻に結んだ麻糸」に文体のピントが絞られるとき、「高空の白い点」にまで縮小され、直後に矢に結わえた糸の輪郭がくっきり見えるまでに拡大される。ここで眩惑を起こしているのは、『遠近法』の切り替えである。

 夜になると、小さな入り江を見つけて船を漕ぎ入れ、ふたりは狭い岩場に火をたいて野営した。
 黒々と屹立する絶壁の根かたに残された焚火は、深い峡谷を埋めつくした暗闇の膨大な容積に比べて、あまりにも小さく心もとなかった。
(同頁)

 第三の眩惑は無の描写である。山尾が「深い峡谷を埋めつくした暗闇の膨大な容積」と書くとき、私たちはその暗闇、空無を物質のように受け止めなくてはならない。『ムーンゲイト』に関わらず本書の収録作に共通する描写だが、ともかく山尾の文体=眼は空無を空無として通り過ぎることを許さない。それすら厳密に、執拗に言葉として記録する。それが本書の規則である。自分が書くなら確実に省く。その資格もないが、まず「膨大な容積」を肌身に感じさせることが出来ない。山尾には出来る。読み手の視点の方向と遠近、あるいは感覚受容器を高速に切り替えさせる山尾の文体は、端的に、全てを読め、と要求している。あるいは山尾が自分の小説を書きながら読むとき、そこには過剰なまでの感覚の励起があるはずだ。自分の書いている言葉だけでなく、頁の空白にまで眼が焼き付くような、異様な視覚の活用がある。
 印字された言葉=実在物だけでなく、空白=頁の無までをひとつの言葉として読む=書くのは、詩の読み方=書き方だろうと思う。記憶が定かでないけれど、十年ほど前に世界詩人全集のアポリネールだかシュペルヴィエルだかの巻に(私は詩の造詣は皆無なのできっと人物違いだろうが)渦巻状に字が配列されている一篇があって、困った記憶がある。だからというわけではないが、激しく感覚を揺さぶり、世界の空無にまで凝視を要求する山尾の文体は、端的に私の手に余る。難読性とは何か、と大仰な問の身振りをしておきながら、私の感覚器が弱い、ではあまりにチンケだけど。
 
 『ムーンゲイト』の十一行で私が『夢の棲む街』について書きたいことの大半は終わっている。空無が切迫するリアリティを有するのと並行に、言葉にしてしまえば他愛ない「無限」もまた、山尾の小説世界においては強烈な実在感を有している。読んでいて吸い込まれるような感覚は私の勝手な錯覚に過ぎなくとも、抽象的な語彙として、あるいは無や無限を言葉遊びとして弄ぶような作家と、山尾が対極の位置にいるのは間違いない。無や無限がただの知的遊戯でないから、難儀なのだ。無限に向けて旅立つ人々は、たとえば『遠近法』や『シメールの領地』の旅団のように、自死を選ぶほど差し迫った挫折を味わわなくてはならない。
 確信はないが、この二作の苦渋に満ちた旅程は、おそらく山尾が小説を書く労苦と重なっている気がする。
 私はまだ山尾のインタビューやエッセイを読んでいないし、経歴も人物像もまったく知らないのだが、山尾が神話に取材するとき、そこには必然性があると思う。たとえば『遠近法』にはウロボロスというあまりに有り触れたモチーフが呼び込まれているけれど、それは山尾の過剰なまでに研ぎ澄まされた感覚を、正しく鈍化させるものとしてあるはずだ。怪談風の『月蝕』や、寓話じみた『堕天使』は、物語の外枠が先にあって、次に小説の内側が埋め込まれた印象を受ける。『ファンタジア領』第三篇「星男」の夢と現実が交互に入れ替わり、やがて境界線がわからなくなる構成もお馴染みのものだし、『月蝕』の京都の描写は私小説的な馴染み深さがあり、読んでいて落ち着く。私は『月食』がいちばん好きだが、しかし学生時代を過ごした土地など、思えばもっとも安易で生ぬるい舞台ではないか。第四編「邂逅」の「意味なんてものは、どこにもありゃしない」「でももちろん、そんなことはどうだってかまやしないんだ」(二百三十二頁)といった警句めいた台詞や、あるいは『夢の棲む街』で「脚本家」が死した後に「あらゆる言葉を飛び越えて美し」い踊りが立ち現れるさまに私が感じるのは、見慣れたものへの安心感でしかない。
 そのような安全なものを土台に据えねば『夢の棲む街』の収録作は小説たり得なかった。そしてその水脈においてこそ、確かに幻想作家でなければ山尾は小説家たり得なかったのだ、と書き継げば邪推としてもさすがに残忍過ぎる。けれど山尾の難読性 dyslexia がその異様な感覚の励起から必然的に起き得るなら、その幻想のやむを得ない安全さは他ならぬ山尾の難書性 dysgraphia に対応しているはずだと、読み終えた今は思う。

山尾悠子作品集成

山尾悠子作品集成

 

燃焼としての時間 山尾悠子『飛ぶ孔雀』について

 2018年に発刊した『私的文藝年鑑』から、山尾悠子『飛ぶ孔雀』(泉鏡花文学賞)の感想を公開します。2018年もっとも面白く読んだ小説のひとつであり、回想の意味もこめています。

飛ぶ孔雀

飛ぶ孔雀

 

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 昔ある小説家が、煙草は間を持たせるからつい習慣的に作中人物に持たせてしまう、とインタビューで話していたのを思い出す。私は非喫煙者なので、煙草を吸わせるとどうにも嘘っぽくなってしまうが、会話の合間を繋ぐ小道具として、たしかに便利そうではある。現実の人間相手でも、互いの言葉が出尽くしてしまったとき、ちょうど間を置くのには使いやすい道具だろう。隙間の時間を消し去る、あるいは点火することで互いに話せなくなった時間を経過させる、それが煙草の役割とも言える。
 『飛ぶ孔雀』は、冒頭から「不燃性」をめぐる小説である。

 シブレ山の石切り場で事故があって、火は燃え難くなった。
 大人たちがそう言うのを聞いて、少女のトエはそうかそうかと思っただけだったが、火は確かに燃え難くなっていた。まったく燃えないという訳ではないのだが、とにかくしんねりと燃え難い。すでに春で、暖房の火を使う場面はなかった。喫煙する祖母が奥の間で舌打ちするのを聞くことはあったものの、少女のトエにとってたちまち不自由が生じたのは煮焚きの場だった。
(p.7)

