『トリオ』(2016)

(2016年の長野まゆみ『冥途あり』の読書会+合評会の際に書いた短編です。)

冥途あり

冥途あり

 

 

 物語修復人だった父は、自分の仕事をカウンセリングと勘違いされるのをひどく嫌がり、カウンセラーのことはインチキ商売と呼んでいた。どうにもならない現実に対して慰めが必要な人間が存在し、それに対し言葉で苦痛を緩和する専門職が存在することは、インチキどころか、自然な事態だろう。ただ、父はカウンセリングがとにかく嫌いで、テレビでその手の番組が始まると、不愉快そうに顔をしかめ、チャンネルを変えてしまう。
 いいか、あれは嘘の仕事だ。お前達はあんなインチキみたいな仕事はするなよ。
 姉は大学を卒業したのち葬儀屋に、ぼくは市民病院の麻酔科に務めることになった。全ての痛みを経験し終えた人間を送り出す仕事と、痛み自体をなかったことにする仕事だ。

 

 ぼくたち姉弟は、職人気質を気取り、どんぶり勘定で、むらっ気が激しい父のことを信頼していなかった。説教好きの父が何かにつけて人生訓を授けたがるのも、高校生と中学生になったぼくたちには、なかなか気分の悪い時間だった。子供の目にもパッとしない、色あせた人生を送っているこの男が、胸を鶏のように前面に押し出し、何があっても自信と誇りを持ち続けること、不平不満を述べないこと、嘘を述べないこと、常に独創的であるべきだということ等々を、どうしてそうも誇らしげに教え諭せるのか、疑問でしょうがなかった。
 ぼくは小説を書き、姉は絵を描いたが、それを仕事にする気はなかった。姉の結婚とぼくの卒業が重なったので、趣味は趣味として、三月の里帰りで、姉弟共有のクローゼットの奥へ、それぞれの十数年の生産物を詰め込んだきり封印してしまった。他人の夢が大好きで、自分の人生で賭け事をする勇気のない父親には、それがたいそう不満らしかった。
 もちろん、父とぼくらは、あまり仲が良くなかった。三人とも出不精で、ぼくたちは欝々と築五十年の木造建築で煮詰まらなくてはならなかった。空き部屋が多いのは、本来ここに住むべきもう一人がさっさと父親に見切りをつけてしまったのもあるし、見栄っ張りの父が、とにかく職人商売は部屋だ、心を落ち着けるための瞑想部屋、道具を手入れする部屋、客を招き入れる仕事部屋が絶対に必要だと言い張り、耐震性や利便性を度外視し、無意味に部屋が多く、老朽化も酷く、買い手のつきそうにない空虚な家屋を己の終の住処と見極めたせいもある。青竹のような、空の空間ばかり目立つ、変に広々として落ち着かない家が、僕と姉の青春の場であり、父の子育ての場でもあり、母の他愛ない不倫の舞台でもある。
 要約してしまえばありふれた家である。要約してしまえば、何事もそうかもしれない。

 

 父はよく家出をした。姉との喧嘩で言い負かされると、「誰が育てたと思っている!」なんて、古風な捨て台詞を吐き捨てる。そっぽを向いていた姉は知らなかっただろうが、そんなときの父の唇はむず痒そうにひん曲がっていて、本当はこんなつまらないこと言いたいわけじゃないんだよ、となんだか言い訳じみていた。そんなとき、父は履き潰した自分の靴ではなく、自分より足の大きな息子の靴を拝借していくのだった。普段から靴を出しておけばいいのに、毎回不慮の事態に直面したとでもいうように、頭を軽くぽりぽりとかいて、玄関で見守っているぼくに、へらっと軽く笑い、中学生用の真っ白い運動靴を両手に携え、裸足で玄関を出ていくのだ。
 別にぼくは困らなかった。父の持ち出しを見越して、姉は新しい靴を買わせるときも、絶対に前のサイズを残させるようにした。雨で濡れて帰ってくると、ぼくは姉からまず布巾を手渡され、新顔のほうから水滴を吸い取る。自分用のタオルケットは、それを終えてからだ。極力丁寧に靴を履くようになったのも、物持ちのよくない父が反面教師だったのかもしれない。家出のときの靴がみっともなかったら、さすがに可哀想だとも思っていた。
 都合のいい家出先などあるわけもない父は、電車で三駅離れた、別の市の中心駅から、夜の十時が最終便の市営バスに乗り継ぎ、湖そばの温泉施設へ逃げ籠っていた。帰ってきていいことがあるわけでもないので、放置だった。母に喧嘩で言い任されていたときから、ずっと同じ逃げ場所だった。駄目な人だけど、ヤケになって博打を打たないのは、ちょっとはマシかもね。まだ幼い姉に、母は沢庵を勢い良く切りながら笑っていたという。ダメナヒトなんだなあ、と三歳の姉は生物の種名を耳にしたような気分だった。ダメナヒトだから、仕方ないよと、八歳の姉は、父の突然の癇癪に危うく泣き出しそうになった五歳のぼくに、そっと静かに耳打ちした。齢四十にして、家族全員からダメナヒトと認定されていた父は、思い返せば、正直ちょっと可哀想だ。そう思われて、余計にだめになったんじゃないか。僕も姉も母も、できれば父にはダメナヒトで居て欲しいと、いささか暗い願望があったのかもしれない。どうしてそんなひどいことを願えたのか、不思議で仕方ない。

 

 家族の約束は破っても、客との約束は絶対に守った。いくら職人だ、芸術家だと家族に大口を叩いたところで、食い扶持を保証してくれるのは結局客と、長い修復人生活で理解していたわけだ。表に出ない業種だけに、とにかく口コミが生命線。ひとり幻滅させれば、十人百人の客が死ぬ、そういう仕事なんだと酔っ払った折に絶叫していたのも、決して誇張ではなかったのだろう。インターネットで自分達の職場の名前で検索したら、すぐ評判が聞こえてくるのにげんなりした、と最近も姉弟で互いに溜息をつきあった。棺のなかに、故人の愛用していた腕時計を納棺させてもらえませんでした。星ひとつです。愛犬を残してやるのは可哀想だから一緒に燃やさせてあげたかったのに、絶対に許可してもらえませんでした。星ひとつです。姉が読み上げるスマートフォン越しの言葉は、他人事に聞こえなかった。痛みを取り切れていないから星ひとつ。術後に起こされたから星ひとつ。そんなに故人が不憫なら、棺に同席して天国まで付き添ってあげればいいのに、と口走る弟を、姉は丸めた新聞で叩いた。尊敬出来る父親でなかったから、星ひとつ。妻に逃げられたから、星ひとつ。
 
 職人に心の準備が必要といって、顧客が来る一時間前には仕事部屋で待機していたが、どれだけ早く来られても対応出来る、と立派に見せたいようだった。そういう父の小心は、けっこう好きだった。仕事が仕事なだけに神経質な客も多かったが、父の変に几帳面なところには安心させられていたようだ。ぼくが朱塗りの盆で二人分の湯呑を運び入れるたび、礼儀正しいお子さんだ、お父さんの教育が行き届いているんだな、と父はよく褒められた。得意顔の父は、客の目の前でぼくに茶を運んでくるよう命じたが、礼儀を教えてくれたのは当然姉だった。高校から飲食店でアルバイトをしていた姉からは、こういうことは早いうちに学んでおいたほうがいいと、接客業のノウハウを教え込まれた。姉にはオモチャにされていたわけだが、ぼくは立派なウェイターのつもりだったし、教えの内容はしっかりしていた。
 ホテルの三十六階の、スカイレストランのウェイターは、密談に耽る客の傍まで暗殺者のように静かに忍び寄り、急所に正確無比な一撃を与えるように、湯呑を素早く置くと、一礼のみで何事もなかったように引き返すべきである。と、牛丼屋勤務だった姉に教え込まれた通りに、僕は茶を運んだ。「暗殺?」帰還した途端に姉に問われ、「暗殺!」と答えた。一流ホテルのウェイターなら、格好も立派でなきゃいけない。タイピンとカフスボタンが欲しいとねだると、姉は日暮里の繊維街で獅子の彫刻された金色のアンティークボタンを見つけて来て、接待用のぼくのポロシャツに縫い付けてくれた。全くカフスではないが、ぼくらの間では、それなりにカフスだった。ネクタイピンについては、我が家にはそもそもネクタイがなかったのだから、流石に無茶な要求だった。父にはそれすら誇るべき事柄らしく、お父さんは、他人に頭を下げて物を売らなくていいんだ、無様な正装もしなくていい、職人だからな、と僕の部屋に突然やってきては、無暗に足音を立てて仕事部屋へ戻るのだった。
 でも、ぼくは父の施術が不満で、いきなり殴りかかって来た若いチンピラに、父が平身低頭で許しを乞うていたのを、四歳のときに目撃してしまっている。ついでに四歳のぼくが身をもって知ったのは、どんな乱暴な客も、子供の覗き見には耐えられないということだ。怯えた視線に気づくと、彼らは子供時代の辛い記憶を掘り起こされたでもいうように、突如として沈鬱な表情になり、言い訳じみた言葉の出来損ないを口ごもると、千円札をスローモーションじみた動作で父の手に叩き付け、威圧的な足音で駆け去っていくのだった。しかし、二階の窓から見下ろせば、玄関から先の歩き方は、妙にとぼとぼと、しょぼくれていた。
「きっと悪い人じゃないんだろうね」銃弾を回避するみたいに、しゃがみ込んで窓を覗き込んでいる父に話しかけると、先程のしおらしい態度はどこへやら、急に血相を変えて怒鳴った。「悪い奴になりきれないから、悪いんだ」
 納得はしたが、興味は「おやつ!」という間の抜けた呼び声へすぐさま移り変わった。三時を三十分遅れたおやつは、メロンソーダときなこドーナツだった。僕のおやつなのに、何故か父も泣きそうな顔で、背中をきゅっと哀れに縮めて、台所まで降りてきた。「二つ目はない」姉は事実を告げた。「穴がある」父はぼくの皿から勝手にドーナツを取り上げて、中心の空洞を、それこそ穴が空くほど凝視し続けた。「やめて!」姉の再三の懇願にもかかわらず、父が前歯で生地を撫ぜたところへ、ぼくが短い両足へタックルした。予想外の反抗に、父は上体のバランスを失い、後ろのソファへ頭からひっくり返った。
 同時に放り投げれたドーナツはぼくの頭に乗り、姉は「ソファが壊れたらどうするの!」と、父を叱った。今のぼくはきっと天使みたいだぞ、と手に取ったドーナツからは、きな粉の粒がきらきらと落ちてきた。前歯の痕が、薄く凹んで残っていた。父は普段通りの自分の右頬を撫で、暴漢に詰め寄られたときみたいな、怯えた視線でぼくを見つめた。
「息子が、俺を、俺の息子が、俺を、いじめる」薬物中毒者のように回らぬ呂律で、父はいきなりまくし立てた。「おい、どうなってるんだ、俺の息子が、俺を、いじめるぞ、お姉ちゃんよ、お前の弟は、どうなってるんだ」僕と姉は、素知らぬ調子で、顔を見合わせた。あまりに可哀想になってきたぼくは、きなこドーナツを四分の一、時計の十五分だけあげようとした。「いらねえよ!」両手で施しを払いのけられたぼくは、十五分と残りの三十分を口にいれ、ソーダで流し込んだ。父親は更に機嫌を悪くし、半分残ったソーダのグラスを突然握りしめた。ぼくが思わず目を閉じると、父親は律儀に水色ストライプのストローで最後の一滴まで飲み干し、「出かける!」と宣言した。「出かけて」と姉が薦めた。このメロンソーダは甘過ぎる、とぼくは思っていた。父の噛みしめたストローの先端部が、舌先にちょっと塩辛かった。加齢臭みたいなもの、加齢唾液だな、今日の晩御飯はカレーがいいな、とぼんやりと考えた十五分後に、少し窮屈な靴で、姉とカレーの材料を買いに行った。

 

 父は同業者の評判を気にしていて、自分の常連客だった中年女性が、隣町の若い男の職人に鞍替えしたときには、その場に居ない職人を夕食の席で口悪しく罵り続けた。あいつの仕事は雑だ、店を小奇麗にして金稼ぎのことばかりで、肝心の腕前がついていってない。
「だめだ、こんなことばかり言ってたら客が逃げる」と、父は口を塞ぎさえすれば悪口が止まるかのように、油の滴る唐揚げで頬を膨らませた。それでも言葉の勢いが止まらないのか、「おい、このから揚げ熱いぞ!」と意味不明な文句をつけた。姉は当然無視して、小鍋から箸でつまみ上げた熱々の唐揚げを、ぼくと父のあいだの大皿に追加した。「おい、何を笑ってる」と父は皿の端から白米に唐揚げを運んでいたぼくを睨み付け、「客がいなかったらお前このから揚げ明日から食えないんだぞ!」と長台詞で怒鳴り、大皿を自分のほうへ引き寄せた。ぼくがむくれていると、彼は持ち上げた唐揚げを、わざとぼくの目線の高さまで持ち上げて、にやにや笑いながら口に放り込んだ。「俺の金だからな!」恩着せがましく言い放つと同時に、姉が手早く食器棚から緑の小皿を取り出し、十数個のから揚げを乗せた。「これが私のお金」姉が僕のところへ皿を置くと、父はさっきの息子みたいなふくれっ面で、やけっぱちにから揚げを食べまくると、「熱いぞ!」と吠えた。「揚げ物だもの」鍋底の最後の一個をつまみ上げると、姉は玉入れのように自分の口へ放った。唯一猫舌の父は、悔しそうにキッチンペーパーの油滴を睨んでいた。
 で、猫には嫌われた。動物嫌いの姉には食べ物の匂いが染みついているのか、布団叩きで何度も追い払われ、ホースで水をぶちまけられたりしても、負けずにしつこくじゃれついた。そんな夏の日は、ぼくも水のアーチに飛び込んで、びしょびしょにシャツを濡らした。布団叩きを握らされて、ぼくはシャツと干された夏用の軽い掛布団を叩き続けた。皿洗いを終えると、姉は炭酸水入りのタンブラーを携え、腰掛けた縁側からぼくを監視していた。黒猫が寄って来ると、足蹴のポーズや、手で払いのけたりして追い払った。ふいに二階の窓が開き、「猫だ」と誰かが嬉しそうに笑った途端、それまで人懐こかった猫が、急に高く首を上げ、フシュウフシュウと獰猛に鳴いた。「おいで!」書斎の出窓から手を伸ばした父の手を、猫は食いちぎらんばかりに不機嫌に睨み付け、尻尾を蠍のように逆立ててた。「やめてよ!」ぼくが叫んだのは、猫をからかっているのか、本気で二階まで飛ぶと信じているのか判別し難い父の言動を止めたかっただけではなく、万が一猫が軽やかに跳躍して、父のあの骨ばった手を噛み千切りでもしたら、とてつもなく哀しくなると予感していたからだった。姉がタンブラーを手に取ると、氷が鈴のように高く鳴った。猫は我に返ったようにきょとんとし、尻尾を垂らして姉の足元へすり寄って来た。姉は頭上に突き出た両手に狙いを定め、足元の石を放り投げた。石は不自然な軌道を描き、僕の頭に落ちた。「痛い!」非難したぼくを、猫も姉も、なんだか別世界の人間に出くわしたような、不思議そうな顔で見ていた。
「なんで懐かない!」父が首を突き出して怒鳴った。「猫もダメナヒトは解る」そう呟くと、姉は足を黒猫に突き出した。ついに観念したのか、黒猫は庭の右手から、柵の奥の林へ逃げ込んでしまった。ああーっ、と至極残念そうな父の声に我慢ならず、ぼくは布団をうるさく叩いた。姉は、蹴り伸ばしたままの自分の裸足に、じいっと眼の焦点を据えていた。手つかずの炭酸水に左手の人差し指を浸し、同じ姿勢を保ち続ける姉の姿は、なんでもない場所を凝視している猫を思い起こさせた。ぼくが布団を叩き終えると、父もガシャンと鳴らして窓を閉じた。黒猫が戻って来て、今度は出窓の下で少しは愛想を振りまいてくれるのではないかというぼくの希望は、姉の隣で何十分待ち続けても、けっして適わなかった。空中に差し出された両手の残像が、白い布団の布地に焼き付いているような気がして、ぼくは何度も自分の瞼を擦った。三十分後に、姉がタンブラー一杯の炭酸水を、台所のシンクに捨てた。

 

 父の起床は遅かったが、寝る時間も早かった。布団に入ってから、子供部屋で少しでも物音が立つと、大いに怒り狂って「誰のおかげで飯を食えてる!」と怒鳴ったが、中学、高校と姉が進学するにつれて、父の収入が家計を占める割合は減っていった。
 父は遊びを知らない人間だったが、休みの日は競馬場に行きたがった。東京競馬場の入場料だけを払い、自分もいっぱしの遊び人のようなつもりで、ハンチング帽のつばを左の親指と人差し指でつまみ、右手でパックのたこ焼きにつまようじを刺しながら、一列に並んだ立派な競走馬を凝視していた。最初の連れ合いは妻で、二人目は姉で、三人目はぼくで、四人目はいなかった。決して風体は悪くなかったし、誘いさえすれば近所の同年代の女もついてきてくれただろうが、おそらく、同年代というのが気に食わなかったのだ。父は昭和の年号を嫌い、息子は昭和七十何生まれだとか平気で口にして、相手に微苦笑を催させるのだった。「昭和が嫌いなら、西暦で答えればいいのに」ちょうど愛読書が世界史の教科書だったころに、余計なことをいったぼくを、父はガツンと一喝した。
「千年二千年単位の年号なんて、何の役に立つか!」
 たしかに、二千以上積み重なってしまった一年一年の重みなど、比較してしまえばどれほどのものか。一個人の生死と結び付けた日本の年号というのも、そこに限れば悪くない発想だ。父の平成嫌いは、だがもちろん市役所の書類には通用しなかった。若い女の職員には叱られたくない、生年月日の昭和を丸く囲むのも気に食わないといって、嫌がるぼくに無理やり代筆をさせた。通りがかりの、それこそ若い女性職員が、「ご本人ですか!」と剣呑な声で斬りかかって来た。「彼が父親です」舌先を軽く出しながら、父は悠々と答えた。