 「暖房」として火を使う場面はない。代わりに不燃性に難儀する例として登場するのは、「喫煙」と料理である。そういえば、というにはやや無理のある連想かもしれないが、料理もまた、小説では何もない間を詰めるのに使いやすい。喫煙と料理には、いずれも時を流す役割がある。短縮させる、通過させる、といってもいい。『飛ぶ孔雀』は私は読むのに難儀した小説で、というのは時間の秩序が作中で乱れに乱れていて、まるで夢を歩くような心地がする。そして夢においては、たぶん厳密な時間の感覚というのはあり得ない。次から次に出来事の図柄が思い浮かんできて、それが繋がったり千切れたり、単独に生起してきたりするのを繰り返すばかりだ。時間と出来事の連続は、似ているようで違う。『飛ぶ孔雀』の読みにくさは、この出来事同士が一見相関しているように近付いたり、いきなり遠ざかったりして、事件の全貌が見えづらいことに起因する。「まったく」時間=物語の繋がりがないという「訳ではない」のだが、「とにかくしんねりと」時間=物語が繋がってこない。物語というよりは出来事の羅列が、生々しい夢のリアリティをもって迫ってくる。物語として印象が残るのではなく、ただ鮮烈なイメージだけが浮き上がっては弾けて消えていく。
 
 『飛ぶ孔雀』はどういう小説か。要約は難しい。けれど、説明し難い鋭さがあるのは間違いなくて、たとえばそれは快楽とか幻想とか、柔らかな言葉で丸く表現するのが適切なのかもしれない。でもそれでは、小説と詩の区別が付かない気もする(別に付けなくてもいいのだが、なんとなく作者が詩も書いていたという経歴に結び付けて、詩的だ、幻想的だ、と片付けてしまうのは自分に納得がいかない)。
 そこで具体的に書こうと試みるなら、ひとまず、これは夢の時間を描いた小説だ、と要約したくなる。
 夢の小説は、試してみればわかるが、普通はそこまで長々と書けるものではない。記憶に残る夢はどこかにイメージの焦点が合い過ぎて、起きてすぐメモを取るにしてもその中心点ばかり焼き付いてしまう。本来遠い、あるいは些末なものも、夢のなかで心的に拡大されてしまえば、それは異様に近く大きなものとして遠近法を狂わせてしまう。たとえば「肝斑のような濃い灰色の痣」が「ひどく目立つという訳でもないのに、見れば見るほど痣が男であり男が痣である」(p.30)ように。小説は詩ではなくて、瞬間に細密な描写を詰め込み過ぎればそれだけで終わってしまう。エピソードとしての瞬間同士を繋ぐ、持続した秩序が必要になる。その典型例が時間であり、こそばゆい言葉遣いだが、それぞれの登場人物が、どのような状況においても本質としては同じ登場人物だという、同一性だろう。『飛ぶ孔雀』はそうした秩序は拒んでいて、時間と同一性の秩序を遠ざけている(本書に収録された二編は登場人物にアルファベットや短いカタカナの名前を与えるが、同じ字面でも果たして同一人物なのか確信が持てなくなりがちで、それもまた読み辛さの一因となっている)。その無秩序において連続している、ともいえる。ただし主題が曖昧な観念のままでは小説を支える背骨にはなれないから、何らかの具体的な形は取らなくてはならない。それが、不燃性に相当する。
 たとえば火種屋の次の描写は、この小説における火と時間の関係を、明瞭に描いている。

 小銭を出して今日も火種を買う。紙縒りの先に移した火を手渡しで受け取り、煙草のガラス棚に片肘ついた親爺のかおを見る。陽射しのせいで円レンズの片方が白く燃え上がるように反射するので、その人相はやはり測りがたいが、たまに眼鏡をはずして昼寝しているところを見かけるときは別だ。ただしそれには少しだけ条件があって、火の番である火種屋が眠っているときはその場の時間の流れが停滞するのであるらしい――それもかなりの度合いで。一見したところ燃える火の桶は薄暗い土間に置き放され、奥の小座敷で寝倒れている親爺のことはともかくとして、妙な黒い犬が火を咥えて逃げ出す姿勢のまま静止していたりするのだ。餓、と烈しく火を噛んだ犬の鼻づらには深い肉皺が寄り、数本の髭が焦げて白煙が纏わっている。
 ぱふ、と音をたてて夢の蓋が閉じる。(p.38) 

 小説の片側の主題が不燃性=無時間であるならば、もう片側は恋愛関係である。小説には繰り返し男女の恋愛が描かれるが、『飛ぶ孔雀』においては未亡人と料理人、トエと川舟のひとに代表されるように、ごくその瞬間しか書かれないし、『不燃性について』では関係の破綻が集中的に描かれる。そして冒頭のトエの場面で描かれるのは、恋愛の無時間だ。一瞬と永遠が取り違えられるような、時間の感覚がまったく狂ってしまったような、そんな瞬間である。

 二度目にそのひとは夜の川を渡ってきて、トエの恋びとになった。障子で隔てただけの明るい台所の奥にはラジオの音や大人たちの出入りする気配があったし、それより何より橋からも両岸からも丸見えのこの場所でと意識することがトエには恐ろしかった。振動とともに路面電車が通過し、火花が散り、また通過した。視界の端では岸沿いのみちを照らしていく車のライトがひっきりなしに動いていたし、取り込み忘れた洗濯ものの隙間にほそい宵の月があった。燃え難くなった火を合図の目印としてそのひとはやって来るのであるから、トエは夜の川辺で火を焚いた。(p.10)

 路面電車や、車のライトや人の気配といった、自分以外のものへの感触が異様に鋭くなる(もちろん「恐ろしかった」から気になるのもあるだろうが)。裏返せばそれは、自分のなかの時間感覚ではなくて、たとえば路面電車や、一台一台の車のヘッドライトだけが、今自分が生きている世界に時間が動いている証拠になっている。恋愛は発展すれば、そのうちに「子」という関係を産み落とす。恋愛の無時間などと言い切ったところで、やはりそこには物事の動きがある。
 けれども、動きは動きであって、本書の出来事から出来事への連続が、決して整然とした時間を感じさせないように、それが必ずしも時間を生むとは限らない。

燐寸の燐がたけだけしく闇に発火し、焚きつけ紙を変色させて明るい炎がさっと走る。正常に燃え上がったその火が空気の澱みに触れて縮むとき、ばちんと大きな音がたつこともあった。怒りに任せ、命ずるうちに、練炭の表面に別種の青い炎が生まれた。たよりなくちりちりした赤い炭火を覆い隠し、二重映しになったあからさまに偽の青い火なのだった。それは気ままに膨れ上がり、髪を振り乱すようにせわしなく動きまわったが、明るいだけで熱というものがまるでなかった。(p.10)

 物事が続いているという持続の感触はあるが、それは「偽」の時間のようなものだ。庭園でのパレードの描写は、出来事が弾むように連続しているまでは分かっても、いつどこで誰が何をしたか、という整理を拒んでいる。あるいは、時間を感じさせない動きと出来事の連続こそが、この小説の主題だろう。
 『飛ぶ孔雀』が夢の無時間を書くならば、『不燃性について』で新規に出現するのは周期である。他人の時間と言い換えてもいい。路面電車、ロープウェー、噴水といった道具立ては、いずれも周期的に動くものだ。質の異なる物事の連続では時間の感覚は生まれてこない。であれば、『飛ぶ孔雀』の冒頭でまさしく「路面電車」がそう使われたように、同じ周期に従うもの、あるいは自分以外の刻む時間を前にすればどうなるのか。「あんたね、子どもみたいな若い女の子をずっと連れ回しているようだけど、いったいどういうことなのかね。いい歳をした年寄りが、ああいやだいやだ。ずっと身の毛もよだつ思いでいたんだよ」(p.236)と突如として糾弾される場面はその典型だと思うが、そんな持って回った言い方をしなくても、具体的な物語の次元で、ひたすら作中の人物は他人に翻弄されている。たとえば、路面電車の女運転士の描写である。

 その場におけるものごとの動きというものはどうやらこの女運転士の身辺に集中する傾向があるらしいのだった。その傾向はどう見ても顕著であると言わざるを得ず、そしてさらに言うならば、一切の動きを引き連れて彼女が通過していったあとには反動としての沈滞が残るらしい。(p.118)

 まるで「ものごとの動き」を吸着するように動いている女運転士は、裏返せば周囲の「一切の動き」を束縛している。物語を通して主人公のひとりKが翻弄され続けるのはこの女運転士に他ならないし、あるいはQは結婚相手の女に、トワダに、劇団員の予言に、団長の妻に自分の時間を乱され続ける。『不燃性について』というこの中編において、主人公格の男たちはいつも誰かにかき乱されていて、自分の動きたいように動けない。「沈滞」と言い換えてもいい。それは悪夢に似ている。悪夢には、自分が覚めたいときに覚められる行動の自由も、時間の自由も認められていない。『飛ぶ孔雀』がわずかに恋愛の成就の無時間について書かれるならば、『不燃性について』では崩壊した恋愛の、いつ終わるとも知れぬだらだらとした苦痛が描かれている。本書は夢のリアリティを突き詰めた小説ではあるが、その無時間の射程が、恋愛の始まりと終わりにまで広がっているその一点において、この小説は単なる夢のスケッチを超えた佳品たり得ていると思う。

喜ばしい唐突 保坂和志『こことよそ』について

 

 2018年に発刊した『私的文藝年鑑』から、保坂和志『こことよそ』(川端康成文学賞)の感想を公開します。2018年もっとも面白く読んだ小説のひとつであり、回想の意味もこめています。

ハレルヤ

ハレルヤ

 

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 喜びと可能性をめぐる小説である。文体は幻惑的で、意図して読めないようにしているんじゃないかと邪推したくなるほど、雑多なエピソードが明滅している。しかし、ただ圧倒されるだけでは、なんとなく良かった、しか言えない。それで良いのかもしれないが、私は気にくわない。

 小説は谷崎潤一郎全集の月報に『細雪』に関する思い出を書こうとする場面から始まる。「私」がその小説を読んだのは白浜での「九月の最後の一週間」で、「バブルの真っ最中というか上昇期」の、現在の若者にはとても「真似ができない」「明るさ」を象徴する時間だった。ところが白浜のその記憶はあまりに個人的過ぎて「谷崎潤一郎と何も関係がない」ので、実際には『異端者の思い出』について書いたのだった。『異端者の思い出』は谷崎が「学生のうちにデビュー」するまでの時間を描いた小説で、「私」はそこに小説家になりたいが今はなっていない、という「重く晴々しないところ」を重ね合わせて読んでいた。もっとも『異端者の思い出』とは「私」の読みでは「耽美主義」の小説で、「耽美主義というのは観念つまり形而上学だからこの小説にはいわゆる時間は流れない」のであって、「時間の法則の外にある」作品なのである。
 私がその小説を過去に読んだのは「大学五年目」の年末年始、「やっぱり外に出るのに初詣の人だかりの華やぎが去った夜の通りを選ぶような心境」だった。六十歳の私は鎌倉の商店街を歩きながら、二十歳の自分が同じ道を逆方向に歩いていたことを思い出す。「自分には何があるのかといつも考えては何もない」と感じていた自分を、「先の見通しがまったくなかった自分をリアルに思い返すことができる」のに「私」は「喜び」を抱く。
 これが第一の喜びである。六十歳の私が、二十代の自分を今まさに生き直しているかのようにありありと回想出来る、そのなんともいえない恍惚とした空気が、この「喜び」にはまずある。第二の喜びは、鎌倉の商店街を歩いた二週間前、「映画の仲間が死んだそのお別れ会」にて「思いがけず」訪れた歓喜である。その仲間である「尾崎」の死因は書かれないが、ともかく私は「尾崎にまつわる多くもない記憶を繰り返し引っ張り出してはそれに耽」る。会場に向かう小田急のなかで「私はこれから尾崎と会うような気持ちになってウキウキ」してくる。私が暴走族役として参加し、尾崎が初めて映画の世界に入ることになった思い出深いフィルムが放映されたとき、歓喜は始まる。

 映画の主演格はそろっていない、尾崎もいないが映画が映し出される私は喜びがピークに達した、目の前で自分の二十三、四のあの時間が再現されているような気分になった、尾崎が映ってなくてもこれが尾崎のあのときであり私のあのときだ。映画はかつて暴走族のリーダーでいまは伝説となっている内藤をめぐる殺伐とした内容だが、音のない映像だけを見ていると若くツルンツルンの肌でまだ幼いようなピンクの唇でしゃべる表情は、夢やあこがれを語っているようだ!(新潮六月号、p.147)

 それは「後づけの言葉」で私は出席者と騒ぎ、結局翌朝の七時八時まで飲み歩いていただけなのだが、ともかくそのとき「渋谷駅は意味もなく祝福されている」ように見えたのには違いなかった。しかもその「尾崎のお別れの会で味わった幸福感」はどうも「じゅうぶんに自覚できていない」らしい、と私は「喜びの絶頂に達する」夢を解釈して考える。それはなぜなのか、という問いが残る(これを書いている私の中に)。この、幸福感の不可思議な物足りなさ、もっと幸福であるべき感情がなぜか自覚できていないという躓きの感触が、小説の後半への転調になる。

 重要なのは、私にとって尾崎よりも「ずっと身近でつき合いがひんぱんだった知り合いが二人死んだ」にもかかわらず、「私は尾崎のことだけを思っていた」ことである。もし仮にそうした事態を「小説的に膨らませ」るのならば、本来であれば前者が書かれるべきである。ただ、そうではない、というテーゼがある。ずっと身近な知人が二人死んだにもかかわらず、別の知人の記憶が浮き上がってくる、というその「小説的」とかけ離れた仕組みこそが、小説とは別の、人間の在り方じゃないかという。あるいは「きょりと道のりは違う」(p.151)という作中の台詞に従えば、ずっと身近であったからこそその記憶がより心中に色濃く浮かび上がってくる、という発想は距離の視法なのだろう。あるいは死者の記憶が泡のようにいくつも湧き上がってくる、というのも現実的ではない。記憶は機械のように整然とはしていない。もっとずっと、唐突らしい。