 父は客の殆ど入らなくなった晩年に、チラシ広告を作ろうかと本気で悩んでいた。自分から客を呼び込むのはみっともないし、さりとてこのままでは子供たちに金をたからなくてはならない。駆け出し麻酔科医のぼくにも、僕の学費を相当に負担してくれた姉にも、父を支援できる余裕は無かった。父の職業は国家的には無職と認定されており、無職にふさわしい年金しか用意されていなかった。そもそも父は、国に守られるという発想が心底気に食わないらしく、とにかく誰の世話にもなりたくないらしかった。勝手に死なれるのも参るので、僕と姉は、なけなしの金を、なんとかして父に渡さねばならなかった。直に渡すのは論外、口座に振り込んでも第六感で勘付かれる、帰省して密かに和室や寝室に金を落とすと、「金を落とすな!」と叱ってくる。ネコババを嫌うのは、正義感というより、他人に媚びへつらいたくなかったようだ。飯の種には程遠く、見飽きた客ばかりの枯れた商売を、それでも父は、唯一人生で身を捧げた職として誇りにしていた。廃業は、最後までしなかった。
「この年になってようやく物語が解るようになってきた」烏賊の塩辛とえび満月を交互につまみながら、父が嬉しそうにぼくに語ったときには、余命の終わりまで三か月を切っていた。いい仕事だったのだろうな、と感動したぼくは、老衰した麻酔科の医局長が、先に自分が寝込んでしまいそうなほど眠た気に瞼を擦り、麻酔の目盛りを震えの止まらぬ指でいじっているのを見守りながら、頼むから早く辞めてくれ、と願ってきたのを忘れていた。麻酔と金儲けが趣味の人間を一線から退かせるのも気の毒な話だったが、仮に失敗すれば誰がどう責任を引き受るのかと、上級医や経営陣は戦々恐々としていた。姉の職場でも、大ベテランの老葬儀屋が、棺を閉める手の揺れを止められずにいたところへ、「どちらが死人か解りませんね」と、眼鏡をかけた故人の娘が、冗談とは受け取りづらい言い方をした。老人の顔は紅く腫れ、それまで身勝手に動き続けていた指先が、急にぴたりと止まった。気まずい沈黙のなかで、静まった右手の四指を左手で包みながら、「すぐ死にますよ」と小声で呟いた。年を取れば身体が狂う。神経が狂えば指先も狂う。いつかの帰省から、正月料理の皿を受け止める父の手の、その震えを見逃せなくなった。遺伝子も狂う。遺伝子が狂えば異常細胞も増え、圧倒的多数だったはずの正常細胞を駆逐し、頭から爪先まで、大血管から毛細血管の先端部まで、ずれた細胞で覆い尽くしてしまう。「遺伝子異常は陽性です」血液内科医が家族三人に宣告する。「予後は、残念ながら、非常に悪いでしょう」「遺伝子」反唱した姉に、慌てて血液内科医が注釈した。「遺伝子といってもお子さんに遺伝するものではありません。お父様の血液細胞に、遺伝子の狂いが生じているんです。狂った細胞が、別の細胞を巻き込みながら狂いを増していく。次第に修復も追い付かなくなり、身体が最終的に破綻する。化学療法に可能なのは破綻までの時間を引き延ばすだけです。根治的な治療ではなく、病気との付き合い方を考えるのが、この病気では自然です」「病気でしょう。病気なんかと、付き合えるんですか」灰色の薄いメモ用紙に、医師は英字の連なりを綴った。流麗な筆跡の病名は、短い内科での研修生活では見覚えのないものだった。ぼくの当惑を察した血液内科医が、「私どもでも滅多に見ない病気です」と説明して、病名を正確な発音で読んだ。「病気と付き合うって、病気なんかと、付き合えるんですか」父の声は、まるで会話を継続するためだけに、天気の話題を持ち出すような調子だった。研修医時代に、何度も同席した癌の告知場面を、ぼくは必死に思い起こそうとしていた。患者の顔も、家族の顔も、病名も、何も思い出せなかった。悲しいぐらい、他人事だった。ただ、上級医達が「病気と付き合う」と口にするたび、舌先に味わっていた奇妙なざらつきだけは、明確に思い出すことが出来た。ぼくより年下の血液内科医は、少しだけ間を置いてから、「付き合えます」と、神託を述べ告げるような厳粛な声で、はっきりと、回答した。
 受付でぼくが診察費を払うと、父は「なんで告知に金が要るんだ」と不思議がった。誰も幸せにならない告知に、何故金を払わなきゃいけないのか。ぼくだって、教えて欲しかった。姉の青いアウディの後部座席に乗り込むと、助手席から次の難問が飛んできた。「遺伝子って何だ」生物の基礎知識を忘却し切っていたからでも、麻酔ばかりの毎日だったからでもなく、どう答えれば自分達にいちばん正しいのか、全く思い付けなかった。父は来週から入院し、化学療法を開始する。「付き合う、病気と、付き合う、病気と」車が一般道へ出ると、父はお気に入りの歌詞みたいに、楽し気にその言葉を繰り返した。「付き合う、病気と付き合うんだってなあ、不思議だな、付き合う、付き合う」父の舌が弾むたび、姉はアクセルを踏んだ。僕たち家族は、とてつもない速度の車に閉じ込められていた。高速道路の下に差し掛かったところで、交通整備中の警察官がホイッスルを吹いた。「馬鹿野郎!」顔面蒼白の姉が急ブレーキをかけるその前から、父はただ前方を見据えて怒鳴っていた。

 

 父は競馬場で金を賭けずに、心で賭けた。自分の見定めた馬が一等賞になると、ぼくを抱き寄せてまで喜んだ。引き裂かれた外れ馬券が歓声の影で桜のように散り、眼下の芝生までそよ風で運ばれていくのを、ぼくは父の胸元から眺めていた。垂直に昇っていた煙草の煙が、無数の声と共に僕たちの頭上で霧散していった。姉は、父がぼくを競馬に引き込むのではないか、本当は金も払っているのではないかと戦々恐々で、自分も同行すると言い出したが、父は許可するどころか、「俺が休みなら、お前は働け」とまで言い放った。手形の残る頬が、試合結果で青にもに赤にも色付いた。
「これはスポーツ新聞という」
 父は売店で取り上げた一部を、わざわざ指差して説明した。
「言ってみろ。スポーツ新聞だ」「スポーツ新聞」「そうだ。スポーツ新聞だ」
 ぼくは小学二年生で、我が家は新聞を購読していなかった。配達員がどれだけ定期購読の特典をちらつかせようが、姉は容赦なく断った。もうテレビがある、と珍しく姉と父の意見は共通していた。原色のブルーインクで強調された見出しを、漢字の読めなかったぼくは、ただただ格好いいと思った。「これひとつ包んでください」妙に慇懃な父に、おばさん店員は怪訝な顔つきだった。席に戻った僕たちは、姉の作ってくれたシュウマイ弁当を食べた。弁当箱はどちらもステンレス製の同サイズだったが、ぼくには黄色のプラスチック容器がオマケされていた。蓋を開けると、祖父母の送ってくれたサクランボが詰めてある。
 未読のスポーツ新聞をナプキンのように膝元に敷いていた父は、「それくれ」と頼んだ。「新聞」ぼくは答えた。喫煙者みたいに息を吐きながら、父は芝生の光を見ていた。癌恐怖症の父は根っからの禁煙者だったが、そのときの父は、周囲から漂う煙の香りを、ひっそりした鼻息で深々と嗅いでいた。「じゃあいい」競馬場にはスポーツ新聞、という思い込みのファッションに過ぎないのに。ぼくは四つのさくらんぼを食べ、二個の種を容器に残し、二個の種を噛み砕いた。歯が駄目になるといって、姉に注意されていた実験を、ぼくはついに達成したのだった。杏仁に似てるんじゃないかという味と食感の予想は大外れで、ただ砂粒を噛みしめるような苦みだけが口内に広がった。眉をしかめたぼくを、父はおかしそうに笑った。だが、残り四つのさくらんぼから二つ親指で握り、左の握り拳の、親指と人差し指の輪の上に置こうとすると、父は「いい!」と意固地に断った。さくらんぼを二つ残すと、ぼくは父の膝元で銀色のバットを振りかぶっている野球選手と、芝生とスタンド席のあいだの、何もない眩しい空間を凝視している父の横顔ばかりを、交互に見続けていた。レース開始のアナウンスが入ると、栗毛白毛の見事な馬たちが、一斉に横へ並んだ。「どれに賭けたの」父がどの一頭を指差したのかは、距離の遠さではっきりしなかった。ぼくも、確かな名前を聞こうとはしなかった。レースが開始してからも、父は指先で自分の馬を追い続けた。
 
 出発点と帰着点が同じ経路は、結局は似たり寄ったりなのだろうか。最終地点から振り返れば、突然死んだが、緩慢に死に続けたか程度の差が無いのか。他人はそれでよくとも、自分の父親はそうであって欲しくなかった。だが、特別な事件は何も思い出せない。妻に不貞を働かれた以上は、あらゆる事件と無縁な人間でもあった。それが、本人の意思だったのか。
 父が死んだ日、ぼくは病棟の廊下で喪主のスピーチを必死で考えていたが、父の人生は説明のしようがなかった。そもそも、つい一時間前に死亡確認された六十八歳の男が、果たして本当に自分の父親なのか、これから物語ろうとする時間は本当に父の生きた人生なのか、疑問が止まることはなかった。疑い問う意味もなかった。告別式は身内、すなわち一族で生き残り、かつ父と縁を絶っていなかった子供二人だけで執り行われた。
 土地を売り払うべきか、ぼくたちは座敷の遺影の前で議論した。僕は賛成で、姉も賛成だった。「ちょっと……」近所の僧侶が読経を一時中断し、小声で咎めてきたが、同一方向に重ね揃えたはずの声を、ぼくたちは抗議のように段々と大きくしていった。口のひん曲がった遺影がいかにもダメナヒトで、ぼくはこの情けない葬式に慰められていた。父からは、死後の写真の全処分を言いつけられていた。「俺が死んで、写真が残るのは、理不尽だ」僕は賛成し、姉は反対した。そんな面倒な作業どちらもやってる余裕ない、と痛いところを突いてきた。「もう死んでるし」確かに。死人との約束を守るなんて、ただの自己満足だ。自己満足だから美しい、というのは嘘っぱちである。家を売り払う具体的条件を決定し、ぼくらはついにその話題へ差し掛かった。
「ちょっと!」忍耐の限界に達した僧侶が、木魚を腹立たしそうに殴った。気の毒ではあるが、姉は葬儀屋だし、ぼくだって医者だ。そんな二人に真剣な葬儀を求めるほうが難しい。死ぬ、死ぬ、人は死ぬ、本当に人は死ぬ、経を読もうが子を産もうが嫁に逃げられようが、人は死ぬぞ、おい、わかってんのかアンタ、死ぬんだよ人は。
「ちょっと待ってもらえますか」舌先まで滴りかけた言葉を努めて封じ、ぼくは礼儀正しく頼んだ。まだ議論も始まっていないうちから、姉は額を手で押さえて唸っていた。
 どこから忍び込んできたのか、引き戸の前を黒猫が通りがかった。「ちょっと!」次に声を上げたのは姉だった。黒猫は唖然とするぼくらを無視して、座敷の中央を占領した。尻尾を隆々とおっ立たせ、歯を剥き出しにして唸った先は、遺影だった。「死んでるよ」ぼくの説明も聞かず、猫は父の顔面へ突進した。遺影は倒れ、僧侶は叫び、蝋燭は転げ落ちた。畳を焦がし、薄く燃え広がり続ける炎を、ぼくたちは消そうとしなかった。どうせ壊す家なら、解体に手間をかけなくても、自然に燃えてしまえばいいじゃないか。土地は残り、僕らが売る。相続税を支払い、残りは半分に分ける。それで万事解決、とぼくが計画している最中に、脱ぎ被された僧衣が鎮火の役目を果たしてしまっていた。「えーっ」不服そうなぼくに、中年の僧侶は「はあ?」と心情を素直に言い表し、姉はまた唸った。当の黒猫は、姉の隣、深緑の座布団の上で悠々と丸まっていた。参列客が増えるわけでもないのに、僧侶が勝手に配置したのだ。死んだのを忘れた父が、ふらっと出戻ってくるとすれば、きっとそこに座った。
「この猫は何ですか?」僧侶の刺々しい質問に、姉は「猫です」と答えた。
 正解!
 
 姉との喧嘩に負けた父は、時々ぼくを誘拐した。そうやって少しでも姉の気苦労を増やしたかったわけだが、ぼく自身、姉の過保護にちょっぴり耐えかねて、この誘拐旅行を楽しんでいる節があった。父も、ぼくが参り始めたころを見計らって、都合よく連れ去ってくれるのだ。ある日の行先は、公園だった。父は藤棚の影の下のベンチに横になると、「好きにしてろ」と命令した。命令通り、ぼくは好きなように砂場を転げまわり、母親たちの眉を顰めさせていた。父は日に輝く母たちを、顕微鏡でも覗くように凝視していた。
「結婚するか?」
 掌の砂を払い落とし、影下に帰ったぼくに、父は淡々と問うた。
「どうでもいい」
「いいか」
 父が本当に消えるのは、姉にやり込められたときでも、商売に失敗したときでもない。月始めの三日だけ、あらゆる連絡を断ち、失踪するのだった。姉は何も語らなかったが、父にも相手が居たのだろう。父は子供と彼女を対面させはしなかったし、その相手も、父の煮え切らぬ性格を承知していたに違いない。臆病というより、面倒だったのだろう。
 妻の不貞を発見した父は、憤りもせず、「三日で出てくれ」とだけ頼んだらしい。三日居残った母は、昼にカレーとシチューと豚汁を作り、夕方まで引越の用意をした。母と入れ替わりで姉が学校から帰ってきて、冷めた鍋を温め直すのだった。三日目の夜に、姉は鍋底に繁る青い炎へそうっと指を伸ばした。「こら」と、背後の男が注意した。姉は火を赤く落とすと、食器棚から汁物用の茶碗を取り出した。父は立ち尽くしたまま、蒼白い姉の指先を凝視していた。二歳のぼくは、転落防止用のベルトで椅子に縛られていた。最初の記憶だ。
 四日目の夜に、マザーテレサの微笑が台所に貼り付けられた。わざわざ父が図書館で現代史の資料集を探し出し、印刷した写真をセロファンで貼り付けたのだ。誰のための急ごしらえの護符なのか、父は語ろうとはしなかった。秋、離縁に気付いた祖母が、妙に塩辛い煮物や切干大根を送ってくるようになり、姉が料理を始めたころには、マザーテレサを繋ぎ止めていたテープは劣化し切っていた。顔はゆったりと回り落ち、姉は包丁を握り締めていた。写真はコンロに落下し、姉の手がコンロのつまみに添えられた。「危ない!」と叫んだぼくは、三歳だった。白黒のマザーテレサは、最期まで微笑んで燃え落ちた。
 その日から、姉は父に辛辣な言葉を吐き捨てるようになった。祖父母が送ってきた、石塊のように堅い大根や人参を無言で刻み続けた。情念が込もっているわけでもない、ただただまな板に刃の突き当たる単純な衝突音が、ぼくは無性に怖かった。姉が料理に取り掛かるたび泣き喚くと、今度は首元が涙と汗で蒸れ、たまらなくむず痒かった。姉は包丁を左に握り締めたまま、右手の二本指ぼくの顎を挙上し、「痒そう」と呟いた。ベビーパウダーを押し当てる指先は、沸騰したばかりの薬缶のように熱かった。
 中学一生の姉は英語を、年少組のぼくは日本語を勉強した。姉はクッキーアソートの包装紙の裏に、アルファベットのAと、平仮名のあを併記した。「あ」人差し指をメトロノームのように振りながら、姉はその字を読んだ。「あ」と真似たぼくに、続けて姉が「エイ」と指差して読んだ。「エイ」と真似たぼくに、姉は口をつぐんだ。アルファベットのIと、平仮名のい、が隣り合わせになる。「アイ」と彼女が読み、ぼくも「アイ」と倣った。姉は「アイ」と繰り返すばかりで、いつまでも「い」に進もうとはしなかった。
 平成の後に死にたいという父の願いは、余命からして尺足らずだった。年号にこだわりのないぼくたちが、生きながら平成の最後を通り過ぎるのは、なんだかアンフェアだった。「どうして昭和、平成なんていうの」姉の知らないことをぼくが知っているはずもなかったが、苦し紛れに電話台のメモ帳を千切り、「昭和」「平成」と縦に並べた。試みに家族三人の名を川の字で連ねたかったが、ぼくらは全員別々の寝室をあてがわれていた。「昭和、平成、昭和、平成」筋道だった答えを思いつけぬまま、ぼくは二つの名前を繰り返した。「とりあえず、平和だ。和だし、平らかだし」その場しのぎの答えだったが、姉は心から納得したように、ぽん、と右の拳で左の掌を叩いた。懐かしい動作を、ぼくも真似た。ガッテン。
 晩年の父は、健康番組を好んで視た。人生も最終局面なら、もうすこし価値のある番組に時間を費やせばよさそうなものを、父は黙然と、教会のイコンを取り囲む信徒のように、真剣極まる様で善玉悪玉コレステロールの模式図を熟視しているのだった。隣で体育座りをしたぼくに、父は「見るか」と訊ねた。「見てる」と答えた僕に、「そうじゃなくて……」とリモコンに手を伸ばしたまま、父は黙った。特売品のサーモンが、切り刻まれている。姉が三歳の僕の前で握り締めていた包丁は、いまでも台所の主役だった。四つ足で硬直した父の背に、座ろうと思えば、きっと座れた。鼻糞色の悪玉コレステロールが、プラスチックのように透明な冠動脈にへばりつき、血流を滞らせ始める。ガッテン。父は死ぬ。最終的には僕も姉も死ぬわけだが、今年中に終わるのは父だけだ。油の栓が突如として吹き飛ぶと、今度は細かな紅色の血栓が、あっという間に動脈の中身を埋め尽くしてしまう。銀縁眼鏡の老人が、胸を押さえて和室の畳に崩れ落ちる。この俳優は、父より何歳年下なのだろうか。
 父は長い溜息をつきながら、頭を落とした。「動脈硬化心筋梗塞のリスクになります」老年内科の大学教授が、厳粛な声音で語り掛けてきた。顔のてかりと、勿体ぶった両手のジェスチャーが、不愉快でしょうがなかった。「脳卒中心筋梗塞、大動脈瘤の、リスクに、なります」息を吐き終えると、父は突然「うーっ」と唸った。ぼくは、リモコンを蹴り飛ばした。買い替えてまもないプラズマテレビの、ボード下に滑り込んだ。父は腹立たし気にますます唸り、僕は欠伸を噛み殺すふりをした。ゴールイン、ガッテン。人生は長い。

 

 記憶をかき集めるほどに、その集合と父という全体は乖離を増していくようだ。都合のいい歪曲は仕方ないとしても、思い返すほどに自分の内側の父と、本当に生きた父との距離は広がり続けていく。悲しい以前に不思議で、その淵を思うと、ただただ思考が霧散する。
 ぼくは、父の仕事を知らない。物語修復人という、仕事部屋の中央に藤のリクライニングチェアを、サイドテーブルに催眠術の道具に並べて、顧客たちの物語をどう修復していたのか。幼かったぼくは、家の中で小金を稼ぐ父を、魔法使いか錬金術師かと夢見ていた。同時に、習慣の夜歩きも、本当は定期的な空き巣じゃないかと疑っていた。真っ当な実業とは、これっぽっちも思っていなかった。あながち遠い直観でもなかったろう。揚げたてのコロッケで白米を口に運びながら、ぼくは父の行き先をめぐって想像を逞しくしていた。
 姉の帰りは遅く、ぼくは昔から夜型生活だった。子供には相応しくない時間と解り切っていても、夜十一時に食べさせてもらえる竜田揚げや肉豆腐は、どうしようもなく美味しかった。翌朝に、晩の残りを温め直してもらうのもいい。姉は、ぼくを放置せざるをえない時間を埋め合わせるかのように、なるたけ出来立ての夕飯を食べさせようと努力してくれた。いつでも腹ペコのぼくには嬉しかったけど、ちょっぴり気分は重かった。作り置きでも、レンジで温め直すのでも、姉の料理は十二分に美味しいのに。どうせなら、父がご飯を作ってくれればいいのだ。「なんで亭主が飯を作る」そう頼んだぼくに、父は実に不思議そうに問い返した。母は居酒屋勤務だったから、どのみちぼくは夜型民族だったろう。家族四人の生活でも、自分はこの家の重荷なのだろう、と無根拠に確信していたに違いない。
「おいしい?」毎回の質問に、ぼくは必ず「おいしい」と答えた。だっておいしいし、食育の成果で、ぼくには好き嫌いがないのだ。父は違った。芋とか人参とか大根とか、根菜はとにかく貧乏臭い、運が落ちると勝手なことをのまたい、すぐ肉料理を要求した。「お金が足りない」姉の指摘に、父はそれこそスーパーの牛肉みたいに顔を真っ赤にして、両足で憤然と床を叩きながら、「嫌味か!」と怒鳴るのだった。「事実よ」姉が家計簿を開こうとすると、父は急にうろたえて口ごもった。姉の茶褐色の手肌は、ゴボウの皮に似ていた。
 そのわりに、ぼくには貧乏の記憶がない。ぼくは家計を食事内容によってのみ判断し、我が家のエンゲル係数は高かった。大豆食品は多かったが、結局は姉も肉好きで、冬のぼくたちは一週間に二度も同じ鍋を囲んだ。すき焼きの牛肉争奪戦では、「俺の金だ」という父の抗議は完全に無視され、かえって卵を三個も四個も贅沢に割るのを注意されていた。
 父がときどき飯抜きで出かけるのは、稼ぎの悪さを、遅い夕食として突き付けられたくなかったから、だけではなかったと思う。大好きな夜が、待ちきれなかったのだ。姉の目を盗んでぼくを誘拐し、行動範囲の狭い息子ですら歩き慣れた住宅街の道を、縦横斜め、無法図に、そして嬉しそうに歩き続けた。流れる川の暗さに目を細め、回る星の眩さに瞠目し、突然立ち止まっては、ぼくに「ほら」とか「あれ」とか、簡単な言葉でぼくには見えない何かを指差した。きっと路地の隅に枯葉が積み重なっていたとか、果実酒の空瓶が転がっていたとか、そんな他愛ない風景に違いない。違いないが、父にはきっと特別な発見物だった。
 酒も飲めず、つるめる友達もいない父は、勤め人で賑わう居酒屋の赤提灯を、少し恥ずかしそうに通り過ぎていった。終電を見送り、閉じ切った駅のシャッターの前で、背伸びをしていた父の嬉しそうな横顔を、いや、父もそんな時刻まではぼくを連れ回さなかっただろうから、想像と現実の混同に違いないのだが、ぼくは、記憶している。冬には黒の襟巻に厚着を重ね、夏には藍色の作務衣で渡り歩いた夜道の踏み心地を、舗石の黒い輝きを、父は死に際で思い出したのだ。そうで、あって欲しい。でなければ、父は牢屋のような中庭へ小窓が開いたきりの、あの昏々と暗い血液内科の個室で、どうやって夜の時間を潰したのか。
 全身状態が悪化する。寝たきりになる。退院後は車椅子が必要ですね、と血液内科医が手続きを約束する。全部無駄になる。父は院内で死ぬ。根治術なし。抗癌剤で正常細胞と癌細胞を皆殺しにしようと、放射線で病を焼き続けようと、深く埋もれた病根は芽を伸ばし、茎を生やし、食い潰す。摂理だ。受け止める他ない事実だ。時間が解決する。記憶は要約される。入院以来見かけなかった黒猫が、闘病生活の終わった丁度その日に、庭先へ姿を現わす。猫嫌いだったはずの姉が、自分の手から、夕食用のささ身を分け与えている。
「飼うつもり」ぼくが訊く、姉がいう。「まさか!」
 餌の乗った父の手を、この黒猫は容赦なく噛んだ。姉の手から大人しく肉を食むのを眺めながら、人生はうまくいかない、とぼくは四十二歳にあるまじきことを考えた。今のぼくには、それが間違いだと理解出来る。全ての人生が死をもって終わるなら、その場所こそ正しい目的地なのだ。どう生きようが、人生は全て適切に終わる。父も、正しく生き終えたのだ。
 十年後、麻酔に耐えきれず、術中に死亡した肝臓癌の患者を見送ったぼくは、自分が独り身として死ぬ未来を想像し、誰一人とも適切な関係を結ばなかったことを後悔する。二十年後、術後翌日に死亡する、工事現場の三階相当の高さから転落した若い男に麻酔をかけているぼくは、自分の後悔を忘れている。三十年後に医局長に就任した直後、若い同僚が薬物中毒で逮捕され、ぼくは田舎の病院へ飛ばされる。四十年後のぼくは、生きている間に根治可能になると勝手に思い込んでいた悪性リンパ腫で、死亡する。姉は、電車に乗り遅れたでもしたように、間の抜けた顔でぼくの最期を眺めていた。いちばん最後じゃなくて良かった、とぼくは勝手な安心感を抱く。アルファベットを読む声が、遠くから聞こえてきた。

 

 小学生のぼくは、摘んだ野花を砂場に埋めるのが好きだった。紫の小花を千切り尽くし、日光を吸って熱い砂の下に埋めた。内側で拳を握ったり解いたりしたときの、液体とも固体とも定め難い不思議な感触が、気持ちよくてしょうがなかった。ぼくがむしりとった野花が本来ならばいくつもの実を結び、その数だけの生命を産出し得たことを思うと、今現在のぼくはおかしな罪悪感に駆られ、昔のぼくは爽快だった。この手に握り締めた、青紫のオオイヌフグリの花のなかに、何百何万の命が詰め込まれている。無性に興奮したぼくは、砂の深く、出来る限り誰の手足にも掘り返されない深い場所に、花という花を埋め続けた。
「おい、息子」藤棚の影下から、父はヘンテコな呼び方をした。砂上にあぐらをかいていたぼくは、自分のまたぐらへ視線を落とした。父は薄目を開いただけで、それ以上の言葉はかけようとしなかった。次の埋葬分を採り始めた僕の背後を、犬を連れた老婦人が通り過ぎた。花を摘むのに夢中のぼくを、彼女は懐かしむように笑い、麦色の柴犬は軽蔑の眼で見てきた。急に恥ずかしさが湧いたぼくは、草の汁と手汗で濡れた掌の中心に、じっと目を据えていた。夏風が吹き、老婦人は陽向のベンチに座った。柴犬も飛び乗り、父のように仰向けで横たわった。蛇口で洗い流した手は、ほのかに塩素の匂いがした。体育座りで、目の高さがちょうど柴犬と同じになった。夏日の照る真昼に、老婦人は白のチューリップハットを被ったまま、首を垂らし、瞑想でもするみたいにじいっと眼を閉じていた。気分は番犬なのか、柴犬は公園全域を鋭い目つきで監視していたが、眼前のぼくには関心を持ってくれなかった。なんだか悔しくなったぼくは、栗色の両眼のまえで激しく手を振った。柴犬はひょいと首を高く持ち上げるだけで、父は依然として眠り続け、母親たちは他愛ない会話に花を咲かすばりだかった。途端に自分が、この公園で唯一ひとりぼっちだと気付いた。脱力して垂れた両腕を、水滴が細く静かに流れ落ちていった。今度は柴犬だけが、消沈したぼくの眼を見つめていた。舟を漕ぎ始めた老婦人の手から、リードの持ち手が落ちた。どきどきしながら、ぼくは取っ手の輪を拾い上げた。「おい」ぼくの呼び声に、柴犬は首を傾げるだけだった。誘拐は、未遂で終わった。
 二十年後、父が「お前達の孫は期待しない」と明言する。姉は結婚するが、年齢にしては早過ぎる卵巣癌が発見され、子宮を取り去られる。ぼくは何人かの女性と関係を結ぶが、結婚には踏み込めず、麻酔の仕事にのみ熱中する。月に三日だけの相手なんて、どれほど気楽で素敵だろうと勝手な妄想をしていたが、実際にはただの財布男だった。姉が家計を管理していた以上、小遣いの支給にもその都度申請が必要だった父は、財布以前だったに違いない。
 それでも、父の知人を名乗る複数の未知の老女たちが、日に何人も病室を見舞っては、姉や女同士で争うこともせず、あでやかな花束を手渡してきた。「生花は緑膿菌の温床ですよ!」病棟の婦長は断固として花の設置を許さなかったから、ぼくたちも安心出来た。優美な女たちは、姉の手をまるで聖人のように跪いて取ったり、看病の苦労を慰めたり、わざわざ慈愛たっぷりに励ましてくれたりもした。まったく、余計なお世話だった。
 父は女たちに次々辛辣な文句を投げかけていったが、彼女たちは耐え忍ぶように両目を閉じ、輸液で膨れた父の手を順々に取っていった。「やめろ!」父が絶叫すると、彼女たちはますます憐れむように、握り締めた手を自分たちの胸元へ運ぶのだった。ぼくが耐えられずに口を開きかけたところへ、「すみません」と姉が短く言い捨てた。彼女たちは微笑を崩さず、悠然と部屋を出ていった。「おい」残されたアルストロメリアの造花を、父は弱々しく指差した。花を手渡すと、父は両手で引きちぎろうと試みた。息を切らすだけだった。
 病室には果物の籠が増殖し、「果物はいいのか」と父に不思議がらせた。もっともな疑問だが、ぼくには死病の見舞いに花や果物を持ち込む神経も不思議だった。誕生日パーティーじゃないんだぞ、ここは。
 網目の色鮮やかな高級メロンを抱き締めて、姉が「これはケーキ」と決定した。「メロンケーキ」と父が問い、「メロンケーキ」と姉が答えた。「メロンケーキ……メロンケーキ……」ぐったりしつつも、期待に満ちた柔らかな声で、父はのんびりと繰り返した。薬みたいな名前だな、とぼくは思った。点滴バッグからは、ただ透明な液体だけが滴り落ちてくる。「いいね、メロンケーキ」同調こそしたが、ぼくには完成図がまったく思い浮かばなかった。

 

 東京までは、電車一本。父はぼくらを都内散策に誘ったが、姉が家を出たがらなかった。「外は見飽きた」説得は、ぼくでも難しい。「見飽きない外に行こうよ」姉は右の母趾に爪切りを当てたまま、時間でも止まったように硬直していた。「どこ?」姉の問いに、具体的な行先を知らされていなかったぼくは、まともに答えられなかった。「東京……」割れ爆ぜる音がして、爪の破片が眩く飛んだ。左足で踏むと、足底に痛くて気持ちよかった。「ティッシュ取って」命じられるがままに渡すと、姉は右手に広げたティッシュに左足を乗せ、休符と音符を交互に繰り返すように、正確なリズムで爪切りを続けた。それに合わせて、ぼくは背伸びを繰り返した。両足を切り終えると、四つ折りのティッシュが手渡される。掌には組織の確かな堅さが伝わり、ゴミ箱に放るのが名残惜しくてしょうがなかった。「忘れてる」姉が指差したのは、床上でバナナ型に潰れた最初の一枚だった。片足立ちで見た左の足底に、桃色の曲線が残っている。なんだか嬉しい気持ちで、ぼくは爪を捨てる振りをして、パジャマのズボンにしまった。両手を上げた格好で姉に寝間着を脱がされて、余所行き用のポロシャツを着させられたときも、親指と人差し指で挟み隠した。「楽しみ?」ぼくの上機嫌を勘違いしたのか、姉はちょっぴり羨ましそうだった。「行かない?」「家のことがある」ボタンを閉めてもらいながら、ぼくは家のことを心の中で挙げていった。トイレ掃除、風呂掃除、台所の油汚れ、黒猫を追い払う、掃除機、洗濯機、庭に干す、畳む、箪笥に仕舞い込む、夕食の買い出しと用意、家計簿の記録、それから、ぼくの着替え。「わー」こんなにたくさんの仕事が思い付くことに感動し、思わず両腕を振り上げると、「じっとしてて」と姉が掴み下ろして、最後に両袖のボタンを閉めてくれた。余所行きの格好をしたぼくは、姉を貫くドリルのつもりで、姉の胸元へ頭をぐりぐり押し付けていた。
 エプロンの隙間からする塩素系漂白剤の臭いで、ぼくの回転採掘運動は途中停止になった。姉はぼくを押し退け、パステルカラーに刺繍された、純白のタオルを何枚も何枚も畳み続けた。ぼくは滑らかに動き続ける手つきを眺めながら、積もり続けるこの家のことが、いつかは家自体の大きさをも超え、ぼくら全員を呑みこむ巨大な怪物になってしまうんじゃないかと変な妄想に耽り、指の間の爪を、何度も何度も御守りみたいに握り続けていた。用意の遅い父は、いつまでもぼくを呼んでくれなかった。

 

 父のメロンケーキに関して、姉は手作りに、ぼくは店屋物にこだわった。高級メロンを素人の菓子作りで台無しにするよりは、池袋なり銀座の百貨店で小洒落たメロンケーキを買ったほうがいい。メロンタルトとか、メロンプリンとか、メロンパイでもいい。だいたい、手作りなんて湿っぽいだろう。助手席からの説得を、運転席は完全に無視した。
 わずかな化粧品や手帳と一緒に、病室の巨大マスクメロンまで詰め込まれた藍色のトートバックは、今にも姉の膝下ではちきれてしまいそうだった。メロンの種子が発芽し、茎が分枝し、花を結び、鳴った小粒の実がたちのわるい腫瘍のように果糖を溜め込みながら隆々と膨れ上がり、北海道から都内までトラックで運ばれ、百貨店の青果売場で竹の籠に林檎や葡萄と一緒くたに収納され、上品な女たちの手に渡り、そうしてあの狭苦しい病室から連れ出されているわけだ。ぼくは溜息をつき、週刊誌の目次をめくった。同じ国のどこかでバンドボーカルと女性タレントが不倫しているのに、なんでぼくは他人の贈り物にケチをつけようとしているんだろう。だいたい、姉の得意料理は牛肉の時雨煮とか肉豆腐とか、押しなべて茶色い。表紙が風呂場のタイルみたいにツルツルで、角の異常に鋭い婦人雑誌には、まったくもって無縁の人生だ。北欧のプレートなんて、我が家には一枚もない。
 丸めた週刊誌で自分の太腿を叩いていると、車は見覚えのないY字路を左に進んだ。誕生日パーティーに、初挑戦のケーキを用意するみたいなものだ。意見を通せない自分が情けなかったが、一度もお菓子作りの余裕などなかった姉の人生について、つい考えずにはいられなかった。「どこ?」「近道」一方通行の細い道路を、姉は延々と曲がり続けた。本当は、故意の遠回りなんじゃないか。ぼくは雛菊スカートの襞を観察したり、窓を開閉したり、週刊誌で自分の肩を叩いたりした。「いいね。手作り」姉が微笑む。「いいでしょう」皺の淡く浮かんだ横顔は、記憶のマザーテレサに似ていた。大通りのローソンで、席の交代。
 停車中の車内で、ぼくはローソンの赤玉メロンプリンを、姉はクックパッドを検索していた。三百円しないし、これだってメロンだろ。「どう」アクセルを踏んだぼくに、姉が五年前のスマートフォンを見せてきた。「どうかな」メロンヨーグルトムースケーキ。走り出す。「どう」深緑の断面が美しいメロンパウンドケーキは、レシピ中程で緑色色素を投入していた。色素なんて、そんなにお手軽に手に入るものなのか。「どうかなあ」「どう」メロンでメロンパン風パウンドケーキ。「メロンパンはメロンじゃない!」パウンドケーキ好きのぼくだって、メロンでメロンパンをこしらえられたら怒るぞ。赤信号。「どう」墓石型のスポンジケーキに大量の生クリームを盛り付け、切り刻んだメロンをあられのように振りかけた、単純明快なメロンのショートケーキ。メロンケーキは、やっぱりメロンが主役じゃなきゃ。「それだ!」「なるほど」「なにが」ぼくの疑問には答えることなく、姉はレシピの解説文を音読していった。母の誕生日のために作りました、ティータイムにも是非。メロンが苦手な旦那様のために、頂き物の高級メロンをすり潰してパウンドケーキに、大好評でした。苺のない六月が誕生日の息子のために、苺の次に好きなメロンをたっぷり使ってあげました、最後にチェリーや蜜柑を飾れば完成。姉の舌が「ために」を拾い上げるたび、ぼくは眉を吊り上げた。五キロ走ったところで、額の筋肉が痙攣を始めた。

 

 父のメロンケーキ会には、自宅外泊が必要だった。申請書を手渡された父は「なんで帰るのが外泊なんだ」とふて腐れ、案の定ぼくが代筆することになった。骨髄抑制がかかり、免疫機能の低下した父を、何日も連れ回すことは出来ない。誕生日でもない翌日の昼に、ぼくが父を連れ帰った。姉は前日の夜遅くまで大はしゃぎで製菓器具を買い集め、今朝も早くから大量の卵を割っていた。上機嫌な姉に、とても運転なんて任せられなかった。
 点滴の針を外し、明日の薬を受け取って、ぼくらはエレベーターに乗り込んだ。「葬式みたいだな」一階のボタンを押したぼくに、父はにやりと笑った。「葬式だよ」
「なんで葬式は本人を呼ばないんだ」枯れ枝のように痩せ細った腕を、父は堂々と組んだ。「主役不在だろうが」ぼくは、二階と三階のボタンの間に、指を二本置いていた。エレベーターは三階で停止し、聴診器を首にかけた童顔の医者が、憮然とした顔で入ってきた。ぼくは、研修医を終えてから一度も聴診器を使っていない。医者の後で、ぼくたちは一階に降り立った。「かもね」息子の無意識の言葉に、父は首を傾げた。「何がだ」「うーん」なんだっけ。父は認知機能のテストで満点を叩き出したが、ぼくは正直怪しい。           
 姉のアウディは蒸し暑く、父は「冷房」と命じた。ぼくは従い、車は出発した。近道は要らない。家なんて、既知の道だけで帰れるはずなのだ。ぼくは呆けたように外環を走り続け、赤信号で急停止した。「おーい」遅い呼び声のあとで、列車のように長い鋼鉄のトラックが、延々とぼくの視界を塞いだ。「おい!」と叫んだぼくに、父は平たい声で語りかけた。「人生は長い」車が何台通り過ぎても、信号は青になってくれななかった。ぼくの掌が、ハンドルの中央に伸びる。「人生は長いぞ」父は繰り返し、信号は青になった。足は素早くアクセルを踏み、手は引っ込むのが遅れた。九官鳥みたいなクラクションに、父が口笛を吹いた。前方を見続ける他ないドライバーには、赤面の隠しようがなかった。父は側方を、淡緑色の茶畑を見ていた。「長いといえば、長くなった」なるほど。自分に言い聞かせる呪文みたいなものか。「だったら、良かった」「うん」
 ぼくは、父との会話に飽きつつあった。三十年も親子の関係で過ごしてきて、飽きないほうが不思議だ。水分を失った臍の緒のように、温度の抜け落ちた関係だった。「人生は長い」ぼくがそう口に出したのは、単純な感想としてだった。「だろう」道路は長い直線で、併走してそびえる高速道路が日を遮って薄暗かった。十年後の自分からすれば、今現在の自分は、過去のなかに息づいているわけか。高速道路は右に蛇行し、ぼくは速度を落とした。唐突な白色光に、目を焼かれたのだった。ぼく以外、同じ方向を走る車はなかった。再びアクセルを踏んだときには、父は居眠りを始めていた。あんな狭い病室で、毎日が負け戦だ。それこそが、病気との付き合い方らしい。
 人生の全体に比すればあまりに短い期間のうちに、一気に死への道筋を駆け登らされているわけだ。人生は、適切に重荷を配分しようとはしてくれないみたいだ。ぼくはアクセルを加減して、常に時速四十キロを保つよう試みた。速度計は三十八キロとか、四十二キロとか、標準偏差の範囲内を彷徨い続けた。半世紀生きて、死なない生物のほうが変だろう。膝からずれ落ちた、腐った葡萄のような茶色の手の細胞ひとつひとつに、五十年の遺伝子異常が蓄積されている。ぼくは速度を五十キロに上げ、窓を開けた。果てしなく加速を続けていけば、自分の魂も記憶も車内から放り出されていくのではないかと考えつつも、結局ぼくは法定速度を越えられなかった。時速四十キロの風を、四十年後のぼくが思い返す。

 

 静まり返るぼくたちの家に、父は観光客みたいに目を輝かせていた。空き部屋ばかりの荒れ果てた木造建築は、表面の木材も剥がれ落ち、誰かの一蹴りでペシャンコに押し潰れてしまいそうだった。百年後にでもタイムスリップしたみたいな気分で、自分が学生時代に居着いていた家とは信じられなかった。サザエさんのエンディングの、線描の家が家族の突進でぐにゃぐにゃに折れ曲がる場面を思い返していると、庭の影から黒猫が忍び歩いてきた。顔見知りのはずのぼくたちに、黒猫の一瞥はよそよそしかった。父の差し伸べた手から、黒猫は困惑気味に後ずさりし、ついには身を翻して逃げてしまった。父は無念そうに唸り、ぼくは噛まれなかったことに安心した。どんな感染症のキャリアか、わかったものではない。
 合鍵を回すやいなや、甘い芳香が鼻を打った。互いに顔を見合わせ、おそるおそる居間へ入る。ぼくたちは、姉の満面の笑みに出迎えられた。「見て」普段は焼きそば用の青い大皿に、石窯で焼いたピザ一枚分ぐらいの、巨大なスポンジケーキが積まれていた。「びっくり!」言葉を失ったぼくの感情を、姉は正確に言い当てた。びっくりだし、どうするんだよ、これ。
 古墳型のスポンジケーキは、全面を大量の生クリームで塗り固められていた。乳白色の分厚い表面層に、球体にくり抜いたオレンジ色の果肉が、これでもかとばかり贅沢に散らしてある。ぼくは、精巣捻転の手術を思い出していた。台所は橙色の果汁で汚れに汚れ、銀色のボールには薄力粉と卵黄がべっとり残存し、ねばついたメロンの種子と卵の殻がシンクの底で混ざり合っていた。ぼくは腕を組んで目を閉じ、父は新種の生物でも観察するみたいに、うきうきとこの惨状を眺めていた。「食べよう」ぼくが両手を叩くと、姉は食器を準備しながら、スポンジを膨らませる難しさについて楽し気に語り始めた。
 父は机の外周をぐるぐる回り、三百六十度で巨大ショートケーキを観察すると、「メロンケーキだな」と心底嬉しそうにいった。球体の配置だけは、見事な放射線状だった。ぼくと父が着席すると、姉は円を四つに等分した。「八!」ぼくの叫びは無視され、父は姉の手捌きを嬉しそうに目で追い続けていた。ぼくは頬杖をつき、四分の一メロンケーキを観察した。 スポンジ生地の断面は隙間だらけで、クリーム層との間にも大量のメロンが挟んであった。これはもう、完全なメロンケーキだった。父は呑気な歓声を上げながら、皿を延々と時計方向に回していた。食欲の減退している父は戦力外として、はたして姉に協力するつもりはあるのか。「召し上がれ」姉は自分の取り皿も出さずに、残りのケーキから球体を一個だけ口に放り込んだ。岬の突端部を縦に切ろうとしたが、生地がぐにゃぐにゃに折れ曲がり、綺麗な垂直には断ち切れなかった。悲惨に崩れた一塊を金メッキのフォークに乗せ、父と同時に口へ運んだ。「おいしい?」姉はご機嫌に笑いながら、包丁を縦に握り締めていた。ぼくが言葉に迷っていると、父がむっと眉を顰めた。
「……そのままのほうがうまかったな」
 包丁の切先が、びくりと震えた。
「お前は?」
 不敵な笑みと共に、父はフォークの矛先を向けてきた。薄弱な笑みを浮かべ、フォークを右手で回し始めたぼくを、父はアッハッハと快活に笑い飛ばした。つられてぼくも、そして姉までもが、大声で笑った。調子外れの三重奏みたいに、ぼくらはばらばらに笑った。【了】