 私は高校の三年間ほとんど毎日、鎌倉駅のホームの一番うしろの端で待ち合わせて横須賀線に乗って二番目の大船で降り、そこから十五分歩いて学校に行った友達が五年前に死に、その死を知ったときも思い出すことはあまりなく、というかいろいろ思い出すが思い出すことが全部、私は鎌倉駅のホームの一番うしろで待ち合わせていたことに収斂した、その友達が死ぬまでは鎌倉駅のその場面を思い出していたわけではなかった、死んだのを知ってからそればかりになった。(p.149)

 いろいろと思い出す過程はある。ところがそこで結実するのはある一場面の記憶でしかない、しかも日々強く意識しているわけでもなく、唐突に、ほとんど偶然のような成り行きで、どこか一か所の記憶が定着してくる。それが『こことよそ』の記憶の生理だけれども、たしかに私も自殺した先輩のことを考えるとき、必ず場面はオレンジのジャージを着て、居酒屋で『ジェーン・エア』について話している姿ばかり思い浮かんで、そこから別の道はあまり進んでいかない。他にあるとすれば、別の先輩が文学フリマで頒布予定だったある冊子が発刊中止になったとき、その人が「呪われてるねえ」とぽつりと呟いたことぐらいだ。
 あるいは、九鬼周蔵の「偶然と驚き」からの抜き書きを読む。

 「「与えられた一つのものだけが必然であるという風に考えるのは、むしろ抽象的、部分的平面的な考え方であり」、「多数の可能性を背景に置いて、与えられた一つは、多くの可能性の中の一つとして偶然的であると見るほうが、具体的な、全体的な、立体的な見方」である」
 (……)与えられた一つのものだけが必然なのではない、出来事は多くの可能性の一つとして偶然である、出来事は全体の一部、立体の一部なのだ。このときすでに私は谷崎潤一郎全集の月報の文章は書き上げていた、そこで尾崎のことは掠めるようにしかふれられなかった。(p.153)

 あらゆる出来事は、後から見れば必然のように錯覚するかもしれないが、前から見ればあくまでひとつの可能性に過ぎない。だからもし大学五年目の私が鎌倉の商店街を歩いていて、未来の自分に「将来の作品のリスト」を見せられたとしても、「私はそのリストを破り捨てたってかまわなかった、自分の人生だからというのではな」くて、「それはまだ自分の人生ではなかった」からである。
 私は、谷崎全集の月報のエッセイは尾崎のことを書かなければ「その月報のエッセイが形にならない、文章がどこも何も指し示さない」と感じる。だからといって尾崎のことを書けばいいというのではない、尾崎は谷崎潤一郎とは何の関係もないのだから。
 尾崎をめぐる挿話と谷崎の『異端者の悲しみ』に通底するのは、「着実に積み上げて成果が得られることより大きなものが唐突にくること」の「リアル」である。
 何故それが来るのか、正確な「距離」を計測することは出来ないが、ともかく「よそ」から「大きなもの」はやってくる。その手触りは、積み重ねられた記憶、並び行く死者の列のなかで、唐突にひとりが先頭へ弾き出され、唐突にひとつの個所が記憶のほとんどすべてになる、そういう「リアル」である。そうして読み返したこの小説の文体は、とにかく唐突なのだ。意識の流れとかそういう手法の問題ではなくて、よそから大きなものが唐突にくる、ということのリアルさを身体=言葉で書くとき、このような歩き方=文体しかなかった。文体と主題が緊密に結びついているという意味で、この短編はウェルメイドな佳品である。
 この唐突な小説を最後に結ぶのが、ジャン・ジュネだ。ジュネの「すべての出発点は見ることだ、話はいつも視覚ではじまる、その見るときジュネは官能性にしか関心がない」という。ジュネの目線は限定的である。「与えられた一つは、多くの可能性の中の一つとして偶然的であると見るほうが、具体的な、全体的な、立体的な見方」というのに対して、彼の視法は「官能性」のみを削り出す。『シャティーラの四時間』からこんな文章が引かれる。「この女たちはもう希望することを止めた陽気さだった。……もう希望することを止めた陽気さ、最も深い絶望のゆえに、それは最高の喜びにあふれていた」。ジュネの視覚が官能に彩られるのは、それ以上の可能性を探ることを「止めた陽気さ」が前提であり、それゆえの「最高の喜び」が滲んでいる。そこでもう終わりと宣言すること、希望することを止めることは、「陽気」を伴った「喜び」を宿している。
 可能性の終わりを目視すること。小説のなかには書かれていないけれども、たぶんそれこそが、私が尾崎の葬儀で感じ得た幸福感なのである。ところがそこに影がある。それはなぜか、というのが前半部の問いであったけれども、私はどこか「希望すること」を止めずにはいられない。
 死んでいても死んでいる気がしない。理屈=距離ではなくて、実感=道のりの感触がある。 

 二十歳やそこらで、まして十代で永遠なんてことを思うだろうか、(……)十代の少年たちにとって死は切断じゃない、継続だ、永遠と無縁のひたすらの継続、(……)いまこうして他に選びようもなくなった人生とまったく別の、あの時点で人生は可能性の放射のように開け、死はその可能性を閉じさせられない…………私はあの時点の感触に何度書き直しても届かないからもう何度も何度もこのページを書き直してきた(……)(p.154)

 「重く晴々しない」大学五年生の自分が、鎌倉の商店街を歩きながら抱いていたこの可能性の実感、希望することを止めた喜びとは正反対の、「生きる熱意や生きることへの強い憧れ」故の苦さが、この道のりの場面には集積されている。そんな遠い時間の感触は、どれだけ正確な固有名詞を持ち出そうが、何度書き直そうが、届かない。
 その諦念が、読んでみれば思いのほか懐かしく甘い。もはやそこに届かないと終わりを実感することが甘美であって、だから追想とは甘美なのだろう。

記憶への躊躇 石井遊佳『百年泥』について

『私的文藝年鑑』に収録した石井遊佳百年泥』の感想を公開します。2018年もっとも面白かった小説のひとつで、回想の意味もあります。

百年泥 第158回芥川賞受賞

百年泥 第158回芥川賞受賞

 