花を断つ言葉 ――幸田文『季節のかたみ』

 

季節のかたみ (講談社文庫)

季節のかたみ (講談社文庫)

 

 

 幸田文の『季節のかたみ』に、「壁つち」という随筆がある。書き出しが、まずうまい。
 
 死なせるとか、ころすとか、まことに穏やかならぬことを、これはまた至極おだやかな調子でいっているので、なんのことなのかときき耳をたてたら、壁土づくりの話しをしているのだった。
(「壁つち」)
 
 野呂邦暢なんかもそうで、だいたい抒情的とか評価される書き手こそ案外一流のアルチザンだったりするのだが、なんのことか、誰の話かと「きき耳をたて」ざるを得ない書き出しをしている。どこそこに入っていく、というのは物語の書き出しの一定型であって、それは読み手がまさに小説のなかに入っていくのと登場人物の歩みを重ねられるからなのだが、幸田のこの書き出しもその類だろう。
 で、壁土つくりとはなにか。
 「死なすの殺すのとは、腐らせることなのである。念入りな建物には、壁もまた念入りになるが、そういう時、壁の材料である土は、二年も三年もかけて、いちど十分に腐らせてから使う。その腐らせることを、話していたのである。」どうも「壁つち」の「職人さんたち」の話らしい。

 
 しかし、それにしても、土をころすとは、どういうことなのかとおもった。ものを爛熟させることは、寝かす、寝かせるなどという、やさしい言葉も使うのだから、それを殺すと荒々しくいうのには、それ相応のなにかがあるのだろうと察した。するとその私の気持ちを見抜いたように、なにしろ土は生きているのだから、殺さなければ思うようには使えない。それに土は性根の強いものだから、死なすには相当ほねを折らなければならないのだ、という。
(同上)

 

 「壁つち」のための土は、水をくわえて、何度も何度も職人の足で踏みつけられてこねられる。「子供のどろんこ遊びとおなじで、なんと汚らしく、そして滑稽である」と幸田が思わず笑うと、すかさず職人に切り返される。

 
 遊びなどとはとんでもない、難行だという。鼻のもげそうな悪臭で、口もなにもききたくないほどな、我慢のいる仕事だと、いまただ話すのにさえ顔をしかめる。嗅いだことのない人には、話しても到底わからないが、あの嫌な臭いのなかで、くちゃくちゃ踏んで捏ねるのは、とてもとても、けぶにもおかしいなんてものじゃない――ときびしくいったものの、ちょっと戸惑って考えているふうで、「へんだな、こうして実地の仕事でなく、話だけのことでしゃべってみると、あの作業は、やはりなんだか可笑しいな。話だと、臭いということ自体が、もうおかしさをくすぐるし、しかもそれを足で捏ねる、とくればいかにも滑稽だ」ととうとう自分が笑いだす始末になった。
(同上) 
 
 「が、当人にそう笑われると、今度はこちらが笑え」ない。悪臭、土を踏む触感を想像する。実作業には滑稽味など「毛ほどありはしない」のに、「ただ話できけば、なにかおかしくなるのは、どういうわけだろう。それが実地と話とのちがい、というものだろうか」と、不思議がりつつも、「それはさておき」と話が移る。

 
 では、土が生きている、とはどういうことなのか。土が、本来持っている自分の性質を持ち続けているかぎりは、生きている土なのだという。それなら、土本来の性質とはなにか、といえばそれは、固まる、ということなのだ。(……)念入りな壁をつくろうとする際の壁土としては、土本来の性質のままに固まられたのでは、いい壁にはならない。(……)だからどうしても、性来の固まる性質を一度くさらせ、殺して、いわば癖抜きをするのである。
 (……)そのものの形態の、そのもの本来の性質も、ともに消し去ってしまうのが死というものだが、この場合は、本来の固まるという性質だけを消して、土そのものの形は残る。しかし、本来の性質をもっている土を、生きている土と考えるのだから、その性質を消そうとする時、それはまさに、死なす、というほかないのである。こちらの意志や力を敢えて加えて、死なせるのである。
(同上)

 

 このあと話題は人間の「持って生れた性質」というものに流れていくわけだが、そもそもこの問答は、「実地と話とのちがい、というものだろうか」から始まっている。幸田はその自問の答えをはっきり書いているわけではないが、「実地」が「くさらせ、殺して、いわば癖抜き」された形として、「話」として固まるからこそ、「なにかおかしく」なる。本人にとって陰鬱で真剣な作業ですら、時間を置いて「くさらせ」た末に、誰にでも通じる言葉へと「癖抜き」してしまえば、そこに「滑稽」が生まれる。ここで幸田が「土」の生死を書きながら同時に暴き立てているのは、まさに幸田が「随筆」として書き語ることの、どうしようもない作為、一般化に滲む「滑稽」ともいえる。
 幸田の文章に滲む詩性、幸田の詩学は、おそらくこの「癖抜き」に自覚的であるからこそ成立する。好きな作家のわりに今更気付いたのだが、幸田の文体には強烈な癖がある。後から癖をつけるのではなくて、最初から物事に染み付いた癖を、極力殺さないようにする用心である。たとえば同じ『季節のかたみ』に収録された、「季節の楽しみ」のこんなくだりなど。
 
 洗濯物の乾き具合で、春の到来をたしかめるという奥さんがありました。どんなに転機のいい日でも、冬のうちは乾き方がとろんとしている。春がきざせば、それが力のある乾きになる。ことに純綿物は、糊をしたかのような張りをみせて乾く。
 だから、その日そういう手ざわりで乾けば、暦よりも実地で、自分は自分なりの、確かな春の手ごたえをうけとっているのだといいます。
(「季節のたのしみ」)
 
 幸田文の随筆には、しばしばこうした聞き書きの場面が出てくる。実際にこの発言がどこまで本当にあったのかはちょっと疑わしいが(なんせ近所の主婦から旅行先のタクシー運転手、職人までみんながみんな感性が鋭過ぎるので)ともかく「乾き方がとろんとしている」というくだりが、否応にも目を引く。こんな形容をさらりと出来るのは幸田文ぐらいなものとも思うが、こういう異様な感性の発露を読み手に難なく読ませてしまう仕掛けが、ひとつには聞き書きという形式であり(自分が感じたことを自分の言葉で書く、という体裁と、人の感想を聞き書きする、というのでは真偽はともかく書くほうも読むほうも距離感が変わってくる)ひとつにはその形容の短さだろう。こういう特異な表現が延々と続いてしまえば、とても読めた代物ではない。もちろんそれは幸田も分かっていて、いちばん癖のある、粘つくような表現をさっと一度だけ挿入して、その場面はさっさと終えてしまう。
 
 私は花を片付けるのが好きで、終りの気配を察しると、しおれを見ないうちに始末する。むらがって咲く小菊などは、先に咲いた花から、順につまみ取ってやる。そのほうがかえって、一花一花を惜しむことであり、庇ってやることだと思うのだが、人によっては、枯れるまで置いておくのが、いとおしみ深いという。……私にあうとフリージアなど、元のほうからどんどん花を摘みとられて、しまいにはあの特徴のある花柄の、くねりの突先に小さい花が一つになるから、人がみな、変な恰好だといって笑う。たしかにおかしな形だとはおもうが、清潔で、いい匂いを放つ、あのやさしい白い花がしなびて、うなだれていくのは、私は見るにしのびない。
(「ことしの別れ」)

 

 こんな具合に、潔く花を切る幸田の手つきと、一瞬だけ強烈な形容詞を置き残して場面を終わらせていく筆の運びとは、似た動作のように思える。たとえば布団が「とろん」と乾くとき、冬の日の布団に染み付いた、いちばん深い部分の「癖」を抜き出して、後の部分はさっさと切り落としてしまう。文章の書き方でいえばごくシンプルで自然なものだが、そこには確かに、生のものを「殺す」手の動きがある。話は最初に戻るが、「壁つち」はこんな文章で締めくくられている。随筆にこんな表現は適切かわからないが、掌編にしては比較的長く膨らませてからの、話を断つ一文だ。
 

 ついでながら、ここで話されていた壁土は、富豪の豪華な住宅に使われるものではなく、富まぬ寺の、祈念のために造られる建築物に使用されるものである。この夏、土は捏ねはじめられるという。
(「壁つち」)

 

 生といっていい現実を捏ね、癖を抜き出し、速やかに固めてしまう幸田の言葉が向かう先は、大体の場合は「時代から消えていくもの」への「淋しい」哀悼である。現実について書くとき、人は当然、常に生の現実に遅れて書くしかないのであって、終わったことを言葉に書き直し、文章記録として固める動作には、この「淋しい」感情が付きまとう。現実から何がしかを削ぎ落とすしかない、ぐだぐだと待っていては腐り落ちてしまう。切り落とす言葉には、そんな切迫感があると思う。

焦燥と承認

 人は書きたいから書く。そんな純粋な行為に、書くこと自体とはまったく無関係な苦悶が伴うことがある。得られぬ評価、承認を望むが故の苦しみ、焦燥である。
 書くことの承認と焦燥を主題にした短編に、菊池寛のデビュー作『ある無名作家の日記』がある。
 登場する文科の学生・佐竹は、「黙々と」千五百枚を超える「長編の創作に従事」したと語り、語り手「俺」に「何かの偉さを持っているに違いない」と確信させる。一方で、今度完成させた百五十枚の短編は、先輩の小説家に送ればきっと文芸誌に推薦してくれるに違いないと語り、「俺」に「その「呑気さ」を「淋し」く思わせる。「あの人(※佐竹の先輩の小説家)は、投書家からいろいろな原稿を、読まされるのに飽ききっているはずだ。こんな当てにならないことを当てにして、すぐにも華々しい初舞台ができるように思っている佐竹君の世間見ずが、俺は少し気の毒になった。実際、本当のことをいえば、文壇でもずぼらとして有名な林田氏が、百五十枚の長編を読んでみることさえ、考えてみれば怪しいものだ」。
 これは佐竹に対する憐憫と同時に、他ならぬ「俺」への批判でもある。
 そも東京の高等学校にいた「俺」が京都の文科に移ったのは、同じ文芸部に所属していた面々の「秀れた天分から絶えず受けている不快な圧迫」に「堪られなくなったためだと、いえばいわれないこともない」*1ためであり、そこには「もうよほど、文壇の中心から離れている」「それでも文壇の一部とはある種の関係がある」中田博士の知遇を得れば、文壇への紹介も非現実ではないという算段があった。「俺」の「呑気さ」を裏付けるように、中田博士に提出した七十枚の自作は、いつまでも未読のまま放置される。
 
 そもそも、「俺」が文芸部員たちから「不快な圧迫」を感じずにはいられないのはなぜか。
 たとえば作家の佐伯一麦は、自分の著作が世に出ないことに悩んでいたとき、先輩作家の三浦哲郎に「なあに、あわてなさんな。お先にどうぞ、と腹をくくることだよ。これは僕が苦しかったときに、井伏先生がおっしゃった、いわば師匠直伝の言葉なんだ」と助言されたという(『麦主義者の小説論』)が、これが良識だろう。「圧迫」など、馬鹿馬鹿しいといえばそれまでだ。
 この「不快な圧迫」をうまく説明した文章に、最近たまたま出会って、なるほどなあ、と唸った。


 承認欲求が先にある研究では、成果が出てこそ人に認められるので、どうしても成果を急ぐことになります。また他の人が評価されれば、相対的に自分の評価が下がったように感じて、競争心が芽生えます。競争心は、自分を鼓舞して頑張る原動力にもなりえます。しかし、競争に常に勝ち続けるのは非常に難しいことです。また承認欲求を第一の目的にして競争心に煽られながら研究を続ければ、自分をどんどん消耗し、どこかで破綻をきたす可能性が高くなります。 
 承認欲求を持つこと自体は、社会的な動物である人間にとってある程度必然的なことです。小さな子どもは親から認められ面倒をみてもらうことではじめて生きていけるので、親から嫌われることはしないようになります。このような子どもの承認欲求をさらに強固にするのが、賞罰教育です。勉強ができれば褒めれば、それをモチベーションにますます頑張る。できなければ怒られるか、少なくとも褒められはしません。受験などは承認欲求と競争を凝集したようなシステムです。
 私たちは子どもの頃からこうした環境で育っていますから、承認欲求を断ち切るのは非常に難しいのです。特に研究者を志すような人たちは早くからエリートと呼ばれる機会が多く、人から承認されていないことに慣れていないのです。
(佐藤雅昭『なぜあなたの研究は進まないのか』)

なぜあなたの研究は進まないのか?

なぜあなたの研究は進まないのか?

 

 

 菊池寛の時代でいえば、東京の「高等学校」とは「エリート」の進学先だ(おそらくは旧制一高)。『ある無名作家の日記』で、「俺」の「創作家になることを志した理由」が「中学時代に作文が得意であったという、愚にもつかない原因」なのは、案外設定として巧みである*2

 そもそもこの高等学校の文芸部は、「俺」には競争の舞台でしかなかった。「俺」は、「東京にいて、山野や、桑田などと競争的になるのが不快で堪らなく」なったが故に京都に逃れたのだ。そしてその「不快な圧迫」から逃れたようで、実際には「彼らとまったく違った境遇におれば、彼らに取り残された場合にも言い訳はいくらでもある」などと、なお執拗に意識せずにはいられない。物理的な距離とは裏腹に、対象を余計に意識し嫉妬を膨らせるのがこの小説の勘所だが、実に変な話でもある。
 この「承認欲求」は、いつ、どうして発生してしまうのだろうか。
 
 これから研究を始める、あるいは今研究をしているあなたにはぜひ一度立ち止まって、なぜ研究をしているのか、研究を何を求めているのかを考えてほしいのです。他人からどう思われるかではなく、しっかりとした自分自身の価値観、自分は人にどう思われようと何々だから研究するのだ、と言い切れる確固たる自我を確立してください。研究の本物の醍醐味、面白さは、そのような地に足の着いた研究姿勢から生まれてくるはずです。
 「承認欲求」をできるだけ否定し、自分自身の確固たる目的意識に沿って研究する……そんなことはできるのだろうか?  至極ごもっともな指摘です。たしかに研究では、成果を人に知ってもらわないと自己満足に終わってしまいますし、論文として世に出すためには通常はまずReviewerを納得させなければなりません。
 重要なのは、評価の対象が「あなた」ではなく「論文」あるいは「研究結果」だと意識的に区別することです。ケチをつけられても、それは「あなた」への非難ではなく、研究結果そのものに問題があるのではないかと意見されている、ということです。総じて、論文がReviewerに認められることは、「私自身」の研究目的を果たすために必要であると同時に、研究そのものをより良くするために重要であり、子どもが親から認められたいと思うような原始的な承認欲求とは次元の違う話です。
(佐藤雅昭『なぜあなたの研究は進まないのか』)

 

 研究についてのこの本が、本来それとは無関係な小説を書くうえでの方法論として読めてしまったのは、両者に共通の流れがあるからだ。いずれも、Reviewer(査読者・編集者)に読まれたうえで、acceptまで何度も修正を繰り返したり、時には書いたもの全てをreject(掲載拒否)される。
 論文のrejectが研究者の非承認ではないように、小説のrejectも書き手の非承認ではない。が、この二つを切り分けることは存外難しい*3。最初の地点に戻れば、そもそも、人は認められるためだけに書くのではない。競争と承認という原理に今現在突き動かされていたとしても、最初の動機はまずもって喜びなのではないか。
 精神科医神谷美恵子は、有名な『生きがいについて』で「真のよろこびをもたらすものは目的、効用、必要、理由などと関係のない"それ自らのための活動"」とし、「生きるよろこび」の原形を子どもの「あそび」に見出しつつも、「よろこび」についてこう触れている。
 
 ベルグソンはよろこびには未来にむかうものがふくまれているとみた。たしかによろこびは明るい光のように暗い未知の行手をも照らし、希望と信頼にみちた心で未来へむかわせる。何か不幸な事情でもないかぎり、みどり児に見いる母親の眼ほど未来と生命へのそぼくな信頼にあふれているものはない。(神谷美恵子『生きがいについて』)

生きがいについて (神谷美恵子コレクション)

生きがいについて (神谷美恵子コレクション)

 

 

 この「未来」に開かれる感触が失われ閉塞したとき、人は過去に立ち返る他なくなるのだろう。もっとも、その過去の積み重ねが現在なので、本当は懐かむ道理などないのだが、それでも暗い現在からは輝かしく見えてくる。その残像は後悔を掻き立て、傷を刻む。たとえば、「俺」の心に。

 

 俺は、彼らに対抗するために、戯曲「夜の脅威」を書いている。が、俺の頭は高等学校時代のでたらめな生活のために、まったく消耗しきっている。この戯曲の主題には、少し自信がある。が、俺のペンから出てくる台詞は月並みの文句ばかりだ。中学時代に、自分ながら誇っていた想像の富贍なことなどは、もう俺の頭の中には、跡形もなくなっている。
菊池寛『無名作家の日記』)

 

 「中学時代」の作が、「月並みな文句ばかり」でないわけがない。「俺」がここで理想化し懐かしんでいるのは想像力ではなく、むしろ自分はこれから未来に歩いていけるという、開かれの感触なのではないか。裏返せば、この開かれていく、これから変じていくという希望、「前途に目標をすえ、それにむかって歩いて行こうとする」(神谷美恵子)力が失われたとき、人は承認で現在の自分を保つ他ないのではないか。承認欲求が原始的な、低次の欲求だとしたら、その根本部分が露出するほどに欲求する心が痩せている。*4
 
 生きるのに努力を要する時間、生きるのが苦しい時間のほうがかえって生存充実感を強めることが少なくない。ただしその際、時間は未来に向かって開かれていなくてはならない。いいかえれば、ひとは自分が何かにむかって前進していると感じられるときにのみ、その努力や苦しみをも目標への道程として、生命の発展の感じとしてうけとめるのである。
神谷美恵子『生きがいについて』)

 

 「俺」の「中学時代」は、「何かにむかって前進している」と無条件に保証してくれた。あるいは「高等学校にいた頃」もそうだ。「なあに! 僕たちの連中だって、今に認められるさ」「そうとも、文芸部で委員をしていた者は、皆文壇的に有名になっているんだ」という文芸部での会話には、傲慢ではあっても、たしかに「前進」の希望がある。彼らから伝染したその気分を、「自信があったというよりも、自分の真実の天分なり境遇なりを、自分でごまかしていくことができたのだ」という俺の読みは、単に現在から過去の意味を汚しているだけではないのか。 
  こういう開かれの希望は、「中学時代」の後、すなわち無条件な保証を失ってからは、意図的に持つ必要があるのだろう。では希望は、どのような手続きで作り出せるのか。
 「将来の或る時を待ち望んでただ現在の苦しい生を耐え忍んでいなくてはならないひともある。この場合にも現在の毎日が未来へと通じているという、その希望の態勢に意味感が生じる」(『生きがいについて』)。神谷美恵子のこの記述とまるっきり逆なのが、佐竹だろう。
 
 いつか、あの男の部屋を訪問した時、実際あの男は、もう三百枚もあるという草稿を俺に見せた。その上、少年時代からずうっと書き溜めた高さ三尺に近い原稿を、俺の前に積み上げた。
「百枚ぐらいのものなら、七つ八つありますよ。このうちで、一番長いのは五百枚の長編で、俺の少年時代の初恋を取り扱ったもので、幼稚でとても発表する気にはなれませんよ。はははは」と笑ったっけ。俺は、あの人の他産に感心すると共に、その暢気さにも関心した。発表する気にはならないといって、もし発表する気にさえなればすぐにも出版の書店でもが見つかるような、暢気なことを考えているのだ。俺はあの男のように、発表ということや、文壇に出るということについて、少しの苦労もない心理状態がかなり不思議に思われる。あの男は、ただ書いていさえすればそれで満足しておられるのかしら。
菊池寛『ある無名作家の日記』)
 
 「書いていさえすればそれで満足しておられるのかしら」と「俺」に思わせるような「暢気さ」と同時に、佐竹には「俺の小品が七枚でも活字になったこと」に「激昂」するような「焦燥」がある。この「暢気さ」は、単に「俺」に対する余裕ぶったポーズ、つまりは傲慢の裏返し、だけではない。
 本当は、こういう諦観に近いのではないか。
 
 実は論文を書いた側の問題で一番根が深いのは、初稿を書き終えた段階で燃え尽きてしまって、それ以上の手を打とうとしなくなることです。論文を指導教官に渡した段階で、すでにその論文がどうなるかは自分の問題ではない、ボールは相手のコートにある、あとは相手がどう打ち返してくるかだと思いこむわけです。これは書く側の甘えであり、ひどい場合には、論文作成の作業そのものにすでにうんざりしているので、指導教官が論文を返してくれないことをある種の言い訳にして、それ以上何もしようとしない状況を目にします。結局、論文を書き上げてpublishするということが本心では面倒で嫌になっているのだけれど、さすがにそう表明するのははばかられるので、誰かのせいにしてしまって自分はそれ以上何もしない(楽をする)という心理です。
(佐藤雅昭『なぜあなたは論文が書けないのか』)

なぜあなたは論文が書けないのか?

なぜあなたは論文が書けないのか?

 

 

 他人事として読めないので、自分の話をする。
 こういう状況に陥ると、読んでくれる相手の反応が無いほうが安心する。アリバイ作りのために書く始末になる。私は書いている、書き続けていると自分に言い聞かせるためだけの小説に、未来への開かれや希望などあり得ないし、無気力が沈殿しただけの作品と向き合うことは、単に苦痛でしかない。提出後の時間を呆然と過ごし、読んでもらった相手からコメントが返ってきたとしても、改訂する気力など起こりようがない。ただ惰性で、ありもしない義務を果たした気になるだけだ。*5
 佐竹は「俺」と初めて言葉を交わすとき、やたらに「枚数」の多さを誇る。
「実は今、僕は六百枚ばかりの長編と、千五百枚ばかりの長篇とを書きかけているのだ。六百枚の方は、もう二百枚ばかりも書き上げた。いずれでき上がったら、何かの形式で発表するつもりだ」
 こう語る佐竹を、「俺」は「自分の力作に十分な自信を持っていて、俺のように決して焦っていない」とあるが、枚数と質は違う。枚数は書けば積み上がるもので、これが自分の努力の純粋な結果だ、あとは他人がどう評価するかと線引きしてしまえば、これほど都合良い指標はない。
 あとはすべて、自分にはどうしようもないことだ。たとえば「感性」が違い、「経歴」が違い、「立場」が違う。自分の小説がrejectされるのは「片々たる短編ばかり」載せる雑誌の問題、あるいは「どっしりした長編」を歓迎しない「日本」の問題、つまりは受け入れない相手や状況の問題と化す。
 他人事として笑えない人は、私だけではないのではないか。
 
 これは「何のために自分は論文を書くのか?」という本質が理解できておらず、やれと言われたからやる、といった「やらされ感」がそうさせるのだと思います。心当たりのある人はもう一度自問してみましょう。Publishまで持っているかどうかは結局、他でもない"あなた自身"にかかっているのです。
(佐藤雅昭『なぜあなたは論文が書けないのか』)

 

 何のために自分は書くかとは、書くことでどこに向かうのかと、開かれた感触を取り戻すための問い掛けなのだろう。同時に、何のために自分は書いてきたのかと問うことは、それだけで確かに書けてきた、そこまで歩いてきた自分の足取りを実感出来る。書けてきたなら、書くはずなのだ。
 「書きたいから書く」は間違っていない。しかし本当にそれだけで書けるなら、わざわざ理由を己に問い質す必要など無いはずだ。「書く理由など無い、書いたから書いたのだ」と言い切れる態度は、単純に美学として格好良い。理想的ですらある。けれど「書いたから書いた」だけでは満たされないとき、そこには何らかのアップデートが必要になる。
 その小説を書くこと自体で、どう変われるのか。それを、具体的に思い描けているかどうか*6
 『なぜあなたの研究は進まないのか』では、研究上の困難に窮したとき、「次のステップに進めるか、砕け散る(精神的に落ち込んで立ち直れなくなる、研究自体をギブアップする)かの分かれ道は、他の人との対話ができるか」と断言する。それが出来ないのは、「他の人は自分の研究の困難さ、自分の悩みを真に理解してくれないと思ってい」たり、あるいは「周りに自分がぶつかっている困難な状況を話すことは、自分の無能力さを露呈することだと(無意識に)思っている」から。

 

 あなたの抱える問題は、相談したからと言ってすぐに解決するほど簡単ではないことが多く、だから相談しても無駄だと思ってしまうでしょう。しかし、他の人の意見には、あなたが気付いていない、思いがけない問題解決の糸口があることが多々あります。また、あなたの持つ困難を他の人に説明する過程で、直面している課題が客観視できるようになり、次にどうすればいいかが自然と見えてくることもあります。
 ここでよくありがちなのが、あなたのこと(大抵は愚痴がほとんど)ばかり話してしまい、せっかくの他の人の意見に十分耳を傾けない、という状態です。これを避けるために、傾聴する力が問われます。あなたが話すだけでなく、対話ではむしろ相手からの意見・アドバイスにしっかり耳を傾けることが不可欠です。
(佐藤雅昭『なぜあなたの研究は進まないのか』)

 
 村上春樹の『職業としての小説家』を読んだとき、長篇小説を書くときの異様な鷹揚さに驚かされた。村上はまず、長篇の第一稿を仕上げた後(もちろん一か月から二か月の推敲込みで)一週間を置き、二回目の書き直しに入る。その後にまた半月から一か月放置し、更にまた三回目の書き直しを行い、第四段階として「第三者の意見」を取り入れるのだという。これが終わった時点で、ようやく編集者に「正式に」読んでもらう。ここまで時間をかければ、「頭の加熱状態はある程度解消されていますから、編集者の反応に対しても、それなりにクールに客観的に対処することができます」。
 
 とにかく書き直しにはできるだけ時間をかけます。まわりの人々のアドバイスに耳を傾け(腹が立っても立たなくても)、それを念頭に置いて、参考にして書き直していきます。助言は大事です。長編小説を書き終えた作家はほとんどの場合、頭に血が上り、脳味噌が加熱して正気を失っています。なぜかといえば、正気の人間には長篇小説なんてものは、まず書けっこないからです。ですから正気を失うこと自体にはとくに問題はありませんが、それでも「自分がある程度正気を失っている」ということだけは自覚しておかなくてはなりません。そして正気を失っている人間にとって、正気の人間の意見はおおむね大事なものです。

村上春樹『職業としての小説家』) 

職業としての小説家 (新潮文庫)

職業としての小説家 (新潮文庫)

 

 

 他人の声をしっかり聴取することは、極めて難しい。作品と自分を切り離そうと意識し努力しても、心の抵抗はどうしても生じる。『なぜあなたの研究は進まないのか』では、指導教官のコメントに「自分が時間をかけて書いたものが全否定されたように思」い、「全然この論文のことを解ってくれない」と「逆恨み」する描写があるが、私がつけてきた留保はこうだ――「あの人には文学の素養がないからわからないのだ」(すごい)「私とあの人では読んでいる小説の時代や好みが違う」(私は昭和文学が好きなので、人と好みがずれることは多々あるが、好みが違うからこそ見てもらう価値があるだろう)「所詮は他人の小説だと思っていい加減に読んだのだ」(なら見せるなよ)「この程度のコメントなら私ひとりで反省しただけでも出来る」(どういうことだ?)。

 

 「第三者導入」プロセスにおいて、僕にはひとつ個人的ルールがあります。それは「けちをつけられた部分があれば、何はともあれ書き直そうぜ」ということです。批判に納得がいかなくても、とにかく指摘を受けた部分があれば、そこを頭から書き直します。批判に同意できない場合には、相手の助言とはぜんぜん違う方向に書き直したりもします。
 でも方向性はともかく、腰を据えてその箇所を書き直し、それを読み直してみると、ほとんどの場合その部分が以前より改良されていることに気づきます。僕は思うのだけど、読んだ人がある部分について何かを指摘するとき、指摘の方向性はともかく、そこには何かしらの問題が含まれていることが多いようです。
村上春樹『職業としての小説家』)

 
 村上春樹のこの長い修正が「鷹揚」に感じられたのは、振り返って、自分は書き上げた草稿を放り出したくして仕方ないからだ。動機の相当がアリバイ作りなのもあるし、他人のコメントを聴取し修正に活かせない以上は、このまま手元に置いても仕方ない。「まずは数打ちゃ当たるだ」という内心の声が、さらに悪く作用する。それは時に書けない人の救いになり得るし、時に焦燥を加速もさせる。後者の場合は、佐竹の、結局は枚数さえ稼いでしまえばそれでいい、という投げやりな発想と、何ら変わらない。承認欲求がそれに拍車をかける。「承認欲求が先にある研究では、成果が出てこそ人に認められるので、どうしても成果を急ぐことになります」(『なぜあなたの研究は進まないのか』)。
 だいたい、草稿を書き終えた後になってまで「数打ちゃ当たる」にすがらねばならない時点で、あるいは待てないこと自体が、焦りの証拠だろう。
 引用部にあるように、村上のこの「第三者導入」は、正式に読まれるまでの予行練習だ。この正式とは、論文なら指導教官やReviewer、小説なら新人賞や編集者が相当するだろう。そこに至りつくまで、まずは心理的に抵抗の少ない人間から段階的に読んでもらう。最初は難易度の低いところからだ。*7
 
 佐竹は決して「俺」に小説本文を読ませようとしないし、たぶんそれは「俺」相手に限ったことではない。「俺」が佐竹に読ませるのも、雑誌に掲載された後だ。村上の鷹揚さは自分の熱狂が冷めるのをひたすら「待つ」態度にあるが、佐竹や「俺」の「暢気さ」は、「待つ」のではなくむしろ絶望に硬直している。そこには「現在の毎日が未来へと通じているという、希望の態勢」(神谷美恵子)とはかけ離れた、ただ現状の苦痛をやり過ごす態度しかない。
 致し方ないといえばそうかもしれない。休息も必要だ。ただ、どこかで区切りをつける必要もある。
 待った先の未来図がなければ、現在において待ちようがない。繰り返すけれども、その希望は、幸福な「中学時代」が終わった後は意識的に構築する他ないのだと思う――少なくとも、鬱屈の後の再出発では。あるいは推敲こそが、それによって作品の質が高まる、より素晴らしい作品になるという希望無くしてはあり得ない。推敲そのものが、希望の所産である。第三者と希望を共有することは、最初の抵抗こそ間違いなくあっても、希望を強化する最良の手段だろう。
 欲求される承認とは、未来の承認ですらなく、まずもって「やらされている、これをやるしかない」という義務感、不全感をやり過ごし、現在を鎮痛するための承認でしかないのだろう。
 しかし、それでは根本の問題は解決しようがない。
 
 どのようにして、人は「待つ」ことが可能なのか? あるいは、粗製乱造でも、無気力状態による断筆でもなく、「将来の或る時を待ち望」む「希望の態勢」は、どのようにして獲得されるのか。
 それは第一に己の焦燥を自覚し、承認が前景化している現状を見返すことだろう。承認欲求と焦燥感は同時に現れるか、あるいはどちらかが初発の症状として先行する確率が高い。そもそもの書き始めた根を思い出し、同時に書いた先の未来を具体的に設定する。行き先を計画すれば、そこに前進すべき道のりが、希望が生まれる。そうして「待つ」心をまず作ることなのだろう。
 第二に行動として「待つ」ことで、正式に読まれる際の予行練習として、そして「正気」を取り戻す待機のためにこそ、「第三者導入」が必要となる。その際に予想される心理的な抵抗や言い訳をあらかじめ予期し、書き出しておけば、それが対処策になり得る。声は自然には聴き取れない。少なくとも私はそうだ。であれば、考え得る失敗への準備は必要だろう。*8

 
 流行作家! 新進作家! 俺は、そんな空虚の名称に憧れていたのが、この頃は少し恥ずかしい。明治、大正の文壇で名作として残るものが、一体いくらあると思うのだ。俺は、いつかアナトール・フランスの作品を読んでいると、こんなことを書いてあるのを見出した。
(太陽の熱がだんだん冷却すると、地球も従って冷却し、ついには人間が死に絶えてしまう。が、地中に住んでいる蚯蚓は、案外生き延びるかも知れない。そうするとシェークスピアの戯曲や、ミケランジェロの彫刻は蚯蚓にわらわれるかも知れない)
 なんという痛快な皮肉だろう。天才の作品だっていつかは蚯蚓にわらわれるのだ。
菊池寛『ある無名作家の日記』)

 

 これは皮肉でも諦観ですらなく、単に自傷である。それは「俺」がいちばん自覚しているし、「学校を出れば、田舎の教師でもし」たところで、その「平和な生活」には、この「恥」の記憶と、佐竹が見せた「暗い顔」がちらつくだろう。時間が解決してくれる可能性はある。埋め合わせとなる何かを見出すこともあるだろう。だとしても、この結末だけではさすがに悲しい。
 もっとも、菊池寛はこの半私小説を手に一歩前へ進んだ。それだけで、十分救いだという気もする。

麦主義者の小説論

麦主義者の小説論

 

 

*1:精神科医の大野裕によれば、人は気弱になったとき、自分の内心の言葉すら婉曲な形で表現するという(『はじめての認知療法』)。

*2:たしか『それでも作家になりたい人のためのブックガイド』で、共著者のどちらかが「作文が出来たから作家になりたい」と語る人の多さに憤慨していた記憶があるが、笑えない指摘である。

それでも作家になりたい人のためのブックガイド

それでも作家になりたい人のためのブックガイド

 

 

*3:ただし『ある無名作家の日記』終盤の山野の手紙には、小説をrejectすることで相手個人に傷を与えようとする悪意が、でなければ軽蔑に近い軽慮が、少なくとも一か所にははっきりとある――「君は高等学校の一年生時代から、思想的には一歩も進歩していないね」これはとどめを刺す一句で、山野がどうしてこうまで「俺」に執着するかはよくわからない。

*4:それほど疲弊した人間に対して、たとえばその承認欲求を本人の「弱さ」と結び付けて責め立てるなど残忍極まるのであって、聞くたびに胸が痛む。

*5:「指導教官など論文を読んでくれる人に対して、reminderのメールを送ったり、顔を合わせたときに「あの論文の件ですが」とremindしたりといったことをこまめにすることは重要です。「ただでさえ忙しい指導教官にそんなことできない」と思う人がいるかもしれませんが、指導教官が忙しければ忙しいほど、この作業を怠ればお蔵入りのリスクが高くなります」(『なぜあなたは論文が書けないのか』)
 この先は「どうしても気を遣ってしまって、remindできない」場合の方策に続くが、読んでもらう相手にリマインド出来ないのは、そもそも読まれたら困る場合もある。このときの言い訳にこそ、私は「相手も忙しくて事情があるだろうから」を選んだ。リマインドすら出来ない作品を送ってしまったのは、他ならぬ自分が最初に解っている。何度も修正を重ね、やり切ったという自信と、これ以上はもう改善のしようがないという満たされた諦観を以て待つ時間と、後述するが、とにかく数打ちゃ当たるで提出だけ繰り返し、リマインドも送れず、義務からの解放感と、それよりはるかに強い罪悪感と後悔に浸って呆ける時間を比較すれば、まず前者のほうが短いし、しかも充実している。

*6:これはたぶん「三人称を扱う練習にする」とか「この語を極力使わないようにする」いった、馬鹿馬鹿しいぐらい素朴な目標でのいいだろう。「こんな小説を書いてみたい」というコンセプトがあれば、そこまでの道程を段階に分けていくのもいい。いずれにせよ、目標は達成可能な行動や具体的なポイントと結び付けたほうが、変化と進歩を実感し易い。変わった先の自分を、誇大妄想的に理想化すること、あるいは具体的なステップを思い浮かばぬほど抽象化して描くことは、逆に有害だろう。

*7:『なぜあなたは論文を書けないのか』には、私のような甘ちゃんには、なかなか衝撃的なくだりがある。「初稿を書き終えて最初のハードルは、指導教官など他の誰かに論文を見てもらうところです。書いた本人は、「書けた!」という解放感に浸っているかもしれません。しかし、特に論文作成の初心者はここで要注意です! 初稿に目を通してもらうこと自体が、あなたが思っているほど簡単ではないのです。
 最大の理由は、初稿が論文として読むに堪えるレベルに至っていないことです。これは衝撃でしょう。せっかく書いたのに、読んでもらえるレベルにない……と!? しかしこれが現実です。最初からキチンと書けるほど、論文は甘いものではありません。
 次に問題になるのは、初稿が読むに堪えないものであったとして、それを読めるレベルまで引っ張り上げてくれる援助者が近くにいるかどうかという点です。初稿の手前の段階、草稿を見て改善点を教えてくれるような人が近くにいるのは、実に大きなポイントです。
 読むに堪えないレベルの論文に目を通し、アドバイスを与えることはかなり難しく、多大な労力を要することなのです。まずこのことをよく理解して、論文を読んでもらうことを当たり前と思わず、感謝の気持ちを持つことも大切です」

*8:認知の見返し、そして行動の変容をめぐる名著に、ここでは紹介し切れなかったが大野裕『はじめての認知療法』がある。これは、たとえば不全感、あるいは己の怠惰に悩むあらゆる人々に薦めたい。もとは抑うつに対するリハビリテーションと生活指導の手引きとして書かれた本だが、そもそも焦燥はDSM-5のうつ病の診断基準にあるぐらいだし、重度のうつ病でなくとも抑鬱に効果のある本だ。

はじめての認知療法 (講談社現代新書)

はじめての認知療法 (講談社現代新書)

 

 

意味の検証

 あの頃は、二十五枚から三十枚くらいの短編が盛んで、形容詞はこれでいいのかなどと激論をたたかわせた時代さ。私と同世代から、もっと小説家が出ても良かったんだろうが、あまりにもそういう議論がうるさくてね。書いたって、七、八行以上進みやしない。たとえ進んでも、四、五枚さ。クソミソにけなすからね。一語一語吟味するんだ。酒の味の議論みたいに。「この形容詞は一体何だ」「そんなんじゃ、ダメだ」「どう考えて、この言葉を使ったんだ」じつにうるさく議論する。
(秋山駿『私の文学遍歴――独白的回想』)

私の文学遍歴

私の文学遍歴

 どう考えて、この言葉を使ったんだ、という。言葉を表現に、表現を作品に広げれば、何のためにこの表現はあるのか、何のためにこの小説はあるのか、となる。この戦後まもなくに小説を書く大学生の議論を、自分とまったく無縁だと断じれる人は、そう少なくない気がする。自問なら、なおさらありふれた問いかもしれない。
 書く人が、どこかで一度はぶち当たる問いである。どちらかといえば、物語を読ませることを主とする小説より、それ以外を読ませようとする小説を書く場合のほうが、ぶつかる頻度は高いだろう(最初に引いた秋山駿は、「太宰治のような小説をめざすと、ほとんど三行ぐらいごとにケチがついた」のだという)。何のためにこの小説はあるのか、という問は、「なぜ書くのか」という私的な問いよりも、さらにやっかいだ。自分のことは自分で割り切れたとしても、他人は自分で割り切れない。

 どう書けば、人はこの小説に意味を認めてくれるのか。
 そもそも小説の意味とは何か、では厄介そうだ。それでは「自分はなぜ書くか」に出戻るか、問い自体に「絶えず手を触れ」る、あるいはその触れる「手の感触を確かめる」しかない(秋山駿『私小説という人生』)。つまり、解けない問いに立ち往生するしかない。
 手の感触といえば美しいけれど、それでは実用にならない。問うべきは問う心自体の真摯さではなく、技術であってほしい。「小説にはどんな意味があるのか」では、曖昧過ぎる(これを強引にねじ伏せようとしたのが辻邦生だが、ねじ伏せきれていない気がする)。「意味」を「書く私にとっての意味」に解体するだけでは、片手落ちだ。であるならば、細分すべきは小説だろう。小説において意味ある表現とは、そもそも何か。
 三島だって、ぶち当たっている。
  