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 舞台となるアダイヤール川は「典型的な都会のドブ川」であり、「五百万都市チェンナイのあらゆる人間活動に付随する膨大な未処理の下水が毎日」「垂れながされ」「ベンガル湾に注ぎ込む」。その橋は車道と歩道から成り、後者には「幅一メートル、高さ五十センチほどに盛り上げられた泥の山が、長さ五百メートル以上あるコンクリート橋の端から端まで延々と」つづいている。これが「百年泥」である。
 「百年ぶりの洪水ということは、それは一世紀にわたって川に抱きしめられたゴミが、あるいはその他の有象無象がいま陽の目を見たということ」らしい。
 主人公の目の前で、さっそく歩行人たちが思い出の人々を引きずり出していく。彼らは今ようやく目を覚ましたかのように、ごく自然な身振りで、「ほどなく雑踏にまぎれ」ていく。橋の上で日本語教室の生徒であるデーヴァラージと出会い、そこから職と彼についての語りが長々と続く。
 語りを打ち破るのは警官らしき男の、デーヴァラージへの叱責である。
「おい! こらっ、何やってんだお前! 真面目にやれ!」
 小説は急に現在に戻り、デーヴァラージが百年泥から熊手で引いてきた「サントリー山崎十二年」の「ウィスキーボトル」から、回想へ飛んでいく。
 それが、小説としての「真面目」であると言わんばかりに、である。
 もっとも、「概して、授業にせよ行列にせよ約束にせよ、長くのびるものを私はこのまない。植物もくねくねした蔓草のたぐいは好みでなく、ハコベなど地にはりついたような草や樹花が好きだ」という、実に「長くのび」「くねくねした」注釈が差し挟まれ、直截ウィスキーボトルと結びついた元夫の記憶ではなく、借金取りであった実父の回想をわざわざ迂回して通ってくるのだから、微塵も「真面目」ではない。ようやく元夫の話に辿り着いたかと思えば、これもまた浮気が発覚するまでの登場人物の細部をいちいち「くねくね」記述する。とにかく話は「前後」(p.44)を繰り返すのだが、小説はまた「警官」の声で現在に引き戻される。
「立ち止まるな! 歩け!」
 警官が橋の上の群衆を警棒で追い払い始めたのは、「極度の通行障害」ゆえである。
 テレビ局の中継放送と、それを見て駆け付けた人々で、橋がいっぱいになり、彼らが水面を覗き込んだところで、
「何してんだそこ! おい行け! 止まるな!」
 というところでまた語りに戻って、「インドの警官には逆らわないほうがいい」から、ともかく後ろ向きに歩き始める。
 「しごくむぞうさに話題転換」(p.51)。「くねくね」に並ぶこの小説の文体の特徴だ。p.47-65に渡る日本語教室への語りは、「ガンガンガン」という、警官が「長い棒で力まかせに橋の欄干を叩く音」でまた橋の上へ引き戻され、デーヴァラージが次の物品を引き当てる。それは「人魚のミイラ」であって、そこから「人魚姫」のように寡黙な母との、小学生時代の甘い回想へと歩いていく。私はぼんやりした子どもだった、という。

 たとえば日曜日、家にいて、隣に母がいて、編み物をしている。今日は日曜日だ、ふと思う。すると、どこかにもうひとつの日曜日があるんじゃないか、そんな思いがうかぶ。私がすごした日曜日と、私がすごさなかった日曜日。両方とも同じ日曜日、どちらが本物とか正しいとかいうのではない。そしたらきっと、もうひとつの月曜日や火曜日だってある。それらについて考えてみた。(……)私によって歩かれなかった路地、眺められなかった風景、聴かれなかった歌について。私は目を閉じる。母によって話されなかったことば。私によって聴かれなかった母の声。それはどこかにあるもうひとつの金曜日、もうひとつの土曜日の風になって吹くのだ。(p.75)

 「私によって聴かれなかった母の声」は、その後緘黙症らしき中学三年生の同級生の「黄昏まぢかの波の歌ごえ」と聴き間違えるようなかすかな声のなかに、実演される。
 「愛想のない女」と言われた自分を思い返しながら、私は語り続ける。

 現に目の前にある人生にたいし、私はとかく高をくくる傾向があるかもしれない。これはありえた人生のひとつにすぎない、無限にある可能性の中で、たまたま投げた石が当たって鼻血を出してるのがこれにすぎない、そう思うとつい扱いがぞんざいになる。私にとってはるかにだいじなのは話されなかったことばであり、あったかもしれないことばの方だ。(p.85)

 これは保坂和志『こことよそ』の現実と可能性の触れ合う瞬間、あるいは松家仁之『光の犬』で語られたイエスの視座に近い(『百年泥』含めこの三作はいずれも新潮に掲載されていて、とりわけ『こことよそ』はとにかく文体が「くねくね」していて、幻想的な私小説のバリエーションという点で『百年泥』と通底している)。
 ただこの小説は、ここで猛烈に照れる。
 かっこつけたのが恥ずかしいとばかり、「そこで、つきあう男の二人に一人はおじさんになった。ひと回り、ふた回りちかくも歳がはなれているとなれば、概して相手に寛容になるものだ」。微塵もそこで、ではないのだが、ここからまた話がインドへ帰ってきて、デーヴァラージの目から放たれたレーザーで私の髪が焼けたりして、脱線の末に大きめの音で橋の上に戻るのも、もうお決まりのパターンである。
 今度は「どん」と「重くにぶい音」がする。
 「有翼飛行者同士が衝突した」のだ。それが何かは実際に読んでほしいが、読んでもよくわからない。どうやら、インドのハイテク通勤手段らしい。
 そうしてデーヴァラージが最後に引き当てるのが、日本とインドを結ぶ、大阪万博のメモリアルコインである。ここで語りは、日本人である私から、インド人であるデーヴァラージへと越境する。デーヴァラージの「東洋文庫に入っていそうな」母の葬儀をめぐる語りが終わると、彼はもう姿を消している。
 橋の上の人々は、時にタミル語を話し、時に大阪弁を話しているようにも聞こえてくる。大阪とインドが混淆する。
 その口々の声、物語の欠片を耳にしながら、私は考える。

 かつて綴られなかった手紙、眺められなかった風景、聴かれなかった歌。離されなかったことば、濡れなかった雨、ふれられなかった唇が、百年泥だ。あったかもしれない人生、実際は生きられることがなかった人生、あるいはあとから追伸を書き込むための付箋紙、それがこの百年泥の界隈なのだ(p.118)

 そして主題に触れた瞬間にこの小説は恥ずかしそうに、無理に話題を変えようとする(「百年泥の界隈なのだ、そう考えたところで私はふと、人生、人生、といえばこの」の、人生、と二度繰り返すのが素晴らしい)。ところが小説は(枚数の都合もあったのかもしれないが)ここから過去に飛ぶことはない。
 「またべつの声」が聞こえて内省から引き戻され、無事に「橋をさらに進んで行く」。そこでは、百年泥から掘り出された人同士を争う「バトル」が繰り広げられている。「これはうちの甥なのよ、なにを言ってるんだ中学からのぼくの大親友だよ、ふざけんなおれのいとこだよ」と言い合う人々の中心には、私の借金の発端だった「五巡目の男」らしき人物がぼんやりしているけれども、いくら「まだらに生乾きの泥ののこる男の顔」を私が凝視しても「すでに憎しみの命数が尽きていることを知ったのみ」だった。

 こうなにもかも泥まみれでは、どれが私の記憶、どれが誰の記憶かなど知りようがないではないか? しかしながら、百年泥からそれぞれ自分の記憶を掘り当てたと信じきっている人々はそれどころじゃない、めいめい百年泥のわきにべったり座り込み、一人一人がここを先途と五巡目男にむかってかきくどくのだった。(p.120)