 小説を書いていると、大げさなことをいえば、「彼は家へ帰ってきて飯を食った」と書いても、その一行に小説の全運命、全宿命、全問題がみなかかってくるような気がして、その一行書くだけでくたびれちゃう。とにかく「彼」という人間がいるのかということがまず問題だ。「家」というのがまず問題だ。「家へ帰る」ということがまず問題だ。そのなかに全社会、全歴史が入っちゃっている。「彼」がいるのかいないのか、だれがわかりますか。平気で「彼」なんて書くでしょう。よほど無神経でなければ小説が書けない時代になってきたのかもしれないな。
三島由紀夫の発言――中村光夫三島由紀夫『対談・人間と文学』)

対談・人間と文学 (講談社文芸文庫)

対談・人間と文学 (講談社文芸文庫)

 
 これは、書きあぐねた人にこそ共感を覚えさせる告白なのではないか。ありふれた一文に「全運命」「全宿命」「全問題」が集約されてしまうのは、この小説には何の意味があるのか、という素朴で手強い問いが凡庸な部分にこそ立ち現れるからである。私小説に置き換えれば、自己、自意識、などという曖昧極まる地点で、問う心が麻痺してしまう。あまりにも漠然とし過ぎていて、何をどう問えばいいのか解らなくなる。
 やはり、まずは具体的な地点から出発すべきだ。意味のある表現とは、何なのか。

 裏から考えると、無意味な表現はまず単発である。小説に限らず、映画や漫画であっても、突拍子もなく出現し、そしてどこにも繋がらない要素は、登場人物だろうが具体的な事件だろうが、印象には残りにくい。一回しか登場しないような人物に、重要そうな名前をつけるのには抵抗がある。
 文章は、意味論理の流れに沿って進んでいく。最初にこのような言葉があれば、当然次はこのような場面へ展開していくだろうと、身構えつつ読むのが自然だ。人生に予想外の破調があり、その人の続けてきた生活が一旦は途絶えたとしても、過去の流れはいつのまにか蘇ってくる。前回と同じく横光利一の『春は馬車に乗って』の冒頭に立ち返るなら、

 海では午後の波が遠く岩にあたって散っていた。一艘の舟が傾きながら鋭い岬の尖端を廻っていった。渚では逆巻く濃藍色の背景の上で、子供が二人湯気の立った芋を持って紙屑のように坐っていた。
 彼は自分に向って次ぎ次ぎに来る苦痛の波を避けようと思ったことはまだなかった。
横光利一『春は馬車に乗って』)

 外界の「波」を受けて、「苦痛の波」へ話が転じたところから、

 このそれぞれに質を違えて襲って来る苦痛の波の原因は、自分の肉体の存在の最初に於て働いていたように思われたからである。彼は苦痛を、譬えば砂糖を甜める舌のように、あらゆる感覚の眼を光らせて吟味しながら甜め尽してやろうと決心した。そうして最後に、どの味が美味かったか。 
 ――俺の身体は一本のフラスコだ。何ものよりも、先ず透明でなければならぬ。と彼は考えた。(同上)

 ここでちょっとよくわからなくなって、

 ダリヤの茎が干枯びた繩のように地の上でむすぼれ出した。潮風が水平線の上から終日吹きつけて来て冬になった。(同上)

 不可解なうちに冒頭の「ダリヤ」が再び顔を現し、更に「一本のフラスコ」から「茎」へ接ぎ木され、晩秋から「冬」へと時が流れ、
 
 彼は砂風の巻き上る中を、一日に二度ずつ妻の食べたがる新鮮な鳥の臓物を捜しに出かけて行った。彼は海岸町の鳥屋という鳥屋を片端から訪ねていって、そこの黄色い爼の上から一応庭の中を眺め廻してから訊くのである。(同上)

 「食べる」ところで、なるほど「砂糖を甜める舌のように、あらゆる感覚の眼を光らせて吟味しながら甜め尽してやろうと決心した」の「舐める」が流れてきたのだな、とようやく落ち着く。利一が、「彼は苦痛を、譬えば砂糖を甜める舌のように、あらゆる感覚の眼を光らせて吟味しながら甜め尽してやろうと決心した。そうして最後に、どの味が美味かったか」という浮き足だった文章を、どうしてこんな部分に差し挟んでしまったのか、自分にはちょっとわからない。削りたい。好みに過ぎないが、なんだか、特別な感覚感性の持ち主みたいで、いやらしい。利一自身も、深く考えずに書き挟んでしまったか、あるいは小説の外側から不用意に持ち込んできてしまった考えなんじゃないか。「俺の身体は一本のフラスコだ。何ものよりも、先ず透明でなければならぬ」という比喩も、前文との関連がわからない。なんとなく、言葉の勢いで読まされている気もしてしまう。しかし、そのような勢い、言葉の力自体は、「午後の波」から「苦痛の波」へ、さらに苦痛をぐるりと正反対に裏返した「砂糖を舐める舌」から、「美味かった」への着地という流れの確かさで成立しているのだろう。
 鳥屋に戻ろう。「逆巻く濃藍色の背景の上」から「砂風の巻き上る」で渦が繋がり、

「臓物はないか、臓物は」
 彼は運好く瑪瑙のような臓物を氷の中から出されると、勇敢な足どりで家に帰って妻の枕元に並べるのだ。
「この曲玉のようなのは鳩の腎臓だ。この光沢のある肝臓はこれは家鴨の生胆だ。これはまるで、噛み切った一片の唇のようで、この小さな青い卵は、これは崑崙山の翡翠のようで」
(同上)

 「舐める舌」が「臓物」に結ばれ、これから食される「臓物」と日々病に侵される妻の「臓器」が重なり合う。瑪瑙のような、という新しい比喩が湧き上がり、それが「曲玉のような」「光沢のある」「翡翠のような」へ流れ継がれていく。比喩も単発でなく、こんな風に別の言葉を導き出せば流れが生まれる。先の過程を含めて比喩の力になるわけで、鮮やかな表現を一撃で繰り出せなかったとしても、その先で力を宿すことは出来る。むしろ、そうでなくては、無意味で無力な時間稼ぎにしかならない。
 
 すると、彼の饒舌に煽動させられた彼の妻は、最初の接吻を迫るように、華やかに床の中で食慾のために身悶えした。彼は惨酷に臓物を奪い上げると、直ぐ鍋の中へ投げ込んで了うのが常であった。(同上)

 どきどきする描写だ。「一片の唇」と「饒舌」の舌から「接吻」へ、さらに「身悶え」へ流れが続いて、「身悶え」の苦悶が「残酷」の二字を呼び起こせば、

 妻は檻のような寝台の格子の中から、微笑しながら絶えず湧き立つ鍋の中を眺めていた。
「お前をここから見ていると、実に不思議な獣だね」と彼は云った。
「まア、獣だって、あたし、これでも奥さんよ」
「うむ、臓物を食べたがっている檻の中の奥さんだ。お前は、いつの場合に於ても、どこか、ほのかに惨忍性を湛えている」
(同上) 
 
 「身悶え」が「獣」に流れ着いて、さらにどきどきする。看病がひとつの交歓に昇華していくのは、これはもう病妻小説の定番だろうが、実に自然な流れだ。「檻のような寝台」は「鳥屋」から。『春は馬車に乗って』の冒頭は、こんな風に複数の流れが絡み合って前へ前へと進んでいく。「この形容詞は一体何だ」とか、「どう考えて、この言葉を使ったんだ」などとは、口を挟みにくい。
 次の表現を生む水源になれば、それこそが表現の意味になる。次のこの部分に繋がるのだ、と答えられる。流れる先が三つ四つと連なっていけば、問う気力自体が起こりにくい。
 
 意味とは流れじゃないかと、ひとまず結論する。
 そもそも何故、作品に意味を問わねばならないのか。自分を振り返れば、それはこちらの心に何物も流れてこないときだ。あるいは、ひとつの言葉が自分の心に繋がらなくとも、小説内のどこかには繋がっていてほしい。風通しが悪い、という皮膚感覚を退屈な文章に覚える人はたぶん少なくなくて、そこで巻き起こる風、の感触が指し示すものも、流れ、繋がりの欠如かもしれない。あるいは、淀んでいる、という不快さである。
 読む意味のある小説とは、読んだ前後で自分の人生や生活の流れが変わるものだ、という人もいる。私に最初に小説を教えてくれた人は、「読んだ前後で感覚が変わる小説を書きたい」と繰り返していた。なかなか難しい理想だが、書くこと自体の意味は、必ずある。次の小説に繋がるのだから。それこそ三つか四つ書いてしまえば、根本の意味を問う必要は、そうないのではないか。「生産力のあるものだけが真実である」と、ゲーテの詩にあるらしい。ある表現の生産力は、その先でどれだけ多くの語や表現や世界を産めるか、で測れるだろう。続きを書きあぐねたとき、新たに流れを生めそうな表現を前文に探したり、どん詰まってしまった一文を消したりするのは、案外有効な術である。
 そのゲーテは、「この世で人を欠くべからざる存在にするものは、愛以外にない」(『若きウェルテルの悩み』)と書いた。ドイツ文学者の手塚富雄は、こんな風に注釈している。

 だれしも人間としてこの世に生きるかぎりは、あってもなくてもいい人間にはなりたくない。人々にとって大切な、欠くことのできない存在でありたいと願わずにはいられないだろう。どういう範囲のなかで、というのは、第二、第三の問題である。わずか数人に、いや一人にとってなくてはならない存在であるにすぎなくとも、その意味は軽くない。ところでそういう存在になりうる秘密は何かを、ゲーテはここで言いあてたのである。
 それはその人が愛をもつことである、いましている仕事に、またはいま自分にかかわりのある人たちに、愛をもつということだけが、その人の存在の意義を据えるのである。才分や能力は、生まれつきの優劣もあって、さしあたりはどうすることもできないものである。だからそれだけを基準にすると、われわれはわれわれの存在に絶望しないわけにはいかない。しかし愛なら、われわれの心がけしだいで、自分のものにすることができる。はじめからそれができなくとも、最初は親切を主眼にしてやっていけば、だんだんほんとうの愛に育つかもしれない。そういうふうに愛をそそぎうるものを見つけ、そしてその愛をもちつづけたら、われわれは才能は貧しくとも、この世でなくてはならない存在になりうるのである。そのとき、われわれは自分の愛がいよいよ深いものになることを願わずにはいられないだろう。
手塚富雄『いきいきと生きよ』)


 手厳しい。愛するものをどうしても見つけられない人は、と問いたくなる。論理としても引っかかる。どうして自分が自分以外のものを愛せたとして、それが「存在の意義」の留め金となるのか。自分以外のものを愛せること自体が喜びであり、生きる意味である、ならわかる。しかし「人々にとって大切な、欠くことのできない存在」とは限らない。先に愛せば愛される、という素朴な話でも通りそうだが、そもそも、手塚が一番目に挙げたのは「仕事」である。なら、仕事に励めばそれだけ評価されると、単にそれだけの話かもしれない。けれどゲーテを愛読し、ついには『ファウスト』を訳した手塚なら、この「仕事」も「生産」の流れで書いた、と信じたい。お前が今、現時点で存在する意義は何か。青臭く、しかも答えにくい。それに対して手塚なら、自分の仕事で「生産」を果たすためだ、と答えられたのではないか。いま意味がなかったとしても、生むことで意味するのだ。これから。
 子を持たない人生に意味はない、という声は、私には聞き苦しい。生物学的に、という冠を不自然に被せたところで、必ずしも多数を納得させられる意見ではないだろう。しかし、にもかかわらずそうした思想が力を持ち続けているのは、親子という枠組自体が、ひとつの流れに他ならないからだろう。子のない人生は無意味だ、というのは極論以前で、単に自分の言葉を制御できないだけだが、子のある人生にひとつの意味があるのは、それは確かだ。

 この表現の意味は何か、とつまずくとき、人はその表現の、それから先を読んだのだろうか。先を読んでなお意味が掴めないなら、それは書き手の失敗である。先に産み落とした表現があれば、それは読み手の早合点だろう。こんな表現が、こんな作品が何のためにあるのか、何にもならないと書く人が放り投げれば、それもまた早合点である。意味は後から作れるはずだ。

 冒頭に帰ろう。秋山駿である。

 雨に濡れた歩道の上に光が射してきて一つの小石が輝く。生の貴重さのイメージとはそんなものではあるまいか。小石が星になる。そしてこの光りとは、死のことなのだ。
 生の貴重さの源泉には、死がある。死がなければ生が輝かぬ。もし、頭のおかしい帝王が望んだように、われわれの生が不老不死であるとすれば、われわれの生はすべて、いかにも無意味いかにも平凡な、無数の砂粒の中の一つと化してしまうであろう。しかも一粒という形さえ明らかならぬものになってしまうであろう。
 ここに在るものが、ただ一つのかけがえのないものである、と思うとき生の内部に生ずるのが、「私」である。私とは、生が死の発条に触れるとき発する花火のようなものだ。こう言ってもよい。私とは、人間の内部で死の光りによって輝くものだ。この空間この時間において、私というものはただ一点である、と思うためには、死の座標軸が要る。
 なくなる、ということにおいて、存在の一つ一つが独創的なものになるのだ。したがって逆に見ればこうなる。生とは、存在の頂点の形である、と。なぜなら生ほどに、存在がなくなるということを明らかに証すものはないからだ。 
(秋山駿『人生の検証』)

人生の検証 (新潮文庫)

人生の検証 (新潮文庫)

 表現が別の表現を産んで、作品が別の作品を産んで、それで一番最後の行き止まりは何なのだ、と問われたら、逆にこう問い返さなくてはならない。果てなく、終わりなく続く表現の流れや、どこまでいったって終わらない小説に、意味があるのかどうか。終わりから立ち返ったときに、何気なく読み過ごした言葉が「輝く」ときがあるんじゃないか、では、楽観が過ぎるだろうか。様々な言葉を産み落としながら、生き永らえていく一個の表現を読み終えたとき、それを無意味と断じられるか。ごく素朴に、困難なのではないか。
 書く側にも、読む側にも、流れに立ち会っただけの時間の重みがある。
 敗戦を経験し、この本を書いたときには六十の齢に達しつつあった批評家の心を理解するのは、四十近く年若い人間には難しい。率直に、わからない。「私はこの頃、いや誰だってそうなのだろうが、死が恐怖や不安の対象ではなくなっていることに気がつく。ときに、慕わしいものというか、懐かしいものとしても感ぜられるのである」と同書を結んだ秋山は、二十五年後の二〇一三年、食道癌の告知を受けた。亡くなるのはその三か月後だから、宣告時点で末期だったのだろう。言い渡された診断に対して、秋山は一切の治療を望まなかったと、死後刊行された『私の文学遍歴』の年表には、確かにそう記されている。
 享年八十三。子を望むことは生涯なく、喪主は妻が務めた。

私小説という人生

私小説という人生

小説の雰囲気

 こんな雰囲気の小説を書きたい、というイメージはある。
 それを実際の小説に仕立てるには、どうすればよいのか。

 

 穏やかな小説を読んで感動する。

 こんな風に穏やかな小説を、自分も書いてみたいと思う。

 しかしその穏やかな小説とは、どうすれば書けるのだろう、と立ち止まる。小説では、言葉が大きい。切り分けて、場面としよう。穏やかな場面を積み重ねてみる。さらにその穏やかさを際立たせるような激しい場面をぽつりと一滴だけ入れてもいい。そうすれば、穏やかな小説ができるだろう。

 

 雰囲気とは抽象であって、具体ではない。抽象とは、具体的なものをいくつも並べ、それからの共通項として得られたもの、とは辞書の説明であるが、十分な定義である。たとえばある小説の穏やかな「雰囲気」とは、穏やかさを連想させる具体的なもの、最終的に穏やかだったなあと感じられる場面がが何度も立ち現れてくるから、読み終えたあとに、ああ穏やかな小説だった、と結論出来る。
 となると、これも物語と同じく、説得のプロセスである。

 

 横光利一の『春は馬車に乗って』という、有名な短編がある。悲しい小説なので、読んでいない人は今ここで読んで悲しくなってほしい。

日輪・春は馬車に乗って 他八篇 (岩波文庫 緑75-1)

日輪・春は馬車に乗って 他八篇 (岩波文庫 緑75-1)

 

 

 悲しくなってから、ちょっと冷たく考えてみる。『春は馬車に乗って』は、どうして悲しいのか。

 奥さんが死ぬ。それはもちろん、悲しい。しかし、所詮は他人の奥さんである。それも、まったく無関係な人の。そんなご近所の奥さんが死んだとして、ああ可哀想だなあと一瞬は思いつつも、しかしその後は他人の事件として済ますのが、普通だろう。
 でも、たとえば私は『春は馬車に乗って』という小説を読んで、とてつもなく悲しく、さみしい。横光利一がそう、仕向けている。同じように悲しくなってくれ、この悲しさを体験してくれと、説得している。その説得のプロセスは、どこでどう、行われているのか。
 どこでというと、いきなり冒頭である。

 

 海浜の松が凩に鳴り始めた。庭の片隅で一叢の小さなダリヤが縮んでいった。
 彼は妻の寝ている寝台の傍から、泉水の中の鈍い亀の姿を眺めていた。

 

 たった三文だが、これが説得である。
 木枯らしが吹いて、松が鳴る。庭の片隅で、それまで咲いていた小さいダリヤが、なんだか縮んだようにみえる。ダリアは晩秋に咲くらしいが、それもいよいよ過ぎて、冬が近い。亀が鈍いということは、早く動いていた記憶がある、ともいえる。もう少し早く泳いでいたはずの亀が、だんだん鈍くなってきたな、と思う。
 もうすぐうちの奥さんが、死ぬ、と男が予感するには、充分な光景だろう。
 その先の話を知らなくたって、冬を予告する風にしろ、縮みゆくダリアにしろ、亀の動きが鈍いことにしろ、なんとなくさみしく、物悲しい。

 

 庭を見終えた男は、ついで妻と会話を交わすけれど、かみ合わない。「ええ、だって、あたし、もう何も考えないことにしているの」といわれたとき、男は大変いやな気持がしただろう。間髪入れずに、その言葉を否定しただろう。間の描写がない。身体が眉間にしわをよせたり、唇を密かに噛んだりするより早く、言葉が先走った。
 会話もいい。すごくいいが、途中で止まる。妻が、黙ってしまう。
 それで男は、話題をなんとか病から遠ざけようと、風景に目を転じる。

 

 海では午後の波が遠く岩にあたって散っていた。一艘の舟が傾きながら鋭い岬の尖端を廻っていった。渚では逆巻く濃藍色の背景の上で、子供が二人湯気の立った芋を持って紙屑のように坐っていた。

 

 子供が呑気に、芋を手に座っている。午後の波は、いつも通りの波だ。船が岬の尖端を回るのも、自分たちとはまったく無関係である。男は、この海の、悲しさとは絶対無縁なあり様に、とてつもない距離感を覚えたんじゃないか。隣で、うちの奥さんが死のうとしているというのに、波はいつも通りで、しかも別の誰かが、平然と生きている。無関係の人間がぜんぜん悲しく生きていないということ自体に、自分たちの今現在の悲しさが、余計に際立つ、と男は思う。波が散る、船が廻る、子供が渚に坐っている。たった三つで、夫婦の居場所とは違いすぎる光景を、利一は見せつけてきたわけだ。

 

 そうか、三つか、と思う。
 物語の作り方を考えるとき、三、という数字は便利だ。三という数字に特別な根拠はないが、主人公がある状態Aから別の状態Bへ変化するにも、三つの段階を踏めば納得してもらいやすい。利一も、最初の描写で読み手を悲しくさせるのに三つの足場(木枯らし→ダリア→亀)を、それから最後の描写で悲しみを際立たせるのにも、やっぱり三つの足場(波→舟→芋を手に座る子)を使っている。
 場面の雰囲気作りの一手法として、その雰囲気を連想させるものを、三つ用意してみる。あるいは、なにか描写しなくてはいけない、という必要性に駆られたとき、どれだけ書けばいいのか。
 三つ書けば、とりあえず物足りない、という感じは与えずに済みそうだ。

 

 人物描写は、作者の主観であることはもちろん、何より雰囲気や存在感が必要だ。消したり、ぼかしたりしながら、際立たせるところだけを書く。それはあるときは顔の中の目であったり、耳であったり、手であったりする。
村田喜代子『名文を書かない文章講座』)

名文を書かない文章講座

名文を書かない文章講座

 

 

 村田喜代子の名著である。「描写は選択」と題したくだりだが、風景描写についてもあとで「人物描写と同じ心がけで対象に向かえばいい」と書いてあった。利一の最初の描写でも、庭の芝がどうとか、たんぽぽの根が鮮やかな緑色だとか、それでは悲しい雰囲気はなかなか出てこない。とにかく悲しそうなものを、目の前の庭からかき集めたのである。後ろの描写は、それとはまったく反対に、とにかく悲しさとは無縁のものをかき集めて、主人公に疎外感を味わわせた。読み手のぼくにも。他の人々はなにも悲しくないんだと、たしかに勝手な話ではあるけれども、悲しみが深まって、当然である。
 実際に奥さんを亡くした利一には失礼だが、なかなか、仕組みとしてよくできている。そんな仕組みを作り上げてしまえるぐらいには、自分の悲しみを解って欲しかったのかもしれない。
 
 描写というと身構えてしまうが、抽象的な「雰囲気」から逆算して、それを連想させるような具体的な「もの」を用意する行為だ、ともいえるだろう。読み手をその場面でどんな気持ちにさせたいか、を考えると、描写の対象というのは自然に決まってくるのではないか。描写が好きならともかく、(私みたいに)描写に難儀する人は、まずは雰囲気のための小道具ぐらいに考えてしまうのも手なのだろう。

 

 思想という抽象は、どうか。

 いや、思想とは、なんだ。あることについてこう考える、とまずはその程度でいいだろう。AはBである(べきだ)というそのAは、たとえば人間とか人生とか愛とか死とか、なかなか大きい題材だろう。そんな巨大な題材をどう書けばいいのかについては、今回は無視する。

 

 簡単な例をあげるなら、人間の善性を信じるべきだ、と最終的に読む側に思わせるような小説を、あなたがこれから書こうとする。人間っていうのは案外善人なんだなあ、と読み手に自然と思わせるような、具体的なエピソードを恣意的に選ぶ。となると、これは利一の描写と同じである。
 三回、そういう話を繰り出してみる。
 しかしそれだけでは、お前の都合のいい話ばかり選んでいるじゃないか、と読み手はいう。もともと、人間なんて、そう簡単に信じちゃあいけないよ、と考えている人が、読みながらきっと眉間に皺を寄せる。いや、それ以前に、聡明なあなたなら、これは、なんだかおかしいぞ、と立ち止まるはずである。世の中、必ずしもこんな風にはできていないな、と。書いている途中で、これじゃあまずいよ、とストップをかけた自分をどう納得させるか。正しく批判してきた相手に、どう言い返すか。
 ひとつの選択肢は、正反対の思想を先取りすることである。
 人はそう簡単に信じちゃあいけないよ、という話を、一つだけいれてみる。そういう現実もあるということは、わかっていますよ、という言い訳ともいえるし、いや、それはそうですよね、と説得のための、一歩だけの後退、ともいえる。正反対の思想の人を、小説のなかに登場させてみる。性悪説の人は、きっと性善説の主人公と衝突する。その衝突の過程で、人間はみんな善人だ、という説は、作者の予想しなかった別の思想、別の命題へと、変成していくかもしれない。たぶん、けっこう楽しい。
 異なる考えの登場人物が衝突し、対話していく中で、作者自身も意識していなかったひとつの「思想」が浮き上がっていく。単一の思想や世界観を、同じく単一の(とっても力強い)エピソードで表現する方法もあるが、これには相当な力量がいるし、だいいち長くは書けない。

 

 ちなみにこんな対話の過程を、「思想というある時間」とかっこよく表現した人がいる。時間とは、過程である。異なる考えが衝突する、その過程でこそ生まれた考えをこそ、思想と呼んだ人である。

 それこそが、横光利一であったりするわけだ(ただし、怪文書)。

愛の挨拶・馬車・純粋小説論 (講談社文芸文庫)

愛の挨拶・馬車・純粋小説論 (講談社文芸文庫)

 

 

書く人の精神衛生

 書かないのが普通だ。
 完成には時間が要る。書くために我慢せねばならない楽しみもあれば、この時間で出来たこと、という妄念もちらつく。ありふれた苦労でも、苦労は苦労だ。それでどこかに応募したり投稿した結果が芳しくなければ、多少はがっかりして当然である。
 ただ読んで欲しくて書いたのなら、読まれない時点でその小説は失敗である。失敗になってしまう。何が悪かったのか、納得いく答えが見つからない。読み手を責めてもつまらないし、だいたい読み手とは具体的に誰なのか。自責はつらい。失敗の気分だけがずるずる残る。 
 小説に限らず、創作全般でよくある話だろう。
 読まれることに主眼を置くと、他人本位になる。他人を動かすのは、自分を動かすよりはるかに難しい。読まれるか否かが、一か八かの賭け事にしか見えてこなくなる。努めてそう見ようとしている、節もあるかもしれない。外れを繰り返すと、所詮は賭け事だと言い聞かせたはずが、無力感が湧いてくる。小説は時間を食うので、既に費やした時間や努力が無駄になるじゃないかと、なおさら引き返せなくなる。泥沼である。気分が腐る。腐って余計にろくなものを書かなくなる。筆は遅い。努力しているのに、という恨みばかり強くなる。
 自分は何のために書いているのか、と自問する。
 何故普通じゃない、誰もする必要のないことに悩まされるのか。今までの賭け金を無駄にしたくないだけ、要は単なる惰性じゃないかと情けなくなる。何故こんなになってまで書いているのかという問いは、地獄だ。賢いということは、考える必要のあることを考えられて、なおかつ考える必要のないことを考えずに済む、という重ね合わせの能力だろう。何故書くのか、という問いに上手く答えられたところで、肝心の創作が進むわけではない。
 「なぜ勉強しなきゃいけないのか」と生徒が教師に問うのは、「私は勉強したくない」という意思表明に近いだろう。近いけれども、反面、意志を高める答えを期待しているのも確かだろう。それだけ意志が挫けている。最初から意志がないなら、問い訊ねる必要もなく、単に放棄すればいいだけである。何故という問いは、本当のところ、あがきでもある。
 この問いにわずらわされた小説家に、たとえば辻邦生がいる。

 

 私がそのときフランスにきたのは、もちろんフランス語の勉強、フランス文学の勉強のためですが、それ以上の理由もありました。それは次のようななことです。私が小説を書きたいと思いながら、どうしても小説を書くことができなかったので、何とか小説の根拠、レゾン・デートルを見きわめて、身も心も打ちこんで小説を書くようになりたい。そのためには、バルザックスタンダール以来、近代小説を育ててきたパリの生活の中に入ることが、もっとも私の小説探究にふさわしいと思われたからです。
辻邦生「小説家への道」――『詩と永遠』)

詩と永遠

詩と永遠

 

 

 辻がはじめて小説を書いたのは十九歳。処女作の『遠い園生』から、次作の『見知らぬ町にて』に辿り着くまで、約十三年もの絶筆に陥る。その期間を、辻はこう振り返る。「日本ではめずらしく反戦的な学生」であった自分は、「戦時中、日本人とくに日本の軍人が、日本精神のすぐれた点を強調し、現実を見もせず、ただ精神主義であれば何でもできると考えていることに強く反発し」「現実を処理し、思ったことを実現してゆくためには、現実の本質を見きわめる理性的態度が必要だ」と信じていたところへ、「戦争に敗れ」いよいよ「非合理的なものへの信仰が破れ」た今こそ、「何もかも理性的に、合理的に行わなればならない」と考えた。「現実の問題に直面したとき、その知識を用いて問題を解いてゆける」「真の知識」が必要だと、信じた。しかしその信念が、書くことの障壁となった。

 

 実は、その頃から私は、小説を書こうとして机に向かっても、どうしても小説を書くことができないのを発見したのです。小説とはもちろんフィクションの世界です。そのフィクションの世界を書いていると、どうしても本当のことを書いているように思えない。現実の困難な問題があって、それに向っている時、私たちは、意志の力もいるし、今申した真の知識もいるし、人間の能力のすべてをそこにかけなければならない。たとえば医者が患者の手術をする場合、すこしでも油断したり、または知識や技術が不足したりすれば、その患者は死んでしまう。
(……)こうした現実のきびしさに較べると、フィクションの世界の中には、恣意的な判断が入りこんできます。(……)フィクションの世界は客観的に描かれているように見えながら、あくまで作者が思ったようにでき上がってゆくのです。もちろん文章を書いたり、小説という具体的な作品を作ることは、現実のきびしい仕事にはちがいありませんが、その内容であるフィクションの世界はあくまで作者の気ままな判断によって作れるのです。現実のきびしさの前で、自分の全能力を使って生きることが、真の生きることであると考えていた私には、こういう気ままな判断を許す仕事は、一人前の人間が、生きる対象として真剣にとり組むべき仕事と思えなかったのです。
(……)文学修行を途中で打ち切り、現実の中に身を投じ、現実の世界を知りつくして、ふたたび精神の世界に戻ってきたというスタンダールの生き方が、当時の私に、自分の行き方の模範のように見えたのです。私は小説などを書くより、現実の世界の中に身を投げ、そこで必要な知識を身につけることが第一だと思い、小説を書くことを断念しました。
 ちょうどその頃、有名なサルトルの言葉、「二十億の人間が飢えているとき、文学に何ができるのか」という言葉が、私たちの心を動かしました。病人がいれば病気をなおすこと、飢えた人がいればその飢えをいやしてやること――それが文学より、もっと大事な仕事ではないか。そういうもっと大事な仕事へ向かうべきではないか、という気持ちも、小説を書くのを放棄させる動機だったように思います。
(同上)

 

 辻が行き着いたレゾン・デートルとは、パルテノン神殿の「美」だった。美とは、「私たちの生、私たちの世界、私たちの存在自体を包み、それを意味づけるもの」であり、そうした意味秩序の直観、世界に「一つの意味を見出したとき」の「解脱感、自由感」といった喜ばしい感触を定着再現するためにこそ、フィクションの意義がある。「たとえばドストエフスキーの世界、プルーストの世界を通ってゆくと、そのあとでは、私たちの人生は前とは同じではありません。その意味では、ある別の世界が私たちに与えられたといえる。世界はより豊穣となり、より深みを増したと言えるのではないかと思います」。
 むずかしい。
 「美と幸福について」と題された別の講演では、パルテノン神殿での審美体験とは、「自分のこととか自分の煩いとかいったものが全く消えてしまった」「嬉しいとか喜ばしい」感情に満ちたものだった、という。

 

 「美と幸福」という考えはヨーロッパ文化の根底を形づくっている古代ギリシャでは一つの観念として考えられていたことは大変興味のある事実です。すなわちギリシャ語で美しいという意味のカロスという言葉と、「善」という意味のアガトスとが一つになった、カロスカガトスという言葉があります。これは「美」と「善」がギリシャでは一つに考えられていたことを示す言葉です。美しいものはいいことである、逆にいいこと――「善」は「美しい」という観念と一つになっていたのです。
 (……)幸福というのは、与えられるものではなくて、作るもの、与え続けるものなのです。自分がどんなに不幸な状態にあって耐えられないほどでも、そばに居る人たちをもっと幸せにしたいと思った瞬間からその人の幸福が始まる。これは本当に不思議なことです。美は人間の中に、人間を幸福にしたいという、ある力、ある光の充実感みたいなものがあるときに生まれてくるのではないかと思えます。美は幸福があって生れるという意味は、このように他者の幸福を願うことで、自分の小さなエゴを越えたとき、そしてそれがあたかも絶対者の前での約束のようなものとして自分の支えになったとき、確実に私たちを包んでくれているように思います。
辻邦生「美と幸福について」――『詩と永遠』)

 

 辻のいう美とは「人間を支える秩序」であり、「自然からの声に耳を澄ませて本来の状態に戻る」「機能的な物、計量的なものへ縮小された世界を、もう一度生命の全体像に戻す」ための手がかりなのであり、さらに「幸福」とは「心身を自分という自然理法と合わせ自然の叡智に耳を傾けうるまで、素直になること」であり、それを阻害するのは「現在の社会」の「金銭からの声」「技術からの声」であり、正直ちょっと、ついていけない。
 しかも辻の美は、ぶれる。『言葉が輝くとき』に収録された「パリ時代の私」では、パルテノン神殿の「美」は、「ただたんに美しいだけではない。みじめに生きている人間が、そのみじめさにもかかわらず、良きものを意志することができる。人間には、ああいう高みにまで昇ってゆく意志力と、目標とすべき一段と高い秩序が与えられているのだ」という、啓示として読まれる。「私たちの世界を包み、意志づける」秩序と、「目標とすべき一段と高い」秩序は、同じではない気がするのだけれども。
 なぜ書くのか、という答もまた、この「パリ時代の私」ではずれている。

 

 いまここに、文学を、詩を書きたいと思っていろいろ努力しているのに、書いたものがちっとも世の中に出ないとか、賞に出してもボツばかりだという人がおられるかもしれない。そういう人は、一人前の作家が世に出て、原稿を書けば金がはいるのがうらやましいと、思うかもしれない。しかし文学の本質から見るとそんなことはほんとうに枝葉のことにすぎません。もし金がとれなくて、発表するところがなかったとしても、本当に書きたい人は、ただ書くことで喜びを感じると思います。
 (……)だから文学のほんとうのありようといいますと、文学が好きでたまらなくて、自分のため、あるいは自分と心を同じくする人のために書き、残しておくものであり、そうしたメッセージ以外のものであってはいけないと思います。とにかくほんとうに好きで、たとえのたれ死にしたって、文学と遭えたのだから、私の生涯は意味があった――誰でもそう思えるように生きなければならない。これをとりあえず今日の結論にさせていただきたいと思います。
(辻邦夫「パリ時代の私」――『言葉が輝くとき』)

言葉が輝くとき

言葉が輝くとき

 

 

 

 あるときは「世界に一つの意味を見出したとき」の喜ばしい感触の定着であり、あるときは「世界をより豊穣と」し、「より深みを増」すためであり、更にあるときは、単に書く「喜び」のためになされるものであり、「自分と心を同じくする人のために書き、残しておくもの」であるという。なぜこれだけの数の答えが、必要なのか。
 田辺聖子に、「小説はなんで書くか」という名随筆がある。

 

 「小説はなんで書きはりますか?」
 という質問もある。
 サー、こまった。
 人生の意義の探究、人間存在の手ごたえ、宇宙感覚の獲得といったものだろうか、それとも手に職もなし、書くことがお金になりそうなので、と卑近に答えたものだろうか、とつおいつ私は苦悩し、やおら咳払いし、
「つまり私にあっては小説宇宙の構築は私の存在感確認の必然的作業であって……」
 と自分でもワケの分らぬことをいい出すとその人は、ニベもなくさえぎり、
「いや、万年筆で書かはるのか、ボールペンかというてますのや」
 といった。
田辺聖子「小説はなんで書くか」――『猫なで日記』)

猫なで日記―私の創作ノート (集英社文庫)

猫なで日記―私の創作ノート (集英社文庫)

 

  

 話題はここから道具に移るわけだが、最後に「私は紙が大好きなのだ。物を書くのは、毎日、紙にさわることができるからだ」と答えてくれているのは、田辺のサービス精神だろう。書く人の態度は、本当はこれが理想かもしれなない。文学者は知らない。
 「何で書くか」とか、あるいは「小説とは何ぞや?」なんて問いには、そもそも遭遇しないほうがいい。「あることないこと」という同じ本に収められたエッセイで、田辺は後者の質問を、「むつかしい問」「聞かれてこまるような問」と片付けてしまって、「わかりません、というのがよい」という。「イロイロ、むつかしく答えて自分をかしこそうにみせるというのも若いうちだけのこと、そういう問題は専門の人がいられるであろうから、そちらへ任せておけばよい」。
 
 何故書くか、という無用の問いを、何故よりによって自分に問わねばならないのか。
 端的にしんどいのだ。疲れている。しんどいことには、理由があって欲しい。しんどいにもかかわらず続ける、それだけ強靭な理由が欲しくなる。更にそのしんどさは、自分だけが特別にしんどい、という妄念で、加重される。「なぜか小説家は、ホカの作家は楽々と書き、自分だけ苦しんでいると思ってしまう」と、田辺は「小説の誕生」で続けている。「それをいうのは恥ずかしい、という気が、私なんかにはある。私は楽々と書ける人をうらやましく思っている。(ほんとは誰もそんな人はいないのに)」。
 自分だけ苦しいのは不条理であって、そこに理由づけを望むのは、自然である。勉強や仕事はみんなが苦しい。けれど小説は、創作は、どこかで趣味の感じは避けられない。勉強仕事に比べれば、やっている人間は遥かに少ない。書く作業自体が孤独で、実際に作業している人が周囲に見当たらなくて、そうなると、自分だけが苦しい、と勝手に思い込んでしまっても、これは仕方ない気がする。
 神経症の治療に注力した精神科医の高良武久は、この孤独感を「差別観」と呼ぶ。

 

 「人は平気でやっている、自分だけがつらい」とこう思う。それが差別観のとらわれというんだよ。そういうふうになると余計につらくなるんだよね。自分がつらいことは人もつらいというふうに思うことができる、それが平等感というんだなあ。
 平等感がでればね、だいぶ慰めになりますよ。だから、対人恐怖でもね、自分一人いるときは、「自分のような人間は他にいない」とこう思うわけだな。非常につらいんだよ。しかし、ここに入院するとね、対人恐怖の人はざらにいるからね、もう一番ありふれたものだからね、「なるほど、世の中にはずいぶんいるものだなあ」ということがわかるわけだな。そこである程度平等観がわきますよ。差別観のとらわれといって、自分だけがこうだと思う、これは余計つらくなるわけだな。
(……)「自分だけが特別だ」とこう思うと、なおさら劣等感がおこるんだなあ。自分でつらいと思うようなことは人もたいていつらいものなんだよ。
 よくね、ここに入院している人が、「自分の友達なんか平気で楽に勉強している」とこう思うんだねえ。「自分は勉強するのに非常につらい、非常に骨を折る、人は平気でやっている」とこういうふうに思うんだね。
 それは間違いだね、勉強なんてのは「勉め強いる」と書いてあるようにおもしろくてしょうがないというようなものではないんだよ。遊びごとではないんだから、遊びごとならば、「おもしろくてやる、おもしろくないからやらない」ですむけれども、仕事や勉強なんてものは、いやでも必要上やるものだからね。
 そして、おもしろい小説なんか読むのと違って、そうおもしろいものではないんだから、我慢してやるものなんです。初めからつらいものだと思った方がいいんだな。そのうちおもしろいこともでてくるけれどね。
 それを、「人は平気でやっている、自分だけがつらい」とこう思うんだなあ。「あの人は人の前で平気で話をしている、自分は対人恐怖でつらい」と思うのだけれども、やっぱり人も大勢の前で話をするときは我慢してやっているんだね。
(高良武久『木曜講話』)

 

 なぜ書くのか?
 その問いにうまく答えたところで、書くことにそう直接的に役立つとは思えない。だいたいが、弱気に端を発した、躊躇いの問に近い。にもかかわらず、辻がこの問いを自分に何度も投げかけなければならなかったのは、書くことがうまくいかないという経験を繰り返した人には、納得いってしまうのではないか。

 

 辻邦生の答えがぶれているのは、答えること自体、問いに対するその場しのぎでしかないからかもしれない。ひとつの正答で収束、終了する問ではない。自問のたびに誠実に答えても、それでも繰り返さねばならない問だった。どうして自分だけがこんなにしんどい思いをしなくてはいけないのか、しんどいと思っているのにどうして書かなくてはいけないのか。書く気がしないにもかかわらず、書かねばならないと感じるのは、本当はおかしいのである。けれども、他ならぬ私がそうだし、私の周囲もそんな人ばかりだ。

 おかしいけれど、その原因をひとつに絞り込むことは、おそらく難しい。

 惰性であり、習慣であり、今まで書き続けてきたからであり、書きたいものに出会ってしまったからでもでもあり、そのどれもがしかし、しっくりとは来ない。「小説とは何ぞや?」という問に、田辺は「あることないこと書く」と一応は答えてみる。けれども、「それはちがうともいえぬが、そうだともいえぬ、おちつき悪さ」を感じた、という。

 