 五巡目の男をめぐって自分の記憶を言い張る人々をよそに、私は結論する。

 私の目にはどこをどう見ても東アジア系の目の細いおじさんにしか見えない男を甥だ親友だいとこだとインド人が奪い合うさまをながめれば、つまりは先程来、山崎12年ボトルに人魚のミイラと、降ってわいたように百年泥から見間違えようのない記念品が転がり出すことでたちまちほどけたあの記憶の数々、さも私のものらしかったそれらもひっきょう他人事とおもうしかなく、実のところ私の人生のそうとう以前、たぶん母を亡くした時点から自身の人生のパーツパーツにいまひとつリアリティがもてないでいたのだったが、どうやら私たちの人生は、どこをどう掘り返そうがもはや不特定多数の人生の貼り合わせ継ぎ合わせ、万障繰り合わせのうえかろうじてなりたつものとしか考えられず、そんなことを知るためにわざわざ南インドまで来たのかと思うと心底なさけなくなった。(p.123)

 デーヴァラージはウィスキーボトルや人魚のミイラといった、これまでの語りのきっかけとなった品々を河へ捨ててていく。
 「おなじみのそのうすわらいの横顔」を見ながら、「人いちばい法螺話も得意にちがいないこの人物とまだ当分縁が切れそうにないじぶんの身のうえ」に私は「深いため息」をつく。
 そもそも、なぜ私はデーヴァラージが苦手なのか。彼は優秀な生徒であり、私の日本語教師としての能力が極めていい加減なことを見抜いている(p.22)ばかりか、私が進行に最適な例文を思い付くよう「誘導」している。「彼の持ち出す話題になにか、ことさらに私の訂正をうながす意図的な感じ」(p.64)があるのである。そして「東洋文庫に入っていそうな話を経験として語りうる人物に日本語を教えるのも、なんだか畏れ多い」(p.115)。
 年下でありながら、自分よりはるかに人生経験を積んでいる人間になにかを教える気まずさ、というのは確かにあるだろう。
 ただなにより私が嫌なのは、「東洋文庫に入っていそうな話」がその強烈な貧しさのリアリティをもって、私の父母をめぐる美しい語り(花、聞かれなかった声、海)を超えるように感じることなのではないか。それを前にしたとき、私の語りは「もはや不特定多数の人生の貼り合わせ継ぎ合わせ、万障繰り合わせのうえかろうじてなりたつもの」に過ぎない。自分の人生を「不特定多数の人生の貼り合わせ継ぎ合わせ」として意識するとは、現実的には人生なんて所詮みんな悲惨だとする諦観であり、作劇的にはフィクションは全部パターンだという実感である。
 前者は五巡目の男への赦しに繋がるだろうし、後者に接したとき、人は優れた組み合わせの技法を探るか、物語を諦めて文章を凝らすか、私小説を書くかに概ね分かれる。
 この小説は日本語教師としての私小説、こんな言い方はどうかと思うが、女性作家然とした(もちろんそんな女性作家はさしていない)演技的でエモーショナルな語り、そしてデーヴァラージの「東洋文庫に入っていそうな話」を前にしたある種の諦念へと渡っていく。
 デーヴァラージは私の語りに「訂正をうなが」し、私の記憶をめぐる語りを「うすわらい」(p.124)で流す。そんなものは本当の語りではない、と言わんばかりに。

 『百年泥』の文体は洒落が効いている。華やかで、鬱陶しい自意識もなく、美しいイメージの重なりもある。
 でもそうではないのだ、とデーヴァラージの語りは訂正する。最後の彼の語りは、きわめて素朴な物語である。
 人は、チェンナイでの日本語教師のような特異な経験や、あるいは元夫の浮気、インドに飛ばされた経緯のようなろくでもない現在についてはフィクションを交えながら面白おかしく語ることすら出来るが、自分の両親や幼年期をそのように語ることは難しい。過剰に美しく脚色されてしまう。借り物の詩や幻をもって美しく語らずにはいられない。小説の終盤は、記憶を語ることへの躊躇の身振り、として読める。記憶が不確かで、都合のいい脚色をするから語るに値しない、というのではない。あくまで事実性にこだわりたいなら、ある程度は事実、正確には固有名詞や歴史で補強出来るからだ(保坂和志『こことよそ』がそうであるように)。
 それに対する照れ、そんな言葉が甘すぎるのであれば、自分自身への恥じらいが、この小説にはある。
 だからこそ、そんな躊躇に阻まれないデーヴァラージのまっすぐな幼年期の語りに私は圧倒され、「訂正」されてしまう。しかし同時に、それすら「法螺話」じゃないかという醒めた目線があるのも確かだ。彼の言葉でさえ「不特定多数の人生の貼り合わせ継ぎ合わせ」に過ぎないのではないか、と。このテーゼは最後に持ち出されなければならない。でなければ小説は解体してしまう。橋の最後、「あやうく足を踏み外しそう」になる寸前に、この小説は踏み止まっている。

彼岸行きの切符 木村紅美『風化する女』について

 

風化する女

風化する女

 

 かつて文學界新人賞の受賞作が、ラテン語表紙の本で売り出されたときがあった。かつてといっても、この『風化する女』は2007年刊行だから、それほど昔の話でもないのだが、あらためて手に取ると懐かしい気持ちになる。この水色のラテン語は"Vinum novum in utres novos mittendum est."で、私に読めるわけもないのだが、遊び紙には「新しい葡萄酒は新しい革袋に詰めなければならない」と訳文が記されてある。マタイ福音書の引用らしいが、未だに文学界新人賞といえばこれ、というぐらい表紙の印象は強く残っている。実際には、この表紙で刊行された本の数は多くない(そもそも本になりにくい賞ではあるが)。検索する限りでは、この『風化する女』がシリーズの走りで、これと赤染晶子『うつら・うつら』が2007年、寺坂小迪湖水地方』と円城塔オブ・ザ・ベースボール』と藤野可織『いやしい鳥』が2008年、谷崎由依舞い落ちる村』と田山朔美『霊降ろし』が2009年で、それ以降はもう使われていない。このストイックな体裁では、さすがに本の売り上げが出なかったのかもしれない。あくまで当時の記憶頼りだけれど、いくつかの受賞作には、ちょっと不似合いという気もする。私が無学なのに過ぎないけれど、中身がまるで分からない、読めもしないラテン語の表紙で、純文学の新人賞受賞作……となると、手に取るのを躊躇うか、通り過ぎるのが普通だろう。一方で、選ばれた作品と著者を眺めてみると、これでいいのだ、という送る側の自信を感じさせもするし、そのうちの少なからぬ数が今現在も文学の最前線で書き継いでいることを思えば、やはり堂々たるセレクトだとも思う。
 そんな気合の入ったラテン語表紙シリーズの、最初を飾ったのがこの木村紅美『風化する女』である。中身は、思いのほか軽い小説だ。文体がまずライトだし、内容も見慣れた感があるかもしれない。三時間ぐらいで読み切れてしまう本ではある。
 私のような凡庸な感性なら、フォーカスを柔らかくごまかした女性の背中の写真を表紙に選ぶのだろう。実際には、そんなストイックな外見が、よく似合う作品である。