 なぜ書くのか、という問いの答えを、あらかじめ複数用意しておくのはどうか。ひとつの理由が成立しなければ、別の理由が通るように、複数の道筋・回路を用意すると安全だ。
 「書くのが好きだから、楽しいから」だけなら、所詮は作業なのだから、書き疲れたら嫌になる。それしか持ち合わせていなかったら、そこで止まってしまう。「自分のため」だけも弱い。しんどい作業は所詮しんどいのであって、それがなんで自分のためなのか。「読まれて欲しいから」だけでは、読まれなかったときの失敗感が大きい。田辺の「紙が大好き」にかえて、「キーボードを打つのが好きだから」というのもいい。けれど打ち疲れたら、それも嫌になってくるだろう。ひとつひとつが駄目なのではなくて、そんな弱い答えでも、複数同時に取り揃えておけば、案外強い答えになるだろう。「美」でもいいのかも。
 私が好きなのは「作品数が増えるから」で、こればかりは書き終えてからのことなので、文句なしに嬉しい。毎年の作品数と書いた枚数を記録するのは、貯金の残高を確かめるように楽しい。たくさん書いている自分って、それだけでなんだか立派な気がしてしまう。えらい。えらいと自分を肯定出来るのだから、やっぱり書くことはいいことである。ついでに結果が当たればもっといいし、あるいは、ひとつ小説を書けば、それが次の小説の動力になる。
 宇野千代がいいことを書いている。

 

 どんな仕事でも、仕事というものは、一生懸命にしておりますと、必ず面白くなるものです。どうやればうまく行くか、どうすればもっとよくなるか、と考えます。そこに工夫が生まれ、仕事を通して、いろいろな知恵が生まれるのですね。すると、ますます面白くなる。
 一生懸命に打ち込む、この仕事をなんとかしたい、という気持ちがあれば、飽きるということはないのです。やりたいという気持ちがあれば、仕事の方から、逃げて行くということはないのです。仕事はいつだって、あなたの気持ち次第なのですね。ですから、仕事はあなたに応えてくれるのです。
 仕事は、裏切りません。心を打ち込んだだけの成果が戻ってきます。一つの仕事は次の仕事を生みます。次つぎと新しい道をひらいてくれるのです。それが仕事を積み重ねるということなのですね。
(……)仕事には、終わりというものはありません。これでよい、もうおしまいということがありません。先にも言いましたが、仕事というものは、一つのことをすると、そのあとに次つぎと新しい仕事が生まれるものです。精魂を込めれば込めるほど、仕事の仕上がったあとには、必ず、新しい工夫が生まれます。新しい意欲が盛り上がります。その意欲が、また新たな創作につながっていくのです。
宇野千代『私の幸福論』)

私の幸福論―宇野千代人生座談 (集英社文庫)

私の幸福論―宇野千代人生座談 (集英社文庫)

  

 締切さえ与えられれば小説が書けるのになあ、自分の設定した締切なんてつまらないな、という人がいるはずだ。その気持ちはすごくわかる。わかるけれど、宇野千代のこの文章に倣うなら、小説を書かせる原動力は、既に書いたものであって、他人ありきの締切なんかではない。もちろん締切も立派な原動力だが、それは他人に求められるような書き手にしか与えられないものであって、普通はそうでない(他人から設定された締切に苦しめるというのは、それだけで相当すごい書き手だろう)。既に書いた以上は当然次も書けるはずだし、前作の問題点を振り返れば、書くものがないなんてことは、絶対にありえないはずである。

 

 小説で苦しむというのは、それだけで本当はおかしい。
 多くの人は趣味を越えないだろうし、たとえデビューしたとして、文筆一本で食える人間はほんの一握りだ。趣味で苦しむとは、変な話だ。にもかかわらず、小説がうまくいかないから、現実の何もかもがうまくいかない、と嘘のようなことを考える人がいる。高良武久は、現実の様々な問題を、たとえば「頭痛があるから何もできない」「自分の顔が醜いからこんな目にばかり遭う」と単一の原因へ帰着整理することが、かえってその原因への関心と不安を強めてしまう、そうして神経質が生ずるのだ、と簡潔に説明している。

 小説だけ一本に絞るという生き方は、それでうまくいけば格好いいけれども、私は薦めない。うまくいかなかったときに、大変つらい目に遭う。小説に失敗したとき、疲弊してしまったときに逃げられる回路を、どこかに用意しておいたほうがいい。それは趣味以外の本業かもしれないし、別の趣味かもしれないし、書き物でも別の分野かもしれない。勉強好きの友人は、医学を勉強するにも国試対策だとか、海外の試験問題集であるとか、医療英語とか、手技の習得だとか、同じ医学の勉強でも色々に変化を利かせていた。

 高良武久の次の言葉は、精神衛生のためにこそ、心に留めておきたい。

 

 あることに重点をおいた場合、それがうまくゆかない時は、絶望状態になりやすいわけだね。これ以外に人生はないという重大なものがあったら、それができなければ非常に絶望状態になるんだけれど、普通の人間は価値の芳香をたくさん持っているから、これが駄目でもこれがあるというようにいろいろなことがあるから、一つのことが駄目になってもそう絶望状態にはならないね。これがなければ自分の人生は成り立たないというようなことがもしあるとすれば、それがうまくゆかない時に絶望状態になりうる。だから人間は、これがなければ自分は駄目だというようなものを作ることはちょっと良くないということだね。価値の方向はたくさんあるんだから。
 われわれはあるときには絶望の境地に陥るということは有り得るのだけれども、その他にやるべきこと、われわれを魅することはたくさんあるんだから、あんまり一つのひとに人生を賭けるということは良くないね。
(高良武久『木曜講話』)

高良武久著作集 (7)

高良武久著作集 (7)

 

 

 いずれにせよ、書く人の務めはただ小説を書くだけだし、どれだけ真摯な懐疑、どれだけ真摯な絶望であろうと、目前の小説を進めてくれないのなら、絶対的に無意味である。なぜ書くのかではなく、なぜ書くのかと問わねばならないのか、という地点に立ち戻れば、案外答えは単純な疲れか、体調不良か、睡眠不足あたりに絞られてくるんじゃなかろうか。

 

物語の基礎

 続きを思いつかない、と聞く。こういうシーン、こういう結論を書きたい、そんな最初の計画はあるけれど、肝心のそこ以外は何をどう書けばいいかわからない、という。

 小説の初手については既に書いたが、それ以降をどう展開するか、という話ではない。小説を長く書く技術については、これはコンディションの変動を前提に、いろんな気分に応じて書き継げるようなフックを小説の中に用意しておくと便利だ、と書いた。やっぱりこれも、続きをどう考えればいいのか、という話ではない。

離婚しました (角川文庫)

離婚しました (角川文庫)

 

 

 先週片岡義男という小説家を紹介した。自作に小説論を差し挟むことがよくあって、たまたま『離婚しました』という短編集の、「愛の基礎としての会話」がそれだった。小説家の主人公が、海岸沿いの高台で、こんな話をヒロインから持ちかけられる。

 

「短編を書く予定がある、とあなたは言っていなかったかしら」

「書くよ」

「どんなストーリーなの」

「まだなにもきめていない」

「材料はすべて、虚空に漂っているのね」

 笑いながら彼女は空を指さした。柔らかい金髪が風にあおられ、陽ざしをからめ取って金色に輝いた。

「材料はどこにでもある」

 話を連続させるために、ひとまず僕はそう言った。

「さきほどの土産物売り場の女性を主人公にして、あなたはストーリーを作ることが出来ますか」

片岡義男「愛の基礎としての会話」)

 

 二人はついさっき食事を取ったホテルで、「目もとおよび口もとを無防備に虚ろにさせて、ひとりつくねんと椅子にすわって」いる、売店の若い女性を見たのだった。確信はないが、この女性を登場させたときは、特に伏線を貼る意図もなかったのではないか。「まだなにもきめていない」うちから、書き始めたのではないか。とりあえずで書き始めたところでちょっと詰まり、顎を指でつまんでいるうちに、そうだ、「話を連続させるために、ひとまず」前文のこの女性を話題にすればいいじゃないかと、ひらめいたのではないか。

 

「出来る」

「どんなふうに?」

「彼女はこの土地の人なんだよ。そしてこの土地には、ずっと以前から続いているさまざまな人間関係があって、彼女もその人間関係の網の目のなかに捕獲されている。ホテルの売店へ仕事に来ている時間は、人間関係の網の目からしばし脱出する時間なのだ。だから、はた目には虚ろで退屈そうに見えても、本当は充実している。現実を離れ、ひとりで夢想することの出来る時間なのだから」

「人間関係とは、恋人や友人たち、両親、仕事の同僚、親類縁者、その他いろいろね」

「そしてそのような人たちとの関係が、彼女をこの場所に引き止める役を果たしている」

ストーリーが始まったときと終わったときでは、主人公の身の上に、なにかひとつでいいから、決定的な変化が起きていなくてはいけないわ

「それはストーリーというものすべてにあてはまる大原則だね。彼女に変化をもたらすきっかけを、どこかに見つけなくてはいけない」

(同上)

 

 物語とは「変化」である。文学であろうがエンタメであろうが、物語はまず変化である。変化に対置するなら「描写」で、たとえば「人間関係」や「この場所」のディティールを、あるいは彼女の内面や思想を延々と書き続けるだけでは、それは変化にならない。ならないし、おそらく途中で詰まる。このまえ人と話していて、そういう描写が可能なのは、せいぜい十五枚から二十枚が限界なんじゃないか、という結論に落ち着いた。たしかに、二人の関係描写に徹する二次創作なんかは、書き手が特定の描写によっぽどこだわる場合を除いては、このあたりの枚数に落ち着きがちな気がする。

 

 物語は描写より面倒で、変化を描くには「変化前」と「変化後」の両方が必要だからだ。ひとつの状態だけでは、描写にしかならない。そのような小説もあるが、長く書くには相当な描写の技術を要する。物語という便利な装置を使わないという意味では、けっこうなパワープレイとすらいえるかもしれない。

 すくなくとも長く書きたいなら、面倒くさくても「描写」よりは「物語」のほうが便利だ。続きを思いつかないというのは、そもそも書き切ってしまっている場合、今現在の手持ちの材料ではこれ以上書けない場合、というのも含まれる。物語ではなくて描写を書いているだけなら、たぶんそういうことだろう。

 こういうシーンを書きたい、という場合は、そこを「変化」の瞬間にするといい。最初に持ってくると後は興味の持てない続きを嫌々書くしかないし、最後であれば終わってしまう。途中の、それも物語としてはいちばん大事な変化の瞬間に持ってこれたら、前後両方書けてお得だ。その展開へ持ち込めるよう道筋を立てればいいわけだから、何の目印もないよりは遥かに歩きやすいはずだ。前半部の道のりをしっかり歩いてしまえば、後半はそこで積み重ねた要素を再利用して、終わりまでさらりと歩き切れるはずだ。

 変化は一点だけでなく、複数の証拠で説明したほうがいい。誰かひとりが「きみ変わったね」というだけでは説得力も弱いけれども、複数人から同じことを告げられたら、誰しもそんな気になってしまうだろう。直接言葉で説明されなくとも、たとえば主人公から複数の他人に対する態度や行動に、それぞれ目につく変化があったりすれば、「この人は変わったんだなあ」と、自然と読み手に納得してもらえそうだ。

 

「そのようなきっかけもまた、人間関係のなかにあるのかしら」

「そうだね」

「あそこで波乗りをしている女性たちは?」

「使えるよ。十分に使える」

(……)

「土産物売り場の彼女と、いま波乗りをしている女性たちは、友人どうしなのさ。暇なときには集まり、親しくいろんな話をしている。売場の彼女が固定された存在なら、波乗りの女性たちはもっと自由な存在なのだね。そして彼女たちの自由さに触発されて、あるとき突然、彼女は行動を起こす」

「どんなふうに?」

「ホテルのすぐ外には海がある。その海は世界じゅうでひとつにつながっている。海が持っているそのような力に引っぱりだされるようにして、たとえば彼女は、日本列島のいちばん南西の端にある島へいってしまう

(同上)

 

 「海が持っているそのような力」とは、ちょっとなんのことかわからない。しかしとにかく「島へいってしまう」らしい。「賛成よ」と、彼女がいう。私も、賛成する。

 場所の移動は、お手軽で、しかも変化を招きやすい。すくなくとも書き手の気分はちょっとすっきりする。殺風景な自室とか、見慣れた教室とかで無理やり描写する要素を探し出さなくてもすむ。公園とか、電車に乗って花見にいくとか、その程度の移動でもかまわないだろう。読み手だって気分も変わるわけで、続きに困ったら、ちょっと散歩してみるのもいい。できれば、変化の起こりやすそうな場所がいい。誰か今日の気分に変化を与えてくれる人が来るんじゃないかと、勝手に期待出来る場所なんか、よりいいだろう。 

 実際、この「愛の基礎としての会話」という短編小説でも、主人公たちは「海沿いの国道」から「ホテル」へタクシーで移動し、その「人の気配のない正面玄関」から「中庭の通路をへてカフェ・テラス」で食事を取り、さらに「売店」と「土産物屋」の前を通りがかり、「中庭」に出て、「プールのまわりを一周」し、また「国道」へ出て、「海岸から砂の斜面をあがった」「スロープの頂上」に立って、ようやくこの会話なのである。よく歩く。

 そういえば、散歩が趣味の小説家は、わりに多い気がする。永井荷風は有名だけれど、つい今しがた知ったばかりなのだと国木田独歩島崎藤村徳富蘆花もそうらしい。

 

 物語を展開させる手段として、正反対の人物同士を対置させるのは定番のやり口である。そこの駆け引きに、ドラマが生まれる。たとえば、「こんな風に物事を見ている」という自分の感性を書きたい。であれば、その感性の正しさ――とまではいわずとも、存在感を際立たせるには、それとまったく逆の物の見方をしている登場人物を出してみるのがいい。

 小説家は、「固定された存在」と「自由な存在」を対置している。彼女が場所を移動する前には、最初に「引き止める役」が必要だ。それがないなら、どうして最初から動かないのか、という話になる。気分として面倒くさい。それも正しい答えなのは間違いないけれど、それだけでは読み手を納得させづらいのだろう。「そんなに今の状況が気に食わないなら、どうして今すぐ行動しないの」と、思わず愚痴ってしまった相手にそんな面倒な質問をぶつけられて、「めんどうくさいから」だけで済ませる勇気は、なかなか持ちにくい。「そうしたいのはやまやまなんだけれど、そうさせてくれない他人の事情があってね」が、無難だ。

 

 小説の登場人物は、自分からはなかなか動きにくい。この登場人物がどう動くのか、と予測するには、「こういう状況下で、どんな風に反応したのか」という事実の蓄積なしには、とても難しい。そして、なにか特別な反応を要する状況は、人に持ち込んできてもらったほうが早い。状況を動かしてくれる「自由な存在」は、いてもらえると便利だ。

 「自由な存在」を巧みに利用してきた作家といえば、田辺聖子が思い浮かぶ。たとえば傑作『言い寄る』の冒頭は「友人の美々が「あいての男」から金を巻き上げる交渉に、私もついていってくれ、というから、ついていくことにした」。「美々はちょっとぽってりした肉づきの、色の白い女で、でも脚はすらりといい格好をしている。すこしお人好しの気があるので、私はほっとけな」く、そして「いつも結婚にあこがれてるから二十一、二の娘とちっともかわら」ず、「子供っぽさ」の塊で、「顔を泣き腫らして「あいての男」をとっちめるというと、これはついていかなくてはしようがない」と、私を簡単に自分の事情へ巻き込んでしまう女性だ。あるいは芥川賞受賞作『感傷旅行』のヒロイン「有依子」は、「ずいぶん、数々の恋愛(もしくは男)を経てきており、ぼくらのなかまではマトモに扱うものもないくらい」自由奔放で、しかも冒頭、「八月のおわりのある真夜中」にいきなり電話をかけてくる。「ぼくはろくすっぽ聞いてもいず、就寝中であると哀願」するけれど、「いいから、いいから……」とこちらの意向を完全に無視して自分の事情に巻き込んでくる。「ぼく」にはいい迷惑でも、書く側にとっては、とってもありがたい存在だろう。

 

言い寄る (講談社文庫)

言い寄る (講談社文庫)

 

 

 

 片岡義男に戻ろう。

 

「そしてその島で自由な日々を送るのだけれど、やがてすこしずつ人との関係が生まれていく。島に出来たばかりのリゾート・ホテルの土産物売り場で、パート・タイムの仕事をしはじめる。男性の恋人が出来る。女性の友人を何人か作る。人間関係の網の目が広がっていく。ここにいるときと、基本的な構図はまったくおなじ生活をするようになるのだけれど、彼女の目は虚ろではなく、なぜだか生き生きとしている。彼女はひとつの変化をくぐり抜けた。そのことを象徴するような出来事や場面をひとつ描いて、そのストーリーは終わる」

「面白そう。読んでみたいわ」

(同上)

 

 わたしは複数で変化を描くほうが長く書けるので好きだけれども、禁欲的にひとつに振り絞って書くのも確かにいい。ただ、これは片岡義男という短編作家が直面した枚数制限の問題だ、という気もする。以前の生活と構図はまったく同じなのに、けれど「目は虚ろではなく、なぜだか生き生きとしている」という。構図が同じなら、余計にその変化は際立つだろう(手元にないので省略するが、大塚英志『ストーリーメーカー』もこの変化の強調法を紹介している。物語を作り考えるうえでは、非常に有用な一冊だ)。とどめを刺すように、「象徴するような出来事や場面をひとつ描」いてしまえば、小説はさっぱりと終わるだろう。

 

「彼女にとって、なにが決定的な変化になるのか、それを考えなくてはいけない」

「もっとも大事な部分ね」

「きみの直観では、それはなにだと思うかい」

「恋人でしょう」

 と彼女が言った。

 彼女の直観は、おそろしいほどの高率で的中する。

(同上)

 

 決定的な変化をもたらすのは、べつに恋人でなくてもいいのだが、物よりは人のほうがいい。物は喋ってくれないが、人は違う。会話が出来て、たとえば「あなたは変わった」と愚直に説明してくれるかもしれないし、すくなくともひとりで黙って物を凝視して、内面の描写をたらたらと続けるよりは、誰かと何かをしたほうが、よっぽど書き手の気分も良いだろう。困ったときに偶然会ったりして、何か変化を引き起こしてくれるかもしれない、と期待してもいいだろう。少なくとも、同じものが何度も事件を起こすよりかは、ずっと自然だ。

 それから、物の描写よりは、会話のほうが続けるにはまだ楽だ。会話を続ける技術については、既に書いた。同じ『離婚しました』に収録された短編「膝までブルースにつかって」は実質会話だけの小説だが、そのロケーションは「イタリー料理の店」。会話が詰まり気味になったら、「七番目の前菜がふたりのテーブルに届いた。前菜が一種類ずつ、小さな皿でテンポ良く出て来るのが、この店の特長だった」なんて描写を差し挟めばいいわけで、会話はとにかく場所取りが肝心なのだと、個人的には思っている。

 

「恋人だろうね。とすると、彼女が持っている潜在的な能力とともに、恋人のほうも相当に問題だ。物語がはじまったときの彼女が持っている恋人とは、基本的にまったく異なった恋人でないことには、物語を成立させるほどの変化をもたらし得ない」(同上)

 変化を強調するには、変化の前後が出来る限り正反対のほうがいいのだろう。だから、

「はじめの恋人は、男なんだ。男性であるが故に、世界はいつまでたっても開けず、閉鎖系なのだ。ところが、列島の南西の端にある島で彼女が手に入れるのは、女性の恋人だとしよう。女性であるが故に、どちらの女性にとっても、開放系の世界がそこに生まれる」(同上)

 

 開放系とか閉鎖系とかはちょっとなにを言っているのかわからないけれど、恋人の性別が男女別々なら、たしかに変化は際立ちそうだ。

 片岡義男はその続きに、「なんらかの根源的な変化が、直撃すればいい。そうすれば」「たちまち面白い物語の主人公になることが出来る」と、ごく簡潔に物語の作り方を説明している。物語が書きたいなら、今現在描写している状況から、別の状況へ移動出来るような「直撃」が必要になる。手持ちの材料で書き切れることは既に書いた、という可能性もある。むろんその風景や関係で発掘しきれていないものもたくさんあるのだろうど、それを再発見するには時間が必要になる。物語とは基本的に変化であって、その変化は自発的にではなく、しばしば他人が運んできてくれる、受身や偶然の形をとるものが多い。少なくとも、最初の一歩はそういう場合が多いじゃなかろうか。

 それぐらいの怠惰な幸運は、そこまで書くのに苦労しているんだから、ちょっとぐらいは許されてかまわないと思う。実際、片岡義男の小説なんか、昔の知り合いによく逢うのだ。