 「れい子さんは、一人ぼっちで死んでいった。」(p.7)

 これが書き出しだから、『風化する女』はこのれい子さんという人の痕跡を追い続ける小説なのだと、自然に予想がつく。れい子さんは「私」と同じ会社の同僚で、「四十三歳で結婚はして」おらず、「入社して二十年経っても、一般事務職のまま」で、「昼ごはんは、長いこと一人で食べ続けていた」。そんな孤独な人が突然死するのだから、後に続くのは葬儀と、遺品整理と、思いもがけない一面の発見と決まっているし、事実その通りに進む。この小説が輝いているのは、そんな嫌でも感傷を引き起こす舞台上での、感情との距離の取り方だ。感情へのストイックさ、と言い換えてもいい。れい子さんの死を知らされた私が、流涙に至るまでの距離は、冒頭から案外に遠い。

 れい子さんが死んだのを、本気で悲しむ人なんて、会社にはたぶん一人もいやしない。周辺の人たちの仕事にもきっとたいした差し障りはないだろう。代役はすぐに補充されるはずだ。それも彼女よりずっと若くて、肌がぴちぴちとして、愛想よく笑う代役が。
(……)
 あとでれい子さんの配属されていた課をのぞきに行ったら、彼女の机の上には、すでに菊やりんどうの花束が飾られていた。その周りの人たちは、もしかしたら悲しみを内にひめてはいるのかもしれないけれど、それを特に表情に出すことはなく、平然としていた。急に人員が一人減ったからといってむちゃくちゃ忙しくなるわけでもなさそうで、ほかの課と変わらないリズムで、電話を取ったり伝票を切ったりしていた。トイレでもロッカールームでも、彼女の死はちっとも話題に上らなかった。
 社内でのれい子さんの存在感の薄さを私はつくづくと思い知らされ、では彼女の死を悲しむ人は、いったいどこにいるのだろう、と考えた。悲しむ人がいて、その人に、彼女の死はきちんと伝わっているだろうか。はたして、一人でも本気で悲しむ人は、いるだろうかと考え続けていたら、寝るまえにようやく、涙がひとつぶ転がり出た。
(p.8-9)

 れい子さん、という名前はダブルミーニングである。第一には零子、「代役」がすぐに補充されるような、いてもいなくても変わらない人という意味。第二には、霊子、最初からすでに「生きていたころから死んでいるみたい」(p.71)という、幽霊の含意がある。「れい子さんは、一人ぼっちで死んでいった。」とは不思議な書き出しで、シンプルに書くなら、一人ぼっちで死んだ、でいい。突然死なら、猶更そのほうが自然だ。でもそうではなくて、死んでいった、と書く。れい子さんは、零子さん、霊子さんとして最初から葬られていて、たまたまそこに死が重なったに過ぎない。誰もれい子さんの死を悲しまないのは、物語の始まる前段階で、無同然の人として葬られていたからだ。
 死んだではなく、死んでいった。この冒頭には、「目立たない部分に凝る、ってのが好きなのよね」(p.47)という、作中の台詞を思い返さずにはいられない。
 れい子さんが霊子なのは、明確に意識されて書かれている。そうでなければ、この場面の説明がつかない。

 帰りに、ジャスミン茶を買うため十三階で降りると、ちょうど女子トイレからだれか出てくるのが見えた。知らない会社の制服を着ている。私がエレベーターから出てくるのに気づくと、すうっと、トイレの横の非常階段のドアの向うへ消えていった。足音が遠ざかる。
 長い髪を後ろで束ねた痩せっぽちの人で、れい子さんと似ていた。
(p.55)

 不在と死の区別は厳密につかない。そんな文章を昔読んだことがあるけれど、それは修辞とか観念の問題であって、やっぱり不在と死は根が違う。
 重なる枝葉もある。だから「いつか私が死ぬときまで、れい子さんはきっと、私の中に住みついて離れない」(p.71)とか、あたかも存命しているかのように、生き生きと回想を語ることも出来る。「おれがもしどこかで死んだら、死んだことは、絶対に桃ちゃんに知ってほしい。でも、桃ちゃんがどこかで死んだとして、死んだことは、知らされたくないかもしれない。どこにいてもいいから、きっと生き続けてるはずだって、思いたいかもしれない」(p.53-54)と私の恋人が話すように、死と不在の区別を付けないことは、ひとつの慰めでもある。それでも、不在と死は、失踪者と自殺者ぐらい違う。今度引っ越すからもう会えないというのと、明日自分は死ぬからもう会えないとでは、言葉の重みが変わってくる(併録作の『海行き』は、本作とは対照的に、単に距離が離れるだけの別離が、死別のような絶対的な断絶に近付くときを描いている)。

 「私」がいう「本気で悲しむ」とは、この不在と区別の付かないれい子さんの死を、死として受け止めてくれる人がいるだろうか、という意味だ。
 私の涙は「ひとつぶ」に過ぎない。他ならぬ私もまた、不在の域を超えた死の生々しさを実感出来ていない。それが悲しい。死が悲しいのではなくて、不在としてしかれい子さんの消滅を悲しめない、死を死として悲しめないのが悲しい。それが「ひとつぶ」の涙だ。れい子さんと私は、所詮、たかだか半年、会話を交わした仲に過ぎない。私はれい子さんの秘密を生前に知ることはなかったし、その関係もおそらくは退社で立ち消えていた程度のものだ。にもかかわらず、わたしの「ひとつぶ」は切実である。
 なぜなのか。それは、私もまた、「れい子さん」の立ち位置にいるからだ。現実の状況としては、「一年まえに、結婚することが周囲に知られて以来、もともと私とは相性が合わなかった熊谷さんだけではなく、より若い女の子を課に取り入れたいともくろむ男の上司も、仕事とは関係のないところで、何かといやみを言ってきたり、冷たい態度を取るようになり、私はすこしおかしく」(P.16)なっていた。
 告別式の夜、私はれい子さんを夢に見る。

 会社の制服姿のれい子さんが、ただ広い砂丘を歩いている夢だ。青い空と肌色の砂の対比が目にしみる。私は立ちどまってその後ろ姿が遠ざかっていくのを見ている。
 ときどき、丘と丘のあいまに見えなくなったと思ったら、より小さなシルエットとなって、また現れる。見渡すかぎり歩いているのはれい子さんだけで、だんだん、蟻みたいに小さくなって砂の上を動いていくさまを、私はひたすら目で追っている。砂丘が終わる向うには海が広がっていて、そこに彼女は引き寄せられるように歩いていく。
「れい子さーん」
 と私は何度も叫んでみたけれど、声は一面の砂に吸い取られていくばかりで、れい子さんはふり向きもせず、私の足は、まったく動かないのだ。
(p.25)

 大事なのは、私もまたれい子さんと同じ「砂丘」に立っている、ということだ。
 鳥取の「砂丘」は、東京では「十三階のトイレ」に置き換わる。葬儀から帰ると、私の席に、すでに「後任」の女の子が座っている。仕事を全て取り上げられ、「零」になった私は、れい子さんが秘密の休憩場所として教えてくれた「十三階のトイレ」へ向かう。

 便座のふたをした上に座りこみ、水をためるタンクに背中をもたせかけてうとうとするのだとも、れい子さんは教えてくれた。
(……)
 私がいま、突然死んでしまっても、会社での反応は、きっと淡々としたものだろう。ふとそんなことを思った。同時に、それは当たり前すぎるくらい、当たり前のことなんだと気づいた。
 窓の外をゆっくりと旋回するカラスの鳴き声が聞こえる。
 さびしいとも悲しいとも、私は何とも思わない。
(P.26-28)

 夢の砂丘でれい子さんが向かっていた海には、「動かない」私の足では届かない。けれど零になった私がたどり着いた現実のトイレでは、「水をためるタンク」はすぐ背中越しにある。海もまた水をためる窪地だ、ではあまりに乱暴な読みだろうか。だとしても、きっとれい子さんも、自分が零になったとき、「さびしいとも悲しいとも」思わなかったのだ。思えなかった。「当たり前すぎるくらい、当たり前のこと」だと先に理解してしまっていたからだ。

 砂糖もミルクも入れないままのコーヒーを飲みながら、れい子さんはよく、はげましてくれたものだ。そして彼女自身についてはこう語った。
 「四十を超えたら、もう、だめよ。私も二十代半ばぐらいまではねえ、やめたいやめたいって、逃げることばかり考えていたけれど、もう、いまぐらいの年になると、ひらきなおって、多少居心地わるくても、居続けていくしかないな、って思うの。そこそこ安定した会社で、まったく、好きな仕事というわけではないけど、私は頭がいいわけでも、特別な才能や、むずかしい資格をもっているわけでもないから、クビにされない限りは、しがみついていくしかない。仕事がつまらないぶん、楽しみや生きがいは、会社の外に見出して。影の薄いおばさん、でも、いなくなるよりはいるほうがいい。私はそんな存在で、定年まで会社にひそみ続けていようと思ってる。それでいいの」
(p.22)

 れい子さんの立ち位置も、その希薄過ぎる死も、私には微塵も他人事ではない。むしろ、ただ「背中」ひとつ分の距離しかない、いつ起きるとも知れない出来事だと理解したとき、その「死」は、此岸と彼岸を遠く切り離すものではなくて、切実な事件として立ち上がってくる。直接的な死の悲しみ方とも、間接的な不在の悲しみ方とも違う。自分のあり得た死を幻視するような、彼岸の感触がある。れい子さんの幽霊と見紛うような、「長い髪を後ろで束ねた痩せっぽち」と出会うとき、私もまた、「零」の彼岸に立っている。そして私が恋人と「いっしょにお風呂に」入り、「泡をたっぷり含ませたスポンジで、たがいの体をのんびりとこすりあい、シャワーをかけあ」い、「きみのおっぱいは世界一、なんて昔のスピッツのへんてこな歌」に合わせて「乳首」(p.31-32)を触れられるのと似た場面が、れい子さんにもあったに違いなかった。「勇気をふるいたたせながられい子さんのロッカーをあけてみると、まず目に飛び込んできたのは、内側に貼られた男との写真だった。携帯電話の待ち受けに映っているのと同じバンダナを巻いたひげづらが、えらく陽気な笑顔をしていて、彼に肩を抱かれたれい子さんは、まっ赤な口紅をつけており、ピースサインを出してはしゃいでいる。しっかりとファウンデーションもアイラインも塗っているれい子さんは、まるで水商売の女で、たいした変身ぶりだった」(p.45)という発見から始まり、れい子さんの部屋に「長い髪の毛とちぢれた陰毛」や「ばらの香りがするスイス製のボディローション」や「使用済みのナプキン」を発見する場面は、この混浴の描写を意識したものだろう。

 「たいした変身」の秘密は他愛ない。私が「ひげづら」の男の正体を突き止め、終盤、北海道まで飛んで知ったのは、要するにれい子さんがただローカルな歌手に遊ばれた、それだけの事実だ。歌手は結婚し、妻は妊娠している。私は口紅でれい子さんの写真に「さよなら」と書いて、店のポストに入れてやろうと考える。けれど、「キスマーク」をつけるのも、「さよなら」も、「れい子さんは、そんなことは、やらないような気が」して、「指さきがふるえ出」す。
 「水商売の女」のような写真があったとしても、実際のあけすけな姿を知っているわけではない。れい子さんは、あくまで自分の知るれい子さん、彼女ひとりである。

 
 会社の中では、れい子さんは、生きていたころから死んでいるみたいだった。でも私は忘れられない。
 その肉体は消滅し、だれの持っている思い出さえ、早くも風化しつつあるかもしれないけれど、いつか私が死ぬときまで、れい子さんはきっと、私の中に住みついて離れない。
「さよなら」
 いざ、口紅でそう書こうとすると、指さきがふるえ出した。
(p.71)

 このとき私は、不在の「ひとつぶ」の悲しさを超えて、絶対的な死の悲しみに直面している。『風化する女』は葬送の小説だ。それは、れい子さんの死を死として悲しめなかった私が、ただ悲しいまま悲しめるようになるまでの物語でもある。「彼女の死を悲しむ人は、いったいどこにいるのだろう」という冒頭の問の答えは、他ならぬ私だった。
 美しい構造だ。そして、そうした旅の手続きを踏まない限り、れい子さんの死を悲しむのはただ安直だというストイックな認識が、『風化する女』という弔いの物語を輝かせている。厳粛な表紙は本の売り上げには貢献しなかっただろうけれど、この無地に水色のラテン語だけのデザインが、作品には似つかわしい気もする。
 小説の結末は、れい子さんが夢の中で向かったのと同じ、「海」の場面で終わる。きっと、彼岸に近い風景なのだろう。

夜行はまだ出ないので、そのまま歩いて、海を見に行った。
「夜の海は漁火がきれいですよ」
 と旅館のおばさんは言っていたけれど、真っ暗な海には霧が深く立ちこめていて、首かざりのようだという漁火を見ることはできなかった。灯台から放たれるオレンジの光だけがゆっくりと闇を切りさいていく。
(……)
 霧の向うからは、ときどき、くぐもった汽笛が伝わってくる。目をこらすと、鈍色の船のシルエットが浮かびあがる。
 さむさにマフラーをかきあわせながら、私はまた、彼女もきっとこの景色をながめていたことがあるはずだと思って、れい子さんの存在を感じていた。
(p.72)